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 薔薇のように         納富泰子

 

 

胡壷・KOKO」4号(2005年11月)

文學界2006年上半期同人雑誌優秀作

推薦 よこい隆さん(木曜日

 


 

 

  僕の耳もとを通りすぎては戻ってくるのは、名前もしらない花アブの羽音なんだ。他は静かなものだが、隣りあった動物園の象の鳴き声や、空を舞うカラスの間のびのした声が、たまに聞こえる。
 どの音も、みな遠く感じられて、僕は人影の少ない平日の植物園のベンチで、ただうっとりと息をしながら陽に吸われている。

 闇のなかを逃げていく私の足は、もつれていっこうに進まなかったわ。
 川べりの細いコンクリートのふちを、遠い明かりを目ざして、這うように歩いていた。足を踏み外しでもするなら、深さも知れない川に落ちていくしかない。もう何時間も歩いているのに、明かりはすこしも近づいてこない。足は錘を引きずるようで、私はとうとう足を踏み外して、重たく揺れている闇に落ちていった。口に貼られた粘着テープの下で、悲鳴を押しつぶされながら、必死にもがいて目が覚めたわ。

 眠気がさすように静かで、日の長い植物園なんだよ。
 夢を見ているうちに、昨日までの一日、一日が、切り離されては、遠くに落ちていくんだ。

 寂しい場所にある廃屋同然のアパートに、私は横たわっていたわ。
深夜の暗さを吸いこみながら苦しい夢からめざめ、そのたびに、なぜ生きてめざめるのか、と涙を流した。
 寒かった。長い時間、テープで手足を縛られて放置されているから、限界をこえて洩れてしまう尿が、ゆるゆると溢れでて広がる。
私はその温もりに、すがりついた。でも、すぐに衣服は固く冷たく肌にまつわりついて、逆に体温を奪い取ってしまう……。顎ががくがくと震えて、うめき声も細かく震えたわ。体のあちこちの傷が爛れて膿んで、膝をまげただけで腰には割れるような激痛が走った。
 熱を持った涙が盛りあがっては、転がり落ちていって、目元や頬の傷に泌みて、耳たぶで冷たい水溜りになって……。

 植物園には、現在と今からの季節しかないんだ。
 ここでは、いつも、瑞々しい生気と色彩にあふれた新しい日々が目覚めるんだよ。

 月明かりの薄い光が、アパートの部屋の灰色の砂壁に、這い上がってひろがって、それは何と冷え冷えとした色だったでしょう。縛られた両手を胸にあてて横たわっていると、水道のゆるんだ栓から落ちるしずくの、規則正しい音が、私の心臓の鼓動と重なった。ときたま、遠いところで車の走る音がした。初めのうちは車の音が聞こえるたびに、あなたが探し回ってくれている、と思って、粘着テープに塞がれた口の中いっぱいに、ここよ、私はここにいる、と叫んでいたけど……。テープを剥がされてはまた張られる唇は、皮膚がはがれ、肉が露わになって爛れて、もう何日も痺れていた。坤き声を出しても、首筋から腰骨にズンと響いたわ……。
 そこまで話すと女は、うっすらと傷跡の残る口元を震わせて、そしてね、と婚約者に言った。「そして、朝になるとまた彼らがやってくるのよ」
 婚約者は溜息をついて、女がいっこうに耳を傾けようともしない「植物園の話」をひっこめる。何度も聞かされた女の話を、再び聴くしかない。女は、婚約者の落胆には気づく余裕もないようすで、前のめりに話し続ける。
 退院後、しばらくのあいだ沈黙していた女は、ある日とつぜん、事件の話を始めたのだった。それは婚約者に向かってのみ語られるように見える。だが、婚約者は、それが、自分を通りすぎた遠いところに向かって、闘いを挑むように語られている気がしてならない。

 粘着テープを外された私は、少年たちに両手を掴まれて、体中の痛みに坤きながら半分気を失って、風呂場に引きずっていかれたわ。あいつらは、ホースからほとばしる水で服の汚れを洗い落としたあと、私を裸にし、骨まで凍るような水を容赦なく叩きつけて、こびりついた吐瀉物や排泄物を洗い流した。嬉しそうな明るい声の悪口雑言と一緒にね。
 むりやりに栓をこじ開けられた古いアパートの水は、赤錆びの強い臭いがしたわ。水は口に入ると渋かった。

 女が「あのアパートに行きたいのよ、連れて行って」と言い出したとき、婚約者はそういうことを思いつく女に恐ろしさを感じた。女の真意がわからなかった。
「もう二度とあんな場所には行かないほうがいいんだ」
 女は頑なに、連れて行って、と言い張った。婚約者は何をいまさら、と強く拒んだ。
「それよりも、植物園に行くほうがよほどいい。僕たちの一部のように親しんだあの場所に、ゆっくり坐っているうちに、きっと人心地がついていくに違いないよ。急がなくても良いから、以前の穏やかで明るいあなたを取り戻していってくれたら、そのほうが、どれだけ周りを安心させるかしれないし、よほど前向きじゃないか。それにもう、あのアパートは、とうの昔に取り壊されたと開いたよ。あんな場所は早く消えたほうがいいんだ」
 婚約者がいくら女の気持ちを逸らそうとしても、女は頭に血が上ったように苛立って、車椅子を揺さぶり「あそこに忘れ物をしてるのよ、早く連れて行って」と言い募るばかりだった。
 忘れ物なんてあるわけないじゃないか……と、もともと気弱なところのある婚約者は、女の顔を恨めしそうに見た。
 結局、女の執拗な懇願に負けて、植物園に連れて行くのをあきらめ、アパートに向かわねばならなかった。
 去年の春にQ市を襲った震度6強の地震で古アパートはかなり傷んだ上に、その地震の日に発覚した監禁事件の悪い印象で早々に取り壊された、というのは婚約者の聞き間違いだったらしく、女の言うとおり、ベージュのペンキのまだらに剥げた二階建ての木造アパートは、小さな公園と雑木林の間に存在していた。
 歪んでなかなか開かない入り口の板戸をやっと押し開けた。木や藁の朽ちていく臭いが鼻を打った。
 婚約者は、靴を履いたまま、車椅子を押し上げて入った。
 雨戸の上の細長い窓から差し込む曇り日の弱い日差しが、汚れた雑誌や砂壁の破片が散乱した畳の上に、ぼんやりとひろがっている。事件の後に警察の調べた痕跡が消えかけて、その上にも埃が積もっていた。部屋中に散乱していたという生ゴミはさすがに片付けてあったが、異臭が微かに鼻をつき、畳がまだらに黒いカビになって残っている。
 あの監禁事件のときもすでに荒廃した空き家だったが、女が発見された日に起きた地震でさらに荒れ果てていた。部屋の砂壁は下地ごと欠け落ちていくつも穴が空き、雨戸の内側のサッシ戸には、割れたガラスが茶色に汚れてそのまま尖っている。ガラスの破片だけが隅に掃き寄せてある。天井からはベニヤ板が剥がれてぶら下がっている。部屋の荒廃が、女の心そのままに見えた。「気の滅入る有様だね……」と婚約者は呟いた。
 車椅子の女は凝然と動かない。やがて婚約者を振り返ってうっすらと笑い、「あれが、元の私の、血だわ」と、畳の目に染み込んで広がる褐色や黒のシミを指差した。それが忘れ物なのか、と婚約者が思うほど、女は畳のシミをみつめて思いに沈んでいく。
 不意に、ゴトリ、と、地中で岩盤のかけらが外れたような短い揺れが起こり、割れ残ったガラスと、女の車椅子を小刻みに震わせた。

 女は言い出したら聞かない。婚約者は仕方なく、ふたたび車椅子を押してアパートに出かける他はなかった。
 女は、三人の少年たちから監禁された一カ月のあいだの、出来事の断片を拾い上げては、緻密に話すのだった。部屋の天井や壁、畳などから、記憶は滲み出し、やがてありありと情景が立ち上がってくるらしく、辺りをじっと見つめては、口をひらく。
 解放された日のことは斑らな記憶しかないのよ、と女は言う。
「もう何度も話したことかもしれないわね……」
 婚約者は「気がすむまで何回でも話していいんだよ」とあえて微笑んでみせる。
 女は安心した様子でうなずいて、初めて話すように話し始める。
「突然だったわ。遠くのほうから、ずりずりずりと、何かが近づいてくる気配を感じたの。今まで開いたこともない地響きのその気配に次第に包まれていって、私は朦朧としながら、ああとうとう、あの世に連れて行かれるんだ、と思ったわ。でも、畳に耳をつけて倒れている私の体のすぐ下を、それは、ずりずりと北のほうから南のほうへ、分厚いうろこをたてて、通り過ぎて行ってしまったの……。そのときに、ブランコのように建物が揺れていることに気づいた」
 その地震が、女を救った。だが、女は、また再びこの場所に戻って、部屋のあちこちをじっと見つめる。
 壁に射す光がだんだん弱々しくなり、吸い込まれるように消えていって、辺りのもようが薄暗く幽かになる時刻まで、女がここで、自分に向かって行われた凌辱の様々な場面のひとつひとつを、あからさま過ぎるほどに克明に語り続けるのは、いったいなぜなのだろう。
 女が話し疲れて黙り込むと、婚約者はほっと息をつきながら、歪んでひび割れた戸を、また苦心して開ける。
 車椅子を押して足早にアパートから離れた駐車場に行きながら、「そろそろ植物園のあの四阿の下で、咲き始めただろうね」と、この上もなく美しい中国の薔薇の話をする。女は、青い空に桃色の筋雲がたなびく夕焼けに眼をやって、婚約者に何か答えようとするのだが、溜息をついて首を振り、口を閉ざしてしまう。

 今、薔薇園で目立つのは、たくさんの新しいシュートに、簿紫桃色の八重の花を豊かにつける薔薇だ。ほら、あの螺旋の小道の二巡り目のところにあるだろう? 半蔓性の……。そう、ラベンダー・ラッシーだ。濃い緑の深い葉群れのなかに浮き上がるように大きな房になって咲くから、本当に美しいね。あれは四季咲きだけど、今の季節がいちばん瑞々しいんだ。
 螺旋の小道の三巡り目あたりで、首の細い繊細な薔薇に出会う。名前は忘れたけれど、思春期の晩生な娘のように、恥ずかしそうにうつむいて咲く。淡いピンクの花びらが、はらはらと風にこぼれる姿は、風情があって時間が過ぎてしまうのが惜しまれる。散ってしまうとあたりが薄暗くなる。
 でも人は、少し寂しいほうが、物の輪郭がはっきりと見えるんだよね。

 女は、被害を見回りに来た大家に発見されたのだった。無残な姿だった。顔はあざだらけに腫れあがり、全身に散らばる火傷がいくつも化膿していた。手の指には爪がなかった。腰を骨折していて、病院に運ばれた。歩けるほど快復しそうもない、と診断された。
 病院に駆けつけた婚約者は、ベッドのそばに膝をついて、少年らの手で、地肌が斑らに透けて見えるほど乱暴に切られた女の髪を撫で、真っ白な包帯で包まれている両手を撫でた。婚約者は、何度も心に繰り返した言葉を、歯を食いしばるように言った。「神というものが存在するのなら、なぜ、こんなにも無残な怖ろしい悪が行われることが、見過されるんだろう」
 眼鏡の奥の目をいつも恥ずかしげにまたたかせる癖や、ひょろりとした長身、どこかゆっくりとした動作のために、女から「気弱なキリン君」とからかわれていた婚約者は、早くに母親を亡くしたほかは大きな不幸にも、他人のあからさまな悪意にも、ほとんど出会わないで育った。父親は、息子の就職までを見届けたのちに、気の合う相手を見つけて再婚し、遠方に住んでいる。
 お互いの父親たちが、小学校の遊び友達同士だったので、子供たちも幼ないときから親に連れられて行き来があった。母親を早く亡くした一人っ子であることも同じだったので、ふたりはなかば兄妹のように育ってきたのだ。成長するにつれ、ともにいくらか話を理詰めにあれこれ巡らせては、活き活きと言葉の応酬を楽しむ会話の波長も合うことがわかった。自分の思いを心ゆくまで話したり、相手の考えをじっくり開いたりすることの相性もよく、各々が相手の性格をよく呑みこんだ付き合いになっていった。婚約をしたのも、お互いに離れがたく思うようになっていったので、自然な流れだった。
 そういう二人にとって植物園は、小学生のころから地元の同じ大学を出るまでの歳月に馴染んだ場所であり、いずれここを走り回るであろう自分たちの子供らの姿さえ、容易に想像できる場所だった。
 女がとつぜん行方不明になったのは、結婚式が行われる筈だった日の一週間前のことだった。女が発見されるまでのあの一ヵ月ほどの日々を、どうやって生きていたのか、婚約者はよく思い出せない。
 女は何とか生きて戻りはしたが、その姿はとても正視にたえ得ないものだった。
 婚約者は、ショックと複雑な怒りにひどく混乱していた。だが、毎日病院に通って顔を見ているうちに、女がただひたすら哀れに思われてならなくなったのだった。
「僕が仕事の合間に来て、このひとの傍にいられる限りいますから」と女の父親に告げた。父親は、それを聞くと、すまない、と言ったきり鳴咽をこらえ、女は顔をそむけて眼を閉じていた。
 父親は、病室の外に婚約者を引っ張っていって頭を下げた。「こうなった以上、婚約は解消してくれてもかまわないが、あれがああいう状態なものだから、いま少しの間だけでも、頼む」
 婚約者は「いえ、彼女には何の罪もないのですし、僕は、あんなふうになってしまったあのひとを、見捨てるなんて、絶対にできない」と答えた。
 婚約者は小学生の頃の日曜学校で牧師先生に、「黙想のときは、眼を閉じて、おでこの奥深くに意識を集中するのですよ」と教えられた。自分の内側にむかって神と対話をする、ということは、全能の神に通じるパイプのようなものが人間の体の奥にあるのだろうか、と不思議に思ったことを覚えている。
 ベッドの脇で、両手に抱え込んだ自分の頭の奥にいるかもしれない神に向かって、婚約者が何度も「なぜ、このようなことを」と詰問するように坤くのを、女は腫れあがった瞼の間からじっと見ている様子だったが、口元の傷に顔をしかめながら、かすれて別人のようになった声でようやく言った。「なぜ? なぜ? 大昔から、繰り返し、世界中で、いろんな神様に、人間たちはそう訊ねてきたでしょうね。でも、返事なんか、決してどこからも降ってはこなかったんだわ」

 女が、事件の記憶を反芻しはじめたのと同時に、婚約者は、植物園の話を始めたのだった。
 泥でこねたように暗い色の花瓶のほうが、挿された花々は華やかにこぼれるように浮き上がって輝くものだ。
 女が陰惨な暗い話ばかりをひたすら語るので、婚約者は、自分は春の植物園の溢れるような色彩と清新な光に満ちた風景を語って、女のいる闇を明るませよう、と単純に思った。
 どちらも、相手にかまわずに勝手に話すしかなかったが。

 朝の植物園はみずみずしい。ビロード光沢の紅薔薇の花びらのなかに露が玉になって溜まっているのを見るたび、あれをひとしずく、ふたしずく、素朴なガラスの杯に集めて舐めてみたら、どんなに、甘く香わしいことだろう、と思うよ。薔薇の香りはどれもいくらか重ったるく、果物に似た香り、古めかしい薫香料のような香り、シナモンの香りのするものもある。あなたの持っている粉白粉のパフみたいな薔薇も咲いていた。柔らかでころんとした形で真っ白で良い匂いがするやつだ。そのとなりには、音楽の聖人の名前、とあなたが教えてくれたあの薔薇があるよ。そう、セント・セシリアだ。淡いピンクの気品のある花は、空に向かってほころびかけていたよ。
 女がようやく病院通いの車の窓から外を眺められるくらいに快復したときには、余震も減り、Q市の市街地の眺めも以前とあまり変わらないように見えた。
 地域によっては全壊家屋がまとまって出たし亡くなった人もいた。一軒も火事を出さなかったのが幸いだった。怪我人は、病院に行かなかった人も加えると膨大な数だろう。
 民家の屋根で飛び跳ねて乱れてしまった瓦も修復されて、ほとんどの家で食器棚から飛び出して割れた食器のかけらも片付けられ、マンションの前に「災害ゴミ」の紙を張られて出されていた家具類も運び去られた。道路の地割れも、盛り上がった舗道のタイルも、また元通りに舗装され、ビルの外装、内装もだいぶ修理が終わっている。婚約者は車を走らせながら、説明を続けた。
「でも根っこのところが大きく揺すぶられているから、ビルや民家の、壁や柱などの見えない部分にひそかにヒどや歪みやズレを残しているのかもしれないね。Q市の中心に断層が南北に通っている、とは以前から聞いていたけれども、その東側にあたるいくつかのマンションの被害が大きかったそうだ。ドアが曲がってしまったり、壁にヒビ割れが出来たマンションからは、次の地震を不安に思う居住者たちの引越しが続いているそうだよ」
 みんな、さぞ怖かったことでしょうね、と他人事のように女は呟いた。

 女は、磁石の針のようにアパートに戻りたがった。あの日々が常に現在に繋がっているのだ。手足を縛られたまま、顔が変わるほど殴られたあげく、化け物、と嘲られた経緯を、女はありありと、眼に見えるように話して聞かせる。
 婚約者は、袖をまくって赤く引き攣れた傷の痕跡を差し出して今も痛むように訴える女の一途な声を聴かされながら、話すことで心の膿が排出されるのだったらどんな話もあえて聞かねば、と耳を塞ぎたくなるのをこらえた。
 なぜ女は、誰もがするように、悪い記憶を沈黙のうちに心の奥深くに閉じ込めてしまわないのだろうか。なぜ、わざわざ悪夢の現場のアパートに戻ってきて、怖ろしい記憶を呼び戻すようなことをするのだろう。婚約者の疑問は、女の感情の激しさに押し流されてしまう。神経のぴりぴりと立った女を刺激することを怖れて腰が引け、結局は振り回されていた。
「少年たちは、爪をはがすことにも飽きると、私の腕や足先にライターのオイルを少しずつ垂らしては、火をつける遊びを思いついたのよ。縛られているので、焼ける熱さと恐怖に、芋虫のように跳ねたわ。その様子を、少年たちは指さして笑った。火傷は長く激しく痛んで化膿していった。目つきが気に入らないとか、返事の声が小さすぎるとか、ささいなことで殴られたの。顔は腫れあがって、眼も鼻も埋もれてしまった。浴室の壁に取り付けられた鏡の前で引きずり起こされて、自分の顔を見せられたときは、吐きそうになったわ。髪がざんばらに乱れ、顔は黒や紫や黄色のまだらな模様のボールのように腫れあがって、口元は爛れて赤く、お化けだと少年たちがからかうとおりだったもの」
 華奮な体つきの女は二十五歳になっても、表情やしぐさに初々しさがあふれていたので、誰からも「可愛い感じのお嬢さんですね」と言われた。人見知りはするが、いったん心を許すと素直な感じでよく話す穏やかな性格だった。それが、行方不明になっていた一ヵ月のあいだに、外見も内面も別人のように変わってしまった。少年たちによって、自分は悪臭に満ちたおぞましく醜い物体だ、と刷り込まれた意識が、なかなか抜けていかなかった。理性では、「そうではない、自分は普通の人間だ」と、いったんは納得をする様子なのだが、その夜のうちにまた少年たちの嘲りを思い出し、気持ちが滅入って自己否定に戻ってしまい、荒れ果てた顔色になる。
 この街では人々は、地震のあと何百回という余震にとらわれている。「揺れてなくても、揺れた気がする」と、誰もが言う。女も、同じように、あの事件の余震に揺れ続けているのだ。
 朝から雨の激しく降るその日、アパートの部屋に入った途端に、女は叫んだ。「畳が波打って押し寄せてくるわ」婚約者は、反射的に身構えたが、辺りはしんとしている。女は「これは何なの?」と、繰り返しながら、両手のひらで見えない何かを押し返すようにしている。押さえこまれていた蓋をはねのけたように、怒りに満ちた声が、女の口から激しく迸り出てきた。体中をくまなく標本のように見られ、弄ばれ蔑まれる有様を、肩で息をつきながら、宙を睨んで粘りつくように訴えている。女だけに見える誰かがいるのだろうか。婚約者はその視線の先を見るが、汚い壁と天井しかない。
「身の置き所がないのよ。消えてしまいたい」女は、自分の髪をかきむしりながら、少年らとの怖ろしい出会いを悔やんだかと思うと、とつぜん車椅子を揺さぶって悲鳴をあげ、歯の鳴る音が聞こえるほど震えはじめた。ごめんなさい、と聞き取れるうめき声が震え、車椅子から滑り降りようとする。押さえようとすると、女は両腕を振り回して強い力で突きのけて逃れた。畳に滑り落ちるなり「許してください、醜くて汚くて、ごめんなさい、どうか許してください」と、何度も首だけでカクカクとお辞儀をしながら哀願している。婚約者はその背中を抱いた。
 やがて、激しかった雨音がやみ、雨だれの音だけが間遠に残った。
 婚約者は女の手を取って顔を覗き込んだ。眼鏡を跳ね飛ばされた裸の瞳でみつめていると、女はいくらか正気を取り戻す様子で見返して、ぼうっと呟いた。「なんだ、あなたの眼って、黒眼がこんなに大きくて深かったんだ……。どうして今まで気づかなかったのかしらね……」婚約者の眼を見つめたまま、女の肩がだんだんゆるんでいく。
「もう私は駄目。父の娘にも、あなたの妻にも、なれなくなった。誰からもとても遠い気がするの。こんなに汚れてしまっては、もう、戻れないわ」
 気が抜けたようなぼんやりとした声だった。
 その手を握り締めてやりながら、女がとても愛着し親しんでいた植物園の情景を、子守唄のようにゆっくりと話し始める。
 二人でいつも一休みしたあのすわり心地の良い、乾いた、やわらかい肌触りの、大きな木のベンチのことを話す。ベンチから見える色とりどりの美しい蔓薔薇の庭のことや、草地の澄んだ流れの小川のこと。温室の横の静かな喫茶店は、あいかわらずフォーレの「この世のすべての魂」だけを思い出したように間を置いて流していることや、窓から見下ろす、あの谷あいの赤い道のことも。
 女が子供のころから馴染んだ植物園の風景を語ることが、何よりも女を過去に呼び戻し、戻った現在に繋げ、ゆっくりと深呼吸をするように、女本来の姿に生き返らせる良薬だ、と婚約者は信じていた。
「植物園の螺旋の小道を歩いていくと、真紅の薔薇の、深さに眼を奪われ、乳色の薔薇の、灰かな陰翳に心が吸い込まれる。四月の終わりの植物園は一年で一番みずみずしい。おととしの今頃、僕たちは、薔薇園をぬけて、手をつないで丘の上の温室に入ったね。あのアプローチは、鮮やかだった。屋根に這うブーゲンビリアの大きな枝からは、真っ白な花が重なり合って垂れ下がり、まるであの頃、あなたが少しずつ自分の手で縫っていたウエディングドレスのようだったもの。あの花をもう一度見にいかなくては」
 女はそれには答えず、ふっと遠くに眼をやって呟いた。「震度6強のあの瞬間に、丘の下で、薔薇たちがいっせいに震えざわめく様子は、どうだったのかしら。根を張った不動のはずの地面が、上下左右に揺れたのですもの。本当にどこにも安定なんかないのね……」
 最初の地震から半年がすぎた後も、余震が不意に思い出したように起きた。

 婚約者は毎晩ベッドの傍らで、女が眠るまでのあいだ、黙ってただ話を聴いてやる。
 眠る前は、女がいちばん不安定になる時間だった。女の話が過剰な残酷さに溢れてくると、最初のころはいたたまれず、思わず手を振って、さえざることもあった。「ちょっとストップ。しばらく休ませて」
「そうね、開くに堪えないひどい話ばかり」女は、黙る。
 やがて女は「あなたが自分で味わっていない恐怖や屈辱のことは、いくら話しても、結局は他人事で、分かって貰えないかもしれない……」と呟き、「けれども、この決着のつかない苦しさは、ほかの人じゃ駄目なの。あなたに話すことでしか、なだめられない気がするの。お願いよ」と懇願するように言った。
 女は、父親の顔を見ることができなくなってしまっていた。あれだけ自分の体を辱められたあとでは、自分の血の繋がる人間を見ると、身の置きどころもなく、恥ずかしさに耐えられない、と、女は繰り返す。
 父親は、傷ついた娘の気持ちと自分の怒りを、どのように扱ってよいのか分からず困惑しきっていた。
「うかうかと連れられていくなんて、何という馬鹿な娘だろう。生きて戻ったことだけでも幸せなのだ、と自分に一生懸命に言い聞かせている。だが無念で無念で、どうしようもない。どんなに抑えても、私の気持ちを敏感な娘は悟ってしまう。どのように凌辱が加えられたのか、私がその様子をあれこれ想像し、怒り、拒絶してひどく苦しむことが、娘には耐えられないだろう。ご承知のとおり、あの子は小さなころから、恥ずかしがり屋で、感受性の強い子だった。まだ二十五歳では、開き直りの力もないに違いない。それが哀れで仕方がない」
 女がまるでしがみつくように求めたのは、カウンセラーでも医者でも親でもなく、婚約者だった。
 婚約者は、大学を出て三年ほど大手の建設会社に勤めたが、やがて以前から女の父親に熱心に誘われていたこともあって、女の父親の経営する設計事務所に移ってきたところだった。事件のあと、婚約者はしばらくのあいだ仕事を外してもらい、女と二人で暮らすために、隣家から離れた広い敷地のなかに建つ小さな平屋を借りる算段をした。
 女は相変わらず自分のことだけしか考えられない様子で、婚約者が味わっている男としての傷を推し量る余裕すらないように見えた。
 暗闇を怖れるので、一晩中、明かりを点しつづけた。女は睡眠薬なしでは眠れなかった。「粘ついた灰色の沼地に引きずり込まれるような眠りだわ」と言う。眠りに落ちる直前に、「このまま死んでしまいそうで息がつまるわ」と、婚約者の手を掴んだ。安らぎである眠りを強く望んでいながら、薬の支配による眠りはどこかに引きずり込まれていくようで怖ろしい、と言う。だがすぐに、女は昏睡に近いほどの静かな眠りに捉われてしまう。
 婚約者がどんなに、植物園に行こう、と誘っても女は黙って首を振る。
 あの事件いらい、女はあのアパートと、婚約者と暮らす静かな小さな家との間を、往復するだけだった。あとはしぶしぶ病院に診察を受けに行くくらいだ。空気の流れが変わることさえ恐れる。
「自分が周りから遠ざかって、一人ぼっちになって縮んでしまうような気がするのよ。周りの声が膜を隔てたように浮いて聞こえ、何もかもがそらぞらしくてならない。これはどこへ行っても同じようなのよ」
 婚約者はあきらめなかった。毎日のように、繰り返し、清新で豊かな薔薇園の話をする。
 女が、もう私には名前もないの、と呟くこともあった。婚約者は「誰にだって名前がある」と、女の名前を呼んだ。そんな名前、捨ててしまいたい、と女は泣いた。

 昔から馴染んだ一重咲きのハマナスが、毎年、真っ白な大きな花を咲かせる。あなたがとても好きだった花だ。あれはとても香りが良い。けれども鋭いトゲがあって、うっかり手を出すと刺される。
 花びらの先が一枚ずつ外側に反り返って尖って咲く、気品のある剣咲きの薔薇は、イギリスのゴシックロマンに登場する古い館の女主人のように誇り高くみえて、気軽に触れることが躊躇われる。
 薔薇には女性の名がつけられていることがある、と教えてくれたのはあなただ。あなたの名前をつけるとしたら、どんな薔薇なのだろう。
 僕はあなたに似た薔薇をさがして歩く。もとの初々しく素朴なあなたではなく、複雑で底知れないものを持ってしまったあなたに似た花を。

「話せば話すほど、あなたが後ずさりして遠のいていく気がするわ」
 女に責められたときに、婚約者は困惑しきって弁解した。「あなたが話したことのすべてを、あなたと同じように記憶していなければならない、あなたの気持ちを、まるで自分のことのように理解しなければならない、というのは、とても無理な要求だよ」
「いいえ、私が言いたいのは、なぜ私のいる暗い場所まで降りてきて、抜け出すまで手をつないでいてくれないのか、ということよ」 婚約者は眼をしばたかせた。「いや、降りてる、というか、あなたの身には十分なっているつもりだけど……。ただ、あなたが、あの少年たちにではなく、自分の方に罪を感じて自分を否定してしまうことには、どうしても納得できないだけだ」
 女は婚約者を見つめていたが、疲れた声で見当はずれなことを言った。「子供を亡くした夫婦が、片方の悲しみのエネルギーを受け止め続けることがきつくて、とうとう支えきれずにくたびれ果てて別れる例って多いそうね」
 いや、僕たちは、まだ……、と言いかけて黙った。事件のあとのひどい混乱の時期をいくらか過ぎはしたが、あらためて決めねばならない式の日取りの話などは、まだ言い出せそうもなかった。それに、女からは、結婚の形式などとはもはや関係ない、もっと本質的なところでの感情の共有を求められていることが、婚約者にも次第に分かってきていた。
「一緒に歪んでくれて、共感しさえしてくれたら……、それだけでいいのに……。単純にそう望んでしまう私が自分本位なのかしら」と、女は小さな声で呟き、「どうしたら、この罪悪感を鎮めることができるのかしら。渦を巻いて迫ってくるみたいで、怖ろしくでたまらない。私ひとりの力ではとても無理なの」と、子供のように手の甲で涙をぬぐった。

「あそこで失ったものは、あそこでしか取り戻せない気がしてならない」女はそう言い張って、アパートに通い続ける。
 婚約者は、女が取り戻そうとしているのは、いったい何だろうか、としばらく考え、女が生きていくうえで必要な基本的な自尊心のようなものだろう、と理解したが、これほどに闘わねば自分の存在のありようが確かめられないと思い込んだ女が痛ましかった。
「この部屋で思い出すことは」女は重い溜息をついて話し始める。
 ライターのオイルが腕を流れ落ちていく感触と臭い、火をつけられた瞬間の恐怖、耐えがたい熱さと苦痛、髪がちりちりと焦げる臭い、拳で殴られる重いショック、裸にされて弄ばれたときの目のくらむような屈辱感。それに、苦痛に悶える私の姿を、眼を光らせて見つめていた少年たちの表情も、忘れないわ。人間の根源にある卑しさを見た。そういう嫌なゲームがあるのね。ゲームのあの場面をやってみよう、と話していたもの。垢抜けない鈍重な汗臭さがむっとくる少年たちだったわ。十五、六歳の中途半端な、きっと家の玄関を一歩入れば「ママ」と、まだ大声で呼ぶかもしれない少年たちよ。ただ、腕力だけはあった。
「僕たち、先生の家を探しているんですけど。コーポマツナガの十二号室だというんですけど、一丁目の三ってどのあたりでしょう」公寓のそばの路上で、遠慮がちな声で呼び止められたの。いいわよ、と野暮ったくて真面目そうな少年たちのために、電柱に張られた番地の札をたどりながら、一緒に探してやったの。計画的な仕業だ、と悟ったのは、アパートの空き部屋に引きずり込まれて三人がかりで粘着テープがすばやく口と手足に巻きつけられたときだった。少年たちは、とても興奮してた。抵抗すると、ひどく殴られたわ。頼みの綱の携帯電話は、ペットボトルの水をかけられて壊されてしまった。
「誰にもばれないように、なるべく今までの生活ペースを崩さないこと」を申し合わせた少年たちが塾に行くために帰ってしまうと、あとは長い夜に向かって、ロを塞がれ、縛られたまま転がっているしかない日が始まったの。公園と雑木林に挟まれた場所に建物はあって、その先は国道で近くに民家もなく、廃屋になっているアパートは絶好の死角だった。
 誰もいなくなった部屋で、古い毛布を掛けられて転がっていたの。夕日が明り取り窓から差し込んで柱を照らし、少年の一人が二日目に、腕時計が壊れたといって学校や塾に遅刻しないようにと持ってきた赤いメタルの目覚まし時計だけが、少し離れた畳の上で、カチッ、カチッ、カチッ、と音を切り刻んで動いていた。はじめの一週間は、時計の秒針の動く音を聞きながら、父やあなたを思って泣いていたわ。
 少年たちは一日に二回は必ずやってきた。傷のために開けることも不自由になった口に、無理やりにアンパンが押し込まれるの。喉に詰まらせて苦しむと、水を強引に流し込まれた。むせて水はあふれて、襟首から胸を伝って服をひどく濡らしたわ。彼らは、汚れきった私の服は人に見つからないような場所に捨ててきたと言って、かわりに彼らの汗と脂の臭いのする古着を着せた。
 だんだんに日にちがたつうちに、ものを思うことも、息苦しさと体の痛みで、ぼんやりと霞みがちになっていったわ。現実世界から剥がされてしまうと、親のこともあなたのことも、急速に昔の思い出のように遠ざかって……。こうなってしまったからには、もう決して元には戻れない、とも思ったの。
 ひきずり起こされて壁にもたれて、膝の化膿した傷を見下ろしながら、すすり泣いていたら、うるさい、とひどく殴られた。

 女がようやく植物園に行く気持ちになるまでには、ずいぶんの日にちと、根気良い説得が必要だった。
 ふたりの住む静かな町と、あのアパートのある町にはさまれた丘に、植物園はある。ワゴン車に車椅子を積み込んででかけた。運転中、婚約者は饒舌で、女は無口だった。
 植物園は丘の上に作られていて、深い山林を切り開いたので今も樹木が多い。中央の広い場所に螺旋形の園庭があり、多様な種類の、様々な色合いの薔薇が、いまは五月の盛りを見せて咲き誇っている。女を車椅子にのせて、ゆるやかな斜面を上がった。
 薔薇園の正面の壁に、スクリーン仕立てになった緋色の蔓薔薇を見つけたとたん、女は、「ポールズ・スカーレット・クライマー」と呟き、自分が薔薇の名前を忘れていないことに驚いた顔をした。
 道なりに右手のアーチをくぐる。艶々とした葉に押し上げられて房になって咲く八重の薔薇があらわれる。クリーム色の花の一つ一つが陽だまりのようで、昔のアメリカ映画に出てくる、片田舎の家のペンキの剥げたポーチに絡まりついているような感じの素朴な薔薇の名前を、女は即座に言った。「シー・フォームよ」自分の名前は思い出したくもないらしいが、馴染んだ薔薇の名前は、反射的に女の唇から飛び出してくる。
 螺旋になった道を廻っていくと、次の番薇のアーチに行き当たる。芯は柔らかいピンクの、外側は白い花びらの薔薇が、アーチから何百という数で垂れ下がっている。花の重みに負けまいと、アーチに太い蔓でしっかりと絡み付いている薔薇を見上げながら、女はいとおしそうに、「ピエール・ド・ロンサール」と言った。この花独特の気品に満ちた芳香が、辺りによどんだり揺れたり流れたりして、一瞬、気が遠くなる。
「蔓アイスバーグだわ」と女が呟き、大輪の花が、泡のようにこぼれ咲く木の下で車椅子を止めた。他の植物ともよく調和するといわれ、文字どおり氷山のかけらのような純白の花をつける棘のない蔓薔薇は、女の気持ちにも素直に寄り添っていくらしかった。女がよく記憶している薔薇の名前が、婚約者にはなかなか覚えられない。
 四阿の下に鉢植えの薔薇をみつけて、女は手を差し伸べた。婚約者が車椅子を近づけてやると、花びらの生々しい柔らかさを、女の指先が懐かしそうに確かめている。「粉粧楼よ」と、女にまた薔薇の名前を教えられ、思い出す。いかにも中国の花らしい薔薇だ。桃色を中心に幾重にも、純白の衣が重なって、ふくよかで芍薬にも似ている。すべすべして、ひんやりしてるわ、と女が呟く。婚約者に上半身を支えられて花の上に屈みこんで、その香りを体の内側に染みつくほど深く吸い込んでいる。
 春の薔薇は、甘く、強く匂う。冬の間に木に閉じ込めていた香りを、いっせいに解き放つからだ。

 あの日々のことを全部おさらいして聴いてもらうことが、少しでも浄化に繋がるのか、話せばいくらか荷物が軽くなるのか、と婚約者はアパートの畳に腰を下ろして、女の望むとおりに黙って耳を傾けるしかなかった。
 少年たちは少ないお小遣いのなかでまかなう私の食べ物に困ったの。捨て犬をこっそり飼うように、菓子パンを持ってきた。牛乳を持ってくることもあったけれど、大抵は、赤錆の色の水を飲ませられたわ。時には腐敗臭の立ち始めたお弁当の残りを食べさせられた。夜中に縛られたまま取り残されては、腹痛に苦しみながら排泄物を垂れ流すほかはなかったの。
 少年たちは朝、通学鞄をもってやってきて入ってくるなり「うぇっ、くせーっ」と叫んで、私を風呂場に引きずっていき、真裸にしてホースからほとばしる水で洗ったわ。清潔に育てられた少年たちは制服を着崩すこともなかったし、自分たちが痛めつけた傷病人の傷口からにじみ出る血や膿や、もちろん他人の便の臭気にも耐えられない。私は毎朝、痺れるほどの冷水を叩きつけられて唇をわななかせ、腰の激しい痛みに、粘着テープの下でうめくしかなかったわ。少年たちは、屈託に満ちているらしい現実を罵りながら、私の背中を、デッキブラシで風呂場のタイルのように擦った。痛みに何度も気を失ったわ。
 私は、少年たちの思いつく限りの不条理な敵、狭い世界のあらゆる不愉快な敵になぞらえられるのを感じた。彼らは、私を初めは面白そうに殴ったり蹴ったりしたのだけど、だんだんに、得体の知れない憤怒のようなものを発散しはじめたのよ。けれど、彼らの本当の敵がどこにいるのか、私をどういうものの代理として見たのか、私にはとうとう最後までよく分からなかったの。
 私は痛みとショックに気が遠くなりながら、なぜか何度も、満開の薔薇の揺れて崩れる様子が、思い出された。ふっと息を抜くように崩れ落ちるあの瞬間の……。
 それはとてもらくらくと崩れて、羨ましかった。

 植物園への連れ出しには、三回に一回は成功し、女は少しずつ素直になっていった。大きな背もたれの木のベンチで一休みするという、昔ながらのコースを歩いた。
 芝生は温かく光を吸い、隣り合った動物園のほうから、動物たちの体臭や気配が伝わってくる。婚約者は車椅子を押しながら、自分が小学校二年生のときに病死した母親から、幼いころ聴かされた「象のおさんぼ」の話をする。女は子供のときから、どんなに寂しいときでも、悲しい気持ちのときでも、この話を思い出すと、寂しい人懐こい象を身近に感じて、象の鼻で優しく背中を撫でられる気がする、と言っていた。絵本を繰り返し読むように、この話はふたりの間では定番だった。
 このQ市では、第二次大戦の終わった八年くらいあとに動物園が出来たんだそうだ。植物園はもっとあとにできた。
 動物園が出来たばかりのころ、谷あいの赤土の坂道の町は木々が多く、静かだった。象が、民家のあいだの小道を、飼育係につれられて散歩をしていたそうだよ。象はゆったりと歩いているんだけど、飼育係のおじさんは小走りになってついていく。母はその話をするときにはかならず、小さな飼育係のおじさんと並んで歩く大きな象の、とても小さな眼の話をした。シワの中に埋もれた、静かな眼だった。ときどき瞬きをしては、見る者に、いま何を想っているのだろう、と思わせた。頭にふたつのこぶのある象は、脳が発達していて穏やかで人懐こく、感情の豊かな象だということだった。遠い温かい国から来た象には仲間はいなかった。
 ただ、飼育係のおじさんは一日中、象のことを一心に考えていて、毎日、丘の道に生い茂る葛の葉を、大汗をかきながら大量に刈って、「あいつはものすごく食べるんだ。刈っても、刈っても、まだ足りない」と呟いていた。
 食いしん坊の象は、時々、園舎から連れ出されて、赤土の湿った森の道から、谷あいの古い日本家屋が立ち並んだくねくねした道に下りていく決まったコースを、鼻をゆるく振り耳をうちわのように動かし、あの皺の多い太い足でゆっくり赤土を踏みしめながら、飼育係のおじさんに付き添われて歩いていた。おじさんが象の歩みに追いつけず遅れると、立ち止まって待った。おじさんが追いつくと、象は鼻でおじさんの背中を優しく撫でた。
 象にとって、遠いサバンナと同じなのは、足元の赤い土だけだった。
 午前中の子供たちが学校に行っている時間だから、ひっそりと静まり返った道で、すれ違う大人たちも穏やかな笑顔で見ていた。子供のころから体の弱かった母親は学校を休むことが多く、坂を上ってきて窓の下を通り過ぎていく象と飼育係を見ることが出来たのだ。
 母親が、遠くを見るような表情でこんな話を、繰り返し小さな息子に聞かせたときの微かな溜息まで、婚約者は話して聞かせる。

 少年たちの、響きだけは大人じみた声が、風呂場で耳に入った水のおかげで、ぶるぶると震えながら聞こえたわ。
「これで、親たちのメンツってやつ、モロに潰れるぜ」ひとりが笑った声だけが、水から浮かび上がったときみたいに開きとれた。空気の抜けたような物憂いあいづちがとざれて聞こえ、あとはまた聞こえなくなった。私は、一番近い場所に坐っている色白の、にきびも出来てない少年を見ていた。私を痛めつけるとき、そのすべすべした顔が歪んで、下唇を噛み、瞼が引きつれるの。隠れていた顔がふいに表に現れ出るのかしら。
 少年たちは、ふざけあったり取っ組み合いをして馬鹿みたいに笑ったりすることもあったけど、すぐに疲れた表情になり、決してゲームの画面でも夢でもない現実と生身の私から顔を背けては、時折り怯えた横目を走らせた。でも、天井の低いアパートは隠れ家に最適で、表に出せない悪いことを、うまい具合にこもった湿気で熟成させる、閉塞の場所だった。
 風雨の夜は、地面から伝わってくる冷気で、しんしんと冷えたわ。私は全身の痛みに、坤き続けた。あの色白の少年が、どこかから古い布団を持ってきて、私の体をくるんで帰った。
 無人の建物は春の嵐に鳴動して、暗闇のなかで電線のうなる音がきこえ、地の底に沈んでいくような冷たい寂しさや虚しい苦しさがひたひたと押し寄せてくるばかりで、いっそ嵐がこの建物を打ち壊し吹き飛ばしてくれないかと願ったわ。そうしたら誰かが私を見つけてくれるでしょう。
 見つけてもらったあとに、こうやってまた生きていくなんて、思いもしなかったけれど。

 婚約者は子供のときは母親譲りのひよわで、喘息で入院ばかりしていた。胸をかばうようにやや猫背なのはそのせいだ。車椅子の女の言うことに耳を寄せて聞くので、ますます猫背になって行く。
 薔薇の成長して咲く様子は、神の手を見せられるようだ、と婚約者は言い、ぼってりと厚い花弁を重ならせた薄桃色の薔薇を手のひらに掬いあげて、それを女に見せた。婚約者の手のひらの上で、薔薇の命は、力強く単純で、なにひとつ言葉を持たない。
 野いばらの白い一叢の、控えめな匂いが、車椅子の足元を撫でる。この種は、痩せた土地でも自然に生える。
 
女は配達された新聞がテーブルに置かれているのを見ると薄ら寒い感じがするという。「すべての事件のすべての報道に、無数の自分が暴かれているような気がするわ。自分の知らなかった自分を、これでもか、と見せられる気がして恐ろしい。何もかも忘れたふりをして、上っ面だけを生きようとしても、周りが私を見るたびにあの事件のことを思い出すだろうと思うと、顔を上げる気力さえ、萎えてしまうのよ」
 自意識過剰になりすぎている、とは思ったが、女の気持ちは婚約者にもよく理解できた。
 少年たちの審判が行われるたびに、テレビのニュース特集で思い出したように女の事件は反芻され、あの怖ろしい日々が、にぷい類型的な言葉で語られた。
 女は車椅子の手すりを固く掴んで震えながらも、テレビのスイッチを切らせなかった。画面をみている様子は、髪の毛まで逆立っているように見えた。
「あれは私にとっては、これ以上ないほど秘密にしたい個人的な日々だったのよ」と、女は言った。「A子さん、と報道では呼ばれているわ。でも、私がA子であることを、私の周りの人たちは、分かっているのよ。何もかも洗いざらい世間に知られてしまった。自尊心なんか、粉々に砕け散ったわ。私は、自分をどう立て直してよいのか分からない……」
 リーダー的立場だった少年の自宅が画面に映ったことがあった。事件直後の映像であったらしく、玄関から門までの小道にたくさんのプランターが置かれて、デージーや三色スミレが鮮やかに咲き乱れているのがみえた。女が「花は上手に育てているのね」と呟いた。
 婚約者には、花の世話どころではなくなった少年の母親の、雨戸を閉め切ったリビングに固まったようにすわっていたであろう影が見えるような気がした。

 ぼんやりと点っている裸電球を見上げて女が言う。私が監禁されているときには明かりなんかなかったけれど……。婚約者があまりのわびしさに大家に頼んで電気が使えるようにしたのだった。
 雨戸のしまった薄暗い部屋によどんでいた淫靡な空気を女は話す。最初に爪を剥がされたときのことだ。
 少年たちが歩くたびに床が沈み、重く軋んだ音がしたわ。あの子たちの体重と暑苦しい圧迫感がその音から伝わってきた。交代で私を弄んだの。好奇心でいろいろ思いついて。いじましいやりかたで。でも、興奮が醒めると現実が戻ってくる。あいつらはそれを怖れるように、もっと興奮させられる刺激をほしがったわ。屈折していく憂鬱には、より屈折した言動で、バランスをとらなければならなかったのね。
 リーダー格の子が芝居じみた声で「爪はまず左手の親指の爪からゆっくりといこう」と、ペンチを色白の子に渡して言ったのよ。もう一人のずんぐりした少年が、暴れないようにと、私の両足を粘着テープで固く縛った。怖ろしくて体中こわばってしまったけれど、けれど、爪をもぎ取られる音を開いて、指先に焼けつくような痛みがはしったらもう夢中にもがいた。
 ずんぐりした子が吐いたわ。色白の少年が急に怯えて、指に絡まりついたペンチを振り払うように放り出した。二枚目の爪を剥ぐ拷問はいったん中断されたの。
 それから、言葉の暴力が、一段と激しくなった。
 少年たちが、ポロ布のようにズタズタになっていく私を、糞袋と罵るたびに、私は自分が本当に糞袋になっていくのを感じたわ。
 少年たちは、私の心は無視して、体だけを眺めて、それが私のすべてだと思いたがっていた。だから私は少年たちを恨む前に、自分の、唾液や血を流し排泄をする生々しい肉体を呪わずにはいられなかったの。自分自身のなかでも、私は一塊の汚物でしかなかった。
 女は、バスタオルに体を包んだまま、シャワー用の椅子と車椅子とを器具で固定して、腕の力でゆっくりと乗り移る。
 固定を解除し、リモコン操作で車椅子をビニールのカーテンの向こうに動かして、ドアを閉める。女が一人で日常のことをするのに便利な装置を、父親はすべてつけてくれた。婚約者が入浴を手伝おうとしたが、女は胸のところでバスタオルのあわせ目を固く押さえ、「ひとりで大丈夫だから」と、突き放すように言った。
 あるとき婚約者は、キッチンの壁に取り付けであるガスのコントロール器具を見ていて、四十三度に設定した給湯が作動していないのに気づいた。浴室のドアに近づくと、シャワーの音がする。慌ててドアを開けると、女が浴びているのは、やはり水だった。唇まで青ざめて、激しく震えながら、冷水を体じゅうに浴びせて腕や胸を手のひらでこすっている。
 婚約者は蛇口をしめて怒鳴った。「何をやってるんだ」女は、歯をがちがちと震わせながら両腕で体を隠すようにして、身を縮めて叫んだ。「洗っても、洗っても、汚いものが、滲み出る」
 女の背中や腿のところに引き攣った傷跡が濡れて光っていた。婚約者は眼をそらせ、傍らのバスタオルで女を包みこんだ。
 女が落ち着くまでのしばらくのあいだ、婚約者はキッチンの壁から眼が離せなかった。
「僕が小学生のころ、教会の日曜学校に行ってたときのことなんだけど、牧師先生に 『神さまは自分の姿に似せて人間の体を創られた、と聖書に書いてある』と、教えられたことがすごく印象に残っている。それならば、どのように嘲られて扱われたとしても、神の似姿である人間の体が、卑しいものであるはずがないじゃないか」 婚約者がそう言うと、女は笑った。「それなら、神って、男なんだわ。アダムを最初に作ったんだもの。女は、男のあばら骨で創られたって、書いてもあるのよ。だから私もまた、彼らに所有物のように扱われたわ。あのとき、状況をかまわず私の体は、勝手に生理が始まってしまった。彼らはものめずらしい標本を見るように、執拗に見たわ。……いっそ神が人間を、己が似姿として薔薇に創られたらよかったのに」
 もうすでに何度も聞いている嫌な話、納得できない話は、聞かされる端からすべり落とすことにしていた。そうしないと、もたなかった。だが、女の言葉の最後だけを頭の隅が捉え、つい、想いが飛んだ。「あっ、そうか。もし神が象の姿をしていたら、僕たちは、象の姿になっていたんだね。いやまてよ、人間が象の姿をしておれば『我らの神は、偉大なる象である』と、認識したがる、ということじゃないか」
 女は憮然とした顔をみせたが「バカね」と呟いて笑った。

 車椅子を押して植物園を歩きながら、薔薇の謎は、と婚約者は言った。「なぜ咲くのか、なぜ散るのか、なぜ実がなるのか、薔薇自身にも分からないんだ。ただ、人が息をするように、咲いて散って実になる。やっぱり薔薇の謎が分からないまま、そうすればもっと美しく咲く、と知った人間の手で季節になると薔薇の木は短く剪定されて、傷口に液を滲ませる。そして、新しい枝が、太くすっくと長くのびて花が咲く、散る、実がなる、この命のエネルギーはどこからくるんだろう? 僕たちの心臓だって自分の意志ではなく、何ものかに動かされてる。髪も爪も知らないうちに生える。吸っている空気は、どこから来るんだ? そう思うと、やっぱり、人間も薔薇も同じように宇宙物質の一部として、何かのエネルギーの法則にしたがっているわけだよね。とても、シンプルな、大きな法則に」 婚約者は一生懸命にそう言って、逸らされている女の眼を捉えようとしだ。女は眼をぼんやりと遠くにやって、まったく別のことを考えている様子だ。
 動物園のほうから、象の鳴き声が聞こえた。昼下がりの植物園は、アジアの遠い国から飛来する黄砂混じりの陽の粉で、重ったるくのどかだった。陽の粉には、動物たちの欠伸や溜息まで混ざって、いっそう濃さが増したようにみえる。
 婚約者はしゃがみこんで、女の膝に置いた手に力をこめて言った。
「その宇宙のシンプルさを想うと、どんな辛いことも軽くならないか? 一杯の美味しいお茶をいれて飲むことにも、素直な喜びを感じないか?」
 女は、婚約者に微笑んでみせた。「私が落ち込んでいる穴はそんなにシンプルなものではないの。それに、そんな大きな神は、小さな私のことなんか忘れているでしょう」
 女は「でも、ありがとう、あなたが一生懸命に言ってくれる気持ちはとても嬉しいのよ」と、婚約者の手に自分の手を重ねた。
 女の視線をたどって見上げると、動物園の森の上に、アドバルーンが見えた。真ん丸い象のアドバルーンだった。女はしばらく空を見上げていたが「あなたは、象のことを一心に思うけれども、象をサバンナに返してあげることは出来ない飼育係のようなものね」と呟いた。婚約者はめげずに、自分の言いたいことを、熱心にひと押しした。
「僕たちは誰も、自分の心だって支配できない。体も心も勝手に動いてしまう。どこの何者からこの体を与えられたのかと考えると、それが〈神〉なのだろうけれど、多分、〈神〉自身は決まった姿なんか持たないに違いないよ。僕たちだってめぐる生命をたまたまこの個体として与えられただけの、本来は無形の魂のはずで、前進し変化し続ける宇宙のエネルギーのなかの、細かい一欠けらなんじゃないかなあ。宇宙空間には、地球上の生命体を構成する物質、つまり生命の素なんだけど、それらがすべて、あまねく、浮遊し、存在しているそうだよ。だから、僕らの姿かたちは、仮の容れものに違いない。僕たちは、星であって、人間であって、薔薇でもあって、象でもあるんだ」
 婚約者は別に演説をしているつもりではなかった。女を「完全に自分の支配下にあるわけでもない自分の肉体や心を、自分の持ち物と思い込んで、特別視し罪悪視してまで、悪く思いつめないようにしてほしい」と、懸命に説得しているつもりだった。
 女はしばらく黙っていたが、やがて疲れた声で言った。「ねえ、私があの事件のことを話すことは、そんなにいけないことなの? あんな目に遣わされて、しかも、自分の責任じゃないんだからそんなに苦しむな、と言われてしまったら、私はいったいどうしたらいいの? 私が、どんなに興味本位に扱われていたのか、あなたには、とても全部は言えないのよ……。自分の生きる意味なんて、みんな消えてしまうような。あれらを思い出すたびに、私は新たに傷ついてしまう。気持ちの預けどころが、どこにもない。共感してほしくって、いくら言葉を尽くしても、私の言葉はあなたには通じないし。ほんとうに言葉って難しいものね……」
 最後は独り言のように語尾が消えた。
 女は、かたわらの薔薇を撫で、花の重みを手のひらで受けながら、呟いた。「あのアパートで、私が汚物の塊になって転がっていたあのときだって、この植物園では、こんなに美しい薔薇たちが静かに花を開かせていたのね」
 婚約者は、女から「私の言葉が通じない」と言われたことで、しばらく憮然としていたが、もどかしい気持ちになりながら言った。
「少年たちの行為はもちろん最低だが、あなたが、自分の精神まで弄ばれ否定されたように思い込んで苦しんでいるのは、絶対に間違ってるよ」
 女は微かに笑った。「そう? あなたは、ずいぶんはっきりと、他人の苦しみそのものを、間違いだと断定するのね。怖いものは、どうしようもなく怖いものだし、悲しいものは、他人が何と言っても、やっぱり悲しいのよ」
 僕の言いたいことを、どういうふうに言えば分かってもらえるのだろうか、どんな偶然だって渦のような神の巡りの必然の一部ではないのか、もっと大きな視点で淡々と物事を眺めてはどうなのか、などと言えばきっと「あの事件をあなたは必然だと言うの?」と、見当はずれに言葉の一つだけを捉えて怒るだろうし、と悩みながら、何とか女の一途な思いを和らげてやりたくて「あのね、性もまた、万物の一部なんだ」と、言いかける。「そんな観念的な理屈はもうたくさん」と、ぴしゃりと断ち切られてしまう。
 事件の前までは、何かにつけてふたりのあいだで、ああでもない、こうでもない、と会話が軽やかに飛び交っていた。あのころは、ひとりが半分も言わないうちに、片方があとを引き取って喋ったものだ。それくらい二人は感じること、考える方向が似ていた。それが、あの事件以来、地震の断層のようにふたりの心の風景がすっかり喰い違って繋がらない。女は、まるであの一カ月に自分のすべてが圧縮されたとでもいうように、ものを言う。
 婚約者は、自分が分身のように少年たちを憎しみをこめて罵倒すれば女は慰められるのだろうか、と鼻白む思いだった。負の暗い感情を言葉で共有すれば、女は安心するのだろうか。多分、そうだろう。美しい薔薇の話をするよりは、少年たちを貶める思いつく限りの悪罵を吐き散らしてみせることのほうが、特効薬なのかもしれない。
 だが婚約者は、歯止めがなくなった女を、これ以上見たくはなかった。女は、あまりにも真っ直ぐすぎて、その強い感情や突きつけてくるものの重さは、とても自分の度量では支えきれない、と思う。自分のような意気地のない人間が引きずりこまれてしまったら、きっと女よりも深いところまで、ずるずる落ちてしまい、這いあがっては来られない気がする。それに、あの愛らしかった女のどこにそういうものが隠れていたのかと思わせるほどの憎しみの暗さ、自分を貶める感情の強さに触れると、痛々しさよりも、くどさ、しつこさにまず辟易して、百年の恋も醒めはてるような予感もする。女を、そのようにして、否定したくはなかった。
「あなたに罪はないのだから、浄化される必要なんかないんだよ。過去の記憶を掘り起こして、改めて不幸になる必要もないんだ。もう何も考えず忘れるべきだよ」と、相変わらず無難で正当な言葉を、女と自分自身の両方に、繰り返し言い聞かせるしかなかったのだ。
 女はそう言われるたびに、鼻白んだ顔になり、言葉をぐっと呑み込む様子を見せ、ますます暗い顔になった。

 女が眠るまでのひととき、植物園の美しさを婚約者は語り続ける。林の中を流れる澄んだ小川の音。陽だまりで群れて進んだり止まったりしているメダカ、水面をすべるアメンボ、水を斜めに切るミズスマシ。亀の日向ぼっこ。薔薇の花びらの瑞々しい粒子の輝き。息苦しいほどのエネルギーを放つ新緑。木漏れ日の淡い揺れ。影。植物園に満ちているそれらの異種の変化に富んだ生命力を女に注ぎ込み、その悲哀を洗い清めたかった。
「植物園は、肴望の場所なんだ。向かい合う自分を決して裏切らないものと信じて薔薇を育てている人がいて、そのことに僕はとても安心する」と婚約者は微笑んだ。「薔薇は素直で、自分のプライドのことなんか考えもせず、薔薇職人に手をかけられる分、ストレートに応えるすべを持っているんだよ」
 そう言われると、女はさすがに、ぐいと意地っ張りな顔になって返した。「薔薇にもきっとプライドはあるわ。プライドって、人間の根本的な生きる力で、薔薇を咲かせる力でもあるんじゃないかしら。植物だって、人間が悪口雑言ばかりを浴びせながら育てると、枯れてしまうというでしょう。それに、あんなに美しい薔薇も、暗い土の中では根がもつれ合っているのよ。あなたがそれから眼を背けて、光が当たった美しい部分だけをほめるのはおかしいわ」
 婚約者は黙る他はなく、女の手をゆっくりと撫でながら、胸のうちで呟く。切り取られる薔薇の木の悲鳴は、波動計を激しく波打たせるほどかもしれない。だが、立ちのぼる清新な樹液の匂い、薔薇の花びらがちぎれて踏み潰されたときの香り、根を掘り出したときの土の匂いと切れた根から港み出す透明な水、それらはすべて、確かに生きていたしるしとなって永遠に繋がるのだ。

 植物園の高台には、ガラス張りのドーム屋根の温室と並んで、楠の木に囲まれた窓の大きな喫茶店がある。
 事件の前には、婚約者と女はいつも、お気に入りの窓際の席で紅茶を飲んだ。
 広い窓からは、楠の太い枝の間に坂の下の谷あいの道が見えるのだった。婚約者の母親が、幼いころにこの谷を動物園の象が散歩させられていたと話したあの道だ。母親の実家はもう人手に渡っていたが、道はあのころのままの、舗装されていない赤土の柔らかな道だった。そういう道はめったに見なくなったので、女が喜んで、気持ち良さそうに眺めていたものだった。
 事件後、ようやく、ふたたびこの店に来ることができた。
 二人の姿をみたときに中年の女店主は、ぱっと顔を輝かせたが、何も言わず、以前の習慣のとおり、婚約者にはレモンティーを、女にはミルクティーを運んできた。
 店内には開きなれた「この世のすべての魂」が流れている。女店主が好きな曲で、いつもはごく低くピアノ曲が流れている店内に、思い出したようにふっと流される歌曲だった。幅と潤いのあるソプラノの、切なく優しい祈りの歌が、二人の女の声で絡み合うように流れる。何もかも、以前のままだ。
 女はミルクティーを口元まで持ってきたが、静かにテーブルに戻した。「何だか自分がここには実際にいないような気がするわ」
 しばらくのあいだ女は谷あいの道を眺めていた。象が散歩したあの柔らかい赤土の道が、いつの間にか舗装されていた。
 喫茶店を出ると、薔薇園の螺旋になっていく道に再び戻って、車椅子を押して巡った。
「この丘の赤土の上に、黒い肥えた土が敷かれて、植物園になったのね。地面の奥深くまで薔薇の根が届いたのかしら。だから、あんな色に咲いているわ」と、女が指差すほうを見ると、赤土色の薔薇がそこにもここにもあるのだ。
「ほら、象の耳の形の花びらよ。あっちにもこっちにも散っているわ」谷の小道を散歩をしていたアジア象の耳は、少し小さめだった、と婚約者の母親は言っていたのだ。
 空を見上げると、飛行機雲が西に向かって、細い針金のような光る直線を延ばしていく。その下に、象のアドバルーンがこれ以上膨らめないほど膨らんで、明るい陽射しをうけて浮かんでいる。
 動物園の森から、こもったような象の鳴き声が聞こえた。あの象はもちろん新しい象で、婚約者の母親が見たという、谷の道を歩いていた古い象ではない。古い象は、いついなくなったのだろうか。故郷に帰れないまま、どこかに葬られたのだろうが、象の墓など見たことはない。

 最初に起こった地震とは別の断層が少し動いたらしく、一年後に同規模の地震が起き、頻繁な余震が続いた。家の軋む音、食器が落ちて砕け散る甲高い音が、体の芯にしばらく棲み付いた。半年で、余震は四百回を越えた。足元で地面がずれる音が不意をついて起きるので、いつも身構えて暮らさねばならなかった。揺れが間違になったので、ほっと肩から力を抜いたところに、また大きな余震が来る。「この地方の大地震は二千年から四千年くらいの周期であるが、どうやら、断層のひずみの蓄積が最近の地震の影響で増えたらしく、地下は活動期に入ったと思われる」と新開が報じた。神社に残っている古地図で見ると、Q市のかなりの部分が、海だったらしい。三千年くらい前には、いったいどんな地形だったのだろう。この地に人間は住んでいたのだろうか。
 震源が海から陸地に上ってきた、とテレビや新聞で知らせるので、ますます、不安が増幅された。頻繁な余震は、人々の動揺をあおった。こういうときには流言飛語が飛ぶ、という言い伝えは本当だった。夕暮れの太陽の周りに丸い虹が掛かると、その不吉な予兆に次の大地震の日時がまことしやかに占われ、一日、二日のうちに、携帯電話やインターネットや口伝えで、急速に人々のあいだに伝わり広がっていった。怖れて避難をした人もいた。新聞やテレビは、太陽の虹は地震の兆候ではない、心配しないで、と呼びかけた。予言の日には、大地はひっそりと静まっていたが、別の日に、しのび笑いをこらえかねたように少しだけ揺れた。
 女の父親の会社も地震の余波を受け、いそがしくなった。人手が足りなくなり、婚約者は、家にいてもパソコンや設計台に向かうようになった。女の様子が落ち着いている日には、打ち合わせで出かけていくこともあった。
 婚約者が留守のあいだ、女はおおかたは車椅子を縁側にむけて、ぼんやりと、雑草の生い茂るに任せた庭を眺めている様子だった。
 女と、落ち着いた会話を交わす日もあった。
「あの子たちの口にする言葉は、話すそばから蒸発していくみたいだったわ。お互いの存在を確認するだけ。猫の集会みたいな。言葉の力を、怖がってるように見えた。うっかり言葉を突き詰めたりすると、一人だけ浮いて誰にも返事してもらえないのかもしれない。心に届く言葉の力で育てられていないのかしら。背を向けあって、独り言を言いながらゲームしているか、小さな携帯を覗き込んで熱心にメールを打ってる。私を痛めつけるときだけ団結する。それも、単語に近い短い言葉と合図だけ。私のことも、人形みたいに思っている感じだった」
「彼らは、初めはいたずら半分にあなたを捕らえたんじゃないのかな。だが興奮のあまり現実を踏み外し、どんどん絵空事のなかに引き込まれて、取り返しのつかないところに転がっていってしまったんだ」
 女は考え込むように言った。「あのとき確かに、私もあの子たちに引きずられて一緒に現実からはみ出していった気がするのよ。加害者と被害者と呼ばれるけれど、たぶん似たような不安と怯えを抱えて絡み合ってしまって一緒に穴の中に落ちていったんだわ。あの子たちは矯正施設に入れられた。私は、というと、解放されたとか救出されたとか、みんなが言ったけど、少しもそういう気がしない。私も矯正施設に入ったほうがよかったのかしら……」
 そう言って、女は腕の火傷の傷跡を撫でた。体のあちこちに残る傷は、恐怖や憎しみを呼び起こす切っ掛けになってしまう。「あなたはあれから私に触れもしないのね」女が、思い切って言葉にした、というように言った。婚約者は口に出かかる言葉をぐっと呑み込んで、骨の形の浮き出した女の肩を、手のひらで包み込むようにして抱き寄せた。女は、やはり激しく身震いをして振り払った。女の、首や腕の薄い皮膚に、鳥肌が立っている。ほらね、と婚約者が呟いた。こうなるだろうと分かっていたんだよ。深い溜息が出た。すると、事件のあと決して人前で泣かなかった女が、取り乱して泣いたので、婚約者には、女に触れることへの躊躇いと遠慮がますます強く残ってしまった。

「人を汚す毒は、猜疑心と妄想が一番だ」と言うと、女はその言葉を聴いて、婚約者こそ猜疑心と妄想に苦しめられているのではないか、と推し量ったらしかった。
「だからこそ、私はすべてを語らないといけないのよ。苦しくてもあなたは聴かなければいけないわ。そうしないと、終らない。けれど、話しても、話しても、どうしても言葉にならない部分があるのよ。人の意識って、何層にもなってるらしくて、そのいちばん底の方に、いちばん肝心なものがあるみたい。それを一心に拾い上げようとするんだけど。幾層もの重なりをひとつひとつめくらないといけないのだけど、めくる端からふさがってしまって、ああ、なんて、言葉で分かってもらうことって、難しいんだろう」女はもどかしそうに車椅子の手すりを叩いた。
「いやもう、いいから」と、思わず婚約者はさえぎった。「あんな嫌な事件のことは、忘れたほうがいいんだ。ふつう人間は、ひどい経験をすると記憶の痛みに耐えられないから沈黙するものなのに、あなたはなぜ、いつまでもそんなにしつこく、苦しみながらでも話そうとするんだろうか。もうそろそろ区切りをつけたらどうだろうか」 聴かせられることにほとほと疲れ果てていた婚約者の口から、言ってはならない、と思っていた言葉が、飛び出してしまったのだった。案の定、女は蒼白になった。
「区切り、って何? 誰の区切りのこと? 私がとことん考えたり苦しんだり究明することを、止めろ、という権利は誰にもないわ。私があの事件のことを語るのは、そんなに忌むべきことなのかしら?」
 婚約者は黙り込んだ。
「あなたは」と女は、情感をおさえかねたように、言った。
「いつも、はぐらかすわ。黙り込むか、対極の美しい話などをする。私の汚くて嫌な話のお清めでもするようにね」
 
 ほら、スウィート・ジュリエットだよ、と婚約者は、明るい色の薔薇をみつけて指差した。二メートルくらいの高さの蔓薔薇は、黄色がかったオレンジ色のボンボン咲きに重なって咲いていて、甘いティーローズの香りがする。
 事件に遭う前には、「あなたに似ている花だね」と言うと、女は嬉しそうな顔をした。「西洋では『薔薇の花』といえば女性の美しさを表すんだよ」と言ったあの頃の自分の何のためらいもなかった明るい声を思い出す。
「僕はこの花の名前だけは間違えないんだ」と、変わらない自分の気持ちを表して言う。
 女は大きく息を吸って、花を見上げるのだが、顔はこわばり、あのときのような笑顔は出ない。事件のあとでは、愛らしく素朴なスウィート・ジュリエットはもう、尖って痩せた女には似ていない。実際の年齢よりもずっと若く見えていた女だったが、いまは逆に老け込み、色彩に溢れた薔薇園にさまよいこんだ亡霊のように見える。あんなになめらかで色白だった女の肌には、薄くえぐれた赤い筋や、ケロイドになった傷跡がある。今の女に似た薔薇は、見つけ出せない。
 婚約者は車椅子を押しながら独り言のように言う。「すまない、と思ってるんだよ……。僕は、残念ながら不十分な言葉しか手立てがないんだ。子供の頃から僕は変わってなくて単純で子供っぽいもの。奇跡のような言葉はないものかなあ。二言であなたと深く共感できる言葉。あなたを大きく癒す力を持ち、あなたが世間に自然に馴染んで生きられるような」
 だが、もしも、あなたの苦しみをすべて自分の苦しみに置き換えたら、僕は正気でいられなくなるだろう、とは言えなかった。
 女は、黙って車椅子に揺られている。

 婚約者がデパートの地下で買ってきた惣菜のサラダに、セロリが入っているのを見て、女が「ああ、セロリね」と呟き、唐突にアパートでの出来事を話し始めた。こうなると食事どころではない。仕事で疲れていた婚約者は、小さな吐息を洩らして皿を脇に押しやり、テーブルの上で手指を組み合わせて聴く姿勢になった。
「部屋には彼らが食べ散らしたあとのゴミが散乱していたの。私の傷が化膿して、いやな臭いを放つようになったものだから、触るのも嫌がられて、体も洗ってもらえなくなって、私も生ゴミのひとつに過ぎなくなっていたわ。そういうとき、私の背中をむけたあたりから漂ってくるセロリの香りを、ふっと喚いだのよ。音がしゃくしゃく爽やかだった。おまえよくこんなところでそんなもの食えるなあ、おれその匂い、薬くさくて苦手、と別の子が呆れた声を出した。セロリを噛む声が答えたの。好きなんだもん、って。ああ、私も、と胸が締め付けられるように思い出したわ。セロリの匂いが、なんて清潔に思えたことか。遠い世界の匂いだったわ。母親が生きていたころ、風邪を引くたびにいつも頼んで買って来て貰った。薄く塩を振って齧るのよ。窓から見える夕暮れと小皿にすこし入れた塩が目に浮かんで、懐かしくて、でも悲しくて、泣くと殴られるから、声を出さずに泣いたわ。彼らは、どんな顔して家に戻ったのかしら」女は話しながら、サラダからセロリだけをゆっくりとより分けて、ティッシュに包んでゴミ箱に捨てた。
「夜になると、誰もいなくなる。あの静けさには、砂の流れるような音があったわ。時間の流れが違った。あの少年たちにとっても、アパートのなかは異空間だったことでしょう。何もかも、二重になったわ。これは現実なのか夢なのかって、夜になるといつも思っていた。あのころ、あなたは何をしていたの? 植物園で薔薇でも眺めていた?」
 婚約者は、何も言わず、ぐっと握り締めたので白くなった自分の手指を見つめていた。
 女が憑かれたように婚約者を責め立てることもあった。植物園で薔薇を見ている最中に、発作のように女の言葉がぶつかってきた。「なぜあなたは、いつも黙って話を聴くだけなの? なぜ、ああいう目に遭った私を責めないの。なぜ私を拒否しないの? 私は醜いわ。あの子たちは、いつもそう言ったわ。汚い、醜い、臭い、吐き気がする、って」
「魂の核は、きっと汚れたりしない。泥道に転がったボールのようにその外側だけが汚れてしまうだけなんだよ」婚約者はすぐに自分の言葉に赤面し、あせって付け加えた。「薔薇をじっと眺めていると、生きることを素裸に肯定させられてしまうよね。たとえばここに咲いているこの薔薇は、他の薔薇ではなくここに存在するこの薔薇でなければならない。この世では交換の効かない唯一の薔薇なんだ。そしてあっというまに、枯れてしまう薔薇でもある。心無い人間にむしり取られて踏みにじられることだってあるだろうしね。でも、この宇宙の、果てのない真空空間のなかに地球が浮かんでいて、露を置いた薔薇が、今ここで確かにみずみずしく生きている、ということは凄い事実で、だからこそ、この薔薇は永遠の一部なんだよ。人間だって、その魂や人生は永遠の一部なんだ。薔薇と、繋がってる。象とも、繋がってる」
「そんな遠い星の王子様みたいな話や、上っ面の理屈や観念は、いっときの慰めにはなっても、生身の私には、どうしようもない。夢想でごまかされているとしか思えない。ねえ、あなたのこと誰もが、良い人、ってほめるわね。いつも明るくて親切。でも、あなたという人は、誰に対しても、ある一線を引いている。たぶん自分では意識していないでしょうけど、自分が他人に踏み込むことも、他人に踏み込まれることも許さない一線よ。私のように、血を流し、自分のはらわたをさらけ出してまで、話すことはしない。そういうみっともないことには耐えられない。リスクを背負おうとしない。いつも素朴で純真な子供。だから、あなたはきっと、良い人でいられるのね。私には、今度の事件いらい、それが分かってきた。ねえ、明るさや安定や心地よいことだけが、そんなに大事なこと? そんなあなたに、はらわたをさらけ出してまで話す私は、さぞ醜く見えるでしょうね」
 婚約者はむっと黙り込むしかなかった。

 余震は、まだときどき来た。そういうときは誰もが、仕事中でも街を歩いていても、本を読んでいても食事をしていても、動きをやめて、不思議なことに、揺れる地面ではなく上を見上げている。
 あの地震で、この地球は生命体だった、とつくづく実感したよね、凄いよね、と婚約者は懲りもせず、またもや女に向かって自分の想いを抑えきれずに話し始める。「地殻の内側には、地球の八十パーセントくらいの体積のマントルという、人間は誰も見たことがない謎に満ちた硬い物質が、ゆっくりと流動しているそうだ。その下では高温の金属物質が、どろどろに溶けてうねっているらしい。プレートは、マントルに浮かんでいるようなもので、長い長い時をかけて動いていき、やがて大陸にぶつかり、その下にもぐりこんで、そのとき大地震がおこる、という仮説が定説になっているよね。とにかく地球のことは、『らしい』『だそうだ』という推測や仮説だらけなんだ。そうに違いない……と分かってきても、誰もこれからくる地震や噴火の日時を予測できないんだよね。このQ市の断層が活動期に入った、という大地震の予測だって、前の地震が二千年から四千年前だなんて、あまりにも流れた時が茫々とし過ぎてて、何だか他人の夢の話のような気がするよ。縄文時代から現代に飛ぶんだもの。凄すぎるよねえ。でも、そうやって、いつか自分たちの足もとが割れてしまうかもしれないというのに、どんなに賢い地震学者にだって地震が明日おきるかどうかの予知もできない、っていうのはさ、何だか、神の高笑いを聴くような気がするね」
「あなたはそうやって面白そうな顔で、非日常のことのお喋りばかりして」女はぞっとした顔をするが、婚約者は逆に、こんな話には、胸がときめくのだった。
「いや、これこそ、実にリアルな日常なんだよ。今現在、僕たちが立っているこの地面の下の話じゃないか。その光景を思い浮かべてみると、人間なんて、なんと小さくて不明で、はかない存在なんだろう、って思わない? あの美しい月だって、地球に惑星がぶつかって、その時もぎ取られた地殻やマントルと、惑星の一部と混ぜ合わさって出来た星だってさ」婚約者はそう言うと、声を改めて言った。「だからさ、宇宙のダイナミックな力の果てしなさに比べると、あの少年たちのやったことなんて、芥子粒ほどのインパクトもないだろう? 僕やあなたの、この体の存在だって、たいしたことないなあ、って思えてくるだろう?」
 婚約者は、話しているうちにわくわくして、世界が広がっていくような気がするのだった。
 女は冷たい顔で答えた。「そうかしら。少年たちのやったあの一ヵ月の間のことは、彼らの魂の底まで染み通って消えない永遠の罪悪じゃないかしら。私にとっても、自分のすべてが塗り替えられてしまうほどの出来事だった。それを、宇宙の広さや神秘と比べるのは、どこか筋違いだと思う。私は空に漂っている形のない雲なんかではなくて、心を持った生身の人間なのよ。それに、今は、自分が行くこともない宇宙のことや地殻の下のことを思い描いて感心するよりも前に、下敷きにならないように家具を固定するとか、どこへ避難するかとか、非常食は大丈夫とかの身近なことをまず孝えるのが、現実でしょ。自分が建物に押し潰されながらでも、あなたは地球のロマンが面白がれるの?」
 だが婚約者は、天変地異の、人間のどんな強烈な悲しみも苦痛も喜びも呑みこんで混ぜ合わせてあっというまに吹き飛ばしてしまう、その力のことを、どうしても考えてしまうのだ。「余震のたびに、みな同じように怖がって動揺しているからね。心身ともに消耗する、と誰もがとても素直にこぼすのが面白いよ」
「大地が揺れたのだもの。差別なくこの街のすべての人が同時に揺さぶられた。だから、素直になって、思いをみんな表面に出して心を繋げるのよ。でも私の事件は、私だけが隠された場所で受けた被害だった。私独りの問題だから共同体にはなれず、誰もが無言で遠ざかるしかないのよ」女はすぐに、自分だけの小さな世界に戻ってしまう。「私は、あの子たちから、死んだら解体して小さく砕いて河に捨てる、と脅されただけで、心をバラバラにされてしまって、その切れ目から、生きる力がぜんぶ流れ落ちていった感じで、元になんか戻れそうもない」と、低い声で呟いている。
「偶然あの路地を通りかかったのが他の女性だったら、その人の事件になっていたはずだ。あなた個人の価値には、事件は何の関係もないんだよ」婚約者は何度も繰り返してきた言葉を、また繰り返す他はない。「あなたのあの事件の日々と、再び家に戻って始めた生活の日々の間には、繋がりなんかないんだ。地震のような、アクシデントだった。次第に余震が収まっていくように、あの日は遠ざかっていくはずだ」
 薄く笑ってそっぽを向いてしまった女の表情に、婚約者も苦笑し、元気が出る話をしようね、と気を取り直して言った。
「西洋のどこかの国の山あいの丘の上にね、村の住民たちが小さな教会を造ったそうだよ」と話し出す。
 村の人たちは、谷を見下ろす広い庭の二箇所に、アーチ型の門をふたつ、つけたんだそうだ。(天国の門)と(地獄の門)と呼ばれる。お互いに丘の上に、それぞれ唐突な感じに離れて建てられた門だったけれど、実は植え込みに隠された円形の小道で繋がっている。〈天国の門〉に刻まれているのは、花が咲き乱れ、天使が飛び、光の筋が射すなか、見分けのつかないくらい、同じ表情を浮かべた善人たちが、いっせいに天に手をさし伸ばして神を称えているレリーフだ。いっぽう、〈地獄の門〉というのには、たくさんの煩悩にみちた人間の、哀れで滑稽な有様の彫刻が、村の人々のアイディアを採用して刻まれている。僕は写真で見たんだけど、すごく現実的なレリーフで、説明がなくても良く分かった。
 卑しい顔で金勘定をしている守銭奴とか、酒ビンを抱いて道端に寝転がってわめいている酔っ払い、老親を山奥に置き去りにして耳を塞いで走って逃げる息子、目の色を変えて殴り合いをしている男たち、どうやら反目し合っているらしい美女を三人も一緒に抱いている男、うっとりと抱き合っている妻と男の傍らのカーテンの陰で、ぎらぎらと刃物を構えている夫、強盗に髪を掴まれている妻を置き捨てて自分だけ逃げる夫、麻薬のもたらす幻覚を見て空中に浮いている男、大きなロから、薔薇や宝石、蠍や毒蛇、棍棒や斧や針、先の曲がったナイフなどを吐き出して、周りの人間を傷つけている腰つきのなよやかな女。泣きすがる花嫁たちを蹴り飛ばし振り払いながら、札束をふところから覗かせて口笛を吹いて去っていく小男は、結婚詐欺師だろうか。
 そして、レリーフの下には、首からたくさんの十字架をぶら下げ、片手に「神の代理人」と書いた立て札を高く掲げた男が刻まれている。痩せて鼻の尖ったその男の、骨ばった片手には教本のムチが握られていて、頭上の罪びとたちのそれぞれの背中に、そのムチの先が伸びて星型の火花が散るほど打っている。「神の代理人」と自称する彼もまた地獄にいるわけで、傲慢、狂信という罪を犯している罪人なのだよ。
 現代のような異様な犯罪がまだ少ない時代につくられたレリーフだから、平凡だともいえるかもしれないが、人間のもつ、さまざまな食欲さや愚かさ、無情と悲しみ、不条理や皮肉などが刻まれている。
 見た人が思わずくぐりたくなるのは、〈地獄の門〉のほうだそうだ。平和で何事もおこらず行儀よく並んで、表情さえも統一されてひたすら神の栄光を称える神話としての天国のレリーフよりも、身も心も翻弄される模様のこの世の地獄のレリーフのほうが、人間にはうんと、身近に実感されて、心惹かれるものなんだね。地獄はこの現世にこそあるんだ、と言わんばかりのレリーフだもの。
 婚約者はそう話したあと、「人間が罪深く愚かでなかったら、キリストがすべての人間の贖罪のために十字架に礫にされた意味が消える」と、真面目に言った。
 婚約者の、いつものことながらこじつけめいた慰めに、女は少し明るくなって笑った。
「〈地獄の門〉を、いつか一緒に見に行こうよ」と、婚約者は女の髪を撫でた。「そうね、一緒に〈地獄の門〉をくぐって、それからお清めのために〈天国の門〉もね」と答えたあと女は、「くぐった向こう側は、地獄と、天国、それぞれどんな風景なのかしらね」と首を傾げた。
「両方とも、円形に繋がってるんだ、同じ風景に出会うんじゃないの?」と、婚約者はあっさりと言った。
「あの世の天国や地獄って、たぶん、同じ場所に光と影が重なっている世界で、浄化された歓喜と悲哀のままの魂がおたがいに音楽のように組み合わさって浮かんでいる場所なんじゃないのかなあ。同じ人間、そんなに悪人と善人にきれいに分かれるはずがないもの」 そうかしら、と女は小さな吐息をついて言った。「私、もう、くたびれてしまった。せめてあの世は、天国も地獄もない、何もない、ただ風が流れるだけの静かな場所であってほしいわ」

 少年たちは次第に物憂いあくびを洩らすようになって、邪魔な大きな生ゴミでも見るように私を見たわ。こいつ、しぶといなあ、という舌打ちまで聞こえた。いつまで続くんだろう、って。
 少年たちが乱暴に切り散らかした私の髪が、部屋のあちこちに散乱したまま、埃をかぶってて、私の両手の指にはすでに爪がなかった。私は這うことも出来なくなっていた。手も足もどす黒く腫れて、変色して、傷口は化膿して、自分ではもう分からなくなっていたけど、全身どこもひどい臭いがするらしかったわ。おかげで少年たちは、私に対して性の対象だという意識も持てなくなっていたから、それだけは助かったけれど。食べ物も喉を通らなくなり、食べても吐いたわ。彼らも、もうどうでもよくなったみたいで、テープも、口を塞ぐだけになった。時々牛乳だけを飲ませた。でも、私はそれも吐いた。吐くたびに殴られた。私が、吐瀉物や血や膿や排泄物にまみれていて汚物の塊になってしまったから、彼らは直接触れないように、コンビニのポリ袋に拳を包んで殴るの。私は、泣きながら、汚くてごめんなさい、許してください、って何度も何度も謝ったわ。水だけが無性に欲しかった。

 植物園の土を、静かな雨がひっそりと湿らせていく。人の姿のない植物園はとても広い。植物園は雨に恵まれて、より再生する。腐葉土や堆肥を入れられて、薔薇の寝床はふかふかと柔らかく耕されなければならない。
「今日はいつもの飛行機は、雨雲の中ね」と女がレインコートの帽子をずらして西の空を見上げながら、呟いた。
 女は、雨の日にも雲に埋まって、空を巡っている飛行機のことをしばらく思う様子だったが、すぐにまた自分の小さな世界に戻ってしまう。「空は私には、とても怖く底無しに思える。あの事件以来、私は、周りの人々のなかで独りだけ宙に浮いて、裸に剥かれて上下左右の風に吹かれているような気がする。幽霊にでもなったような気がするの。話し掛けられて答える声も自分の声のような気がしないのだもの」
 あ、また、余震だわ、と女が呟いたが、婚約者には感じられなかった。カラスが、動物園の森の上で、雨空に声を放り出すように短く鳴いたが、あとは静かな雨音しかしない。一呼吸おいて、傍らのいくつかの満開の白い薔薇が、崩れて散った。

 女は「あそこで」と浴室を指差して、婚約者の顔を見上げて笑った。あそこで私は解体される筈だったのよ。
「そろそろ、終わりだな」リーダー格の少年の大人びた声がそう言ったの。「死んだら、山に埋めようぜ」声が明るかった。
 ゴミだらけの汚い畳の上に転がって、自分の死体の始末を聴かされるって、奇妙なものよ。
 ……どうやってさ、だれも、車、運転できないだろ……。ここの風呂場でばらして、できる限り小さく砕いて、形が分からないようにして、黒いポリ袋にすこしずつ入れて、みんなで分けてもっていくんだよ。……いや、俺が考えているのは、山じゃなくて、西のほうの河口。人家もなく、街灯もうす暗く、深夜はしんとしてる。ポリ袋から出して捨てるんだ……。深くて、大きな河なんだ。すぐに海に流れ出て魚の餌になるだろう。それで完壁さ。もうすぐだよ……。
 少年たちが立ち去ったあとは、アパートは気温を下げて水底のように沈みこんで、風呂場のほうから微かに水が滴り落ちる音が聞こえるだけ。その音が、畳に斜めに転がった目覚まし時計の、鉄で硬いものを切り落としていくように進む秒針の音と、重なったり離れたりしたわ。
 もう、あと少ししか生きられない。そう思うと、しきりに植物園の明るさ、美しさが思い出されるのよ。日差しが強い日にはアドバルーンの紐は見えなかったなあ、みたいな、なんでもないことばかりを思い出すの。死ぬこと自体は、もう怖くなかった。
 翌日の日曜日にも私は生きていた。朝、やってきた少年たちは、当てが外れて陰気臭く黙りこくっていた。
 コンビニに行くといって、仲良しのふたりが出て行った。残された色白の少年は寝転がってコミックを読んでいたけど、ふっと起き上がって、何を思ったのか、私の顔を覗き込むのよ。耳たぶに息が当たった。やはり他の少年がいないときに、ひそかに私のスカートをめくったのは、この少年だった。そのときの、彼の細い冷たい指を思い出したわ。私は目に力をこめて、少年を見返そうとした。でもすぐに疲れて、瞼は自然に閉じてしまう。
「おい、そいつ、息、してないんじゃないか」
 リーダー格の少年の太い声が、とつぜん聞こえたの。眼をいそいで見開いたわ。まだ生きているわ、って、眼を動かして、粘着テープの下で声をあげたの。生きているうちに体を切断するほどの度胸は、少年たちにはないでしょうけど、私はやっぱり、恐怖で鳥肌が立った。
 でもまたすぐにぐったりと眼を閉じてしまったの。
 それから少したって、ずりずりと地面の響きが寄せてきて、突然、すべてが揺れ始めたのよ。
 私のうつろな気持ちまで揺さぶるように、大地が浮き上がったの。何もかもが不気味な音を立てて右に左に揺れている。雨戸の中の木枠の格子戸から、ガラスが何枚か、けたたましい音を立てて落ちた。まわりの砂壁がひび割れて、次々とかけらが落ち始めた。こんなに物音がしてるのに、なんだか妙に静かだったわ。ああいっそ建物が崩れてくれたらいいのに、と思った。あいつらに切り刻まれるよりは人間らしい死に方だもの。
 揺れは、長かったわ。呆然と固まって声も出なかったらしい少年たちが、ようやく立ち上がって、よろめきながら外に飛び出していき、「戸だ、入り口をしっかりと閉めておけ」とそれだけは忘れず言い合って、歪んだ戸を苦労して閉めていったから、私は独り取り残されてしまった。アパートはあんがい頑丈に作られていたのね、満身創痍で歪みながらも倒れはしなかった。
 あちこち大変なことになっているだろうから、自分たちのことで精一杯で、公園の裏の人目につかない廃屋のアパートなど、倒壊しなければ誰も気にしないだろうな……、とぼんやりした頭で思ったわ。少年たちもしばらくは、ざわざわと近辺の被害を調べる眼があるから寄り付かないに違いない。錆びた水一滴、ロに入らずこのまま死んでしまうのだろうな。でも、やっと楽になれるんだわ……。全身の力が抜けていって、そのまま気が遠くなった。

 婚約者は、女の父親を通して、少年の親たちの、謝罪と悲しみ苦しみ、家族が巻き込まれていった数々の生活上の犠牲を聞かされた。
 地獄が少年たちの家族にも生まれていた。転居、失職、退学、離婚。他人を裁くことの大好きな世間のなす罰は、本人よりも家族のほうに、強く与えられている気がした。そのことを思うと、婚約者の怒りや憎しみは、複雑に揺れた。
「ガラス瓶の中の腐ったピクルスのような家族の苦しみ。苦いピクルスだ。閉じ込められたガラス瓶の中で、そのまま黒く枯れ果てる」と、婚約者は女に言った。
 女は、無言だった。

 婚約者の仕事は忙しくなっていくばかりだったが、久しぶりに植物園に行くことができた。
 女は車椅子を、格子の木組みに絡まって房状に咲く四季咲きのピンクの薔薇のそばで、止めさせた。どれもうつむいて咲く薔薇を、長いあいだ、見上げている。この薔薇は、開いたばかりのときは可愛らしい薄紅色をしているが、やがて輝きをひそめた深いピンクに変化していく。青銅色がかった葉の暗さのなかに咲く八重のふんわりした優しい花は、人なつっこく呼びかけてくるような感じがして、たいていの人が足を止める。薔薇を見上げたまま、どこか力の抜けた声で女が言った。「人間も薔薇も同じ宇宙物質の一部だというのならば、私はむしろ、こんな分かりにくい複雑な感情をもつ罪深い人間ではなくて、薔薇の命を養う土になりたいわ」
 女は、薔薇の植わった土に視線を移して指差した。「赤土の中で腐って、この薔薇たちの肥やしになることこそが、今の私にはふさわしいかもしれないわ。あなたが一生懸命に私に説明してくれた宇宙と薔薇の命の言葉を考えると、こんなにも美しい薔薇を生み出す土こそ、浄土なのね。きっと、この捉われから解放されて、無心に薔薇の命になれるでしょうね」
 婚約者は、女の横顔を眺め、黒い土を眺めた。
「できるものなら、自分を埋めるための、深い、深い、穴を掘りたいわ……。掘って、掘って、ひたすら掘っていくうちに、きっと私の心は無心になるのでしょう」
 女はそう言ったあと、微笑を含んだ声で呟いた。「でも、残念ながら、私は立つことすらできないわ」

 秋口から女は病気がちになり、発熱に浮かされては、幻覚を見ているようなうわごとを言った。深い河の濁った水の中を、首や手や足やらをバラバラにされてどこまでも沈んで落ちていってたの。バラバラなのに、生きているように冷たい水を呑みながら溺れているの。激しい息をついて、息も絶え絶えにそんなことを言うのだった。うとうとと眠りに引き込まれていくかと思うと、眼を大きく開いて婚約者をみつめ、いやに明瞭な声で言うのだ。「最後のほうでは、体に垂らしたオイルに火をつけて焼くのは、手足の先ではすまなくなって、他の柔らかいところを狙ってくるようになったわ。腿の内側は、ひどい火傷になって、今もケロイドになって引き攣れている。あなた、見てみる?」
 婚約者は黙って女の額に手を当てて眼をつぶらせる。
 だが、その手を払って、女は浮かんだような声で言った。「もしあなたがいなかったら、私はきっと事件のことは沈黙したでしょう。でも、あなただけには何もかも理解して貰いたかった。私は、心の中を開いて、あからさますぎるほど見せたわ。あなたは、眼を背けてしまった……。でも、このごろになって、少し自分が見えてきたの。私は、あなたに救いを求めすぎていたんじゃないか、って。あなたを勝手に自分の分身のように思いこんで、様々な思いの共有を強制していたんじゃないかしら、って……。ごめんなさいね。私は、ずいぶん我が儘で、身勝手だったのかもしれない……」
 女は目じりから涙をひとすじ流して不意に眠りに落ち、深く眠った。

 婚約者は、通勤電車の待ち時間がまだあるのを確かめて、構内の本屋に立ち寄った。
 たまたま手にとった月刊誌の目次をあけると、久しぶりに事件の話が載っていた。あわててページをめくると、事件を総括的に見た識者たちの意見がまとめてあるのだった。
 斜めに眼を走らせて、婚約者は、それが「被害者A子の事件後の葛藤」を指しているのかと、一瞬、誤解した。なぜなら、識者たちが口をそろえて指摘している「孤立無援な空虚感」「見捨てられたという感情」「恐れ」「罪悪感」「向けどころの無い憤怒」というそれらの言葉が、事件のあとの女の激しい感情を、ぴったりと言い表していたからだ。
 だが、よく読んでみると、それは、少年たちの成育のなかで育っていたとみなされ、事件の原因に繋がったであろうと推測される、「少年たちの心の内面」の話であった。
 婚約者は、喉元を掴まれたような息苦しさで本を元に戻した。
 ホームに向かって歩き出しながら、女が口にした「私の恥辱には、彼らの分まで加わっているんだわ」という言葉を思い出し、ふっと納得がいった気がした。
 記事のことは女には黙っていよう、と思った。最近の女は、ひところの激しさが鳴りをひそめたようで、あのアパートにも二カ月ほど前に、それも一ヵ月ぶりに一度行ったきりだった。それも、黙って部屋の中を眺めるだけで、すぐに「もう、いいわ」と呟いて、外に出てしまった。
 ようやく熾き火になってきたものをかきたてるような、危ういことは避けたかった。

「このところの忙しさでは、さすがにまずいんだよ」と、婚約者は弁解するように女に言った。「毎日のように僕だけ早く帰ったり、会社に出ないで自宅で仕事をしたりするのに、いい顔をしない奴もいる。親父さんは外部との折衝が忙しくて、事務所を空けてることが多いしね。提案だけど、この家にパートの家事援助の人を頼んではどうだろうか。そうすると、僕も少しは安心して仕事に専念できる」
 女の体調には波があって、家事の無理な日があった。だが、逆に精神面では、もうアパートに行きたがることもすっかりなくなって、他人を家の中に入れても大丈夫なほどに穏やかに見えた。いつのまにか、事件の話も、ぱったりとしなくなっている。女に纏わりついていた荒々しいものが、日に日に消えていくようで、声も以前のように優しく穏やかな物言いに戻ったような気がする。
 婚約者の提案に、女は黙ってうなずいた。
 派遣会社から、家事援助の中年の女性がやってきた。夕食の材料買出しと支度、一日おきの掃除と洗濯を頼んだ。派遣の女性は、午後一時から午後五時までのあいだ目いっぱい仕事に集中し、契約時間ぴったりに終わらせ、ごく必要なこと以外はお喋りもせず、急ぎ足で帰っていくらしい。それでも、婚約者は心強く思った。
 女はシャワーと食事を一人ですませ、ガラス戸を開け放ち、誘蛾灯に照らされた荒れた庭にぼんやりと眼をやりながら、婚約者の遅い帰りを待っていることが多いようだった。婚約者が帰宅すると、薄暗くした部屋で、女の影は庭の誘蛾灯の逆光になって、輪郭から透き通って細っていくようなあてどなさが感じられた。

 婚約者の遅い食事のときに、女はソファから車椅子に移って、傍らに紅茶のセットを運んできてすわった。女のほうから、今頃はどんなかしら、と植物園の話が、ぽつりと出ることがあった。婚約者は笑顔になって薔薇の話を始める。「薔薇の蔓が老いると、灰色に節くれだつような木になって、隙間もなく絡み合う。あれは凄いよね」
 これだけは自分で茹でたパスタをくるくるとフォークに巻きつけながら、婚約者は、太く黒くねじれた蔓の意思のあるもののように強靭に絡み合う様を思い浮かべ、その力強さを語った。「どんなにねじくれて絡み合って棘を立てて周りのすべてを拒絶しても、時が来ると、こらえきれずに、赤い芽を吹き出させずにはいられず、新しい枝を伸ばざずにはいられず、空に向かって笑うような明るい色の花を咲かせずにはいられないんだ」
 婚約者がそう言うと、女はどこかぼんやりとした顔でうなずいた。そして「今ごろはまた、ジャクリーヌ・デュ・プレが咲いているのでしょうね。乳白色の柔らかい花びらに、長い睫毛みたいな金色の雌蘂を広げて、麝香の香りを放って……」と、遠い思い出をさぐるような、小さな声で呟いた。

 いったん仕事に入り、走り始めると、後から後から用事が追いかけてくる。婚約者は疲労を抱えて余裕のない日々を過ごすようになった。女の、無口になって気が抜けたように遠くを眺めている静かな様子が、何となく気になりながらも、あまりゆっくり話す時間がない。いったん仕事に入ったら、女のことは忘れた。女の父親も、娘のいちばん危険な時期が過ぎて一人でもいられるほど落ち着いたことや、昼間に家事援助者の眼が入ったことも頼りになり、婚約者を会社の仕事のあてにするようになっている。
 最近は、婚約者が夜遅く帰宅すると、女は大抵ソファに横たわっていた。大儀そうに起きあがると車椅子に移って、ゆっくりと時間をかけて紅茶を淹れてくれる。眩しい光を嫌ってテーブルランプだけを点した薄暗い照明のなかで、女の眼窩がおちくぼみ、頬に蔭ができてやつれていることに気づいた。体調が悪いのか、と訊いても首を振る。女の表情はあまり動きがなく、穏やかに見えた。
 その晩、女は「最近、ずっと植物園にも行ってないわね……」と、呟いた。
 婚約者は真っ黒なスケジュール表を思い浮かべながら「うーん、さ来週あたり、行けるかなあ」と、生返事をした。
「そう? さ来週?」と、女が微笑んだようにみえた。そして、睡眠薬をいつものとおり飲み、深い眠りに引き込まれていく様子だった。

 女の眠りが深いので、死との区別がつかなかったのだ。
 夜明けの光の中で、女の息が止まっていることに気づいた。
 すでに体が冷たくなりかけていた。
 婚約者は、「何なんだよ。おい、冗談じゃないよ」と女を揺すった。「さ来週、植物園に行く、って言ったじゃないか」
 婚約者は、寝巻きの下の素肌を無我夢中で撫でさすった。女が自分の思いの限りを尽くして闘っていたあの激しさを呼び起こそうとしたのだ。だが指先に点々と触れる傷跡は硬く冷たかった。
 揺さぶられて、女の頭がベッドから落ちかけた。女は濡れた毛布のようにくたりと力を失って重かった。だが抱き上げると、抜け殻のように軽いのだ。その骨ばった軽さに胸を衝かれた。女はけっして快復などしていなかったのだ。
 以前の初々しかった面影が、おでこや頬にうっすらと浮かんではいたが、その顔も表情を失って骸になって固まっていた。
 婚約者は腕の中の顔を、手のひらで拭うように何度も撫でた。唇のそばの傷跡を、そっとさすった。そして、どんなに拒絶されても、何度でも、こんなふうに強く抱きしめてやればよかったんだ、と泣いた。

 女の見ていた悪夢を、今は夜毎に婚約者が見ているのだった。女の死と入れ替わりに、空白になった頭のなかに、暴力的になだれ込んできた悪夢だった。
 明け方の夢の中で、早送りのように閃いて消えるのは、聞かせられ続けた女の記憶の片鱗だ。爪を剥がされる痛みが婚約者の指先で燃え、布団を跳ね除けて指を振った。点々とオイルの火に肌を焼かれる夢の恐ろしさにのたうった。裸にされた体を指さされ、貶められ嘲られることの惨めさは、粘った汚い水を浴びせられたようで、息もしにくくなる。
 少年たちは、女の肉体だけをあざ笑った。女は心に繋がる言葉を水のように求める人間だったが、誰にも通じなかったのだ。女が刀折れ矢つき気力尽き果てて死ななくては、自分はここまで女の苦痛に向き合えなかったのか、何と詰まらない男だったのか、と自嘲が込み上げてくる。
 医者は心筋梗塞だと死因を診断したが、彼女が衰弱していったのは、たった一人の支えてもらいたかった人間に「伝わらない」ことに失望し、次第に闘うことをあきらめていったせいなのだ、と思われてならない。
「人は、言葉を媒体にして誰かの分身のように同じ痛みや苦しみを分かち合うことなんて、実際には出来もしないのだ」そう思いながらも、婚約者は自分を責めずにはいられない。
 火葬のときに骨を拾いながら、女である体を嘲笑され卑しめられたことに強くこだわって苦しむ女に「体は魂の一時の容れ物にすぎないのだから……」と何度も言い聞かせていたことを思い出した。今になってみれば、一時の容れ物の筈だった女の姿こそ、生きているしるしだった。元気だった頃の、両手を打って笑いころげる顔や、呼びかけて走ってくる姿、びっくりした時のきょとんと眼を見開いた顔、べそをかいている表情、本に一心に読みふけっている横顔、拗ねてうつむいている後ろ姿などが、思い出されてならないのだ。

 薔薇の千差万別のエネルギーのなかにいると、気弱い心は酔わされる。つい、薔薇園のベンチで、長い時間を過ごしてしまった。眼鏡を外し、膝に両肘をついた手で、まぶたを覆ってぼんやりしているうちに、まどろんでしまったようだ。
 誰かに揺り起こされた気がして、いつのまにかがっくりと垂れていた頭を起こし、眼を開けると、視界に光がとろけて滲んでいた。その滲みのなかに、薔薇とマントルの間に横たわっている女の姿が、見えたような気がした。夢の続きか、と、眼をこらした。
 女がやはり、赤土の中に浮いて見える。薔薇の白い髭根が、蜘蛛の糸のように、女の下半身を包み始めている。婚約者はよろめきながら女がいる土の傍ににじり寄った。
 だが、すぐに棘を立てて絡み合った頑丈な薔薇の蔓に遮られた。
 老いた灰色の蔓や、仔猫の爪のような柔らかいけれど細い鋭い棘を立てた若い蔓が、幾重にもねじれ絡まりあって広がっている。暗緑色の葉が茂ったなかに、無数の花が冬の間に閉じこめた香りを解き放ちながら、瑞々しい命で咲き誇っている。そのたくましさに息を呑み、うろたえて、土を見据えると、いつのまにか暮色のなかに薔薇の根もとは暗く沈んで、女の姿も見えない。

 客のいない喫茶店の窓際の定席にすわると、女店主がやってきて、無言でいつものレモンティーを婚約者の前に置き、いつものミルクティーを隣の空席にそっと置いて去る。ミルクティーも……、と注文してからは、何も言わなくても置かれるようになった。「この世のすべての魂」が、聞き取れないほど低く流れている。耳を澄ませていることに気づいたらしい女店主が、ボリュームを上げた。豊かな音量に、冷えていくミルクティーの表面に微かなさざなみが立った。
 喫茶店を出て、螺旋の小道に入る。治らない風邪の微熱のせいで、またすぐにすわりこみたくなる。ベンチにうずくまって、しばらく陽に温もる。陽がじんわりと、服の上から肉の落ちた体に沁みこんでくる。
 耳元を通り過ぎては戻ってくるのは、名前も知らない花アブの羽音だ。他は静かなものだが、動物園から象の鳴き声や、空を舞うカラスの間延びのした声が、たまに、聞こえる。どの音も、明るい静けさのなかに浮かびあがっては消える。陽射しが、まつげに重たくまつわりついてくる。眼を細めると、何だか魂をどこかに吸われていくようで、ただ、あてどない気持ちに落ちていく。風邪で鼻が詰まって、頭がぼうっとするせいもあるのかもしれない。自分は結局、女の事件では、何も出来なかった、無力だった、と鼻を詰まらせながら思う。明確なのは、慙愧だけだ。
 やがて、うずくまっていたベンチから物憂く立ち上がりながら、死んだ女に向かって言う。「このあいだの地震では、この街は七十センチくらいも地面がずれたそうだよ。安心して住み着いて暮らしている地面さえ、動くんだよ」
 アドバルーンの方角を振り返りながら、「当てになることなんか、あんまりないね」とため息混じりに言ったとたん、太陽の、思いのほかの強い日ざLで目が眩んだ。
 微熱に潤んだ瞼の裏で、残像が白い火の玉になって足元がふらつき、両手で眼を覆ったまま、ベンチにすわりこんだ。一瞬、すっとどこかに引き込まれていくように気が遠くなった。
 瞼の裏に、荒廃の夕暮れの風景が浮かび上がった。
 からっぼの檻の鉄格子が、どれも歪んで、錆びていた。植物園は雑草に覆い尽くされ、温室は、ガラスがほとんど割れ、錆びた鉄骨を剥き出しにしていた。
 傾いた喫茶店の窓は暗い穴のようだ。空には何も浮かんでいない。虫食いだらけの痩せた薔薇がわずかに咲いている。廃墟の光景のなかに独り、立ちすくんでいる男の、猫背の影が、細く曲がっていた。
 あの古アパートの荒廃や破壊よりももっと乾いた、色のにごった、無音の、にぷい光景だった。息が詰まった。
 眼を塞いでいる両手の甲を、不意に風が撫でた。耳を塞いでいた栓のようなものがスポンと抜けた。
 木々のざわめきやカラスの鳴き声が、体の中に流れ込んでくる。はっと眼を開くと、あたりはさっきと変わらず、手入れの行き届いた植物園の、陽射しの眩しい、のどかな光景だ。
 おさまらない動悸を、息を大きく吸ってなだめながら、ベンチの手摺に手を伸ばした。そのはずみにかたわらの薔薇に触れた。重たく揺れる薔薇の、探紅色に濡れた花びらのあまりの生々しさに胸が震えた。
 手摺にすがってうずくまっているうちに、少しずつ動悸が静まっていく。
 木の葉が舞い落ちる乾いた静かな音がした。
 そうなのだ、ここは、いつも眠気がさすように静かだった……。
 日が長く、夢を見ているうちに昨日までの一日一日が切り離されては遠く落ちていく場所。いつも、瑞々しい生気と色彩にあふれた新しい日々が目覚める場所なのだ。

 女がそこにいるように、植物園の薔薇の姿を語る。「象のおさんぼ」の話をする。女が面白がった天国の門や地獄の門のことを語る。
 ほかにも、あの喫茶店の空間に流れる「この世のすべての魂」のゆるやかなソプラノのことも語って聴かせる。雨に降り込まれて誰も客がいないときに、女店主がボリュームを高くして、後姿を影にして独り聴いていたことを。
 豊かなソプラノが、憧れをこめて雨空をめがけて舞い上がろうとして、溜息をついていた。それから歌声は二重唱に変化して絡まりあった。この世のすべての魂たちの祈り、聞き届けられることがとても難しいからこそ、切実に願う祈りが、ねじれあいながら、天に向かってひたむきに歌われていた。
 歌声は店の窓やドアの隙間から忍び出て、立ち尽くしている婚約者を包み込み、植物園の霧雨に溶けて広がって、薄れて消えていった。婚約者は、そこに女の魂の声も混ざって漂うように思われて、じっと耳を澄ませていた。

 晴れた日には、動物園のあの象のアドバルーンが銀色に膨らんで浮かんでいることなどを語る。
 あの象は、雷が鳴り始めると、しずしずと降りていくんだよ。怖がりなんだ。あれにも飼育係がついているんだね。
 地震は、今のところは何とかおさまって来たようだよ。
 僕たちは、明日起こるかもしれない大地震の予感に怯えているけれども、もしかしたらあと千年くらいは起きないかもしれない。それでも「その日」を待ち受けたまま死ぬのかもしれないよ。気の小さいような大きいような話だね。
 女が驚いたり可笑しがったり安堵したりして笑う澄み切った声が、螺旋の小道のどこかから聞こえるような気がした。地中から聞こえてきたように思われ、いや、あれは薔薇の茂みから聞こえてきたのでは、とも思われた。そこに女が横たわっているのか、それとも吸い上げられて薔薇になって咲いたのか、と婚約者は視線を動かした。
 やがて視線が、四季咲きの一株の薔薇を捉えた。赤土の滲んだような銅色の花をつけている。その柔らかな丸い花びらの薔薇の名前も、婚約者は知らなかった。
 婚約者は鋼色の薔薇のそばで立ち止まって、しばらくのあいだ、自分の重みでうなだれて咲く、優しい花を見上げていた。                〈了〉

 

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