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                    和田信子

南風」18号(2005年)掲載  

電話口で死にかけている猫の頭を叩いて鳴かせる場面の切なさは忘れられません。

推薦 納富泰子さん(胡壷

 


 

 

 時おり思い出したように雨の降る寒い朝だった。猫のトラが死んだ。

 牧子は、かねて思い決めていた手順どおりに、死体を引き取りに来てくれるようペット霊園に電話をかけた。

 

 ずっと昔、まだ牧子が子供だったころ、伯父の家にクロという名の犬がいた。ひどく臆病な雑種犬だった。夕方になると、会社から帰った伯父が近くの川沿いの堤防を散歩させた。クロはあまり嬉しそうでなく、地面に鼻を擦り付けるように頭を垂れ、引かれて歩いた。

 伯父は、散歩で顔見知りになった連中の犬がみんな上等なのに、うちのクロだけがやけにみすぼらしい、すれ違うときにひとが振り返って笑うような気がすると言った。

「クロにもわかるんだろう、様子のいい犬に行き合わすと体裁悪そうに横を向くんだ」

「ばかばかしい、あなたったら見栄っ張りなんだから」

 伯母は唇の端に冷やかな色を滲ませて笑った。

「血統書つきの犬を飼って自慢でもして歩きたいんですか、血統書つきだろうが雑種だろうが犬は犬です」

 伯母は切り口上に言い捨て台所へ立つと勢いよく水を流して食器を洗いはじめた。

 両親のいない牧子は、この伯母夫婦に育てられた。

 消防署員だった父は、牧子が生まれるひと月まえに火災現場の焼け落ちてきた梁にあたって殉職したそうである。

 制服制帽姿の凛々しい写真を見せられても、牧子にとって一度も対面することのなかった父は、いっこうに厚みをともなわない儚い存在でしかなかった。

 数年後に、今度は母がクモ膜下出血でわずか二日の入院で亡くなった。こちらは僅かに記憶があり、倒れる日の朝、母の額に見慣れぬ仄白い影のような線がくっきりと浮かび牧子は不思議なものを見るようにそれを見ていた。

 思いだす母の顔にはその影のような皺がずっとつきまとい、いつも微笑んでいたはずの顔を思い浮かべるのを難しくした。

 伯母夫婦はとかく気が合わないようで、クロのことにかぎらずよく言い争った。

 雑種、雑種と言われたせいでもなかろうが、クロはあまり散歩に行きたそうでなく、伯父もいつも浮かぬ顔をしながら、それでも一日も休まず散歩に行った。

 クロは伯父や伯母がいないとき、牧子によくじゃれた。ビー玉のような黒い艶々とした目でじっと牧子を見つめ、クロを抱えようとして抱えきれずにその場にひっくり返った牧子の額をクフクフと嬉しそうに舐めた。そのくせ伯父たちの帰宅する足音を聞きつけると、もうまったく牧子を無視して尻尾を振って伯父たちを迎えた。

 クロは犬のくせに牧子に邪険な伯父に倣っているのだと思った。牧子は伯父に見えないように尻尾を踏む真似をして憂さを晴らした。吠えるから本気では踏めなかった。

 伯父はたえず舌打ちをしながら牧子に小言を言った。もっと静かに歩けないのか、テレビの音を小さくしろ、スリッパをきちんと並べろ、洗面台を濡らすな……、などなど。

 そのたびにちっちっちと舌を鳴らして苛立っていた。

 子供のいない静かな生活が長かったので、伯母も牧子をどう扱っていいのかもてあましているようだった。鬱陶しそうに、向こうへ行っときなさいとよく言われた。

 そんなふうに煩がられても、牧子は母が死んだ夕方になると、伯母のいる台所から離れようとしなかった。

 デンキつけて、デンキつけて……、と炊事場の蛍光灯だけでなく、リビングにあるスタンドの灯りまでつけてまわった。昏くなるのが恐ろしかった。

 母が亡くなった日、手配された車が病院の裏口に来て母の亡骸を乗せた車が走り去っていくのを見て、牧子は恐ろしくて泣いた。

 薄暗い地下の駐車場から走り抜けていくテールランプは、まるで母を奪い去って行く悪魔の尻尾のように見えた。

 ありったけの泪を絞りきるように泣くので、周りにいた大人たちはみんなつられて泣いた。

 誰もが可哀想に……、と言ってくれたが、本当は牧子は哀しいよりも恐ろしかったような気がする。泣けば泣くほど躰の震えがとまらず、どうかして誰かこの震えだけでも止めて欲しいと思うのに誰も抱きしめてはくれなかった。

 いつも触れていた母の腕や掌、エプロンやスカートの裾から隔てられ、この先どうしたらいいのか、今からいったい自分はどこへ行き何をしたらいいのだろうか。

 誰かに、怖がらないでも大丈夫、私がついていると言ってほしいのに、そう言ってくれるひとは誰もいなかった。むろん哀しいには違いなかったが、そんなふうに怯えている自分に気づいてくれる大人がいないことが絶望感を深くしてさらに泣いた。

 

 雑種犬は丈夫と言われるのに、クロは胃弱で痩せて貧相だった。そのくせいつもガツガツと食べたがり、あまり長生きせずに死んだ。

 伯母が、市役所に引き取りに来るように電話をかけた。

 牧子と伯母が見ている前で、クロはゴミ収集車の上の、屋根のようなところにぽんと抛りあげられ、死骸は弧を描いて空を跳び車の屋根の上に落ちていった。

 ゴミと一緒だなんて知らなかった、いくらなんでもあんまりだった、こんなことならうちの庭にでも埋めてやればよかったと伯母が悔やんだ。うちの庭……、と言っても庭と呼べるほどの土地はなく、その上、しつこく伸びてくるどくだみの根に苛立った伯父が、狭いぐるりをセメントで固めていた。

「牧子ったら何があっても泣かない子だとは思っていたけど、クロが死んでも泪ひとつ零さないなんて。ほんとにこの子ったら、なんて子だろう」

 伯母はテイッシュペーパーの箱を引き寄せ洟をかんだ。

 ほんとにこの家にきてから牧子は一度だって泣いたことがなかった。母を棺の中に入れたとき、流すべき泪をすべて使い果たしてしまったのかもしれないと思った。

 口に出したり泣いたりすることでは不幸や不安が薄まることはなく、かえっておさらいするように再度つらい思いをする、幼い牧子がそんなふうに考えたわけではなかったが、意識の底のほうにそれが沁みこみ無口で泣けない子供になっていたのかもしれない。

 いやなことや辛いことに堪えるとき、牧子はぼんやりと意識を泳がせて、引き出しの中のチョコレートのことや、学校帰りに拾ったピンの壊れた虹色のバッチのことなどを思った。

「なにを薄ら笑いをしてるんだ、この子は……」

 伯母は丸めたティッシュペーパーを牧子に向って投げた。

 

 このひと月、弱っていくトラを見ながら、トラが死んでも市役所には頼まないことにしようと思っていた。

 伯父や伯母が生きていたころとは違うから、今の役所がどういう扱いをするのか知らないが、同じ土に還すのにも多少の手順を踏んでやろうと思った。

 猫も犬も人間も、死ねば土に還えるだけで、あの世もこの世もありはしないと牧子は思うから、墓だの納骨だのを考えたわけではなかった。ただなるべく綺麗に土に返してやりたかった。

 飲まず食わずになっても声にならない吐息で応えるトラを見ながら、そんなことを思っていた。

 しかし、いざとなったらいったいどこへ頼んだらいいのだろうかと、死んだトラを抱えたときに狼狽える自分を想像して俄かに不安になり、まだ息のあるトラに隠れるように電話帳を繰った。ペット葬祭業者というのがこんなにあるのかと驚き、何を基準にこの中から選んだらいいのかと迷い、結局、あまり遠方でない業者に電話をしてみた。個別火葬なら一万五千円、共同火葬なら一万円と言われた。

 トラが死んで、そのときの業者に電話をかけた。

「あ、三日前に問い合わせてこられた方ですね、料金などはあのときお話したとおりですからもうおわかりですね。では、今から車で出ますから一時間ほど後にお迎えにあがります」

 くぐもって低い声だが、的確に事を運ぶ能力を感じさせる女の声であった。

「共同火葬をご希望でしたね」

「ええ。ところで……、共同の場合いつ火葬されるんでしょうか?」

 そんなに都合よく今日にも連れができるものなのだろうかと疑問に思った。

「いえ、うちはそれほど件数は多くないですから、何体か一緒になるまでこちらで保管させていただきます」

「保管」という言葉に、あらためてトラが死んだことを実感した。

 少し考えたあと牧子は、五千円違いなら個別で今日焼いてくださいと言った。

 固くなったほかの動物たちと一緒に土間だか棚だかに、いつまでも置かれていると思うのはいやだった。

 わかりました、それではのちほどと言ったあと、女は、ところでこちらへいらっしゃるのはネコちゃんだけですか、それともオクサマ、立ち会われますかと訊いた。

 それまでは、引き取りに来てもらったらそれで何もかも終わりと思っていたのに、どうしますかと訊かれて急に気がかわった。疑うようだが、ついていかなくてもほんとうに個別で焼くのだろうか、個別の料金で引き取り、連れができるまで留めおかれてもこちらにはわからないことではないか。

 十八年も生きた老猫のことだから、トラが死んでも嘆くまいと牧子はもう何日も前から心に決めていたが、一緒に行って見届けてやろうと思った。

 

 十八年前、そのころ牧子がつきあっていた北原という男が女と心中騒ぎを起こし、女だけが死んだ。トラは死んだその女が飼っていた猫だった。おれは心中するつもりなどなかったと北原は言った。

「ほんとに何も知らないんだ。あいつがおれの部屋に来ていたのはたしかだが、おれが死ぬ気になるわけないじゃないか。気がついたらおれは病院のベッドにいたんだ、それだけだ。狐につままれたような話だ」と言った。

 発見されたとき女はすでに死んでいて、北原の方は意識不明の重体で救急車で病院へ運びこまれた。

 事件から十日ほど過ぎて、牧子は時々泊まる彼の部屋に置いたままにしてあった身の回りの品を取りに行った。

 何故か彼が室内にいることは予想外で、いつもの合鍵で中へ入り、荷物を取ったら部屋に鍵を戻して帰るつもりだった。

 無精ひげを生やした北原が憮然とした表情で足元にじゃれる仔猫を見ていた。

 死んだ女は近くのアパートの住人だったそうである。

「さっきそのアパートの大家がこの猫を連れて来たんだ」 

 女が可愛がっていた猫だから大事にしてやってくれ、そのくらいのことしてもバチは当たらないだろうと、大家はつくったような涙声でぐずぐず言って猫を置いていったというのである。

 おれはこんなワンルームだから飼えないんだと、片方の掌にのるほどの小さな猫を牧子の胸に押しつけ、空いた方の手で牧子の肩を抱こうとした。なぜか牧子は仔猫を拒否できずに、北原の躰だけを突き放した。

 心中だったのか事故だったのか、ほんとに今もってわからない。

 以後、北原と会うことはなかった。  

 

 車で迎えに来た霊園の女は鼠色の安っぽいパンツスーツを着ていた。亡びたものを処理するこの仕事を続けているうちにこうなったのか、あるいはこの暗い表情は生来のものか、抑揚のない呟くような小声で、人間を悼むのと同じように、このたびはまことに……、と悔やみの言葉を述べて洟をすすった。 

 牧子はあわててそれを遮った。

「いいんです。猫は猫ですから」

 女は一瞬戸惑ったような妙な顔をしたが、気を取り直すように深々と、牧子に、というより牧子が抱いているトラを見つめて一礼した。

 こちらです、と誘われた車には白いダンボール箱が用意されていたが、牧子は胸にトラを抱きしめたたまま後部座席に坐った。

 小雨の降り続く街をぬける間、女はほとんど喋らず、ときどき後ろにいる牧子の様子をちらちらと窺いながら車を走らせた。古ぼけて汚れた車内に規則的に動くワイパーの音だけが聞こえた。

 車は霊園のある半島に向かって走った。緩い坂を登りつめた先の、山を拓いた一角で車はぬかるみにはまりこむように止まった。

 先におりた女は後部座席のドアを開けて、こちらですと目の前の事務所のようなプレハブの建物へ案内した。それから、女はまるで一人二役を演じるように、それまでの沈痛そうな首の傾げかたをかなぐり捨て、急にきびきびと仕事にとりかかった。バスタオルにくるんで抱いていたトラを牧子から奪うようにとりあげ、用意してあった白い箱に納めると、箱の中を花で埋めはじめた。

 手際のよさに見とれていると、オクサマもほら、と、なんだか急にぞんざいな口調になって萎れかかった百合の花を突き出した。

 さっきまで小雨だったのに今になって急に雨脚が強まり、牧子たちのいるプレハブ造りの部屋の窓を雨滴がしぶくように流れた。

 トラが骨になるまでの所在無い時間を牧子はぼんやりその窓を見ていた。

 トラの元の飼い主だった女の、輪郭もない顔が雨滴の中に仄白く浮かんだような気がした。いつも思いださないように、胸の奥にぎゅっと蓋をしている重石が浮き上がってくるようで牧子は軽い吐き気を覚えた。

 女の死は、もう古い話なのに、ときどき魘されるように牧子の胸を刺す。警察では、最後は炭火の不完全燃焼による事故ということで処理されたが、牧子の中ではずっと終わらぬままである。

 事故にしては、あの気密性の高い部屋で炭火で肉を焼くこと事体が不自然であった。その危険性を二人が思わぬはずがない。事故でないとすれば、合意した末の成り行きかどちらかの意思ということになる。

 自分に死ぬ気のない北原が仕掛けた無理心中などとはさすがに考えたくないが、その可能性はまったくゼロであったろうか。

 北原の言い分通りに、ほんとに彼が何も知らず、気がついたら病院にいたなどということも牧子には信じがたいが、かと言ってそれほど恐ろしいことを考えないといけなかった事情など牧子には思いつかない。

 決して自分のせいではない。自分のために……、だったら、恐ろしいが、嬉しかったかもしれない。

 思うまいといつも抑えているが、いったん思いだすと今も同じことを繰り返して思い、やがて深い闇の中に体が滑り落ちていくような感覚に捉われる。

 もう自分には関わりのないことなのに……。

 自嘲のあとの虚しさに慣れることはない。

 雨で昏い建物の中は暖房もきかずに寒く、湿った線香の匂いがたちこめていた。

   

「三日前にお電話があったとき、まだトラちゃん生きてたんですね」

 帰り道を最寄りの駅まで送ってもらうときになって運転しながら女が言った。

「ふつうみなさん死んでからしか電話かけてきませんよ」

 咎めるような口調に聞こえた。

「そうですか。でも、死ぬのはもうわかってましたから。もう、今日か明日かとずっと思ってましたから」

 トラは、ごく少量、爪のさきほどの餌をなめるようにして一ヵ月、まったく食べなくなって十日、水も飲まなくなって三日生きた。

 駅前のロータリーで降りた牧子の背に、女は、オクサン、泣くときは泣いた方がいいですよ、オクサンのような人があとから……、とそこまで言ってさすがに口をつぐみ、うふふふ、と少し嗤った。

 あとから……、そのあとになんと言葉をつなぐつもりだったのか。

 猫が死んだくらいで泣かないわよと、牧子は思った。

電車のホームへ上がる階段を昇りながら、強情で可愛げのない子だと言っていた伯父と伯母の顔を思い出した。おぼろなままの両親より、憎まれたり恨んだりした伯母夫婦の顔がなぜか今は懐かしかった。

 家に帰るとすぐに、トラがベッドがわりにしていたダンボール箱、毛布やタオル、餌の皿やトイレ用シートなど、しゃにむにごみ袋に詰め込み、掃除機で家中のトラの毛を吸い取った。

 寒気がして食欲はなかった。

 衰弱してからのトラは、ほとんどこの部屋の片隅から動かなかった。元気なうちは抱かれることを鬱陶しがったのに、弱ってからは抱いてやると人恋しそうにうっとりと目を閉じて喉を鳴らした。

 昨日はまだ死にかけたトラがいて、トラを膝に乗せたまま、テレビを見ながら食べにくい姿勢でチンしただけのオムレツを食べていた。今日は昨日いたトラが膝にいない、空腹で気分が悪いのに、食欲がない。

 

 夜中、うとうとしながら、トラを撫でようと無意識に空に求めた手がとまった。トラはもう死んだんだ……、と思った。

 トラを引き取ったばかりのころは、押しつけられた猫を見るのも疎ましく、家に連れてきたことを何度も悔いた。断れなかったのは、多分、自分の身の上に重ねたせいだろうと思った。

 邪険に戸外に放り出しこともあったが、何度放りだしても戻ってきて、庭先で丸まっていた。放りだされたことなど忘れたようにピンク色の口をあけて大きな欠伸をした。

 そのうち猫がそこにいることが当たり前になり、伯母が死んで仕方なく餌をやるようになると、例えトラでさえ、生き物が家の中にいるのも悪くないと思うようになった。

 トラは愚痴を言わず不平も言わず、こちらが恨みごとを言っても叩いても、煩そうに退散し、ときには反撃して噛みついてくることはあってもすぐに忘れるようだった。

 多分、猫は口をきかないから人から愛されるのだろう。ペットを家族、というひともいるけれど、でも猫は猫よ、と牧子は歯を食いしばるようにして思った。ひとは多分こんなときに泣くのだろうと思ったが、やっぱり泪は出てこなかった。

  

 北原とはじめて会ったのは同僚の由紀に誘われて行ったスナックだった。まだ伯母が生きていて、伯母の家から通勤していたころだった。

「彼……」と紹介された北原と由紀は、ときどきそこで落ち合うらしく、ボトルのキープなどもしてあった。酒を飲めない牧子は何となくついてきてしまったことに、軽い悔いをおぼえながら手持ち無沙汰につきだしのナッツをかじっていた。

 由紀がトイレへ立った短い時間に、北原は身を乗り出して牧子のほうへ顔を寄せた。眼鏡の奥の彼の目が、ぬらりとした光を放ち、誘ったような気がした。

 案の定、その晩、三人で乗ったタクシーで、はじめに由紀がおりると、北原は、このつぎは二人きりで会おうよ、と言った。

 そんなこと由紀に悪いよと言うと、冗談だよ、冗談、勘違いするなよ、とうっすらと笑った。癪な奴だと思った。そのくせ心のどこかで、いつかこの男の寝顔をみることがあるような良からぬ予感めいたものがあった。

 牧子の家の前でタクシーが止まると、北原は、また電話するよ、と言った。微かにバニラの匂いがした。

「お菓子の匂いがする」と言うと、北原は驚いたふうに、まさか……、と言った。

 北原は菓子メーカーに勤めていた。

「だけど、仕事は営業で、べつに工場にいるわけじゃないからお菓子の匂いなんてするわけないよ」

 彼はちょっと怪訝な顔をした。

 しかし、狭いタクシーの車内に、樹液のような彼の体臭に混じってたしかに甘い匂いがした。

 北原の何度目かの誘いのあと、彼のワンルームマンションに泊まった。そのあとさすがに由紀と顔を合わせるのが気まずくなり避けるようにしていたら、おかしいよ、このごろの牧子、と言われた。

 打ち明けるしかないと思ってその夜、いつかのスナックへ誘った。

 打ち明けると言うより、由紀に話すことで自分と北原の関係を了解させたかったのかもしれない。いつもは飲めない牧子が、この日は淡いみどり色のカクテルを一杯だけ飲んだ。

 それでも言いそびれていると、由紀が、潤んだ目で牧子を見た。

「牧子もバカだねえ、北原なんかのことで、私に気兼ねすることないよ。もういいけどさ、いつか聞かせてよね、いつからこうなったのか」

 だが、すぐに続けて、ま、いいや、あのくらいの男なんていくらでもいるんだから。牧子との友情に乾杯しよう、もう一杯飲もう、今日は牧子も飲みなよ、といかにもわざとらしく笑った。

 翌春、牧子はあまりみんなが行きたがらない郊外の分室勤務を願い出て由紀のいる本社を離れた。

 北原は、由紀とはもともと牧子の考えているような間柄じゃないんだってば、気にすんなよ、と言った。由紀の話をするとき彼は瞼をわずかに痙攣させた。

 分室に移って、本社よりも北原の住むワンルームマンションに近くなった。頻繁に泊まるようになった。

 南側の窓からはまだ畑が見える閑静なところだった。

 前が住宅でないのをいいことに、北原はカーテンもない部屋の中を裸で歩きまわった。

 牧子は早速、北原の好みにあわせてカーテンの生地を選んだ。巻尺で窓の寸法をきっちり採寸して帰り、家のミシンで縫い上げてきたカーテンを下げるとそれだけで部屋が見違えるように華やいだ。

 牧子は、二人でいる部屋を居心地よくすることに喜びを覚えたが、そう思うのは牧子のほうだけのようで、北原は部屋を飾ることにまったく無関心だった。

 どう? と得意になっても、北原は何が? と気がつかないようだった。

 それでもめげずに、剥き出しだった便器にトイレットホルダーとお揃いのカバーを被せ、ベッドカバー、枕カバーと、いそいそと買い揃えていった。そのたびになぜか北原はだんだん不機嫌になっていったが、牧子はもう自分でもおかしいと思うくらいとまらなくなっていた。

 北原へ一途に執着していく気持ちを牧子はどうにもできなくなっていった。

 浅黒いくせに肌理のこまかい肌も、黒くて剛い頭髪も、決して大きな声を出さない話しかたも、何を考えているのかよくわからない冷やかな視線も、メタリックフレームの眼鏡までもが、牧子にとってはずっと撫でてさすっていたい対象になった。

 

 クリスマスのために牧子が用意したクロスステッチのクッションは渡せぬままに過ぎていた。

 菓子メーカーの歳末は残業と休日返上で、逢えない日が続いた。押しつまって牧子のほうが年末休暇になっても、北原は大晦日まで休めないという。

 彼の実家はすでに兄の代になっていて、母親が気兼ねしながら同居しているので、正月も帰省しないのだと聞いていた。 

「じゃあ、元旦にマンションにひとりでいることはないわ、うちに来て。伯母も一度あなたに会いたいって言ってるから」

 すでに伯父は亡くなり、伯母とふたり暮らしになっていた。外泊も多くなっていたから北原とのことは隠しようもなく、いずれ結婚するつもりだからと伯母を納得させていた。伯母が心配するから、あなたからきちんと話して…、と言うのは半分口実で誰よりも牧子自身が彼との結婚を望んでいた。

 北原のためにボルドーのワインを買い求め、彼の好物のローストビーフの用意をしていたが、大晦日になって彼から断りの電話がかかった。

「おれ、今から田舎へ帰ることにしたよ」

「あら、どうして」 

 非難がましい口調になった。

 北原との結婚をけじめにして伯母の家から開放されたいという二重の期待が牧子の気持ちを焦らせていた。

 子供のころから、大人になったらこの家を出て行こうと心に決めていた。いつも眉間に皺を寄せ、けんけん物をいう伯母にはとうとう馴染めぬままだった。

 高校を卒業して就職したとき、アパートを借りて出ようとした。

 しかし、伯父が病死してひとりになっていた伯母は、こんなときのためにあんたを育てておいたのに、出て行くなんて恩知らずだと嘆いた。 

「元旦が駄目なら二日でも三日でもいいからお正月にはうちに来て伯母に話してね」

 牧子はほとんど懇願するように言った。

「また電話するよ」

 今日もまだ仕事なんだよ……、だから、と忙しなく電話は切られた。

   

 元旦の空はよく晴れわたり、うっすらと白い雲が一筋まるで刷毛ではいて化粧でもしたように見えた。

 伯母はほんの少しの屠蘇酒に酔い、テレビの前の炬燵でうたた寝をしている。

 牧子には身だしなみをやかましく言う伯母が、自分は正月でも寝巻きがわりのトレパン姿で丸くなって寝ている。

 あんたはうちで拾われなかったらカラカラの干乾しになって死んでたよ。子供のころから何度も聞かされた。カラカラの干乾しと聞くたびに、どういうわけか真夏のアスファルト上に乾いて縮んでいるトカゲを想像し、伯母の家に貰われなかったときの自分と重ねた。

 成長してからはさすがにばかばかしく思うようになったが、それでもどうかした夜など夢の中で、押しつぶされたように乾いた自分を天上から見て冷や汗をかいて目が覚めることもあった。

 長いこと抜け出せなかったこの家から早く出たいと思った。抱きとめてくれる北原の胸を思った。

 今すぐにどこまででも行きたい。つきあげるように北原に逢いたいと思った。

今から行けば昼すぎには北原のいる街へつくだろう。北原はどんな顔をするだろう、逢いたかった。

 思いがけなく顔を出して牧子の出現に驚かせてみたい茶目っ気も手伝い連絡せずに元旦早々の高速バスに乗った。

 車内はすっかり新年のムードで、よそいきを着た子供を連れた親たちの晴れがましそうな振る舞いや、おおっぴらに飲めるこの日が嬉しくてたまらならいような男のいそいそした声や、たまたま乗り合わせただけの人たちの中に、正月という共通の通い合う思いが溶け合ってなごやかだった。

 外はかなり冷え込んでいるらしく、暖房に曇るガラス窓をときどきこすって牧子は外を眺めていた。

 乾いた田んぼの真ん中に鷺らしい鳥が見えたかと思うとすぐにまた葉を落とした木々が寒そうに風に吹かれている山の景色となった。流れていくそれらの景色を見るともなく見ているうちに、牧子はのぼせていた気持ちが萎えてきて、北原の実家をいきなり訪れる非常識を思った。

 バスが着いたときには、もうこのまま帰ろうという気になっていた。帰りは列車にしようと駅で時刻表を見ているうちにまた気がかわった。やっぱりあきらめきれない思いがむくむくと頭をもたげた。電話だけ……、と自分に言い聞かせて受話器を握った。

 明けましておめでとう! わたし、どこにいると思う? あててみて。チ、カ、ク、と、無理にも声を弾ませて言った。北原は、えっと絶句し、不機嫌な声で、いまそこに行く……、とだけこたえた。

 はじめて来た街で、喫茶店にさえ寄らず、北原に引きずられるように、着いたばかりの街をあとに列車に乗り込んだ。

 どうにか坐れた席で、北原はろくに顔をあげずにほとんど眠ったふりをしつづけた。

 駅に着いても、今日はこのまま帰れよ、とマンションへ行くことを拒まれた。

「おれは今日みたいなことはきらいだ。なんのつもりだったんだ」

 それだけ言うと返事も言い訳も聞かずにホームの人ごみの中を行ってしまった。

 牧子はそのまま伯母の待つ家に帰る気になれず、まだ出会ったばかりのころ北原と歩いた事のある公園へ行った。

 隣接して神社のある公園には、初詣に訪れた晴れ着姿の男女や、子供づれの家族の姿もあった。

 あいにく冷たい風の吹く日で、葉の落ちた枝が風に揺れていた。

 ここも長く居る場所ではないと足早になって歩くと、ベンチに若いカップルがいて足元の野良猫をかまっていた。まだ女学生らしい女は、寒いのに白い太股をさらして短いスカートだった。

「野良猫なんて、汚ねえよ!」

 高校生らしい男が猫を足蹴にしようと腰を浮かせた。女が、やめて、と言った。

それでも男がしつこく猫を虐めるそぶりをみせると、女が急にわっと泣き、男はあわてて猫から放した手で女の肩を抱いた。

 ひとはあんなに簡単に泣けるんだと思いながら、牧子は俯いてその前を通り過ぎた。

 風に吹かれた枯葉が舞い、池のほとりに吹き寄せられていった。

 牧子の胸の中にも音を立てて吹く風があった。泪が溢れそうになったがやっぱり泣かなかった。

 

 北原が正月に伯母の家に来る話はそれで終わった。

 彼の機嫌を損ねたことを気に病んでいると、仕事初めの日に何ごともなかったように電話がかかった。

「今度の土曜あたり、一緒にめしでも食おうか」

 元旦のことは何ひとつなかったようにさらりと誘った。それを節度のないことだとも、調子のいいやつだとも思わず、誘われたことを単純に喜んだ。

 その翌々日のことだ。ひと足さきに起きて朝刊を見ていた伯母が牧子を起しにきた。

「大変よ!」

 北原のマンションで女が死んだ。

 

 牧子が縫ったカーテンのある部屋、泊まる日のために洗面具も置いてあるあのマンションの部屋、あのベッドで牧子の知らない女が死んだ。

 冷蔵庫には焼肉用のカルビとねぎが用意され、七輪に炭火が熾っていたという。

 死亡した女性は、炭火にこだわるのが売りの、焼肉店の従業員だったことから、店の炭を持ち込んだのではないかと見られ、一酸化炭素中毒と報じられた。

 牧子が訪ねているときも、ときどき覗きに来ては、北原に怒られていた隣室の女子学生が異変に気づいた。

 発見時、ベッドの中で女はすでに死亡、男は窓際の床に倒れていて、意識不明の重体で病院へ収容されたという記事であった。

 北原との付き合いにずっと反対してきた伯母は新聞を持った手を震わせた。

「マスコミなんか面白がって牧子のことを調べに来るかもしれないけど、いっさい余計なことは言わないようにね、ただの知り合いだったといいなさい」

 伯母がまっさきに思ったのは、これまでの付き合いを嗅ぎつけた報道関係者がこの家を取り囲む不安だったようである。

 伯母の取り越し苦労というもので、この程度の事件にマスコミなんかは来なかったが、警察からは参考人として署のほうへ来るようにと言ってきた。

 おかしなことに警察からの呼び出しを受けた牧子はかえって冷静さを取り戻した。 事件と自分がいっさい関わりがないとしたらあまりに寂しいと思った。たとえどんな形であれ、どこかでこの事件や北原とつながっていたかった。

 女がひとりで死んでしまった以上、北原は疑われるかもしれない、北原を守れるのは自分だけだと、直感的に思った。そう思うことに微かな喜びに似た感情が動いた。

 案の定、警察では北原の部屋に牧子が頻繁に出入りしていたことをすでに知っていた。牧子と女との確執から、女が邪魔になり、北原が心中を偽装したのではないかと疑っているのが刑事の言葉の端々から伺えた。

 牧子は笑顔を作り、私は北原からそのひとのことは聞いていました、嫉妬なんてとんでもない、私と北原は兄妹っていうか、仲間って言うか、男女の親しさと違うんです。だから、彼が私と彼女とのことで悩んだなんて考えられません、と言った。

 結婚など考えたのはこちらだけのことで、彼が本気だったなどとはもう到底思えない、それでも彼を守るためには刑事に、自分たちは同性のような明るい親しさだったと見せるしかないと思った。

 そうまでして彼を守ってやることはない、と思いながら、どうかして彼を助けたかった。

 警察を欺くなんてことがそう簡単に出来るとは思わなかったのに、あっさり信用されてしまった。

 あるいは警察は信用した振りをしてこの小さな事件を手早くすませたかったのかもしれない。牧子への参考人聴取はそれ一回で終わった。

 無理心中か単なる過失による事故なのか、ほんとのことは牧子にはいまもってわからない。

 昏睡状態で発見された北原は、後遺症として意識障害が心配されたが、数日で回復し、どうしてああなったのか、おれにも判らないと言った。

 当然のことだが、彼は回復後、数日間にわたって取調べを受けている。しかし、最後は事故として処理された。

 相手の女に二度の離婚歴があり、北原の祖父が県警のOBであったことがこの事件が早くけりがついた原因だろうと伯母は自信ありげに言った。

 

 トラは抱かれるのを嫌い、いっこうに懐かなかった。灰色の瞳をいつも恨めしげに光らせて牧子の脇をのっそりと通り抜けて歩いた。何が気に入らないのか、ときどき小さな牙を剥いてフーっと唸った。そんなとき牧子は死んだ女を思った。

 警察で調書をとられたとき、現場の写真というのを見せられた。ベッドに横たわった死んだ女の、長く乱れた髪の向こうに、さくらんぼ模様の枕が写っていた。牧子が縫ったものだった。

 女は細面の顔を幽かにしかめ、眉をよせていた。写真を見ている牧子をすぐそばで観察している刑事の視線を感じた。牧子は屈みこんでいた上体を起こして姿勢を正した。

 取り乱すのを待たれているようだったが、無理にでなく冷静でいられた。死んでしまえばお終いなのだと妙に醒めていた。生きているものの優越が牧子を支えた。

 北原の女の猫だったことは伯母には言わず、ただ、友だちに貰ったとだけ言ってあった。トラは伯母には懐いた。 

 伯母は圧迫骨折や静脈瘤など、つぎつぎに病気を抱えこみ、ほとんど外出ができなくなっていたから、トラは都合のよい遊び相手になった。

 白く薄い毛を透かせてピンク色の腹を見せ、伯母にじゃれているトラを見ていると、北原の躰を思いだした。トラが身悶えるように背中を床に擦りつけ、首を伸ばして反転する様子を見ていると牧子は眩暈がして熱くなった。

 トラが来て数年後に伯母もまた母と同じクモ膜下出血で死んだ。やはりあっけなかった。

 ひとはいつか死ぬものという淋しさと共感のようなものをおぼえた。幼少時の母の死のときには覚えなかった感慨であった。

 あれほど伯母から離れる事を望んでいたのに、棺の中の伯母を見るとあのとげとげしい口調さえ懐かしく、胸の奥で何かが動きかけ、一瞬泣けるかと思ったが駄目だった。

 葬儀を終えて家に戻ると、伯母の知人から悔やみの電話がかかってきた。

 話し終えて受話器を置くと、珍しくトラが牧子の足元にぺたりと寄ってきて、くねくねと体をよせた。

 自分でもまったく思いがけなかったが、ふいに勝手に指が動いて北原の電話番号を押していた

 事件以来、北原の消息にふれることはなかった。以前の電話番号がそのまま通じるかどうかも自信はなかった。必ず繋がるとも思っていなかった電話は繫がり、若い女の声が、北原でございます、と言った。

 こちらが黙っていると、モシモシ……、モシモシ、と数回呼んだあと、あなた、へんなの、この電話、と聞こえた。どら……と声がして、モシモシ、と北原が代わった。

 しびれるような衝撃があってそのまま声を聞いていた。

 電話の近くでトラが鳴いた。すると北原が受話器の向こうで、はっとする気配があった。耳もとに呼吸が触れた。

 わざわざ受話器をよせてもう一度トラを鳴かせた。嫌がって逃れようとするトラを捕まえておいてコツンと頭を叩いた。フギャっと鳴いた。未練なのか腹いせなのか牧子にもわからなかった。

 どちらも無言のままの時が流れた。

  

 トラが死ぬ一週間前にまた北原に電話をかけた。

衰弱が激しくなったトラといて、ふいに北原にトラの最期の声を聞かせようと思った。トラの死を刻々とひとりで待つのが耐えがたくなっていた。

 今さらなにを……、と思いながら、指は間違わずに番号を押した。

 モシモシ、と電話をとったのは北原本人だった。背後はしんとして何の気配もなかった。夜の十一時近かった。

 名乗らずに息をつめていると向こうも無言で応えた。

 鳴かせたかったが弱っているトラを叩くに忍びず、膝の上でゆらゆらと揺すった。トラは嫌そうに少し首をもたげたが声は出なかった。両手で抱えなおして鼻先を受話器に押しつけると、わずかに体を強張らせてフウッとため息のように鳴いた。受話器ごしにも多分伝わったと思う。両手でトラを抱いていたので、受話器は手で持たずに耳と肩で挟んでいた。北原の反応はよくわからない。胸の中だけでもうこれで終わりねと呟いた。

  

 トラが弱ってからは仕事帰りの寄り道さえしなかった。トラが死んではじめての日曜日、久しぶりに映画を見たあと、デパートへ寄っていくつかの買い物をした。

売り場には人が多く随分待たされたあげく汗ばんで少し気分が悪くなった。外に出ると、ひしめくように建ち並ぶビルの向こうに、ぽっかりと青い空が見えた。まるではじめて見る空のように青く明るかった。

 あの公園で風にあたっていこうと思った。ずっと以前の正月、北原を郷里へ迎えに行ったあの日の帰り以来だ。

 汗が引き、少し冷たい風が頬のあたりをかすめていく。公園の隅のベンチに坐った。

 少し離れた池のふちで男がウクレレを弾いているのが見えた。男の肩が一定のリズムで揺れている。

 隣接するビルから流れる大音量のコマーシャルソング、大通りを往き交う車の騒音、周りの雑多な音にかき消されウクレレも歌声も牧子のところまで聞こえてはこない。

 急に、ばさばさっと羽音がして鳩の群れが集まってきた。そばにいた女が片手の手提げ袋から餌をつかみ出して放った。地面に散らばった雑穀に鳩が群がり、女は慣れた様子で衝かれたように餌を放りつづける。

 鳩が巻き上げる埃に閉口した牧子は立ちあがって歩き始めた。

 また死んだトラを思った。バスタオルに押し当てていた片側の頬が、寝ていた格好のまま歪つになり、四肢を曲げたまま鋳物のように硬直してしまったトラ。トラはもういない。

 群れの後ろにいた一羽の鳩が羽を広げて低く飛んだ。

  ふいに泪がこみあげてきた。無防備な隙をついたように泪は生暖かく頬を伝い、牧子は狼狽えて指先で拭った。

 ウクレレの男はまだ唄い続けているのだろう、背中が揺れている。

                  

(了)

 


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