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縦書きPDF版 「重力のお友だち」

 重力のお友だち       

                         よこい隆

「木曜日」23号より転載

推薦 小島義徳(文芸誌O



 宇宙は丸いんだぜ、と、カズくんが言った。
 コータロウが、奥歯を打ち鳴らした。二回。コツンンン、コツンンン……。コツという音が、自分の中から外に零れていく。ンンンは、頭の、中と外の中間あたりに響いている。頭蓋骨が、震えている。
 左手に持った地球儀を、右掌で勢いよく回しながら、「でも、宇宙の丸さってのは、四次元的な丸さなんだ」カズくんが言う。「地球は丸いだろ。だから、ずっとまっすぐ歩いてればさ、いつの間にか、もとのところに帰ってくるんだよ。宇宙もそれとおんなじ。まあっすぐに、ずうっといくと、出発したところにもどってくるんだ」
 三面鏡に向かっていたコータロウのお母さんが、鏡のなかから、カズくんの手許を見、「どうしたの、それ?」と訊いた。太陽が、傾きかけたとはいえ、まだ赤くもない時間なら、お母さんの瞼は青すぎたけれど、出勤用の化粧を終えたその顔が、コータロウは嫌いではない。綺麗だと思う。
「今日の戦利品」
 カズくんの科白を、ふうんと、鼻であしらって、鏡に向きなおると、ピンをはずして前髪を整えた。
 お母さんより五つも年下のカズくんは、パチプロだ。お母さんとカズくんが知り合ったのも、パチンコ屋だった。
「カズくんは、難しいこと、知ってんだね。四次元だってさ」コータロウの顔を見ながら、お母さんが言った。首を回して、「四次元て、どこにあるの?」カズくんに。
 コツンンン……
    コツンンン……
 化粧をした眼は、大きく見えて、化粧をしていないときよりも、クルクルとよく動くようだった。カズくんは、なにも言わない。コータロウが地球儀に手を伸ばすと、怒った顔で睨んだ。
「下手に触っちゃ駄目なんだ。これからお母さんは仕事だろ。下手に触って、地球の自転が狂ったら、時間も狂っちゃうんだぞ。お母さんが遅刻したら困るだろ」
 コツンンン……
    コツンンン……
「コータロウがいるところがどこだか、わかるか? ちゃんと当てたら、地球のことがわかってるんだから、触ってもいいぜ」
「まだいつつなのに、そんなのわかりっこないじゃん」と、お母さんは言うけれど、幼稚園にも保育園にも通わせてもらっていないコータロウが、それでもわかるかもしれないと思って、見せてと言ってみた。
 カズくんが左手に台座を持ってコータロウの眼のまえに地球儀を差し出し、右手でゆっくりと地球をまわす。「コータロウがいるところにきたら、指させよ」
「赤いところよ」お母さんが言った。
「なんだよ、つまんねぇな。そういうのを、才能の芽を潰すって言うんだぜ。もしかしたら、コータロウは天才かもしんないのに……」
「バーカ。おそわらないでわかったら、天才じゃなくて超能力だよ」
 コツンンン……
    コツンンン……
「超能力だって、天才じゃん」
 自転をうながす手をとめたカズくんのまえで、自分のこととも、地球儀のことともつかぬ、ふたりの声を聞いていたコータロウは、その夜死んだ。
 お母さんが出勤したあとで、眠くなってもなおカズくんにかまわれていたが、眠気で駄々をこねていたのかもしれない。カズくんの顔から頬笑みが消えていたのになにかを言って、それでもカズくんが、「しつこい、いいかげんで寝ろ」と言いながら足をあげたときには、額を小突くつもりが、思わぬ力がはいり、鼻骨の辺に踵があたった。あたると、鈍い音がしてめり込んだ。とたんにコータロウの鼻が上を向いて、血を噴き、あっけなく仰向けに倒れた。上目になって、なにも見ていない。鼻血はドクリドクリと脈を刻みながら溢れ、口を開けて、身体はビクンビクンと数回跳ねた。カズくんは、その回数を覚えていないし、数えてもいない。カズくんがただ呆然と見ているうちに、コータロウの身体は動かなくなる。それでも、鼻血はしばらくタラタラと湧いていた。流れ、カーペットを染めて、投げ出されていた地球儀に届きそうだ。


 ダイニングの椅子に座っていたカズくんは、近づく跫音をそれと聞き分けて、どんな顔をすればいいのかわからず、うなだれ、頭を抱えた。カズくんの眼のまえには、地球儀が立っている。案の定、跫音はドアのまえで止まり、鍵を開ける金属音がした。
「なに、これ……」
「死んじゃったよ」
「わけ、わかんない……」と言って、しばらく立ち尽くし、カズくんが、深夜になるといつでも耳に障る、遠くの国道を間断なく走る地鳴りのようなかすかな音をようやく聞いたとき、お母さんは、ハンドバッグを乱暴に、物が触れ合う音をたてて探り、携帯電話を手に取った。
「どうするんだよ?」
「しらないわよ」
「どこに電話するんだよ?」
「わかんないのよ。どうすればいいのよ? あたしが訊きたい。教えてよ」無表情とは違う、だけど、どれともお母さん自身が決めかねているらしい顔で、カズくんを見た。
「そうだ、救急車。救急車、呼ぶ」
「もう、死んでるんだよ」
 もういち度お母さんがカズくんを見つめた。国道の地鳴りのような音は、もう耳にとどかない。お母さんの口が開くと息を吸い、大きな声をあげると思ったカズくんはその口を塞いだ。お母さんはもがき、カズくんが抱きしめて抑えると、腕のなかで暴れた。コータロウの足許に、お母さんのハンドバッグが落ちてきた。
「暴れるなよ。外に聞こえるよ。……お願いだよ。暴れないでくれよ」
 お母さんの熱い鼻息が、カズくんの親指を濡らした。カズくんが触れているお母さんの肌は、カズくんの肌に、じっとりと絡みついている。そのままズブズブと、めり込んで、融けていきそうだった。コータロウの足許に、ハンドバッグからこぼれ出た携帯電話や口紅が散っている。コータロウの身体は仰向けで、鼻血に染まった顔は、コータロウの顔のようではなく、それでも、身体は人間の形と、肌の柔らかさを見せている。
 今すべきことを見失っていたのは、お母さんだけではない。カズくんだって、お母さんが帰ってくる今の今まで、なにもできずにいた。だから、お母さんがなにをするともつかずに暴れて、むしろ、カズくんは自分のすべきことを見つけた。
 胸の上下は大きいまま、動きがとまったお母さんを抑える手を緩めると、お母さんの右手が口を塞いでいたカズくんの手に触れた。その仕草がゆっくりで、どうやら、もう大丈夫だというようだったから、カズくんもすなおに手をどけた。
「あんた、なに冷静になってんの? コータロウが死んでんでしょ?」コータロウを顎でしめして、「これ、あんたがやったんでしょ?」言うと、コータロウの靴下を履いたつま先のすぐ先に落ちていた携帯電話を拾い、「警察に電話する」お母さんが言った。
 カズくんは、お母さんの携帯電話を叩き落とした。
「お願いだよ。助けて」
 以前は散らかっていた部屋だけど、カズくんが、パチンコの調子がよくないと部屋の掃除をするから、今、投げ出されたお母さんのハンドバッグと、コータロウから流れ出た血、それから放り出されままのコータロウの身体だけが、部屋の秩序を乱している。夏は過ぎて凩が吹く季節なのに、やけに蒸し、部屋の空気が肌に粘る。コータロウから湧き出てカーペットを黒く染めた血が蒸発し、部屋を満たしているのかもしれない。
「オレ、仮釈中なんだよ。過失だって、実刑になっちゃうんだよ」
 やけにゆっくりと、お母さんが屈み、携帯電話を拾う。
「コートくらい脱げよ」お母さんは、春秋用の薄いコートを着たままだった。屈んだ姿勢のまま、首をひねって、カズくんの顔を見上げたお母さんの顔は冷たい色だった。カズくんは、お母さんの身体を抱えるように押し、コータロウの脇を抜け、そのまま隣の部屋にいくと、ベッドに押し倒した。カズくんは、それが自分の恐怖の証拠のように、自分の昂ぶりをお母さんにしめした。昂ぶっているようでも、怖がっているようでもありながら、ただそう見せるためのようでもあった。カズくんにも、自分が昂ぶっているのか、怖がっているのか、それともそう見せて、お母さんを騙そうとしているだけなのか、わからない。カズくんは、お母さんを縛った。お母さんは縛られていた。
 コツンンン……
    コツンンン……
 一度果てると、お母さんがなにか言いかけたから、カズくんはまた、掌でその口を覆った。お母さんは縛られたまま、おとなしくして、カズくんが手をどけても、なにも言わなかった。それでも、カズくんは抽斗からタオルを出すと、猿轡を咬ませて、うつ伏せにし、腰から下だけベッドからおろして、後ろから犯した。そのあいだも、猿轡と縄をほどいた三回目にも、ずっとカズくんは、「助けてくれよ」とか、「怖いんだよ」といい続けて、「おまえだって、コータロウさえいなければって言ってたじゃないか」とも言った。コータロウは、お母さんのそんな科白をしらなかったけれど、お母さんも、カズくんが仮釈放中だということをしらなかった。きっとしらないことがほかにもたくさんあるのだろうと、お母さんは思った。お母さんは、ほかにもいろいろなことを考えて、おそらく、カズくんよりよほどたくさんのことを考えた。


 昼をとおに過ぎてからゴトゴトという重たい音に眼醒め、ガムテープでぐるぐると巻かれたベージュの毛布を見て、お母さんには、大きな蓑虫のようなそれが、すぐにそれとわかった。カズくんは、カーペットの染みを、濡れたタオルで叩いている。
「取り替えないと駄目だな。でも、すぐじゃ駄目だ。すこし時間をおいてからじゃないと」
「近所で聞かれたら、お母さんに預けたって言うわ。あなたが邪魔にするからって、言うからね」
 カーペットのことかと思い、そんなはずはなく、上を見上げてすこしだけ考え、「オレは邪魔になんかしてないぞ」
 お母さんが睨んだ。カズくんは、「わかった」と言って、下をむいた。
 お母さんの眼の周りは真っ赤に腫れていた。身体は、まるで南国の生き物のように、赤かったり青かったり、黒ずんだところもあって、彩り豊かな痣だらけだった。だけど、毛布のなかのコータロウの背中は、ずっと仰向けだったから、血が下がり鬱血して、真っ黒だった。
 カズくんは、お母さんの科白を聞いて、なにか変だなと思った。お母さんは、昨夜カズくんが言った「おまえだって、コータロウさえいなければって言ってたじゃないか」という科白を思い出していた。いったいいつ、どうして、そんなことを言ったのだろうと思いながら、顔を洗った。コータロウの顔には血が固まって、そのすぐ横には、同じくらいの大きさの地球がある。カズくんが、地球儀をコータロウの頭の隣に置いたのだった。
 赤い眼は、目薬を注せばなんとかなるかもしれない。赤みも化粧で誤魔化せるだろう。だけど、目蓋の腫れはどうしようもない、と、お母さんは歯を磨きながら思う。夜までに腫れが引くとも思えなかった。仕事をどうしようか。
「この顔じゃ、仕事にならない」声に出して言うと、
「休まないほうがいいんだけどな。……しかたないよな。休めよ」いつの間にそこにいたのか、すぐ後ろから鏡越しに見て、カズくんが言った。


 夜の十時を回ると、カズくんが借りてきたレンタカーで北西の方角へ向かった。カズくんが運転し、助手席にお母さんが乗った。カズくんは、お母さんにこなくていいと言ったけれど、お母さんがいくと言い張った。コータロウを後部座席に乗せようとしたカズくんに、もし検問にでもあったらどうするのか、と言って、トランクに乗せたのはお母さんだ。
 おおよその目的地はあったらしく、走りはじめてしばらくは、迷いなく進んだ。お母さんは十分おきに煙草を喫い、カズくんはなぜか全然煙草を喫わなかった。お母さんがラジオをつけると、カズくんは消してくれと言った。「今、事故を起こしたら一巻の終わりだからな。運転に集中していたいんだ」
 お母さんは鼻を鳴らして、「気が小っちゃい。退屈よ。音楽でも聴きたいわ」
「だからついてくるなって言ったんだ」
 カズくんは、さすがに法定速度を守っていたわけではないけれど、すこしばかり手前で信号が黄色になればブレーキを踏んで、たしかに安全運転だった。まして、道路わきに高い木が茂りはじめると国道を逸れ、やがて道幅が狭まり、曲がりくねった上り坂にはいると、どこもかしこも真っ暗で、時に法定速度を下回って、後ろに車がくれば脇に避け、先にいかせる慎重さだった。たまらず、「なにトロトロ走ってんのよ」お母さんが苛立った声で言う。ライトを上向きに切り替え、「真っ暗だな」カズくんが言った。お母さんがカズくんを見ると、カズくんはハンドルにのしかかるように前のめりになって、フロントガラスの前をキョロキョロと窺っていた。硬直したコータロウの身体は、トランクのなかで、ゴロゴロと音を立てている。地球儀は、コータロウの頭に密着しながら、軸がカタカタと、コータロウの耳許で鳴り、ときにコータロウの顔を撫でて、固まった血を剥いでいる。赤黒い、魚鱗のような薄片が、コータロウの頭の下に溜まっていった。
 鋭いカーブの突端で、カズくんが車を止めた。お母さんがダッシュボードの時計を見ると、十二時半だった。「その時計、十五分ぐらい遅れてるぞ」カズくんが言った。
 カズくんが車を降りると、ドアを閉める音が重く響いて、真っ暗ななかをどこまでも流れながら、闇の重さと溶け合い、いつまでもそこにある。お母さんは、その重さに潰されそうで、窓をすこしだけ開けると、車のなかで煙草を喫った。喫い終えても、フロントガラスの向こうに、車のライトに浮かび上がったガードレールと闇黒を見つめたまま、動かず、すぐにまた煙草を抜いた。カズくんも、お母さんに眼をやらず、喫い終えた煙草をガードレールに押しつけて消すと、その先の闇に飛ばし、車の後ろに回った。そして、蓑虫みたいなコータロウを引き出した。ガムテープには、持ちやすいように、二箇所の持ち手をこしらえてあった。
 コータロウの身体は、カズくんの周囲を二度回って勢いがつくと、頭と地球儀をまえにして、フワリと宙を飛んだ。すこし傾げた。脛に木の幹があたった。とたんにバランスをうしなったコータロウは、つぎの幹に頭を打ちつけた。細く尖った枝が、絶えずコータロウを突いた。腐葉土の枯れた音がコータロウの身体を包み、コータロウは、名もしれぬきのこをなぎ倒しながら、急な傾斜をころがって落ちていった。地球は丸いから、どこまでもまっすぐにいけば、もとのところに戻ってくるのだと、カズくんはコータロウに言ったのだった。毛布の外には、冴え冴えとした闇。
 コツンンン……
    コツンンン……
 四本目に火を点けようとしたお母さんの手が震えている。歯の根が合わずに、カツカツと鳴った。乗り込んだカズくんが身をすくめ、「寒いな」と言う。車中は、煙草の煙が層を作って揺れている。煙草臭い。車のなかの煙草臭さは、鼻粘膜から頭のなかに浸みこんで、子どものころにはいつも車酔いを起こしたのだったと、カズくんは思い出し、眉をしかめた。
「ここって、どの辺?」
「よくわかんないけど……」といいながら、「ここ」と、カーナビを指差した。お母さんは、そこにカーナビがあることをしっていたし、眼にはいっていたはずなのに、まったく気づかないように、それを見ていなかった自分に気づいた。ずっと、なにも見ず、なにも感じず、なにも考えていなかった気がした。
「胃が痛い。お腹空いた。今日、なにも食べてないもん」
「国道まで出ないと、なにもないだろうな」
 ふたりを乗せた車が、何度かハンドルを切り返してUターンすると、坂を下って去った。
 まだコータロウは安定せずに、ときおり、枯葉を毛布に絡みつけながら、斜面をずり落ちて、そのたび地球儀の支柱がカラカラと鳴り、コータロウと地球儀のさまは、ますます蓑虫に似た。


「仮釈放って、なにやったの?」
 国道沿いに見つけたファミリーレストランで向かい合い、海老ピラフのグリーンピースをよけながら、お母さんが訊く。
「いいじゃないか、そんなこと」
 お母さんは、顔をあげかけて、ふと眉間に深々と皺を刻み、自分の皿を睨んだ。「馬鹿じゃん」カズくんにも聞こえないように、小声で言って、よけたグリーンピースをスプーンに掬うと口に運んだ。皿のなかで、グリーンピースの反対側には海老ばかりが集まっている。ファミリーレストランで、コータロウは子ども向けのメニューを嫌い、すごくお腹が空いていればハンバーグ、そうでなければ海老ピラフを注文した。だけど、グリーンピースは、お母さんもコータロウも、ふたりとも大嫌いだった。大嫌いなグリーンピースを、お母さんが食べている。
「今から海にいくから」カズくんが言った。「潮風に当てて、洗車しなきゃいけなくするから。車についた土とかで、足がつかないように、洗車するんだ」
「洗車するなら、いかなくたって、いったことにすればいいじゃない」
「むこうで飯喰ったりして、たしかにいったっていう証拠を残しておくんだ」
「さすがは前科者ってこと?」
 お母さんは皮肉のつもりだったのに、カズくんは照れたらしく、笑い顔になった。お母さんは、もしもコータロウが見つかったなら、そのときはもう終わりなのだと思っていた。カズくんの小細工など、車の走行距離を見れば、すぐにばれる。それでも、カズくんにつき合ってやろうと思って、なにもいわなかった。それなのに、思いついて口にしてしまった。
「レンタカーなんだから、ほっといても洗車するんじゃない?」
 カズくんが驚いた顔になって、お母さんを見つめた。「でも……」なにかを言いかけて、さきが続かなかった。
「いいよ。わかった。そのかわり、あたし、車のなかで寝てるからね」


 ずいぶん乱暴な運転で急いだのに、風に乗って砂浜の砂がアスファルトの上を薄くおおった駐車場に車を止めたときには、夜は明けていた。お母さんは言ったとおり、カズくんに背中を向け、丸まって眠っている。砂浜に、焚き火が燃え、背を丸めた女が膝を抱えて座っている。その視線のさきを見ると、サーファーが板に乗って、沖を目指している。サーファーは彼だけでなく、ほかにもいた。浜茶屋の骨組みが、焼け跡のようで、海辺を空恐ろしく見せる。砂浜につづくコンクリートの階段を、砂の膜が滑るから、カズくんは慎重な足取りで降りる。慎重だったはずなのに、カズくんの身体が飛んで、砂浜に前のめりに倒れた。なにが起きたのかわからず、ただ驚いていた。
「飛んだね。うん、すごく飛んだ」
 倒れたまま、声に振り返ると、お母さんが階段のとちゅうで、笑いながら見下ろしている。背中に手の感触があった。突き飛ばされたと、ようやく気づいた。カズくんは、なにも言わずに立ち上がり、パンパンと音をたてて服の砂を払うと、お母さんを睨んだけれど、お母さんに睨みかえされて視線をそらした。
「なにすんだよ」
 お母さんは、聞こえなかったように、カズくんの横をすり抜けて焚き火に近づいていった。薄汚れた雲が空を蔽っている。
「サーファーの彼女って、虚しくない? 自分ばっかり楽しく遊んでる男に置いてけ堀喰わされて、自分は寒い思いしながら、丸まって待ってるだけなんてさ」海を見ながら言って、言い終わってから、膝を抱えた女に笑顔をむけた。
「虚しいよ。だから、いつもなにも言わずに、ひとりで帰っちゃうもん」
「火、あたらせて」
「勝手にどうぞ。でも、もう話しかけないで」
 若い娘のタメ口に、お母さんは切れもせず、黙って火に手をかざした。気づいて、人差し指で、目脂を掻きとった。波は、頽爛の泡だちを波打ち際まで運んで、足を踏み出しかけたカズくんを寄せつけない。
「ねえ、ここにくるまで、迷子になったことにするんだよ。近道しようとして、国道逸れたら、どんどんわかんない道に迷い込んで、あたしたちは、グルグル回ってたんだよ」
 お母さんが、大きな声で、カズくんに言った。カズくんの眼が大きく開いて、膝を抱えた女とお母さんのあいだをいったりきたり。お母さんは、笑っている。
「あたしたちがあ、まっすぐここにきたならあ、車の走行距離が長すぎるでしょお。だからあ、あたしたちはあ、ずうっと迷ってたの。わかったあ?」
 沖のサーファーにも聞こえよ、とばかりに、声を振り絞る。
「そんな大声ださなくても、聞こえるよ」
「波の音で聞こえないかと思って」
「それより……」女を眼で示す。
「ねえ、もしあたしたちのこと、テレビとか、どこかで見かけても、きょうここであたしたちに会ったこと、だれにも言わないでね」お母さんが、女に言う。お母さんはずっと笑ったままだ。女は膝を固く抱えて沖を見つめたままで、お母さんの科白は海から寄せる風に流されてしまう。
 ふと、女の眉間が寄った。
「女連れのサーファーが下手糞って、カッコ悪い。それも、ほかに女連れがいないなんてさ」
 女の視線を追って、沖を見ると、板の上に乗った男の腰つきが、見るからに覚束ない。
「カッコ悪い男と一緒にいるのって、女の恥じゃん。安物のアクセみたいだよ」
「男は飾りじゃねえだろ」と言ったのは、カズくん。
「彼氏もおなじように思ってんじゃない? オレより上手いみんなが女なんか連れてこないのに、下手糞なオレが女連れてるなんて、カッコ悪いってさ」お母さんの科白に、女が振り返って顔を上げた。
「そうかもね。じゃあ、あたしはいないほうがいいんだ」立ちかける。
「でも男は、女がいれば、すこしでも早くうまくなろうって、必死こくんだよ。すこしでもカッコよく見せようと思って、頑張んだよ」
「だったら、カッコよくなってから、見てやるよ」女はそのまま立ち上がると、「男は選ばないといけないよね」と、誰にともなく言って、お母さんにもカズくんにも、沖の男にさえ眼もくれず、海に背を向けて歩いていった。前かがみがいかにも砂が重そうに、まるで落し物を探しながら。
 突然思いついたお母さんが、走って、小柄な女の肩を抱き、「ねえ、この辺で美味しいもの食べれるところ、案内してよ。ご馳走するからさ」
「馬鹿じゃねえの? この時間に開いてる店なんて、二十四時間営業のファミレスぐらいじゃん。海の幸とか喰いたいなら、出直してきな」
 山の陰からようやく顔をだした陽の光を、コータロウが、木の葉越しに受けた。毛布にも遮られて、それでもわずかな光がコータロウに届いている。活動をはじめた微生物たちの気配を慕って、小さな虫たちが蓑の隙間から潜りこみ、コータロウを吟味している。虫たちは、地球儀には眼もくれず、コータロウにたかる。
 お母さんは、女の肩から腕をどけた。
「ちょっと待てよ」
 海から上がった男が、板を投げ出して、女を追った。


 携帯電話のタイマーが鳴って、車のなか、カズくんが眼醒めた。むこうを向いて丸まった助手席のお母さんもモゾモゾと動き、どうやら起きているようだったけれど、そのまま。カズくんは黙って、エンジンをかけた。お母さんが、今夜は働くといったから、タイマーは十時に設定し、三時間程度しか眠っていない。カズくんは、ガラス越しに周囲を見回して、駐車場の果てに自動販売機を見つけた。エンジンをかけたまま、車を降りると、煙草に火を点け咥え、眼をこすりながら、自動販売機に向かった。こすっても目蓋が粘って、カズくんは、しばたたく。うつむいて、小指の先で眼の淵をなぞり、目脂をかいた。うなじにポツリと冷たい点が落ちた。仰ぐとすぐそこに、雲が覆っていた。使い古した雑巾色の雲だ。四回、雨滴を顔に受け、両掌で水気を顔にまぶした。カズくんが二十メートルほどの距離を歩き、自動販売機に辿りつくまで、堤防の影の湾岸道路を、三台の車が走り去った。一台は重たい音をたて、大きなトラックのようだった。波の音もかすかで、カズくんの周囲はやけに静か。自販機で、落ちてきた缶コーヒーが、静けさを破った。
 ふたつの缶コーヒーを片手に持って、咥えていた煙草を手に取ると、雨滴の染みがあった。かまわず咥えなおす。カズくんの視界の隅で、砂浜に続く階段を男たちが昇ってくる。男たちは、ウエットスーツにサーフボードを抱えている。だけどカズくんは彼らのことなど気にかけず、ひとりの男が近づいてくるのもしらない。
「まだいたのかよ」
 近づいた男の声に、カズくんが顎をあげた。まさかと思いながら見渡しても、どうやら男はカズくんに言うらしい。
「おまえら、かなえになに言ったんだ。なんで、かなえ、帰っちゃったんだ? あいつ、オレのこと無視したんだぞ。無視して、とっとといっちゃったんだぞ」
 サーファーたちが、男の後ろに集まっていた。
「しらねえよ。オレらは、火にあたらせてもらっただけだ」
「ふざけんなよ」
 車を見たが、お母さんの姿は見えない。
 うんざりした顔で、「かんべんしてくれよ」とカズくんが言う。「騒ぎ起こしたくないんだよ」
「面白くねえな。オレの気がおさまんねえよ」
 後ろの男たちは、たがいに顔を見合わせて、小声でなにごとか話しているけれど、カズくんには聞こえない。
「詫びろよ」
 後ろには、ニヤニヤと笑う男がいる。だけど、言う男は、笑っていない。
「なんで?」驚いたように、カズくんが思わず訊いた。
「オレの気がおさまんねえから。土下座して詫びろ」
 カズくんは、手にしていた煙草を捨てた。すっかり短くなって、火がフィルターにとどきそうだった。雨は、ゆっくりと降りを強めてきた。男たちは海からあがってきたのだから、はじめから濡れている。雨など気にならないだろう。だけど、なぜオレがこいつにつき合って濡れなければいけないのか、と思うと、カズくんは、腹がたってきた。そのうえ、男は土下座しろとまでいう。濡れたアスファルトに膝をつけと言う。
 それでも、ゆうべあの女を犯すようにヤリながら、視界の隅にコータロウを見ていたから、膝をつき、缶コーヒーを傍らに立てて、土下座をしてみせた。後ろの男たちは、驚き、笑った。男を見上げて、「これでいいか?」コータロウは、お母さんがなにをされても、黙ったまま動かなかった。
 男の顔は、呆れていた。
「ありえねえ」
 お母さんは眼醒めていたけれど、リクライニングが倒れたままだった。お母さんが土下座のわけを訊き、見られたと思っていなかったカズくんは慌て、それでも話すと、お母さんが言った。
「ぶん殴ってやろうかと思ったけど……、騒ぎおこしたくなかったんだよ」
 コーヒーのひとつをお母さんに手渡し、髪をしごいて雨水を払った。
「ずっと、そうやって生きてく気?」
 カズくんはすこしだけ考え、「きょうだけだよ。あしただったら、ぶん殴ってたさ」
「いいじゃない。ずっとそうやって生きてけよ」
 嘲弄するらしい口角をあげたお母さんの声を聞いて、憮然となりながら、黙ってプルトップを引いた。お母さんの物言いがやけに乱暴だと、そのとき気づいて、お母さんの顔を見た。缶コーヒーをあおっている。ぬるいと思いながら、言わずに、一気に飲み干す。カズくんは、飲みかけをホルダーに置き、エンジンをかけた。


 晴れたままの山のなかは、陽を浴びた木々や土が水分を吐き出して、純白の靄がユラユラと立ちのぼっていた。コータロウの身体は、微小な生き物たちの忙しい作業場と化していた。生き物たちは瞬間ごとに増殖している。また、それよりも大きな生き物たちは入れ替わり立ち代り、、コータロウをすこしずつ運んでいく。しだいにコータロウは、蓑をすり抜けて、地に滲みだし、溶けていく。微小な生き物たちの活動で蓑のなかは熱を帯び、山から立ちのぼる靄に紛れて、コータロウの蓑からも白い湯気が起っていた。蓑のなかで、発する熱にもむらがあり、かすかな気流が立っている。気流は、コータロウに寄り添う地球儀に雲を起こし、雨を降らせる。
 野犬が、匂いを嗅ぎつけている。


 傍らの窓の向こうは、激しい雨が降っている。空から水が、地表に引き寄せられている。地が呼ぶ声は強く、雲は抗いようもなく、ダラダラと垂れ流している。
 鯛の活き造りが口をパクパクさせて、コータロウは怯えた。以来、焼き魚の口を恐れ、眼を恐れ、やがてすべての魚を怖がり、切り身さえ食べなくなった。お母さんの好きな寿司も嫌った。寿司なら、玉子焼きでさえ、魚のように思って食べなかった。コータロウさえいなければ、寿司が食べられる。カズくんがいった、お母さんの「コータロウさえいなければ」という言葉とは、寿司や魚が食べられることではなかったか、と、浴衣姿のお母さんが刺身をつまみながら思う。これからは、魚が食べられる。
 それならコータロウは、あたしが魚を食べたいから、死んだみたいだ。そうじゃない。あたしのせいじゃない。
 それでも、コータロウの死が隠されたのは、お母さんのせいでもある。だからこそお母さんは、これからは、コータロウがいたせいでできなかったことをしようと思う。そうしなければ、なぜ隠されたのか、コータロウが隠れてしまった意味がないじゃないか。
 温泉に浸かって温まった身体で、窓の外の雨にけぶった景色を見る。けぶって、なにも見えない。降る雨ばかりが視界を埋めている。ビールのせいかもしれない。今夜は働くつもりで、これから帰るから、カズくんは呑んでいない。
 コータロウがいたらできなかったことってなんだろう。コータロウがいないから、できることってなんだろう。
 コツンンン……
    コツンンン……
 お母さんは、カズくんに復讐しようと思った。復讐といっても、今はまだ、なにをすればいいのかわからないけれど、窓の外、降りしきる雨を箸を咥えてぼんやり眺め、復讐するのだと決めた。
 カズくんは、箸を持ったまま、うつらうつらといねむりしている。赤身の刺身が醤油に浸ったまま、浮いた脂が金属のように光っている。
 コータロウも雨に打たれているのだろうかと思うと、お母さんの口のなか、顎骨と頭蓋骨のつけ根あたりがくすぐったくなり、頬が引き攣った。お母さんの顔のそこかしこから、水が溢れ出ようとする気配だった。鼻梁のわきには、山葵が沁みたように突き刺す痛み。ゆるい洟水が流れそう。だけど、泣いてはいけない気がした。泣いたら、コータロウを卑しめる気がした。山葵をたっぷり盛って、はまちを口に入れた。鼻の頭に突き刺さる痛みが襲い、さっきの痛みとは全然違うと気づいた。さっきの痛みなんて、ただむず痒いだけだ。


 規則的にワイパーに払われた雨水が飛ぶ。気がつくと、ワイパーの動きを追ってガラス面を見つめ、その先を見ていなかった。前を走る軽トラックが、眼のまえに迫っていた。なんでもない素振りを装いながら、じつは、カズくんはあわててアクセルから足を離したのだった。タイヤが路面に張った雨水を蹴散らす音が、ずっと聞こえていて、まるで耳を塞がれている気がする。閉じ込められている気がする。水底を走っているようだった。水深はどこまでも深まり、やがて水圧で、屋根が潰れる。きっと。
 くだらないことばかり考えているうちに、いつの間にやら、見慣れた景色に包まれて、だけど、車中から見るそこは、見慣れた住宅街ではなく、ハンドルに凭れて眺めた。歩いているときに雨なら傘を差し、足許ばかりを気にして、ちゃんと見ていなかった。お母さんが、仕度を終えたら駅まで送れというから、そのまま待ちながら、カズくんは、いまさらながら、いつもの町並みが、雨にけぶる姿を見ている。
 店まで送るといってもそうはさせず、小さな駅前のロータリーに車を止めると、あたしが帰るまでに出ていけと言う。二度とその顔を見せるなとまで言う。カズくんが、返す言葉を見つけられずにいたら、雨のなか、傘を開くと、駅を目指して走っていってしまった。だけど、それがお母さんの復讐だったわけではない。復讐はこんなもんじゃないとお母さんは思う。それならお母さんは、二度と会わないつもりのカズくんに、なにをするつもりなのか。お母さんにもわからない。しかたなくカズくんは、すくない荷物を運んで、まだ借りたままだった隣駅のアパートに帰った。
 薄汚れた野犬が、蓑の上から、コータロウに鼻先をすりつけ、そのたびヒクヒクと鼻梁に皺を寄せる。もちろん、お母さんもカズくんも、それをしらない。野犬が毛布を咥えて首を振ると、コータロウの頭が地球儀に当たって音をたてた。そのとたん、野犬は足を滑らせ、傾斜を転げ落ちていった。コータロウはまた、取り残された。お母さんは、客が手を握るから、両手を添えて握り返すと、作業服姿の男は口説きかかって、ふと「あたし、子持ちよ」と言ってみた。男は、上を見上げてなにごとか考え込む仕草を演じてから、「オレなんか、妻子持ちだよ」男の作業服は、男の体臭に雨の匂いを絡ませている。


 やがてコータロウは、眼に見えぬ小さな生き物たちに分解され、昆虫たちに運ばれて、地球に溶けていった。


 明日のために、閉店間際のパチンコ屋で出ている台を確認してから、コンビニに寄ったカズくんが、パチンコ雑誌を立ち読みしていた。脇に求職情報誌を挟んでいる。立ち読みといっても、パラパラとページを送り、眼にとまる記事を見つけられず、パチンコ誌を棚にもどすと、弁当の棚を一渡り見渡し、コロッケ弁当を手に取った。コカコーラのペットボトル、コロッケ弁当、求職誌、それからタバコをワンカートン。袋をぶら下げ、カズくんがコンビニを出る。しゃがみこんだ若い男たちが四五人、円陣を組んでいた。楽しいわけじゃない、カズくんはそれをしっている。することがないから、そうしているだけだった。そんなことをしてると、オレみたいになっちまうぞ。子ども殺しちまうような馬鹿になっちまうぞ。殺そうと思ったわけじゃないし、殺したいと思ったことなど一度もなかった。ただ、そうなってしまっただけだった。遠回りに堤上の道を歩いていた。街灯がなく、月明かりだけの真っ暗で、左手には大きな川が流れているはずだけれど、ゆるやかな流れに音はなく、右手の住宅街にも音がない。提の下をときおり車がゆきすぎる。あまりに静かだから、カズくんは、なにか歌でも唄ってみようと思った。口を開いて、なにを唄うつもりなのか、アテがなく、口を開いたまま、声が出ない。
 提を、葦が茂る川側に転げ落ちた。カズくんは、足を滑らせたのだと思った。だけど、「落ちたぞ」という声が聞こえ、葦を掻き分けて近づいてくる数人の気配があったし、脇腹の痛みにも気づいた。
 頭を抱えて、身体を丸めた。なにもできないから、とにかく、急所を守るだけだった。背中を蹴られるなら、たいしたことはなかったけれど、ときに脇腹を踏みつけるように踵で蹴られて、肱で庇おうとすると、額を蹴られた。カズくんは「なんなんだよ」とくり返し呟いていたけれど、男たちには聞こえなかった。「なんなんだよ」とくり返しながら、口許がひきつって、泣きたいのだと思ったら、とたんに涙が溢れ、肩が震えた。カズくんの震える肩に気づいたひとりの男が、かがみこんだから、カズくんはしゃくりあげながら、「なんなんだよ」と怒鳴った。
「ベソかきながら息がってんじゃねえよ」といって、平手でカズくんの横面を張った。「てめえ、さっきコンビニでガンくれたろうが……。むかついたんだよ」
 カズくんは、涙のせいなのか、それとも瞼が腫れているのかわからなかったが、眼が見えなかった。それとも、男は土手の上の街灯を背負っていたのだから、ただ逆光で見えないだけだったかもしれない。
 男たちが去っても、カズくんは動かない。痛いというより、身体が重たかった。痛みすら感じなくなって、動けず、このまま死ぬのかもしれないと思いながら、それでも、今は動きたくなかった。じっとしていたかった。このまま死ぬのなら、それはそれでいいから、とにかく今はこのままでいたかった。


 風が吹いたり、枯葉が降り積もって流れたり、すこしずつなにかが起きて、ふとコータロウの頭と地球儀がコツンと音をたてる。ときには、コータロウの顎が動いて、コツンンン、コツンンンと鳴る。気が向くと、地球儀がカラカラと音をたてて回った。コータロウは、その音につれて、いかにも楽しげに笑うようだった。
 病院で、お母さんはカズくんの様を大きな声で笑った。コータロウがそれと見分けられなくなるほどひさしぶりに会ったのに、「ざまあみろ」と言った。

 

 

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