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 虹のかなたに           津 田 蕗 子

 

「内海文学」122号(2006年6月)

推薦 北川 佑さん(風紋


  

 

 

 病院を出て薬局へと歩いた。ここ何年か前から病院では薬は出さず、薬局へ行って貰うことになっている。
 他の人は、どう思っているか知らないが、葉子は少し不満なのである。待ち時間が少々長くても病院で待っている方が楽である。
 自宅の近くに薬局のある人はいいが、葉子の家は住宅地なので不便である。病院の近くの薬局で処方箋を見せて薬を貰うのだが、寒暑の季節や雨の日などは大儀である。健康からは見放された者なのだから、健康な人から見れば当り前のようなことも苦痛なのである。
 葉子は六十三歳である。おかげで足腰の痛みはないが、杖を頼りに歩いている老人を見るのは痛わしい。
 今日は特に気分が憂鬱である。駐車場内に五列にビッシリと並んだ車の外側を歩きながら世の中どんどん変る‥と思った。葉子は車には乗れないし、勿論単車も駄目である。どこへ行っても自転車で往復していたが、この頃のように車の多い道路は危険だし、少し体調が悪いと自転車に乗るのも億劫になった。バスを利用するのだが運行数が少ないので不便である。
 薬局に行くと処方箋をファックスで送ってもらってあったので薬はもう出来ていた。
 薬局の外の道路際にある公衆電話でいつも利用するタクシー会社の番号を押した。今日は風はないが、それでも十二月も末に近い空気は冷めたい。
 病院は、この市内でもずっと海岸から離れた山脈に近い場所にあるので、山肌はうっすらと霧に包まれていて、綿を千切ったような大、小の雲間から大陽の光が射すたびに、あたりの風景が眼覚めたように明るくなる。午後ももう四時を過ぎた時間であった。薬局の軒先に立っていると、道路を吹き抜けていく風が冷めたい。
 五分ほどでタクシーは来た。
 「多喜浜まで行ってネ」
 乗りこむと葉子は運転手の背に向かって言った。
 「ああ、小学校のちょっと手前じゃなぁ」
 「え!」
 葉子は驚いた。前を見たが、地肌が少し見えるほど髪の薄くなった後頭部だけで、顔は見えない。
 「どうして分かるの‥‥」
 「お客さんを乗せるのは、これでもう六回目じゃ」
 「まあ、そうだったの」
 この病院へ通い出してから三年ほどになる。月一回の通院だが帰りは近くの同じタクシー会社へ頼むので、顔を覚えられるのももっともなことである。
 後ろの座席からでは顔が見えないのだから葉子は全然気がつかなかった。何気なく交す会話でその人柄を少し感じるくらいである。
 「お客さん元気そうやのに、どこが悪いんかね」
 「年を取るとね、あちこち故障が多いのよ」
 「まだそんな年じゃあるまいがな」
 「もう還暦は過ぎたのよ」
 「えっ、とてもそんなには見えん、若いなあ‥‥」
 葉子はよく若いと言われる。幾つになっても「若い」と聞くとやはり嬉しい。別に特別な肌の手入れをしているわけではないし、どちらかと言えば茶色っぽい肌なので、自分では「若い」とは思っていない。それが相手のお世辞だと分っていても気分は悪くない。
 「元気そうやのに‥‥」
 「そう、元気よ」
 葉子はそう返事した。今の気持を行きずりのタクシーの運転手に話すほどの心の余裕はなかった。今日、診察を受けた医師の言葉が頭のなかにひっかかっていた。
 「とにかく、一度精密検査をしてみます」
 「先生、悪いのでしょうか」
 「いや、健康診断のようなものですよ」
 「ハア‥‥」
 「今年はまだしていないでしょう」
 「そうですけど」
 葉子は若い時から健康には自信があった。が、凡帳面な性格なので健康診断は毎年きちんと受けていた。
 「じゃあ、そういうことで‥‥」
 例年は、バリュウムを飲んでの透視だったが、今度は胃カメラの検査であった。検査の日時を予約して病院を出たが、医師の態度や口調がなんとなく気になっていた。

 車はいつものように広い楠通りを北に走り、十字路を右に曲って東へと向かった。雨は降っていないが冬の曇り日は、四時を過ぎた頃なので、あたりの風景はもうすっかり夕方の気配である。
 「あ!! 虹‥‥」
 葉子は小さい驚きの声をあげた。今までどうして気がつかなかったのか、不思議なくらい、それは鮮やかに行く手の空に架かっていた。半円を描いたその虹は、これまでに見た記憶のない、大きく太い弧を描いていた。
 「ああ、」
 運転手もチラッと目をあげたのであろう、軽く領いた。
 「ねえ、すまないけど、ちょっと海岸の方へ廻ってくれる」
 「え、どうして‥…」
 「この虹を丸ごと眺めたいのよ、ビルなんかの高い建物に邪魔されないで……、ねえ、沢津の海岸はどうかしら‥…」
 運転手は黙ったままハンドルを切り、速度を上げた。そこは、S工業の労務者の社宅が三百軒ほど建っている集落である。その社宅群から海までは百メートルほどしかないが、海際には数メートルの高さの堤防があるので海は見えない。タクシーは堤防の裾の空地に止まった。土手は高く二段構えになっていて、土を盛ったなだらかな斜面にはびっしりと芝や雑草が繁っている。
 葉子はコンクリートの階段を駈け上がった。土手の上は二メートルほどの幅の道路で、海面へは急な傾斜のコンクリートの障壁である。
 海面は穏やかであった。堤防の裾に置かれたコンクリート製の星型の波消しに当たる波の音もかすかである。
 虹は消えていない。厚い雲の塊がむらがっている空を背景に、ますますその色を鮮やかにしている。葉子は感嘆して見上げていた。東の空に架かった虹の橋は、その左端を不透明な青色の水平線に落としている。そして、辿っていく七色の大きな弧の右側は、半ば霧に閉ざされた遥かな四国山脈の峯の向こうへと消えている。
 突然、葉子の脳裏にある風景が映った。それは四国山脈の南、葉子の郷里である阿波の国の小さな町なかの一つの風景であった。
 それは、井内川という小さい谷川のほとり‥・ 山なみの裾と吉野川の流れに挟まれた僅かな平地にある人口一万に足らない小さな町であった。ゆるい傾斜地に貼りつくように人家が建て込んでいて、谷川に沿った道路があった。
 葉子が心で見ているのは、その家並のなかの際立って高い三階建ての家と、そこに今も住んでいるに違いない一人の男性の俤であった。
 虹は少し色が薄くなった。運転手が窓越しにこちらを見ているのがチラッと目に入った。胸に甦った風景を振り払うように葉子は首を振ると、土手の階段を足早に降りた。目の下の社宅街の家並のセメント瓦で葺いた低い屋根が、雲間から射す夕茜にくすんで見えた。
 タクシーはドアを開いて待っていた。葉子は座席に腰を下ろした。
 「ごめんね、待たせて……」
 「土手の上は寒かったでしょうに」
 「まあね」
 「お客さん、ご主人は?」
 「え、元気よ」
 「…………‥」
 「仕事も停年になって、この頃は、シルバーセンターへ行っとるんよ」
 「ふうん……」
 「どうしたの」
 「いや、ここから見とると、お客さん、凄う寂しそうに見えたけん」
 「海へ飛びこむかとでも思うた?」
 「まさか」
 葉子は思わず小声で笑った。笑いながら眼頭にじわっと泪が滲んでくるのが感じられた。
 「土手へ上がっていって、肩を抱いてあげようがと思うた」
 「まあ‥‥」
 葉子は思わずバックミラーを見た。運転手は唇を引きしめた顔で、まっ直に前を見ている表情に冗談らしいものはない。
 運転手は岐れ道を大きく右へとハンドルを切った。葉子の家はもうそこである。

 門の横で車を降りた。
 玄関のドアに鍵を挿したがもう既に開いていて、中に入ると夫の由夫が帰っていた。
 「あら、今日は早いのね」
 「うん、仕事が予定より進んだけん」
 「そう、じゃすぐに夕御飯の支度をするから待ってね」
 「ああ、急がんでもええよ」
 着替えをしようと思って立ち上がったとき軽い目眩がして、葉子はそこへしゃがんだ。最近、時たまこういう状態があるので、今日も医師にその事を言ったのだが、 「まあ、その方の検査もしてみましょう」
 と、横顔を見せたままで低く言っただけであった。
 「おい、ちょっと出かけてくるからな」
 と、玄関の方から夫の声がした。――え、今から――、と思ったが、いつもの夕飯の時間までには二時間ほどあるので待ち遠しいのであろう、きっとパチンコ店だと葉子は思った。ゆっくりと立ち上り葉子が玄関に行ったとき、由夫はもうドアの外に出ていた。
 「あんまり遅くならないでよ」
 葉子の言葉に返事はなく、ドアはバタンと閉まった。
 いつものことだから葉子はあまり気にはしなかったが、今日は少し淋しかった。重い気持を由夫に伝えることで、いくらかでも軽くなるのでは ――という密かな希いもあった。
――さあ、夕飯の支度をしなくちゃあ――葉子は立ち上った。
 由夫と葉子は結婚してもう四十年近い年月が流れている。見合いの席で彼自身が「僕は酒も煙草も飲みません」と宣言した通り、煙草は吸わず、日本酒も洋酒も口にしなかった。日本酒は親類などの付合いの席では口にするようだが居酒屋などに行ったことはない。真面目な仕事人間であった。勤め先も近かったので自転車で通い雨の日にはバスを利用したりであった。仕事の現場のことは、めったに口にしないし、例え尋ねても煩さがられるだけであろうと思い葉子も尋ねなかった。
 停年になって、今の家を建てるまでは、今日、虹を眺めた高い堤防の下の社宅に住んで、専業主婦の座に甘んじてきた葉子であった。ある時期、母がしていたように和服の仕立ての手内職をしたこともあったが、次第に洋服の時代に移ったので、仕事も少なくなり止めてしまった。短大を出た二人の娘もそれぞれの良縁を得て嫁ぎ、もう孫も生まれている。
 平凡だが平和な家庭生活を送ってきた歳月を葉子は有難いとは思っているが、時折ふっと、身体の底から湧いてくるような、頼りなさとも虚しさとも言いようのない暗い気持の虜になってしまうことがある。
 由夫はなかなか帰って来なかった。パチンコは調子良いのであろうか。八時少し前になって、やっと玄関のドアの開く音がした。迎えに出た葉子には 「只今」も言わず由夫は家に入った。いつものことであるが今日は特に不満そうな顔をしている。調子が悪かったかな‥‥、と葉子は思ったが口には出さない、だんまりの夕食が終り後片付けも終った。
 葉子はテレビのスイッチを押し、夫が脚を入れている炬燵に自分も入った。画面はもう九時のニュースである。由夫はテレビもドラマなどには余り関心がない。「あんなのは、みんな作り事じゃけん‥‥」 と言う。それは確かにそうだが、作り話のなかの真実を夫は見ようと思わないのかと、それが葉子には物足りない。
 「ねえ、あなた、今日ねえ‥‥」
 と、葉子は声をかけた。
 「うん」
 と返事をした由夫だが、気持はテレビ画面のニュース解説の方に向いている。葉子は口を閉ざした。今日の病院のことは、はっきりとした結果が分ってから言った方が良い‥‥そう思って黙ってしまった葉子をチラッと見たまま、由夫は葉子の次の言葉を促しもしなかったし、葉子の沈んだ表情にも気が付かないようだ。
 冬の夜は冷える、今年は特に温度が低い。子育ての頃は炬燵で夜なべをしていたことを思い出す。竹を材料にした、二本や四本の細い編棒で一目一目毛糸をたぐりながら子供達のセーターなどを編んだし、少し吝んぼの葉子は、足袋や靴下などの傷みなども繕ったりしたものである。
 ある時、長女の明子が言った、小学生の頃である。
 「お母さん、お母さんは夜寝ないの」
 「え、どうして‥‥」
 「だってお母さんは、私が寝る時分、いつもまだ仕事をしているし、朝起きると、もう御飯の支度ができているんだもん」
 「そうねえ、でもちゃんと寝てるのよ、大丈夫よ」
 「ふうん」
 と、明子は不思議そうに首をかしげた。
 竃で薪を燃やして御飯を炊き、盥と洗濯板を使っていた暮らしの日常の余韻が残っている頃の、葉子にとっては優しさいっぱいの思い出である。二人の娘、明子と静代も今は嫁いでいて、この街を離れている。
 豊かではなかったが、衣食住に不自由する暮らしではなかったし、入院するほどの重い病気には家族の誰もがなっていない。
 今までのそんな暮らしを有難いとは思うのだが、生活が平穏であればあるはど底に潜む或る侘びしさのようなものを感じてもいる葉子であった。
 由夫は九時のニュースが終ると、隣の部屋に行ってもう寝ている。それは由夫の定まったような一日の行動である。勿論、寝床は自分で準備する。ずっとそうしてきた暮らしである。
 葉子も立ち上がって炬燵の電源を切った。戸締りをたしかめようと小窓の傍に行くと、摺硝子に当るかすかな気配があった。硝子戸を細目に開いて覗くと雪であった。この街は十二月に雪の降ることなどめったにない。寒い筈だと葉子は思い、窓を閉めてカーテンを引いた。
 横になったが、なかなか眠気は襲ってこない。隣の布団の由夫の寝息が耳につく。これはいつものことだから仕方がない。
 眠れない葉子の想念は、やはり今日の病院のことに帰っていく、もし、病気が悪性だったら‥‥と最悪の方へと気持が向かっていく。
 生まれて六十余年、美しいものも見せてもらった。楽しいことも一杯あった。苦労もあったが、多くの人に愛された‥‥。今更、なにを悔やむことがあろう。
 葉子は寝返りをした。横向きになると隣の寝床の夫の少し唇のゆるんだ寝顔が見えた。いつもと同じ穏やかな寝顔である。
 結婚以来、一度も「愛している」などとは言ってくれたことのない夫だった。照れくさくてそんな言葉は口に出来ない夫の性格であることは葉子にもよく分っていた。一度、葉子は言ったことがある。
 「あなたは、どこへ行っても、私にお土産など買ってくれたことないわね」
 由夫はびっくりした顔をして葉子を見たがそれから間もなくの頃、郷里の親戚へ行ったとき、浴衣の生地を一反買ってきてくれたのには驚いたし、多少気が咎めた。柄はあんまり気には入らなかったが、内心、葉子は嬉しかったのも真実である。早速仕立てて、夏祭りの夜の散策に着た記憶がある。

 葉子は枕の位置を替えて横向きになり、夫に背を向けた。瞼を閉じた。電気行火に足先をのせた。明日の朝は庭にも屋根にも雪が積っているに違いない、そう思った。
 ますます冴えてきた頭のなかに、雪の深いある風景が映った。それはやはり故里の山河である。
 連なる四国山脈の峯、その山裾に散在する村々と畑地、小石と砂地の交る川原のなかの青い流れだけを残して降り積った白い風景の冷めたさは忘れられない。
 葉子の通っていた高等学校のある町に隣接した井内村という山村には「腕山(かいな)スキー場」があった。勿論、そこは平地ではなく、標高七百メートルほどの山の尾根のあたりであった。
 学校では毎年冬になると、一ケ月に一度くらいは希望者を募ってスキー場へ出かけていた。その頃は、まだ山の道路は完備していなかったので、スキー場への登り口までは臨時に雇った小型バスで行き、そこから細い山道を登ったのである。
 土曜日の授業が終ったあと昼食を済ませてバスに乗りこみ、スキー場への登り口から細く急な坂道を登るのだが、積った雪が半ば氷りかけているので、辷りそうで早くは登れない。靴もスキー専用のものなどは誰も持ってはいず、普段のままだからやりきれない。スキー用具は学校の備品を季節の始めに運んで貰ってあるので、あとは自分の身の廻り品だけである。
 やっと山小屋に辿りついた時は、暮れの早い冬の日はもう夕暮れの気配がしている。急な坂の雪道を登った疲れもあって、その日は誰も辷ろうとはせず、ストーブの困りで談笑して夕飯となった。
 山小屋と呼ぶにふさわしい狭い平屋であったから、泊る人数は制限されていて、男生徒も女生徒も十名くらいであった。あまり暖かくはない布団に上着を脱いだだけの格好でくるまって寝苦しかったが、若い体はいつのまにか眠りへと吸いこまれていたのである。
 「ウ、ウ、ウ、ウ、ウ、ウ、」
 野犬が低く唸っているような声に葉子は醒めた。友人達も起き上って顔を見合わせた。それは、少し間を置いては聞こえてきた。隣の部屋からである。まるで地の底から響いてくるような唸り声に葉子は心を震わせた。
 教師の一人が襖を細目に開いて顔を覗かせた。
 「岸松が怪我をした。大したことはない‥‥、騒ぐな‥」
 怒ったような表情と語勢で言って、パタンと戸を閉めた。
 雨戸の外はもう白みはじめているようだ。小さい節穴からの明りが内側の硝子戸に淡く映っている。女生徒達は訳も分らず落着かなかった。葉子は「岸松」と聞いたとたん、心臓がドキンとした。それを抑えようと掌を胸に当てた。
 岸松雅人は葉子と同じ組であった。同じ街の住民でもあったから、小学校も中学校も同学年であった。高校に入ってからは組は違っていたが、二人とも部活はバスケット部であった。口には出さず、表立っては態度にも現わさなかったが、葉子のなかには雅人に対する憧れの気持が潜んでいたのである。
 まもなく、連絡を受けた救援の人達が登ってきた。雅人の父親も来ていた。教師が一人付添って一緒に降り、あとはもう一人の教師と生徒達は残って、予定通りスキーをすることになった。が、誰も不安な表情をしている。葉子もじっとはして居れない気持で、さっきから考えていたことを口にした。
 「先生、私、岸松さんに付添って降ります、そうさせて下さい」
 「え、どうして‥‥」
 教師は意外な顔をしたが、ちょっと首を振ったあとでそれを許可した。
 担架に乗せられた雅人のあとを、雅人の父親、教師、救援の人が付いて歩いた。急な降りの道は今朝も氷っている。
 雅人は下肢の骨折と頭にも裂傷があった。意識はあったし、父親と救援の人の顔を見て安心した様子だが、やはり時折坤き声を出していた。
 教師の話によると、何度も来て様子の分っている雅人は早朝に起きて、友人と二人で辷っていたのだそうだ。辷りを誤ったのかコースを外れてしまい、慌てたのであろう、転倒した為に、雪で地表からはかくされた岩に突っかけたのが怪我の原因のようだった。
 その事件があった時から、雅人と葉子の仲は単なる同級生というのではなく、気拝の交流が一段と深くなったように葉子には感じられていた。

 カーテンを開く音に葉子は醒めた。
 夫の由夫は若い頃から早寝早起きである。葉子は眼を瞑ったまま寝返りをした。両肩が寒く布団を顎のあたりまで引きあげた。
 「おい、やっぱり雪や、積っているぞ‥‥、うっすら」
 「‥‥‥‥‥‥」
 「今日は、これでは仕事は休みだな、ゆっくりするか」
 由夫は寒そうに肩を竦めて再び布団にもぐった。
 葉子はぼんやりとした頭のなかで、昨夜の眠れない頭のなかに泛かべた昔の風景を思い返していた。それは全く昨日のことのように鮮明であったけれども、又、同時に現実にはなかった夢のなかの出来事のような気もするのである。
 家庭と子育てに追われてきた年月であった。地域の婦人会やPTAの役員に選ばれたこともあった。お世話になるばかりでは気が引けるので、奉仕と思って努力してきた。
 五十年ほどの昔の、まだ少女だった年齢の季節に出合った淡い心の揺れは、めったに思い出すことはなかった。思い出そうとする気拝を自分で抑えてきたとも言える。
 「おい、いつまで寝とるんぞ」
 我慢しきれない様子で由夫が言った。
 「だって、今日は休みでしょ」
 「見てみい、陽が当り出したぞ、これくらいの雪はすぐ溶ける」
 雪雲は動いて空はすっかり晴れているらしい。海辺のこの街は雪は積ってもすぐ消えてしまう。葉子は朝食の用意を始めた。
 由夫の携帯電話にシルバーセンターから連絡が入り、朝食のあと仕事に出かけた。
 雪は溶けはじめていて、庭木から滴(したた)るかすかな音が響き雨樋を流れる音もリルリルとリズミカルな音をたてていた。
 一人になった葉子はホッと肩の力が抜けるようだった。自分の抱えている病気の不安をどうして由夫に話さなかったのかとも思ったが、今までの長い夫婦生活のなかでも、重大な事柄、例えば子供達の進学や結婚、宅地の購入、家の新築などの決定には由夫はなんとなく消極的であった。葉子に任せきりというほどではないが、葉子の意見に寄りかかっているという雰囲気であった。例え、それがうまくいかなかっても葉子を責めたりはしないことが救いではあった。
 今度の病気は、とにかく胃カメラ検査を受けた結果を由夫に報告してからの相談だが、そのあとの療養の方法は葉子自身が定めなければと決心していた。自分の命は自分で守らねば‥‥。だが、葉子は淋しかった。炬燵に座ってテレビの映像を眼で追っていたが内容は頭に入っていない。
 身体がふわっと浮きそうな感じである。ここ暫く思い出したことのなかった学生時代の腕山スキー場の事件が脳裏に迂かんだのは一体どうしてだろうと葉子は思う。あれは、眠りのなかでの鮮やかな夢だったに違いない‥‥、少し混乱したような頭のなかで葉子はそう思うことにした。
 今までの暮らしのなかでも、何度も、いや、何十度も、雅人との交際(つきあい)とも言えないような淡い気持の揺れを思い出したことがあったし、その事に対して言うより、夫に対しての罪悪感などは一切なかった。では、思い出すことによって救われるかというと、そうではなかった。残るのは悔いと喪失感の虚しさだけであった。
 雅人のことは忘却のかなたに投げてしまおうと思いながら、どうしてもそれができなかった自分を省みると葉子は惨めな境地になる。
 昨夜、久し振りに、ドラマのスクリーンを見るように鮮明に甦ったのは、きっと今度の病気のせいに違いない、大きな不安が葉子の気持を虜にして、何十年も以前の、あの腕山スキー場の山小屋での重い坤き声を聞いた早朝の不安を呼び覚ましたのであろうか。
 虹だ!! あの虹のせいだ。昨日、病院からの帰りに冬の海辺の堤防の上で魅せられたように茫然として見た虹‥‥、あの時のそれは人の心を繋ぐ橋のように、とてつもなく壮大で鮮やかな虹であった。その虹を渡って四国山脈を越えると、そこに小さな町があるのだ。そして、その山並の裾に建つ小さな旅館「松ノ屋」が、今もそこに住んでいる筈の雅人の家であった。

 「松ノ屋」は、雅人の母親が女将として運営していて、住み込みの仲居二人だけの使用人の小さな旅館だった。雅人の父親は町役場に勤めている。雅人一家の住居は旅館とは並びの別棟であった。
 スキー場での怪我も全快して、雅人も葉子も三月の卒業式を終えた。雅人も葉子も大学へは行かなかった。
 雅人は弟三人、妹一人の長男なので、ゆくゆくは旅館を継がなくてはならないが、両親が健在なうちはと勤めに出ていた。仕事は国鉄の駅員である。葉子は勤めには出ず家に居た。葉子自身は出たいと思っていたが、両親は反対であった。一人娘なのであまり外には出したくない母の気持が分らないでもなかったが、葉子は内心不満であった。家にばかり居たのでは雅人に会うチャンスがない‥‥、そう思って淋しかった。
 葉子の父親は小学校に勤めていたので生活は普通で、妻は外の仕事に出ない方が良いという意見の持主であった。母は閑をみて和裁の内職をしていた。世の中は次第に洋服の時代になっていたが、やはり嫁入りの時などは和服を何枚か仕立てる人も多く、和服の縫える女性も多くは居ないので、結構、重宝がられていた。葉子の母は葉子にも仕立ての技術を身につけさせたいと思っていたのであった。
 「家庭を持ったら、女は家に居た方がいい、子育ては女の役目だから‥‥」
 というのが母の口癖であった。葉子もその考えに反対ではない。
 母を先生にして仕立物を続けているうちに、生れつきの器用さもあって上達が早く、母を喜ばせたし、葉子自身も楽しみになってきた。
 だが、針を動かしていて一休みしたときなどに、ふっと思い出すのは、やはり雅人のすがたであった。――今頃は、あの駅のどの辺に居るのかしら――と、雅人の働いている姿を想像するのである。それは一日中といっていいほど葉子の心から離れなかった。思いあまって葉子は手紙を書いた。ラブレターを書いたのは、あとにも先にもこの時だけである。読み返してみると自分でも恥ずかしいほど甘い言葉を並べてあったが、自分の本当の気持だからそれで良いと思った。郵便で出そうかと思ったが止した。雅人の母に見咎められるかも分らない。直接雅人に手渡そうと思った。
 その頃、葉子は隣町に住む、嵯峨御流の活花の師匠の家へ週に一回、お花の稽古に通っていた。列車を降りるその街の駅舎に雅人は勤務していて、顔を合わせる機会のあるのが葉子にとっての唯一つの喜びだったのである。雅人の気持も同じであろうと葉子は信じていた。勤務中の雅人とは長話はできないが、お互の眸が言葉にならない言葉を語っていた。
――駅で渡すことにしよう――葉子はそう思った。週に一度のお花の稽古日に駅に行った時に、雅人は忙がしそうで声がかけられなかったりで、控え目な性格の葉子が戸惑っているうちに雅人の姿はその駅に見えなくなってしまった。駅員にそれとなく聞いてみると三駅はなれた「半田駅」に転勤になったそうである。週に一度、顔を合わすだけの楽しみの機会も奪われてしまい、手紙はとうとう渡さずじまいになってしまった。どうしても自分の気持の納まらなかった葉子は思いきって郵送した。だが、いくら待っても返事は来ず、その手紙が雅人の手に届いたかどうかも分らない。雅人を信じていたのは思い違いであったろうか‥‥、とも考えた。
 葉子は今まで何度かラブレターを貰ったことはある。中学生までの同級生で、警官の父親の転勤で変っていった背の高い0君、隣町の金物屋の息子で小学生の頃の受持ち教師だった眼の鋭いT先生、高等学校で一級上のクラスで大学に進んだ無口なN君。それらの手紙は当然だが両親の知るところとなった。
 「まあ、まだ若かいんやから、‥‥、慌てておつきあいせん方がええ」
 と、母親は言ったし、父親は、
 「家族を養う生活力もない若い者が、そんなことを考えんと、自分の身の立つように働かないかんやろう‥ ‥」
 と、顔を歪めた。
 葉子は誰にも返事を出さなかった。両親の意見は意見として、自分の気持のなかは、雅人の俤だけであることを強く感じ、自分にそれに答えるものがなかったのだから、葉子を想ってくれる相手の心を無視したことは仕方がないことだと思ってきた。
 今、雅人から返事のこないこの苦しみに、葉子は自分を大切に思ってくれた三人のことが改めて思いやられたのであった。人は誰も自分がその境遇になってみないと解らないことがあるようだ。
 それから一年あまり過ぎた頃、全く思いがけない話があった。父の知人を通じての結婚話である。そして、その相手は岸松雅人であった。雅人本人がそのことを強く希望していて、雅人の両親も、「二人ともまだ年は少し若いと思うが、雅人がたっての希望だから」
 と賛成したそうである。
 その時の嬉しいけれど怖いような、歩いていく先に高い険しい山のあるような、感動と不安の入り交った気持ちは、ずっと葉子の身の内に残っていて、今もありありと蘇り、葉子の心を暗闇のなかに吸いこんでいく。
――ああ嫌だ、嫌だ――葉子は頭を何度か横に振った。
――思い出さなくてもいいことを――、頭を振りながらそう呟いた。
 顔をあげて時計を見るともう昼に近い時間になっていた。
 この寒さのなかで夫の由夫はどこで仕事をしているのであろう‥‥、そう思いながら立ち上り窓から外を見た。空は次第に晴れてきたようだ。

 駆足のように日が過ぎた。家のなかのことを、あれもこれも片付けようと思っていたのだが、結局、何もできなかったほど気持がぼんやりしていた。整理箪笥の中の衣類や下着類だけは片付けて「冬シャツ」「夏シャツ」「ズボン下」「パンツ、靴下」などと書いた紙を抽出の表面に貼った。仕事から帰った由夫がそれを見て笑った。
 「何じゃ、これ‥‥」
 「あなた、いつもすぐ、ぐちゃぐちゃにしてしまうでしょ」
 「こんなもん貼らんでも‥‥、まるで子供扱いじゃ な‥‥」
 「私が居ない時でも分り良いと思って‥‥」
 由夫はテレビの画面に見入っていて返事をしない。
 一度、長女の明子から電話があった。
 「どうしたの」
 「ううん、別に用事はないんだけど‥‥暫くお母さん の声聞かなかったから」
 「そう‥‥」
 「変りないんでしょ、お父さんも」
 「ええ、毎日シルバーの仕事に行ってる、元気よ」
 「お母さん‥‥‥」
 「え‥‥‥」
 「どうしたの」
 「何が‥‥」
 「いつもと少し違うけど‥‥声の調子も変よ」
 「そうかしら」
 思わず病気のことが口に出かかったのを葉子はグッと飲みこんだ。あと何日かの辛抱なんだから、我慢しなければ‥‥。
 「今年はいつもより寒いし、インフルエンザも流行ってるから気をつけてね」
 「ありがとう、明子もね」
 受話器を置くと葉子はほっと大きく息をついた。今の不安を誰かに話せば気持が幾分かでも楽になるのにと思った。
 一週間がまたたく間に過ぎた。明日は検査の予約の日、さすがに葉子は緊張していた。今晩からは食事も抜きである。だが今のような暖味さの不安に浸って過ごすよりは早くハッキリした方が良いとも思った。

 午後、届いた郵便物のなかに「同窓会名簿」があった。今年は母校の創立九十周年記念事業の一環として発行されるという通知があり、申し込んでいたのが届いたのである。
 葉子は、ずっしりと重い、緑色の表紙に「同窓会名簿」と金文字で書かれた四百ページ余りのそれを開いてみた。同級生達も住所が変っているし、女性は姓も変っている。物故者も数名いて、その友人達の俤が泛かぶ。
 雅人の名前を葉子は何度も指でなぞった。今までも五年に一度は発刊される同窓会名簿が届くたびに葉子は雅人の名前を第一に見た。そして、――ああ、元気でいる――と安堵していた。卒業してから、もう四十年余りの歳月が経ているのだから、雅人も、もう勤めは退いて旅館の主人としての采配を振っているに違いない。
 あの時、雅人の家からの求婚を承諾していれば自分の人生も違っていた筈なのだと、詮ないことを又思った。
――一人娘だから嫁には出さん――という父の反対。――あのおかみさんと一緒に暮らすのは苦労が多すぎる――という母のためらい。母は、「松ノ屋」からも仕立てを頼まれることが折にあったし、主婦達の噂話などからもそんな印象をもっていたようだ。
 肝心なのは葉子の気持であるのは勿論である。葉子は、母と今は亡き祖母との日常を見ていたが、やはり、それは生易しいものではなかった。どちらが悪いというわけではないが、嫁姑の仲は些細な感情の行き違いから大きな誤解へと脹らんでいくようだ。まして雅人の家は旅館という商売だから、それは普通の家庭と比べると、家族が同じ目的を持ち協力するという力強さはあるが、又、一つの仕事に対する意見の相違という負の感情もあるに違いない。
 一人娘として自由に育った葉子には、雅人の四人の弟妹達への気遣いも厄介に思われた。
 だが、それらは、葉子の雅人に対する深い思いに比べれば、なんとか克服していけそうである。雅人さへ自分のこの想いをしっかりと受け止め理解してくれて、その心で大きく包みこみ、励まし労わってくれれば、葉子は堪えていけると思うのである。
 一度、雅人に会って、二人きりでじっくり話をしたいと思った。そのことを両親に打開けて仲介人に頼み、機会をつくって貰うのが一番良い方法だった筈なのだが、正式のお見合いのような型にはまった出合いではなくて、どこかで二人きりの心のときめくような時間をもちたいと思ったのであった。
 葉子が雅人に手紙を書いたのは二度目である。お花のお稽古に行く日、その街の高台にある諏訪(すわ)公園を待ち合わせの場所に定めた。雅人は勤めの都合があって大変だろうけれど、なんとか理由をつけて休みを取ってくれるだろうし、もし駄目のようだったら、それなりの方法で連絡がある筈だと葉子は雅人を信じていた。
 その日、葉子はいつもの時間に家を出た。お花の先生の家には行かず、諏訪公園に向かった。公園はこの街の北の端の狭い台地である。諏訪神社があり、境内とその周辺が整地され、何本かの年輪の多い樹木はあるが、一目で見渡せる程度の広さで、何ヶ所か木のベンチが置かれてはいるが人影はない。
 公園の並びには、中学校、小学校と続いていて、それぞれの敷地の北側は切り立った斜面で、白い小石の河原へとなだれている。その先は吉野川の流れが青く淀んでいて、渡し舟の往き来するのが見える。対岸は讃岐山脈が迫る狭い平地で、山裾を通っている道路の両側にぱらぱらと民家の屋根が見える。
 葉子は落着かなかった。約束の時間からはもう半時間ほどが過ぎている。ベンチに座っていても気持が揺れていてゆっくりして居れない。公園の端に立って街を見渡した。遠くに駅が見え、土讃線と徳島線の乗換駅なので列車の出入りが多い。駅前から拡がる街の建てこんだ家並は瓦が一様に午後の陽に光っている。時折、その瓦が鼠色にくすむのは、とぎれ雲が大陽を隠すからであろう。
 葉子の気持は屋根瓦よりも、もっと烈しく照り陰りの色を見せていた。坂の下に人影が見えたとき、葉子は――来たわ――と思ったが近づいてくる姿は中年の男性であった。仕事の都合で休めなかったのかも――と考えたが、それなら、何らかの方法で連絡してくれる筈だと思った。ひょっとしたら急病――、そんなことまで考えるほど心が揺れていた。自分を自分で宥めながら、もう少し、もう少し、と待った葉子だったが、一時間を過ぎたとき諦めた。
 気持の暗い日が続いた。
 雅人からは其の後も何の連絡もなかった。考えてみれば今までにも手紙の往復はしていなかったし、二人きりで会ったこともなく、ただ駅で出会うときの短い言葉のやりとりや、その表情だけで雅人を信じていたのは自分の独りよがりだったのかもしれない、とも思った。だが、仲人の話では、いまの縁談は雅人自身の希望で始まったというのに‥‥などと考えると、葉子の気持ちはとりとめもなく落ちこんでいったのであった。
 母と一緒に縫物をしていても、つい手を休めてぼんやりしていることもあり、気がつくと、母が不審そうな眼で葉子を見ていることもあった。
 或る日、仕立物が一段落した母が言った。
 「これは噂話じゃけんどな、ほんまかどうかは分らんよ、雅人さんをなぁ、仲居の清江さんがとても好いとるらしいよ」
 「‥‥‥‥‥」
 葉子は動悸がした。そんなことはない‥‥と思いたいが、そのことへの証拠はどこにもない。葉子に対する眼差しのひたすらだったあの雅人が、相手の気持に溺れることはない筈だと強いてそう思ってはみたが、疑いと不信の気持が黒い雲のように湧いてくる。
 その頃、雅人と正式にお見合いをする段取りをという話が仲人から持ちこまれた。両親は、もうあとは葉子の気持次第というのである。
 葉子は追いつめられた感じであった。「雅人への愛情と信頼」「雅人を囲む周囲の事情」「小さい或る疑念」それらを天秤にかけてみるわけではないが、やはり念頭にうかんだ。葉子は悩んだ。そして結局断った。最初からあまり気乗りのしなかったようだった両親も何も言わなかった。
 その断りは、一人娘で甘えっ子に育った葉子が、欲しくてたまらないお菓子を横目で見ながら、「いらない、いらない」と拗ねて、首を横に振っている幼児と同じだったのだ。

 夕暮れが迫っている。
 由夫はまだ仕事から帰っていない。葉子は明日の検査のための絶食だが、由夫の為に用意をしようと立ち上がった。足許の同窓会名簿を片付けようと手にした。未練たらしいとは思ったが、もう一度パラパラとページをめくった。もうクラスメート達と会う機会もないかもしれないとも考えた。今までも同窓会などは欠席ばかりだったのだからと、暗い方へばかり思いが走るのも葉子の性格であった。
 雅人の名前に視線が釘付けになった。声が聞きたい!と思った。今までの暮らしのなかでも、何度かその気持への誘惑から受話器を手にしたことがあったが、さすがに実行はしなかった。
 夫の勤め先のこの街でずっと住んでいるが、時折の里帰りの際、雅人はやはり噂のあった仲居の「清江」と結婚したことを聞いた時、気持が揺れたのは当然のことだった。
 その時も葉子は自分を反省していた。自分に一途な積極性がなかったこと、雅人本人とは別に雅人の周囲の事情を考える打算的な考慮のあったことも否めない。結局は自分が駄目人間だったのだ‥‥‥ということは分っていながら、青春の頃に匂った美しい花を忘れることはできなかったのである。
 今、命の瀬戸際に立ったような感情の揺れのなかで、葉子は最後の勇気を出した。受話器をしっかりと握った。同窓会名簿を見ながら雅人の家の番号を押した。呼出書が五回ひびいた。
 「もしもし、岸松ですが」
 男性の少し濁った声である。
 「岸松雅人様、いらっしゃいますか」
 「ええ、僕ですが‥‥、どちらさんで」
 顔がカッと熱くなり、動博が胸を打った。
 「あの‥‥‥」
 と、言葉が続かない。
 「どちらさんで‥‥‥」
 少し苛立ったような声である。
 「葉子ですけど‥‥、谷崎葉子です」
 葉子は旧姓を言った。
 「えっ」
 瞬間の沈黙があった。
 「お元気そうで‥‥、別に用件もありませんのに‥‥、 失礼しました」
 「ちょっと待って下さい、切らないで‥‥」
 「‥‥‥」
 「一つだけ聞いて欲しい」
 「‥‥‥‥」
 「若いとき、君から届いた手紙、二通とも僕の手には 渡らなかった」
 遠い昔の出来事が葉子の頭のなかのスクリーンにはっきりと映し出された。
 「清江の病気が重くなったとき、僕にそのことで詫び を言った‥‥」
 「清江さんが?」
 「ああ、そうなんだ、清江は亡くなった、一年ほど前 に‥‥」
 「そうですか‥‥、それは‥‥」
 淋しくなりましたね‥‥と言葉が泛かんだが口に出せなかった。
 「君からの手紙を二通とも私が握りつぶしてしまったと言って泣いて謝った」
 「‥‥‥‥‥」
 想像もできなかった余りのことに、葉子は返す言葉も出なかった。
 「もしもし‥‥」
 葉子は取り乱していた。雅人の声がまるで遥かな雲の上からひびいてくるような感じであった。
 「お元気で‥‥‥じゃ‥‥‥」
 「もしもし、待って‥‥」
 受話器の向こうの雅人の声を断ち切るように葉子は電話を切った。何をどう解釈していいのか分らず、葉子の頭のなかは嵐の海のように波しぶきをあげていた。
 葉子は呆然と座っていた。今聞いたばかりの何十年ぶりかの雅人の声は夢であってくれたらいいのに――と思った。置時計の秒針が時を刻む音が、今日に限って鋭利な刃物のように葉子の感情を刻んでいく気がする。今になって、何を考えて雅人はあんな話をしたのだろう‥‥、葉子の胸のうちにある雅人への思いと、それは全く別の問題であった。
 「聞かない方がよかった」葉子はそう思った。

 「只今」
 玄関の開く音がして由夫が帰ってきて部屋に入った。
 「お帰りなさい」
 「おい、ぼんやりと座って‥‥、どうしたんぞ」
 「ごめんなさい、すぐ夕飯の支度するわ」
 慌てて立ち上ったとき、急に目の前にさっと白いカーテンが引かれた感じで何も見えなくなり、そこに倒れた。由夫が駈け寄って肩を抱えて半身を起こした。
 「おい、大丈夫か‥‥」
 葉子はすぐに気が付いた。畳の上なので体のどこにも痛みはなかった。
 「夕飯はしなくていいよ、御飯さえあれば、御菜(おかず)は残りもので‥‥」
 「そう、じゃ、横になるわ」
 「どうも顔色が良くないと思ったよ、晩飯はどうす る?」
 「今晩はいい、食欲ないから」
 「そうか」

 寝苦しい一夜だった。
 古い柱時計の振子の音が、運命をせきたてるように耳に響いて眠れなかった。喉が乾いてヒリヒリする感じだったが、午後九時からは水分も取ってはいけないと注意書きにあった。
 明日の検査への不安と、夕方の雅人の声が重なって、じっとしては居れない感じで大声で叫びたい気もした。耐えきれないで、思わず、
 「ううん‥‥、ううん‥‥」
 と坤きに似た声をあげた。腕を大きく振りあげた。
 「おい、どうした‥‥」
 傍の寝床の由夫が驚いて醒めた。
 「え、ああ、なんかちょっと苦しかったの」
 「そうか、顔が逆上(のぽ)せてるようや、大丈夫か、あしたは病院へ行ってみんといかんぞ」
 「ええ」
 眠ろうと気持が焦るほど、眠りに見放された夜だった。過ぎてきた暮らしのさまざまな事が思い出された。楽しかったことよりも苦しかったことの方が記憶に深く残っている。それを今更後悔しても始まらない。歳月は後戻りはしてくれないし、誰のせいでもない。みんな自分の思慮の浅さ、意志の弱さ、決断力の無さ、闘争力の欠如などなど‥‥。数えればきりのない反省と悔悟の深い淵へと沈んでいくのである。
 「仕方がない‥‥」葉子は大きく息を吐いた。不意に雪山の風景が脳裏に映った。腕山である。スキー場とそこで辷る若者達の姿である。そして、怪我の痛みに歪んだ雅人の表情とあの坤き声であった。今、葉子の住んでいる街には、あんな大雪は降らない。
 同級生として、雅人と一緒に勉学や部活に努力した時のお互いの純な気持‥‥。いい青春時代だった‥‥。そう葉子は自分を慰めた。もう、夜明けに近い時間になっていた。
 翌日、病院へ行った。予約の時間に胃カメラの検査が行われた。
 葉子は今までに何度か胃の検査はしたが、バリユウムを飲んでの透視で、胃カメラを入れるのは初めての経験であった。
 ベッドの横には技師と看護師が居るらしい。指示をする声、応答の声が低く聞こえるが、葉子には何も分らない。ただ嘔吐がこみあげてくる苦しみに堪えるのが精一杯の状況であった。早く終ってくれればいい、そう思いながら苦しみに身を捩らせることも叶わず、必死の気持で堪えていた。
 家のこと、自分のこと、家族のこと、そして雅人のことも念頭から去っていた。早くこの苦しみが終ってくれることだけを念じていた。
 検査が終ってからしばらくして葉子は呼ばれた。意外なことに結果は良かった。胃壁が爛れていて赤くなっているし、小さいポリープはあるが悪性のものではない。但し用心のため年に一度は検査を受けるように、という医師の言葉に、葉子の騒いでいた胸は凪いだ海のように穏やかになった。
 売店の横の自動販売機で缶ジュースを買って飲んだ。オレンジの味が乾いた口中にひろがって爽やかだった。
 いつものように薬局で薬を貰い、外にある公衆電話でタクシーを呼んだ。車の座席に腰を下ろすとホッとした気分で背もたれに身を寄せた。
 「お客さん、多喜浜小学校の手前じゃな」
 「そうよ、よう知ってるね」
 運転士の顔をうしろから覗いた。
 「もう、何度も何度も呼ばれてるもんな」
 運転手の唇がバックミラーのなかでゆるんでいる。
 「ああ、そうなんよね」
 葉子が、この病院に通いはじめてからもう三年あまりになる。月に一度だが、同じタクシー会社の車を利用している。
 車の窓に見える空は青く澄んでいる。今晩は笑いながら由夫に今までの総ての経過を話せる‥‥、そう思うと葉子も頬がゆるみそうであった。
 「いいお天気――」
 葉子の今の気分が空の青さに吸いこまれるようであった。
 「お客さん、今日は気分好さそうやなあ、僕もたまには仕事を忘れて車を走らせたい、どうですか――、今か らドライブしませんか」
 「まあ、面白いことを‥‥、冗談うまいわねえ」
 葉子は笑った。
 生きているんだという実感、まだまだ生きて暮らしてゆけるかもという望み‥‥。
 虹は見えない。
 幻の虹の橋の向こうの杳(とう)い人、雅人のことは心の底に深く埋めなければ‥‥。
 「あ、運転手さん、留めて」
 葉子は声をかけた。もう家までは近い。
 「ここでいいんですか」
 「ええ、寄りたいところがあるから」
 「じゃ」
 車を下りて歩いた。急に空腹を感じた。葉子は、ふだん利用しているコンビニへ寄ろうと思った。
 ここ数日は料理に気持が入らず、い事加減なものになっていた。落着かない気持で作った料理には美味(おい)しい味はないそうだ。
 今夜はお寿司にしよう。由夫の好物であり葉子も大好きな散らし寿司、具を多く入れた故里の味たっぷりの田舎寿司を作ろう。葉子は自動ドアを入り、プラスチック製の青い買物篭を提げて商品棚のほうへ歩いた。


 ……「文芸同人誌案内」に登録されていませんので、ここに少し紹介いたします。

「内海文学」 発行所 愛媛県新居浜市 編集発行人 川原 進さん

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