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終わりの夢      渡辺たづ子                  文芸誌O

推薦 小島義徳(文芸誌O

この小説は2003年4月から8月初めまで、108回にわたって長野日報に連載されたものです。

 

300枚の長編なので6つのファイルに分割アップロードしています。

砂漠の夢 メグミの夢 流子の夢

健一の夢 絵里の夢 終わりの夢       

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「終わりの夢」縦書きPDFファイル、1    縦書きPDFファイル、2

 


  
  砂漠の夢

 

 

    砂漠の夢 1  

 

 事務局からそのクライアントの話が来た時、絵里はすぐに返事が出来なかった。

「年齢は三十歳、未婚の男性です。日中は家業のコンビニエンスストアを手伝われています。去年、妹さんが亡くなられて、それ以来、欝状態が目立ってお店に出る他は外出をしなくなったそうです。お母様がご心配になって、こちらに連絡してこられました。仕事の都合上、面接は夜を希望されていますが、先生のご都合はいかがでしょうか」

 絵里が所属しているメンタルケア事務局は、出張カウンセリングを特徴としていることもあって、クライアントは年配者が圧倒的に多い。これまで絵里が面接した相手は、みな六十代以上だった。

 彼らは話し相手を求めている孤独な老人達だった。協会の取り決めである週に一度、一回につき九十分という面接の枠では物足りないと、帰り際に絵里の手を握る老人もいた。しかし今度の相手は三十歳、自分より十五歳近く若い。

「オファーはお母様からということですが、ご本人は納得されているのでしょうか」

 本人以外からの依頼というのも初めてだった。

「消極的な賛成、というところではないでしょうか。はっきりした言葉を使われたわけではないのですが」

 事務局員が応える。

「消極的な賛成、ですか…」

 積極的な反対→反対→消極的な反対→どうでもいい→消極的な賛成→賛成→積極的な賛成。

 こんなふうに頭の中に図式を作ってみると、消極的という言葉が持つ否定的な響きが薄れていく。

 消極的な賛成、結構じゃないか。

「分かりました、お受けします」

 返事をしたその日のうちに、クライアントの自宅地図と初回面接日、時間が記載されたファックスが入ってきた。自宅のある駅から目的地までは、電車で約四十分かかる。その長い距離は、かえって有難い。

 絵里はいつも、クライアントに会いに行くための電車に乗った瞬間から、面接の準備を始める。これから会う人の為に、自分の中から自分を追い出しにかかるのだ。抱えている問題をかき集めて、いったん隅に置いておく。そうやってその人のための場所を作り、広げていく。今回はその準備に、四十分という時間が用意されているということだ。

 佐藤健一。

 ファックス用紙に書かれたクライアントの名前を、絵里はじっと見つめる。そしてその青年の心に広がっているだろう闇に、思いを巡らす。

 

   砂漠の夢 2

 

 商店街の中に、佐藤健一の家はあった。父親が経営しているコンビニエンスストアの裏手が住まいになっている。約束の午後七時少し前に玄関のブザーを押すと、ドアを開けたのは老人だった。

「はじめまして。メンタルケア事務局からまいりました中山と申します」

 型どおりの挨拶をして、事務局からの身分証明書を示すと、老人はそれを受け取って眼鏡をはずし、目を近づけてじっと眺めた。それからまた眼鏡を掛けて、今度は絵里を見つめた。

「あんた、この人かい?」

 証明書に貼ってある写真を指差す。

「はい、そうですが」

 事務局から渡されている資料の中には、健一の同居人データも記されてある。

 父・篤志五十九歳、母・美知子五十六歳、祖父・芳造八十三歳。

「そうは見えねえなあ、写真よりほんもんの方がずうっと別嬪だに」

 芳造は真白な入れ歯を剥き出しにして笑った。

 その時、廊下に面したドアが開いて中年女性が顔を出し、あわてて老人に駆け寄った。

「おじいちゃん、お客様に失礼じゃないですか。すみません、先生、さあ、どうぞ」

 健一の母、美知子だった。整った顔立ちをしている。

 通されたのは玄関脇の応接間だった。

「健一の母です、本日は遠くからありがとうございます。主人と相談して、先生のお力を借りようということになりました。家族とは口をききませんので、どうしようもないのです」

 美知子は深く頭を下げた。

「健一には、先生が今日いらっしゃると、今朝になって話しました。前もってそういう方が来てくれるかもしれないとは言っておきましたが、あまり詳しく話しませんでした。不眠もあるようなので、気に病んで本人の負担になってもいけないと思いまして」

 話の内容は切実でも、あまり切羽詰った印象がないのは、彼女が持つどことなくおっとりした物腰からきているのかもしれない。

「健一さんは、面接をいやがっておられますか?」。

「いえ」美知子は首を横に振る。「会うだけは会おうと言っています、すみません。今、本人を連れてまいりますので」

 美知子は立ち上がり、一礼して静かにドアを閉めた。絵里は座り直して、呼吸を整える。

 やがて、静かにドアが開いた。

 

   砂漠の夢 3

 

 入ってきたのは青年だった。背が高く、聞いていた三十歳という年齢よりも若く見える。まだ学生のような雰囲気が残っているのは、伸びた髪のせいかもしれない。彼はその場で一礼すると、向かいのソファに腰を下ろした。高い鼻やくっきりとした上唇の形が母親とよく似ている。

「はじめまして、中山です。佐藤健一さんですね。お母様からのご紹介で伺いました」

 あまり堅苦しくならないように、声のトーンを少し上げてみる。

「はい……」

 呟くように応えて、健一は、膝の上に落としていた視線を一瞬こちらに向けた。

 思ったほど暗くはない。絵里は少し安堵する。もっと沈んで頑なな光りを持った瞳に接したこともあったが、これまで面接を中断されたことはなかった。

 事務局の取り決めとしては、面接は週一回で九十分、五回がワンセットになっている。五回分の料金を前払いされてから面接が始まるのだ。中断されても料金は返却されないシステムになっているが、先輩に聞くと、これまでトラブルはないとのことだった。

「どうですか、最近は」

 俯いている青年に、絵里はさり気なく切り出す。

「どう、って……」

 健一は顔を上げ、戸惑ったように呟く。そして一瞬絵里を見て、また膝の上に視線を落とした。

「あまり眠れないようだと」

 言葉を区切って、相手の返事を待つ。しばらく待っても、健一からの返事はない。

「調子はよくないですか?」

 問いかけると、

「そうですね…」

 ようやく少し顔を上げて口元を少し緩めるが、俯いている時は、ほとんど表情がない。

「眠るのは大変ですか?」

 重ねて尋ねると、

「そういう時もあります」

 しばらくして、ぽつんと言葉が返って来る。

「昨日はいかがでした?」

 またしばらくの間。

 ふいに壁に掛かっている鳩時計が鳴った。

「あまり…」

 それを合図にしたように、健一が口を開く。

 立ち止まって、時々交互に足踏みをしているだけだ。全く会話にならない。

 

   砂漠の夢 4

 

 これまで絵里が接した相手は、こちらが一言切り出すと、堰を切ったように話し出すのが常だった。お金を払ってまで人と話したい、そんな切実な思いを持った老人がほとんどだった。絵里はただ、そんな相手の気持ちを受け入れて、静かに相槌を打っていればよかった。

 しかし今、自分の前にいるこの青年は、ほとんど言葉を発してくれない。事務局に面接を依頼してきたのは彼の母親だった。彼はただ、母親への義理を果たすためにだけ、この場に座っているのかもしれない。

「眠れない夜はどうしていますか?」

 質問ばかりだ。

 絵里は自分がこれまで発した言葉を思い返しながら、うんざりしていた。全くなってない。

 そんな気持ちが通じたのだろうか。健一はふと顔を挙げ、まるで憐れむかのように、口元を少し緩めた。微笑とも冷笑ともつかない笑いだ。

 もうやめた。

 絵里は覚悟を決めた。相手から言葉を引き出そうなどと思わなければいいのだ。

 絵里はすぐ前にある健一の肩の辺りに視線を当てた。呼吸と共に、肩が微かに上下している。その動きと自分の呼吸を合わせてみる。何度か繰返しているうちに、健一と自分の呼吸が合ってきたのが分かった。  

 時間がゆっくりと過ぎていく。

 健一が膝の上に置いた手を組替えた。絵里も同じように膝で軽く組んだ手を解いて組替える。健一が固くなった筋肉を解すように、肩を軽く回すような仕草をした。絵里も同じように肩を回す。

 健一がこちらを見た。絵里はその視線を受けとめる。  

 その唇が微かに動いた。

「かんがえます」

 言葉は耳に入ったのだが意味が分からず、絵里は咄嗟に聞き返していた。

「はい?」

「眠れない夜は、考えます」

 健一は、さっきより声を上げてゆっくりと言った。

 彼の言葉を心の中で繰返してから、ようやくそれが、さきほど自分が発した問いかけへの応えだと気がついた。

 眠れない夜はどうしていますか?

 眠れない夜は考えます、と彼は言っている。

「どんなことを?」

 絵里が訊く。

「妹のことを。彼女がみた砂漠の夢のことを」

 健一は応えた。

 

   砂漠の夢 5

 

 健一が欝状態になったきっかけは、妹の死だと聞いていた。彼の中では、妹がとても重要な位置を占めているのだろう。

「妹さんは砂漠の夢をみたんですか?」

 絵里が訊くと、

「ええ、何度も」

 健一は口元だけで微笑んだ。すると彼の顔に血が通い始めたように、表情が現れてきた。

「同じ夢を?」

「そう、繰返し、繰返し……」

 その夢を思い出すかのように、うっすらと笑みを浮かべる。

「同じ夢を見続けるなんて、不思議ですね」

「そういう経験ありますか?」

「……ないと思います」

「こういう話、嫌いですか?」

「いいえ、むしろ好きです」

「そうですか……」

 健一は安心したように呟いてから、

「話してもいいですか?」

 遠慮がちに訊いてきた。 

「ぜひ、聞かせてください」

 絵里が応えると、

「内容自体はつまんないと思いますけど」

 そう言って彼は、小さく一つ咳をした。

「妹は、テントの中で寝ているんです」

 彼は自分の言葉を確認するように頷いた。

「そこは砂漠のまん中です。真っ暗で何も見えません。音が聞こえるだけです。風と砂の音。遠くから砂嵐がやってきます。

 妹はテントの中で一人横になって、その音を聞いています。巻き上げられた砂の音は、段々とこちらに近づいてきます。まっすぐ、こちらに向かって進んできます。やがて、ついに彼女が寝ているテントの上に砂が掛かり始めます。

 埋まってしまう。

 彼女はその時、いつもそう確信します。生きたまま砂の中に埋められて、わたしはゆっくりと死んでいく。苦しみながら。それがはっきりと分かるんだと、妹は言っていました。どこにも逃げ道はない。彼女はきつく目を閉じて、ばらばらとテントを打ちつける砂の音を聞いています。音はしだいに激しくなる。だんだんとテントが砂の中に沈んでいくのが分かる。そしてついにテントは砂の重みで崩れ落ちる……。

 で、その先はどうなると思いますか?」

 健一は絵里の顔をまっすぐに見た。

 

   砂漠の夢 6

 

「さあ」

 絵里は首を傾げる。

「そこは、それで終わりなんです」

「目が覚めるの?」

「いえ、場面が変わるんです」

 健一はまた一つ、小さく咳をする。

「彼女は何かに抱きとめられているんです。大きくて柔らかい何かに。でも、目を閉じているからそれが何なのか、そこが何処なのか分からないのだそうです。でももう砂漠のテントの中じゃない、とても安心できる場所だと、こここそ自分がいるべき場所だと、確信できる。夢はそこまでです。

 だから彼女はいつも、目を開けたいと言っていました。今度あの夢をみたら、きっとここで目を開けるのだと、妹はいつも悔しがっていた」

 砂漠の夢?

 健一の口からこの言葉が初めて出た時から、実は、絵里の中で何かがずっと引っ掛かっていた。

 砂漠の夢というのを、自分もどこかで聞いたことがあるような気がする。

「あなたは、……えっと、先生は……」

 健一が言った。

「中山、です。そう呼んでください」

「中山さんはこの夢を、専門家にとっては解釈しやすい夢だと思っているんじゃないですか?」 

「私は心理療法をしているわけではないです」

「夢の解釈とかはしないんですか?」

「そういうことはしません。基本的には、専門的な知識を持って、お話を傾聴するということですが」

「……そうなんですか」

 健一は拍子抜けしたようだった。

「例えば何かに名前をつけたり、意味付けをしたりすると人間は安心するものでしょうけれど」

「ええ、そういうことをしてもらえるのかと」

「もし、お望みならば、事務局には横の繋がりもありますから、違う方も紹介できます。ただし、佐藤さんの方から出かけていくということになりますが」

 そうですか、と健一は俯いた。今の彼にとって外出は大きな負担なのだろう。

「佐藤さんがその砂漠の夢に拘っていらっしゃるのなら一緒に拘りますと、私はそういう者です」

 もう規定時間が過ぎていた。来週の確認を取らなければならなかった。

「もし私でよろしければ、来週もお伺いしますが」

「はい、分かりました」

 やがて決心したように顔を挙げ、健一は頷いた。

 

   砂漠の夢 7

 

 佐藤健一の初回面接を、何とか次回に繋げて終わらせることができて、絵里はほっとしていた。

 これから先の面接では、その砂漠の夢について彼と一緒に考えていかれればいいと思う。

「終わったかい」

 玄関を出て歩き出したところで、突然、後ろから声を掛けられて、絵里は飛び上がるほど驚いた。

「うちの孫はどうだい? 病気かい、やっぱり」

 健一の祖父、芳造だった。

「あ、先ほどの……」

 佐藤家の玄関のベルを鳴らした時、ドアを開けてくれたのが彼だった。

「孫はどうだね、治るかい」

「さあ、私は医者ではないので」

「あんた、医者じゃないんか? じゃ、何しに来なすった」

「何しにと言われましても……」

 どう応えていいのか迷っていると、

「さっき美知子さんが先生と呼んでたから、てっきり医者かと思ってたわ。あんた、学校の先生かい?」

 芳造は玄関でのやりとりを思い出したらしく、重ねて訊いてくる。

「いえ、そうではないのですが」

「役場か保健所の人かい、健一を入院させるんか?」

「いえ、そんな……」

「そうかい……、まあ、なんでもいいや」

 老人は大きく一つ溜息をついた。

「さっき名刺見せてもらったが、わしは目が悪くて小さい文字は読めんからなあ。あんた、健一を何とかしてやってくれや」

「私は何も…ほんの少しお役に立てればいいかと」

「ちいせえ頃はじいちゃん、じいちゃんってよくオレんとこ来たもんだったが、今じゃ声かけても返事もしねえや。あれじゃあ、死んでるもおんなじだ。頭もよくて、難しい大学を出て、いいとこに就職しても、ああなっちまう。あれの妹にしてもなあ……。先生、ひとつよろしく頼みます」

 芳造に深く頭を下げられて、絵里もあわててお辞儀した。顔を挙げると、老人はまだ頭を垂れていた。

「お力になれるといいんですが」

「また来てもらえるかい」

「ええ。また来週の火曜日、同じ時間に伺いますので、こちらこそよろしくお願いします」

 芳造に一礼して、絵里はその場を離れた。しばらく歩いてからふと振り返ると、老人はまだ同じ場所に立ってこちらを見送っていた。

 

   砂漠の夢 8

 

 佐藤健一の面接を終えて家に着くと、夜十時を過ぎていた。

「ただいま」

 居間でテレビを見ている夫の寛に声を掛ける。夫は自宅近くのビジネスホテルに勤めていて、今日は早番だった。ちょうど家を出る絵里とすれ違いになるので、出掛けに夕食を用意しておいた。それがまだ手付かずのままになっている。

「ご飯、食べなかったの?」

「ああ」

 サッカー中継から目を離さずに応える夫は、いつものように焼酎をウーロン茶で割って飲んでいる。

「一緒に食べる?」

 味噌汁を温めながら聞くが、寛は首を横に振る。

 今日もずいぶん飲んでいる。その動かない背中を見ていると、この先どうなるか不安になってくる。

 結婚して二十年になるが、子供はいない。まだ若い頃は母親というものに憧れた時期もあったが、寛が積極的に子供を欲しがらなかったので、何となく過ごしているうちに、母親になるには年を取り過ぎてしまった。

 寛とは、絵里が大学二年の夏休みにアルバイトをした軽井沢のホテルで知り合った。絵里より三歳年上の彼は、そのホテルの従業員として働いていたが、自分の本職は画家だと言った。

「絵を描きながらあちこち旅をしてるんだ。軽井沢が何となく気に入ってここに二年も住んじゃったけど、夏が過ぎたら沖縄に移る。沖縄のホテルで働きながら海の絵を描くよ」

 寛の両親は彼がまだ小さい頃に離婚して、以来、母親と二人で暮していた。彼が高校生の時に、母親は病死している。親戚の援助で学校は卒業したが、それからはずっと一人で気ままに暮らしてきたと彼は言った。

 その頃の絵里は、生きていくことをとても窮屈に感じていた。だから寛という人間が、自由の象徴のように思えた。

「寂しくなるわ、せっかく友達になれたのに」

「手紙書くよ、働くとこが決まったらすぐに知らせる。君も大学が休みになったら来ればいい」

「沖縄は遠いわ、旅費だってないし」

「じゃ、切符は送ってやるよ」

 そんな話をして別れたのだったが、本当に沖縄行きの航空券が届いたのには驚いた。

「約束は守るさ」

 電話のむこうで笑う寛が、とても頼もしく思えたものだった。

 

   砂漠の夢 9

 

 寛とは三年間付き合って結婚した。家族の反対を押しきってのことだった。

「バカだバカだと思ってたけど、まさかこれ程だとはな。あんな男と一緒になって、この先、迷惑だけはかけないでくれよ。いいか、俺はお前にきちんと言ったからな、覚えておけ。お前は将来、何があっても、絶対に俺を頼るな」

 兄が放った言葉を、二十年経った今でも、絵里ははっきりと覚えている。

 五歳違い、二人だけの兄妹だったが、絵里は小さい頃からこの兄に親しみを持ったことはなかった。兄は小学生の頃から、成績は常にトップだった。たいてい自室にこもって勉強したり本を読んだりしていたから、一緒に遊んだ記憶もほとんどない。彼は難関といわれる国立大学を出て、大手銀行に勤務していた。

「一流大学出ていい会社で働いて、それが全てなの?人それぞれみんな違うのよ。お兄ちゃんは自分の学歴や職歴を大事にすればいい。それはそれでいいよ。でも、こっちにまで自分の価値観を押しつけないでよ。何が大切かなんて、人それぞれみんな違うんだよ」

 絵里は感情的になって、そう言い返した。それまでは、喧嘩すらしたことがなかったのに。

「じゃあお前は何が大事なんだ、言ってみろ」

「好きだっていう気持ちだよ」

 一瞬ためらったが、絵里ははっきりと答えた。

「バカだ、おまえは」

 兄は吐き捨てるように言って、

「気持ちだって? そんなもので一生暮らしていけるか。いいか、十年、いや、五年経って俺の前で同じこと言ってみろ、そしたらお前の言ったこと、少しは考えてみてもいいぞ」

 両親の離婚と母の死を経て、高校は卒業しているが、寛は定まった職業に就いていなかった。あちこちのホテルでアルバイトをしながら、気ままな放浪を繰返していたのだった。

「お兄ちゃんはそう思ってればいい。私たちは誰にも迷惑はかけないから」

「その言葉を忘れるなよ」

 父母の考えも、だいたい兄と同じだった。

 市役所勤めの父と専業主婦の母は、生活の安定がなければ幸福はありえないというのだった。そして、そう言う彼等にとっての幸福とは、他人の賞賛だった。他人がこちらをどう見るかということが、彼らの価値観の基準だった。だから兄は、彼らにとっては幸福そのものだった。

 絵里はそういう家庭に育った。

 

   砂漠の夢 10

 

 子供の頃、絵里は兄のようになりたいと思っていた。勉強がよくできて、優秀という言葉そのもののようなお兄ちゃんみたいになって、親に褒められたい。そして、兄に対してしか向けられない誇らしげな母の笑顔を独占したいと願った。

「クラスで一番だったんだよ」

 絵里が得意の国語で最高点を取っても、

「算数はどうだった?」

 母はそう聞き返すのだった。絵里には、親を満足させるような成績は取れなかった。

「お兄ちゃんはいいんだけど、妹がねえ……。元気なだけが取柄で」

 母は誰かに兄の成績を褒められると、謙遜のつもりか、よくそんなふうに絵里を引き合いに出したものだった。

 絵里は家の中で、いつも自分の居場所を探していた。寛に惹かれ、家族の反対を押しきって結婚したのは、彼に自分と近いものを感じたからかもしれない。

 両親の離婚後、一緒に暮していた母親が亡くなったのは寛が十六歳の時だった。高校を出るまでは親戚の家にいたが、その後はずっと一人だけで生きてきた。寛が一箇所に居続けずに放浪を繰返すのは、自分の居場所を探しているからだろうと、絵里はそう理解していた。

 結婚を機に、しかし、寛は一つの場所に定住することを約束してくれた。

「これまでやってきたキャリアを生かして、ホテルマンとしてきっちりとやっていくよ。しっかり稼いで、キャンピングカーを買おう。あれがあれば休日には絵を描きに遠くまで行けるからな。そのうち子供が出来たら、テントを積んでみんなで行こう」

 しかし、キャンピングカーも子供も、寛の空想だけで終わってしまった。

 彼はもともとが酒好きだった。ホテルの業務には早番と遅番があり、就寝時間が不規則になる。眠るための睡眠薬代わりだと言っていた酒の量がしだいに増えていくうちに、オフの日には朝から飲むようになっていった。

 飲み始めは陽気な酒で、絵里を呼んで向かいに座らせ、ホテルに来た風変わりな客の話などを始めるのだった。本もたくさん読んでいたから、寛は話題が豊富だった。

「今日は昼から映画行くんだから、あまり飲まないで」

「分かってるって、何度も言うなよ」

 そんな会話が成り立っている頃は、しかし、酒量はまだそれほどでもなかった。

 

   砂漠の夢 11

 

 二十年前、寛との結婚を反対する家族に、「好きだっていう気持ち」を大事に生きていきたいと絵里は言い切った。

「気持ちだって? そんなもので一生暮らしていけるか。いいか、十年、いや、五年経って俺の前で同じこと言ってみろ、そしたらお前の言ったこと、少し考えてみてもいいぞ」

 兄にそう言われたが、しかし、五年どころか三年後にはその言葉を思い出すようになっていた。もしかしたら絵里の結婚は、三年で破綻していたのかもしれない。

 寛の酒量が増えてくると、当然、翌日の仕事に影響が出てくる。結婚を機に安定した職場を求め、望み通りのホテルに就職できたというのに、三年目には絵里に何の相談もなく、寛は退職してしまった。

「個展をやるんだよ。友達の画廊がオープンするから、その記念に是非作品出してくれって言われてるんだ。今のホテルじゃ責任が重いし、仕事もきつい、絵を描いている暇がないんだよ。分かるだろ、休みだって疲れちゃって何にもできないんだ。オレは絵を描きたいんだよ」

 絵里には絵画は全く分からない。寛の描くものは全て風景画で、暗い色調のものが多い。以前にも友人と合同で個展を開いたことがあって、知り合いがお義理程度に何枚か買ってくれたらしかった。

「辞める前に相談して欲しかったわ、今更こんなこと言ってもしょうがないけど」

「言ったら賛成してくれたのか?」

「賛成とか反対とかじゃなくて、あなたの言っていることは言い訳にしか聞こえないのよ。今のホテルにいたって、お酒の量を減らせば絵を描く時間に回せるんじゃないの?」

「そんな力が残せるような職場じゃないよ、何度も言ってるだろ、絵筆なんて握れないんだよ。毎日、帰ってきてまた出ていくことだけで酒の力が必要なんだ」

「あまりにもお酒の量が多いわ。正体不明になるまで飲まないといられないなんて」

「だから、職場を代えるんだ」

「ホテルを代えたらお酒の量も減るし、絵も描けるのね」

「そのつもりだよ。俺は画家だからね。今のうちは金にならないからプロとは言えないけど、でも、趣味や遊びで描いているわけじゃない。自分としては絵が本業のつもりだから」

 絵里がカウンセラーの勉強を始めたのは、寛との夫婦関係がうまく築けなくなった頃からだった。

 

   砂漠の夢 12

 

 佐藤健一との二回目の面接日だった。

 一週間に一度の面接という取り決めは、実はとても重要なことだ。

 絵里は一週間という間に、彼と交わした様々な会話を思い浮かべ、彼の表情を思い出し、自分の言動を思い返す。離れていても、健一は絵里のすぐそばにいて繋がっているのだ。

 眠れない夜に、健一は死んだ妹から聞いたという、砂漠の夢のことを考えるという。彼がその夢に拘るのならば絵里もまたその夢にのめり込もう。

 自分に出来るのはそういうことなのだと、絵里は改めて自分に言い聞かせる。

 先週と同じ時間に同じ電車に乗り、これから向かう相手、健一のために絵里は自分を整えはじめる。

 絵里の中には、今、夫が大きく居座っていた。

「別れてもいいんだ」

 昨夜、飲みながら寛がぽつんと呟いた。

「どうして俺と一緒にいる? 親や兄貴への意地か。だからあれほど反対したのに、あんな奴と一緒になるからと言われるのが悔しいのか。子供がいるわけじゃない。まだこの先は長い。変な意地張って、自分の人生を無駄にすることはない」

「意地で一緒にいるわけじゃないわ」

「じゃあなぜだ、……と聞いても応えが返ってくるわけじゃなし」

「そんなに酔ってちゃ話なんて出来ないわ」

「何でもかんでも酒のせいか……」

「そうよ」

 絵里は立ち上がった。充血して濁った目で酒臭い息を吐きながら、ろれつの回らない言葉を吐き出す夫のそばにはいたくなかった。寝室のドアを力まかせに閉めて、絵里は鍵をかけた。

 職場を転々とする夫に金銭面で頼ることをやめ、子供を諦めた時点で、絵里は食品会社に就職した。定時に仕事が終わり、完全週休二日制の会社に入社できたのは、とても幸運だった。メンタルケア事務局の仕事は、会社が終わった後や休日に入れているのだ。

 気がつくと、電車は目的地に近づいていた。

 絵里はあわてて魔法の風呂敷を取り出した。そして、昨夜の夫とのやりとりをその中に掻き集める。

 心の中いっぱいに広がっている寛の言動、それに対する自分の思いを風呂敷に詰めこんで、きつく縛る。

 絵里の中から寛が遠ざかっていく。寛に振り回される自分が消えていく。

 空白になった部分に、健一が入ってくる。健一が大きくなっていく。

 

   砂漠の夢 13

 

 玄関のブザーを鳴らすと、ドアを開けてくれたのは、先週と同じ祖父の芳造だった。

「今日は美知子さんが留守なもんでね」

 スリッパを揃えてくれた。

 通されたのは初回面接の時と同じ応接間で、健一はもう先週と同じ位置に座っていた。

「どうですか、お元気でしたか」

 向き合ってから、絵里は言う。

「まあまあです」

 応える健一もいくらか慣れたようで、こちらに視線を合わせてくる。

「眠れましたか?」

「ええ、まあ」

「昨日は?」

「けっこう眠れました」

 初対面の時のような硬さはないけれど、何だか今日は取りつく島がない。前回、いい繋ぎ方が出来たと思って安心していると、こういうことがある。不用意な安心感が、相手の気持ちに寄り添えなくさせているのだ。あるいは健一自身、初対面の相手を前に喋り過ぎたと後悔しているのかもしれない。

「では、昨日は夢のことを考えなかったんですね」

 絵里は少し踏みこんでみる。

 絵里の所属するメンタルケア事務局員は、面接相手にアドバイスしたり治療的なことをしたりということはない。専門知識を持って相手の話を傾聴する方針なので、あまりこちらからは語りかけない。しかし、相手が話してくれないことには対話が成立たないので仕方ない。

「夢?」

「ええ、先週、佐藤さんは眠れない夜には妹さんから聞いた夢のことを考えていると」

「ああ、そういうこともありました」

 健一は過去形で答えて、こちらを遮断する。今日はその話をしたくないということだ。そういう時はことらもすぐにそこで立ち止まる。

「もうすぐクリスマスですね」

 さっき通ってきた、健一の父親が経営するコンビニエンスストアの前に、綺麗なツリーが飾られていたことを思い出して言う。

「そうですね」

 健一はまたぽつんと答えるだけだ。

「クリスマスは嫌いなんですか?」

 絵里が訊くと、しかし、健一はふいに顔を挙げた。

「分かりますか?」

 

   砂漠の夢 14

 

 取りつく島がなかった健一の態度に、変化が現れた。

「いい年をして、好きとか嫌いとか、たかがクリスマスに対してね、どうして拘るのか……」

 健一は足を組み、その上に指を組む。

「いろんなことを、うまく切り捨てていくことができない、だから自分はダメなんだろうと思います」

 そして、口元だけで笑う。

「どうして自分をダメだなんて思うのかしら」

「中山さんは、自分をそんなふうには思わない人でしょうね」

「そんなふうに見えます?」

「ええ、自信に満ちているように」

「そんな……、でもそれは、……反省します。そんなふうに見えているなんて」

 絵里は自分の思い上がりを指摘されたような気持ちになって、健一から目を逸らした。

 相手の気持ちに添うことを第一にしているはずが、どこかに、相手を何とかしてあげたいという気持ちが紛れ込んでいることがある。疲れた心を持っている人は、他人の心に敏感だ。いくら自分ではそのつもりがないと思ってみても、健一のような相手に言われれば、それはきっとその通りなのだろう。

「いえ、悪い意味じゃないんですよ」

 そんな絵里を見て、健一は慌てたように付け加える。

「羨ましいです、そんなふうに自分が自分でいられることに落ち着いていられる人が」

「落ち着いてませんよ、わたし」

「でも中山さんは、自分が自分であることに居心地悪いなんてことないでしょ」

「全然、居心地よくないです」

「そうなんですか?」

 健一はまじまじと絵里を見る。

 澄んだ瞳をしている美しい青年だ。

 そう感じた瞬間、アルコールで充血した夫の目を思い出し、慌ててまた魔法の風呂敷を取り出す。そして、自分の問題をその中に包み込んで隅に寄せ、目の前の青年だけのを見つめる。

「むかし、大失恋して。それがちょうどクリスマスの時だったから、それ以来、クリスマスというと反射的に自分を守るような気持ちになってしまって」

「大恋愛だったんですか」

「僕の中ではね、相手はどうだったか。おかしいですね、三十にもなった男が、女々しいでしょ、喋ってて恥ずかしいです」

「年齢なんて関係ないです」

 絵里は首を振る。

 

   砂漠の夢 15

 

「女々しいっていう言葉に、オンナ、という字が使われているから、意気地なしとか未練がましいとかいう感情が女のものみたいなイメージあるけど、そんなこと絶対にないと思う」

 健一は急に饒舌になった。

「私もそう思います」

 絵里は深く頷く。

「女より男の方が女々しいですよね」

「正直、そう思うことは多いかもしれない」

「よかった、僕が特別かと思ってたから」

 健一は笑った。

 その白い歯を見て、彼のこんな笑顔は初めてと思う。健康な歯を持った青年だ。本当に若いのだ。

「中山さんは結婚されてます?」

「ええ」

「恋愛結婚ですか?」

「はい」

「もう何年くらい?」

「……二十年です」

「個人的なことを質問してはいけないですか?」

「そんなことないですよ」

「でも、何だか身構えるみたいで、中山さんの雰囲気が硬くなります」

 この青年の前では決して嘘をついたり取り繕ったりはできないだろうと、改めて絵里は思う。勿論、どんなクライアントの前でも自己開示には躊躇わず、自分を偽らないようにしてはいるが。

「佐藤さんにとっての私が、限定された存在でないほうがいいと思って。私に色々な枠がない方が話しやすいかなという気がしたものですから」

 普通はここまでは言わない。けれどもこの聡明な青年を前にすると、自然と言葉が出てしまう。

「では、何でも聞いてもいいんですね」

「ええ」

「二十年も同じ相手と一緒にいるって、どういうことですか」

「……むずかしいですね」

「じゃあ、質問を変えます」

 健一は足を組み替えた。

「人を好きになるって、どういうことですか?」

 言ってから、彼は自分の言葉に照れ笑いした。

「おかしいですよね、中学生みたいで」

 遠慮がちに、こちらの反応を窺っているふうだ。

「中学生の自分だって、今の自分の中にいるんだもの、全然おかしくないですよ」

 戸惑いながらも、絵里は応える。

 

   砂漠の夢 16

 

「それじゃあ、もう一度お聞きします。人を好きになるってどういうことでしょうか」

 健一は長い前髪をかきあげて、絵里をまっすぐに見た。

「そうですね……正直、難しいです。どんなふうに答えても、自分の気持ちと添わないような気がしてしまう、そういう種類の質問ですね。それより、佐藤さんがどうしてそういう問いを発してくるのかということの方が、私には興味ありますけれども」

 相手にとって重要と思われる問題には、即答すべきではない。あくまでも相手と一緒に考えていこうという姿勢を、絵里はいつも取っている。

「それは逃げですか、それともカウンセリングの手法ですか。僕は答えが欲しいんです」

 しかしそれは、健一に通じなかった。

「私はいわゆる心理カウンセラーではありません。何度も言いますが、アドバイスや治療的なことは出来ません。あくまでもお話を傾聴するだけです。ですから手法というものはないんです。姿勢、のようなものならば持っています。で、佐藤さんの質問ですが、異性に関しての感情と限定して、ですよね」

 絵里は腹をくくる。

 健一に試されているのだ、と思う。

「人を好きになることによって、相手に対してどこまでも優しくなれる自分がいます。でも反対に、とても残酷になれる自分を意識することもあります。自分がどこまでも強くなれるような気がするし、とても脆くなって崩れ落ちてしまうような、そんな気持ちにもなります。こんなふうに、いつも両極端の感情の中で揺れ動きます。誰かを好きになると、とても楽しくて嬉しいし、すごく苦しくて辛いです」

 言葉を選びながら、ゆっくりと絵里は話した。

「すごいな……僕は恋愛経験が少ないから、そんなふうに考える機会がなかったっていうか……」

「私も多くないです」

「質の問題ですか?」

 絵里と健一は顔を見合わせて笑った。

 健一の笑顔は綺麗だ。三十歳という年齢になる途中で抱え込んできている、傷つきやすく脆い魂が無防備に現れる。

「じゃあ今度は、佐藤さんに同じことお聞きしたいな。 あなたにとって、人を好きになるというのはどういうことですか?」

「僕には分からないです。分からないということが、今、中山さんの答えを聞いて分かりました」

 健一は笑いながら首を振った

 

   砂漠の夢 17

 

「わたしなんかが見ると、佐藤さんのように綺麗な男性を振る女性って、いったいどんな人かと思ってしまうのだけど」

「綺麗なとか、整ったとか、そういう顔は女性の場合いいのかもしれないけど、男性の場合は、例えば僕なんかは侮蔑的な言葉として受取ります。さっきも言ったけど、女々しいやつ、の代名詞みたいに相手は使っていると咄嗟に思ってしまうんですよね」

「ごめんなさい、そんなつもりは」

「いえ、中山さんに対してはそんなこと思わないです」

「よかった」

「それに、恋愛の過程の中で顔形に拘るのは最初のうちだけでしょ」

「そうかもしれないですね」

「本当に大事なものは、その後にあるもので……」

「その後?」

 健一はそれには応えず、しばらく黙って膝の上に置いた自分の掌を見ていた。

「妹も僕と似た顔だったんです。妹は女だけど、自分の顔が嫌いだと言ってました」

 顔を挙げ、彼は言った。

 ふいに妹の話が出てきて、絵里はどきっとした。 

 健一は初回の面接で、死んだ妹がみたという砂漠の夢の話をした。しかし、二回目の今日、彼はそこに触れるのを避けているようだった。

 彼に試されていると、絵里は感じていた。健一は絵里の前で自分をさらけ出してよいものか、こちらの反応を窺いながら迷っているのだろうと思う。

「妹さんもですか、どうしてでしょうね」

 動揺が健一に伝わらないことを願った。

「好き嫌いの問題でしょうね。整った顔というのは、僕なんかマネキン人形を連想してしまう。何を考えているのかさっぱり分からない。冷たくて気味が悪い。尖った無機質な感じ。魅力的なんて全然思えないんですよ」

「佐藤さんはお母さまと似てらっしゃいますよね、とても綺麗な方で」

「だから」

 健一は絵里の言葉を遮って、強い口調で言った。

「だから、嫌いなんですよ、この顔が」

 彼がこんなふうに強い否定の気持ちを現したのは、初めてだった。

「僕は母の顔が嫌いです」

「妹さんもそんなふうに?」

「そう、似てるんです僕たち。顔も性格も双子みたいにね」

 

   砂漠の夢 18

 

「中山さんに兄弟はいますか?」

 健一が訊く。

「はい、兄が一人」

「二人だけの兄妹ですか?」

「そうです」

 絵里は咄嗟に兄を思い出す。彼の冷たい視線や、夫と結婚する前に投げかけられた、侮蔑的な言葉の数々が蘇る。

 自分にいやな思いを喚起させる話を聞く時は、無意識のうちに逃げようとして、相手の話を流してしまうものだ。そうならないように、あわてて自分の中にいる兄を隅に押しやる。

「お兄さんと中山さんは似ていますか?」

「いいえ」

「じゃあ、僕たちみたいな兄妹ってヘンだと思うでしょうね」

「そんなことないです、それぞれですから」

 そう言うと、健一は少し安心したようだった。

「妹が見た砂漠の夢の話、この前しましたよね、中山さんも拘ってくれると」

「はい、ずっと考えてました」

 健一の妹が繰返し見ていたという砂漠の夢に、彼は拘っていた。砂漠のテントの中で寝ていた彼女が砂嵐に遭って生埋め寸前の時に、安全な場所に移されて何かに抱きとめられているという夢だった。

「妹さんは理想を求めていたのでしょうね。自分のあるべき姿を探していたのかしら」

 ある人にとってそれは社会的地位、名誉、金であり、理想的な結婚相手との幸せな結婚生活だったりする。それを得るために人は現実という枠の中で行動し、もがき、苦しむ。健一の妹の夢もそんな苦しみや葛藤の現れではないかと、絵里は思った。

「中山さんはずいぶん難しく考えているんですね」

 絵里の言葉に、しかし、健一は笑った。

「どんな理想を持ってどんな自分を目指していくか。それはとても大事なことではあるけれど、でも、妹は、いえ、僕たち兄妹が望んでいたのは、そんなたいしたもんじゃない、とても単純なことだったんですよ」

 健一はまたしばらく、自分の掌を見ていた。

「僕たちが欲しかったのは、ただ、安心して眠れる場所でした」

 やがて顔を挙げ、彼は静かに言った。

「僕と妹は、安心して眠れる場所が欲しかったんです」

 彼はそう繰返した。

 その言葉が持つ重みに圧倒されて、絵里は言葉を失った。そして、面接時間が終了した。


メグミの夢」へつづく

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