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 肉片柳絮           よこい隆

 

(「木曜日)25号(2007年5月)

推薦 北川 佑さん(「風紋」)




 あたしには人が捨てたものを拾う癖なんてないのだから、きっと寝起きが悪かったのだ、と思う。

 街灯の光が幽かにとどくだけの暗がりの中、美鶴は夜明けを待って苛立っていた。煙草が切れて、自動販売機の起動を待っている。時計を見れば秒針がなお苛立ちをつのらせるようで、灯りも点けずに、布団に入ったまま寝返りをくり返し、窓にかかったカーテンの向こうが明るくなるのを待っていた。苛立ちが二度寝を許さず、これがニコチン中毒なのかと思いながら、布団の中でゴロゴロと寝返りをくり返していたはずだった。それなのに、気がつくとカーテン越しの陽の光が闇を薄めて、家具の在りかをぼんやり浮き上がらせ、鳥の囀りも聞こえる。陽が昇っている。どうやらいつの間にかもう一度眠っていたらしい。
 霞に溶けた住宅街を、50メートルほど先の自動販売機を目指して歩く。雀の囀る声だけが途切れ途切れに聞こえる。空はやがて青く晴れ渡る気配で、まだ梅雨もきていないのに、午前中にも紫外線の強い陽射しになりそうだった。
 小さな紺色の車だった。ゴミの集積場の前に停まると、車中のようすはわからなかったが、助手席の窓が開き、なにかが飛んで出た。助手席からではなくて、運転手が投げたような放物線で、無造作に、勢いよく飛んだ。車は、それだけですぐに走り出し、運転する男の眼が美鶴の眼と出合って、男は驚いた顔になった。車中は運転手の男がひとりきり。今日は何のゴミの日だったろう。思い出せない。思い出せないのは、ゴミの日ではないのじゃないか。
 だけど、そのまま集積場をゆき過ぎ、自販機でマルボロ・メンソール・ライトを買った。
 帰りがけに、茶虎に白がまだらに散った猫が、集積場から駆け出すのがいかにもあわてて逃げたようで、そういえば、紺色の車もまるで逃げるような発車だったと、美鶴は、運転手の特徴のない男の顔を思い出す。鴉が4羽、たったひとつのゴミである細長い真っ黒のビニール袋にたかっていた。どうやら猫は鴉に追われたらしい。近づいても、鴉は自分たちの仕事を続けて、美鶴はすっかり無視された。どうしてみんな無視するのだろう。ふてぶてしく足許に寄った鴉を蹴った。瞬間、サンダルの素足に、鴉の羽がくすぐったかった。蹴られた鴉は飛び立ったが、ほかの3羽は一斉に枯れた声をあげて、美鶴にはその声が仲間を呼ぶように聞こえ、恐れ、黒く細長いモノを手に取ると走った。
 重さと感触に、なにかを感じていた。だから、咄嗟に持ち込んでしまった荷物の中を確かめもせずベッドに投げようとして、一度はゴミ扱いを受け、鴉たちの嘴も触れたのだと思い、ベッド脇に放ると、何時間も待ち侘びていたはずの煙草を喫った。眼が合って慌てた男の顔を思い出す。特徴がない、すぐにも忘れてしまいそうな顔だった。あの男も、すれ違うまで美鶴に気づかなかった。すぐにも忘れてしまいそうな顔だったが、だからこそ、覚えていようと思った。それは、美鶴が荷物のなにかを感じていたせいでもあっただろう。そして美鶴は、荷物のなにかを意識する。漠然としたまま、荷物の禍々しさ、禍々しさとしかいいようのないなにかを感じている自分に気づく。
 喫いかけの煙草を手にしたままキッチンにゆき、冷蔵庫に貼ったゴミ収集日の書き込まれたカレンダーを見、今日は収集日ではないとしってもなお荷物に手は伸びず、もう一度ベッドに腰かけ、フィルターぎりぎりまで煙草を喫う。

 肌理が細かく、しみがなく白い。ほっそりとして、上腕はことに細い。それは間違いなく女の右腕だった。禍々しさを感じていたはずなのに、はじめこそ驚きながら、怖いより先に綺麗だと思い、見入った。指は筋張って関節が強調されるほどに細く、爪は小さくて、ブルーにラインストーンをあしらったネイルアートまでされている。ただし薬指のそれはあらかた剥がれ、中指と小指もすこし剥がれているし、ラインストーンが落ちたと思える跡もすくなくない。踝は鋭角に尖り、肱は白く小さい。肌の表面にはうっすらと細かい産毛がおおっている。肩はなく、つけ根は真っ赤な肉色の中心に骨らしき白いものが見えた。さすがに切り口には触れられなくても、美鶴は冷たくてツルリとした肌を撫でさすりながら、見蕩れている。
 肱の斜め右下にはほくろがあった。細く白い腕なのだから浮いていそうなはずなのに、血管らしきものが見あたらなかった。断ち切られたのは明らかなのに、血を浴びたようすもない。血の気配がない腕だった。
 仕事の前にシャワーを浴びる気で、パジャマを脱ぎながら美鶴は、眼に見える洗面所の景色より、頭の中の腕を見ている。
 髪を洗うのに眼を閉じて頭皮を掻いていると、右腕がフワリと浮き上がり膨らんでいく。自分の右腕がそこにあることを意識した。きっと洗ったのだ。石鹸をつけて血を洗い流したに違いない。だからラインストーンも落ちてしまったのだろう。だけど、なぜ? 全身に石鹸の匂いを纏いつかせながら、腕よりも、腕を洗う人間を思い、車の男の顔が浮かび、尾てい骨から頭頂へ、冷たいむず痒さが上っていった。ビニール袋の中身が腕だった時にも感じなかったむず痒さだった。だけど、シャワーで泡を流しながら、男は美鶴が腕を持ち帰ったことをしらないはずだと思い、泡が流れると顔に飛沫を浴び、あの男はきっと腕を愛おしんだのだろうと思う。男と美鶴は眼を見合わせ、男はギョッと眼を見開いて、それは美鶴をたしかにヒトと認めたのだ。
 裸のままで部屋にもどり、下着に迷う。仕事用にしようか、それともコンビニエンス・ストアが開くのを待って、パンでも食べてからにしようか。時計を見ると、コンビニが開く7時まであと20分ほどで、煙草でも喫いながらひと息つけば、ブラブラと駅前まで歩いていくのにちょうどよい時間だから、下着もつけずにスウェットを着ると、煙草を手に取った。
 ここ一か月、コンビニと、煙草の自動販売機にしか出かけていない。それでも、コンビニなら、店員に「いらっしゃいませ」といわれ、「ありがとうございました」といわれる。札の釣りがあれば、眼のまえで数え上げられて、美鶴がなにもいわなくても、ほとんど毎日、ヒトの声は聞いている。ベッドに腰かけて煙草を喫い、投げ出してあった片腕をゆっくり撫でさする。コンビニですら声を出さなくても、喋らないわけではない。毎日声を出している。ただし、パソコンのむこう側にいるはずの顔の見えない男に向けて、マイク越しの声だけれど。
 ドアを開け閉てする音と、「いってらっしゃい」とか「いってきます」とか、声が続き、走り出す車の音も途切れなく、通勤通学の時間に外は騒がしくなっている。美鶴は隣の住人の顔さえしらないけれど、今外へ出れば朝の挨拶が必要になる、と思うと、空腹感のかわりの胃痛を感じながら、外出を諦める。ガスターの細粒を呑み、じっと薬効を待つ。
 通勤電車に乗れば、頭の上を行き交う視線が眼に見えるようで、顔は見えずに無数の眼だけが剥き出しに浮き上がり、悲鳴をあげかけて両手で口を覆いながらすし詰めの電車を降りる。職場でも、ヒトの視線が美鶴を脅かした。美鶴を見る視線も、美鶴を見ていない視線も、すべての視線が美鶴を脅かした。やがて、ヒトの後頭部にもギョロリと眼球が見える気がした。そして、美鶴は会社勤めを諦めた。独り暮らしのアパートに閉じ籠った。閉じこもって、ライブチャット・パフォーマーの仕事を見つけた。容姿にも会話にも自信などなかったから、アダルトサイトを選んだ。
 やがてげっぷが続いて、胃痛が空腹感にかわると、煙草を2本喫い、空腹をやり過ごすために、腕を抱いてベッドに入った。空腹なら寝れば忘れる。

   ☆  ☆  ☆

 ロッカー室で着替えていると、崇子が、捨ててあったからもってきたと言って、アコースティックギターを抱えてきた。明美が、弾けるのかと訊くと、崇子はこともなげに弾けないと答えて、明美はゴミじゃんと言い捨てた。美鶴は、なにも言わずに見ていた。
「弾ける?」崇子が訊く。
 黙ったまま首を振った。
「欲しい?」
「いらない。弾けないもん」
 明美が美鶴を見ていたから、美鶴はうつむいた。仕事の必要に迫られないかぎり、明美は美鶴に言葉をかけなかった。だから、はっきりそうと聞かなくても、明美に嫌われているのはわかっていた。崇子だって、わかっていたはずだし、しっていたからこそ、明美の前で美鶴に声をかけたのかもしれない。崇子がからかったのは、美鶴だったのか、明美だったのか。
 明美の冷たい眼を思い出して、腕を拾い上げ、弾きようがないなと思い、弾かないかわりの使い道を考えたけれど、それより、顔を洗ってコンビニにパンを買いにいこう。化粧は? パンを食べてから、仕事のまえに。
 実家の裏に竹林があった。坪だの平米だの、広さなどわからなかったけれど、蜘蛛の糸を纏いつかせ、竹の葉に薄い傷を負い、露にスカートの裾やら脛を濡らし、腐葉土の上でカサカサと鳴る竹の落葉の深さを測りながら潜り込む。緑色の堅い幹に囲まれると、どこまでも竹林が広がっている気がして、まるで竹だけが世界のすべてのようだった。濃い緑色が真っ直ぐで、隙間だらけのはずなのに、外を見失う。そして、自分の形を見失う。竹のほかには、この世界に、美鶴もなにもないのかと思う。振り仰げば、緑色が美鶴を被っている。空気が動けば竹は撓り、バサバサと重い葉ずれが鳴り、雨後なら、かすかに覗く空が青くても、俄かな土砂降りに濡れ、ワンピースを肌に貼りつかせ、額をつたう水がこそばゆく、片手で髪をしごいた。じわじわと指間に水が膨らんだ。背高く伸びながら、風にたやすく撓る竹の緑色に包まれると、美鶴は、自分が人の形をしていることを疑った。浴びた飛沫を冷たいと思い、雫をくすぐったいと感じて自分の身体を教えられても、それでもなおヒトである自分を見失い、見失う自分を見つけた。ヒトである自分を疑いながら、緑色の中で、疑う美鶴がそこにいた。

 腕の気配を感じながら、サンダルごしのアスファルトを踏みしめる。部屋には腕がある、と、美鶴は意識しながら歩いていた。だから、ビニール袋をぶら下げて角を曲がると、ブロック塀と電信柱の向こうのアパートが眼にはいった。大きくなったような、光っているような、視界のなかでアパートだけが、なにかが違い、美鶴は腕のせいだと思う。腕の気配だ。
 部屋に入ると腕があった。見えていなくても、呼ばれたようにも、美鶴の眼は腕を探す。ラインストーンが光る指先だけを出して、布団を被っていた。布団を被っていても、腕は気配を撒き散らし、部屋中に満ちている。メロンパンを頬張りながら、ふと見た部屋の隅にも腕があった。ベッドの上にあっても、部屋のどこからも、腕がこの部屋にあると伝わってくる。サイトに入る前に、待機画像のサムネイルを撮ろうと思っても、腕の気配が写ってしまう気がして、昨日とおなじものを使う。だけど、それでも、昨日までに撮ったはずのサムネイルにも腕が見えるようだった。そんなはずはなくて、美鶴にもそれがわかっていて、下着姿でカメラの前に座った。無料映像視聴のカウンターが次第にあがる。画面の向こうで、男たちが見ている。男たちの視線を数字に見て、画面のなかで誘う。カウンターの数字がいくらあがっても、数字でしかなくて、目玉がないから、視線には思えない。男たちが見ているのは、画面で、あたしじゃない。
「はじめまして」
 カメラに向かってペコリと頭を下げて言うと、
「はじめまして」
 きちんと挨拶をしてくれた。それだけのことで、美鶴の頬が緩んだ。男が求めるなら、なんでもしよう。厚くもない壁も気にせずに、声だってあげてみせる。男が美鶴を見つめるなら、彼に見えているのはカメラだ。
 お気に入りのブライス人形を抱いていたのだから、男が「それ、なに?」と訊いたなら、ブライスのことに違いないのに、カメラに映るはずもない腕だと思って、美鶴はベッドを振り返った。掛け布団から指先だけが覗いていたのに、まだ腕のなにかが美鶴に語りかけて、腕に呼ばれて、腕なのに、ベッドの上だけではなく、部屋中のそこかしこから美鶴にとどいて、視線は部屋中を彷徨った。
 画面の中の男は、自分のことに忙しいけれど、覗きの連中が小窓越しに寄越すリクエストに答えているうちに、やがて、身体の中でなにかが蠢きだす。男が「見つめて」と言うから、美鶴は、画面の中の男のモノではなくて、カメラを見る。8本の長い足をゆっくりと動かして、肋骨の間に糸を張り巡らしながら、小さな蜘蛛がジワジワと脊髄を昇っていく。カメラを見つめたままの美鶴の視界の隅で、男の手の動きが早くなった。美鶴の中の蜘蛛が吐く糸が美鶴の身体を溢れだして、部屋を埋めていく。濃霧のような薄紫の細かい糸が部屋を満たして、なにもかもわからなくなって、イクのだと思ったのに、そう思った刹那に、蜘蛛は腕だった。
 腕が、美鶴も呑み込んで、部屋を満たして、美鶴を邪魔者にしている。
 だから美鶴は、腕になりたいと思う。部屋のどこもかしこも満たす気配を、手に入れたい。踵と肩甲骨だけで支えながら身体を突っ張り、足も手も、すべての指先に力が入って、堅く閉じた目蓋に極彩色の万華鏡がゆっくり廻り、ヒクヒクと痙攣した。
 長野と岐阜、神奈川、台湾在住の日本人に、大阪、5人の男たちの眼を相手に、3度もイったから、力んだ筋肉がシャワーを浴びても強張ったままで、立ち眩みを起こしながら、食べ物を買いに部屋を出る。
 すでに天頂まで濃紺に染まり、西の低い空では、下から浴びる陽の光に、雲がピンクとオレンジの間で揺蕩っている。部屋を離れるにつれて、腕の気配から解放される気がして、部屋を満たした薄紫の蜘蛛の糸だって、腕の気配などではなくて、ただ煙草の煙が靉靆いていたのではなかったかと思い、思うことこそ、やはり腕の気配に囚われているのだ、と、気づいてしまう。両腕を組んで身震いを宥める。部屋を我が物顔に占領する腕のようになりたいとも思い、足がとまると道をひき返す。まだ晩春なのに、アスファルトは日中に蓄えた熱を吐き出して、ふくらはぎを蒸している。
 布団を捲ると、微かに酸味臭がある。取り上げて、ベッドの上に膿のような滲みを見つける。手触りも違う。表皮だけが乾いて、浮いているよう。肩の付け根を上にして、強く握って撫で下ろすと、5ミリほどの厚さで表皮が剥けて、酸っぱい匂いが鼻を刺した。もう腐りはじめていた。それなら、意識するともなく嗅いでいた腐臭こそ、部屋を満たす気配の正体だったのかもしれない。ほんのすこし青味がかったピンクがラベンダー色だと思いながら滑る肉を摘まむと、ズルリ、と、親指の先ほどの塊が掌に乗った。気配がただの腐臭だったかもしれなくても、この部屋を取り戻したくて、舌に乗せる。甘く溶けた。甘いのに、ほんのすこししょっぱい。塩を振ったスイカを思い出したけれど、それは塩味と甘味の連想に過ぎないと思うと苦笑し、キウイだと思う。まるで鳥の足のような小指を摘んで、引き抜くつもりで引くと、爪をつけたまま表皮だけがスッポリ抜けた。青味がかった濃いピンクの小指の肉をそのまましゃぶってみる。薄い肉に歯をたてると、やけに素直に通って、細い骨にカチリと当たった。口の中が、どこもかしこも痺れる気がして、やっぱりキウイだと思う。溶けるように舌の上で広がる腐肉を骨までしゃぶると眼を閉じてみた。
 皮膚の下に、空気の揺れを感じる。指先の皮膚の下で空気が揺れて、美鶴の肉が空気を揺らして、押し退け、掻き分けて広がっていく。チリチリと美鶴の肉を刺すのも、それが部屋のどこなのか、美鶴にはわかる。だけど、刺されているのが美鶴の身体のどこなのか、それはわからない。美鶴の身体が天井際にある。床の隅にもある。部屋のどこにも自分がいて、どこにもいなくて、空気に溶けて部屋を満たしている。それでも、抱きしめれば、たしかな手応えで、柔らかい身体がそこにある。チリチリと刺すのは空気の汚れに違いないと美鶴は思い、塵が飛んでいるのだと思い、もう部屋は自分の中にあるのだから、綺麗にしなければいけない、と思う。
 ノースリーブのワンピースを頭から被って、腰の辺りを整えると、鏡の中の自分を見る。
 鏡の中にはいつもどおりの美鶴がいても、同時に、部屋のそこここに美鶴の肉が遍在しているから、ちょっとした動きにいちいちどこかがぶつかって、髪の乱れを手櫛で整え、陽も暮れているのだから肩が冷えると思い、カーディガンを羽織るだけのことにも、右の二の腕や左脛、左手の小指に鈍い痛みを覚える。財布を手に部屋を出かけて、ふと思い立ち、ベッドの敷布を剥ぐと、洗濯機に放り込んだ。痛みの許を、左肘にもこしらえた。コンビニに、炭は売っているだろうか?

 明美が美鶴を嫌っていても、美鶴は明美を嫌っていたわけではなかった。だけど、エレベーターの同乗を逃げていた。乗る気でも、エレベーターの前に明美がいれば、素通りしてトイレにいくふりをした。明美に嫌われているから、でもない。明美は女特有の柔らかい香りが、柔らかくても強くて、エレベーターのような狭い場所なら、香りが満ち、それは明美が空間を満たすようでもあり、美鶴を押しやるようでもあったから。もちろん香りがきついのは明美だけではなく、年配の男たちや、あるいは香水のきつい人からも逃げていた。昇ってきたエレベーターが途中でとまって待たされ、ようやく美鶴の眼の前で開き、乗ると、途中で降りた人の残り香が満ちていた。残り香に呑み込まれた。エレベーターがその人を慕う記憶にも似た匂い、誰ともしれぬ人の気配に押し潰されて、美鶴の身体は縮んでいった。蹲り、身体はますます小さくなった。
 今なら、むしろ美鶴こそが、残り香を押しのけて、エレベーターを満たせるだろう。満たせるはずだと美鶴は思う。住宅街の中、人波というほどではなくても、帰宅時間だから人の流れは寄せていて、美鶴は流れに逆らいながら、彼らの眼を恐れるよりも、その呆けたような憂いを見つけた気になったのに。
「今日、メンスだろ?」
 言い当てた男がいた。美鶴が「なんで?」と訊いても、「わかるもんだよ」などとはぐらかしたけれど、おなじように言い当てられた崇子が問い詰めて、匂うのだと聞いた。女同士にはわからない匂いを、男たちに嗅ぎ当てられていると、崇子は恐れのようにも面白がるようにも言った。それなら、美鶴だって匂いを撒き散らしていたのではないか。メンスの匂いにかぎらず、明美のような香りも、エレベーターの中に振り撒いていたのではないか。
 美鶴の気配が部屋を満たすなら、匂いやら、手触りやら、自分の醜猥なすべてが膨らむのだと思うと、醜猥な匂いや手触りが、美鶴を包んで、陽炎のように揺らめき漂う幻視を見、切っ先鋭い高音が耳の中で鳴った。肩甲骨から頭蓋骨の鰓の辺りにむず痒さが上ると、酸っぱい唾液が口の中に広がる。滑る唾液は止め処がなくて、げっぷが出かかり、だけど?気にも醜猥の欠片が混じる気がして呑み込む。
 住宅街の裏通りでも、角をひとつ曲がればすぐに並行する国道に突き当たるから、車の排気音は耳鳴りとも思えるように続いている。耳鳴りに思えるから、聞き慣れて、気にとまらなくなるのだけれど、耳鳴りを疑う時なら、この音はどちらなのかと迷ってしまう。濃紺の空に星はなく、地上の光を照り返す雲だけが、ほの白くぽかりと浮かんでいる。
 空を見ていた美鶴が顎を引いて地上を見る刹那、視界を掠めて走った光は、艶やかな猫の毛が街路灯を照り返したらしかった。眼で追った先、猫は真っ黒に見えたけれど、暗さのせいかもしれず、じつは動く塊にしか見えなかった。だけど、それを追って美鶴の眼の前を走りすぎた塊はたしかに茶虎の猫。アスファルトの上で鋭角に小さな方向転換を小刻みに繰り返して、恋の駆け引きなのか兄弟がじゃれ合うのか、追われるほうも追う側もたがいが牽制するよりからかうように、国道の方角へ走り去った。全力で走る猫に追いつけるとは思えず、どうするつもりなのか、自分でもわからないまま、それでも追って、国道のガードレールに両手をつくと、眼の前を紺色の乗用車が走り抜け、茶虎の猫が美鶴の背丈ほどの高さで舞った。なぜ走り出さずにいられなかったのか、その時になってようやくわかった。国道に飛び出すと見えたから危ないと思ったのだと、ようやく気づく自分をおかしく思うと、笑いはせずとも首が傾げて、表情を作り損ねる。驚いているのか、悲しいのか、それともおかしいのか、美鶴にもわからない。
 右手から重たい音が耳にとどき、地面の顫動が美鶴の蹠をくすぐって、ついにオイルの刺激臭を孕んだ風とともに、美鶴の眼の前を通り過ぎる。その瞬間、トラックのタイヤは微かに浮き上がり、ゴトリと音をたてた。せめて猫と見定められなかった黒い塊ならよかったのに、たしかに猫だった茶虎は、その色さえも曖昧になって、引き伸ばされて、砕片になって、ぐちゃぐちゃになって、散っている。もう猫じゃない。
 猫の欠片がばら撒かれている。国道に車は途切れがなくて、見る見るうちに欠片が砕片になり、タイヤに刷り込まれて運ばれ、塵になって飛び、車の巻き起こす風に乗って宙に散っていく。美鶴の眼の前で、小さかった猫がかぎりなく小さくなって、宙に溢れていく。地面がアスファルトだから、地に還るより宙を満たしていくように思う。美鶴が吸い込む空気の中に茶虎の猫がいる。茶虎の猫は、車たちに運ばれて、どこまでも広がっていく。
 ワンピースの裾には真っ赤な斑点がいくつもあったけれど、花柄ならそれも模様にも見えるし、猫が空気になったなら、すでに美鶴は侵されていると思えば気にもせず、そのままコンビニに向かったけれど、いまさら食欲なんてなかった。どの棚を見ても、食べたいと思えなくて、空の籠を肘に提げたままウロウロと歩き廻るだけ。煙草を買った。
 ATMで金を引き出し、自転車屋に寄った。

 美鶴が買ってきたのは、500ミリリットルのストロベリーアイスだった。
 部屋を埋め尽くす美鶴の身体に気圧されて気配を消した腕は、それでも、すこしずつその姿を匂いに変えて、部屋の中に滲み、美鶴の身体と折り合いながら、漂っている。部屋に満ちる美鶴の身体は、車たちが撒き散らしてここにも届いた猫の破片を感じた。それでいい、と美鶴は思う。散って、世界を満たせばいい。腕はもうあたしだから。あたしが息を吸えば、眼に見えないほどに細分化した猫の欠片が、空気に紛れてあたしの中に入ってくる。あたしの肺に入り、血に溶けて、爪先に届く。自転車に迷う間にすこしだけ溶けたアイスは、大きなスプーンも容易に刺さって、大きな塊を頬ばりながら、猫の欠片を感じている。
 その夜は、やけに疲れて、チャットにログインもせず、疾っとと眠った翌日、美鶴は、上腕部の肉を包丁でこそぎ、8つの団子ほどの塊にして、ビニール袋に詰め、ナップザックに放り込むと、自転車に乗った。市内を高速道路が走っていて、どこかに横断橋がかかっているはずだと思い、だけどそれがどこなのかしらないから、高速道路につながるはずの、昨夜猫が潰れた国道を走る。
 高速道にぶつかると、左に向かった。道は、やはり国道のはずだが、さして広くもなくて、すれ違う車も追い越していく車も、数はずいぶん減った。やがてゆるゆるとした上り坂になり、しだいに高速道路を見下ろしていく。生え際が蜘蛛の巣でも絡んだようにくすぐったくて、払うと、うっすら浮かんだ汗だった。
 高速道は次第に離れて、すっかり見えなくなっていたが、やがて交差点にさしかかると、左手に谷間の下に望むらしい橋を見つけた。周囲を一渡り見回し、ときおり国道を車が行き過ぎるほかには人通りがないのを確かめた。
 陸橋はやけに高い。高さを測る術をしらないけれど、ビルの3階以上はあるだろう。ナップザックの中でビニール袋を開くと、肉片を一切れ摘まみ、放り投げた。風のせいか、ほんのすこしだけ右に流れた。中央分離帯にまで流れるかと恐れたけれど、路肩ちかくに落ちたように見える。もう一切れを、今度はすこし左に向かって落とす。ゴムの色に染まったアスファルトの上の轍のあたりに落ちたと思う。たぶん。セダンが通り過ぎた。肉を引きちぎって、巻き上げて、風が吹いている空気に紛らせる。タイヤのゴムの隙間に入り込み、車の行き先に運んでいく。よし。美鶴は満足して、ビニール袋ごとナップザックから取り出すと、逆さにして残っていた肉片を一度に撒いた。その刹那、腐った肉の匂いが美鶴の鼻を衝いた。トラックが通り過ぎる。ワンボックスが通り過ぎる。軽自動車も、高速で走り去る。またトラックが行く。数十秒おきに、車が腕の欠片を踏み躙り、蹴散らす。車が通るたびに腕の破片が空気に紛れ、溶け、ピンク色に染まる世界が見えた気になり、高速道路に背を向けると、手摺りに凭れて煙草を喫う。美鶴の眼前で、紫煙が風に嬲られ、踊って、散っていく。
 腕が、この紫煙のように空気に溶けて、世界に満ちるなら、腕はあたしだから、あたしは腕だから、あたしは世界にいる。あたしが世界に満ちていく。

   ☆  ☆  ☆

 チャット相手の男の部屋に、美鶴がいた。美鶴は、ノート型パソコンのモニターごしに見る男の部屋に、自分の気配を見ている。何もつけずに足を開いて、喉の奥を擦るような声を洩らしながらも、男の部屋から覗く美鶴自身の、嘲笑っていたり、興味深げだったりする眼つきを見返している。男は美鶴の眼つきが怖いよという。気持ちいい最中なのに、もしかしてSなのかとさえ言う。美鶴は、そうかもしれないと答える。モニターごしだから、視線はしれず、男は自分が睨まれていると思っているのだろう。
 自分の一部であるはずの腕の欠片が、風に乗って、男の部屋にまで届いているから、どこともしれない、日本ですらないかもしれないモニターの向こうを睨みつけながら、同時に、睨んでいる自分を向こう側から見ている気になる。どこにでも自分がいる気がする。チェシャ猫のように、姿は見えないまま、この部屋の美鶴を笑っている。足を開いた様を笑っているのか、ここにもいるよと笑顔を見せているのか、それも自分ならわかるはずだと思って、意識を探るけれど、もやもやとして、砂を噛む気がする。美鶴は、気づいているのだ。肉片は男の部屋に届かないし、肉片は美鶴ではない。美鶴のなにも男の部屋に辿りついたりしない。だから、男がなにを言っても、美鶴は遠くにいられる。
 完全ツーショットで入ってきた男をどこかで見た顔だと思っても、きっと前にも来たのだろうと思って、はじめまして、ではなく、こんにちは、と言った。
「はじめてじゃないですよね?」
「ここで会うのは、はじめてだよ」
 男の言葉に、思わず眉間が寄った。
「かなり焦ったみたいだな。覚えてないんだ? こんなことしてるとさ、顔を見せない男も多いんだろ? もしかしたら、自分の親父とか、昔の先生なんかが、あんた見ながらオナニーしてんのかもな」
「前にも言われたことがあります。だから、覚悟してます」
「覚悟か……。ご立派な科白だね」
 30前後の男の顔にはたしかに見覚えがある。それも、それほど古い記憶ではないはずだ。
 美鶴の欠片が画面の向こうに飛んでゆき、ふと、A4サイズの画面の中に、小さな白い花を咲かせた竹林が広がった。黄色や赤、黒、原色の蜘蛛が徘徊する糸の巣を掃いながら迷い込む。パリパリと砕ける音が乾いているのにやけに柔らかい腐葉土が雲か霞のようで、画面の向こうならもとより現実であろうはずもないけれど、美鶴は、夢の中とも御伽話の中とも、頼りない場所だと思うと、煙草が喫いたくなった。キーボードの傍らにあるはずのシガレットケースを手探りに見つけ、メンソール煙草に火を点けた。
「普通、喫ってもいいですか、くらい言わないか?」
「ごめんなさい。……駄目ですか?」
「いいよ」
 小さく白かった花が、黄色く見えた。いや、ピンクだ。煙草の煙に色が暈けるのかと疑う。だけど、やがて花は血の色に、赤黒く染まって、小さくもなく大輪に咲き誇って、美鶴を取り囲んでいる。愛でられているようにも、蹂躙されるようにも、畏れ、膝を震わせた。分厚い花弁のすべての赤黒い花が美鶴にむいて、雄蕊がムクムクと伸び、花粉を纏った葯が迫って、触れにくる。ああ、やはり愛でるのだ。犯すのだ。美鶴は、両手を広げて雄蕊に身体を開こうと思ったのに、自分の身体の在りかを見失った。花に囲まれるそこで、美鶴は、自分の身体を見つけられない。
 男はオレの顔をまだ思い出せないか、と訊いたけれど、美鶴は、思い出していた。車の中から真っ直ぐに美鶴を見つめた男の顔を思い出していた。
「あんた、ほかのコの待機画面とか、見たことないんだろうな。待機画面で顔出ししてるって、珍しいんだぜ。だから、あんたを見かけたとき、すぐわかったよ。それで、ちょっと興味本位で後尾けてみたら……」
 美鶴は自分の顔が強張るのを感じて、あわててカメラを下に向けて顔を隠した。
「今さら遅いって」
 男が笑い声で言う。画面の中の男の視線は美鶴にむいていない。画面の中の美鶴を見て、視線がカメラを向いていないから、美鶴を見ていないように見えるけれど、むしろ、画面の中でちぐはぐな視線は、美鶴を見ている。美鶴を見ているように見えるなら、男はカメラを見ているのであって、本当は美鶴など見ていない。
「それで、かなえの腕、どうした?」
「かなえ?」
 ひと回り小さな窓の中の美鶴には顔はなく、胸許だけが映っている隣で、男の顔には緊張がある。きっと、はじめから男は緊張していたのだ。美鶴が気づかなかっただけで、ずっと緊張した顔をしていたに違いない。
「ニュースも見ないの?」
 美鶴は、自分でもなぜだかわからないながら、当たり前のように指先が動いて、カメラを起こして顔を映し、パソコンのスピーカーごしに、自分の知らない、だけど、男に言わせれば美鶴が知っていて当然のことを語る男の声を聞いている。他の「部分」があっちこっちで見つかって、すでに被害者の身許は知れ、ニュースで流れているのだと言う。誰の腕かなんて、知ったことじゃないのに、かなえは小さな顔をして、ショートカットだったなどと教える。
 優しい女ではなかった。大きな眼を上眼遣いにして、いつも怯えたような顔をしていた癖に、口角が上がった口はいつでも、ガムを噛むときでさえ、しっかりと結んだままで、なにかを強請るときでも「ね」とは言わずに、甘えを照れるように、語尾を「よ」で結んだ。「してね」と言わずに「してよ」と言った。大人の女に見られたがりながら、小さな顔に大きな瞳、小柄で華奢で、化粧をすればするほど、肌を隠す分だけ、むしろ子どもが見栄を張るようにしか見えなかった。だから、煙草を喫っても、カッコよくなんかなくて、ひょっとこのように口を尖らせて咥えるから、笑ってしまうくらいだった。ひょっとこの口は滑稽でも、滑稽で笑うのではなくて、かわいいと思って笑うのに、笑えば、膨れた。趣味はなにと言ってあるわけでもなく、自分が好きなものを見つけられずにいた。ふたりでいて、ふっと優しい顔になったと思う刹那に、なににとも、自分にさえわからないままのように、苛立った。ふたりでいることに苛立つように、オレには見えたんだ。一緒にいない時には、あいつはどんな顔をしてたんだろう。やっぱりわけもわからず苛立ったりしたんだろうか。あとで写真も見てみなよ。
 男の話は、「ひょっとこ」とか「せつな」とか、美鶴にはわからない言葉交じりに、かなえという女を語ってとりとめがなくて、「そんなことを話すためにきたんですか?」思わず訊いた。
「そうだよ。あんたのオナニー見にきたわけじゃないよ。前からしってたって言っても、無料の待機画面を見てただけで、登録したのは今回がはじめてでね、入金とか手続きに梃子摺って今日までかかっちゃったんだけど、ポイント購入に有り金全部はたいたから、時間ならたっぷりあるんだ。気にしなくていいよ」
「有り金全部?」
「そう。でも、時間はいくらでもあるって言ったけど、本当はあんまりないんだ。もうじき警察がくるはずだから」
「あたしのこと、尾けたんですよね?」
「ああ、大丈夫。今はずっと張りついて、証拠固めってとこなんだろうけど、あのときはまだきてなかった。だってさ、警察がきてたらオレだってあんなことしないし、それより、あんただってただじゃすまないだろ。もしあのときオレに警察がついてたら、あんなもん拾って、黙ってるわけないじゃん」
「あたしの家、知ってるんですよね?」
「なんだ、オレのこと心配してんの? 大丈夫だよ。だって、オレ、これから死ぬから」男は笑いながら言う。
 笑い顔が引き攣り、震えていた。男の頬が痙攣するのを、美鶴は見た。男の顔をやっと見たように美鶴には思える。美鶴がようやく男の顔をちゃんと見たのか、男がようやく本心を見せたからそう思うのか、どちらとも美鶴にはわからないけれど、わからなくても、わかりたいと思っている美鶴を、美鶴が見つけた。今までの男は本心ではなかったのだろうか。すくなくとも美鶴には、本心だと思えなかったのだろうか。男ではなく、男を信じない自分を疑って、答えが見つかった気がする。
 そうじゃない。あたしが男を見ていなかったわけじゃなくて、今までは本心かどうかはわからなかったけれど、やっと本心が見えたように思ったのかもしれない。
「わかってもらおうなんて思ってないんだよ。かなえの腕を引き取ってくれた、せっかく縁ができたから、ついでにさ、見ててもらおうと思って。警察がくるまで、オレの死体を見張っててもらおうと思って。そのために有り金はたいたんだからね。それから、あんたに読んでもらおうと思って、ブログ作っておいたから、後で読んでよ。パスワードがないと入れないようになってるから」男がURLを書いたメモをカメラにかざした。「ログに残すわけにいかないから、メモって」
「どうして? なんで、あたしなんですか?」
「誰でもよかったんだけどね、かなえの腕の誼みってことで。あんたがあれを拾わなかったら、こんなこと考えもしなかったんだよ。あんたがかなえを拾ってくれたから、こうなったんだ。言っとくけど、ブログにはあんたのこと書いてあるからね。24時間以内に開かないと、ロック解除になって、パスワードなしで誰でも見られるようになっちゃう仕組みだから。逆に、誰かひとりでも一度開いたら、3時間後には全部消えるようにしてある。あんたが見れば、もう誰にも見られないってこと。
 ところでさ、かなえの腕、どうしたの?」ライターでメモに火を点けて燃やし、顔を炎の灯りに黄色く染めながら、男が訊いた。
「言いたくない」
「死ぬのに? オレ、今ここで死ぬんだぜ。ほら……」
 男が身体をわきに逸らすと、うしろに輪を作った真っ青なゴムホースが、光りながらぶらさがっていた。「あそこにぶら下がってさ、死んでいく姿を見ていてもらうわけさ」
「いつまでもグジグジ言ってないで、勝手に疾っとと首でもなんでも吊って死ねばいいじゃないですか。本当は怖いんでしょ。だからいつまでもそうやってぐずぐずしてるんでしょ。ウザイよ」
「なになになんでしょ、なになになんでしょ、ウザイよ。まるでかなえみたいだな。あいつの怒り方って、そんなだったよ。そんで、言うこときかされるんだ」
 言い方は笑っているふりでも、声も身体もワナワナと震えながら、男は立ち上がった。怒っているのか、恐れているのか、美鶴にはわからなかった。男がぶら下がると、美鶴は、「腕は食べたよ」と大きな声で言った。男の全身が波を打っていた。

 男は、美鶴が見なければブログが公開されると言った。ブログには、美鶴のことも書いてあるとも。だけど、公開になったからといって、いったい誰が男のブログなど見るだろう。男はすでに警察にマークされているとも言っていた。やがて証拠が揃って、男が犯人としれるだろう。その時、きっと男のブログも見つかるだろう。だから、美鶴は男のブログを見なければ、せめて開かなければならないのだ、とは思う。だけど、警察でもテレビ局だろうと、見られたからといって、どうだというのか。男は、かなえと言う名の女を殺して解体して捨てたけれど、美鶴がその肉を食べたことを男はしらないのだから、男が美鶴のことを書いたといっても、腕を拾って持ち帰ったことくらいしか書いていないはずだ。高速道路に放ったことすら書いていない。困ることなんかないように美鶴には思える。警察がくるだろう。テレビ局もくるかもしれない。とても煩わしいだろう。煩わしいだろうけれど、たったそれだけのことに思える。モニターごしとはいえ眼の前で、男がゴムホースに吊り下がっているのも、本当の死体だと思えないでいる。キーボードの上の両手は指先まで固まったまま動かないし、動かないのは指先だけではなくて、ダラリとぶら下がったものを見つめたまま、瞬きすらできていないように思う。だけど、テレビの中で見る縊死体は本物よりも猫背だったな、と考えている。あれはきっと、背中で吊っているからなんだな、などと思っているのだから、眼の前にあるのが本物の死体なのだと美鶴はしっている。テレビドラマで見ていた死体と較べながら、煩わしいとは、どれほどのことなのか、と考えてもいる。テレビドラマの死体と違うなら、今見ているのは本物の死体で、そこにそうした死体があることをしっているのは、世界中に美鶴以外には誰ひとりいなくて、恐ろしい映像を見ていると気づいている。恐ろしいと言ったって、いったいこの映像があたしになにをすると言うのだろう。なにもできやしない。しやしない。だけど、背中が寒い。きっと、男のブログも、こんな気もちにさせるに違いない。煩わしさと、この悪寒のような気味悪さを秤にかける。どうして、選択肢のどちらも嫌なことなのだろう。そうだ、どちらも嫌だ。嫌だから、美鶴は考えを保留して、ただ男の部屋を見つめている。
 高速道路に放った肉は千々に飛び、風に乗って、みんなの鼻や口に届いたのだ。みんなが、腕の肉をその身体の中に入れたのだ。腕の肉を食べたことが罪なら、みんなおなじだ。
 残されたポイントを見ると、つなげたまま5日は持ちそうだった。何時間もだれもこない時だってある。このままつないでおけば、労せずにお金になる。それがはっきりいくらなのか、わからないけれど、5日間24時間つなげたままなら、いつもの一か月分以上になるだろう。いつもだって、実質的な時間は、平均すれば一日に34時間だろうし、毎日かかさず働いているわけでもないのだから。つないだままでも、見ようと思えば、男のブログにもいけるし。
 かすかに揺れていた男の身体は、いつの間にかじっとして、音もなく静か。モニターの中で、さらに画面は小さくて、全身が映るのだから、男の顔はまったくわからない。まして、男の背後には磨りガラスがあって逆光になり、美鶴の眼には、それも、形しか人ではない。腕の欠片が飛び、美鶴が世界中に偏在するなら、男の部屋にゆき、男の様子をつぶさに見ればいいのに。男は腕をかなえだと言った。かなえは、小柄で華奢で、小さな顔に大きな瞳の女だと言った。腕は華奢な女の腕だった。言われなくても、華奢な腕だった。かなえは、意気地がないくせに、大きな瞳と眉の形のせいか、眼つきは気が強く見えたし、口振りもそう振舞っていた、そんな女だった。そんな女の腕だった。ほんのすこしの酸味がした。苦いようにも、甘いようにも思った。舌の上でトロリと溶けた。鉄のような匂いがしたとも思う。それは、ひょっとこのような口をして煙草を咥えるかなえという女の腕の味だった。なにかに鳩尾を鷲掴みにされて、美鶴は狭いトイレに駆け込むと、口から零れ出る胃液の酸っぱい匂いを嗅いだ。
 壁に手をつき便器に向かって屈みこみ、こみ上げる胸の圧迫感に涙と水っ洟を流しながら胃液を吐いて、男がブログに置いたと言うかなえという名の女の写真を見る気になった。
 ひょっとこってなんだろう? どんな口をしているのだろう? あたしが煙草を喫うときは、ひょっとこになっていないだろうか?
 ようやく便器から顔をあげて、洗面器に向かって歯を磨いた。それでも酸の匂いが鼻粘膜にしつこく残って、嘔吐を忘れさせない。かなえがひょっとこのような口で煙草を咥えるといっても、美鶴はひょっとこをしらないのだから、どんな顔なのかわからない。いや、今はまだかなえの顔もしらない。しらないほうがいい、と、美鶴は思う。思うけれど、鼻粘膜が嘔吐の記憶を忘れないから、かなえの顔をしらなければいけない気になる。それなら、ひょっとこもしろう。ひょっとこの画像を検索する気なら、パソコンに向かえる。
 接続はそのまま、ぶら下がった男の映像を最小化して、新たに開いたインターネットの検索で見つけたひょっとこは、滑稽な顔の面だった。こんな顔をして煙草を喫ったら笑うに違いない。男の言うなりに書き写したメモを見ながら、URLを打ち込んだ。
 車の中から真っ直ぐな視線を美鶴に向けた男だったし、男は、それで美鶴がパフォーマーであることにも気づいた。だから、男のブログのタイトルだって、「Mitsuru嬢だけに」などとしている。サイトでは、海外でも見られるように、名まえをすべてアルファベットで登録することになっているから、男は「ミツル」といってもどう書くのかしらない。プロフィールには日本語でコメントも書けるし、簡単な自己紹介だってできるけれど、美鶴はなにも書き込んでいなかった。地域も書き込んでいなかった。それでも、顔を見てMitsuruだと気づいた男だったと、美鶴が気づいてしまった。鳩尾に、キリキリと絞るような痛みが絶え間なく続いている。陽気になりたくてひょっとこの面を思い浮かべ、笑うよりも、煙草に手が伸びた。

   ☆  ☆  ☆

 かなえは、顔を見ると、まずなにをしていたのかと訊いた。会社で仕事をしていたと言うと、昨日は? と訊く。さっきは? とも訊く。一時間前はなにをしていたの? 大きな眼で、下からオレの顔を見上げる。
 進学のために東京に出て、夏休みのアルバイトのつもりではじめたホステスを、夏休みが終わっても続けるうちに、学校にはいかなくなって、半年もすると、今度は営業に疲れて店を逃げ出した。逃げ出しても、また違う店を見つけて、転々としていたと言う。
「同棲はぜったいにしないって決めてるの」と言っていたのに、オレの部屋に泊まりこむようになり、服や小物が次第に溜まっていった。「決めてたのにな」と言って、オレの顔を恨みがましく見た。
 Mitsuruさんは、もうかなえの写真を見た? 大きな眼だろ? 

 一行空けて、「写真を見るには、ここをクリック」と書いてあり、「ここ」は文字色が青く、背景が薄青ならむしろ目立たないけれど、下線が引かれリンクを示している。だけど美鶴は、まだかなえの顔を見る気になれない。
 かなえの質問癖は、しだいに昂じていったと男は書く。就業時間の8時間、いや、昼食時間や通勤時間も含めて、その時なにを考えていたのか、そしてどう感じたのか、と。
「全部なんて、覚えてないよ」
「覚えてることだけでいいよ」
「なにを疑ってるんだ?」
「疑う?」
 ふと、かなえは疑っているのだと思った。
「浮気してるとでも思ってるのか?」
「してるの?」
「してないよ」
「ねぇ、その間にあたしのことはどれくらい考えた? あたしのなにを考えた?」
「飯、喰ったら、あいつは喰ったかなって考えたさ。ちゃんと喰ったかなって。おまえのモノモライだって、きっと栄養が悪いんだと思うから……」
「モノモライじゃないよ、ハヤリメだよ」
 そして、それきりなにも言わずに、じっと大きな瞳で見つめる。いたたまれなくなって「ごめん、嘘。おまえのこと、思い出さなかった」
「なんで?」
「なんでって、わからないよ。たぶん忙しかったからだと思う。食事中も午前中の見積もりのこと考えてた」
「そうじゃなくて、なんで嘘だって言っちゃうの? 嘘吐きとおさないの?」
「だって、おまえ、疑ってるじゃん。嘘だってわかってるじゃん。眼でそう言ってるじゃないか」
「言ってないよ。違うよ。そうじゃないよ」
「おまえは、なにがしりたいんだよ」
「全部。あなたの全部がしりたいんだよ。昔のこともしりたいよ。でも、昔のことを聞いても、全部なんて無理だから、今のあなたの全部だけでもしりたいんだ」
 かなえがしりたいのは、オレのことではない。なにか別のものだと思う。だけど、それを説明しようがなくて、男は黙った。黙ってしまった男の姿に、美鶴は苛立つ。でも、苛立ちの対象は男なのか、かなえなのか、美鶴にもわからない。いや、どうして苛立つのか、それすらわからない。もしかしたら、かなえの写真を見ない自分に苛立つようにも思える。かなえの写真を見て、かなえの容姿をしれば、かなえの気もちがわかるかもしれない。

 パソコン画面の外のすっかり闇になった部屋の中に、なにか、誰かの気配を感じている。
トイレに入ると、扉にドンと、ノックにしては重い音がして、どうやらかなえが背を凭せたらしかった、という男の文章を読むと、美鶴も尿意を感じて、トイレに行った。便器に腰をおろすと、大きな溜め息をついた。美鶴は自分の溜め息に驚いている。
「ねぇ」
 かなえの声が、扉の向こうから聞こえた。
「今、おしっこしてるんでしょ。おちんちん抓んでるんだよね。そんな時って、昨日はこれをかなえの中に入れたんだなぁ、今夜も入れるのかなぁ、とか考えない?」
 などと言うから、ゆうべ抓んで、かなえのそこにあてがったことが思い出されて、オレのモノが反応した。小便が便器を逸れた。
「馬鹿! 小便する時とそん時は、別のものなんだよ」
 思わず語気荒く言っても、床を汚して、しゃがみこみ、ペーパーで拭いている自分の姿を思うと情けなかったし、もしかしたら、オレの声がやけに低いところから聞こえるはずだから、かなえに気づかれないかと慌てた。
 かなえの体重を押しのけるつもりで開けた扉は軽くて、勢いづいた身体がスリッパを履いたまま飛び出した。かなえは、リビングで蹲って抱えた膝に顔を伏せている。
「どうした?」問うと、あげた顔が真っ赤に染まっている。顎をしゃくって示したダイニングの小窓が半分ほど開いていて、「びっくりした顔で覗かれた。きっと聞かれたんだ」
「誰に?」
「しらない」
「だったらいいじゃないか」
「そうだけど……」
 だれかしらない人間の驚いた顔があったのは、ぶら下がっていた男を逆光にしていたあの窓だろう。美鶴は、なにかの気配を感じていたから、視線を流しの上の窓に向けた。窓は閉まっている。
 かなえが「そうなんだけどね」ともう一度言うから、男は動き損ねて部屋にもはいらず、棒立ちになって、かなえのつぎの言葉を待った。
「あなたは、あたしのことをしりたいと思わないの?」
 さっきの続きだと思えば言葉の意味はわかるし、かなえの顔を見れば真剣なのだとも思いながら、どうして「そうなんだけどね」に続くのか、わからない。
「しらないヤツになにを聞かれても、見られても、オレならなんとも思わないけど、そうやって真っ赤になって照れてるおまえを見ると、かわいいと思うし、そうやっておまえのことをしっていくんだと思うよ」
「照れたんじゃないよ。怒ってるんだよ」
「どっちでもいいよ」
「よくないよ。言わなきゃわからなかったじゃない。赤い顔してたって、照れてるのか怒ってるのかも、あなたはわからないじゃない。あたしのこと、わからないじゃない」
「おまえのこと、しりたいから、どうしたって訊いたんだよ」
「そうだよ。そうやっていつもあたしに、どうしたって訊いていてよ。いつもいつも訊いてよ」
「おまえ、どうしちゃったの? なに混乱してんの?」
 学校にもどろうとしても、休学届けを出したまま休み続けた服飾学校は疾っくに除籍されていて、ホステスの仕事も成績があがらず、アクセサリーは客のプレゼントで溜まっていっても、着ていくスーツや化粧品に金がかかるばかりで、つぎつぎ入ってくる新人に成績で抜かれていくから、ほんとうは、男たちは新人が好きだし、新規の客には新人を優先してつけるのだから、よほどのことがないかぎり古参になるほど売れなくなるのはあたりまえだとわかっていても、成績で負けていては先輩面もできない気がして、居場所を失っていったから、オレの部屋に転がり込んで、なにもせずにいる。かなえの苛立ちは、なにより自分に向かっている。八つ当たりだ。
 そうだろうか? 混乱していたのは、かなえだけじゃない。八つ当たりだなんて、男も混乱していると、美鶴には思えた。その時ふっと美鶴に寄り添う影があった。部屋は暗く、影だらけの中で、それでも影の中で形のある影が、美鶴に触れた。
 ああ、そうか……。気配は、風に乗って、空気になって、世界中に飛んだ腕の欠片がこの部屋にも届いているのだ。腕の気配だ。そして、腕の気配があたしに触れている。
 かなえは、オレの眼に映っている自分のことがしりたかった。オレのことではなくて、かなえがどう見えるのか、どんな人間に見えるのか、それだけがしりたいのだと思えた。そう言うと、かなえは黙り込んだ。
 美鶴は、マウスを操りポインターを滑らせると、青い文字をクリックした。微かなハードディスクの廻る音とともに小さなウインドーが立ち上がり、短い髪に大きな瞳の、まるで子猫のような顔をした女。
 仕事から帰ると、かなえは膝を抱えて蹲っていた。
「どうした?」
「今日一日、ずっとこうしてあなたのことを考えてた」
「ずっと?」
「ずっと……。あなたのことだけ、考えてた」
 美鶴は、煙草に火を点けた。
「あたしは、あなたのことが全然わかんなくても、わかろうとしてみた。もっともっとわかろうとする。だから、あなたもあたしをわかろうとしてよ。いっぱいいっぱい、わかろうとしてよ」
「オレは、おまえみたいにそうやって一日中おまえのことだけ考えてるわけにはいかないんだよ」
 空気に溶けた腕の気配が、美鶴を見ている。美鶴はたしかな視線を感じる。
「しってるよ。わかってるよ。だから、すこしずつでいいんだよ。あたしだって、一日ずっとあなたのことだけ考えてても、やっぱりしらないことやわからないことだらけだって思ったもん。当たり前だけど……。あなたが仕事をしている時間だと思っても、仕事って言っても、なにをしているのか、あたしにはわからないし、今は、部長さんに怒られてるかもしれないし、若いOLと話してるかもしれない。トイレにいってるかもしれないし、煙草を喫ってるかもしれない。お昼になにを食べたかもしらない。全部をしりたくたって、そんなの無理だもん。そんなのわかってるもん」
「昼に食べたのは、うどんだ」と言うと、かなえは真っ直ぐに見つめる。大きな瞳は続くオレの言葉を待つように見えて、たまらず、「オレを怒るのは、部長じゃなくてせいぜい課長だよ。部長じきじきに怒られるほど偉くないよ」
「そんなことだって、あたしはしらなかったよ」
「今、しったよ。部長に怒られるようになったら、そのときはちゃんと報告するよ」
「会社で、偉いかどうかなんて、あたしにはどうでもいいよ。……ううん、どうでもよくないけど……」
 かなえがなにを言っているのか、なにが言いたいのか、オレにはわからなくて、笑ってしまった。かなえを笑ったのか、自分を笑ったのか、わからなかった。その笑い顔を見て、かなえの顔が変わった。眉が八の字を書いたから泣くと思ったのに、大きく見開いた眼は赤く見えた。咄嗟に狂っていると思った。手許にあったなにかを投げつけてきたけれど、それがなんだったのか、覚えていない。躱したから、見えなかったのだと思う。投げてきたものは躱したけれど、掴みかかってきたかなえの身体は避け損ねた。狂ったのはかなえだったはずなのに、気がつくと、かなえの首の向きが身体の向きとちぐはぐだった。記憶が飛んでいるのだから、かなえの狂気の正否はわからなくても、きっとオレこそ狂っていたのだろう。
 Mitsuruさん、やっぱりオレは狂っていたんだろうね。もしかしたら、今でも狂っているのかもしれない。オレは、怖くて……、そう、かなえの身体を解体したのだけれど、これ以上書いてもMitsuruさんには気分が悪いだけだろう。オレも、書きたくない。書く必要もないと思う。ただ、かなえの身体がゴロンと転がっている時、部屋には、汗の酸っぱい匂いが篭もっていたのが印象に残っている。咄嗟に、なんとか逃げたくて、バラバラにして捨てたのだけど、かなえとオレの関係はすぐに警察にしれるはずだから、無駄な努力だったな。
 最後に、ここをクリックして、かなえの笑顔も見てやってください。

 自分を縊る姿を見せつけて、今さら「気分が悪いだけだろう」もなかろうし、これ以上は書く必要がないというなら、どこに必要な話があったのだろう。美鶴の身体はさっきから、青竹が風を受けて撓うように、間歇的に波を打ち、ときに背筋を伸ばす。鳩尾に溶けた鉛が溜まっている。背筋を伸ばして、それでも出ない?気を出そうとしている。胃の痛みを堪えながら、今度は迷いなく、ポインターを「ここ」に合わせた。ディスクの回転音が低く部屋を満たし、読み込みには時間がかかって、美鶴を苛立たせるかと思うと、美鶴は胃の痛みも忘れたように微動もせず、画面を見つめて待っている。暗い部屋の中では眩しいようなパソコン画面の中、新たに立ち上がった窓は小さい。
 空は青く、芝生が広がっている。大きな公園らしい。背景には森のような木立さえ見えるが、その幅は薄いらしく、木立の向こうにビル群さえかすかに見える。だけど、ビルといっても、小さな窓だから、たしかなことはわからない。そして、白い膝上の短いスカートに、キャミソールのような黒っぽいノースリーブのかなえが芝生の上を歩いている。画面を横切って通りすぎると思うと、カメラが追っていく。かなえの衣装を見ると、最近撮ったようには見えないが、髪型も、写真とはすこし違う。かなえの顔がカメラに向いて、笑顔を見せて、まるでプロモーションビデオのようだ。首を横に揺らせてみたり、身体を前後に揺すって、動画をことさら意識しているかなえの笑顔は、笑顔といっても照れ笑いに見える。やがて、かなえがカメラに近づき、笑顔が画面を埋めると、柔らかそうなすこし厚い唇が動いて、美鶴ははじめてかなえの声を聞いた。
「あなたが、あたしを見てますね。カメラごしに、ずうっと、あたしを見てますね。なんだか照れます」
 口の端をあげて、カメラのむこう側がさもおかしいようすで。カメラのむこう側には男がいたはずだけど、今、かなえを見ている美鶴は、かなえに「あなた」と呼ばれたように思う。
 男の名まえをいってくれればいいのに。チャットの男の登録名は、イニシャルなのか、TTだった。
 美鶴は、女のかなえという名をしりながら、男の名をしらない自分に気づき、かなえが黒く塗った爪でカメラを指差して、「ここにあなたがいて、あたしを見ています。あたしは、見られて、あとできっと、あなたの眼で、今のあたしを見ます」と語る声を聞き、差し出された腕を見た。自分が口にしたのはあの腕だ、と思う途端に匂いを伴って、その味を思い出し、口の中に、水っぽい唾液が溢れた。?気がこみ上げるのに、鉛が胸に痞えて、ガスは外に出ない。サラサラの唾液が、口中に溢れて、呑み込む。立ち上がり、立ち眩んで、屈んでやりすごし、トイレを目指し、ふと、視線を感じる。世界と一緒にこの部屋にも満ちた腕の気配が、そこに集まり固まりかけている。だけど、腕には眼などない。それなら、かなえだろうか? 視線を感じた美鶴が振り返ると、大きな瞳が、パソコン画面の光に浮かび上がった。かなえが首だけになって、光に浮かび上がって、美鶴を見ている。悲しそうにも笑うようにも、大きな瞳は、なにかを訴える。恐れた美鶴がその首を取り上げて、毟ると、それはブライス人形だった。首をもがれ、腕をもがれ、バラバラになった部分が部屋にゴロリと散っている。鳩尾に突き刺さる痛みが、鉛の塊のまま喉許にこみ上げて、トイレに駆け込んだ。最初の嘔吐がすでに胃液しか吐くものがなかったのに、今日二度目の嘔吐は溜まる胃液を待っては吐くくり返しで、便器に手をついて閉じ籠もり、もうすぐ夏だというのに、背中に重たい寒さを感じている。口の中が酸っぱい。
 もう出ないと思って、立ち眩みを危ぶみながら立ち上がりかけると、塊が喉を塞いだ。息苦しくて、口を大きく開けて声まで出してひり出すと、塊は喉を塞いだ。思わず出かかるものに手をかけた。たしかな手応えが、柔らかく、優しく、暖かく、美鶴の掌に吸いついた。引っ張り出す。ズルズルと、ぬめるそれが喉を圧して、見るとそれは、腕だった。美鶴がそうしたのか、便器を逸れて、かなえの腕は、床にゴロンと転がった。身体中に掻いた汗が粘って、美鶴を包む。汗ではなくて、部屋の放った粘液かと思える。かなえの満ちる部屋、かなえが満ちる世界に呑み込まれた。美鶴の表皮が溶けて、広がっていく。溶けていく。粘液は、いつの間にか蜘蛛の糸になって、全身を覆っている。繭になって生まれ変わるとも刹那思うけれど、身動きを奪って、粘液が身体を溶かして、やはり呑まれていく。心を置き去りにして、身体が、世界に溢れ出していく。大きな声を挙げた。声が出せた、と思うと、息が切れても、あわてて吸い込んで、なお声を挙げ続ける。

   ☆  ☆  ☆

 誰ともしれぬ声が名を呼んだ。どこもかしこも真っ白い空間にぽっかりと浮かんでいる。呼ぶ声の主は見えない。霞に包まれているようで、もう一度あの朝に戻って、やり直せるのかと思うと、暗転、かなえの気配だけが満ちる闇黒の中で、かなえの腕が美鶴の肌を吸いつくように優しく撫で回す。かなえの愛撫が優しいから、美鶴の寝顔に笑みが浮かぶ。
 入梅を告げるらしい雨が、耳をくすぐるように、パラパラと鳴っている。
 眼醒めた美鶴がゆっくりと顔をあげる。眼の前に竹林がある。音が外の雨を教えているのに、美鶴の眼前の竹林には、そこここに木洩れ日が落ちている。
 パソコンの竹林の画像の中からのように、もう一度、美鶴は名を呼ばれた。
「やっと起きたね」
 笑いの混じった声が、馴れ馴れしく言う。寝ぼけたままの美鶴は、竹林相手の言葉をしらない。細かな雨の音を聞きながら、声を無視して、竹林の中に分けいる。木洩れ日を浴びて、青竹の匂いを嗅ぐ。だけど、蜘蛛の巣が絡むこともなければ、竹の葉が傷をつけるわけでもない。腐葉土の柔らかさを思い出せない。それよりもかなえの気配が木洩れ日に混じっている。あいかわらず、男の声が美鶴に呼びかけている。
「画面、見てないんじゃないですか?」
 別の声が言う。その声を聞いて、美鶴は払うようにカメラの向きを変えた。
「気がついたみたいですね」
「ミツルさん」
 ふたつの男の声が一度に言った。美鶴はマウスを使って、ツールバーに最小化したままだったチャット画面を開いた。画面にはふたりのスーツ姿の男の顔があった。それでも、男たちには美鶴が画面を開いたとはわかっていない。
「とにかく、こっちの声は届いたみたいだから、話しかけてみましょうよ」
「私たちは、警察です」
 慌てた美鶴はチャットを切ろうとしてマウスを動かしたが、マウスはパッドを逸れて、それでも動かそうとすると、パッドの角にあたって手をはなれた。息を吐いた。もう一度大きく深呼吸すると、カメラを戻し顔を映した。
「こっち、見えてますか?」
 若いほうの男が聞き、美鶴はコクンと頷いた。
「話を聞かせて欲しいんだけど、大丈夫?」
 美鶴は、画面を睨んだまま、頷かない。
「このチャットの男のことが聞きたいんだけど……」
「なにもしりません」
「なにも?」
「入ってきて、いきなり嫌なことを言うから、画面を最小化したままでした。でも、チャットは続いてたから、せっかくだからそのままにしてたんです」
「死んでたんだよ」
「しりません」
「驚かないんだね」
 年配の男が睨みながら言ったけれど、カメラではなく画面の中の美鶴を睨むらしく、視線がずれている。
「驚かないのは、しってたんじゃないの?」
「しりません」
「とにかく一度、署にきてくれないかな。ちゃんと顔を見て話したいよ」
「顔なら見えてます」
「いや、そうゆう意味じゃなくてね」
 ふたりとも苦笑いになった。
「いやです。かかわりたくないです」
「ただの自殺じゃないんだよ。バラバラ事件、ニュースとかでしってるでしょ。あの事件に関係してるんだよ」
「ニュース、見ません。しりません。はじめての客だったし、なにもしりませんから。あたしとその人が関係ないのは、調べればすぐにわかると思います。あたし関係ないですから。それより、せっかくつながってるんだから、このチャット、ポイントが切れるまで切らないでください。あたしの仕事の邪魔しないでください」
 美鶴はふたたび画面を最小化すると、スピーカーとマイクのボリュームを切り、カメラのピントを外した。

 美鶴は3つの肉塊を背負って、自転車を走らせている。
 チャットの登録は女性会員にすぎず、雇用関係もないから、居所はサイトに問い合わされてもわからないはずだけれど、警察ならやがてここを突き止めるだろう。振込先銀行口座を辿れば、たやすくわかるはずだ。
 シャワーを浴びると、冷蔵庫から腕を取り出し、両手で持って太腿に打ちつけた。腐蝕した肉は脆く、間接が折れる音とともに肘からふたつに裂けた。腿に大きな痣ができた。まだ下腕が長いから手首を力任せに?ごうとして果たせず、手首を踵で踏むと両手を添えて思い切り上に引いた。この時美鶴の右手は腕と握手のように握り合い、ふと腕が握り返したようで、美鶴はかなえを感じた。
 雨が降り続けていた。折り畳み傘をさして、駅前のスーパーマーケットに寄った。二階の洋品店で雨合羽を買い、着込むと、肉団子を撒いた陸橋を通り過ぎ、どこまでも走り続けている。どこに捨てても、腕に肉を削いだ痕があっても、男は死んだのだから、すべてを男がしたことにできるはずなのに、絶対にみつからない場所を探し、だけど、絶対にみつからないといえる場所がわからず、どこまでも走り続ける。合羽を打つ切れ目ない雨の音を、美鶴は聞いている。
 それがどれほどの距離と時間なのか、わからない。走り続けて、空気が冴えて冷たい山の中にいた。朱の剥げた鳥居の先に石段が登る神社があった。自転車を降り、見渡しても人の気配はない。杉の木に囲まれた急な石段を登っていく。膝が震えて、爪先が段につかえては前のめりによろけた。濡れた石が滑って、踏み外して、手をついた。冴えた空気にはかなえとは違う気配があって、それは登るにつれて濃く、満ちていく。
 登りつめて鳥居を潜ると、潦の走る庭と小さな本殿だけの荒れた社だった。落ちていた木の枝を拾い、本殿の床下に潜り、土に枝を立てたが刺さりもせずに折れた。角のある石を探した。尖った石で土を掻いてもまるで舐めるようなのに、美鶴は掻いて、掻き続けた。柔らかくなった土が溜まると、素手のまま掘り出した。なにをしているのか、それすら忘れて一心に穴を掘り、やがて陽も暮れた闇の中、手探りで腕を埋めた。手には血が流れている。血と雨と土に汚れても、一切の闇。美鶴は疲れて、闇に溶けた。

 身震いに、眼醒めるというより気がつくと、まだ未明の闇の中だった。なにも見えないが、寂として、雨の気配はない。目脂に粘るらしく重い瞼の隙間の片隅を、なにかが掠めた。ギョッとして見開く視界に、青く小さな光がユラユラと漂っている。また視界の隅を青い光がよぎった。見渡すと、揺らめく光がそこここにある。さらに集まってくる。美鶴の眼のまえで、収斂して青白く光るなにかに固まるようにさえ見える。だけど、ひとつひとつはまたフワリと気ままを気どる。
「蛍」
 微かに美鶴が声を出す。だけど、蛍には早すぎやしないだろうか。それは、宙に散ったかなえの欠片が、鬼火に光るのかもしれない。
 降るように集まって、やがて幾十、幾百ともしれない冷光がそこにあるけれど、美鶴を包む気配も見えない。美鶴を慕って集まったのではなく、光が集まる場所に、たまたま美鶴が居合わせただけ。それでも、得体の知れない光に取り巻かれて、美鶴は陶然とする。

 

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