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  鉛の外套 「おれ」に癒着している「おまえ」

                                                  山本 直哉

文芸誌O 36号 (2005年 6月)

時間も場所も生物も、自分と他者までも交錯する不思議な物語。でも、とてもリアルです。
 
推薦 ひわきゆりこ(胡壷

 

 

外部は燦爛として煌くも、裏は重き鉛の外套を着て歩む。

おゝ永遠疲労の外套よ!

〈ダンテの「神曲」 地獄篇第二十三曲(中山昌樹編・新生堂版より〉

     T

 

 体が回転しながら石のように下降していく。なにも見えないが、耳もとをかすめる風の音だけは確かに聞こえる。息苦しい。〈どうしよう〉。おれ(または、おまえ)は焦る。落ち続ける中で、わずかに意識を取り戻しかけるが、〈どうしよう〉もない。目の前が螢の灯のように明かるくなったり暗くなったりしている。声を上げて助けを求めようとしているうちに、急に体の動きが止まる。おれ(または、おまえ)は息をつく。しばらくの間、意識だけは落下の惰性に曖昧に流され続け、頭が化石になっている。

 やがて、徐々に意識の霧も消えていき、身の周りのものが輪郭を鮮明にしはじめる。吸い込む空気が冷たい。〈どうしたのだろう〉。おれ(または、おまえ)の体は湿った土の中に半ば埋まっている。頭の上の穴から、巨大な欅の枝と、その背景に広がる紺青の空が覗いている。冷たいものが振りかかる。枝葉に溜った露が、風に吹かれて落ちてくるためらしく、体中がすっかり濡れている。右手を少し動かしてみると、なにか堅い物に触る。それを拠り所にして、冷たい体を静かに起こし、おれ(または、おまえ)は用心しながら立ち上がる。頭の芯が、過剰な長い眠りの後のようにかすかに痛む‥‥。あらゆる関節を、出来るだけ丁寧に動かして、硬直しかけた骨と骨とがほどよく動くかどうかを調べてみる。どの位の間気を失っていたのかは分からないが、かなり長い時間をうつ伏せの姿勢のまま保ち続けてきたことは確かなようで、血液の流れがどこかでむらになり、圧迫されていた部分がだるいようでたよりなく、喉から腹部、そして股から爪先に至る辺りが、一様の広がりをもって痺れている。泥水に浸かっていた魚のように、酸欠を起こしかけているために、おれ(または、おまえ)は思わず欠伸をする。湿った冷たい空気を急に深く吸い込み過ぎたせいで、気管が痙攣を起こし、下腹を抑えながらひどく咳込む。気道の震える乾いた音は、辺りの静寂の広がりにわずかなひびを入れる。

 体を徐々に動かしながら、土と腰の周りに余裕を作ると、かなり長い時間をかけて穴の外へ這い出てみる。馬の背中のように盛り上がった地面が目に入る。視野を広げながら、周囲を油断なく窺う。薄ら白い光のべールに遮られて、遠くまでは見通せないが、足元から続く丘らしい起伏と、その先に交錯するいくつかの灰色の道が見える。眼を上げると、東方に当たるらしい空の一角には、朝焼けの茜色が広がりそめている。幕が上がったばかりの舞台のように、これから始まる喜劇ないしは悲劇の予兆だけが広がっていて、まだ太陽は見えない。

 身に着けている薄い白無地のの着物が、繊維のすみずみにまで水気を含んでいるために、ダンテの「神曲」に描かれている地獄の囚人が着るという〈鉛のマント〉のように重く、少し体を動かすだけで、粘土に汚れた裾の辺りから水滴がしたたり落ちる。川から上がった犬のように体全体を小刻みに振るようにして水気を飛ばしてから、両手を髪にやって雫を絞ってみる。顔の表面を撫でながら水が滑り、眉毛や睫、それに鼻先や耳朶の端、顎髯の先端などから、いっせいに透明な液体が迸り落ちる。暫時でも静かに佇んでいると、足元の方から脹を経て、なにか冷たいものが這い上がり、背骨に沿って首筋にまで伸びて来る。着物を素早く脱ぐと、裸体を外気に晒しながら、両手を力いっぱい動かしてそれを絞り始める。絞りながら、ふいにおれ(または、おまえ)は考え込む。〈なぜ、どうして?〉。放水されたダムの水のように、言葉が疑問符の尻尾を意味あり気に振りながら放出される。しかも、言葉の向きが外にではなく、もっぱら内側に向かって……。〈いつから?〉〈ここはどこ?〉〈誰?……。そうだ、いったいおまえは誰なんだ?〉などとつぶやきながら……。痩せ細った自分の体を見詰める。はだけた襟元から見える肋骨の浮き出た胸やへこんだ貧弱な腹、そして青白い筋張った足へと視線を伸ばす。それが自分の体であるという確かな記憶がないので、全てが〈異物〉のように見える。他人の体の中に意識だけが入り込んでいる、そんな感じなのだ。

〈誰だ? 《おれ》という《おまえ》は…‥〉。水気を切った着物を片手に持ったまま、なんでもよい、たといシミのようなものでも、記憶の糸をほぐす手掛かりになりはしないかと、あらゆる部分を仔細に点検してみる.屈める限り屈んで、足の先までも舐めるように見る。しかし、なにも意識の端に引掛かってくるものはなくて、全ての部分が既に記憶の網の目から脱落している。

 悪寒に震えながら、おれ(または、おまえ)は着物を広げ、布地に付いたシワを伸ばして、満遍なく観る。半ば黄味がかった白地の帷子であるが、それを着ている理由が分からない。しばらくして、頭の中に稲妻のような閃光が走る。〈ひょっとして、《おれ》という《おまえ》は死んだ人間なのか?〉。頭から血が引いていき、少し怖くなり、頬をつねってみる。鈍い痛みが走る。〈死んでるようでも、生きてはいるのか〉と思う。意識が霧状に拡散していて、頼りない。〈おれ〉なのに、〈おれ〉でもなく、〈おまえ〉と外から呼びかける声がある。主体としての〈おれ〉と、客体化された存在としての〈おまえ〉が共存しているのだ。

 絞れるだけ水分を落とした着物を、再び身に付けると、また夢幻の中に逆戻りしたかのようになり、自分でありながらも自分の姿とは思えない。もっとも、おれ(または、おまえ)には元々〈自分の顔〉のイメージが欠落している。〈《おれ》という《おまえ》は何?〉と、あらためて考えてみる。〈この《おれ》という《おまえ》は、いったい誰なんだ?〉。瞳を凝らして辺りを子細に見回してみる。大きな欅の黒い幹が目に入る。三抱えはありそうな古木で、その根元寄りのところに巨大な黒っぽいがある。枝の張りが、丘全体を丸抱えにしようと迫っている怪獣の腕のように見える。新しい土の匂いがしている辺りには、さっきおれ(または、おまえ)が這い出て来た穴があり、奥を覗いてみると、桶のような円形の物の一部が、白っぽい木肌を晒している。三メートル径ほどの小さな盛り土は、丘のあちこちにあり、その連らなりが全体としては凸凹のに見える。

 朝焼けは、遠くに広がる山脈の上の空を染めていく。かなり鮮かな朱色が、おれ(または、おまえ)の着物の裾に複写される。ただし胸から上の部分は、欅の枝葉に光が遮られて、朝焼けの影響は受けないせいで、明暗がおれ(または、おまえ)の体を二分している。細かな、何億もの葉の数々が、思いおもいの方角に、あたかも呼吸のためのように震えて、緩かに涼しい風が吹き過ぎる。引きずりそうな長い着物の裾をたくし上げると、裸足で大地を踏みしめながら、丘の上をゆっくりと歩いてみる。まるで長い間寝たきりでいた病人の試歩のように……。盛り土の上に生えたドクダミの葉先に露が溜り、その一つひとつの表面に、朝の光が語りかけている。〈《おれ》という《おまえ》は、誰なんだ?〉。踏み進む土の感触は柔かく、ひんやりとして湿っぽい。おれ(または、おまえ)の着物は重く体を覆い、肌に粘り付く。〈誰なんだ、《おれ》という《おまえ》は?〉。おれ(または、おまえ)は欅の幹の周りを巡りながら、頭の中でも同じ問いを繰り返している。それは外に向かって発せられるのではなしに、ひたすらにおれ(または、おまえ)自身の胸の中に反響し、いくつもの果てしなく内攻するつぶやきのような山彦となって虚ろな放射状の物音を立て続けているだけで、いつまで経ってもまっとうな応えは返らない。

 辺りはすっかり明かるくなり、東方の空の鮮かな茜色も、次第に澄み切った紺青の広がりの中に吸収されていく。黒い無数の点になり、静かに飛び去っていくカラスの群れ‥‥。

〈《おれ》とという《おまえ》は何者なんだ?〉とおれ(または、おまえ)は考え続ける。〈《おれ》という《おまえ》の名前は……?〉。すっかり忘れてしまった名前の重味だけが、背骨にこたえる重さで戻ってくる。生まれると間もなくおれ(または、おまえ)に付けられた記号に過ぎないような、実質とは全くかかわりのないものが、失われた過去を呼び覚すためには、形以上の力を持つようだ。すなわち、名前さえ分かれば、他人との区別もはっきりするはずなのだ。それさえ確かなものになれば、他人に自分のことを聞き出すことも出来るし、役所で戸籍簿を調べてもらうことだって可能なのである。

 『ア』とおれ(または、おまえ)はつぶやいてみる。『エ』とも声に出してみる。そして少し考える。『イ』。考える。『オ』。また、考える。『ウ』。じっと考えてみる…‥‥。どの音にもなじみはあるが、さて〈おれ〉という〈おまえ〉の名前にそのいずれの音があったのだろうかと問い詰めていくと、全てが拡散していき、ぼんやりしてしまう。呪文のように、おれ(または、おまえ)は口の中で言葉をころがし続ける.辛棒強く、何度でもやる。どれといって決め手がないためか、時にはそれら全ての音がおれ(または、おまえ)に閑係あるかのように思われてくる。たとえば、『アトウ』と発音してみると、どこかで聞いた名前のように思われ、もしかするとおれ(または、おまえ)の名前かも知れないと意識してみるのだが、次に『エトウ』とつぶやいた瞬間、すぐ気が変わってしまい、『エトウ』こそがおれ(または、おまえ)の名前なのではと疑い出す。しかし、『イトウ』『オトウ』『リトウ』‥‥、といった調子に念仏のように唱えていくごとに、おれ(または、おまえ)はあらゆる名前の可能性に生きはじめてしまう。おれ(または、おまえ)の過去は、全ての記憶の梱包にくるめて、どこか遠いところに消えている。現にこうして存在していることだけは確かであるのに、あたかも夢の中にでも生きているように、これが現実のことであるとの確信はつかめない。おれ(または、おまえ)の〈過去〉はないかのようでもある。

 〈もしかすると…‥〉。おれ(または、おまえ)は考えてみる。〈体は死んでいるのかも‥…〉。そうならば、〈魂の復活が肉体の復活を錯覚させているのだろうか…‥〉。しかし、それならば頭が痛んでいたり、体中に悪寒が走ったり、気管が痙攣を起こしたりすることはあるまいに‥‥。〈それでも‥‥、肉体を具えた幽霊というものも、あるいは存在し得るかも知れない〉という考えが頭を占め始める。とすれば、〈過去〉を考える意味はないのだろうか‥‥。そんな風に自分を位置付けられるならば、名前を忘れたことに怯えるなどということそのものが、生きている人間の感覚に固執する無意味な反射であるに過ぎなくなる訳なのだ。 

〈それでも、しかし‥…〉と霧の中に漂う思考の振幅に振り回されながら、〈おれ〉という〈おまえ〉の存在が、現にこうして大地に立っていることだけで証明出来るのだと思うと、たといAならAという名前の記号性によって抽象化出来ないにしろ、〈おれというおまえ〉を別次元のなにかとして扱う根拠はないはずだとの、やや確信に近い考えに捉われる。客観化出来ない状態に立たされてはいるが、主体的には厳然として存在の側に位置しているのであってみれば、あとはとにかく一刻も早く〈他人〉に出会うことであると気付く。〈他人〉がおれ(または、おまえ)の存在を認めてくれれば、まるで背中合わせに癒着しているような〈おれ〉という〈おまえ〉の存在も客体化されることによって分離され、おれ(または、おまえ)は〈おれ〉として生きることができるはずなのだ。その他の諸々の疑問符の尻尾に対する詮索は、それから先の問題なのだから……。

 こうして、不安ははぐれかけ、折りしも太陽の円い赤ら顔が、あたかもおれ(または、おまえ)の気持ちを認めたかのように、急に正面の山の上に乗っかったのである.訳もなく陽気になって、金粉のように光の粒子が散乱する青い空をめがけて両手を思い切り振り上げると、胸の中いっぱいに空気を吸い込んだ。だいぶ体が外気になじんだようで、今度は咳込むこともなかった。装束に付着している泥を点検し、出来るだけ目立たないように払い落としてしまうと、おれ(または、おまえ)は徐ろに歩きはじめ、丘の坂道を下って行った。

 麓から先の道は、緩やかな起伏をもって続く畑の中を、いく条もの枝を広げながら蛇行している。岐路に立って迷うと、出来るだけ太陽の方向に近い方……、つまりは東向きを選び取って進む。それは、特になにか根拠があっての行為ではなく、ただ岐路に出会う度ごとに苛立ちながら行き悩むのを避けたいだけの、いわば怠惰な気まぐれに過ぎない。だから、時々は袋小路に入り込み、岐れ道の始まる地点まで引き返さねばならないことにもなるのだった。

 時間意識をなくしてしまった〈おれ〉という〈おまえ〉だが、周りの景色によって、いささかの情報は得られる。秋の半ばを過ぎた頃であるらしく、既に刈り取られてブラシの毛のようになった株跡の目立つ田圃や、重々しく腰を曲げた黄色い黍の畑、それに加えて緑と白が鮮やかな白菜畑などが、言わばありきたりの風景ではあるのだが、おれ(または、おまえ)の目には新鮮な物象の輪郭をきわだたせている。何年もの間、遠く離れていた古里の地に、ふいに舞い戻った者が、おそらくは生々しく感じるであろうような、そんな鮮やかさで、外側の物象の世界が犇めき合いながら訴えかけてくる。キャベツの薄緑色の豊満な丸味の連らなりや、青々と尖った葉先をそろえた葱の畝などを、見るともなしに見ていると、さわやかな気分に満たされる。このさわやかさは、おれ(または、おまえ)の脳の一部を刺激しているのは確かであるが、意識の全てに行き渡っているのでもない。だからだろうか、どこかで見たことのある景色のように思えるのだが、それがどことは特定出来ない。おれ(または、おまえ)は息を深くしてみる。思わず「ああ」という言葉を漏らしてしまいそうな懐かしい匂いだった。

 おれ(または、おまえ)は〈眠り〉を貪り過ぎたようである。しかし、その〈眠り〉の前後の自分が分からず、〈眠り〉始めからどの位の時間を経ているのか、また、何故そんなことになったのか、いずれも分明には出来ない。

 どの位歩いたのであろうか。なにしろ気ままに進んでいるだけなので、目標とてなにもなく、袋小路に突き当たるごとに方向を変えたり、道そのものが複雑にくねっていたりして、そうして歩いていながらも、出発した地点からどの程度に離れられたのかさえつかめないような状態なのであるが、遠くの方から車輪の軋る音が近付いて来るのを耳に感じると共に、そうした方向感覚や距離感の鈍りについての意識は消え去り、おれ(または、おまえ)は体中の血液の流れを一瞬止めてしまったかのように緊張する。誰であるにしろ、おれ(または、おまえ)以外の人間が現われることによって、おれ(または、おまえ)の〈存在〉は即座に認められるだろう。そうすれば、背中合わせに未分化の双子も、どちらかにはっきりと存在証明され、曖昧さから救い出され、もう疑問符の尻尾になぶられたりすることもなくなる。実感のない〈おれ〉意識が、その客観化によって実感のあるものに変えられるかも知れないのだ。もう〈おまえ〉などという対象化からも脱却できて、〈おれ〉がまるごとの〈おれ〉として認知される訳なのだ。

 おれ(または、おまえ)は雑木林の中から走りだし、東方に広がる黍畑に向かって突進して行く。息が切れ、体が熱くなる。ほどなく、朝靄の中から二頭立ての馬車が浮かび上がり、蹄鉄の土を咬む音と車輪のころがる響きが交り合って、次第に高まると共に、二頭の馬の顔と、その後にいる御者の貌とが、鮮明に拡大される。

 手綱を取っている男の頭は、両の耳の上から後頭にかけてわずかに毛髪が残っているだけで、あとはあからさま過ぎるほどの不毛な形態を示し、折りからの陽射しをまともに受けて、丸鏡のように輝いている。彼がどんな男であっても、おれ(または、おまえ)が初めて会うことのできる人間として、いわば〈救いの神〉のような存在であることには違いはない。そう思って視線を飛ばすせいか、男の光る偉大な頭部が、後光の輪に包まれて見える。おれ(または、おまえ)は男に向かって重々しく右手を上げてみせる。

 農道の真ん中に突っ立っている奇態な人間を認めて、馬車は砂挨を立てながら急に停る。手綱を絞られた馬の苦し気な口元が、ほとんどおれ(または、おまえ)の額の上にあり、涎のしたたりをまともに顔面に受けそうな具合である。

「危ねえでねえか!」と男の声が落ちてくる。見かけより若々しい高い調子の声である。意味不明の言葉ではなかったことが、おれ(または、おまえ)には嬉しい。どんな叫びにしろ、人間の声でありさえすればいいと思ってはいたのだが、理解のできる言葉だったので、結果はその期待を上回ったのだ。

「ここは、ここは、どこだね?」。おれ(または、おまえ)の声は、自分でも分かるほどに、かなりの震えを帯びている。

「なんだと」。男はしばらく黙っておれ(または、おまえ)を見下していた。細い目が痙攣したように小刻みに動き、なんとか対象の細部を正確に捉えようと、せいいっぱいに見開かれている。

「怪しい者じゃないよ」とおれ(または、おまえ)は疑いを柔らげようとして言いたしてみる。「どこだね?ここは……」

 二呼吸の間があった。一頭の馬が鼻を鳴らしながらおれ(または、おまえ)の顔を覗く。

「キナサよ」。男は言い澱む。「分かるかい?キナサっちゅうとこが‥‥‥」

「キナサ?」。おれ(または、おまえ)は鸚鵡返してみる。「キナサ‥…。キナサ、キナサ‥‥」

「いってえ、おめはどこから来ただい?」。男はおれ(または、おまえ)の頭から足先まで、平等きわまりない配分で視線を移行させる。

「おれは‥…」と言いかけて、聞かれたことに答えるよりも、〈キナサ〉という地名についての記憶のありかを探ろうと、その方へ意識を集中してみる。

「なにもそう隠さねえっていいだで‥…」と男は、おれ(または、おまえ)の態度を誤解して言う。

「おれはな」。おれ(または、おまえ)は振り向き、今はかなり遠くに退いて饅頭のような形に見える丘を指さしながら言う。「あそこから来たんだよ」

 男はおれ(または、おまえ)の指先を見ていた。

「なに、あの欅のおっ立ってるとこかい?」

「あゝ、その通り」と答えながら、おれ(または、おまえ)は丘の形状から連想されるふかしたての饅頭を食べたいと思う。別に饅頭とは限らないが、とにかくなにかを腹に詰め込みたい。朝日を浴びた丘の辺りは、草の露がいっせいに気化するらしく、一面に水蒸気が立ち上っているのだ。そのために、おれ(または、おまえ)の目にはいよいよふかしたての饅頭に見えてくる。思わず口中に溜った唾液を飲み下す。

「あれはな、古墳の丘とせって(言って)な、今は無縁仏の墓地になっとる丘だでさ。人は住んでねえよ」

 おれ(または、おまえ)は息を詰め、棒立ちになる。

「なんか、おめえ、夢でも見てるんでねえだか?」。男の細い目が、疑問符の尻尾を振り始めている。

「なんと言われても、おれは確かにあの丘から来たんだよ」

「じゃあ、墓場からかい?」

「墓場?」。おれ(または、おまえ)はしばらく絶句し、続けて言う。「そうさ、墓場からさ」

「そんじゃ、おめは幽霊っちゅう訳かいなあ」。男はそう言うと声高に笑いだす。その口の周りに白い髯が密生しているために、どの程度本気で笑っているのかはつかめないが、とにかく目だけは一本の条になっている。

「まあ、なんだか訳が分からないがね、そう言われれば、おれは本当の幽霊って奴かも知れないな」

 御者は、急に笑い止めると、カナツボマナコをせいいっぱい見開き、表情を硬くしておれ(または、おまえ)を見詰めた。頭の上で馬の一頭がいななく。男は口の形を〇型にしたまま、動画が急に静止画になったように黙っている。

「なにか、食べる物、ないかな」。おれ(または、おまえ)はこらえていた言葉を吐き出す。硬くなった空気をほぐそうとの気遣いもある。

「ねえな」と男は素っ気なく言い、すぐまた自分の口調の冷淡さを反省したらしく、「豆粕でよけりゃ‥‥」と言い添える。

「なんだっていいさ。口に入る物ならば……」

 男は後ろの荷台から円形の物を砕いておれ(または、おまえ)に差し出す。

 もらった豆柏にかぶりつくと、馬が目を丸くして見詰めるので、馬の顔を避けながら食べる。馬にしてみれば、馬糧の豆粕が気になるのは当たり前のことではあるが‥‥。

 あの丘が墓地であることがはっきりとした今になっても、おれ(または、おまえ)という人間の「出自」がどこであるのか分かった訳ではない。堅い豆粕を噛み砕きながら、おれ(または、おまえ)は頭の中にも消化不良を起こしそうな難問を飲み込み続けている。

「考えようによりゃあ、おめは運が良かっただかも知んねえだでよ」と男は言う。「もしも幽霊でねえちゅうこったらば、死んだはずが生き返ったってことになるだからな」

「生き返ったって……」

「そうさ、万が一の場合がよ。たまにはそういうこともあらあな」。男はなんとなく納得したらしい口調になって言う。「それで、なにかい、おめえの名前は?」

「名前」。おれ(または、おまえ)は食べ掛けの豆粕を頬張ったまま、声を呑んでいた。血が頭に上り、意識が蒸発する。

「どうしたい、若いの、名前も忘れちまっただかい?」。男は親切にもそう言ってくれる。

「そうなんだ」とおれ(または、おまえ)は応えた。「忘れてしまってね、なにもかもなくしてしまって、脱殻みたいなものなのさ。丁度この豆粕みたいにね。それでも、あんたはおれの〈存在〉を認めてくれるだろうな?」

「なんでえ?その、〈存在〉を認めるってのは?」

「つまり、おれが人間であって、確かに生きてここに立っているってことを、認めてもらいたいんだよ」

 男は禿頭の汗を黄色い手拭いで拭いながら、おれ(または、おまえ)を優しい目で見詰めた。

「ああ、間違いなく人の形をしている。おめが人間でなきゃあ、人間の形をしたお化けって訳だけんど、その点は認めたるで」

「お化けだなんて、そんな殺生な言い方しないでさ……」

「まあ、話がさ……。こうしておらも長生きしてきただが、墓から出て来たなんてのに会うのは初めてだでな、どうしたもんだか、弱っちまってるだよ」。男は腕組みをして、おれ(または、おまえ)の足元に目をやりながら、頻りに考え込んでいるようである。たぶん足があることを確認しているのだろう、とおれ(または、おまえ)は思う。幽霊には足がないと信じている目つきだった。

「ア・エ・イ・オ・ウ」。おれ(または、おまえ)はつぶやいてみる。かつては符号に過ぎなかった言葉が、今は身分素姓を証明するになっている。そう思うから、何度も繰り返し唱えてみているのであるが、母音の列は記憶の中にある余韻のようなものとしての親しみを響かせているだけで、いくつかの子音との結び付きによって発せられていたはずの名前は、依然として思い出せはしない。

「ところで、これからどうするつもりだね?」。かなり間を置いてから、御者がまた問いかけてくる。

 おれ(または、おまえ)は両手を体の両脇に大きく開いてみせる。声に出さなくても、男にはその意味が分かるはずなのだ。しばらく相手の強い凝視に体が晒される。おれ(または、おまえ)は立ちすくむ、蛇に睨まれた蛙さながらに……。

 やはり思った通りだった。男も黙ったまま、静かに頷いている。禿頭に反射する日光が眩しくて、おれ(または、おまえ)は相手の顔をまともには見続けられない。

「どうしようにも、手掛りのねえことにゃなあ」と男は言う。

「手掛かり……」。おれ(または、おまえ)はつぶやく。

「そうだ、いいこと考えたで……。こういう時こそ戸籍係だいな。役場へ問い合わせてやるからさ、とりあえずはおらへ行かねえかい?」

「そうしてもらえれば……」。おれ(または、おまえ)は先細りの道に立たされ、声までしぼむ。「すまないが、出来るだけ力を貸してほしい」

「いいとも、いいともさ。おらと出会ったのがなにかの縁さな」。男は穏やかな声で応える。「さあ、こっちに乗りない」

 おれ(または、おまえ)は男の横に滑り込み、馬車に揺られることになる。痩せた二頑の馬は、深い溜息を付いてみせてから、徐ろに歩き出し、しばらくするとなぜかひどくあえぎ始める。

「妙だいな」と男がつぶやく。「おめえが乗ったらば、途端にこのざまだで‥‥。馬に嫌われたってもんだでない……」

 道はふくらんだり伸びたりしながら、いくつもの迷路を用意して、どこまでも羊の腸のように続いている。馬車は時折り穴ぼこの中へ落ち込み、その度に骨組みが危く崩れるほどに軋み、なにかにしがみついていないと、おれ(または、おまえ)の体も大地へ叩き付けられかねない。揺られながら、男は頻りになにかつぶやいているが、騒々しい雑音のために消されることが多く、ほとんど聞き分けられない。それでも、「幽霊じゃなきゃあ、生き仏だわさ」と繰り返し彼が言っている言葉の断片だけは耳に入る。人間離れのした存在としておれ(または、おまえ)が規定されているうちは、いつになっても実在の人間として認められない心配がある。〈なんとかしなければ‥…〉。おれ(または、おまえ)は焦ってしまう。だいたい、〈キナサ〉という地名はまるで記憶にないようだし、そうかと言って、別のはっきりした地名が思い出せるわけでもない。

 馬車の上から見える一瞬に過ぎ去る景色さえもが、ひょっとするとなにかしらおれ(または、おまえ)の〈過去〉を解きほぐす貴重な記憶の糸目になるかも知れないと思うと、見逃がすことは出来ない。おれ(または、おまえ)は目を剥いて、変化しながら展開する景色に対峙する。遠くにはいくつかの山が見える。山の形などはどこかで見たように思われるのであるが、元来山というものは形そのものが類型的であるので、植生など、細かな区別ができない以上は、取り分けての手掛りにはならない。近くに続いている畑や田圃……。それもただ平面的な広がりを見るだけでは特徴がないみたいなもので、それにより〈過去〉を引き戻そうとしてみても、逃げて行く幸運の女神の後ろ髪のようにつるんとしていてつかみようがない。ちょっと見た目には、いろいろな物が、新鮮におれ(または、おまえ)の注意を引き付けるのであるが、よくよく見詰めると、それぞれが細部の点や線に違いがあらわになり、たちまち色褪せてしまう。たまたまの景色は、常に忘れられるためにある。背中合わせの〈おれ〉と〈おまえ〉はまだ分離されないままである。

 そのうちに部落に近付くと、家畜や人間の姿が目に映りだす。〈あの顔は誰かに似ている。確かに輪郭や口元や鼻の穴の感じが…‥〉。馬車にすれ違う人間の顔は、すっと近付き、さっと消える。瞬間に頭に描くクロッキーは、細部において曖昧であってはならないと思うので、おれ(または、おまえ)は馬車から体を乗り出すようにして対象を見詰める。〈あの目は、どこかで見たことがあるぞ〉と思っても、〈どこで?〉という核心の問いには答えられないので、おれ(または、おまえ)の〈記憶の精度計〉の目盛りを撫でる針は、ぶるぶるっと震えを帯びると共に、たちまち零の表示に逆戻りしてしまう。対象の顔から、外発的におれ(または、おまえ)の内なる顔を作り出そうとするよりは、たとえば、父とか母とか、そういう身内の人間の具体的な貌を思い出す方がよいだろうとも思いつき、可能な限りおのれの脳を〈記憶の現像液〉に浸してみるのであるが、取り出したフィルムは真っ白かさもなければ真っ黒かであって、つかみどころとてありそうにない。のっペらぼうな顔の記憶は、おれ(または、おまえ)の〈名前〉や〈住所〉や〈職業〉と同様に、濃い霧の果てに垣間見るイメージさながらに朦朧としてしまい、ふわふわしているだけである。おれ(または、おまえ)という〈存在〉は、この男により確認されたはずであるが、〈名前〉とか、〈住所〉とか、とにかく身元を証すものがないために、〈どうでもいい存在〉のようにたよりなく、今にも消えてしまいそうなのだ。

 

 やがて馬車はとある家の前に止まる。〈メモリアルホール・トマリ墓石有限会社〉と青地に白抜きで書き付けられた大きな看板が、入口の柱に懸かっている。ホールといってもちっぽけなバラックに過ぎず、トタン葺きの片流れの赤錆の浮いた屋根や、黒っぽく変色して凸凹だらけの板壁も、しゃれた看板の文句に比べ、ひどくくたびれている。戸が開きっ放しになっているので、家の奥まで見通せるのであるが、彩光の調子が悪いせいか、内部は穴蔵さながらに薄暗い。

「ここがおらだでな」と男は馬車から降りしなそう言う。御者は立派な顎髯を左手でしごき、胸をせいいっぱい張って威厳を示したつもりであるが、地面に降り立ったところで、体が小学生並みに小作りなために、なんとなく冴えない。黒シャツに黒ズボン、彼のこの出立ちから、男の性格とか思想傾向を推察するのは無理なことかも知れない。光る頭の大きさが、御者台の上に腰掛けていた時よりも、さらに一層不均衡な感じに目立つのである。

「かなりの家だね」。おれ(または、おまえ)はほかに言いようがないので、そんな曖昧な言葉で繕った。〈かなり〉という諸刃の意味をきらめかせた単語の効果は、幸いなことに、男の耳の穴が、これも小作りであったためか、悪い方の意味には響かなかったようである。

「立派なもんだらずが(ものだろうが)‥‥」。男は例の通りに目を細めてみせる。それから入口の看板を背伸びしながら示して、「おらはトマリだ」と自己紹介に及ぶ。

「トマリ」とおれ(または、おまえ)は復唱する。

「いい名前だらずが(だろうが)……」

「そうかね」。おれ(または、おまえ)には比較の対象がないので、名前のよしあしも分からない。

「とにかくさ、名前がねえより、あった方がいいだよ」

「それは、その通り」

「おめも早く名前をめっけなきゃな」

 それから、トマリは車と馬を半分に割って、車の方は入口の近くの壁際に寄せ、二頭の馬は家の内部へ引き入れてしまう。

「馬と同居かね?」。おれ(または、おまえ)はびっくりして聞いてみる。

「女房が死んじまっただでなあ‥…」。男はつぶやくように言う。「ひとりは寂しいし、馬が大好きでよ。特にあの匂いがたまらねえんだ」

 なるほど、薄暗がりの中から漂いきたってほのかに鼻孔をくすぐるのは、馬特有の臭いなのである。

 母屋に隣接している小屋の入口から覗き込むと、いくつかの墓石らしいものが見えてくる。〈メモリアルホール・トマリ墓石有限会社〉という看板と墓石によって、おれ(または、おまえ)にはこの男の職業が分かる。トマリは墓作りと葬礼の専門業者であるらしい。黒づくめの服装も、似合いのものだったわけだ。よく見れば、部屋の壁際にはいくつかの葬儀用の造花もある。

 しばらくして奥から出て来たトマリは、おれ(または、おまえ)の服装のことについて「変だ」と言い出す。彼の目から見れば、おれ(または、おまえ)は風変わりな格好をしているに違いない。髪も髭も伸びるに任せ、黄色味を帯びた白い帷子様の着物は、裾を引きずりそうになっており、あちこちに泥になじんだシミが散らばっている。その上、裸足で歩いているのである。

「どうも、さっきから誰かに似ていると思っていただが、おめはヒカルじゃねえかいな。役場の書記をしていた男なんだが…‥」。男はおれ(または、おまえ)の顔を間近に観察しながらそう言う。

「ヒカル?」

「そうだ。おめはヒカルでねえか?」

「ヒカル?」とつぶやいてみる。「ヒカルね」

「そんなに考えなくてもさ、おめの名前ならさっと分かりそうなもんじゃねえだか?」

「そうありたいんだが、実はヒカルなんて思い出せないよ」。おれ(または、おまえ)は潜水の限界に達して海面に浮上した鯨みたいに息を吹き出しながら言う。

「そんなこたあねえぞ。おめはヒカルに違いねえ。はじめはなんせそんなお化けみてえな格好してたで見間違えちまっただが、今はヒカルだと分かっただよ」

「ヒカルなんて覚えがない。他人の空似って奴じゃないのかな」

「そんなこたあねえってさ」と男は禿頭のてっペんを響かせるような声で言う。「なんならヒカルの家へ行ってみるかい?」

「うん、行ってもいいが……」。おれ(または、おまえ)はもうどうでもいいと思う。

 そして、その時、急に妙なことに気付いたのだ。太陽は斜めの位置に上がって、かなり強い光の粒子を辺り構わず散らばしている。男と並んで立っているおれ(または、おまえ)は、東向きの半面に陽光を受けているわけで、影が地面を黒く染めているはずになっている。〈メモリアルホール・トマリ墓石有限会社〉の庇の先が映っている辺りに、二人の足が三十センチほどの隔たりをもって並んでおり、トマリの影は実体をより縮小した形に印されているのに、おれ(または、おまえ)の足元からはほとんど影らしいものは見えないのである。おれ(または、おまえ)は頭だけでなく目もどうかしてしまったのだろうかと疑ってみた。だが、よくよく観ると、ごく薄い形ではあるが、かすかに、水に映る魚影のようなものが倒れている。

「影が、……影が……」。おれ(または、おまえ)は吃音者のように絶句していた。

「どうしたい?」と男がおれ(または、おまえ)の顔を覗き込むように見る。

「影が、影が薄い」。自分の足元を指さしてみせた。

「縁起でもねえ」と男は言葉を吐き出す。「おめの目がどうかしてるだで、影なんかどこにも見えねえで…‥」

「そんなことはないよ。あんたのは、ほれ、あそこにあるじゃないか」

「気にするこたあねえって。ただ位置が悪いだけだでさ」。男は謎めいたことを言う。

 同じ人間が全く同じ条件でいながら、影に差があるというわけがない。とすれば、トマリが人間であることは間違いないのだから、やはりおれ(または、おまえ)の方が人間離れのしたものであるということになるのであろうか。ぶり返した病のために、徐々に熱が出始めてくる時のように、次第に不安の芽を育てだしていた。

「トマリさん、ほんとうのところ、おれってのは誰なんだ?」

「気にすると禿げるで」とトマリは禿頭を撫でてみせる。

 そんな彼の軽口にも、おれ(または、おまえ)は笑えない。

「どうしよう、おれは、おれは、誰なんだ」。目の前にちらちら蠢くのは、あの疑問符の尻尾である。

「さ、くよくよ考えねえで、おらと一緒にヒカルのとこさ行くべえや」。男はおれ(または、おまえ)のつぶやきを無視して言う。「ヒカルそっくりなんだでさ、なんか手掛かりはあるっちゅうもんだ」

 それからしばらくして、男はさっき引き入れたばかりの馬を一頭だけ引き出してくる。暗い屋内から明かるい戸外へ顔を出した馬は、一瞬いやいやをする赤ん坊のように首を振り、細い目が怨めしそうにこっちを見る。既に休息モードに入りかけていた馬なのだ。鞍を付け終わると、男はおれ(または、おまえ)を鞍の後ろの馬の背に押し上げ、自分は鞍の上にまたがる。馬はやけくそみたいに土を足掻いてとび出す。

「しっかりつかまってな」。男が怒鳴る。

 おれ(または、おまえ)はトマリの細い腰にしがみつく。馬の背は、意外に堅く、地面を蹴る衝撃がじかに尻や腰にくる。揺られながら、墓地の丘のことを思い出している。今のところ、あの丘だけがおれ(または、おまえ)のたよりである。なにはともあれ、あそこから出て来たことだけは確かなのだから……。しかし、〈なぜ?〉〈どうして?〉などと疑問符の尻尾がちらつき始めると、その先は闇で見えない。

 間もなく、馬が杉皮屋根の小さな家の前に停ると、先にとび降りたトマリが、手を差しのべて助け降ろしてくれる。

「ヒカルの家だ」と彼が言う。

 スリガラスの嵌った引戸をあけると、そこが狭い玄関になっていて、上がり框に続く板の間は白い埃で汚れている。

 トマリは、何度も奥に向かって声を掛けてみるが、反応はない。

「やっぱり、いねえのかな」と男はつぶやく。「だけんが、ちっと上がってみるか」

「留守に入ってもいいのかね、他人の家へ……」。咎めるように言ってみる。

「構ったことじゃねえ」。トマリは地下足袋を脱ぐと、身軽に奥の間に消える。

 取り残されて、おれ(または、おまえ)は玄関前にぼんやり立っている。部屋の中からの黴臭い臭いが漂ってくる。平屋の造り全体を、かなり子細に観察してみるが、心当たりがない。向きを反転して、外に視線を投げると、雑木のまばらな茶褐色の林が見える。もしも「ヒカル」が自分ならば、景色にいくらかのヒントがあるかも知れないとも思う。

 数分もした頃、甲高い男の悲鳴が奥の方から聞こえてきたので、汚れ放題の裸足のまま、溜った埃を長い帷子の裾で巻上げながら、声のする方へ駈込んで行ってみる。畳十三枚ほどの部屋があって、そこでトマリは腰を抜かした格好で、なにやら言葉にならないわめき声を放射している。

「どうしたね?」。おれ(または、おまえ)は少し息苦しくなり、かすれた声で尋ねる。

 男は口元を金魚のように動かしているばかりで、意味が見えない。トマリの肩を両手で抑え、落ち着くように声をかけてみる。

 やかがて、彼の唇に意味が戻る。「いるだよ、いるだよ!」

「なにがいるの?」

「ヒ、ヒ、ヒカルがさ、ほ、ほれ、あすこに寝てる」。男は部屋のすみを指さしながら続ける。「おめと寸分違わねえような奴が‥…」

 瞳を拡げて見回してみるが、薄茶化た畳や、黒くくすんだタンスは目に入が、それらしい人物は影さえ見当たらない。

「髪や髭は違うけどな、あとはそっくりだで……」。トマリは見ているようなことを言う。

「どこに?」。おれ(または、おまえ)はあわてる。「誰もいないはずなのに‥‥」

「馬鹿こくでねえだ。ほれさ、そこに、そこの格子のそばにいるでねえか、おめそっくりがもうひとり‥‥」

 畳の上には、この家の主が脱ぎ置いたと思われるなにかのユニホームみたいな紺色の上っ張りと、黒っばい背広の上下が投げ出されてある。

「着る物があるけど、人間は見えないよ」。自分でも驚くほど消え入りそうな声である。トマリが夢を見ているのでなければ、おれ(または、おまえ)の方がおかしいということになる。あるのかないのか、ものごとに対する判断が出来ないところに弱みを持っているおれ(または、おまえ)は、いわば迷路に佇んで行き悩んでいる旅人のようなものである。

 トマリは、急性の痴呆症を患った者のように、また口をあけたままおれ(または、おまえ)を凝視している。

「その男ってのは、今なにをしているのかね?」。間があき過ぎ、きまりが悪くなって、トマリに聞いてみる。

「おめ、本当に見えねえだかい?」。相手は問いには答えず、別なことを問い返す。

「まあね」と強いて感情を押し殺した声で言う。

 秋の風がおれ(または、おまえ)の胸の中を過ぎる。足許をすこし見つめ、それからまたトマリの顔に目を移す。

「こうして、ぐっすり寝ているヒカルが見えねえとは‥…」。トマリは、おれ(または、おまえ)を見すえる。

「仕方ないよ」。口調は投げやりになる。

 どこからともなくなにかが腐るような揮発性の臭いが漂ってきて、おれ(または、おまえ)は息苦しくなり、鼻の粘膜が刺戟され、大きなくしゃみをする。

「静かに」。トマリが小声になる。「おらには分からねえだよ。ほんとうのヒカルがここにいるとなると、そんじゃあ、いってえおめは何者なんだいや?」

「それが分からないから、困っている」

「おかしな話だで」と男は言う。

〈おかしな話だ〉。おれ(または、おまえ)もそう思う。

「それにしてもさ、ヒカルの奴、よく寝てけつかるでな」。トマリは脱ぎ置かれた服の辺りを覗き込みながらつぶやく。「まるで死んでるみてえだでよ」

「死んでいるって!」

「そうじゃねえけんど、静か過ぎるだけよ」

「息はあるのかね」

「やなこと聞くじゃねえか。息がねくなりゃ本当に死んじまうわさ」とトマリはささやく。寝ている者を起こさないためであるかのように‥‥…。

「役場の書記だとか言ってたが、ほかに縁者はいないのかね?」

「あゝ、いねえことになっとるだがさ……」。彼は言葉をぼかす。「とにかく、今はひとりもんよ。書記を辞めてるだが、辞めてからグレちゃいやがって、毎日酒ばっかし食らってるって噂だでな」

 そう言えば、部屋中に洒瓶がいくつかころがっている。

「なぜ書記を辞めたのかね?」と役場のユニホームらしい紺色の上っ張りを見ながら聞いてみる。

「詳しいこたあ、分かんねえだがさ、おめが這い出て来たっちゅう丘のところへミサイルの基地を造るちゅう話が出てな、なんでも村長と喧嘩をこいたとかだでな。元はそんなに血の気の多い方じゃねかっただけんな、奴は基地反対を叫んで騒いだってことよ。急に火山が爆発するみてえにカッカしたらしくてなあ‥‥‥。人間どうなるだか分かんねえもんだなんて評判が立ったくれえのもんよ」

 おれ(または、おまえ)は部屋の内部を隈なく見回す。低い紙張りの天井は薄茶色に煤け、その所どころが破れている。立て付けの悪いガラス戸は、柱との間に埋めようのない隙間を作り出しているし、畳の目の頭はいちいち削り取ったようになっており、全体にささくれが出来ている。トマリには見えて、おれ(または、おまえ)には全く見えないヒカルという人物に対して、具体的なイメージはなにも喚起されないにもかかわらず、似ているというトマリの証言があるために、次第にのっぴきならない関心を懐きはじめ、おれ(または、おまえ)はその部屋にある全ての物に観察の目を開いている。もしおれ(または、おまえ)がヒカルならば、なにかに見覚えがありそうなものなのだ。

 部屋の隅に、数冊の本が置いてある。『日本国憲法』や『自由への道』・『存在と無』・『シィジホスの神話』などという背表紙が読める。

 たまたま畳の上になに気なく投げかけた視線が、この部屋の主の背広に集中し、そのポケットからはみ出ているノートの一部を捉えると、自分でも不思議なほどの素早さで、おれ(または、おまえ)はそれを取り上げている。

「いけねえぞい」とトマリがすかさずおれ(または、おまえ)に向かって言う。「他人様の物を盗るとな、この村の掟によって罰を受けるだで……」

「それでもいいよ」とおれ(または、おまえ)は不貞腐れたように言う。「捕まえたければ、捕まえなよ。あんただって勝手に他人の家へ入り込んでいるんだ。捕まったらさ、おれはヒカルだって言ってやるんだ。おれがヒカルそっくりだと教えてくれたのはあんただったからな」

「開き直るだかい?」。トマリはいずまいを正す。「だけんど、おめはヒカルでねえだでよ」

「ヒカルじゃないという証拠は?」

「証拠だと?」。トマリは聞き返す。「なにこいている(言っている)だかさ。おめがヒカルに似ているにしても、ヒカルでねえんだから仕方ねえだ」

「でも、人間はどうなるか分からないって、さっきあんたが言ったばかりじゃないか。ひょっとするとさ、おれがヒカルで、あんたがヒカルだと思ってる奴は、実のところ幽霊かなんかだったりして‥‥」

「そんな馬鹿な」。トマリはそこで言葉を詰まらせたきり、黙り込んでしまう。

 おれ(または、おまえ)は柱に凭れるようにして腰を落とすと、両足を前にそろえて投げ出したまま、ノートのページを開いてみる。いきなり〈生キナガラノ死〉とある。ドキリとして文字の列に目を張り付けている。

「なにか、書いてあるだかい?」。トマリが禿頭をせり出してくる。どうやら彼は文字が読めないらしい。そこで、その葬儀屋のために、ノートの言葉を読み上げてやることにする。

〈生キナガラノ死。縦卜横トノ網ノ目カラノ脱出。俺ノ人生ノ意味、マタハ無意味ニツイテノ考察。

 レッテルノ顔。縦ノ顔、横ノ顔。紙卜印。紙卜印。形式ノ顔。顔ノ形式。形式ノ影ノ死。生キナガラノ死。

 ハジメニ意味ノナイ言葉ガアッタ。祖先ノ墓地ノ丘ニミサイルノ基地ヲ作ロウトシティル奴等ハ絶対ニ許セナイ。先頭ニコノ地方ノ権力者・〈県知事〉と〈オカミ村長〉ガイル。ミサイル基地ヲ作レバ、平和憲法ヲ改悪シヨウトシテイル中央ノ権力者タチカラ補償金ガ出テ、村ハ金持チニナルト村長ハイウ。オカミハ、ソノ金デ村中ニ核シェルターヲ作ルツモリデイル。シカシ、俺ハ欅ノ丘ノ緑ヲ保護シ、古墳ヲ愛護スルタメニ戦ウ。『憲法九条ヲ守レ、不戦ノ誓イヲ忘レルナ』ト、オレハサケブノダ。決戦ノ時イタレリケリ。サラバ、俺ガ死ヌルカ、オカミガ消エルカ。

 俺ハ辞表ヲ書イテ役場ヘ行キ、『祖先ノ魂宿ル古墳ヲ守レ。ミサイルノ基地建設ニハ絶対反対!墓地ヲ基地ニスルナ!』ト叫ンデヤッタ。村長ハ机ノ上ニアッタ地球儀ヲ投ゲツケ、『ヒコクミンハ地球カラ出テ行ケ』ト怒鳴ッタ。『虎ノ威ヲカルオカミコソ出テイケ』ト叫ンデ、オカミノ顔ニ辞表ヲ叩キ付ケタノダガ、トタンニ腕ヲ咬マレテシマッタ。

 縦卜横=網ノ目→破壊→脱出=脱皮=革命。終ワリニ意味ノナイ言葉ガアッタ。忘レラレナイコトハ……〉

 ノートの文字は、そこまできて書痙の筆跡のようにひん曲がりながらかすれているために、その先はどうしても読み取れない。なにかもっと書きたかったらしいが、急に意識をなくしたのだろうか、書き続けられなかったようでもある。

「この男はな、さっきも言った通りに、元はおとなしい大将だっただが、この頃急に頭が変になっちまったらしいでなあ」とトマリが顎の辺りを頻りに撫でながら言う。

「でも、変になったのはオカミという村長の方じゃないかな、金に目がくらんで……」とおれ(または、おまえ)が言った。

 

 

        U

 

 こげ茶色の馬の背中に揺られながら、おれ(または、おまえ)は、〈ヒカル、ヒカル〉と頭の中で反芻し、外の景色が見えなくなるほど考え込んでばかりいる。ヒカルという人物についての記憶は全くなかったが、トマリの話から推して、外貌がよく似ているらしいので、この男に対していくらか親しみを懐き始めている。さらにノートの文面を読み取ってからは、一層ヒカルが自分との距離をせばめるのだった。よくは分からないが、ヒカルの赤裸な内面の世界が匂い立つように思われ、それはおれ(または、おまえ)の内部に奥深い木霊を呼んでいる。縦や横の関係にがんじがらめになって身動きも取れない状況からの脱出を試みている彼は、縦にも横にも接するものがないような状況へ向かいたいと憧れているのだ。それは、座標軸の上での位置が定まらず、ふわふわとして曖昧な〈存在〉になるように志向しているということなのか。おれ(または、おまえ)は、そこまで考えて息を詰める。それこそまさにおれ(または、おまえ)の現在の立場なのではないか。〈なんたることか〉。体が震え立った。〈おれ〉と〈おまえ〉が癒着したままで、訳の分からない存在の曖昧さに首まで浸かっているおれ(または、おまえ)……。しかし、これがヒカルのほんとうに願った姿であったのだろうか……。

 しばらくの間、おれ(または、おまえ)はトマリとは口をきかずにいる。時々、相手がなにか声をかけるのだが、音が風に流れてしまって意味にならない。ちりじりになった言葉の断片を継ぎ合わせることができるほどには、おれ(または、おまえ)の側に準備や構えがない。換言すれば、それほどにおれ(または、おまえ)自身の内部の声を聞くことに集中していたのである。

 村はずれのトマリの家に辿り着いた時、太陽は既に中天にあった。

 

 

        V

 

「おめがヒカルでねえとなりゃさ、やっぱし役場へ行って調べてもらうよりねえな」

「他に手はないだろうか‥‥‥」。行く手を迷路に阻まれたみたいに心細くなる。

「おらの頭がこんがらかっちまってさ、どうしたもんだか見当も付かねえんだがよ、まあ、役場で調べがつきゃあ、おめの素性も分かり、なんとかなるわさ」。陽焼けして艶のある顔を上に向けて、その小柄な男はおれ(または、おまえ)を見詰める。長い髯の間が二つに割れ、白い歯が一瞬こぼれる。「今はさ、そんなことで落ち込んでる場合じゃあねえんだでな」

「そうなんだが……」

「まあ、あわてたこたぁねえだ。おめも腹ぺこだらずにさ、役場へ行くのは昼飯を食ってからってもんさね」

 トマリはおれ(または、おまえ)を薄暗い家の中に案内してから、さらに奥の台所でガサゴソなにかやり始める。姿は見えないが薪の燃える煙と一緒に香ばしい匂いが漂ってくる。おれ(または、おまえ)は限界に達していた空腹のために、頭がぼおーっとしている。 それから間もなくこの家の主人によって運ばれてきたものは、卵チャーハンだった。鼻先に置かれた深皿の中から、白い湯気が上がっている。最前遠目に見た饅頭型の丘を思い出して、生唾を呑み込む。空きっ腹にはどうにもたまらない匂いだった。トマリが「やれや」と声をかけるやいなや、おれ(または、おまえ)はものも言わずに数秒で一気に平らげる。懐かしい卵の匂いがする。食べることに夢中で、呼吸するのも面倒なほどだった。

「すげえ食欲」とトマリは鼻先で花火を焚かれた犬のようにびっくりマナコになって、こっちを見つめる。おれ(または、おまえ)は溜息をついていた。

 昼食後、「〈親が死んでも食休み〉ってせってな(言ってな)、食後の一休みはおらの習慣だでな、役場へ行く前に、これから昼寝をするだがさ、おめえは自由にしてくつろいでいて、ええだぞ」とトマリが言い残し、奥の寝室に籠もってしまった。

親から取り残された幼子のように、おれ(または、おまえ)は、手持ちぶさたになり、しばらくぼんやりしていた。自由にしていいと言われても、なにもすることがなくて、かえって不自由だった。〈自由が最高だなんて言ってる奴の顔が見たいものだ〉とも思う。しかし、腹ごしらえができたせいか、なんとなし幸せな気分になる。少し気持ちに余裕もできたので、部屋のあちこちを見回してみた。食堂は土間に木製のテーブルと椅子を二脚並べただけの、簡素なたたずまいだった。壁際に押しつけられた食器戸棚が、唯一の家具らしいもので、台所とおぼしき奥の暗い部屋からは、いまだに薪のくすぶったにおいが絶えず流れてきていた。仕切られた板壁の向こう側には例の馬たちがいるらしく、時折鼻を鳴らす音や、床板を足掻く物音がする。馬のにおいは、幸いなことには、焚火の煙のそれにかき消されていた。

 そうして落ち着いて考えてみると、最前踏み込んだヒカルの家でのことが気になりだす。〈ヒカル〉という名前には、特別の記憶はなかったが、おれ(または、おまえ)と顔がよく似ているらしいことと、その生き(または、死に様)とが気がかりなのだ。古墳の丘がミサイルの基地になることで、ヒカルがどんな不利益を被るのだろうか。命を賭してまで反対するほどの理由が理解できない。

 その時、車の近付く物音がしたので、外を眺めていると、やがてドアが開いて、ラベンダー色のワンピースを着た少女が飛び込んできた。しきりにトマリの名を呼んでいたが、おれ(または、おまえ)と顔を合わせた途端に悲鳴を上げた。そして、一呼吸間があってから、「リョウじゃない、あなたは……」と彼女が叫んだ。「よかったわ、リョウ、生きていたのね」

「リョウ?」

「そうよ、あなたは、リョウよ」と彼女が言う。「わたしのこと、忘れてしまったの」

「きみは、どなた?」

「まあ、信じられないわ、ハルカのこと覚えてないなんて……」

「ハルカ」

「そう、わたしの名前よ」

「ハルカ」とおれ(または、おまえ)はつぶやいてみる。頭の中が海綿状態だった。〈ヒカル〉の場合と同じように、〈ハルカ〉にも全く記憶がない。

「ああ」とおれ(または、おまえ)は深く息を吐き、それ以上は言葉が出せなくなる。目の前に立っているラベンダー少女に既視感がないだけではなく、親兄弟など家族の顔さえ浮かんでこないのだ。現在はあるのだが、振り向くべき過去は真っ白になったままだった。

 仕方がないのでおれ(または、おまえ)は、古墳の丘から這い出てきた経緯をハルカに打ち明ける。ミズスマシの背中のように黒くて大きな彼女の瞳が見つめている。

「だから帷子を着ているのよね」とハルカが頷く。「気の毒なあなたは、もしかしたらあそこに埋められてしまったのよ」

「誰に……」

「多分、オカミ村長に……」

「なぜ村長がおれを……」

「それはね、父がオカミを買収したせいかも知れないのよ」

「買収って?」

「長い話になるけれど……」と言って語り出したハルカの言葉は、意外な内容だった。彼女の父親は県知事という要職にあり、他国からのミサイル攻撃に対する防衛のための迎撃用ミサイル基地を造ろうとしている政府の方針に沿う形で、この地方にその設置場所を探していた時に、たまたまこの村の無縁墓地の丘に目を付けたらしい。ところが、間もなく激しい反対運動が起こり、そのリーダーのひとりがハルカと同じ県庁所在地に住んでいるリョウと、もうひとりがこのキナサ村に居る青年だった。弥生後期からの古墳がある丘なので、歴史的な価値もあり、神聖な場所だった。〈聖地を守れ〉という学術的な立場のひとと、〈戦争反対〉をとなえる若者とが手を携えて、反対運動が盛んになっていた。その一方、基地を誘致することができれば、県とこの村に国から莫大な補償金が入ることになっている。珍しいミサイルのある村としてキナサの名が立ち、見物客が押し寄せるかも知れない。そんな経済効果を考えれば、この寒村にとっては発展するための大事な機会なのだった。賛成派の先頭に立ったのが、県知事をはじめ、この地方の保守派の国会議員とキナサの村長だった。村は賛成派と反対派に分かれ、この二派の対立が深まり、大騒ぎになっていた。そこで反対運動の封じ込めを企んで、二人の活動家を権力側が消そうとしたものらしい。しかし、そこには大変な問題が絡んでいた。二人の青年は、実は異母兄弟で、しかも父親がオカミ村長自身だったのだ。リョウは愛人の子であり、もうひとりは正妻の子だったのである。村長とて鬼ではなく、人の子の親なので、子供を犠牲にするのにはかなりの葛藤があったのだが、国や県からの圧力もさることながら、貧乏村の経済復興のためにも村長としての立場上何かしなければならなくなり、板挟みの中で考え出した案というのがまことに奇抜なものだった。

「二人を生き埋めにして葬ってしまったんだけど……」

「それって、殺人じゃないか」

「でも、仕掛けがあったのよ」と彼女は言った。「ほとぼりがさめるまで、文字通り〈永眠〉させて、〈白雪姫〉みたいにいつかは生き返るようにしたのよ」

「ほんとうなのかな」

「オカミは、わたしの父に対しては、活動家二人を葬ったように見せかけなければならなかったの」

「いや、そのことより、葬られた側の方なんだけど、〈永眠〉ではなく〈仮眠〉だったのかな」

「そのはずだったらしいわ」

「つまり、計画が一方では成功したけれど、もう片方では失敗してしまった」

「その通りよ」とハルカが言った。「あなたは幸い生き返ったけれど……」

「怪しいんだな、それも……、リョウなんて記憶にないんだから……」

「永い眠りの後だから無理もないけど、しばらくすれば思い出すはずよ、ハルカとのことも含めてみんな」。ハルカがいたわるようにおれ(または、おまえ)を見る。彼女のそぶりから何となく察しられることは、〈記憶喪失者〉に対する憐れみだった。彼女は、おれ(または、おまえ)をどのように認識しているにせよ、ひとりの人間としての実存を疑ってはいない。

 霧のような存在……、〈おれ〉なのか〈おまえ〉なのか判別もできないでいるおれ(または、おまえ)……。そこで、思い切ってハルカに〈影〉が薄い話をしてやった。確かに足はあるけれども、「おれは亡霊かも知れないよ」とわざと怖い話をしたが、ハルカは臆するどころか、ワライカワセミみたいに笑ってばかりいた。

「わたしの目を騙そうとしても無駄よ」と彼女は言った。「もしあなたの言葉を十パーセント信じたとしても、西洋の幽霊には足もちゃんとあるのよ。きっとあなたも和式を嫌って洋式なのかもよ」

「そんな、便器みたいなことを言うなよ」とおれ(または、おまえ)は叫んだ。「リョウと呼ばれても、おれはリョウの気はしないのだから、おれという奴の姿が見えないんだ。意識の中で、《おれ》なのか《おまえ》なのかさえ区別ができないでいるんだよ」

「それは面白いわ」とハルカが、また笑った。その笑いには軽蔑するような意味は含まれてはいず、むしろ包み込むような優しさがある。

「苦しいんだよ、これは……」

「たとえばどんなふうに……」

「おれはリョウなんだと思い込もうとしてみても、別の声があってね、おまえはリョウではないって言うんだ」

 話の中にヒカルの家を訪れたことも加えると、にわかにハルカの顔色が変わる。

「トマリが手引きしたのね」とハルカが言った。「かわいそうなヒカル」

「なぜなの?」

「殺されたのだから……」

「ヒカルが……」。おれ(または、おまえ)は息が詰まる。

「そう、あなたの弟さんよ」。ハルカの目には翳りがなかった。

 おれ(または、おまえ)は体中が鳥肌立っていた。トマリがヒカルにそっくりな自分を認めていたこととも符合する。

「おれはリョウなのか」

「やっと分かったのかしら、わたしのリョウさん」。ハルカの体がおれ(または、おまえ)に飛び付いてくる。「よかったわ、キリスト」

「キリストって……」

「蘇ったわたしのフィアンセだからよ」

「フィアンセ……」

「そうなのよ、実は父がこだわっているのはミサイル基地反対のことだけじゃないのよ。わたしがあなたとつきあっていて、結婚まで約束していることにもね……」

「け、け、結婚!」。おれ(または、おまえ)は、気を失いかけていた。すべてが虚構の中での出来事に思える。

「さあ、再会の記念にあの古墳の丘に行きましょうよ」

 おれ(または、おまえ)は、ハルカに手を取られ、引っ張られるように外へ出ると、まるで雲に乗ったような気分のまま、真っ赤なスポーツカーの座席に押し込まれる。

「カエルみたいに冷たい手なのね」と彼女が言った。

「心はとても温かいのに……」

 エンジンがかかると直ぐに急発進した〈カプチーノ〉は、土埃を立てながら村落を一気に突っ切っていた。白菜やキャベツの畑の間を縫うように進み、数分後には丘のそばまで来ていた。車が急停止して、土埃が車の上を追い越していく。せっかくの真っ赤なスポーツカーも、灰被りにあったシンデレラのように薄汚れてしまう。

「キナサも早く舗装してくれないかな」とハルカが口を尖らせている。「ミサイル基地でお金が入れば、ここも都会並みになるかしらね」

「でも、土の道も悪くないよ」

「田舎が好きなの?」

「よくは分からないけど、今はこの村が気に入っているんだ」

「いやな思い出があっても……」

 ハルカにせかされて車を降り、丘の赤茶けた斜面を登っていく。やがて、例の大欅のそばに行き着くと、ラベンダー色のワンピースを翻しながらハルカが振り向きざま笑っている。

「この穴からキリストが蘇ったわけよ。すると、ここはゴルゴダの丘ね」

 息切れがひどくて、おれ(または、おまえ)は口がきけないでいる。

「足りないのはなにかしら、酸素、それともビタミン」

「筋肉だよ。歩かなくなって、長いこと、たつらしいからね」。おれ(または、おまえ)は切れ切れに言う。

「そうか、筋肉なのね」と彼女は軽い口調で言った。「復活したキリストもキントレとかリハビリが必要なのかしら」

 それには応えず、おれ(または、おまえ)は欅の根元の穴を覗き込む。かすかに白っぽい木枠が見える。変に懐かしいような、悲しいような感じがして、穴に引き込まれそうになり、ころびかける。

「あぶない。足がふらついてるから……」。後ろからハルカが支えてくれる。「やっぱり冷たい手なのね」

「ながく眠っていたものでね」と応えながら彼女の手を放れ、欅の太い幹にしがみついて、少し息を整えてから、丘の頂上へ向かう。両側にいくつもの盛り土がある。古墳もあるが比較的新しいのは無縁仏の墓らしい。

「早くいらっしゃい、ここはお花畑よ」と先に頂上に着いたハルカが叫んでいる。欅からはせいぜい百メートルほどのところだった。

 墓が並んでいるのは西の斜面と北斜面だけらしく、南東のスロープは、草原の広がりになっていて、オミナエシとリンドウ、それにキキョウが混ざり合って咲いている。その黄色と紫の連なりが丘の裾まで伸びていて、花柄のスカートのように見える。ハルカのラベンダー色のワンピースも草原にすっかりとけ込んでいる。

 彼女が腰掛けている黒い岩の上に、おれ(または、おまえ)も並んで座る。薄汚れた帷子だけが、妙に浮いていた。

「そんな、正座しなくていいのよ、足が痛いでしょうに……」

「この方が落ち着くんだ」

「でも、わたしが落ち着けないわ、なんだか修行僧の隣にいるみたいで……」

 風が麓から吹き上げてくる度に、花々が靡いて、お辞儀をしているように揺れる。

「天国って、もしかしたらこんなところなのかな」とハルカがつぶやく。

「そうかな」とおれ(または、おまえ)は曖昧に応える。「ならいいけど……」

「そうよ、きっと……」。彼女は明るい声で早口になって言葉を継ぐ。「もしかして、リョウは見てきたかも知れないなんて思ったので……」

「あの世の入り口位は見たのかもね。もうすっかり忘れているけど……」

 二人の足元には芒の白い穂並みも風に揺れている。

「風立ちぬ」とハルカが歌う声が、不思議に透き通っている。「こんなにきれいな丘にミサイル基地なんて、全然ミスマッチよね」

「そうかも知れないけど……」。ミサイル基地というものを理解できないおれ(または、おまえ)は、判断停止に近い状況にいたので、しどろもどろだった。

「歯切れわるいわよ、リョウらしくない」

 〈だから、リョウなんておれじゃないんだ〉と思っているが、黙っていた。

「しっかりして、あなたは基地反対派のリーダーなのよ」

「何度も言うけど、リョウという自覚がないんだ。それどころか、《おれ》なのか《おまえ》なのかさえ分からない。《おれ》とその《おれ》を客観視する《おまえ》が共存しているんだから……」

「よく分からないけど、それって精神科で診てもらった方がいいのかな」

 ハルカの金髪に赤トンボが止まる。それを意識して、彼女は静かに微笑んでいる。目鼻立ちがくっきりしているせいで、金髪がよく似合う。

「髪飾りだね、トンボが……」

 〈こんなかわいらしい少女と付き合えるならいいな〉と〈おれ〉は思うのだが、〈見知らない少女とどうして付き合えるんだ〉と〈おまえ〉がささやく。

「これからどうするつもり」。ハルカは頭のトンボを気遣って静止した姿勢のまま訊いた。

「トマリさんが役場へ連れて行ってくれる予定なんだ」

「なんのために?」

「おれの身元証明のことで……」

「そんな必要あるのかしら」とハルカがむきになって叫んだ時、トンボが草原の方へ逃げて行った。「あなたはリョウなのだから……」

 おれ(または、おまえ)は、急にもの悲しくなった。リョウだとはっきり意識できればいいのだが、全く実感がないので、その先には進めない。

「そうだ。あなたと一緒にこの村を逃げ出すのよ」と彼女が言った。「どう、これってとてもいい考えでしょ」

「おれはトンボじゃないよ、逃げてどこへ行くの?」

「遠い町へ。そうね、海の見えるところがいいな」

〈ああ〉とおれ(または、おまえ)は思った。〈ハルカの意思にはついていけそうもないな〉

「駄目なのね」。黙り込んでうつむいている相手を、ハルカは哀れむように見た。「わたしのこと信用してないんだ」

「そんなことは……」

「じゃあ、トマリと役場へ行くのね」

 二人は並んで元来た道を辿り、車まで戻った。それから、赤い〈カプチーノ〉の前で二人は少し話をした。

「そうだった。トマリにこれを渡してちょうだい」。ハルカはポケットから小振りの封筒を出しておれ(または、おまえ)の方へ差し出す。「父からの大事なお手紙なんだけど、あの人、字が読めないから、絵文字も描いてあって、意味が分かるようにしてあるそうよ」

「トマリさんとは、どういう関係?」

「父の従兄弟よ」

「じゃあ、親戚なんだ」

「まあね」と彼女は言った。「そんなことより、あなたのことをもっと知りたいわ。古墳から這い出てきた仙人なんて、ちょっとした物語になるもの……。役場へ行けば、オカミに会えるんだけど、あなたを息子と認めないかもね。だって、あなたは死んだことになってるんだし、ここがミサイル基地に決まるまでは、まだ数日かかるらしいのよ。そうよ、目覚めるのが早過ぎたのよ。役場ではもめるかもね、あなたのことで……。いろいろとごたごたがあるかも知れないけれど、きっとあなたはこの丘へ戻るでしょうよ。わたし、なんとなくそんな気がする」。彼女は予言者めいた物言いをする。

 おれ(または、おまえ)は黙ったまま遠くのキャベツ畑の広がりを見ていた。

「明日の朝、もう一度ここへ来てみるわ。どこかにリョウがいたら助けて上げるから、待っていてね」。ハルカは明るい物言いをする。「そして、逃げるのよ、父から離れて遠い海辺の町へ……」

 ハルカは猛スピードで〈カプチーノ〉を駆り、トマリの前まで戻り、おれ(または、おまえ)を車から降ろすと、直ぐにUターンして、走り去った。 

 

 

  W

 

 役場までの道は、馬を駆り立てるほどの距離ではないそうで、歩いて行くことになり、おれ(または、おまえ)は、トマリの後ろにコバン鮫さながらにぴったりと寄り添うようについて行く。

「さっき外で話声がしてたが、誰かに会っただかい?」

 トマリのその一言で、懐の手紙を思い出し、おれ(または、おまえ)は、あわててそれを相手に差し出した。

「なんだい、ハルカが来てたのか」とトマリは軽い口調で言い、すぐに封書を開いて、県知事からの絵文字を読み始めたが、なぜか手元が震えだしていた。

「わるい知らせなの?」

「いや、関係ねえがな……」

 なにがどう関係ないのかが、うかがい知れない。

〈まあ、関係ないって言えば、おれにはなにがあっても関係ないのかもな〉

 例のように、キナサの通りはやたらに複雑に入り組んでいて、馴れているはずのトマリでさえも、時には選び間違えて袋小路ヘ迷い込むことがあるほどであり、下手にはぐれたりすると、迷子になってしまう危険もありそうだった。そして、それよりももっと怖いのは、おれ(または、おまえ)自身の影がなんとなくたよりないことで、それを意識し始めると、なにかに追いかけられているような身の不安があるために、自分の体を墓石業者に接近した位置に保つことによって、彼の濃い影がおれ(または、おまえ)の影に重なるように気を遣い、トマリの禿頭を嘗めるようにして、出来るだけそのすぐ上に顎がくるようにして歩く。

「テントウサマが真上にあるだからして、影なんざ気にするこたあねえだど」と言って、トマリはおれがつきまとうのをうるさがる。

 トマリの家は村はずれの一軒屋だが、そこからほぼ五百メートルほど離れた場所からは、老人の歯のようにぎくしゃくした屋並みの続くキナサの中心街になっている。ただ、普通の村とは違って、いわゆるメイン・ストリートに当たる道筋はなく、せいぜいのところ荷馬車がようやく通れる程度の狭い道が、めちゃくちゃに枝道を育てながら伸びているだけだった。ところどころに、歯垢のように小さな商店が道にこびりついている。

「ハルカさんのことなんだけど……」とおれ(または、おまえ)は遠慮がちに訊いた。「あのひとはなにをしているの?」

「あれのことは気にすんな」。トマリは素っ気なく応える。「とにかく変わった奴でな、小説だかなんか訳の分からねえことを書いてるらしいで。奴の書くものなんざ、おらにゃ読めねえだで、関係ねえがな」

「小説家なのか」

「感心するような奴じゃねえだで。虚言癖があってな、信用はできねえだ。ちょっと見じゃ、けっこうかわいいんでさ、騙されるだがよ、おらに言わせりゃ怪しい女さね。ま、小説家なんちゅうもんは変態なんだで、仕方ねえだがな」

〈あのラベンダー少女に《虚言癖》があり、その上《変態》だって……。そんなのありかよ〉とおれ(または、おまえ)は半信半疑だった。

 どこにでもいるように、他人の動静に過敏な性向の人間がキナサにもいて、いつの間にか数人の男女と子供たちが、露骨に好奇の視線を放射しながら、さながらおれ(または、おまえ)の体臭までを嗅ぎ取ろうとするかのように、背後について来る。しかも、進むにつれ、人数も次第に増える。たぶんおれ(または、おまえ)の格好は、彼等の関心を誘うほど、それだけ風変わりなのだろう。色などは多少違うにしろ、おれ(または、おまえ)以外の人間は似通った上着なら上着、ズボンならズボンを着けている。とにかく、足の先まで隠れそうな白衣を着ている者は、この村のどこにも見られない。その白装束も、ただの木綿の白さではなくて、絹布の艶つやしい光沢を含んだほんのりと黄味さえ帯びたクリーム色に近い色なのである。

 おれ(または、おまえ)には〈自分といえるもの〉がなかった。それは名前を失っている現状だけではない。すなわち、自分で自分の顔が皆目つかめないのだ。鏡に映してみたいのだが、残念ながらその鏡というものがない。自己客観化の手だてすらないわけだから、おれ(または、おまえ)という存在感が希薄になる道理だ。頭や顔に手をやってみると、たとえば頭髪などは使い古しの箒のように硬く、伸び放題になった毛と毛が絡み合ってフェルトになったりしているし、髯についても、トマリのそれ以上にかなりな長さになっている。顔の造作の細部は分からないが、人間離れのした容体であることだけは、はっきりしているのだ。

「おめは、だい?」とおれ(または、おまえ)のの辺りに鼻息を吹きかけながら背後から尋ねる男がいる。

「分からない」。おれ(または、おまえ)は振り向きざまそう答える。「分からない。分からない」

 馬のような顔をしたその男が、おれ(または、おまえ)を見つめる。半開きに開いた口の端から粘液がしたたり、牙のような長い歯が覗く。頭の両側に突き出た三角耳が、あまりの好奇心のために、今にも動き出しそうに見える。おれ(または、おまえ)は再び前を見て歩き始める。

「きっとな、あれは聖者とかいうもんだらず(だろう)」。誰かが訳知り声でそう言うと、それに応えてなにやら群衆の間に議論の波紋が寄るらしい気配である。

「こんなきたねえだけの男の、どこが聖人なんだよ」と怒鳴るような声……。

「気違いじゃねえかいな」

「よ」

 外から入ってくる情報は、まともな人間扱いをされていない点で共通していて、心の張りをそぐようなものばかりである。言葉が石つぶてになって背中に降りかかる。おれ(または、おまえ)は耳を両手で塞いで歩く。

〈どうしよう、どうしよう……。それが分からないから困っている〉。心の中で泡粒のようなはかない命のつぶやきが生まれては消える。〈ほんとうのおれは、誰?……。おまえはどこから来たんだ?〉

 やがて、〈キナサ村役場〉という、銀色に光る看板の懸っている建物の前に着く。トマリは立ち止まり、振り返って頷いてみせる。男の後ろからついて行き、五段ほどの石段を上り切ったところで、急になにかが肩に当たる。足元を確かめると、拳大の石が石段を音を立てながらころがり落ちて行くのが見える。背後について来た群衆の誰かが投げたものらしいから、その中に敵意を持った者がいることになる。振り向くと、役場の前の広場に集まった数十人の黒い頭が見えるのだが、どの頭も不思議と同じように目に映り、全てが均質化された機械の部品のように、どこといって捉えどころがない。だから、その中の誰が石を投げたのかを詮索することは無駄に思われるので、むしろ、肩の痛みをじっと我慢することによって、意識的に〈聖者〉か〈気違い〉か〈化物〉に近付こうとしてみる。ハルカが〈キリスト〉呼ばわりをしていたことも思い出す。人離れのしたユニークな〈存在〉にあっては、人間的な感情からも超然と構えていられるはずである。

 だが、ガラス張りのドアを押して役場の内部へ足を踏み入れた途瑞に、おれ(または、おまえ)はひどくふらつき、トマリの肩につかまらなければ、危うく頭をコンクリートの床になじませるところだった。肩に石を受けたダメージのせいでもあるが、それよりも外の光の氾濫に馴れた目が、建物の中の暗さに順応しにくかったのだ。

「蛋白質が足りねえな」とトマリが珍しく気のきいたことを言う。

「足りないのはね、それだけじゃなく、なにもかもだ」

 しばらくの間、おれ(または、おまえ)はその場に佇み、目を暗さに慣れさせながら、肩の痛みに耐える。

 正面に〈受付〉と書かれたかなり鋭角の三角板があって、その向こうに漬物石のような丸くて頑丈そうな顔の男が、首だけカウンターの上に出してこっちを窺い、低い鼻の頭を鉛筆の尻で突きながら、軽くハミングしている。それは役場の雰囲気にはなじまない態度だった。視界がかなり恢復してきたので、そばへ近付いて行ってよく見ると、その男は背広の襟の中に顎までが漬かっていて、頸に当たる部分がかなりな程度省略されている。

「村長はいるかい?」。トマリが受付の〈豚男〉に訊ねる。

「いるよ」。男はおれ(または、おまえ)から目を離さずに、女のような黄色い声で応える。「いるにはいるよ」

「だらさ、会わせろや。トマリ様が会いに来たって、そう言ってくんろ」

「そうはいかねえで」。太った男が、機械のような平坦な声で言う。

「どういうこったい?」

 カウンターの向こう側に〈豚男〉が消え、すぐまた浮かび上がったかと思うと、一枚の紙切れがトマリの鼻先に突き出される。トマリは目をしょばつかせて困ったようにおれ(または、おまえ)を見る。おれ(または、おまえ)は彼の手から紙切れを受け取る。

「〈面会願〉と書いてあるよ」

 カウンターの向こうで、〈豚男〉が頷いている。

「なんちゅうこった」。トマリが怒鳴る。「村長とはな、幼なじみの仲なんだでさ、そんな水臭いことなしに‥‥‥」

「それが駄目だでな」と〈豚男〉がトマリを制した。「規則は規則。私情は私情。いやしくもキナサの村民たる者においては、公私を混同すべきでねえだで」

「生意気こきゃがって!」。トマリが叫ぶ。「てめえがなんだってんだ!」

「まあ、まあ、墓掘りのおっしゃん、そう興奮しねえでくれや。おらだって面倒なこたあ嫌えだがさ、ここの村長ときたら最近やけに細かくなっちまってさ、窓口業務にオチがあると、おらのクビがねくなっちまうでな」。〈豚男〉が溜息をつくと、黒い鼻の穴が周期的に広がったり狭まったりして、その赤ら顔がかすかに左右に振れる。

「そんなこと言ったってさ、元々あんたにゃクビなんてないじゃないか」とおれ(または、おまえ)がつい軽口を叩いてしまう。

「なんだと!」。〈豚男〉が例の甲高い声を上げ、おれ(または、おまえ)の方を充血した目で睨んだ。いやに粘っこい感じの目である。

「まあ、まあ」。トマリは〈受付〉の三角板を横に伏せながら、緊張しかけた空気をほぐそうとする。「角を立てずに、やりゃあしょう」

 しかし、そんな冗談が通じなかったらしく、相手はにこりともしない。

 そこで、おれ(または、おまえ)はトマリに代わって〈面会願〉の記入欄を埋める算段にかかったのだが、〈住所・氏名・年齢・職業〉という欄になると、鉛筆を握る手が止まってしまう。トマリの分はなんということもないが、おれ(または、おまえ)についてはどうすればいいのか分からない。だいたい、それが分からないから調べに来たのである。震える手元に強いて力を籠め、でたらめな〈住所・氏名・年齢・職業〉を書く。空欄を字で埋めながらヒカルのノートの書痙のような文字を思い出す。読み書きが出来るという点では、おれ(または、おまえ)は確実にトマリを凌駕しているのに、肝心の〈記憶〉が戻らないために、〈存在〉の重さがない。

「判子はねえで」。トマリは作成した書類を窓口に差し出す。

「特に拇印を認める」と例のロボットの声が返る。

 トマリが親指を朱肉で真っ赤に染めて捺印をすませた書類を差し出すと、〈豚男〉は、ゆっくりと仔細にそれを調べては、どこそこの文字が間違っているとか、こんな字は現在では使用を禁止されているとか、あれこれさんざんに文句を付けた挙句、「しばし待たれよ」と言い残して、やおら奥へ消えたまま、なかなか還って来ない。

 小一時間も待たされ、いい加減痺れを切らしていると、ようやくのっそりと現われた〈豚男〉が、なんの言訳もなく、いきなりトマリの鼻先に〈面会許可証〉と書かれた紙片を突き出し、きわめて事務的な口調で言う。「村長は今気分がはなはだよろしくない。それでも、特別に会って下さるそうだから、余計なことは抜きにして、要件だけ済ますこと。いいかい」

 紙片にはいくつもの印が捺してある。受付の印から始まり、係長・課長補佐・課長・部次長・部長ときて、最後が村長の印だった。書類の上部が真っ赤に染まっている。その中でも特に大きいのがオカミという村長の印鑑で、五センチ四方もありそうだ。〈紙と印〉とあったヒカルのノートの文面を思い出す。この印がヒカルの人生を変えたのだろう。紙と印の毎日、そこには無味な形式の顔が浮かぶ.〈形ノ影ノ死=生キナガラノ死〉

 おれ(または、おまえ)にはヒカルの内面が次第に見えてくる。もしおれ(または、おまえ)自身の素姓が知れない時には、せめてヒカルのことだけでも、もっと詳しく知りたいと思うようになる。

 受付の部屋を突っ切って奥へ進むと、ドアの向こうは薄暗い廊下になっていて、所々に天井から裸電球がぶらさがっているが、点いたり点かなかったりしているために、前方がよくは見通せない。まるで坑道のように殺風景な廊下である。よく見ると、壁や天井のコンクリートが汗ばんだように水滴に埋まり、そのためか、空気が湿っぽい。不思議なことに、犬小屋の中にでも迷い込んだかのように奇妙に犬臭い。〈シェルター〉と記されたヒカルの文字を記憶の海からすくい出す。〈なるほど〉とおれ(または、おまえ)は合点した。役場全体がシェルターになっているようでもある。

 しばらく進んだ頃、電燈の真下に立ち止まったトマリが、振り向いて手に持った物を差し出すので、それを受け取ってみると、白いガーゼのマスクと黒眼鏡だった。

「オカミを驚かすといけねえでな」。トマリが低い声で言う。声が籠ったような音になり、廊下の空間に反響する。反響が反響の友を呼び、増幅された振動がふわふわになるまで続く。こういう場所で語られる言語は、ふやけてしまい、真実性が薄くなりそうだ。

〈そうか、おれがヒカルに似てるから……、と言うより、ハルカがリョウとも認めていたことだしな〉。おれ(または、おまえ)は墓掘り業者の周到振りに感じ入りながら、マスクと眼鏡を身に付ける。〈これで、さすがの村長でも《息子》だとは分かるまいな〉

「ええぞ、カポネ!」。トマリは手を打ち、満足そうに深く頷いてみせる。

〈カボネ?〉とおれ(または、おまえ)は考え込む。〈おれがカボネだとしたら‥‥〉

「まあ、おらがなんとか調べてやるだから、おめはなるたけ黙ってるだで。口は幸いのもとっていうからない」

 おれ(または、おまえ)はおかしくなる。〈禍のもとだろう〉と訂正しようとしたが、面倒くさくなり、言いそびれる。

 廊下は異様に長い上に、キナサの村通りと同じように、あちこちに分岐点があって、選び違えると行き止まりに当たる。しかもそういうつき当たりには、たいがいのところにドアが付いている。何気なくドアを開けて内側へ踏み込んでみると、そこが病室であったり、ダイナマイト置場であったり、時には死体置場であったりもする。〈恐水病者救急収容所〉と書いてある看板を掲げた部屋も、いくつかある。いずれにしても、役場の施設の中に、なぜ病院のような部屋があるのか分からない。

 ようやく村長室らしいドアの前に二人は立っている。禿頭が回転してトマリがおれ(または、おまえ)の顔を見上げる。細い目が合図している。おれ(または、おまえ)は彼の丸い肩口を軽く叩く。

 ドアが安っばい軋みを立てながら開き、いきなり明かるいシャンデリアの輝きが飛び込んでくる。目がその明かるさに馴れると、広い部屋の様子が徐々に見えだす。壁は茶色を主調にした地に、白色の紋を渦のように散らした新建材が張り詰められ、床にはオレンジ色の厚い絨毯が延べられている。ほぼ中央に仕切りのカウンターがあり、その向こう側正面に厳めしい顔付きの大男が、純白のカバーに包まれた肘掛椅子に体を埋め込むように腰掛けていて、秘書とおばしき二人の若い女が村長を挟んで向き合い、大型のコンピューターのキーをせわしなく叩いている。

「オカミ、おらだ、幼なじみのトマリよ。はあるか振りだない(久し振りだね)」。トマリは愛想よく声をかける。

「オオー!」と村長がうなる。黒々とした髪が逆立ち、目を釣り上げて睨む。並はずれて大きな口をへの字に結んでいるが、よく見るとその唇は小刻みに震えている。

 目の前のオカミを見て、おれ(または、おまえ)はがっかりしていた。〈父親〉ならば、どこかに見覚えがあるはずなのだが、それが全くないのだ。〈これが《父》かよ〉と疑い、ハルカの言葉も軽くなり、トマリが彼女を〈虚言癖〉があると言っていたことを思い出す。

「ご用件は?」と秘書のひとりが顔を上げてこっちを斜めに見る。「書類を出して下さい」

 トマリは、黙って紙片をカウンターの上に乗せる。

「何用だい。葬儀屋のトマリ公よう、まさか、また墓掘り料を上げろってんじゃねえだらずなあ(ないだろうな)」。声帯を潰したざらっぽい声だった。

「余計な心配は無用だぜ。今日はな、人助けだで、おらの用じゃねえだよ」。トマリは応える。「ここにいる大将が、どこもんだか身元を調べてもらいてえんだ」

 おれ(または、おまえ)は一本の棒になる。

「見かけねえ顔だでな」。オカミは油性の肌に特有のてらてらした顔を突き出しておれ(または、おまえ)を見つめる。尖ったその黒っぽい鼻先がひくひく蠢く。「そんで、おめの名前は?」

 おれ(または、おまえ)は岩の塊りになり、黙って下を向き、自分の裸足の爪先を見ている。

「それがさ、村長、魂消て馬鹿気た話だけん、やっこさんがせう(言う)には、いっさいを忘れて来ちまいやがってさ……」

「どこへ?」

「どこって、それが、その、おらにもよく分かんねえだが、とにかく、この男は黄泉の国から甦ったらしいんだで」

「何を!‥‥。また、そりゃあどういうこったい?」

「さあな、おらもこの世に永いこと息をしているだがさ、こんだらことは話にもなんも聞いたことがねえだで、全然見当も付かんこっただよ」

 おれ(または、おまえ)は、段々に心細くなる。二人の他人によって、おれ(または、おまえ)というこの〈存在〉が、人間として認知されるのではなく、なにか不確かなものにされてしまいそうである。

「そんな訳の分かんねえ者は、どこへ行こうが調べは付かねえだらず(だろう)」と村長が言う。

「そこをなんとか、役場なんだからさ」と墓石業者は粘る。

「馬鹿こくな。役場はな、トマリよ、公的な場所だわい。幽霊の管理までは、あいにくの手不足で手が届かねえよ」

 その時、おれ(または、おまえ)ははじめて気付いたのだが、この部屋の中に獣じみた臭いがし始めている。揮発性の強い刺激……。しかし、臭気の発生源は、特定できない。

〈影が薄いということは、やはり、《〈存在》そのものが薄いということでもあるのか?…‥。おれ(または、おまえ)は、ネガフィルムのように、いわば《実像》を夢見る《虚像》なのだろうか?‥‥‥。

「オ・オカミ村長さん、よ・よ・よく見て下さいよ。お・おれは幽霊なんかじゃないよ。こ・こ・こ・こうしてしゃんと立ってるじゃないか!」とおれ(または、おまえ)はどもりがちにそう訴える。

「それが、幽霊でねえことの証明になるとでも思ってるだか!」。オカミは吠えるように言い、おれ(または、おまえ)の顔を火の点いた目で見据える。

 おれ(または、おまえ)の体が縮小する。

 キーを叩く音が止み、申し合わせでもしたかのように、二人の女が顔を上げておれ(または、おまえ)を見る。おれ(または、おまえ)は視線を、泥まみれの自分の足に落とす。

「すまんけんど、姉ちゃんや、戸籍簿をばちょくら調べてみておくんない(下さい)。つまり、最近に死亡届の出たがあるかどうかをな」と墓掘り業者が事務員兼村長秘書の女に声をかける。

 しばらくの間、女たちは自分の目と耳とを信用出来ないのか、ぼんやりトマリの方を見ているばかりでいる。

「それみたことか、やっぱり、こいつの正体は幽霊ちゅうことだ」とオカミが言う。

「待ってくんろ。そう決まっちゃいねえけん……」。トマリは応える。「墓から出て来たっちゅうと、ひょっとして死んだはずが生き返ったのかも知れねえだに。古い歌にもあるじゃねえか、〈死んだはずだよ、お冨さん。生きていたとはお釈迦様でも知らぬ仏のお冨さん〉ってせってさ(言ってさ)」

「めったにねえ話だで」と村長は笑いもしない。

 二人の秘書が奥のキャビネットから戸籍簿を取り出して来る。黒表紙に付いている埃を、女達は息で吹き払う。舞い上がった埃が、カウンターを越えておれ(または、おまえ)の方へ落ちかかる。すると、例の犬のような臭いがいっそう強く漂う。おれ(または、おまえ)は出来るだけ身を乗り出し、ページを繰る女達の指先を見つめる。

「毎日四、五人は鬼籍に入っているものですから‥…」。リス顔の小柄な女が言う。

 その略された言葉の意味を推量する。

「トマリよ」と村長が声をかける。「こいつが墓から出て来たって言ったが、どこの墓からだい?」

「村はずれの古墳の丘よ。無縁仏も埋まっとるとこさね」

「なんだと!」。オカミは椅子から少しとび上がり、体をひどく震わせだす。

「だでさ、幽霊でねえまでも、さしずめ生きてる幽霊ってこったいな」。トマリは訳の分からないこと口走る。

「馬鹿こくでねえ!」。村長はそう叫ぶと、肘掛椅子から立ち上がり、カウンター越しに首を伸ばしておれ(または、おまえ)を見つめる。あの〈豚男〉並みに、黒い鼻の穴が小刻みに動く。それがふくらんだり縮小したりする度に、村長の荒い息が漏れる。嗅覚を使っておれ(または、おまえ)の正体を嗅ぎ分けようとしているかのようだ。鋭く切れ上がり充血した目が、妙に偏執的に坐っている。

「なにか嗅うだかい?」とトマリがのどかな声で訊く。

「うん、確かにどこかで嗅いだことのある臭いだが‥‥。それにしろ、あそこに埋葬されていたんなら、きっと縁者のねえ仏だべえな」

 そうなると、秘書達も仕事がやり易くなり、間もなく三枚のカードのコピーが村長の机の上に並べられる。オカミは、また村長の椅子に戻り、老眼鏡を鼻先にかけると、徐ろにカードを見る。おれ(または、おまえ)は緊張して、体の震えが止まらなくなる。

「ヒロムちゅう男が、先日埋められた」。オカミの声が重々しく響く。「死因は腸癌」

「そのほかの二人は?」。おれ(または、おまえ)は村長を急かす。

「あわてるな!」。書類から顔を上げたオカミが怒鳴る。

「もうひとりはリョウだ。これは自殺だってことになってるだで……、そいつはな、千里眼気取りでいて、おらを気違い扱いしやがってだな、『村長、核の拡散は恐いぞ。ミサイルの基地が造られれば、この村は核の汚染地帯になる。そこが見えないとは、村長、あんたこそまことの気違いだ』とよ。どっちが気違いだか分かんねえ」

「リョウにヒロム」。リス顔の女が、おれ(または、おまえ)の顔を覗き込みながら訊く。「この名前に、なにか思い当たらない?」

「どっちも記憶にないっていうか、全然知らないですよ」とおれ(または、おまえ)は答える。しかし、それは半分嘘をついていた。リョウについてはハルカから聞いていたのだから……。だが、いずれにしろ死んだ人間が、今こうして二本足で立って、意識もちゃんとあるおれ(または、おまえ)と、同じ一線に並列されねばならない理由はないのだ。

「で、村長、もうひとり残っているのは、ヒカルっていう人じゃないの?」。おれ(または、おまえ)は思い切って尋ねる。

 三枚目のカードを取り上げた瞬間、オカミがひどくうなる。そして、しばらくは黙ったまま充血した目で、また睨みつける。

「やっばりヒカルなんだね?」とおれ(または、おまえ)は言った。

「なんで、それが分かっただい?」。村長が聞き返す。

「おれに見えるものが、村長にゃ見えないんだよ。ヒカルとリョウは、きっと仲間だったんだろうね。思想傾向が似ているから……。この二人は確かにあんたより未来が見えていたらしいよ。キナサ村は惜しい人物を失ったし、それより、親御さんは、きっと悲しんだろうな」

「聞いたかや?」。トマリが村長の方を見た。

「生意気な幽霊野郎が、まるでリョウそっくりの口ききゃあがる!」。オカミは顔を紅潮させながら怒鳴る。「そんなに見えるんだらば、なぜおめ自身の過去が見えねえだい?」

「あんたらに見えるものでも、おれに見えない場合があるのさ」とおれ(または、おまえ)は苦しい言い訳をする。

「そういやあ、ヒカルについてはそうだっただで」とトマリが言う。「奴が家でひっくりけえってるのを、こいつにゃてんで見えねかった」

「そんじゃあ、おめえらヒカルの家へ行ってみただかい?」。村長が尋ねる。朱い唇の端から、白っぼい粘液が二条垂れている。

「調べることがあったでな」

「なにか、匂っただかい?」

「なんの、なんの、奴はひっくりけえって寝込んでけつかっただよ」

「そりゃ、いつの話だ?」

「今日も今日、今しがたさね」

「なんだと! 今しがた!」。村長は背筋を伸ばす。「冗談言ってる場合か!」

「誰が冗談こくだ!」

「ヒカルの家へ行ったのは本当だが‥…」とおれ(または、おまえ)は言う。「彼が寝込んでたってのは大嘘だよ」

「そうだらず。そうだらず。ヒカルは永眠しただでな。ほれ、この通り、死亡診断書もちゃんと出ておる」。村長は言い継ぐ。「わるい奴じゃねえだがよ、分相応にゃ振舞えねえ野郎でな、この部屋で勤務中にな、『この村にゃ、ミサイルはいらねえ。いくら金になるからって、先祖の丘を基地には絶対に出来ねえ。おれは生きながら殺されているが、死んでも死に切れねえ』なんて怒鳴るだでよ。かなりのアル中だで、きっと頭までやられちまいやがっただな」

「そんでさ、ヒカルの右腕にかみついただか?」とトマリが聞く。

 オカミの黒い湿った鼻先がひくひくと触手のように蠢く。釣り上がった目に、暗い光が溢れる。

「彼の頭に地球儀をぶっつけたのは誰だったっけ?」。おれ(または、おまえ)はオカミを追撃する。

「そんなことまで知ってるんか、てめえら……」。村長は紅い顔を、さらに赤く染めながら怒鳴る。

「よく見えてるのでねえ、先の先まで……」とおれ(または、おまえ)は、はったりを利かす。「もしかして、ヒカルはリョウと兄弟なんじゃないかな」

 すると、オカミは椅子から立ち上がり、斜めに蹌踉めくように足を運んでカウンターに凭れる。頭を抱え込んだ両の手がデンノコをかけたように痙攣している。「うううっ」と彼はうめいた。頭部の逆立った剛毛の一部が抜け落ち、その指先には、鋭く長い爪が光っている。

「あっ!」と秘書が金切り声を上げる。「もう止めて下さい。面会時間は終わりです」

 村長の荒い鼻息が聞こえる。

「まだ話は済んでねえぞい」。トマリが強く抗議する。

「でも、村長は興奮すると髪が抜けて、テンカン症状を起こす病いにかかってますので」

「髪が抜ける位がなんでぇ!」。トマリは自分の禿頭をことさらにシャンデリアのきらびやかな光に晒してみせながら叫ぶ。「抜けてるのが戸籍でありゃ、もっと一大事だで!」

「止めて下さい」。秘書がトマリの顔を見る。

「戸籍簿を見せてくれ」。おれ(または、おまえ)は村長の机に近付き、カウンター越しにその上の書類を覗こうとする。「死因はなんだったのか?」

 飛び付くようにしてオカミがカードを裏返すが、一瞬早くおれ(または、おまえ)はある文字を目に入れる。オカミの痙攣が伝染したかのようにおれ(または、おまえ)の体もにわかに震えて、薄ら寒くなる。

「ヒカルは、あのひとは、真っ直ぐないい人だったのに、ひどく苦しんで死んだんだってね」

「う、うるせえ!」。村長は椅子の上にとび乗る。「とにかく、おめはキナサのじゃねえだから、五時間以内に村を出て行くだど!これは村長命令だ。分かったか」

「分かるはずないよ」とおれ(または、おまえ)は叫び返す。「最後の最後までアルコールを飲みたがっていたそうだが、飲もうとすると体が震えて止まらない。そうなんだ、見えてきたぞ。ヒカルを病気にしたのは、このオカミ村長だ!」

「黙れ!」。村長は怒鳴る。「すぐ出て行け!今すぐに!」

「まあ、まあ」とトマリが村長を宥めようと口を挟む。「そんなこと言わずと、オカミ、路頭に迷ってるこいつを助けてやれや。身寄りのねえ気の毒な奴だでさ」

「駄目だと言ってるだろうが、駄目なものは駄目だ!すぐに出て行かせろ!今すぐに…‥。そうしねえと、おめの墓掘りの免許も取り上げだで!」

「それとこれとは話が違うわさ。だけんど、なんとかこいつを救ってやってくれや」。トマリはカウンターの上に上がり、村長の腕を捕える。反動で、オカミは椅子から落ち、勢い余って仕切りの腰板に頭をぶち当て、板が割れる。

「なにをするだ!」。村長は叫ぶ。その間にも抜けた頭髪が床のオレンジ色の絨毯に散り続ける。「てめえは早く帰って墓石でも彫ってろ!」

 オカミの長い手が伸び、トマリの首をつかむと、次の瞬間、墓掘り業者の小さな体は浮き上がり、カウンターの上からバーを越えるジャンパーのように消え、床に叩き付けられる。トマリは絨毯の上に声もなく伸びていた。

 それでも腹の虫が治まらないのか、「これでもくらえ!」と叫びながら村長は机の上のインキ壷を投げつける。運悪く壺の蓋が外れかけたままトマリの鼻に当たり、吹き出した血に壷から漏れた青インキが混ざり、辺りは紫色に染まる。墓掘り業者の禿頭から顔にかけての辺りにも、インキや血が付いている。それはサイケ調の抽象模様だった。

 駆け寄ったおれ(または、おまえ)は、すぐにトマリの腹から手拭を抜き取り、それを細かに裂いて丸め、彼の鼻の穴に詰め込んでやる。馬並みの巨大な穴なので、血の流出を塞き止めるのに、かなり多量の布切れが必要であるが、ようやく両の穴をほぼ完全に塞いでさえも、まだどこからか鮮血が噴き出すのでよく診てみると、なんと額に歯型が二つ付いている。

「あっ、かまれたな!」とおれ(または、おまえ)は叫ぶ。

「本当ですか、それ」。リス顔の女が、青ざめる。

 おれ(または、おまえ)は、鼻の両穴を塞がれたために、髭の間から大口をあけて、酸欠の金魚みたいにやたらに空気をパクついているトマリの額の傷を、その女に示す。

「大変!緊急事態」。女が紺色のユニホームを翻し、壁に付いている赤いボタンを押すと、たちまちにけたたましく非常ベルの音が鳴り響き、おれ(または、おまえ)の体も空気の震えと共に揺れる。

 その時、トマリのポケットからこぼれ落ちた封書が見えた。おれ(または、おまえ)は素早くそれを拾い上げ、ハルカの父親からの文面を読んだ。

〔連絡、キナサの村長は末期の恐水病に罹っている。要注意人物〕。この文字列の横に、村長の似顔絵があり、彼が逃げる途中で狂犬に噛みつかれている図柄も見える。

 体中の血が吸い取られたような、一種の寒さを感じて、おれ(または、おまえ)はガタガタと震える。

 オカミ村長も体中を痙攣させながら、カウンターの向こう側のスペースをフルに使ってせかせかと猿のように歩き回っている。耳元まで裂けた大きな口から涎の筋が絶えず流れ出ている。

「なんということだ」と彼はつぶやいている。「あと一週間あればええだ、あと一週間……。えりにも選って墓地を基地にするためのこんな大事な時に……」

 おれ(または、おまえ)は徐ろにマスクとサングラスを顔からはずすと、わざと村長の目に付くように、カウンターに近付く。

 オカミは立ち止まっておれ(または、おまえ)を見、「ああっ!」と一声叫ぶと、黒い鼻を例によって頻りに蠢かしながら、おれ(または、おまえ)の顔を観察し始める。

「て、てめえは!もう生き返っただか」。オカミはうなりながらおれ(または、おまえ)の右腕をつかみ、いきなり口に近付ける。その白い歯が吸い付くように迫り、手に痛みの線が電撃状に走る。おれ(または、おまえ)は、とっさにあいている方の手に〈村長〉と書き付けられた三角板を持つと、その尖った頂点でオカミの長い三角耳の付け根の辺りを突く。

「ウオー!」と叫んだ直後、村長の巨体が床に崩れ落ち、床の一部がバリバリッと抜ける。

 騒動の続くさなかに、おれ(または、おまえ)は封書をトマリのポケットに戻す。その時、背後のドアが勢いよく開き、白衣の男が四人飛び込んで来るなり、二人ずつ二組みに分かれ、一組みはトマリに取り付き、もう一組みは村長にかかりきる。なぜか男たちはオカミに猿ぐつわを咬ませ、全身に包帯を巻き付ける。

「発作が起こると、カミツキガメみてえに誰にでも噛みつく癖があるでな」と白衣の男のひとりが言う。「しばらく収容所入りよ」

 ミイラ男のようになった村長は、間もなく男たちによって丸太のように担ぎ出されて行く。

〈オカミに父親らしいところがあったろうか〉と考えてみる。〈ハルカの言うことが正しければ、おれはリョウであり、リョウの父はオカミのはずだが……〉

「おめもやられたな」。白衣の男がおれ(または、おまえ)の右手を見つめる。

「うん」とおれ(または、おまえ)は応える。

 すかさずにトマリの腕には、太い注射器の先端が差し込まれる。

「血清かね?」。おれ(または、おまえ)は尋ねてみる。

「そうだ」と白衣が答える。「お次はおめだよ」

「やらないよ、おれは……。やっても無駄なんだ、もう免疫があるでね」

「なに、免疫だってか」。白衣は笑う。「馬鹿こくな。やらなきゃ死ぬるぞい」

「どうせ、たいした差はないさ」

「なんの差だい」と注射器を手にした男が言う。「でもな、つい先日もオカミにかまれた男がいてな、どうしても注射をしなかったらば、とうとう気違いになり、村中を『墓地を基地にするな!ミサイル基地建設反対!』と叫びながら駆け回った挙句の果てにゃ、口から泡を吹いて死んじまっただよ」

「そうだってね」。おれ(または、おまえ)は平静な口調で言う。

「なんせかんせ(なにしろ)、これは、おっかねぇ病気だでな」

 

 

        X

 

 意識朦朧としてうわごとばかりいっているトマリを背に負って、村役場を出る。午後の太陽は、中天を西の方へ寄りかけている。東側の地面に印されるおれ(または、おまえ)の影は、墓掘り業者の影と重なり合い、どれがどれやら判然としない。そして、不分明なところがむしろ好都合なのだ。歩きながら、おれ(または、おまえ)は考える。〈ハルカは、おれに嘘を言っていたのか?〉

 独り言のようにぶつぶつ言っている男の声は、おれ(または、おまえ)の背中に意味のない振動を伝え続けている。老人特有の筋張った体は、肉が薄いせいか子供のように量感が稀薄な感じでありながら、触れている肌は異様に熱っぽい。

〈これが他人なのだ〉とおれ(または、おまえ)は考える。〈親切が肌を暖めている〉。しかし、空腹がひどくて、本当は自分の体を支えることさえ困難な状態だったが、必死にトマリを背中に乗せて歩く。足がもつれ、時々目の前が白くなったり黒くなったりする。一瞬、頭の中に奇妙な映像が浮かぶ。十字形の柱を背負って歩く髯面の男の姿である。おれは、賛美歌を歌いたくなる。

 来た時と同じように、帰路にもキナサの物見高い連中がついて来る。背後に蠢く人影と、なにやら頻りに囁き交わす声とを、意識の範囲に認めてはいたが、既にいっさいが関わりのない〈外側のもの〉に思われたので、ほとんどそれを無視している。キナサの人間がどのようにおれ(または、おまえ)を〈客体化〉しようと、その〈存在〉そのものが〈客体化〉されたことにはならないのであるし、それに、おれ(または、おまえ)がどうなろうと他者には関係のないことなのであって、他の誰もその〈存在〉をはっきりと認めることはないはずなのだ。言い換えれば、それぞれが自分のことでせいいっぱいなので、他人のことにとことん関心を持つ余裕がないのだ。背中で蟹のようにつぶやいている男にしても、心情的にはおれ(または、おまえ)の〈存在〉を認めてくれているけれども、もとより心情的なものの薄いオブラートにくるまれた範囲を出ないのであるし、そうした種類のものは〈客観性〉がないために、いつ変わるとも知れず、深く付き合うには、あまりにも浮気に過ぎる。確かなもの、外側から規定の出来るもの、そんなものを求め過ぎる自分に、初めて目覚めている。おれ(または、おまえ)というものは、あやふやで不確かなものであり、あってもよし、消えてもよいものでしかないのだろう。〈名前〉とか、〈住所〉とか、〈職業〉…‥、そんな符号のような過去のシミを嗅ぎ当てようとあくせくしていた自分が、今のおれ(または、おまえ)には恥ずかしい。〈そう、《我思う。故に我有り》なのだ〉。レッテルや印鑑は、形であるに過ぎない。物に名前を付ければ、その対象が全て分かったような気になるのは錯覚である。蹌踉として歩きながらも、〈自分らしさ〉の発見のためにかなり興奮している。

「寒い」と背中の〈他人〉が叫ぷ。

「気付いたかね?」

「あゝ、すまねえなあ、まっこと……」。トマリが弱々しい声で言う。「尊い生き仏さまにおぶさるなんてさ」

「めったにはない機会だよ、きっと……」とおれ(または、おまえ)は笑って聞き過ごしたかったが、ひどく息切れがする。〈生き仏ってのはじゃないのか〉

「おめの体はカエル並みにちびてえない(冷たいな)」

「そうかね」。おれ(または、おまえ)は冷静に応える。「熱があるせいだよ、あんたに……」

 トマリは、村道の岐路に差し掛かると、どの道を選ぶべきかを指示してくれるので、おおむねは滑らかに進むことが出来る。

 やがて、なんとか『メモリアルホール・トマリ墓石有限会社』の看板のある家まで辿り着く。足は、全体が痺れて、棒になりかけ、背中のトマリを降ろすと、膝から崩れ、大地にポロ布のようにたわいもなく倒れてしまう。

 

 

        Y

 

 キナサを追われたおれ(または、おまえ)は、どこへ行くという当てもない。この村に特別な未練はないが、どこか別の場所へ物理的な移動を試みたところで、〈存在〉そのものが明確な輪郭を持つ訳ではないし、どこへ行ってもキナサと大同小異の現象があって、幾人かの好意や悪意がべとべとと纏わり付き、それらはよいにつけ悪いにつけ心情的なものであってみれば、どのように揺れ動くか知れたものではない。現象の周りを迷いつつ巡ったところで、〈存在〉の本質とは関わりないのである。このように考えてくると、おれ(または、おまえ)の行くべき道も、次第に明確になる。それは、あの欅の丘、古墳の丘へと続いている。

 その決心を知ったトマリは、穴倉のような屋根の低い家の中へおれ(または、おまえ)を導きながら、「そんな考えは捨て、おらが匿ってやるだから任せろや」と言う。「おめさえそれでよけりゃ、おらの仕事を手伝ってもらいてえだでな」

 〈墓掘りや、棺桶作りの仕事をして生きること〉。これだって確かに生き方のひとつであるし、村人の役に立つ大事な仕事でもあるのだが、〈なんのために生きる必要があるのか?〉という蝮の頭のような疑問が持ち上がり、頭の中をのたうち回る。〈名前〉も〈年齢〉も不明なおれ(または、おまえ)は、形にこだわるキナサでは生きにくい。トマリの暗い家の一角にひっそりと匿われて生き延びるとしても、毎日が陰湿で、不潔で、その上滑稽なことでいっぱいになり、村人たちの悪意に怯えながら、息を詰めながら小さくなっていなければならないだろう。〈生きるのなら、生き甲斐がなくちゃあな〉と思う。〈ただ意味もなく息をしていればいいとはならないんだ〉

 薄暗い部屋の中に漂う馬の匂いだけでも、おれ(または、おまえ)は息苦しくなる。

「あんたの好意はありがたいんだがね、もう疲れちまったよ。ゆっくりと、安楽に休みたいんだ」

「どうしても丘へ帰るつもりかい?」。トマリは団子っ鼻を赤くはらした滑稽な顔をおれ(または、おまえ)に向け、血止めの詰め物のために、ひどく籠った声でそう聞いた。

「決心はね、そこの墓石より堅いよ」

「そうかい」。トマリは深い息を付きながら腕組みをして、しばらく考え込んでいる。

「もうさんざ世話になったんだから、これ以上心配してくれなくていい。結局のところ、おれはおれなんだから‥‥」とおれ(または、おまえ)は言う。

 そして、ふとヒカルという人物の終焉を想う。考えてみれば、彼の出発とおれ(または、おまえ)の出発とは、矢印の方向が逆なのである。彼は、〈縦と横との綱の目〉を脱け出そうとしたが、おれ(または、おまえ)はむしろ過去の〈秩序=縦と横との綱の目〉を回復しようとしてあがいたわけだ。そして、その回復に失敗した今は、ようやく目差す方向がヒカルのそれとぴったり重なったのである。〈ヒカルはおれだ〉と気付く。この発見は新鮮なオゾンを籠めた爽やかな風になって体の中を吹き抜ける。〈ハルカの言うように、おれがリョウであってもわるくはないな〉

「丘へ帰るぞ。おれの墓へ‥‥‥」

 

 

 Z

 

 トマリは真底から親切な男である。古墳までの道を戻るために、わざわざ馬車を出してくれたばかりか、かつてキナサへ行幸された高貴な人が一度だけ排便に使ったという肥桶を、おれ(または、おまえ)の棺桶としてくれると言うのである。もちろん汚物は処理されていて、消毒も万全になされたものらしい。

「なにもねえからさ、これがおらのせめてもの贈物だで」とトマリは言う。「汚物の代わりにおめが入って浄土へ行くだ」

 駄洒落を口にする彼の言葉を聞きながら、おれ(または、おまえ)はオアイソに少し笑って、皺だらけの小さな彼の手を固く握る。この親切な男の貴重な一日を潰してしまった上に、彼が家宝のように大事にしている由緒ある肥桶まで取り上げる結果となり、しかも無一物のおれ(または、おまえ)は、彼に対してなんのお返しも出来ないていたらくなのだ。

 それにしても不死身なのはトマリという男だった。あれだけオカミにいたみつけられたのに、しばらく休んだだけで既にしゃんとしているのだ。

「力になってやれねえが、堪忍しとくれな」とトマリは消え入るような声でそう言うと、キナサ村に一軒だけ開いているマーケットから、〈ミネラルウォーター〉と〈カンパン〉、それに〈アンミン〉という睡眠薬と、〈カームネス〉という精神安定剤まで買い求めて来て、餞として添えてくれたのである。

 おれ(または、おまえ)は、深く考えることもなく、ただこれ以上迷うまいと思って、さっそく〈カームネス〉を全部飲んでしまったが、後で聞くところによると、それは三日分の量なのだそうだ。

「まあ、害はねえだらず(ないだろう)」とトマリは口を動かす。〈害〉という言葉は面白い。キナサには、そこら中にいろいろな〈害〉がころがっているが、村人たちはとかく見当違いな〈害〉ばかりを見詰め、本質的な〈害〉については見えていない。

「おれは、おれだ」とつぶやく。「不確かなもの、それでいいじゃないか」

 凸凹道を荷馬車が砂塵を巻き上げながら走る。荷台には派手な色付けを施された豪華な肥桶がひとつ乗っている。痩せて肋骨の透けて見える二頭の馬は、まるで情緒障害かなにかのように無表情に、並んだ同類に対してのみならず、御者台の上の人間に向かっても、超然として首を振りながら、投げ遣りな足の運びによって、のろのろと車体を引きずっている。遠景の山脈から、近景の畑や田圃や果樹園など、それぞれあまり変わり映えはしない景色だった。それを見る主体が変化したからであろうか。とにかく、トマリと並んで御者台に腰掛けたおれ(または、おまえ)は、朝方の場合のように視界に開ける諸々の対象に向かって性急な問いを投げ掛けたり、無意味なものの中から半ば強引に意味らしき影を見出そうとあさましいほど緊張して、底抜けのバケツに水を汲んでみたりするといったことからは解き放たれていて、既に外物を平板な風景そのものとして、ぼんやりと見ているに過ぎない。それには〈意味〉という奥行や、〈思想〉という影などは失せている。

 登り坂が丘に連らなり、勾配が急になると、背中に汗をかいた馬たちが激しくいなないて車を軋ませ、車体もグラグラ揺れる。おれ(または、おまえ)は馬車の横木にすがり付き、振り落とされないように必死に堪えている。一方では、死地に赴こうとしているのに、〈必死〉になっている自分が、とても滑稽で、おかしくて仕方ない。〈あるがまま〉、〈ケセラセラ〉、などと意識して口ずさみつつも、なにかにすがりたいとする潜在意識を克服できないでいるのだ。心の弱みは、内部にある属性のようでもある。

 ようやくのことで古墳のある場所に辿り着く。モーニングを着込んだトマリが、荷台の上から桶を下ろす。下に構えているおれ(または、おまえ)が、その重量を両手に支える。これがおれ(または、おまえ)の入る最後の場所になるのだと思うと、おかしな気分になる。それは、とうてい釣り合わないほど優雅で豪華な桶である。黒い漆塗りの上に、赤い鳳凰の羽ばたく姿が線刻で描き出され、上部の焦げ茶の枠には、細かな唐草模様の彫刻が施されているのだ。

「この辺でいいかい?」。トマリはシャベルを丘の中央に突き立てて、おれ(または、おまえ)の顔を見る。

「結構」

 西陽が欅の枝葉を透かして、その網の目のような影を地上に落とす。夕日影が枝々を染めている。根本から一メートルほどのところから二つに分かれているが、不思議なことに、北側は焦げ茶色に見えるのに、南側は真っ赤に燃えている。そして、おれ(または、おまえ)の体は、木の影に包まれている。だから、そこでは薄い影について心配する必要もない。風が耳元を吹き過ぎつつ囁くのを聴く。《おまえは自由だ》と…‥。

 光と影との織りなす模様を、トマリのシャベルが掘り返す。鼻の穴を塞ぐ血止めの布のために、大口をあけて喘ぐような呼吸を続けている男にとって、穴掘りの作業は苛酷に過ぎるのだが、職業柄、手際は素晴らしくいいのだ。

「手伝うかね」。彼に代わってシャベルを使おうとすると、〈自分の墓穴は自分で掘るものではない〉というキナサの《伝統》に忠実なトマリは、ふらふらとよろけながらも、手出しをいっさい受け付けない。キナサの善良な住人の気分を損ねる気はないので、素直に引き下がる。《伝統》という〈縦〉の関係にこだわるところは、いかにも生きている人間らしい発想であると気付くと、既にそんなことには無頓着になっているおれ(または、おまえ)は、いよいよもって人間離れのした〈存在〉なのだと思い知らされる。

 小一時間も過ぎた頃になると、穴が充分な深さに掘り下げられている。

「おい、引張ってくれ」と穴の中から禿頭の先だけを見せてトマリが叫ぶので、穴の縁へ行ってみると、丁度肥桶がすっぽり入るほどのへこみが出来上がっている。欅の幹に荒縄を縛り付け、その先端を穴の中に垂らし込む。

 やがて、西の空が爛れたように赤紫色に染まり、見はるかす外界の全てがその反照を受け、風景が個性を失いかける。そのものの持つ色調は、より強烈な光の色の打撃をまともに食らって色褪せるが、一方、横殴りに射し込む明かりは、物体の明暗を際立たせ、全ての物が立体的な質量を持ち始め、迫力が付く時でもある。遠くの山脈がのしかかるようにどっしりと迫って来る。そばに立つ欅の木は、直下のものを覆い隠そうとする。仰いでよく見ると、空を支える樹影は、青黒く息付き、そこに塒を作っているカラスの群れが、既に夕暮の帰還を果たしたらしく、あちこちに羽ばたきやら咳払いのようなくぐもった鳴き声などを立てている。それは〈孤〉では生きられない生き物の宿命のようにも思える。集団の中に〈孤〉を埋没させ、擬似的な安心を手に入れるというやり方なのだ。やがては夜の闇が生き物たちの〈個性〉を塗りつぶすのだろう。カラスたちの囁き……、それは、かつて聞いたこともないような、かなり隠微で不可思議な物音である。

 古墳の丘に、湿った風の流れに乗って、薄暮がにじり寄って来る。

 間もなく、おれ(または、おまえ)は穴の中へ肥桶を嵌め込む作業をトマリに手伝った。桶の内側は白く塗られていて、その底に当たる部分には紫色の〈座布団〉と〈毛布〉と〈ミネラルウォーター〉と〈カンパン〉、それに〈便器〉までが置かれている。

「その便器がいっぱいになったらば、ええか、蓋のとこを叩いてくれや」。トマリは言い継ぐ。「時々おらが見に来てやるだで、上からホースを垂らし込んでな、なんだら毎日でも汲み取ってやるで……」

「ありがたい言葉だが、多分、そんな心配はしないでいいよ」

「遠慮するでねえど」。トマリは頭から額にかけて、魚卵のように吹き出た汗の粒を拭いながら言う。「土をかけてもな、せいぜいが三十センチだで、掘り返す手間はてえしたこっちゃねえだ」

「そりゃそうだろうが‥‥」とおれ(または、おまえ)は言い澱む。〈そんな必要はないよ〉とは言いにくい。

 景色がぼんやりし始め、麓の方から夜霧が吹き上げて来ると、欅の枝葉がこすれ合って囁き交す。もうカラスは夢見の時刻らしい。間もなく、空が色を失いだす。

「さあ、これで準備は出来ただが、どうするい?すぐ入るだかい?」。トマリは痙攣したように瞬きを繰り返しながら尋ねる。

「あゝ、もう入るよ」とおれ(または、おまえ)は言う。「ぐずぐずしてると暗くなって、あんたにも迷惑だろうしね」

「なにさ、おらのことは構わんでええだ」と彼は応える。

「じゃあ」。さっきトマリが穴の底から這い上がる時に用いた荒縄の端をつかむ。丘の斜面の草地でシロツメクサをはんでいる馬がいななくと、欅の葉が音もなく一枚落ちかかってくる。

「気を付けてな。怪我しねえようにゆっくり降りるだど」

 おれ(または、おまえ)は、間近に立っているトマリをじっと見ている。男を見つめるのもこれで終わりだと思いながらも、格別な感情は湧いてこない。それでも、なにか言わなければと考えてみるが、言葉の組み合わせがうまく出来ない。ただ黙って突っ立ったまま、男の全身を凝視しているだけである。トマリの小柄な細い体は、よれよれでだぶだぶのモーニングに覆われている。相手に対する敬意を表わすための正装なのである。白い髭が割れて、かすかに歯らしいものが覗くと、その奥から言葉が繰り出される。「なんにも、おめの力になれなくて‥‥‥」。細い目がただの線になり、トマリは節くれ立った右手をおれ(または、おまえ)の左肩に軽く乗せかける。

 おれ(または、おまえ)は黙ったまま頷き、肩の手をはずしてしっかり握りしめる。トマリの手は燃えるように熱い。彼の顔の辺りは暗く翳っていたが、禿頭の丸味だけはまだわずかの余光に映えている。握り返すトマりの手に力が籠る。

「相変わらず冷てえ手だいなあ」とトマリは言う。「どうしてこんなに冷てえんだか……。まるで〇〇のようだいな」

 最後の言葉は風にさらわれてしまい、一部が聞き取れない。言ってしまってから、トマリはあわてて右手で自分の口を抑える。

 その風と共に去った言葉は、およその察しが付く。相手の手を振り切ると、両手を上げて深く息をし、黒い枝葉越しの空を見る。それから縄を伝って、訳もなく桶の中へ落ち込んでいた。

 坐り心地は予想以上に良好である。二人でも入れそうな広さがあるし、桶とは言っても、なにしろこの国の一番の〈お偉い人〉が用いたという由緒ある豪華なものなので、安っばさからくる粗さがないし、その上素晴らしくいい木の匂いがするのだ。

「これはなあ、総桧作りなんだ」と言っていたトマリの言葉を反芻する。

「水と食糧があるで、一週間は大丈夫だからな。達者でやれや」。上から震えたような鼻声が落ちて来る。「その間に、もしも気が変わったら、ちゃんと合図をするだど、なんせ墓掘りはなれてるだからな」

 見上げると、男の大きな顔がおれ(または、おまえ)の方を向いて泣いているのが目に入る。

「身寄りのねえ、もうらしい(かわいそうな)奴だ」。トマリの涙声が聞こえる。「堪忍しろや.おらが助けられねかったことを‥‥」

 布団の上に立ち上がったおれ(または、おまえ)は、三メートルほど上に男の首を見ることになる。なにか言うべきことを忘れていると気付きながら、ひどく疲れたような感じで体がだるく、頭もばんやりしている。着ている帷子様のものまでが、重く体を外周から圧迫してくるかのようである。鉛がおれ(または、おまえ)を包む。頭の中も、口の中も、胸も、腹も、そして帷子さえも、全て銀色の鉛が占めている。そして、忘れた言葉は思い出せない。

「これが最後だからさ、おめにひとつだけ教えてやるだがな、実はここにもうじき、ミサイルの基地が出来るらしいで‥‥」

「ミサイル」。ヒカルのノートの言葉を思い出す。「ミサイルか……」。ラベンダー色のワンピースを着た少女の口からも聞いて知っていることだが……。

「まあ、おめにゃミサイルも糞もねえだらずがさ(ないだろうがな)」

「もしもそうなれば、おれの墓は、どうなるんだね」

「さあな」とトマリは言う。「おらにゃ分かんねえだよ」

「困るよ、それは‥‥」。おれ(または、おまえ)は言葉を継ごうとしていた。

 トマリはそれを無視して、「じゃあ、もうじき蓋をするでな」と言う。

 おれ(または、おまえ)は上を見続ける。なにか冷たいものが落ちて来て頬に当たる。男の涙らしい。黒味がかった空を背景に、輪郭だけのトマリの首が見える。

 なにか言おうとして言葉を捜すのだが、気が焦るばかりで、喉が詰まったようになり、声が出せない。

「そんじゃ、蓋をな、蓋をかぶせるで……」。荒縄を頼りに棺桶の縁まで下りてきたトマリが遠慮がちに告げる。

 板切れが徐々におれ(または、おまえ)の空を奪う。辺りはすっかり暗くなる。

「あっ!」。おれ(または、おまえ)は辛くも声を出す。その声は桶の内側の狭い空間を踊る。

 たちまち釘を打ち込む音がし始める。桶が震え、桶に触れている休も小刻みに揺れる。

「ミサイルか、なるはど、なるほど」。意味もなくつぶやく。ヒカルの秘密がいくらか解けかける。しかし、〈カームネス〉が、十分過ぎるほど、その効能を発揮しているらしく、頭はひどくぼんやりし始めている。 やがて釘の音が止むと、桶と蓋とのわずかな隙間から、トマリのつぶやくような声が細々と途切れがちに伝わって来る。それは、単調な長い言葉の連らなりであるが、意味が通じないままである。夕暮れとは言え、桶の内部に比較すれば、まだ外は明かるいので、隙間から漏れ入る光の線が白々と見える。

「トマリさん!」と声をかけてみる。

 外の男は気付かずに、例のつぶやきを続けている。今になって、トマリに言いたいことがひとつだけあることに思いを致している。〈もうらしい(気の毒な)〉のは、むしろキナサの住人なのかも知れないと考えてみる。〈なぜなのか〉がぼけているが、それは薬効のせいにする。キナサにミサイルの基地が出来れば、どうなるか……。この静かな村が、大きく変わるに違いない。ハルカが口にしていたように、泥道も舗装されるだろう。国の補助金で、村は豊かになり、ミサイル基地が観光客を呼び、道沿いに商店街ができるかも知れない。

 頭上に重い音がして、おれ(または、おまえ)の桶の周囲にが振りかけられている。トマリの使うシャベルの先に石が当たる音も混じる。辺りは完全な闇に変わり、既におれ(または、おまえ)は外界から隔離されているのだが、なんの感慨もない。何度も欠伸をする。それから手さぐりで〈カンパン〉を食べながら、時々〈ミネラルウォーター〉を飲む。土の音を聞いている間も、禿頭に汗の粒を浮かばせてシャベルを使っているトマリの姿を想うと、訳もなくおかしくなる。あのせわしない口呼吸の音が、耳元に迫って来そうな感じなのである。〈鼻血は止まったろうか〉。トマリの健康状態を心配している。〈彼だけでも、なんとか正気でいてほしい〉

 

 縦卜横トノ綱ノ目。縦ノ顔、横ノ顔。

 形ノ影ノ死、生キナガラノ死。

 沈黙ノ証人‥‥…。

 

 ヒカルのノートの言葉が、おれ(または、おまえ)の頭の中に浮かぶ。そして、不思議なことが起こる。耳元に囁く誰かの声が、ヒカルのノートの言葉を告げる。それは、欅の木の葉をくすぐるそよ風のように、低い声だった。

「疲れているな」とひとりごちる。外からの物音は、既に完全に遮断されているのであるから、今聞こえる言葉は幻聴であるに過ぎない。〈トマリはもうシャベルについた泥土を落として、腰の手拭いで汗を拭きながら、例の痩馬に鞭打って、キナサの集落の方へ引き返した頃だろうか〉

 長い一日であった。いろいろな人に出会い、様々な風景を見た。全ては夢の中の情景に似ていた。取り分け、ハルカと過ごした花畑の印象が深い。明日の朝まで待てば、ハルカが赤い〈カプチーノ〉に乗ってここまで来てくれるだろうか。それにしても、おれ(または、おまえ)は誰なのか、結局は分からずじまいになってしまったが、〈住所〉〈氏名〉〈年齢〉〈職業〉などがはっきりしていても、〈生キナガラノ死〉を生きているキナサの人々を知ることによって、彼等との距離はなくなったのだ。「裏と表の関係‥‥」とおれ(または、おまえ)はつぶやく。「ヒカルはおれだ。そして、もしかして、リョウも……。しかし、おれは自由なんだ」

 疲れきっていたので、ゆっくり眠りたいと思う。体の内も外も、重い鉛に覆われている。もう、なにもかもが億劫である。桶の底を手でさぐり、〈アンミン〉のカプセルを捉える。左手にそれを持ち、〈ミネラルウォーター〉のペットボトルを右手にして、深呼吸を三回する。それからペットボトルを傾けて喉を潤すと、〈アンミン〉の一週間分を一気に飲み下す。

 部厚い闇が体の周辺に犇めいている。静かである。毛布をかぶり、少し体を崩して桶の一部に寄りかかり、目を閉じる。

 〈ミサイルってなんだっけ〉。少し考えてみるが、面倒臭くなり、欠伸が出る。生欠伸なのか、五度も六度も、立て続けに出る。体の位置を少し動かす。妙な音がして、右手に金属の容器が触れる。トマリのくれた〈便器〉であることに気づき、それを叩いてみる。はじめはそっと、段々に激しく‥‥。闇の狭い空間を音波がぶつかり合う。いやな音である。叩くのを止める。音が消えると、深く澄み切った静寂が戻る。

 その時、闇のスクリーンの中に、カウンターの上に仁王立ちになったオカミが、全身を包帯に捲かれたまま、なにか叫んでいるのが見える。時の流れの帯が、風に靡くブランコのように音もなくたゆたう。口を大きく開いてわめくオカミの顔が消えると、しばらくして、手拭いの切れ端で鼻の穴をふさがれ、大口を開けながら泣いているトマリの姿がまぶたに映る。ゆっくりと顔を上げた彼の充血した目が闇を見つめる。〈ウサギの目みたいだな〉とおれ(または、おまえ)は思う。赤い〈カプチーノ〉が猛スピードで現れ、ラベンダー色のワンピースの裾を翻してハルカが降り立つ。両手いっぱいに抱えているのはリンドウにキキョウ、それにオミナエシの花々だった。金髪の頭に赤トンボが止まっている。一瞬の幻像だった。それはズームダウンをかけられた映像のように縮小し始める。なにもかもが、思考の網の目からこばれ落ちていく‥‥‥。〈自由だぞ、おれは自由だぞ〉とつぶやき続ける。

 

                    (了)

  

(註記・作中のキナサは、現実にある鬼無里とは無関係です)

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