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 地面の匂い         納富泰子

午前」68号(2000年9月)

 

 

 

総てを捨ててしまった人たち。それでも捨てきれないものや思いを抱えて生きてゆく、ホームレスの世界を描いた作品。             ……推薦 ひわきゆりこさん(胡壷


 

 

 

 眩しい。

 見開いた眼に白い光がなだれ込んでくる。顔の前に垂れ下がっている薄っぺらなテントのビニールを透かして、無数の細かい光の粒子が吹き出してくる。慌ててぎゅっと閉じた瞼の裏に、鮮やかなオレンジ色が広がった。

 ふうちゃん、また、あの夢? 

 ペンギンのかすれた声が聞こえた。房江は寝袋のなかで寝返りを打ち、瞼の裏で徐々に縮んでいく光の残像を追っている。段ボールの上に、ドレスの裾を捌いて坐り直すらしい乾いた音を立てながら、ペンギンが溜息をつき何やらぶつぶつ眩いた。よく聞き取れない。

 

 ペンギンに拾われたのは、この秋の初め頃だった。

 あの日この街は一日中、小ぬか雨が静かな呼吸をするように降っては、止んでいた。

 房江は、大型店舗ビルが建ち並ぶ目抜き通りの、クロガネモチの下のベンチに、ぼんやりと坐り込んでいた。細かい水蒸気の粒が夕暮れの空気を緩ませ、敷石の隙問から立ち昇る沼地の藻にも似た黒く湿った匂いが、足元に纏わり付いた。

 銅色のベンチにはサックスを抱えた銅色のジャズマンが、異空間から掴み出された感じでなめらかに光って腰を下ろしている。房江はベンチにへたり込むと、そのままボストンバッグを抱いて、三時間近くも舗道に黒く貼りついた落ち葉を見ていたのだった。

 見上げると、デパートの煉瓦色の高い壁に並んだ照明のまわりに霧雨がぼんやりと白く浮き上がっている。いつのまにか夕闇が濃い。房江は重く湿った上着の襟を立てて、顎を埋めた。

 どうかした? と掠れた声が、頭の上で聞こえた。

 顔を上げると、大きな体を斜めに折り曲げて覗き込んでいる女が、分厚い唇の端を引き上げる笑いかたをした。それがペンギンだった。

 笑顔につり込まれて、房江は取り継るような声を出したのだった。

「体こわして職失って家賃を滞納して追い出されちゃって三日前に山陰の町から私鉄や鈍行列車を乗り継いでこの街へ来て駅のベンチとかデパートとかうろうろしてて……」と、くどくどと言いかけると、ああもうそれ以上聞かなくってもいいから、とペンギンは面倒くさそうに手を振った。人差し指に巻かれた包帯の紐がひらひらと揺れた。「聞いたってみんな似たり寄ったりなんだから」アーチ型に描かれた眉と茶色に近い口紅の骨太な顔を歪ませてそう言うと、ペンギンは房江の腕を取って立たせ、公園の自分のねぐらに連れていった。あたしはペンギンと呼ばれているの。それだけの自己紹介だった。わけは、歩き方を見れば分かった。

「当分、あたしと一緒に居たらいいわ。あたしの傍にいると危なくないから。女のホームレスはレイプされるからね」

 ペンギンは気の良い世話焼きおばさんの口調だ。房江は女のホームレスという言葉が自分のことを指しているのだと呑み込むまでに少し暇が要った。騙まし討ちにあったような気がした。

「朝おきてどこで顔を洗うか髪を洗うにはどうしたらいいか教えてあげる」とペンギンは言った。

 ペンギンの着ている服はどこで手に入れたのか、レースで縁取りされていたり大きなフリルが切り替えになっていたりするやたら仰々しい赤いドレスで、しかも男としても大柄なペンギンにぴったりのサイズだった。女装嗜好者向けのドレスなのだろうか。フリルの縁が黒ずんでいて、湿った古い蝋燭のような臭いがした。

 ペンギンがお尻を振って歩く後ろに、眼だけをきょろきょろと動かして小判ザメのように張り付いている痩せて小柄な中年女を、公園のホームレスたちは一瞥しただけでことさらの興味も示さないふうだった。

 この一角は、空気の流れも時間の流れも、街の賑わいとは違う色合いをしている。公園の片隅に青く貼りついている低いテント群は、手強い寄生植物を想わせたが、近寄るとそれは吹けば飛ぶようなペラペラの安手のビニールなのだ。それでもなかでうずくまっている人間は、薄っぺらなビニールをシェルターに見立てて取りあえずの安堵を得、世間から隠れたつもりになっている。

 翌朝、公園の奥の水飲み場に顔を洗いに出て、途中のテントの端にはみ出したものに足を取られた。目を近付けて見ると、それは見事に潰れ果てコールタールに

浸けたように汚れで真っ黒に固まっているスニーカーだった。垢と脂が腐ったような強烈な臭気を放っており、それはどこのテントからも強弱の差はあるが漂い出ている臭いだった。あちら側の人間とこちら側の人間を区別するしるしのように、執拗に沁み付く沈んだ湿り気のある臭いだ。人間という動物の本来の体臭が凝縮すれば、こんな陰気な臭いを放つのか。人間も案外なものだと房江は思った。この臭いを、これから自分も薄い皮膜を重ねるように纏っていくのだろうか。重い気持ちで、朝日を機ね返すビルのガラス窓を眺めた。

 川向こうの通りを、出勤するサラリーマンたちが足早に通り過ぎていく。アイロンの利いた白いシャツや磨かれた革靴が、あちら側の色合いで光ってみえた。その群れのなかに、十三年前に別れた夫に似た後姿を見かけたけれど、夫に似た人は、別れてこっち数え切れないほど街角にいる。

 

 大粒の雨が、突き抜けるような音を立てて、テントを包み込んだ。

 雨粒が次々に楕円形に破裂するのが、ビニールシートの内側に透けて見える。膝を抱いて鱒っている狭い空間が震え、叩き付けてくる音の強さに全身の毛穴が膨れる。洗い浄め、押し流し、消し去ろうとして、阻まれて砕け散る音だ。その硬い音は、息を詰めてうつむいている首の後ろや肩を打った。

 テントの狭い空間に雨の温度がひえびえと満ちてくる。足指の先が、冷たくなる。

 ペンギンはただ上を見上げて座っている。

 少し小止みになった頃には、ビニールシートは壁という壁に雨水を重く溜めて弛み、段ボールはウエハースのようにぐずぐずにふやけ溶け始めた。ようやく息をついて、公園の端にあるトイレに行った。その道筋に並ぶ今にも潰れそうにひしゃげたテントの隙間に、無気力に投げ出されている腕や足が、深い欝を滲ませて見え隠れしていた。

 段差が多い敷石は水を吸い込まず、あちこちに浅い流れや朽葉を沈めた水溜まりを作っていて、どのテントも浮島のようだ。

 秋だってのに梅雨みたい、とペンギンが不平を言いながら、ビニールシートの内側に下げた雨漏りでふにゃふにゃになった風雨除けの段ボールを外した。房江に手伝わせて、新しい段ボールに直角に折り曲げた別の段ボールを当てて千枚通しで穴を開け、その穴にロープを通して器用に結びあわせる。床敷きも、ポリ袋で保護した新しい段ボールと取り替え、その上に剥き出しの乾いた段ボールを敷いた。ポリ袋が敷石で擦れて破れてしまわないように、濡れた段ボールを一番下に敷く。歩くたびに、下敷きの段ボールが水の入った古靴のように情けない音を立てた。ペンギンは、ほどけかけた人差し指の包帯を縛り直し、やれやれと溜息をついて、ドレスの膝を大股に広げて坐った。

 乾いた段ボールの暖かさにほっと一息ついたところへ、お、また新入りかい、と野太い声がして、テントの入口を跳ね除けて、大柄な男が入ってきた。髪を肩まで伸ばし、白髪交じりの髭に顔半分を覆われた男は、毛深い手に握ったブランデーの瓶を床に打ち込むように置き、飲もうや、と胡座をかいた。雨を吸い込んだ男の作業服がしんねりと饒えた臭いを放ち、濡れたズボンから滴り落ちる雫が段ボールに黒い染みを広げる。

 あ、こちらふうちゃんよ、こちらブーヤンね、とペンギンの紹介は相変わらず簡単だ。ブーヤンが、俺はあっちのほうの公園にいるんだ、と東の方を指差した。東だろうが北だろうが別にたいした意味はないのだというように、その指は流れた。

 ペンギンが湯呑みを三つ並べた。房江は縁欠けの湯呑みの底に少しだけ注がれた號珀色の液体を、勧められるままに口に含んだ。珍しい味がした。横目で見てブーヤンが「どうだ美味いだろう」と笑う。ペンギンが、「上等のお酒なのよ」と言う。「高級ウイスキーと高級ブランデーに、焼酎とビールもちょっと混ざってるかもしれないわね」

 聞いているうちに、バーの裏口に出してある酒瓶を、ひとつひとつ逆さまにして、底に残った雫を根気良くひとつの瓶に集めたものらしい、と分かった。ブーヤンは酒瓶をひとりで抱え込むつもりらしい。

 ペンギンが弁当を並べた。コンビニのごみ箱から何とか拾えた期限切れのやつだ。一緒に拾いに行った仲間と分けたので二人分しかない。自分の弁当を半分差し出した房江にブーヤンは手を振った。「あ、いいのよ、遠慮してるんじゃないのよ、ブーヤンはお酒のときは食べないの」とペンギンが大根なますを噛みながら言う。ブーヤンは、擦り切れた作業着の袖を肘まで捲り上げ、自分の湯呑みになみなみと酒を満たした。

 酒瓶を空にしてしまったブーヤンはたちまち酔っ払って、な、お前ら分かるか、と眼を据えた。一晩じゅう台車を引っ張って、段ボールを五十キロ集めても、儲けが三百五十円。な、分かるか、お前ら、九時間、頑張ってへとへとになって、たったの三百五十円てことがあるかよ、なあ。

 また雨がテントを激しく叩き始めた。雨音に負けまいと、ブーヤンは声を張り上げる。

 それでも俺は体が続く限り、段ボールを拾い続けるぞ。ブーヤンは演説の合間に、分かるか、なあ、とペンギンのドレスの肩を何度か毛むくじゃらの手で掴んで揺すった。ペンギンは、キュウリの酢の物なんかをしゃりしゃり噛みながら、はいはい、と古女房のようにあしらっている。

 このひと、おかまバーででも呑んでる気分なのかしらね、ホステスの代わりなのね、あたしたち、とペンギンは口が悪い。ブーヤンは、まあ、そう言うな、一人で呑むと後が悪いんだ、と気弱に答える。このひとったらあっちの公園の仲間たちにはお酒のこと内緒にしてるのよ、分けると目分の呑む分がほとんど無くなっちゃうからなんだって、とペンギンが顔をしかめた。ホームレスに酒が一番有り難いの分かるでしょ、だから肝硬変が多いのよね…。そのとおり、とブーヤンが首をぐらぐらさせて肯いた。

 そう、生きてることを忘れるほどに酔う。そのまま死ねたらどんなにいいかな。ホント、いっそケリをつけようと踏み切りやマンションの踊り場やら、散々うろうろ歩き回って結局、今日は止めとこ、明日にしよう、って大抵のホームレスは一回はそういう経験あるんだよな。なあ、そうだろ、とブーヤンはまたペンギンの肩を揺さぶる。だがな、翌日、胃痙攣でのた打ち回って我慢できずに病院に行っちまったのが、俺さ。「規則正しい食生活を守るように」って若い医者の野郎が言うんだよ。ブーヤンは、酒で濡れた髭を震わせ、まばらに抜け落ちた黄色い歯を覗かせて笑った。

 ブーヤンは、酔いが深くなると、のめり込むように目分の話をひたすら続けた。ペンギンが憐れむように言う。ふうちゃん、よく見るのよ、捨ててきた筈の過去しか持たないと、こうなるのよ。ブーヤンは怒りもせず、ごもっとも、と前後に揺れながら目を半分閉じて言った。一流証券会社のサラリーマンだったブーヤンなんて、想像もつかない。

 ブーヤンの話は綿々と続き、東大と東北大を出してやったという息子たちの目慢に行き着いた。ペンギンが、でも一向に彼ら、父親を救いには現われないわねえ、あたしはずっと楽しみにまっているんだけどね。

 どの面さげて会うんだよ今更。ブーヤンは溜息をつく。赤い眼をうっすらと見開いて、まったく、親父がどの面さげてさ、と口のなかで繰り返した。自分でもなぜこうなったんだか、わけ分かんないのにさ。

 

 あの夢を、また見た。

 夢から目覚めたひとときだけは、房江は身内に新しい血が流れる気がした。私はすべてを失った訳じゃない、と小さな充実と幸福が肋骨の真ん中辺りにころんと熱く生まれるのを感じた。

 あの家に行ってみたい気がする。あの家は、まだあのまま、あの花郷町にあるだろうか。あの家を出ていったときから忘れた顔で生きてきたけれども、夢があの頃に引き戻していく。夜の夢は見ない。夫は夢に一度も出てこない。夫と対で思い出される姑も出てこない。あの子と二人だけの夢だ。

 夢に、繰返し捉えられているうちに、テントに映る秋の陽が深まっていく。

 

 ペンギンは手先が器用だ。ビニールシートのテントの弛みを手早く直しながら、ロープ結びは得意なの、と言う。あたしボーイスカウトにはいってたから。随分生きる知恵を覚えたわ。船が座礁して無人島の密林で暮らすにはとても役立ついろんなこととかをね。何も無いところから火を熾す方法。ロープ結びのバリエーション。急流を渡るには対岸の木にロープを渡してそれを頼りに行くのよ。シルバーコンパスで方位を見て、行くべきところに辿り着けるし、星座の巡りも知ってるし、天気予報もできるわ。ペンギンはいばってさんざん自慢した。

 じゃあなぜ、習熟したそのシルバーコンパスとやらで自分の行くべき方位を見付けなかったの? こんなところに迷い込んでしまって……、と房江はからかった。ペンギンは溜息をついて言った。都会で遭難したときの方法は習わなかったのよ。

 房江は、何度おしえられても、ロープがうまく結べない。そのうち冷や汗が出てきて、吐き気までして、座り込んでしう。体調が日毎に悪くなっていくのを感じる。ペンギンは横目でそんな房江を見て、何も言わずに房江がぐずぐずに結んだロープをきっちりと結び直した。そして、暇さえあれば眺めているスペインの写真集を持ってきて坐った。古びて角が白く擦れている写真集は、表紙に「アンダルシアの白い風」と書いてある。その字の下に、濃緑の丘陵一面にぎっしりと並ぶ、陽を眩しく跳ね返した白壁とオレンジ色の煉瓦屋根の家々の写真が、現実感のない遠い過去の夢のように色槌せている。

 ねえ、何であたしを拾ったの? いつものようにこみ上げてくる吐き気をこらえて、膝を抱え込んだ姿勢のまま、房江は訊いた。ブーヤンがまた新入りかいって言ったけど、ペンギンはいつもあたしみたいな人間を連れてくるの?

 写真集から眼を上げて、ペンギンは驚いたように笑った。いつもじゃないわよ、二人目よ、こないだのは、七十の婆さんだった。死んじゃったけどね。まあ、強いて言えば、インスピレーションかしら。猫だって、拾わずにはいられない猫、ってのがあるのよ。それに猫ってさ、拾えば情が移る生き物じゃない?

 ペンギンは目分が切ってやった房江の短い髪を撫でた。そして写真集をぱたんと閉じて、猫が仲間を誘うような声で言った。今夜ふうちゃん、あたしと一緒にエサ取りに行かない?

 夜の十時から午前二時までは毎晩ペンギンは、外を歩き回って食料を確保してきていた。房江は、いつか自分もやらなくてはならないと解っていながら、まだふうちゃんには酷だから、と言われるのをいいことに逃げていたのだった。

 エサ取りに否も応も無く行かねばならないことは分かっている。コンビニのごみ箱から弁当を拾い、レストランの裏口のポリバケツの残飯を漁るのだ。野良猫を追い払いながらごみ箱を漁る自分を想像するだけで、息が苦しくなった。ホームレスは決して乞食ではない。一時的にこんな状況に嵌ってしまっただけだ。未だにホームレスになったことさえ納得できていないのに、ごみ箱を漁ってしまったら、もう元には戻れない気がする。

 その夜、ペンギンは、あとからついてくる房江の逡巡におかまいなく足早に飲み屋街の路地をいくつも通り抜けた。雑多な家並みと低いビルの入り組んだ夜更けの道を急ぎ足に歩く。

 細い路地の奥にぼうっとオレンジ色に滲む灯や、打ち水に黒く濡れている古びた石畳には、積み重なった人の息遣いが漂って、ほっと息が抜けた。だが、賑やかな表通りに出ると、身が疎んだ。

 赤や青の色ネオンがゴミ漁りにきたホームレスふたりの姿を照らし出す。酔って距離が取れなくなった人々の肩や背中とぶつかりそうになる。昼間のあの無視や拒絶はむしろ思い遣りに近かった、とさえ思えてくる。すれ違いざまに酔漢のあからさまな罵声を浴び、息が詰まった。人間の思惑や感情が商売になっている場所に潜む、嬌声の蔭でじっと人を見定める眼に脅えた。そこを、ドブ鼠のように人の気配を窺ってちょろちょろと餌を目当てに急いでいる。両肩が尖ってくる。

 あの青テントの群れは、確かに、舗道に貼りつくことで身を守っていた。青テントのゾーンからあちら側に繋がっている舗道のどこかに、歪んでずれている空気の変わり所があるに違いない。その境目を越えて出てきた途端に、風の肌触りが違った。

 ペンギンは真っ直ぐな背中を見せて、脇目も振らず歩いている。

 ペンギンがビルの一階を占めている多国籍料理店の裏口で足を止め、房江を振り向いた。ここよ、とその口が声を出さずに動いた。三個のブルーの大型ポリバケツが、裏口の庇に取り付けてある小さな裸の蛍光灯に照らされている。端が黒くなった蛍光灯は、うす紫の瞬きを繰り返していた。

 ペンギンはバケツのひとつに屈み込んで蓋を涙じって開けると、なかのポリ袋の結び目を開いた。ああ、運がいいわ。ペンギンの囁き声が弾む。いま捨てられたばかりよ、ああ幸せ、大収穫よ、皆、ここを狙ってるからね。小振りのポリ袋を手早く摘み出し、次々に持ってきた布袋に落とし込む。この店はねえ煙草の吸殻とかを一緒に入れてないから助かるのよ、とペンギンが小声で言う。ほらふうちゃん、こんなふうなズシリと重い汁気のあるポリ袋を選ぶのよ。

 ぽかんと見とれていた房江は慌てて目分の前にあるポリバケツの蓋を開けた。腐りかけた生ゴミの臭いが鼻を打った。その臭いを嗅いだとたんに、最近からだのなかにいつも潜んでいる吐き気が、ぐっと喉元にせり上がった。いそいで口を両手で押さえてその場を離れ、暗闇にしゃがんで吐いた。胃の奥から突き上げる苦しさに涙が滲んだ。その涙が不意に膨れ上がってこぼれた。花郷町のあの家の穏やかで明るい情景のなかで、幼い息子と声をあげて笑いながら遊んでいる目分の姿が目に浮かび、ママ、というあどけない甘えた呼び声が聞こえた。房江はその声を振り払うように首を振って、呻きながら吐き続けた。

 ペンギンは何も言わなかった。

 テントに戻ってペンギンに渡されたポリ袋には、残り物が何もかもごっちゃに入っていた。それは飲み屋街の道に散らばった吐潟物と少しも変わらなく見えた。房江はペンギンに教えられたとおりそれを笊にあけて、ご飯だけを拾い出して水道の水で洗い、同じく拾い出した豆や人参、フライドチキンやポテトフライや肉などを水ですすいでご飯と一緒に、鍋に放り込んだ。固形燃料に火をつけ、ペンギンがどこかで拾ってきたという錆びた五徳を置いて鍋を載せた。

 夜空の下でキャンプみたいに小さな炎を見守ってしゃがんでいる。ママ、星の王子さまのカレーライス? そうよ、パパとママのお皿も並べてね、お外で食べるご飯はいつものよりずっと美味しいわよ。

 雑炊はすこし変わった味がしたが、案外食べられた。洗って火を通すとゴミバケツから拾ったものでも新品の料理に生まれ変わるんだからね、とペンギンは段ボールの床に並べられたリサイクル料理を満足そうに眺めた。目分もすぐにこの味に慣れてしまうのだろう、と房江は雑炊からつまみ上げたスパイス風味のフライドチキンをゆっくりと噛み締めた。

 

 夕食を食べおわるといつも、ペンギンは吊り下げた懐中電灯の下で横坐りになって、右手の人差し指の包帯を丁寧に巻き直す。その様子を見ていると、まるで大切な指輪かアクセサリーの手入れをしているように見える。

 人差し指の先が欠けているわけを、隣のテントに住んでいるテキサス婆が、笑いをこらえるような上目遣いで教えてくれた。あれは、ペンギンに男を奪られた女が噛み切ったらしかよ。

 ペンギンは、テキサス婆の話には脚色が多いから気をつけろ、と言う。

 ピストルの早撃ちのように喋るテキサス婆は、隣の県の外れにある特養老人施設から、家出して来たのだそうだ。八十八歳だというのが嘘のように、ぴんしゃんしている。年金が僅かながらあるので、家賃の要らないホームレスとしてなら恵まれている。それでも、食べ物を素早くかっさらう腕はさすがだ。

 テキサス婆は、兎を一匹、飼っている。あの兎はいつも、テキサス婆の、相手の返事を踏み潰す勢いの早口なお喋りを、慣れきった夫のように黙々とキャベツを齧ってやりすごしているか、婆の腕の中で、決して誰とも合わさない眼を遠くに向けているかのどちらかだ。

 房江のホームレスに落ちるまでの経緯もまた、テキサス婆と同じくらい単純な話だった。

 離婚したあと房江は知り合いの僅かな伝を頼って山陰の小さな運送会社で働いた。数年後に肝臓を病んで職を失った。家賃が払えなくなりついに一人暮らしのアパートも追い出された。親は早く死に、故郷の兄の家とも付き合いはほとんどない。兄嫁は陽気そうに振る舞う女だが小心な性格で、目分の縄張りを犯すものを決して受け入れない。

 どこにも行き所は無かった。この九州の海沿いの街のことは忘れる他はないと思い続けていた筈だった。だが、いったん気持ちの封印がぐずぐずとほどけてしまうと、結局、結婚して家庭を作り子供を産み育てていたあのひときわ輝いて思い出される街に引き寄せられて、あり金をはたき旅費にして戻ってきてしまった。

 そして、あの昼間の夢に捉えられたのだった。

 

 花郷町の家にこもっていた日向の匂いを、房江の鼻は未練がましく追っている。

 今しがたの夢の中でも房江は、あの小さな家の化粧合板の玄関ドアを難なく通り抜けたのだった。

 狭い三和土から寄せ木模様の床にあがる。風に浮かんでいた足に不意に、みしりと力が入る。床板に吸いつく裸足の足うらが冷たい。短い廊下の突き当たりの、北向きの小さな窓しかない灰暗い台所には、白いテーブルが表に静かな光を載せている。その脚元に、鼻先の丸い青い翼の飛行機が仰向けに転がっている。

 台所と居間との境の格子戸に、手を掛ける。曇り硝子の格子の戸は微かな音を立てて、するすると開いた。あの頃の夫が戸車にこまめに油を差していたのを思い出す。敷居をまたぐ。五、六歩、レースのカーテン越しの陽射しに温かく乾いた畳を踏みしめて、それから息を詰めて立ち止まる。

 心のなかのものが一点に向かって落ちていくように、ゆっくりと体を傾け、おでこに汗ばんだ柔らかな髪を張り付かせて眠っている幼い男の子を覗き込む。なつかしい呼び名を囁く。

 傍らの母親が苦しそうに息をついて眉を寄せた。房江はそんな母親を愛しむように眺めた。何て若いんだろう。張りのある滑らかな鼻筋や額が、うっすらと脂を浮かべて光っている。いつもこうやって子供の添い寝のついでに眠ってしまった…。

 母親が必死で眼を開こうと顔を左右に動かしながら、やっと押し出した縺れる声で訊ねた。だれ、あなたはだれなの。

 金縛りの状態から抜けだそうともがいている過去の自分自身から、時を惜しんで房江は坊やに目を移した。爪をクレヨンの黄緑色で汚した両手を、肩の辺りにゆるく握って眠っている。少し開いた小さな唇や柔らかそうな頬を視線で撫でる。子供の上に屈み込むと、溢れてくる温い水のようなもので胸がいっぱいになる。

 母親がもがきながらようやく目をこじ開けたときには、房江もまた青いビニールテントのなかで、ぽっかりと眼を見開くのだ。

 体調は日によって良かったり悪かったりした。堪らないほどの疲労感と倦怠感におそわれ、欲も得も無くテントの寝袋に潜り込み、そのまま眠ってしまうことも多い。そして、夢を見る。なぜか昼間の眠りの中でだけ見る夢である。決して先へ進まず、毎回また始めから繰返す夢だったが、見るたびに初々しい感動に揺さぶられて目覚めた。

 初めて夢を見た日に、上気した眼でペンギンに一気に喋りまくった。

 あの家にいた頃、私はなぜかよく金縛りにあってたの。子供の添い寝をしてるとね、誰かがやってくるの。玄関から入ってきて裸足でみしりみしりと床板を踏んで、硝子戸をあけて、私の枕元にゆっくり立つのよ。もがいて必死に眼を開けるんだけど、そうしたら、いつも家の中はしいんとしてて、硝子戸は閉まってて、玄関の鍵もちゃんと掛かっている。どこにも人の気配はないのよ。あれは、私だったのね。知らなかったなあ、あれは今の私だったんだ…。

 ペンギンは包帯の指を翻して、拾ってきた雑誌や新聞紙を紐で器用に縛りながら、黙って聞いている。聞きおわってしばらくして静かな声で、よかったわね、と言った。

 

 ペンギンと暮らし始めて一ヶ月が経った。

 時々溜息をついては黙りがちになる房江を見てペンギンは、ふうちゃんきついね、と言う。あちら側とこちら側の境い目のところが、きついのよね。あたしたちはあちら側に言う言葉まで失っちゃうんだものね…。いいえ、言葉だけじゃないわ、と房江は眩いた。

 実際こうなってしまうと、あちら側の人間だけに許される眼にみえないものがあるのだ、と分かる。仕事と家を失った途端にあちら側から奪われ、自分でも日々見失っていくものばかりだ。いや、そうではなく、あの子と別れたあのときから始まっていた喪失だった、と思う。あのときはもう失うものなどないと思ったけれど、作物は枯れても土は残っていたのだ。その土さえ、ここに来てから毎日すこしず零れ落ちていく。どうすることも出来ない。すべて零れ落ちてしまったら…。寝袋に顎を埋めて眩く。何だかとても不安なの、更年期なのかなあ…、ホームレスの更年期なんて何だか笑っちゃうわねえ。

 寝袋に潜って目を閉じていると、一日の始まりを忙しく行き交う車や人々のざわめきが、こちら側の物憂く澱む時間に沈んでくる。薄い敷石一枚の地面を這って伝わってくる低く轟く街の音に、ただじっと耳を傾けている。薄っぺらなビニールのシェルターは目を閉じると消え、いつのまにか、舗道に素裸で転がっている自分がいる。

 やがて陽射しが強くなると、敷石の隙問から地面の匂いが立ち昇ってくる。一面の化粧煉瓦に覆われて窒息寸前の土は、様々な匂いを醗酵させて、横たわる房江を包み込む。

 細かく砕けてじわりと朽ちていく落ち葉の匂いは、押し入れの奥から出てきた夫の古い蔵書のツンとくる湿った匂いに似ていた。その匂いの向こうに立ち上がってくるのは、喫茶店の片隅で黙り込んだ男の指先で細い煙をあげていた煙草の匂いだったり、貝殻が白く砕けた海辺で打ち上げられたアオサが風や日に照らされて光る匂いだったりする。貝殻を拾う幼子の柔らかく風に靡いていた髪の匂い、夫と繋いだ手が冷たかった雨の日の山紫陽花の匂いなど、遠い日の記憶に残る沢山の匂いを、地面は思い出したように片鱗にして吐いて寄越した。それは飢えて病み嗅覚が鋭くなった房江の心の内に直接響いて、小さな希望を生まれさせたり、止めど無い鬱に落ち込ませたりする。

 地面の近くに寝ていると、いつか地面に溶け込んでいく。神が人を土で造った、と最初に聖書に書き付けた人問は、きっとホームレスだったに違いない。、

 ペンギンは、午前中に駅で拾い集めて来た雑誌を同じ種類別により分け、「本屋」に売るために両腕に本を抱え込んでテントを出ていった。出て行きなしに振り返って、ふうちゃん、魔法瓶にコーヒー作ってるから温かいのをお飲みよ、元気出るから、と優しい声で言った。

 コーヒーは美味しかった。ペンギンの労りが喉を焼いて身体の内に落ちていくと、本当に元気が出た。ペンギンはなぜだか女の子に好かれる。夜遅く裏口に残飯を出すレストランの女の子がペンギンに時々そっとコーヒーの粉をくれるのだそうだ。

 ペンギンは、携帯燃料でお湯を沸かして煎れたコーヒーを毎回儀式のように丁寧にポットに注ぐ。そういうときに、ぽつりと、生き直しが出来るんだったらどんなに良いかしらね、と眩いたりする。生まれ変われるかもしれないじゃない? と慰めると、そうね、そうしたらスペインの情熱的な歌姫になりたいわね、そして死んでもいいっていうくらいの烈しい恋をするの、と笑う。あまりにありきたりなので笑ってしまう。

 境い目のとき、ペンギンもきつかったのかなあ、と房江は思いながらコーヒーをゆっくりと飲んだ。なぜホームレスなどになったのか、ペンギンは肝心なことは何も話さない。どこからこの街へ流れてきたのかさえも、分からなかった。その代わり、房江のこともこちらから話さないかぎり何も訊かない。ただ時々、房江の眼をほめてくれる。

 ふうちゃんの取り柄はその大きな切れ長の眼だわねえ、眼の下の縁がアイシャドウでも引いたみたいにうっすらと黒ずんで、色っぽいわ。ペンギンは、女の眼から見た女の眼の色気の話をしている。房江は、色気の話は苦手だ。目分が色っぽいとしたら、それは愚かな罪のあらわれのような苦い気持ちになる。

 

 あの子が幼稚園の年長組になり少し手が空いた頃だった。房江は、高校の同窓会に七年ぶりに出席の返事を出した。

 二次会のクラブで、隣のクラスだった親しくもなかった筈の男に、いい旦那なんだろ、幸せそうだな、と声をかけられた。そのとき房江は、豊かな胸を溢れさせてはちきれそうなレザーのミニスカートの腰を突きつけるようにテーブルの間を縫って歩く、ポルトガルから来たのよ、と誰かの問いにかすれ声で答えた若い女の様子に、気を取られていた。金髪の小柄なその女は、客の男たちの肩にじょうずに手をすべらせていきながら、健気なほど一生懸命に客の飲み物に目を配ってボックス席を動き回るのだった。髪をかっちりと油で固めた黒服たちの切れるような動きにも眼が吸い寄せられる。誰もが物語を演じている場所だった。それぞれの役割を演じている人々の動きが珍しくて、初めてこういう場所に入った物珍しさできょろきょろしていた房江の様子に、世間知らずな初心な女だと思って、つい気持ちが動いたのだと、あとで男は言った。

 あのとき、男の呼びかけが目分に向けられたものだとようやく分かり、え、と上気した笑顔で振り向いた房江の隣に、男は素早く体を滑り込ませたのだ。昔は売れたけど人気が落ちた映画俳優のような、粘りっ気のある気取りを持つ男だった。本当らしく聞こえるお世辞が上手い男だった。男の饒舌に房江は引き込まれた。

 それから三度その男と会ってそのあげくの、本当のことではない夢物語のようなうかうかとした、たった一度の関係だった。その日、家に戻る途中の幼稚園で、お迎えの普段着の母親たちに混じって子供の笑顔を見た時には、さすがにぞっとして、できたらさっきの出来事は夢のままで済ませたいと頭から追い出した。それでもどこかじくじくと拘りがあってつい、親友に打ち明けた。その親友からの不用意な葉書を、たまたま訪ねてきた姑が郵便配達人から受け取ったのは不運だったと思う。

 房江が妊娠してしまったことで一人息子の結婚に譲歩したという不本意な経緯に姑が拘り続けていることは、房江にも分かっていた。夫がいない所での執拗な糾弾が始まった。房江は俯いて、テーブルの角をしきりに指で擦りながら、短い言葉で答えた。言い逃れはきかなかった。

 小さな新興宗教の熱心な信者である姑は、愛、という言葉を何度も口に出した。あなたの「愛」と、私の「愛」は違います、と思ったが、ではどう違うのかと言われたら、自分でもよく分からないのだった。姑に愛しまれたことなどなかったと言いたかったが、今となっては、愚かで空々しい言い分だと自分でも思った。

 あなたに育てられたら、孫はろくなものにはならないわ。姑のその言葉を、房江にはその場だけの叱声だと思って、はい、とうな垂れたのだったが、気がついたら巧妙に離婚話が出来上がっていた。

 房江は半ば繰られるように荷物を纏めた。

 そういえば、結婚のときに、婚約指輪も結婚指輪もお袋が揃えてくれたんだと夫は言っていたなあ、と思った。それが、姑の言う""なのだろう。だからあたしは少しも嬉しくなかったんだ、 と房江はビロードのケースをふたつ、夫のハンカチが入れてある整理箪笥の抽斗に、投げ捨てるように落とし込んだ。けれどもどこかで、これは夢をみてるんだ、という気持ちがしていた。あり得ないことだから、いつか醒める夢だ。本当のことだったとしても、修復はきく、何とかなる、というどこか高を括った気持ちがあった。あの子から離れてしまうことを決して信じてなどいなかった。これは、いっときの茶番劇だ。…きっと何とかなる。

 夫は、分厚い封筒を房江の揃えた膝の前にゆっくりと置いた。百万ある、といった。その声が喉に絡み、ひとつ咳払いして、少しだけどおまえも今後のこともあろうから、と小さな声で付け加えた。目を逸らし続けていた夫が顔を上げて房江を見た、その目の中にあるものを理解したその時になって、初めて、震えがきた。これは、茶番劇でも夢物語の続きでもない。

 震え続けている房江に、泥棒に追い銭みたいなものだけど手切れ金と思って頂戴ね、と姑が、横を向いたままさすがに自分を煽り立てねばならない息の乱れを見せた。私はこの人たちから何を盗んだんだろう。夫が失ったものと、私が失うものを比べると、私が一生失い続けるものの方が大きいでは'ないか。そう思ったら頭にかっと血が上り、やがてそれが冷たく胸元に降りてきた。

 姑が言うとおり夫の愛を裏切ったのはこの自分だった。この土壇場にきても、子供に対するほどの烈しい執着が夫に湧かない自分は、とっくに、母親に支配され続ける夫を諦めて、漂いはじめていたのかもしれない。

 金などで子供との絆を切られて良い筈がなかった。押し黙って坐っていた。そして、結局、涙を初めて流しながら、封筒を拾い上げる他はなかった。

 幼稚園から帰ってきたあの子の、いなくなった母親を捜しまわる泣き声が聞こえるような気がして、その声はずっと房江の体の中に一本の細い糸のように揺れ続けている。

 

 テキサス婆は饒舌だ。テントの横の植え込みの縁石で日向ぼっこをしながら、訊ねないことまで話してくれる。

 あたしはね、二十八年前に、住んどった家ば売って五百万円も出して老人施設に入ったっちゃけどね。あのころ施設を作った経営者は、年寄りは八十五歳過ぎたら、たいがい端から死んでいくとでも思ったとかいねえ。当てが外れたとは経営者も入居者も一緒たいねえ。ちょうど来たバブルで折角の五百万円も値打ちが下がったしね。そのうえ、二十八年経てば、あたしの四人部屋でも、あっちむいても、こっちむいても、病人だらけ。二人は痴呆症で目が離せん、一人は大腿部複雑骨折の後は寝たきりやもん。ひとりだけ元気なあたしは夜中も起こされて介護よ。お先真っ暗。

 テキサス婆が入っていた小さな特養ホームは、看護婦や付き添い婦を複数雇うゆとりどころか、破産しかねないぎりぎりの経営状態だったらしい。

 昔は、歌のグループやら民謡のグループ、俳句やら短歌の会、手芸、とそりゃ楽しかったとよ。でもみーんな、どんどん年寄りになっていくばかり。駄目になってしもうた。いくら元気でもあたしには、同じ部屋の三人を背負って看病していく力は、とても出らんかった。地獄を見る思いちゃ、あのことたいね。抜け出さんやったら、近いうち疲れ死にで終るしかない、と思うたとよ。そやけん、あたしは、施設から家出したとよ。身軽に、自由になりたか一心でね。

 テキサス婆はそう言うと、腕に抱いた兎の頭を撫でた。だらりと胴体を伸ばして抱かれた兎は、今日も遠いところに焦点を合わせている。手を伸ばしてその丸く小さな頭を撫でる。兎はゆっくりと目を閉じる。兎のお目目はなぜなぜあーかーい、あーかーい人参、ぱべたからあ。あの子が頭の隅で歌っている。ずいぶん遠いところから聞こえてくる歌だ。

 テキサス婆が髭の辺りを撫でてやると、兎は目を細めてグウグウと低くこもった鳴き声を立てた。ほら、喜んどうとよ、この声。テキサス婆の方がよっぽど喜んでいる。施設の部屋のベランダで飼われていたのを連れて来たのだそうで、テキサス婆も、この子だけは捨ててくるに忍びなかったのだという。あたしとおんなじくらいの年寄りなんやけど、孫のごたあ気持ちがするとよねえ。へんやろ? と眉を寄せて笑うので、変じゃないけど、と言いかけると、それを無視してテキサス婆は言葉をかぶせる。あたしもお迎えが近いやろうけん、最後くらい身軽でいたいとよね。ホームレスほど身軽なもんはなかもんね。すいすいとあの世に行けるっちゃなかろうか、と思うてね。

 テキサス婆の話には脚色が多いから、とペンギンは言ったけど、嘘を言っているようには見えなかった。

 

 テントを震わせる風が、明け方まで止まなかった。

 この二、三日、房江の体調がひどく悪い。しつこい背中の圧迫痛と地の底に引きずり込まれるほどのだるさを抱え、気持ちの揺れ体の揺れのままに、眠ったり目覚めたりを繰り返している。

 眠りに落ちていくかと思うと、もう、あの家に風のように入っていくのだった。腹部に重苦しく張り付いた膨満感や痛みが消え、体が解き放たれたように軽い。胸の中が熱いときめきで満たされる。夢から目覚める。そしてまた、夢に引き戻される。始まりも終わりもない、幼いあの子に吸い寄せられるだけの断片の繰り返しだ。だが、夢の向こうの風景には鮮やかな体温が感じられた。あまりにそれが生々しいので、ずっと続く平凡な生活を信じきってぐっすりと眠る若い目分を見ていると、もしかしたら時の隔たりが一瞬の幻のように消えて、この母親の身に戻って目覚めるのではないか、と思えてくる。けれども不意に、ひやりと胸に不安が忍び込む。

 目覚めればやはり、ホームレスだった。

 その日の昼間は、木枯らしが太い濁った声で唸ったりしゅるるると息を吐いたりしながらテントを煽り続けた。夕方から雨になった。風の強弱のままに、テントを打つ雨音が変わった。この不意に変化する音に、慣れる日がくるのだろうか。

 渦を巻く雨風に、テントごと翻弄される。馴染んだ地面の匂いも風が持ち去る。ここがどこなのか今何時ごろなのか見失いそうになる。剥き出しに近い路上生活者には、空間に渦巻くあらゆる音がまともにぶつかってくる。房江はその渦に巻き込まれながら小刻みに眠ったり目覚めたり呻いたりした。

 夜が明けたら、房江の片耳が聞こえなくなっていた。雨や風の烈しい音が耳の奥に詰まってしまったようだ。

 聞こえなくなったら困るわ、と房江は耳朶を引っ張ったり叩いたりする。頭の中に押し寄せてくる街の音に紛れて、何とか生きているみたいなものなのに。

 ペンギンが他人事のように言う。「路上で雨曝し日曝しになったら人間だって早く朽ちるわよ、そうやって、音に自分を明け渡して何も考えようとしなければ、余計にね」

 一日、ぐずぐずと憂鬱だった。そんな房江の気分を引き立てようと思ったのか、シャケおむすび一個ずつとコーヒー一杯の夕食が終わると、ペンギンが、散歩に行かない? と言った。

 市街を縦断する川に沿って、歓楽街が広がっている。橋の上で立ち止まり、欄干に凭れた。つるつるに磨き上げられた赤御影石の欄干が、手のひらに冷たい。ペンギンは房江の聞こえる耳の側にさりげなくいる。河口に近い川面は、赤や緑のネオンの色を小刻みにちらつかせているが、引き潮にかかっているらしく端の方に泥混じりの砂地があらわれ、灯をしらじらと載せている。潮と泥の臭いが、湿った冷たさで鼻の奥まで入り込んでくる。満ち潮になるとあの辺りで流れが逆になって、上流から来た水の流れとせめぎあうのよ、とペンギンが橋の少し上流の砕けた灯が鱗のようにさざめく川面を指差した。

 欄干に寄りかかっている頭上を、白い鳥が舞った。硬質なバネを翼に感じさせて斜めに旋回する鳥影は、ネオンの隙間の闇に一瞬紛れてはまた白く浮かび上がって空中をよぎる。房江が驚いた声をあげ首をめぐらせて行方を追うと、ユリカモメよ、とペンギンが教えた。鳥って、鳥目じゃなかったっけ? ペンギンが、ネオンの灯りがけっこう明るいからね、と答える。

 この街はね、夏になると夜中にセミが鳴くのよ、そういう街だから、こんなあたしたちも住めるのよ。

 風はだいぶ収まり今夜は少し暖かいが、橋の上は海からの冷たい風が吹き付ける。

 ごらんよ、空の鳥を、野の白百合を……、とペンギンがかすれた声で口ずさんだ。播きもせで紡ぎもせずに、やすらかに生きる、とそこまで小声で歌って、あと忘れたわ、と笑った。子供のころ教会でいつも歌ってたの、何て美しい歌だろうと思ってたわ、明日のことは明日が考える、ありのままでいれば神様が生かして下さるっていう歌よ。でも、リストラにあったあげくとか、病気で働けないとか、いろんな事情を抱えてこの美しい街に流れてきて、ホームレスって呼ばれて、結局、飢えて病んで死んでいく人たちを見ていると、この歌の意味を考えこんでしまうわね。

 夜更けに飛ぶユリカモメは、やっぱり一羽しか見当たらない。

 

 あの家をどうしても見にいきたいという思いが、日に日に強くなっていく。ペンギンは、とっくの昔に捨ててきたものを何で見に戻るの? と言うけれど……。

 昼間の夢が、錯覚を起こさせている。夫が転勤を願い出てあの家を売り、母親と息子をつれて関東の方へ去り、もうあそこには他人が住んでいるのだ。分かっていながらなぜか、あの家の前にもう一度だけ立ちたい、という思いを抑えられない。

 ペンギンに言うと、やめといた方がいいわよ、と言う。

 あんたの夢は只の幻なのよ、夜中に鳴くセミや、ネオンの中を一羽だけ外れて飛ぶユリカモメのような、錯覚の夢。今のあんたがあの頃のあんたと結びつく筈がないのよ。過去どころか、まともな人たちが住むあちら側にさえ戻れないでいるじゃないの。

 あたしたちはなまじっかあちら側と関わるとひどいことになる。あちら側とこちら側は、まるで違う世界なのよ。あたしの「スペイン」だって、決して行けないからこそ、こちら側であたしを自由に解き放ってくれるのよ。

 あたしたちはもうあちら側では、道端に転がってる犬の糞ぐらいの存在よ、とペンギンは吐き捨てるように言った。邪魔で汚ない犬の糞。だからあちら側に対しては目分を見えない存在にしてなきゃ。あちら側のことは、もう忘れて諦めなくっちゃね。元気にホームレスするためには振り返っちゃ駄目。ふうちゃん、あたし上手に言えないけど、言っている意味、分かるわね?

 房江は逆らうように、口紅を塗った。もし昔の知り合いに出会ってもあまり惨めじゃないようにするわ、と髪を梳かし、少ないなかから衣服を選びはじめると、もうペンギンは何も言わず、黙って電車賃をくれた。食パン、二袋ぶんくらいの電車賃だった。それを言うと、あんたの飢えは、食べ物じゃないんだもんね、とペンギンは呟いた。でもね、とペンギンは歩き出した房江に追いかけるように言う。今に分かると思うわ、"在りし日は、失うばかり"ってこと。ペンギンの言うことはいつも芝居がかってるね、と房江は苦笑いした。

 失いたくないから、あの日々を確かめに行くんじゃないの。

 

 隣の市との境に近い私鉄沿線の奥まった住宅街は、昔のままに静かだった。花郷町三丁目二十番という緑色のブリキの番地札が色槌せて少し歪んで、角のブロック塀に打ち付けられている。生け垣の多い道は、あの頃と同じ匂いがしている。

 角を曲がると用水路沿いに立つ大きな柳の木が目に入った。その柳の向こうに、青い屋根の白い壁の絵本から抜け出したような小さな平家が、少しも変わらずあった。動悸を抑えて足を速めた。あのころと同じ色の夕焼けが道の果てに広がっていた。

 家の前に立った。薄いベージュとブルーが混ざり合ったタイル貼りの門柱から段を二段上がり、玄関まで十歩。左手に小さなテラスがあり、レースのカーテンが見える。狭苦しい前庭には、房江が新婚時代に植えた沈丁花も薔薇も、みなそのまま幹が太く育っている。

 しばらく、立ち尽くしていた。

 胸に熱く溜まっていくものが、喉もとで震えた。

 家の傍らを流れる、細い用水路を見下ろした。石垣から生えた雑草の影を映し、流れを白く光らせて所々に石の小さな橋を掛けている。幼稚園に行き始めたばかりだったあの子が、息を切らせて家にかけ込んできて、すぐに網を持ってすっ飛んでいったので、なによなによ、と追いかけると、この小川に細い蛇が身をくねらせて泳いでいたのだった。あの子は生き物がとても好きで、蚯蚓やナメクジをせっせと集めてポケットに仕舞い込んだ。犬にも猫にも虫にも、生きているものにはすべて、親愛の気持ちを持つ子だった。ほら新鮮よ、といって鋏を振り上げている蟹を見せてそれを料理したら泣き出して食べなかったし、赤い斑点が息づきながらさざ波のように変わっていくイカを見せたら、家で飼う、といってきかなかった。人が生きていくということが実は残酷なことだということもまだ分からないあの子を置いて、房江はこの家を出たのだ。

 門柱を撫でた。冷たい手触りのタイルは、あの日々の日向ぼっこの時のほんのりと暖かい手触りを記憶し、この家の前の狭い路地を駆け巡っていたあの子の賑やかなお喋りが、そこここに散らばっている。

 不意に、ガラス戸からレースのカーテンをとおして、テラスにオレンジ色の灯が零れた。いつのまにか暮色が濃くなっていた。女の影がべージュの厚地のカーテンを引いた。家の灯が、温もりのある重たさに変わった。

 見知らぬ家族が住んでいる、と分かっていながら、あの灯の下に夫や幼い子が自分を待っているような気がした。私は、ちょっとお出かけしていただけなんだ、とそんな気もした。駆け寄ってくるあの子の向こうで、夫の気弱で臆病そうな眼が、お帰り、遅かったね、と溶けるように瞬いて微笑むのが見える気がする。

 いま、長い夢から醒めて、ああ、夢だったのか、よかった、とドキドキしながら、子供の傍で起き上がって大きく息を吐き出しているのだったら、どんなに幸福だろう。

 目の前にある、艶のある青い屋根瓦も、ペンキが剥げたテラスの柱も、門柱の脇の虫食いの多い珊瑚樹も、夫の手製の少し歪んで釘の錆びが白ペンキに浮き出た門扉も、みな古びてはいるが、そっくりあのころのままだった。あの子の小さな手が懸命に押した玄関ドアも、やっとあんよが出来て、座り込んで撫でていたマンホールの蓋も、あの子の記憶を貼り付けたままそこにある。

 ただ、その光景を、ねずみ色の水のような時の流れが、うっすらと覆っていた。

 大声で泣き叫びたくなるほどの想いに胸を灼かれ、そこを離れた。

 

 エサ取りにも大分慣れてきた。だが毎日の食べ物を確保することはなかなか難しい。何も拾えない日が結構ある。昨日は、テキサス婆が兎のために八百屋の裏から拾ってきたキャベツの外葉を分けてもらって酢と醤油を振り掛けて齧った。ひどく青臭かった。兎の上前まで掻ねるなんてね、とペンギンが眉を寄せて笑った。

 このところ晴れた日が続いている。せめて、それだけでも有り難い。名前も知らない街路樹が、陰翳の濃い日差しにまみれて、小刻みに光りながら風に翻っている。舗道の煉瓦の敷石やアスファルトの車道を陽が温めている。ビルの窓が眩しい。

 ペンギンが寝袋を抱えて、外へ出ていった。川沿いのコンクリートに広げて干すと、夜は地面の冷えをいっとき忘れ、日の匂いのするささやかな幸せのなかで眠りにつける。

 借りていた鋏を返そうと、房江は自分のと反対側にあるペンギンの私物置き場のカーテンを開けた。どこからか拾ってきたらしい古ぼけたビニールのジッパーで開け閉めする洋服掛けが据えつけられ、そのほかにもごちゃごちゃと化粧ボックスや額縁みたいな鏡や沢山な本や洗面器などが置いてある。鋏を置こうとして、洋服掛けのビニールボックスのジッパーが半分開いているのに目が行った。そこから覗いているのは、紛れも無く背広だった。上等の生地の背広は、決して拾い物ではない感じで、傍に虫除け剤まで下がっている。そのグレイの背広の落ち着いた細いストライプや、揃えて並べてあるネクタイの品の良い質実なセンスが丁寧に育てられた息子であったことを感じさせた。それがペンギンの優しさに繋がり、ペンギンがその生死すら口にしたことがない父親や母親にまで繋がっていく。

 何よ、あんたにも捨て切れない過去があるじゃないの、と房江は小さな声で言った。

 外へ出ると、ペンギンが腰に手をあてて空を見ている。視線を辿ると、ビルの隙間の北の空に飛行機が浮かんでいた。この街の南部にある空港から飛び立ったばかりの飛行機は、もたげた先端を丸くきらりと光らせて高度をあげていく。

 ああ、いいわねえ、とペンギンが眩いた。あんなふうに空を飛んで、あたしもスペインに行きたいなあ。スペインはいいよねえ、音楽がいい。あの何か、遠い記憶から聞こえてくるようなどこかのんびりとした哀愁と切なさがいいよね。陽に温められた白い壁とオレンジ色の屋根の坂の家。明るい乾いた日差し。尻尾を立ててゆっくりと道をよぎる黒猫。立ったまま飲む居酒屋。フラメンコギターのどこか胸騒ぎを誘う、這うような音色…。ペンギンは、行ったこともない、そしてたぶん行くこともないだろうスペインの話を、とても懐かしげに話す。

 北の空の果てに淡く消えていく機影を目で追いながら、房江はいつか見た機上からのこの街の夜景の鮮やかさを思い出した。あたしたちの住む街の夜が、あんなに漆黒の闇を持っていて、その闇が美しい光のきらめきに満ちているなんて思いもしなかったわ。ペンギンは頷いて、そうよね、地上にいると街の灯は見上げる場所にあるから、足元の地面の暗闇を忘れちゃうのよね。

 

 夜になってブーヤンが来た。今日はわりにおとなしい酒だった。たいてい、コース料理のように手順良く酔って、変り映えのしない愚痴をこぼして、最後のデザートあたりでペンギンに、もう、帰ったら? とうんざり言われて素直に追い出されていく。それが妙に律儀な感じで、房江も以前ほど嫌だとは思わなくなっている。しかし。やっぱりうざったい酔っぱらいだ。

 この街は、遠巻きに俺達を見張ってやがる。たぶん街も個人のことはいくら頑張ったって、手の打ちようがないんだろうさ。当の俺だって、目分でも、何を望んでいるのか、何を望んでいないのか、さっぱり分からないもんなあ。長年信じてきたものが、皆ひっくり返っちゃったしなあ。なあ、お前ら、目分がどこに本当に行きたいのか、言えるか?

 俺には分からない。とにかく、どこかに行かなくっちゃならないんだ。いつも苛々と焦った思いばかりが湧き上がってくる。俺達みたいな人間が何とか答えが出せるまで、しばらくただ黙って受け入れてくれる場所が、この街のどこかにあったらいいんだけどなあ。

 そうよねえ、とペンギンが愛想良く言った。足元のこんなに美しく組まれている煉瓦タイルの敷石だって、あのガラスの城壁のようなビルだって、震度六くらいの一揺れでもくれば、あっというまにグチャグチャなのにね。目にみえる儚い作り物には、お金かけるのよねえ。

 インターネットだとか崩れた道徳観だとか遺伝子操作だとか、大不況も一緒になってうねり始めている時代に、世間から弾き出されて、それしか持たない過去に向いている自分たちは、川に流される葉っぱの蟻のようだ、と房江は思った。見えない背中の方角にただ茫然と流されていくしかない。

 シェルターがあったらいいのにね、と房江が言う。決して冷たい黒い水溜まりの多い場所じゃなくって、乾いて温かい、ほんの少しの幸せをくれるシェルターよ。

 そんなの、ふうちゃんお得意の夢物語だわね。あちら側の人間が、メリットなんか何もないことをすると思う? ペンギンは身も蓋もない。

 

 またあの夢を見る。

 冬の陽射しがレースのカーテンを明るませている。部屋に穏やかな温もりがこもっている。窓辺に吊り下げられた蔓性の観葉植物にも陽は柔らかくさしている。

 深い眠りの母子のゆっくりとした息遣いが聞こえる。この家のなかに立っているだけで、体中の細胞が潤い、気力が満ちてくる気がする。わき上がる泉のように新鮮な気分になる。

 観葉植物の蔭に何か動いたような気がしてびくりと窺がうと、見知らぬ女がこちらを覗いている。どこから入ってきたのだろう。眼ばかりぎょろぎょろさせている日焼けした女。荒んでこけた茶色の顔に口紅の鮮やかさが無惨な感じで浮き上がってみえる。だれ?

 と眩いて息を呑んでお互い見つめ合っていて、あ、と声が出た。それは壁に取り付けられた等身大の鏡に映っている房江自身の姿だった。

 子供を腕に抱え込んで眠っていた若い母親が、呻き声をあげて身動きし、あなたは、だれ? と声をあげた。

 目覚めてしばらく、寝袋でじっとしていた。聞こえない筈の片耳の奥で、ジーンと地虫のような音が微かに聞こえる。陽に温められて弛んだテントのビニールの匂いが、あの部屋に燃えていたストーブと同じ匂いだったと気付いた。

 

 テキサス婆が公園の水飲み場を汚して困る、とみなぶつぶつ言っている。たしかにねえ、あそこで兎の糞箱を洗われるのには閉口するわね、とペンギンも頷く。テキサス婆はいつも中身を傍の川に捨てた後のケージを水飲み場に運んでくる。それから洗面器に汲んだ水を勢い良くなかに零して、拾ってきた棒切れでがしがし掻き回す。ケージの底にこびり付いた赤っぽい尿と溶けかけた丸い糞が流れ出て、足元のタイルの隅や芝生に茶色の水溜りを作って靴を汚した。強い糞尿臭が立ち込めている。ただでさえ汗や垢の臭いで嫌われるのにその上に、この前歯の出た生き物特有の強い臭いが染み付くのは勘弁して欲しいね、と誰もが顔を顰めた。

 聞こえよがしの非難をテキサス婆は一向に気にしない。

 ちかごろは、そうよ、あたしはホームレスたい、それがどうした、という気持ちになるとよ、とテキサス婆は、洗濯物を力を込めて絞りながら言った。足元のべージュのタイルに、水がゆるく捩れながら落ちて撥ねた。芝生の隙間で干からびていた兎の糞が、水の勢いで二、三粒ころころと転がった。

 あたしのプライドやら、もともとたいしたもんでもないしね。だいたいあげん大事に育てた息子でちゃあ、結婚する相手次第でこげな親は邪魔だという顔に変わっていくやろ? なあも、信じられん。施設から逃げ出したけんて、あたしは息子のところには行かれんたい。テキサス婆は、すすぎ上げた洗濯物をふたたび千切れんばかりに絞り上げた。

 房江は、私はそういう目には遭わないで済んだけれども、と呟き、棄てられた怨みはあの子の方にあるのだろうな、と思う。だが、十八歳に成長した筈の息子の今は、あまり考えたくなかった。

 息子はもはや房江の知らない男になっている。道ですれ違っても分からないだろう。

 あんたは良かよ、とテキサス婆は言う。子供のことで痛い思いはしとらんやろ? 

房江は、あの子を産むとき一昼夜苦しんだわ、と答える。テキサス婆は、喜びのための産みの痛みなんか痛みのうちに入らん、と笑い捨てた。大人になっていく息子はそりゃ一筋縄ではいかんやったね。てんやわんやで育てたよ。親っていうものは、何かと救いがたいもんよ。息子は自分の気持ちひとつでぎりぎりに生きとうけんね。母親が喜ぼうと血の涙を流そうと知ったこっちゃない。そのうち年寄を疎む嫁でも見つけてくればまあ、息子なんて詰まらんものよ。あんたは幸せよ、良か思い出だけで…。神様に感謝せなね。ペンギンが言う。「テキサス婆のような姑を持った嫁も可哀想だったわね」

 

 

 本当はあたしのこの人差し指は、大学生の頃にアルバイトで電器店の手伝いをしていたときにイタチに食われたのよ、と包帯を巻き直しながら、ペンギンは言う。

 得意先の一人暮らしのお婆さんが電話を寄越したのだという。「天井裏に何かいます。スポット照明を外してその穴から追い出してください」ペンギンが出向き、ははあ、何か走り回ってますね、と言いながら脚立に乗り、照明の器具を外して穴の縁に右手をかけたのだそうだ。

 首からぶら下げた懐中電灯を左手で持ち上げたそのときにね、ヤツが穴に掛けたあたしの人差し指に噛み付いたのよ。女ってこういうとき肝が据わるものらしいけどね、根が男のあたしだからさ、肝を潰して脚立から転げ落ちたわよ。人差し指の先をイタチに食べられたと言ったら、たいていの人が気の毒そうにしながらそれでもやっぱり笑うから、あまり言いたくないのよね、ほらふうちゃんも目が笑ってる。

 で、イタチはどうなったの、と訊ねると、お婆さんが言うには、穴から飛び出して庭先に跳ねてどっかに行っちゃったんですって、とペンギンはつまらなそうに言った。あたし、すぐに病院に飛んでいったから、ヤツを見てないのよ。

 男をめぐって女と掴み合いの喧嘩をして指先を噛み切られたのだ、というテキサス婆の話と、ペンギンの話の、どっちが本当なのか、房江には分からない。ペンギンの包帯巻き直しの儀式の度に、房江は人差し指が噛み千切られる一瞬の痛みを、小さな火花のように想像してしまう。

 ゆっくりと包帯を解くペンギンはどこか満足そうに見える。

 ペンギンは切断面の光った皮膚を剥き出しにして眺め、そっと頬にあてて眩く。このつるっとした感じが妙にいいのよねえ。そして、「アウトサイダー」のマット・ディロンって、すっごくセクシーだと思うわ、などとうっとりと言う。そうね、あたしもそう思うわ、と房江も答える。

 あたしみたいな「大女」が、しなしな歩くのはグロテスクなだけって言われたこともあるけどね。女だとは見えないから、過剰に女でいなくちゃね。この過剰さは快感なんだ。

 あたしたちは、あちら側の眼からは「汚なくって空っぽで悲惨」なのよね。でも、あたしたちにだって楽しめることも、よろこべることもある。よろこびの数としては、あちら側と変らないわ。ささやかなよろこびだけど。

 ペンギンは包帯を巻き直す時はいつも楽しそうにそんなことを言う。そしてついでのように、スペインに行ってみたいわねえ、と眩く。ペンギンは、房江が寝袋に横になってしばらくすると古ぼけた手帳をひらく。そこにはスペインに行ったことがあるという人から教えてもらったスペイン語が書き付けてあるらしい。丸く屈めた背中をこちらに向け、ぶつぶつと眩いている。今日のペンギンのしあわせレッスンは「道迷い編」らしい。

 助けてください…アジュデメ ポル ファボル。どこで失くしたか、わからない…ノ レクエルド ドンデ ロ エ ベルディド。道に迷ってしまいました…メ エ ペルディド。すみません、道を教えて下さい…ペルドネポドリア デスィルメ コモ セ バ。

 スペインに行ってまで、行き場所を見失うつもりだろうか。それとも、スペインでなら、迷った道から抜け出せるのだろうか。だいいち、あのスペイン語はちゃんと通じるのだろうか。

 開いた膝の間に手帳を置き、薄汚れたフリルだらけのドレスの大きな背中を小刻みに揺らせて、小声で何度も何度も、繰り返している。

 「スペインに行けたらいいね」と、その背中に言った。

 

 テキサス婆の兎が、死んだ。一日、雨が降り続けた。その翌日とそのまた翌日には、風が吹いた。テキサス婆のテントが一日中、低い音でハタハタと鳴り続けた。

 兎のために婆が八百屋の裏口から貰ってきたというキャベツの屑が段ボールの中で腐って、茶色の汁が流れ出し、ひどい臭いを放った。ペンギンが黙ってそれを片づけた。兎を公園の植え込みの間に深く埋めてやったのもペンギンだ。

 婆のテントの外には、糞箱が放り出されたまま少しずつ乾いて干からびていき、いつしか沁み付いていた臭いも消えた。夜になると、生き残りの蟋蟀が糞箱の下あたりで鳴いた。長く尾をひいては耳の底に残り、その余韻が消えないうちにまた切なそうに繋がって始まるその音色は、房江の聞こえない片耳に何時の間にか住み着いた耳鳴りと溶け合った。

 風が止むと雲が晴れ、中天には丸い月が浮かんでいた。ママ、お月さま、いま、なんて言ってる? あの子の声が耳もとで囁く。夫を駅に迎えに行く道で、あの子はいつもそう訊いた。房江の背中で背伸びをするように身体をのけぞらせて、月を見ては必ずそう訊くのだった。お月さまの話を母子で飽きるほど繰り返した。

 テキサス婆は、言う。あたしはね、自分の最後ぐらいは覚悟しとうとよ。あんたがここに来る一年前に、ペンギンのところに居った年寄りやけどね、どこかの会社の寮の賄い婦をしよったらしかったっちゃけど、七十歳になったときにクビになってね、やっぱりあのサックスおじさんのベンチでペソギンに拾われて、ここにきたとよ。毎日毎日、ここらの飲み屋の店先をめぐって、あたしを皿洗いで良かけん使うてください、て頼み込んでまわってねえ。けど、七十の家なしの婆さんを雇う店なんかあるもんかねえ。それでも婆さんは諦めんかった。あたしはまだ充分働けるって言い張っとったよ。

 ある日、特に冷え込んだ粉雪の降る夜やったけど、ペンギンと一緒に探しに行ったら、飲み屋の路地の片隅で、婆さん、凍って死んどったよ。

 テキサス婆は足元の雑草をむしりながら眩いた。あたしも、たいして変わりゃあせん。それで良いったい。

 ただね、息子がね、と婆はむしった草を投げて顔を上げた。

 息子がそれを聞いて、どう思うかねえ。紛れもなく、このあたしが産んだあの息子が、道端で飢えて病んで野垂れ死んだ母親のことを知ったら、どう思うやろか。それだけがあたしの最後のこだわりたい。兎が死んだけでちゃ、こげん悲しかろうが? 

 「あたしは違うなあ」と房江は言った。ホームレスになって野垂れ死にしたなんて、あの子にはどんなことがあっても知られたくないわ。

 あんたは、幸せたいね。成人するまで育てておらんのやから。夢物語のまんまたい。

 

 夢を繰りかえし見る。ただじっと母子を眺めているだけの、はかない夢だ。

 子供の掌にオレンジ色のミニカーがゆるく握られている。ああ、「ニッサンチェリー」だわ。房江の唇がほころぶ。あの子のいちばんのお気に入りのミニカー。あまりいつも握り締めていたので、色が剥げてしまっている。目を覚まさせれば、自分も夢から目覚めると分かっているけれど、あの子を抱き寄せたい思いに耐え切れなくなって、両腕を伸ばした。その自分の手に目が吸い寄せられた。

 いったいどうなったのか白く滑らかな若い肌に戻っていた。垢じみてもおらず皺だらけでもない。

 あの頃の目分に戻っている。

 ああ、帰ってきたのね。やっとあの幸せな日に戻れたんだ。何て、何て、長い悪夢だったんだろう。

 房江は、坊やを抱きあげて、しっかりと抱きしめた。

 涙でぐしゃぐしゃになりながら、垢で汚れて湿った臭いがする寝袋に、空っぽの胸を抱いて横たわっていた。

 

 ブーヤンが酒瓶を懐に入れてやってくる。例のごとく酔ってのクダまきが始まる。

 俺だってまともに働こうと思うんだよ。だけど、心が揺れちまうんだよ。こないだ妹が、俺を捜し当てて訪ねてきたんだけどね。妹の住所に住民票を移して職を見つけろって熱心に勧めるんだよ。だけど、いざ履歴書をもっていこうとすると、いつも逃げ出したくなる。うまくいきっこ無いんだ。三十年も家庭を二の次にして会社に滅私奉公してきてさ、そのあげくあっさりリストラだよ。馬鹿みたいだろ? 俺って、いったい何だったんだよ。ホームレスになるために、あのサラリーマンの三十年を寄り道したのかよ。どうしようもないんだよ。真っさらになることなんて、今更もう、出来ないんだよ。妹のやつには分からないんだ、マイナス思考だとか、怠け者だとか、そんな簡単な言葉で片付くものなんかじゃないってことがさ。

 ブーヤンは、酒臭い息を吐きながら、黒い爪をべとついた髪に突っ込んで掻きむしる。垢にまみれた茶色の顔に目脂のついた眼が細く開かれ、涙が光っている。深く沁み付いた臭気。無気力に丸められた肩や背中。あるときクラリとずれて、ずれながら生きてきて、そのずれをどうすることも出来ないまま雪崩落ちてしまった。それはそのまま、房江目身やペンギンなのだった。

 リストラでローン破産して家族離散だって、もうじゅうぶん分かったわよ、聞いてるとこっちまで死にたくなっちゃう、とペンギンがうんざりと言う。あんた、あっちの公園の仲問と険悪になっているんだってね。

 ブーヤンは荒れまくり、ついにペンギンも切れて、おまえいい加減にしろよ、と回し蹴りを入れて、テントの外に叩き出してしまった。酔っぱらって道端で寝込んだら凍死するよ、と房江が心配すると、大丈夫、あいつは全部投げてて、そのくせ中途半端で、死ぬ気力もないのよ、とペンギンはそっけなく言った。

 

 翌日、房江は、デパートの外壁の大型画面の下で頭を抱え込んでいるブーヤンを見かけた。覗き込むと、目の下が大きな青痣になっていた。どうしたの、大丈夫? と訊ねたが返事はなかった。

 頭上の大型画面が、しあわせですかーっと明るい声で叫んだので、ほら何か訊いてるよ、と笑うと、ブーヤンが、ばかやろうと、眩いた。しあわせか、と訊ねた大型画面は誰の返事も待たず、すぐにめまぐるしく四輪駆動の新車や中南米らしい赤茶色の山々の映像を繰り出してCMを叫びはじめた。ひび割れて放散する音響は、街路にこもる車の騒音に端から吸い込まれ、すぐに忘れ去られていく。

 

 

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