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  雲切れ                       武井 久

 

科野作家  7号(1996年)

推薦 島田震作さん(科野作家)

 

武井 久さんは2007年4月6日逝去されました


   

 新宿行きの特急 あずさ″ が、停車しない小駅を瞬時にやり過ごすと、まもなく盆地に大きく拡がるS湖が人家越しに見え始めた。
 湖面は、まだ浅い春の曇り空に照応するように鈍く光っている。
 昨夕、奈津子と向かい合っていた、この湖に沿うように建てられている小ぢんまりとした喫茶店を探そうと、佐山は窓外に目を凝らした。奈津子の、その彼に対する不信と屈辱感に苛まれた突き刺すような眼差しが、脳裡にいまだに深く刻み込まれていた。
「あなたには、どういおうと、世間に認められた、れっきとした家庭があるし、二人のお子さんにも恵まれている。それにひきかえ、このわたしには一体何が……」
 そこで言葉をちょっと途切らせた奈津子は、心の裡に溢れているものを一挙に吐き出すように続けて言った。
「あなたには言わなかったけれどね、この間、横浜に住んでいるあなたのお姉さんから電話が掛かってきて、ひどく詰(なじ)られたわ。一枝さんが何か言ってやったらしいのよ。お姉さんはね、あなたを一枝さんに引き合わせた手前、そうしたわたしの立場も考えて欲しいと言ったわ。道を外れたことをしていて恥ずかしく思わないか、とも言われたわ。それは我慢するとしても、あなたをこのわたしが引き摺っているようなことを言うのよ。そんなことってあるかしら。全く理不尽な話よね。あなたは、こんなみじめなわたしのこと、一度だって考えたことあるかしら。それはこのわたしには到底できない生き方をするあなたに惹かれてここまで来てしまったわたしにも責任はあるし、あなたの小説に賭けてきたのも、わたしの勝手なんだから、それは仕方がないけれども、でも、もう限界だわ。これも勝手な言い種かもしれないけれど、これ以上付き合っていても、何の価値も意味もないから、訣れた方がいいと恩うの」
「……わかれて、どうするんだ。それとも、あの、峻介さんとかいう小学校の同級生である大学の教授に、返事でも出す気になったとでもいうのか?」
「馬鹿を言わないで。それ程いい加減じゃあないわ。言って置くけど、あの人にだって奥さんがいるのよ。傷つけあうことなど、もうたくさんだわ。それより、一枝さんはあなたという人を絶対に必要としているんだから、わたしと訣れたといえば喜ぶに決まっているし、それに子供さんたちがどんなに胸をなでおろすか、あなたにとってもそれが一番いいことに違いないわ……」
 冷たくなっているコーヒーを飲みおえた彼女は、間を少し置き、「忙しい仕事があるから、わたし、先に失礼するけれど」 と、腰を浮かせた。
「ちょっと待ってくれないか」
 佐山は、急いた口調で、彼女を押しとどめた。
「その圭太のことだがね。音楽をもう少しやりたいから、大学をこの三月に卒業しても、就職しないって言ってきているんだ。生活費はアルバイトで稼ぐから心配は掛けないと言うのはいいとしてもね……。横浜の姉といえば、その姉にね、そんなに世の中は甘くないと説教されて、かなりこたえているらしいんだ。それで明日、話をLに東京に行ってこようと思うんだ。おれの気持ちとしては、圭太の思うようにさせてやりたいと考えているんだがね」
 喋り終わった佐山の顔を、しばらくじっと見詰めていた奈津子が、
「あなたには、心配する子供さんたちがあって、本当に倖せね……」
 と、短く呟くように言った。

 考えてみれば、このところの奈津子の表情には、苛立ちがきわだっていたと佐山は思う。訣れ話を持ちだした昨夕の彼女の、これ以上は耐え切れないといった怨嗟に満ちた黒々とした双眸を、佐山はようやくの思いで振り切ると、ポケットから取り出した煙草に火を点けようとした。その時である。
「……ここは禁煙車ですけれど」
 と、隣りに腰を掛けていた五十がらみの教師らしいタイプの女性の冷たい声が、彼の耳孔をつんざいた。
 逃げるようにして佐山は喫煙の許されている車輌に移ったが、煙草を吸う気などに、もうなれなかった。
 その彼の頭の先に、到着の時間に合わせて新宿の駅のホームで待っている筈の圭太と、娘の史絵の顔が、少しの間を置いて浮かび上がった。
 奈津子との何十年にもわたる付き合いが、子供たちを幼い頃から傷つけてきたことは佐山も承知していた。しかし、そのことで奈津子と訣れることなど、今の佐山にできるわけもないのだ。
今度の上京も、息子の将来について話し合うというより、そんな佐山のことを、子供たちがどんな風に考えているのか問いただしてみたいというのが、本音といってよかった。奈津子が本気で佐山に対している以上、彼も本気で常日頃考えている妻の一枝との別居を考えなければならないのである。巻き添えを食うかもしれない子供たちには気の毒だが、因果を含める時が来ていた。
 時間通りに着いた あずさ″ からホームに降り立つと、史絵がひとり待っていた。兄の圭太がアルバイトの都合で来られなくなったと、ひさしぶりの再会に眩しそうな眼差しを向ける娘と、西口の小田急線の乗り場にむかって歩き出した。
 背筋を伸ばした身に亜麻色のコートをまとった史絵の背丈は大きい方ではなかったが、それでも前屈み加減の佐山に比べ、遜色のない感じであった。そんな彼女の頬にちょっと赤味が射しているのは、肩を並べて歩く気恥ずかしさからなのか。
 ふっと、佐山の脳裡に、生後まもなく気管支肺炎で未熟児の入る保育器にいれられて、生死の淵を彷捏っていた、いたいけない娘の姿が甦っていた。倖い大事には至らなかったものの、父親でありながら娘をそんな状態になるまで放って置いたことに身の細る思いこそすれ、いい訳の言葉などあろうはずはなかった。そして、ここまで大きく育ったとはいえ、きょうも又、その娘や息子たちに佐山は酷な仕打ちをしようとしている……。
 突然、胃袋の中の嚥下物が苦しく逆流して来るのを佐山は感じた。吐き気を飲み込むようにして抑えた彼のからだが、一瞬、ぐらっと傾いた。
 かたわらの父親の異常に気付いたらしく、不安な表情をちらっと覗かせる娘に、ようやく平衡感覚を取り戻した感じの彼は、弱々しいが笑顔でもって応えると、混んできたホームの中を、娘を見失わないように歩き、小田急の改札口から乗り場に出た。
 各駅停車の電車で祖師ケ谷大蔵まで行き、経済的なこともあり、二人を同宿させているアパートに辿り着いた時、圭太はまだ帰っていなかった。
 佐山のオーバーコートを受け取り、ハンガーに掛けると、史絵は茶の用意をするといって、さっそく勝手場に入って行った。
 折たたみ式のベッドや、座机に占められていて、ちょっとしかあいていない空間に佐山は座布団を敷いた。開けてはみなかったが、隣りの圭太の部屋も、ギターやテープが、それに録音のセット等が足の踏み場もなく置かれているはずであった。
 池袋にあるミッション系の大学の文学部に在籍している史絵は、地味な性格で、どちらかといえば女性に人気のある派手な校風に染まらないで、時折、送金を遠慮勝ちに依頼してくるだけであったが、圭太の方は経済学部に籍を置きながら好きな音楽に身を焦がして留年、ようやく卒業の見込みはついたものの、果ては何の保証もないその道に進みたいなどと、佐山を悩ませていた。
――親父さんだって、仕事をしながら小説を書き続けてきたのだから、僕にだって出来ないことはない、と堅実な職業に就くことを勧める妻に、声を荒立てて言いたてたらしいが、その佐山の書く小説は一銭の金にもならないのだから道楽の範囲を全く出ないのである。
 その辺のところを圭太がどう考えているのか、それも今夜話し込まなければならないな、と佐山は思った。
 史絵のいれてくれた茶と、替わりのコーヒーを飲み終えた頃、圭太がアルバイト先から帰ってきた。
「この近辺に飲食のできるいい店があったら、案内してくれないか」
 母親は欠けてはいるが、ひさかたぶりの団欒ができると、圭太と史絵の表情が緩んだ。それを見極める佐山の胸に、一瞬、愛しさとも痛みともわからぬ複雑な感情が走った。それに覆いを掛けるように、彼はゆっくりと腰を上げた。
 圭太が案内したところは、メニューに安価な一品料理がぎっしりと書き込まれている薄暗い大衆酒場というか、食堂に近い店であった。もう少し増しな店でも構わなかったのにと恩ったが、零細な工場を経営している佐山の懐具合を気遣ってのことだろうと考えれば苦笑も引っ込み、ならば一番高価なものをと、それも遠慮勝ちな彼等に無理に勧める佐山であった。
 からだの不調もあり、あまり酒の進まぬ佐山の口から、――ところで、と話の糸口を探るような重苦しい言葉が、これもあまり気分の乗っていない真向いの圭太の方にむかって吐きだされたのは、かなりの時が経ってからだった。
「横浜の伯母さんに、何かきついことを言われたそうだが、それもお前の将来を気遣った上でのことなんだからね。いずれにしても父さんは反対しないから、やれるところまでやってみた方がいいと思う。本音をいえばね、反対して、お前に後々まで愚痴っぽいことを聞かされるのが嫌なんだ。冷たい訳じゃあないんだが、とにかくそれで食えなくても、飯くらいは何をやったって食えるんだから心配しないことだ。それより、お前が音楽のサークルで知り合ったという娘さんのことなんだが、今もうまくいっているのかね。だとしたらその娘さんが何と言っているのか訊かせて欲しいんだ」
「……うん、不安がないこともないらしいんだけれど、同意はしてくれてはいるんだ」
――それはよかったな、と目で応える佐山に、圭太は照れたような笑いを返した。
 二人の会話を黙って聴きながら、長方形の皿に盛られた豆腐のステーキなるものを、時折思い出したように突ついている史絵に顔を向け、
「来年のことなんだが、お前も家に帰らず、この東京で職の口を探すのかね、母さんが心配していたよ」 と佐山は言った。
「そのつもりなんだけれど……」
 史絵の、迷いとも、既に心にはっきりとそう決めているともとれる曖昧なか細い声が、間を置いて彼の耳に届いた。
「母さんはね、お前にはなるべく帰ってきて貰いたいと思っているんだ。お前が家にいれば話し相手にもなるし、ということよりもそうなれば家を空けてばかりいるこの父さんの悪い素行が、少しは改まるかも知れないと思っているらしいんだ」
 言い終わった佐山から目を離し、顔を伏せた圭太と史絵の表情が、瞬間、暗く翳ったのを彼は見逃さなかった。
 今をのがしては、と彼は続けた。
「これから喋ることをお前たちは一人前の大人だと恩って冷静に聴いてもらいたいんだ。はっきり言って、母さんとの結婚は間違っていたというしかないのだ。母さんは、もったいない程いい人なんだけれど、父さんとはどうしても合わないんだ。今更何を、というかもしれないけれど、これはどうしようもないことなんだ。お前たちも将来の伴侶を選ぶ時がこれからくるわけだが、父さんや母さんのような不倖だけは繰り返して欲しくはないと思う。母さんと見合いをした晩、父さんに母さんはね、――わたしには好きな人がいるから、その人の気持ちを確かめてから返事をすると言ったんだ。ちょっと虫のいい話だと恩ったが、父さんは、――ああ、君がそうしたければそれでも構わない、駄目だったらその時にまた考えればいいさ、と言って別れたんだ。――本当に好きな人がいた訳じゃあない、あなたを験すために、ついと口を滑らせてしまったのだとは、後からの母さんの述懐だった。その間に、父さんも他の人と見合いもしたが、結局二人は結ばれることになったけれど、そもそもその辺がおかしいとお互い気付けばよかったのだが、これも先を見通せない愚かな人間の為せることで、誰にも罪はないんだ。いや、あるとすれば、極く普通の生活を願っている母さんに合わせられなくて、放埓な生き方を自分に許してきた父さんに、その責のすべてがあるのかもしれない……」
 ともすれば、重く途切れ勝ちな普段の調子とはかなり違った佐山の口の滑りにも気付かずに、じっと耳を傾けている二人に向かって、彼はまた喋り出した。
「しかしね、そんな父さんと母さんが結婚しなかったら、お前たちがこの世に存在しなかったことも、これも紛れのない事実なんだ。それでね、お前たちがこんな夫婦の問に生まれてしまったことを、怨みに思っているのか、それとも、こうした運命を受容しようとしているのか、その辺のところを訊かせて欲しいんだ……」
――圭太はどうなんだ? と続ける佐山に、
「ぼくは、生まれてきて、よかったと思っている」
 と、圭太ははっきりとした口調で言った。
 史絵は? と目で問いかける佐山に、――わたしも、と顔を伏せたまま、小さな声で彼女が答えた。
 暗澹としてはいるが、醒めた目を向けていた佐山の心の中に、一瞬、身の震えるような感動が走った。先の視えない闇の中に、仄かな明かりが灯った、と感じるその佐山の脳裡に、家で、これも救いを求めて一心不乱に聖書の言葉を追っている妻の姿が、輪郭も鮮やかに浮かび上がった。
 頭の奥深くそれを圧し沈めると、
「そうか、二人にそんな風に考えてもらえれば、助かる……」
 と、佐山は呟くように言った。
 せっかくの時間を、通夜に似せてしまった上に、業というか、心の裡に潜む得体の知れない情火に煽られるままに生きてきた末の、払い切れない付けを子供たちに押しつけてしまった後味の悪さを感じながらも、胸につかえていたものを吐き出してしまい、佐山は幾分は軽くなった腰を上げ、圭太と史絵を促すように店を出た。
 通りすがりに、まだ開いていた書店に立ち寄った佐山は、一冊の新刊本を史絵に買い与えた。太宰治がモデルとして扱った女性の娘が書いたものであった。彼女も多分そうであったように、史絵も、それに圭太もこれから孤独な夫々の道を、ひとり歩んで行かなければならないのだ。込み上げてくるものを抑えながら、前を行く二人の背に目をやる佐山の首筋に、ひんやりとした風が掠めて行く。
 表通りに面した商店のほとんどが、もうシャッターを下ろしていたが、そこだけが明るい深夜営業のスーパーの前まで来た時、同時に足を停めた二人が、あしたの朝食の用意をしなければと、そこに入って行った。
 適当なものを物色し、籠に入れると、史絵がレジに向かい財布を取り出そうとした。心細い生活費の中から支払うつもりらしいと悟った佐山は、慌てて娘に近寄り、財布を差し出した。
――わたしたちが出すから、という史絵に無理矢理押しつけると、娘はようやくそれで勘定を済ませた。僅かな釣りを返そうとする彼女に、いいから、と首を横に振った佐山は、そんな史絵や圭太に断ち切り難い肉親の情を思い知らされるのだった。
 翌朝、寝起きの悪いわりにしては早く目を醒ました佐山は、いつつくられたのか、ささやかな朝食が部屋の片隅の卓に並べられているのを見た。家にいた頃はほとんど家事をしなかった娘だったが、と思いをこらした時、圭太が起きてきた。
 会話はないが、ひさかたぶりの親子三人の食事が済むと、早い授業があるからと、史絵がアパートを出て行った。暫くして、アルバイトは午後からだからそれまで付き合ってもいいという圭太と彼も、狭い部屋を出た。
 肌寒さを覚える曇り空の下の舗道を歩きながら、佐山は圭太に行き先を告げた。まだ訪れたことのない日本近代文学館に行くつもりであった。下北沢で井の頭線に乗り換え、あらかじめ調べてあった小駅に降り立った二人は、駒場公園への道を辿りはじめた。
 文学館のある公園の周辺は、何故か閑散としていた。開かれている通用門から園内に入り、左手にある文学館の石段を登って行くと、閉じられている鉄格子に括り付けられている木札が目に入った。木札には整理のため休館中″と書かれていた。日曜祭日が休館日と識って、わざわざ一日延ばしての上京だったが、文句を付ける筋合いのものでは勿論なかった。
 近くに住んでいながら(といっても無理な話にちがいないが)その存在を全く知らなかったという圭太は、無駄足を踏んだ佐山の心中を察してか、自分のことでもないのに、済まなそうな顔付きで彼を見た。
 そんな圭太に、――本当はね、館の中を見れなくても、少しも失望なんかしていないんだ。此処に立ち寄りたかったのは、お前の全くあずかり知らない理由があってのことなんだから気にすることは何もないんだ、と言ってやりたい衝動を覚えた。
 佐山の頭のなかに、何年か前、確かいま目の前にしている建物の中に足を踏み入れ、展示室をひとり見て廻ったであろう奈津子の姿が、鮮やかに描き出されていた。
 彼女はあの時、どんな気持ちで此処を訪れたのだろうか。それにしても、あの頃の彼は、奈津子のことなど全く心になく、自分のことばかり考えていた、と佐山は思った。
 生垣によって区割されている庭内に相変わらず人影はなかった。文学館の横手に並立している文学博物館も、休館日とあってそこに入るわけにもいかず、暫くして佐山と圭太は、無言の建物を背に石段を下りた。
 すっかり葉を落しているいちょうの高木や、記念樹の楠の木、それにぶな科の常緑樹が、また金木犀やつばき等の低木が、その間を埋めている園の道を佐山は、当時の奈津子の影を踏みしめるように歩き、門の外に出た。
 此処からなら東北沢の方が近いかもしれないという圭太に従って帰路についた彼の頭に、ちらっと前々日の、あの湖のほとりの喫茶店での奈津子との遣り取りが、浮かび上がったが、疲れを覚えるからだの奥底にいつかそれも消えて行く気配だった。
 東北沢の駅の直ぐ近くのコーヒーショップで、乾いた喉を潤した圭太と佐山が、新宿の駅に着いた時、折り返しの特急は既にホームに入っていた。発車までにはまだ間があったが、圭太のアルバイトの時間が近付いていた。
 それを気遣いながら、昼食代だと言って何がしかの金を渡す佐山は、昨夜、これからは一切小遣いはいらないといっていた圭太の目頭に、うっすらと滲むものを見た。痩せても枯れても親なんだから、痩我慢などしなさんな、と本当は貧しい飯代にも事欠いているに違いない圭太に向かって、口の中で呟く佐山の脳裡に、ふっと十数年前に亡くなった父と自分との間に、こんな場面があっただろうかという思いがよぎった。
 小学校四年の春という何とも早い季節に、自慰なる形で性の計りしれない愉悦を知り、またその蟻地獄にも似た世界に坤吟してきた佐山は、表面は普通の子供であっても、その内なる素面は、額に縦皺を寄せる大人の顔を持つ子供であった。
 彼にとって、親は何も言わずに飯をただ食わせてくれる(これだけは他人とは違っていたが)存在に過ぎなかった。だから世間のほとんどの子供たちのように、親兄姉に甘え頼ることなどしない、またそれだけにある意味で酷薄なものを持ち合わせた子供だった。それは肉親の死に遭遇した折の彼の冷静さからも判ることだった。
 そんな佐山の目の前で、息子の圭太は、いま胸を詰まらせている。これが普通の親子の関係でぁり、感情というものなのだろう、と佐山は遠くのものを、しかしひどく懐かしいものを甦らすように思った。
 時計の針は、発車の時刻の迫っていることを示していた。
――もうい帰った方がいい、とにかく元気でやれよ、とショルダーバッグを圭太から受け取った佐山に、親父さんもからだに気を付けて、と言葉を返す圭太をホームに残し、車内に入った。
 発車のベルが鳴り終わると同時に動き出した松本行きのあずさ″の窓越しから車内の佐山を見詰める圭太の目に、また涙が滲んでいる。
 こんな涙脆いものを持ってこれから食うか食われるかの世間を相手に生きて行かなければならない息子の行く末に、佐山は恩いを馳せた。もっとも、そんなものを囲っているからこそ、ロックかフォークかは知らないが、音楽なんぞを己れの職業にしたいなどと考えるのだな、と納得する佐山であった。
 週初めの午前十一時発の あずさ″に乗客は疎らであった。
 一瞬にして消え去りはするが、沿線のいつもとは少し異なった色合いを感じながら、佐山はバッグの中からウイスキーの小瓶を取り出した。安物のウイスキーは始め苦く喉の粘膜を刺戟したが、慣れるに従って甘味を増して行く。ひる日なかなので抑えてはいるが、アルコールの廻りは速いようであった。
 佐山は、再び窓外に目を向けた。
 年月は経っているが、あの日の帰路、奈津子もいま彼の視覚に入っている光景を同じように見たはずであった。
 その十日ほども前であったか、彼女がそれとなく灰めかした芥川龍之介の没後五十年展の開かれている日本近代文学館行きの誘いを、無碍に断わりながら、佐山は、一人上京して行った彼女のことなど、てっきり忘れてその日の夕方、不在の彼女の家を訪れるといった笑うにも笑えない行為を冒していた。
 もとは、といえば当時、からだに異常を感じた佐山が、それでもと受診した医師に恩いもかけない疾患を指摘されたことにあった。以来、背筋を走る何ともいえない悪寒に脅え、我が身もそう永くはないと感じた彼の心の裡に、俄かに渦巻き始めたものがあった。
 初々しく、精気の満ち溢れた若い娘への憧憶と思慕の念がそれであった。たまたま願いが叶えられ、Y子という二十二、三歳の娘と付き合いはじめたはいいが、前後の見境いがつかなくなり、果ては娘のすべてを掌中にしなければ、身を保つことができないといった体たらくであった。Y子の就いている職場の関係上、なかなか会う機会に恵まれないその焦躁感からも、また、目の前がフィルターが掛かったように暗く翳り始め、佐山を驚かした。
 そんな矢先、Y子から彼に突然送り届けられた手紙が何を意味しているのか、その真意が解けなければすべてが気泡に帰してしまうかも知れないという不安に駆られ、女心はやはり女性の奈津子でなければ判らないと、その手紙を見せられる本人の心情などにはお構いなく、奈津子の家の前に立ったのだった。
 当然のように、若い娘との関係は終わりを告げ、その後、何故この自分からY子が去って行ったのか、その周辺を探ろうと、Y子の古里である北信濃を訪ねた時、同行を求めた佐山に、奈津子は批難めいた言葉一つ吐かなかった。献身的というのか、奈津子には、小説を書く佐山のためなら、すべてとはいわないが、自分を犠牲にしてもよいと考えるようなところがあった。
 年少の頃から本を読むのが何より好きな上に、夢見勝ちな少女であったらしい彼女は、現実の世界より虚構の世界に充足感を覚える性格を持って生まれたといえるのかも知れない。
 とにかくそうした彼女だけに、怠けていていっかな机に向かおうとしないばかりか、相変わらず飲んだくれ、果ては喧嘩か、佐山自身そうは思わないのだが、妄(みだ)りに若い娘に声を掛けるといった彼に、つくづく愛想を尽かした末の訣れ話というのが、あの喫茶店での奈津子の本心ではないかと佐山は考えるのだ。
 本当のところは判らないが、とにかく彼女を引きとめるには、何処か他に小部屋を借り受けて、夜ぐらいは誰にも煩わされないで、小説を書いていくより仕方がなさそうだった。
 それよりも、いっそ文学などから足を洗ってしまえばという内心の声をその時佐山は聴いた。
 下りの早い電車は、八王子の駅を過ぎた頃から、一層スピードを上げ疾駆して行く。
 内心の声はもっともだが、しかし書くことをやめたら、この自分に何が残るというのだ。あまりにも淋し過ぎると、佐山は思った。
 どのくらいの時が経ったか、見入るともなく窓の外の風景にやっていた目を、上方にふっと向けると、切れた雲間に、抜けるような青い空が、くっきりと展がっていた。眩しかった。
 昨夜、圭太と娘の史絵に心の裡を聴きだし、前方の、その青空のように佐山の胸のうちも少しは晴れた思いがないではなかった。いや、確かにあった。少なくても今までは間違いなくあった。
 電車は平野部から、山峡に入ろうとしていた。と、それまで視野に、はっきりと入っていた青空が、俄かに押し寄せてきた厚い雲にみるみる覆われ始めた。
 祈るような気持ちとはいえなかったが、中空に、それでも僅かにその姿を留(とど)めている晴れ間に遠く目をやりながら、翳るものを抑えることはできないとしても、いっときでも永く、明るさに充ち溢れた合間が欲しい、と佐山は思った。
 覆い尽くされてしまった様(さま)を見届け、車内に目を戻した彼は、血管の青白く浮き出た手で、傍らの小瓶を取った。時を置き、グラス替わりの紙コップに、残り少ないウイスキーを注ぎ入れた彼は、またぞろ兆(きざ)しはじめた先ざきへの暗く胸苦しい思いを解きほぐそうと、その液体を、喉の奥深くに沁み渡らせていった。
                                             (了)

 

 

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