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     穴の空                                                      納富泰子

 


息詰まる日びの生活から逃げるように猫付きのレンタルルームを借りた主婦の物語。作者、初期の作品。                ……推薦 ひわきゆりこさん(胡壷

午前」第67号掲載

 

 


 

 

 小さな家出のつもりだったのに、猫を借りてしまった。朝刊の片隅の広告欄でみつけた「あなたの隠れ家。綾部リラクゼ―ションルーム」は、猫付きだったのだ。

 週に三日、街の体操教室に通うことにした、と息子の拓也には嘘をついた。

 一人しかいない事務員の女は饒舌だった。

 少しの儲けでよろしいんですのよ、うちは。日頃の生活に疲れた方たちのひとときの休息のためにお役に立てれば、と思いましてね。ええ、このワンルームマンションの七階までの各階にひと部屋ずつ、ご用意してございます。三階は、常時ふさがっておりますけどね。あとの部屋は、昼間はわりあい空いておりますのよ。夜、七時から十時までが結構お申し込みが多いんです。ただ眠りたい方、誰にも邪魔されずに、一人の心にもどりたい方、特に中年のお父さん方はどうかしら、と思いましてね。ところがお勤め帰りに一人になってゆっくりなさりたい方は、年齢男女関係なく思ったよりも沢山いらっしゃいましてね。人は、あんがい口に出さずに耐えていることがあるものなんですねえ。

 綾部トミ子という名札を胸につけた事務員はそれが癖なのか、透かすようにこちらを見て喋る。口紅が濃い。キリンや極楽鳥を原色で彩ったブラウスと濡れたように縮らせた肩までの髪が、かえって年齢を剥き出しにしている。喋る度に、色白の薄く乾いた皮膚の上を縮緬皺が現われたり消えたりする。たぶん私より五つ六つ年上の五十代だろう、と思いながら、幸子はトミ子の小柄な姿を眺めた。

 幸子が、では四階を三時から五時まで、と言うと、四階、ですか……、とトミ子は一瞬ためらう様子を見せて、手元のノートをぱらぱらとめくった。だがすぐに頷いて、空いていますね、と顔を上げた。一時間四百円ですから一回八百円になります。

 古い木製の整理箱の抽斗をがたつかせて引っ張り出した申込書を、幸子の前に広げた。

「ずいぶんお安いんですね」

「古いマンションですからね、沢山は頂けません。このお部屋は、月五万円の家賃なんですよ、一日六時間の借り手があったらじゅうぶん採算が合うんですの、結構、ご利用が多いものですからね」

 申込書を書いていて、犬、猫、という欄に行き当たった。これは? と訊ねると、トミ子は急に嬉しそうな笑顔で頷いて、ああそれは、お貸ししますということですよ、ほら、動物ってよい安定をもたらすというじゃありませんか、うちはそれがセールスポイントなんですよ、広告に書いてあったでしょ、と得々と答え、幸子が広告を隅まで読まなかったもので……、と言いかける言葉にかまわず、カーテンで仕切られた奥を指差した。あそこに、猫と犬とを一匹ずつ用意してございます。人懐っこい子たちですのよ。一日、百円、上乗せになりますけど。

 まあ、それも、いいか、と思った。動物は好きだった。子供の頃に家に猫がいた。雄猫だったので、発情期に家を出たまま帰ってこなかったけれど。あの時は、泣きながら必死で探し回ったっけ。

 じゃ、猫を……、と言うと、はいはい猫ちゃんですねえ、と唄うように言いながらトミ子はカーテンの奥に消えた。

 ケージが鳴る音と、嬉しげにあえぐような吠え声が聞こえた。抱きかかえられてきたのは、黒褐色に茶が混ざったキジ猫だった。犬の甘えて鳴く声がひとしきり続き、低くなって止んだ。

 カウンターの上に下ろされた猫は二人の女を見比べて、ニャア、と口をあけた。声が掠れている。毛の艶がなく、腿の辺りの肉が落ちてへこんでいる。

 ごらんのとおり、もう年寄りといってもよい歳ですのよ、でも、気の良い猫でしてね、人の気持ちがよく解るんですのよ、と言いながらトミ子は猫を抱き上げ、ねえ、ユリちゃん、と頬ずりをした。ユリと呼ばれた老猫は解ったような顔をしてトミ子にむかって、ニャアと、今度は声にならない息で鳴いた。

 手渡されて抱くと、ユリは大きな碧色の眼でまじまじと見上げて、幸子の胸を押しのけるように前肢を突っ張った。

 週三回の「猫付きリラクゼーションルーム二時間コース」契約を済ませ、一ヵ月分の前金を払った。

 ユリが入れられたバスケットを抱える。エレベーターまで歩いていく途中で、身動きをする生き物の手応えに、子供の頃のようにときめいた。

 部屋のベッドは、シーツも枕も清潔だった。

 ユリは抱きあげると、幸子の顔を見上げ、胴を捻って床を見下ろす。小声で宥めながら、首筋から顎の毛に指を突っ込んで撫でるとそのうち、気持ち良さに負けたように眼を細め顎をそろそろと上げた。

 上着を脱ぎ、ポリエステルの薄いワンピースのまま、ユリを両腕にしっかりと抱いて、ベッドに横たわる。体がシーツにすぐに馴染まない。固く縮んで転がっている感じがする。猫を抱く腕も強ばっている。腰の辺りに、ワンピースがねじれて巻き込まれ、袖まで引っ張られている。くたりとした布地が汗ばんでいるようで気持ちが悪い。

 ふうっと息を吐いて指の先まで力を抜いてみた。体が砂袋のように重力のままに沈み、シーツにようやく馴染む。肩や腰に溜まった疲れが重ったるい。

 無性に眠かった。

 胸のなかで猫が、ひとつ大きな息をついた。幸子も、大きく、ゆっくりと息を吸って吐く。ユリは幸子の腕と胸がつくった窪みにすっぽりと丸くおさまっている。撫でてやると微かに喉を鳴らしはじめた。

 ユリと二人、ゆるやかにシーツや掛け布団に馴染んでいく。この部屋には眠りの粉でも撒き散らされているのではないかと、ぼんやり思う。うつらうつらとほどかれていく意識がやがて、揺れる黄金色の油のように、体を抜け出して、シーツに溶けていく。ユリの体の底から湧き上がる音も、体温と混ざり合う呼吸に、ごろごろごろと溶けていく。

 目覚めると見なれない部屋にとまどった。

 空白の頭に蕾がひとつひとつ開いていくように情報が戻り、ああ、自分ひとりの居場所と、老猫を一匹、二時間だけ借りたんだったと、思い出した。

 ユリはいつのまにか腕のなかから抜け出して、布団の裾のほうに丸まって寝ている。何だか久しぶりにぐっすりと眠った気がする。胸がすかすかと広がっている。腕時計をみると、あと十五分しか残っていない。目覚し時計を持ってきた方がいいかもしれない。

 隅の小さなサイドボードにCDラジカセがあるのを見つけた。備え付けのインスタントコーヒーの粉をポットの熱い湯で溶いて飲んだ。カップを片手にカーテンを開けると、建築中のビルの屋上から伸びて交差するクレーンが二基、黒い影を見せて、暮れかける西空に見えた。頂点に赤い灯が点滅している。風が強く吹くたびに、街の灯が震える。

 駅三つしか離れていない街なのに、遠いところに来ているような気がした。

 

 リラクゼーションルームに通いはじめて四回目、週明けにマンションの外壁工事が始まった。

 青いカバーにすっぽり覆われたビルを見上げて、おやおやと思いながら事務所がある二階へ向かう。しみだらけの老朽化したワンルームマンションも、経営者を真似て厚化粧で若作りになる魂胆かしらね、とひとり言を言いながら、階段に息を切らせた。

 剥き出しの通路もすっぽりと幕で包まれて薄暗い。

 すみませんねえ、工事が先伸ばしになってたんでまだもう少し後になるかと思ってたら、急に始まっちゃって、とトミ子がユリを入れたバスケットを奥から出してきて、部屋の鍵をカウンターに置きながら、気の毒そうに言った。

 はあ、と曖昧に笑うと、トミ子は慌てて付け加えた。

「ほんとにごめんなさいねえ。この調子ではどうせお客さん来ないから、工事中はあなたの料金は半額にしましょ」

 そういえば、このマンションの横に打ち付けてある建物名とトミ子の姓が同じだ。ああ、そうか、と思い当たって、どこかの会社の制服のお下がりらしい紺のベストスーツを着込んでいる小柄な姿を改めて眺めた。あまりオーナーらしくはない。

 四〇一号室のドアを開けると、暗い空気がむっと澱んでいる。今年は十一月になっても妙に暖かい。ユリをバスケットから出してやって、ワンルームの南面に広く取ってあるガラス戸の遮光カーテンを開いた。

 レースのカーテンが青く染まっていた。振り返ると部屋の中にも淡いブルーの色が満ちている。部屋の奥が底深く見えて、水の中みたいだと思った。

 ガラス戸を開けて覗くと、ベランダのすぐ向こうに足場が組まれ、その鉄骨に青い幕が括り付けられて視界を遮っていた。息苦しいような狭い空間の端に不意にヘルメットの男が現われ、幸子には見向きもせずに足場の上を横切って消えた。慌てて、部屋に入り、レースのカーテンを閉める。それからまたばたばたと出て、ユリのトイレ用砂箱を内に引き込み、風呂場の隅に置く。

 普段着のジャージのワンピースを手提げから取り出し、ストッキングを脱いでいると、薄っぺらな幕が風にはためく音がする。足場の鉄骨が揺れて触れ合うのか、カチャリ、カチャリという音が途切れがちに短く混じる。ユリの耳が鋭くその音を捉えて不安げに耳朶を引きつらせる。

 素足を冷たい木の床に伸ばしてベッドに寄りかかり、ユリを膝に抱き上げた。硬い背骨に沿って何度もゆっくり撫でてやる。

 ユリはこのごろ、バスケットから出してやると、すぐに幸子の足に体を摺り寄せてくるようになった。抱き上げると、幸子の胸にぴたりと腹をつけて、爪をほんの少し出して服に引っ掛けて、前肢ですがりついてくる。密着したユリの体の奥から喉を鳴らす音が湧き起こり、温もりのある振動となって幸子の胸に伝わってくる。

 レースのカーテンだけの部屋は、往来の車の音を遠く籠らせている。風に動く幕の隙間からときおり入り込む明るい光の筋が、木漏れ日のように揺れる。その光を砕くように、不意に激しいドリルの音が轟く。空気が、びりびりと振動する。

 壁に穴を開けているらしい工事の音が突然やみ、シンとなると、こんどは水底のように青い部屋のなかは静かすぎて、耳が詰まった感じになる。ふうっと体も心もどこかに漂い出していく気分に誘われる。

 ベッドの中で横向きに足を縮めて、体を丸めていると、開け放した風呂場から、ユリが砂を掘っている音が聞こえる。

 ひそやかな尿の音がする。こまめに砂をかぶせる音が続いて、軽い足音が戻ってくる。

 半分眠りかけていても、ユリの耳は音を拾って素早く動く。猫はいつも不安のセンサーを内蔵している。永遠の安泰なんてないんだと、生まれた時から知っている。影を映した沼が静かな小波を立てたまま水晶体に閉じ込められた、そんな碧の大きな眼でまじまじと幸子を見つめる。いま受け入れなければならないことを受け入れているだけ、と言っているような眼だ。

 しゃがれた老婆の声を持ち、こちらの差し出す指先のにおいを嗅いですぐに気を許すこの猫は、抱きしめる人の心を、柔らかい毛並みのなかに吸い込んで、温める。一時間百円なりの受け身の、どこか娼婦にも似たパートタイマーだ。

 不意に空気を破って始まるドリルの音に脅えて、幸子の脇の下に顔を潜り込ませてきたユリを、すっぽり抱き込んでやる。笑いながら軽く叩いて宥める。やがてまた、喉の響きが腕に伝わりはじめる。覗き込むと小さな舌先で、ありがとう、というように顎を舐められた。舐めるためにユリが口を開けると、ゴロゴロという音が、シャラシャラと聞こえた。

 この部屋を申し込んだときに、幸子は別に自由が欲しかった訳でもない。癒しの場≠ネんて、言葉だけで目的の半分を達成するみたいなお題目は、もとから好きじゃない。家に居たたまれなかったから、来ただけだ。だが、腕と膝と頬ですっぽりとユリを抱き込んで眼を閉じていると、高い体温を持つ生き物との一体感が指先まで満ちていき、しらずしらずに呼吸が深くなっていく。

 にににに……と、不意に小さな声が耳元で聞こえる。ユリの寝言。ヒゲをふるわせて前足をぴくぴくと動かしている。窓越しに雀を見付けた時の動きと声だ。人間を癒すために閉じ込められた猫は、夢の中で自由に放たれて狩をしている。

 拓也はなぜ、あの家に自分の居場所がない、と言うのだろう。

 放っといてくれよ、俺だって死ぬほど悩んでるんだよ、心配なんか、余計なお世話だ。いろいろ気を遣うなよ。うざったいよ。なんで、そんなに、腫れ物にでも触るようにもの言うんだよ。黙ってちらちら見るなよ。息が詰まるよ。なんだよ、うるせー、ばばあ。いいじゃないか、冷蔵庫の扉を強くしめたくらい。居場所、ねえんだよ、この家にはよ。

 拓也がこの家には居場所がないと繰り返す度に、幸子もじりじりと居場所をなくしていく。

 二年生になって拓也はとつぜん、高校に行かなくなった。母子でいい加減すったもんだの末、人間関係が原因らしいと分かったが、拓也は詳しいことは言いたがらない。幸子は学校に出向いて、担任の教師に会った。中年の男の教師は、クラスの一部での陰湿な苛めが常にあることを認めた上で、それを乗り越えることができない弱虫な人間に育てた親の責任を遠回しに言う。

 お父さんが小学生のころに亡くなっておられますね……男の子にとって必要な父性の強さが欠けた家庭で女親が過保護であれば……、と教師は抑揚のない声で、言い飽きたように言う。その皺の多い痩せた顔をにらみつけて幸子は立ち上がり、黙って部屋を出た。何でてめえ自身の言葉で、もの言わねえのかよ、と拓也そこのけの啖呵を切りかねないほど、腹を立てていた。登校拒否対応マニュアルなんか暗記してるんじゃねえよ。

 何だ、拓也は私に似てるんじゃないか、と苦笑した。嫌なものには説明抜きでそっぽをむいてしまう。

 いま、なにがいちばん嫌なの、と訊くと拓也は、なんもかんも、と答える。もう半年も、その、なんもかんも、が続いている。学校、やめたいの?

と訊ねると、やめたくない、と答える。仕方なく休学の手続きをした。担任教師は溜息一つで頷いた。この先、どうなるのか、どうしたらいいのか、分らない。あの疲れた教師と、自分は少しも変わらないのだ、と幸子はようやく気付いた。

 どのように振るまっても、拓也を苛立たせた。

 母親としての痛みを口にすれば、拓也をますます追いつめる。そのことが徐々に幸子にも呑み込めてきている。とどのつまりは自分をこんな生き難い世の中に産み出したものへの怒りにも、拓也の思いは行き着くのだろう。

 この半年間ずっと、「この家に居場所がない」と繰返しているその拓也の言葉は、多分、拓也が思っている以上に、効果をあげている。幸子の居場所をも、じりじりと奪っていく。

 狭い家のなかでお互いに透明人間のように擦れ違った。

 だが無言のうちに、背中の頑なさや視線を外した表情で、相手の気持ちを読み取ってしまうのが、母子ふたりのどうしようもない習性だ。敵意にも似た意識がぴりぴりと尖っていき、お互いを無視しながら引き寄せあっている。

 結局、幸子が逃げ出した。自分が少しでも拓也の傍から消えるしかないと思った。消えると言ったって、リラクゼーションルームでの二時間と、スーパーに寄って夕飯の買い物をする一時間の、せいぜい三時間なのだけれど。

 鉄骨が風に時おり軋む音をぼんやり聞いている。ベッドに寝そべって、ユリの前肢の片方を掌に包みこむ。猫の意外にたよりなく細い優しい肢が愛しさをそそる。閉じ込められた猫の、肉球の柔らかさを憐れみながらも、その温もりを愛撫しているうちに、肩に張りついて強ばっていたものが少しずつ溶け出していくように感じる。

 生きものの力が、手の中の小さな肢にこもり、自由になりたくなったユリが、擦り抜けようともがきはじめる。離すまいとすると、ユリは困ったように大きな碧の眼で見上げる。ユリの、丸くちいさく滑らかな頭を、唇の先で軽く撫でる。

 鳥も人も猫も、羽毛のように柔らかにそっと撫でてもらうのが好きだ。人がいちばん撫でにくいけれど。

 ふたたびユリの体の深いところで、甘えがごろごろと震えはじめる。だが、耳はアンテナのように音を拾って微かに動いている。

 この間の朝、起き抜けの寝惚けまなこで、廊下に出た途端に拓也とぶつかりそうになった。うっかり、欠伸をしながらおはようと言ったら、思いがけなく明るい声が、おはよう、と擦れ違っていった。目の前がぱあっと明るくなった。あまりに簡単に幸せな気分になったので、驚いてしまった。母親なんて他愛ないものだ。一瞬の笑顔だけでいい。

 味をしめて翌朝もおはようと呼びかけたら、舌打ちが返ってきた…。

 鈍い物音に、もうろうと眼を開く。ユリが床を飛び跳ねている。いつのまに蛾が入っていたのだろう。その次に眠い目を開けたときには、ユリはカーテンに爪を立ててぶら下がっていた。蛾を咥えたユリが揺れながらじりじりと降りている。床の上で獲物をもてあそぶ。必死にもがいて逃れようとしていた蛾は、やがて身動きをしなくなった。ユリは興味を失った様子で身繕いをしている。

 その日はもうユリを抱かなかった。

 

 遮光カーテンが鬱陶しく、レースのカーテンだけにしている。部屋は青い水槽になる。

 海辺に近いこの街は、よく風が吹く。

 風が吹き、幕が鳴ると、幸子のさまざまな想いは、一瞬、中断する。どんな深い想いも、風の音には負ける。

 風に煽られて鳴る幕の音に包まれ、ユリを抱いてベッドに体を丸めてうずくまっていると、想いは遠のき、意識が風と混じり合い、占領され、青い水槽から風にはためく幕の内側へと、うつらうつらと漂い始める。

 引き寄せたユリのトクトクと早い心音を耳元に聴きながら、うたた寝のなかへ沈み込んでいっては、また浮かび上がる。眼の端に微かな青を滲ませて落ち込んでいく夢の中にも、やはり作り物の閉ざされた空がひろがっていた。弧を描いている空は青く染められて沢山の小さな電飾が瞬いている。それは最初の日に遮光カーテンを引いて部屋を暗くし、ベッドの上に横たわって見上げた天井に、ぼうっとかすかに浮かび上がった星座の模様に似ていた。この部屋には天井いっぱいにどこの誰が貼り付けたのか、暗闇で光る星座模様のシールがちりばめられている。

 リラクゼーションルームとは名ばかりのこの仮想空間には、初めからどこにも出口なんて無いのかもしれない。「隠れ家」という謳い文句のとおり、結局は穴の底に身を投げ出して僅かな時間を眠る気の小さな兎みたいなものだ。偽物の星が散りばめられている安っぽい狭苦しい空間。それでも、気の小さな兎には身の程に合って、うつらうつらと、現実の隙間から抜け出して異空間に漂い出すようなこの部屋で安らいでいる。

 何かのコピー、誰かのコピーに溢れるこの世の中で、拓也は何のコピーにもなりたくなかったのかもしれないなあ、と少し目覚めた頭で天井の星を見ながら考える。小さい時から頑固で、納得するまでこだわる性格だった。

 まだ田畑が点在する郊外の築三十年のあの古家に、拓也とふたりきりになって六年が過ぎた。夫が生きていてくれたら、ということは思わないようにしている。思ったとたんに、肩で支えている気力が、煮詰まった麩のように、くたりと伸びてしまう。交通事故死した夫が遺したアパートの家賃や生命保険金などで、当分の暮らしには困らない。だからこそ、気力を持ち続けるのが難しい。

 竹林に囲まれたあの二階家は、夜になると天井が、ズン、ズン、と一定のリズムで鼓動する。階段の狭い空間を覗くと、大音響のハードロックが頭の上から落ちてくる。やけくそな歌手の絶叫が、十五段の階段の角や両側の板壁にぶつかっては、噛み付いたり滑り落ちたりしている。

 階段が家の端にあるせいか、階段の上段と二階の床一面は音に占領されるが、歌の意味はそこで漉きとられ、決して一階の床にまでは降りてこない。天井に、心臓の鼓動のようにリズムだけが脈打っている。チューブの入口のような階段の狭い空間には、幸子を拒絶する重量のたっぷりしたバリアがある。

 たまに、静かな雨の日に、拓也のつま弾くブルースのギターなどが聞こえてくると、涙が出そうなほどほっとする。そういう夜は、幸子は階段の染みを丁寧に拭き取る。足音あらく上るたびに拓也のカップから跳ね落ちるコーヒーの染みは、階段のあちこちに、幾つもの小さな破裂のかたちを残して黒ずんでいた。

 夜中に水を飲みに起きて、台所のテーブルの上のメモ帳に、拓也の字が躍っているのをみつける。

「でかける  朝になる」

 汚い字が乱暴に、自分の存在を刻み付けるように力を込めて書かれ、その紙を破り取ると、下の紙にまで文字のあとかたがくっきりと残っている。

 歯を食い縛って書いたような文字を見ながら幸子は、冷たい水を呑み込む。

 

 雨になった。幕に雨が、無数のつぶての音となる。

 ただ無性に眠りたいと思う。心のどこかでこのまま目が醒めなくても別にかまわないと思っているような気がする。

「お母さんはなぜ、自分の側からしか、ものを言わないんだよ。お母さんは辛い∞お母さんには分らない∞お母さんに助けることは何もないのか=Aいつもそれしかない。俺は、お母さんの感情には関係無い」

 じゃ、私はどうしたらいいのよ。私の感情は要らないのなら…、お母さんは要らないのね。

「なんだよ、それ」

 と、怒りを見せて叫んだあと、拓也は、そういうこととは違うんだよ、ともどかしげに言う。そして、適当な言葉がみつからず、苛立ったまま黙り込む。

 苛めってさ、自分のすべてを否定された感じがするものなんだ、と拓也は言った。拓也は自分を母親ごと否定した「あいつら」に自分一人の心の中で対決し、自分の生の値打ちを取り戻そうと必死になっているんだ、と幸子は何とか納得してみるけれど、母親ってどうしてこんなに無力なのだろうと、ただ空しい。ただただ、わけも分からず一緒にうろたえる母なんか、重過ぎるだけなのだろう。

 それに、更年期って本当はなんだろう。単に子を産む機能を失うというだけだろうか。心の部分も同時に母親の殻を脱ぎ捨て、ただの老いていく人間に変わるべき、切り替えのときなのかもしれない。

 この部屋にいると、しきりにそんなことを考える。けれども、それはもうひとつ遠くへ逃げる言い訳なのかもしれない。

 雨に包まれてますます深くとじこめられる。家から持ってきたCDを低くかけて目を閉じる。

 枕の端で寝ていたユリが、幸子の短く切った髪を毛繕いをするように舐め始めた。猫に可愛がられている。

 しばらくして、むくりと起き上がり、ユリをそっと押しやって、ベッドから降りた。「タイタニック」のサントラなんて、地下室まで沈んでいきそうじゃないか。CDを止めた。少し寒くなったのでカシミヤのカーディガンを着込んだ。虫穴があいたので普段着に下ろして家で洗濯したら、縮んでフェルト状になったやつだ。最近すこし痩せたので丁度よい。

 ユリを抱きよせて、薄い布団にくるまる。ユリはころりと何の抵抗もなく腕の中に転がり込んで眠る。ふっと、あまりに従順な猫の対応が、淋しく、いじらしくなる。

 ユリがカーディガンの腋の辺りを前肢で押さえて交互に押しはじめた。母猫の乳を飲むしぐさだと気づいた。カーディガンを吸う音がちゅっちゅっと聞こえる。乳離れをしないうちに無理矢理に母猫から引き離された猫はそういう習性を持つと聞いたことがある。

 こんなに老猫になっても乳児期の手順にケリがついていない。ユリは幸せそうに揉み揉みをしては、幻のおっぱいを吸っている。

 ユリの唾液が、カシミヤ山羊の毛を温かく濡らしていく。多分、死ぬまでケリは付かないのだろうなあ、とユリの背を撫でた。ユリは母猫に舐められる仔猫のように、喉を鳴らす。幸子も、温かくうごめくユリの横腹に鼻先を埋めて、ゴロゴロゴロ、と呟いてみる。息でユリの毛が、次第に温かく湿っていく。

 幕にあたる雨の音が、耳の底に、ひそやかに落ち続ける。

 雨の匂いが幕の隙間から入り込んできて、少しあけた窓から柔らかい見えない水蒸気となって忍び込み、部屋の隙間をくまなくぼってりと重く埋めていく。皮膚の表面が、湿り気を帯びて冷たい。やがて呼吸が深くなり、指先からぽうっと温もっていき、いつのまにかユリとふたり、丸くなって眠りに落ちている。

 

 建物が幕に閉じ込められて三日目に、四〇一号室のチャイムが鳴った。たまにセールスマンが訪れてくるが、誰がきても無視することになっている。チャイムを無視するということだけでも、爽快な解放だ。

 チャイムはしつこく鳴り続けた。

 ドアアイから覗くと、ひょろりと色白な若い男が立っていた。生真面目な顔をして、自分の指先を一心に見詰めてチャイムを押し続けている。チェーンを掛けたまま、ドアを少しだけ開いた。

 どなたですか、とおずおずと問い掛けると、不意にドアの隙間から、薄い白いものを握った手が、切りつけるように突き出された。ひやりと、後ずさりした。

 よく見ると、差し出されているものは、角封筒だった。外の光を青白く乗せて、斜めに鋭角に突きつけられてくる封筒の、強い意志に思わず引き込まれた。

受け取ると、腕が素早く引っ込み、ドアが向こうから強く押されて、音を立てて閉まった。

 慌てて鍵をかけて、ドアアイに眼を寄せると、男の姿はなかった。封筒に眼を落とす。真ん中に、四〇一号室へ、と几帳面な小さな字で書いてあった。裏返すと、差出人は、三〇一号室よりとなっている。ここの客なのだろうか。それとも住人なのだろうか。

 封筒の中身は、一枚のB五判くらいの大きさの用紙だった。不思議な文字が並んでいた。

「8l6t5!dw(L&T%DW」q2gmkskg?94p12v!sf2!Qg84k3hj。8・8ft!nkmk?」

 どこかで見覚えがある文字模様だった。ああ、そうだ、と幸子は思った。夫が生きていた頃、残業しても終らない会社の仕事を家に持ち帰ってやるために自分でもパソコンを持っていた。たまに不思議な文字が、白い紙をぎっしりと埋め尽くしてプリンターから吐き出されてくることがある。そのたびに夫は舌打ちをして、「あーあ、文字化け、しやがった」と、面倒くさそうに言うのだった。男が手渡していった手紙は、その、文字化け≠ノ似ていた。手書きだった。

 水曜日と、金曜日にも、文字化けの男は来た。チャイムを相変わらずしつこく鳴らす。ドアアイのレンズに男は顔面を妙な具合にデフォルメさせられて、幸子がドアを開けるのを一心に待っている。その下すぼまりに見える腿の辺りに白い角封筒を持った片手がある。相手が諦めるのを、お互いに辛抱強く待っている。

 そのうち、ドアの新聞受けに、ことん、と軽い音がして、白い角封筒が落ちる。男は、ドアアイからふっと消える。

 拾い上げた手の中のひんやりと冷たい手触りの封筒をちょっと見つめて、端をゆっくり破りとって開ける。やはり、文字化けの奇妙な手紙だ。

 あの男はたぶんこのマンションの住人だろう。青い幕に覆われた水の底を泳いで楽しむどころか、逆に鬱陶しく、小さなカプセルのようなワンルームに閉じ込められてしまったのだろうか。一日じゅう青く染まってうずくまっている男の吐くひと息ひと息が、カプセルの内側に濃く重く溜まっていく…。

 自分の吐き出した澱んだ息を吸い続けるのは、辛いものだ。

 迷ったすえ、やはりトミ子に相談しよう、と思った。もしあれが拓也だったら、と思った。あの子の親は、さぞ切なかろう、と身につまされたのだった。

 トミ子に、一通だけ持ってきた文字化けの手紙を差し出して、事情を説明した。親御さんに連絡したら、と言うと、ええ、そうなのよね、と頷いて、トミ子はそのまましばらく何も言わず封筒を手の中でもてあそんでいたが、決心したように言った。

「ごめんなさい、あれね、あたしの息子なのよ」

 言ってしまったらほっとした、というように、いい子だったのよォ、とトミ子は裏返ったような声で言う。国立大学の修士まで取って、製薬会社の研究所に入った自慢の息子だったのよ。でも、一年も経たないうちにその会社を辞めて帰ってきてね……。

 まあ、それは、と幸子は呟いた。

「それから、一年とちょっと。ほとんど口をきかないのよ。部屋に閉じこもって……。何があったのか、分らない。ろくでもない亭主とはとうに縁を切っちゃったし、独りでうろたえてね。会社の上司に電話をかけて訊ねたんだけど、理由は分らないって逃げられて。鬱病じゃないですか、って。クリニックに行かせたけど、相変わらずなのよ」

 トミ子は淡々とそれだけのことを言うと、ちらっと上目遣いに幸子を見た。幸子は、単なる欝病にしては少し異常すぎないか、と喉元まで出かかった言葉を呑み込んだ。

 こんな息子がいて、他人様のリラクゼーションなんて、と思ってるんでしょ、でもね、あたし自身が、そういう場所が欲しいと、ずっと思ってきたから……。

 トミ子は幸子の沈黙に、弁解がましくぶつぶつとそう言った。

 人には案外、口に出さずにひっそりと耐えていることが、あるものなのだ、と以前言ったトミ子の言葉がよみがえった。このリラクゼーションルームを、空き部屋対策で適当に商売をしているんじゃないかと思っていたことに、少し気が咎めた。

「あの暗号が解けたら、あの子は治るんじゃないかって思いついてね、一生懸命、解読しようとしたけど……」

 トミ子は、どこか面白そうに言う。あんな手紙でも、書かないよりはましだと思っているらしい。

 うちの息子もね、と拓也のことが喉元まで出かけたが呑み込んだ。言ったところで、拓也やトミ子の息子のことがどうなるわけでもない。拓也はまだ正常だ、という安心感を洩れこぼしながらトミ子と慰め合う自分は、きっと、醜悪だ。

 

 あの部屋に行ったあとに、視界の色が変わるとか、広がるとか、考え方が変わるとか、そういったことはほとんどなかった。やはり、以前と同じ色で、街は広がる。それでもあの部屋にいる間だけのやすらぎがある。物思いはしても、拓也の立てる物音はない。たとえば、テーブルにコップを強く押し付けて置く固い音。冷蔵庫のドアを、力を込めて閉める音。それらの鋭い音がぶつかってくる度にびくっと肩に力が入り、両腕に何かの予感のように鳥肌がぞわりと立つ。特に頭上で響く、不意に爆発するように床を強く蹴りつける音は、幸子の胸をどすんと撲りつけ、しばらく不安な圧迫感で胸に居坐り続ける。猫のように、幸子も大きな音に慣れることができない。

 拓也には母親が脅えているなんて思いも及ばないのだろう、静かにしてよ、と弱々しく言うと、知るかよ、と突き飛ばすような声が返ってくる。あの可愛かったタックンは、もういなくなったのね、と呟いたら、何、それ、と眼に角を立て、吐き捨てるように言う。

 お母さんにいろいろ言われると、逆のことしてやろうと思うんだよなあ、知らなかったろう?

昔からそうだったんだよ。

 素直ないい子、と思って育てたわ、と幸子は呟く。拓也の言い分は、あまりにありきたりなことで、自分だって母親にはそうだった、と思い出すのだけれど、なぜか我が子から面と向かって言われると、ショックが深い。

 自分はたぶん間違いの多いやり方ばかりしてきたのだろう。なんだか茫然と立ち往生している。いま、自分がどっちを向いているかも分らない。よく分かったのは、「ははおや」という言葉の魔法はもう効かない、ということだけだった。

 拓也の、母親をズケズケと踏みつける言葉は、新しい刃物のように切れ味が良い。何かの代わりに斬られている、と感じる。

 だが逆に言葉で意思表示をほとんどしない静かにうずくまるだけの息子≠持つトミ子の心のうちは、どんなものだろう。

 

 それから三日後に、トミ子の息子を事務所で見た。

 息子は、半分開いたカーテンの奥で、ユリを膝に抱いていた。トミ子はちょっと席を外しているといったふうで、机の上の湯呑みから湯気が微かに立っている。トミ子の息子はこちらを見向きもしない。待っている間、ついカーテンの奥に眼がいく。ユリを借りに来たのに、と焦れた気持ちになる。

 ユリは、トミ子の息子の胸に前肢をかけて立ち上がり、熱心に見上げていた。掠れた声で、にゃあ、と鳴き、自分を見下ろしている顔にむかって右の前肢を指をいっぱいに開いてゆっくりと伸ばしていく。それを、男の頬に甘えるように柔らかくあてた。トミ子の息子の口元に、微笑が浮かんだ。

 ユリの放つ雰囲気が違う。いつもより大きな音をさせて喉を鳴らし、トミ子の息子を一心に見上げている。彼の顎のあたりを伸び上がって舐めるユリの首の辺りに、優しさが漂っている。猫も、愛しい、という表情をこんなに露わに見せるのかと、ふっと微笑みが浮かぶ気持ちになった。

 トミ子の息子の陽にあたらない生白い指先が、ユリの背中の毛に埋もれている。ユリの目を覗きこんで、低い声で何かを囁きかけている。途切れ途切れの声は、文字化けの、暗号のような言葉に似ていた。ユリは、幸せそうに、にゃああ、と声の無い息で鳴いて答え、シャラシャラと喉を鳴らしながら、息子の痩せた頬を何度も舐めた。

 トミ子が事務所の右奥のドアを開けて、あら、ごめんなさい、と小声で言った。そして少し困った顔で、カーテンの奥をちらりと見た。一時間、ずらしましょうか、と囁くと、トミ子はほっとした顔で手を合わせて見せた。

 

 文字化けの手紙は、来なくなった。トミ子の息子をあれから二回ほど見かけた。

 建物全体が幕に覆われているので、普段なら剥き出しの通路も、洞穴に似ている。外の光を避けているらしいトミ子の息子には、通路をうろつくには格好な条件なのだろう。閉ざされて窒息したのではなく、建物ごと膜のような幕に覆われて守られているのかもしれない。何かから。

 試しに一度、こんにちは、と話し掛けてみたけれども、黙ってすれ違っていった。相手の反応に構わず世間話じみた罪のないことを話してはどうだろうか。

 例えば、ロボットのペットのこと。

 生き物の気配を持つあの造りものの犬を見た時、あなたは、どう思った? とか、ヒトの感情を敏感に汲み取るテレパシーに近いものや、温かさも、柔らかさも、臭いも、鼓動もないものを、なぜ生きていると錯覚したいのかしら? とか、絶対に支配的で、排泄物の世話や食事の心配、病気の看病などの何の犠牲も負わないで済む立場で、愛着が育つとしたら、それはどういう種類の愛なのかしらねとか、そんな青臭い議論を、真面目な顔で吹っかけてみたら、トミ子の息子は、どんな顔をするだろうか。

 けれども、文字化けのあの文字のひとつも、理解できない自分は、肝心なところで通じる言葉を持たないような気もする。自分の息子に通じる言葉さえ見付けきれないでいるのだもの。

 

 聞こえるか聞こえないくらいに音を絞ったボサノバのリズムに心を任せて、幸子はベッドに横たわっている。腕を伸ばして、足元のユリのぐっすりと寝込んで無抵抗な体を引き寄せる。

 ユリの鼓動は、トクトクトクと、速い。リズムが速いぶん、猫は速く生きて、早く寿命が尽きるのだろうか。ユリの温かく柔らかい横腹に鼻先を埋めて、目を閉じた。

 うつらうつらと、何時の間にか、生き霊のように家に戻っている。階段を上がっていく拓也の足音が、耳元で揺れる。

 夢の中で、玄関の三和土を見下ろしている。片方ひっくり返ったままの拓也の靴。いつ踵を踏む癖がついてしまったのか、靴の後ろが潰れている。幸子は靴を揃える。どこを歩いてきたのか、体温が微かに残る茶色の分厚い革靴は、外気を吸い込んだまま不機嫌に歪んでいる。靴を手に取りひとしきり眺めた後、潰れた踵を引っ張ってみる。いくら引っ張っても、一旦歪んでしまった靴は元に戻らない。拓也は、歪んだ靴のほうが歩き易いのだろうか。

 ねえ、猫を飼ってみようか。拓也にむかってふわふわとした声で言っている。ねこ?

と、拓也が頓狂な声をあげる。そうよ、と若い母親だったころのように笑っている自分を幸子はいい気持ちで眺めている。あなたと口を利かなくても、ふたりで猫を見ているだけでいいのだから、と拓也にむかって楽しそうに言っている。体温のある生き物を抱いていると、やすらぐわ。胎児のときのあたしたちにだって尻尾があったんだもんね。自分の声が空中に散って、花が開くようにすっと目覚めた。

 枕元の時計を見て、まだあと半分の時間が残っていることを確かめた。

 ベランダに出た。工事は、大きな塗装部分がおおかた終り、これから細部を塗っていくらしい。塗料の臭いが頭の芯に突き刺さる。汚れた保護用の薄いビニールが、あちらこちらで破れ裂けて風にはためき、小刻みに音を立てている。足場が金属音を立ててきしむ。

 足元でユリが、何かを見付けた眼をしてかすれ声で鳴いた。ユリの視線をたどって見上げると、トミ子の息子がいた。七階の屋上に通じる足場に坐っている。その頭上の幕の一部が、少し開いている。塗料の臭いを逃がすためなのかもしれない。丸い形に切り抜かれた隙間から、空が見えた。トミ子の息子は、膝を抱えた姿で、その円形の空を見上げている。空中にぽつりと浮かんだ感じで、上を向いている。

 ユリを抱きあげて幸子も空を見上げた。

 風に、幕がはたはたと膨らんで鳴り、破れたビニールが竹薮のように騒いだ。

 傾きかけた陽光に柔らかく縁どられた円形の穴の、遥かな高みに、蒼く深い空があった。猫が小さな声で鳴いたので頬を寄せると、ユリの眼にも小さな空が映っている。

 

 十一月の終りに、幸子は父親の三回忌のために郷里に帰った。拓也を強引に連れて行かなければよかった。親戚たちには不登校を隠していたので、何気ない質問に神経をすり減らした。戻ってきて、くたびれが出て寝込んでしまった。

 二週間ぶりに、解き放たれたように、ユリのことばかり想っていそいそと事務所に顔を出したのだった。トミ子の様子が変だった。奥の椅子に座って、ああ、あなたね、とぼんやりとつぶやいたまま、立ち上がる様子もない。

 あのねぇ、うちの子ねぇ、死んじゃったの、とトミ子が言った。

 えっ、どの子? と、一瞬ユリのことが頭に浮かんだ。

 自殺じゃないのよ、本当に、自殺じゃなかったのよ、事故だったの。夜中にうろついたりするから、足場を踏み外したの。

 トミ子の総毛立ったような白茶けた顔つきを見つめていて、ああ……、と声が出た。ああ、それは……、何ということ。

 それきり、言葉に詰まった。

 葬式も、とっくに終っていて、相変わらず青い幕に包まれたマンションは、何事もなかったように風の音を立てている。

 ひととき、しん、と二人とも黙っていた。

 トミ子が唐突に、リラクゼーション、もう止めるわ、と言った。今更このマンションでそんなこと、してる意味もないしね。ここにいると辛いし、しばらく妹のとこに行くことにしたの。

 それでね、とトミ子は、幸子の顔を見た。

 犬は、妹も好きだから連れて行けるのよ。でもユリがねえ。妹が猫嫌いなの。あの猫ももう年寄りだし、貰い手も無いし、処分かなあ、って憂鬱なのよ。あの子が可愛がっていた猫だから……。

 じゃあユリは私の家に、と考えるよりも言葉が先に滑り出た。ほんと、悪いわねえ、とトミ子は幸子の返事を予期していたように、感情の動きが少ない声ですかさず言った。

 トミ子の息子は、あの丸く切り抜かれた夜空を見上げながら、真っ直ぐ墜ちていったのだろうか。墜ちていく耳元で風を切ったのは、あの抜け穴の空と繋がる冷たく冴えた深い空気だっただろうか。その音が耳に聞こえる気持ちがした。空の穴はトミ子の息子の抜け穴だったのだろうか。

 ユリを入れたバスケットを抱き取った。

 あなたには私の気持ちなんか、とても解らないでしょうけど、とトミ子が呟いた。トミ子のどこか敵意を孕んだ悲しみが、幸子を押しのけながら、ひんやりと食い込んでくる。

 抱いたままのバスケットの隙間から、ユリが幸子を見上げて、小さな声で鳴いた。トミ子が、逆剥けで白く荒れた指先を伸ばして、バスケットをやさしく撫でた。

 部屋の鍵は開けてあるから、と言うトミ子に頷いて、四〇一号室に行った。

 綺麗に片づけられたベッドにバスケットをおろした。置いたままだったCDと目覚し時計をバッグに入れる。

 サイドボードの抽斗をあけて、二通の文字化けの手紙を取り出してしばらく見詰めていたが、また元に戻して、抽斗を静かに閉めた。

 ざっと掃除機をかけた。「癒しの場」という人間臭い場所なのに、ここで眠った人間たちの痕跡は何もない。

 ベランダに出た。見上げると、幕の丸い穴から厚い雲に閉じ込められた空が見えた。下は見下ろさないまま部屋の中に戻り、ベッドに腰をおろした。

 ユリをバスケットから出し、膝に抱く。それから、枕元の一度も使わなかった電話を引き寄せて、受話器を取った。

 昼夜逆転している拓也の、寝惚けた声が雑音混じりに応えた。「よく聞こえないよ。こっち、すごい雨」

 拓也の声が途切れ、雑音だと思っていた雨音が、受話器を押し当てている右の耳殻から鼓膜の奥に満ちていき、頭蓋骨の内側に乾いた砂を撒き散らすように広がっていく。あの古家の灰色の板壁を、黒く濡らして降り込めている雨が目に浮かんだ。

 雨の音が拓也と自分との間を厚く埋め尽くしてしまうように思えて、慌てて受話器を握り締めて、もしもし、と呼びかけた。ああ、と応える声が遠い。

 猫を飼うことにしたわ、随分お婆さんの猫なんだけど、と声を励まして言う。

 なんで、そんなの連れてくるんだよぉ、と拓也の声が、子機を持ったまま窓を開けて外を見ているのか、雨の雑音でまだらになる。いい子なのよ、優しくって、温かくって仲良しなの、キジ猫でね、ユリっていう名前よ。片手を潜り込ませているユリの腹の温もりに声が和らぐ。

 溜息のあとに、「どうでも、いいよ、べつに、連れて、きたかったら、どうぞ」とぷつぷつ切れるような声が聞こえた。

「すっげー、空が裏返しに、なった、みたいな、土砂降りだあ」

 こっちは降ってないのよ、と言いかけた時、開けたままのガラス戸の向こうで、ひとつふたつと弾けるような音がした。ユリが顔を上げ、眼まで耳にして、音を捉える。幕を打つ雨の音だった。

 豆をぶつけるような雨音は、みるみるうちに間隔を縮めて受話器のなかのざわめきを呑み込んだ。驟雨は幕の外を斑らに流れ落ちる影となり、見上げると、幕の穴からも、空の色を映して捩れて光る水滴が、ひたすらに落ちてくるのだった。

 

 

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