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 太陽が眠る刻         難波田節子

 

 

初出「季刊遠近」16号(2001年9月)

『太陽が眠る刻』 おうふう刊

推薦 よこい隆さん(木曜日


 

      一


 悲しみに泣く女の上も、辛さを耐える男の上も、時は大股にまたいで通り過ぎて行きました。悪夢のようなあのシェバ族の襲来から早くも一ヵ月あまりの時が経ってしまったのです。大勢の若者を亡くした無念や、大量の家畜を盗まれた口惜しさは忘れようもありせんが、外目には何とか平常を取り戻したように見えるこの頃のケパール村でございます。
 男たちが畑に出て鍬を振るえば、女たちは甕を頭に乗せて泉へ水を汲みにまいります。子どもたちは羊を追って砂漠を駆け回り、娘たちは綿を紡ぎながらおしゃべりを楽しむ、そんな日々がようやく戻って来たのです。
 盗賊に散々踏み荒らされた上、その後すぐ追い掛けるようにやって来た台風に叩かれて、今年の大麦は平年の三分の一の収穫も望めないそうです。それでもアーモンドや棗椰子は、あの忌まわしい騒ぎを忘れたように、今年もたっぷり花をつけてくれました。
 シェバ族との戦いで家族を亡くした女たちも、ようやく家の外に出る気分になったのでしょうか。村の真ん中にある神殿に来て祈りを捧げる姿が目につくようになりました。結婚した女たちはみな黒い服を着け、豊かな黒髪もショールですっぽり覆っておりますが、婚約者が決まっていない若い女たちの中には、腰のくびれを際立たせるような派手な帯を結んだり、パンジーやアネモネの花を髪に挿したりするお洒落な娘もいて、男たちにとっては楽しい眺めでございましょう。それでいて可愛い娘たちは、若い男が傍を通るだけで恥ずかしそうに俯いてしまうのです。
 朝早くわたくしが水を汲みに行きますと、泉の周りに集まっていた女たちが心配そうに訊ねます。
「アマルさん、村長さんのお怪我はその後いかがですか?」
「奥さまは、どうしていらっしゃいます? 一遍にお二人も息子さんを亡くした上に、ご主人さまがひどいお怪我をなさったのでは、さぞお悲しみでしょうねえ」
 そして後から行ったわたくしに、水を汲む順番を譲ってくれるのです。私は遠慮なくみんなの好意を受け、深い井戸に縄のついた桶を投げ込ませてもらいました。
「お陰さんで、旦那さまのお怪我は、いくらかずつですが快くなっておられます」
 縄を手繰り上げながら、わたくしは毎朝同じ挨拶をいたします。三度ほど桶の水を汲み上げると、私の甕はほぼいっぱいになりました。
「奥さまも、ようやく気持ちを取り直されて、家の中を片付けたりなさっておられます」
 が、実のところ、旦那さまの怪我の回復はあまりはかばかしくないのです。あれから一ケ月経ち、負傷した男たちもほとんど畑で働き始めているというのに、旦那さまの脇腹の傷はかえって悪くなって来ているように見えます。熱が高くて冷たい水で冷やさねばならない日があるかと思えば、羊の毛皮を頭から被ってがたがた震えておられる夜もあるという具合なのです。奥さまもそんな旦那さまの病状に怯えて、何一つ手につかないようなご様子。相変わらず、シェバ族との戦いで亡くしたお子さまたちのことを想っては、涙を流していらっしゃるのです。
 お仕えするわたくしどもには心配をかけまいと気を遣っておられるのでしょう、旦那さまはいつも「治りが遅いのは歳のせいだろうよ」と、冗談めかしておっしゃいますが、いえいえ旦那さまはまだそんなご高齢ではございません。旦那さまよりいくつも年上の人が、この村にはまだ大勢元気で働いております。多分奥さまと同じように、息子さんを二人も亡くされた悲しみで心が弱っておいでなのです。それが証拠に、昨夜も譫言で「ベンよ、オベデよ」と息子さんたちの名を呼ばれました。身動きが自由にならない旦那さまの夜中の小用のために、隣の部屋で休むことにしたわたくしには、奥さまの啜り泣く声が聞こえました。
 困ったことに、旦那さまと奥さまだけではなく、若奥さまのエベルさままで、あれ以来お部屋に引きこもったままなのです。昨年結婚なさったばかりのベンさまが、シェバ族の矢に命を奪われてしまったのですから無理もありません。けれども、エベルさまのお腹には、今ベンさまのお子が育っておられるのです。お腹の赤ちゃんのために、何か精のつくものを召し上がってほしい、少しでも外の乾いた空気を吸っていただきたいと、わたくしどもは気が気ではありません。それなのにエベルさまは、お腹の中で子どもが動いたと言っては涙をこぼし、動かぬと言っては不安がって泣いておられるだけなのです。今朝もわたくしは、ほとんど叱るようにして、エベルさまに山羊の乳を飲ませたところでございます。
 しかし何と言っても、ベンさまは血の気の多い若者でした。村長の家の長男だという自覚もあったのでしょう、他民族が攻めて来ればいつも村人の先頭に立って戦われるのです。今回のように武器を持った強敵の場合、的になるのは避けようもありませんでした。けれども末っ子のオベデさまの方は、まだ十歳に満たないお子さまです。その死をご両親が諦めきれないのは当然でございましょう。二十年以上もご奉公しているこのわたくしでさえ、お二人をお慰めする言葉が見つかりません。肩を落してぼんやりしておられる奥さまの後ろ姿を、痛々しい思いで見つめるだけでございます。
 小さなオベデ坊ちゃまは、戦いに参加したわけではないのです。あの騒ぎに怯えて走り出た驢馬を追って、お母さまが止めるのも聞かずに飛び出したのです。去年、収穫の祝いにお父さまから贈られたその驢馬を、それはそれは可愛がっておられたので、万一石や矢に当ったら大変だと思われたのでしょう。ところが、追いすがって驢馬の首を抱え込んだ途端、飛んで来た石つぶてがぴしっと坊ちゃまの頭に命中したのでした。
 血を流しながらも意識のある間、坊ちゃまは驢馬の鼻先を撫でておられました。しかし看病に疲れた奥さまがついうとうとなさった三日目の夜中、誰も知らないうちに、坊ちゃまは息をしなくなってしまったのです。明け方わたくしが汲んで来たばかりの水を差し上げようとした時は、冷くなった坊っちゃまの頬を驢馬が舐めまわしていたのでした。
 非常時の不運を詮索したり恨んだりしてはいけないでしょうが、坊ちゃまの傷は右の耳の上で、方角から言えばこちらから投げた石が当ったとしか思えません。誰も何も言いませんが、そのことにはみんな気付いているはずです。第一、どうして敵が石などで襲って来るでしょう。賊の方は弓や槍などの凶器をいっぱい携えて来ておりました。投石でそれを防いだのはこちら側だったのです。武器を持たない村の女や年寄りが、石を拾っては投げて敵を悩ましたのでした。奥さまが未だに村人に会おうとなさらないのは、その辺の気持ちの整理ができていないからだと思います。
 旦那さまはもともとお丈夫な方ですから、当初は脇の傷も順調に回復していたのです。運悪くあのような台風が来なかったら、今頃は元気に働いておられたに違いありません。全くあの時の雨台風と来たら、滅多に雨の降らないこの地方では初めて経験した凄まじいものでした。砂漠の村にとって、本来雨は何よりの恵みなのです。が、あのように一度に強く降られては、麦も豆も植えたものはみんな砂と一緒に流されてしまいます。村人を指揮して一晩中土留めに尽力された旦那さまは、明け方泥まみれになって帰って来られました。それ以来なのです。傷からじゅくじゅく膿が流れ出して止まらなくなってしまったのは。
 毎朝わたくしが泉で汲んで来る新しい水で、奥さまは傷を洗って差し上げます。我慢強い旦那さまにも、その時の痛みは堪えがたいらしく、歯を食いしばって震えておられるのが痛ましくてなりません。時には真っ青になって失神してしまわれることもあるくらいです。でも、泥水に浸ったために悪化した傷ですから、不潔にしておくのが一番いけないことだと信じて、奥さまは毎朝膿を洗い流してさし上げるのです。
 いつでしたか、次男のギボルさまのお嫁さんが、蝮の血に浸した葡萄の葉を傷に貼りつけて行かれたことがありました。傷口から泥と一緒に入った悪い蟲を、血の匂いで誘い出すというわけだそうです。お嫁さんの実家に伝わる治療法のようでしたが、一晩おいて剥がしてみますと、傷口は紫色に腫れ上がり、それまでにも増して痛々しく膿をためているように見えました。
 もともとギボルさまのお嫁さんの実家は、南の方から流れて来た異部族ですので、この村の人々とは違う生活習慣を持っておられます。蝮の血も、その部族の人には薬効があるのかもしれませんが、わたくしどもの神さまは、地を這う動物を汚れたものとして嫌われる方です。そのような忌むべきものの血を、たった一晩でも傷に貼りつけたことを悔いて、奥さまは気の毒なほど悩んでおられました。異教徒のまじないとしか思えないその治療をお断わりしたのが気に障ったのか、次男のお嫁さんはそれ以来ふっつりと顔を見せてくださらなくなってしまいました。

 

       二

 その朝、村の役場で書記係を務めるラシャーがひょっこりやって来ました。
「そろそろ麦の収穫時ですで、男手の割り振りやら祝いの計画やら、色々相談しなけりゃならんことがありますが、村長さんが顔を出されるのはまだ無理ですかのう」
と言うのです。
 ちょうど奥さまが傷の手当てをしておられるところでしたから、何とか玄関で追い帰そうとしたのですが、図々しいラシャーは、
「あんたじゃ話にならんわい」
と、乱暴にわたくしを突き飛ばし、ずかずか奥に入って行ってしまいました。はらはらして待っておりますと、やがてけたたましい叫びを上げて、ラシャーは飛び出して来ました。
「ああ、神さま、お助けください。この村をお見逃しください」
などと、ほとんど半狂乱で、わけのわからないことを叫びたてるのです。
「ラシャーさん、お願いですから、少し静かにしてください」
とわたくしは必死で頼みましたが、ラシャーは怯えたようにわめきながら、着物を翻して帰って行きました。
 そしてしばらくすると、今度はシルトーンをつれて引き返して来たのでした。シルトーンは村長を扶けて村の農業指導をしている男です。居丈高な態度で村中の嫌われ者なのですが、家畜の増殖には経験が豊富だとかで、旦那さまは彼に一目置いておられるようでした。
 シルトーンは大股で入って来るなり、不作法に旦那さまの体から毛布を引き剥がしました。
「おう、ラシャー、お前の言う通り、こりゃあただごとじゃねえな。正真正銘のサタン病だ。何とかしなけりゃ、村が滅びてしまう」
「違いますっ」
 わたくしは彼らを家に入れてしまった責任を感じて、夢中で割り込みました。
「旦那さまはサタン病なんかじゃありません。シェバ族の矢を受けた傷をこじらせてしまっただけですっ」
「あの時怪我をしたのは村長だけじゃない。俺だって、ほれ、ひどく肩をやられた」
 シルトーンは麻織りの着物をずらして左肩を出して見せました。そこには小指の半分ほどの傷跡が、赤く鍵型に残っていました。
「旦那さまの怪我は、最初からそんな生易しいものじゃなかったんです。わたしが歯で啣えてようやく引き抜いたほど、深く矢が刺さっていたんです。それなのにあの嵐の時は、一晩中泥の中で村のために働かれたんですよ。シルトーンさん、あの晩あんたは家でふうふう言って寝てたっていうじゃありませんか」
「ふん、当たり前じゃろうが。自分の粗相で作った傷じゃない。村を守るために戦って負傷したんだ。元気な者に働いてもらって何が悪い。今更恩に着せる方がおかしかろう」
「恩に着せているんじゃありません。傷の治りが遅いわけを説明しているんです。シルトーンさんのように大事にしていたら、旦那さまだってとっくに治っていらしたはずですから」
「何とまあ、村長は気の強い女を雇っておられる。さすがですな、頼もしいことだ」
 シルトーンは嘲るように嗤ってから、横柄な態度で旦那さまに向き直りました。
「原因は何にしてもですな、このままというわけには行きませんぞ、村長」
 その時、ラシャーが進み出て来ました。落ち着こうとするように何度も唾を飲み込んだ後で、胸を叩きながら言いました。
「実は、このところの災難続きで、村の中に動揺が起こっておりましてですね」
 シルトーンが焦れったそうにその後を引き取って続けました。
「村長のこのざまを見たら、連中何を始めるかわかりませんぞ」
 ラシャーは興奮した声で叫ぶように言いました。
「暴動が起こるのは時間の問題です。早急に何とかしませんと」
「暴動って、何のことですか? ラシャーさん、一体何の話をしているのですか?」
 日頃おとなしい奥さまも、さすがに顔色を変えてラシャーをにらみつけました。
 ああ、どうしたらいいでしょう。おしゃべりなラシャーは、今日のうちにも村長はサタン病だと村中に言い振らすに違いありません。
 やはり彼らを家に入れるのではなかった。ラシャーを玄関で追い払えなかったわたくしの責任です。わたくしはぎりぎり歯噛みをしないではいられませんでした。
 わたくしどもにとって、サタン病ほど恐ろしい病気はないのです。体中が膿で腐って溶けて行くばかりか、凄い勢いで周囲に伝染すると言われています。神さまが人間の罪に腹を立て、村ごとこの世から掃き出そうと思われた時に流行らせる病いだそうで、もしサタン病の患者が出たら、すぐに村から追放してその家を焼き、村が患者の罪とは無関係であることを神に証しなければならないのです。
 しかし、長年村のために献身的に尽くして来た村長が、サタン病に罹るはずなどないではありませんか。彼らの悪意に満ちた早とちりを何とか押し留めなければと、わたくしは焦らないではいられませんでした。
 上目遣いにシルトーンを見上げていたラシャーが、その時揉み手をしながら口を出しました。
「こうしたらどうでしょうな。村の連中に騒がれる前に、今ここで村長が辞職なさるんです。シルトーンさんを後任の村長に指名するんですよ。サタン病患者が村長でなけりゃ、少しは時間が稼げます。後始末はわれわれでゆっくり考えましょう。ここでの非公式な村長の交替は、不肖わたくしめが証人になりますで」
 そんなことを言い出すラシャーに、わたくしは唾を吐きかけてやりたい思いでした。しかし旦那さまは静かにおっしゃいました。
「わたしの回復には時間がかかりそうだから、取り敢えず村のことは誰かに頼まなくてはなるまいと考えていたところだ。早急に村の衆が納得してくれる人を選んでおこう」
 シルトーンはにやっと嗤いました。
「今のあんたが選んだ人で、村の衆が納得しますかな」
「どういう意味ですか? シルトーンさん」
 黙っていられなくなって、わたくしは生意気にもまた口を出してしまいました。
「むかしから、新しい村長は前の村長が選ぶならわしじゃありませんか」
 旦那さまが村長になったのは、前の村長だった父上の遺言によるものでした。それを祭司さまが正式に認めなさった時、村人は誰一人反対しなかったと聞いております。
 シルトーンは、両手を広げて肩をすくめてみせました。
「アマルさん、召使の分際であんた少々出過ぎていやしないかな。大体女は政治向きのことに口を出さんものだ。この際奥さんにもはっきり言っておきますが、サタン病に罹った病人をどう始末するかは、ご存じなんでしょうな」
 その時です。いきなり床に這いつくばったラシャーが甲高い声をはり上げました。
「おお、天地をお造りになった全能の神さま、わたしどもはあなたさまを唯一の神として尊び崇め奉ります。この村長が罪人だとは知らずに、長年付き合ってまいりましたわたしどもの無知を、どうぞお見逃しください。本当に、わたしどもはこの男があなたさまにこんなひどい目に逢わされるほどの悪人だったとは知らなかったのです。このような罰を、わたしどもには及ぼさないでください」
 ラシャーは本気で村長の不幸が神の罰だと信じ込んでいるのです。シルトーンは嗤って、そんなラシャーを顎で指しました。
「村の連中なんて、みんなこの程度のもんです。村長がサタン病だと聞けば何をしでかすやら。わたしは責任を負いかねますな」
 思わずまたいきり立つわたくしの腕を、奥さまが掴んで後に引き戻しました。「もう何も言うな」と首を横に振ってみせながら、旦那さまも大きなため息をつかれました。
 どうしてこんなことになってしまったのでしょう。つい先日まで、シルトーンもラシャーも、村長の家の良い隣人だったのです。
 ラシャーはあの日、息子が風邪を引いて家畜を外に出せなかったので、偶然にも盗賊の被害を免れました。その幸運を感謝して、大きな被害を受けた村長の家に、何度か山羊の乳を持って来てくれたものです。シルトーンにしても、干した無花果を袋にいっぱい届けてくれたではありませんか。シルトーンは、自家の無花果の味を自慢はしますが、まず絶対他人に振る舞ったりしない人なのです。でもあの戦いの時、危うく敵の矢を受けるところだった父親の身代わりになってくれた村長に、それくらいのことをしないではいられなかったのでしょう。本当に、もしあの時旦那さまがシルトーンの父親を庇ってあげなければ、旦那さまの脇腹に刺さった矢は、彼の脳天に命中していたに違いありません。前のめりに転んだシルトーンの父親を助け起こそうとして屈んだ瞬間、矢は音をたてて飛んで来たのですから。
 あの日シェバ族を一歩も村へ入れるまいと、村人が必死で戦ったのは、大切な穀倉を守るためでした。ケパール村にとって何より大切なのは五棟の穀倉です。毎年の収穫から全戸が少しずつ出し合って、いつ来るかわからない飢饉に備えているもので、いざという時には全村民が二年くらいは何とか生き長らえるように備蓄しているのです。暑い砂漠の村のこと、黴が生えないように風を入れたり、蟲がわかないように日に干したり、細心の注意を払って管理しているのです。それはそれは面倒な作業ですが、だからこそ穀倉を守ろうという思いが村を一つに結んでいるということも言えると思います。若者が射る矢、投げる槍、女や年寄りの投げる石、さすがの賊もこちらの気迫に押されて村に攻め入ることは諦め、砂漠に放してあった牛や羊を攫って引き上げて行ったのです。
 やれやれと思う暇もなく襲って来たのが例の台風でした。信仰深く善良な人間だけが住むこの農村に、どうしてこうも酷い災難が続いたのでしょう。もしかしたら神殿の供え物が少なかったのではないかと首を縮めて心配していたラシャーは、それがどうやら村長のせいだったらしいと単純に思い込んだのに違いありません。まことに神さまは恐ろしい方だ、村長がどんな悪いことをしたのか誰も知らないのに、神さまはちゃんと天から見ておられたのだ。そう思うと、気の小さいラシャーは震え上がらずにはいられなかったのでしょう。
 ラシャーが、大声に祈る声は、夜更けまで近所中に響いていたという話です。

 

        三
 わたくしは読み書きもできませんし、数を数えることもうまくできませんので正確には申せませんが、奥さまがこの村へお嫁に来られてから、もう二十年以上経つと存じます。十歳以上年上の旦那さまも、その頃はまだお若く、代々村長を務める名家のご長男として、村の娘たちの熱い視線を集めておられたものでございました。もしかしたら、遠い村からやって来て、ひょこんと妻の座におさまってしまった奥さまは、そんな娘たちから妬まれたのではなかったでしょうか。
 奧さまのお名前はイムさまとおっしゃって、ご実家はここから北へ驢馬で二日もかかる小さな村にございます。そしてわたくしは、その村の長老さまにお仕えしていた奴隷でした。長老さまはイムさまの名付親でもありましたから、小さな子どもの時分から可愛がっておられました。こんなに遠い南の村へ、一人で嫁がせるのは心配だったのでしょう、わたくしにお供を命じられたのです。
 わたくしは、砂漠の中を村から村へ歩く商人につれて来られた女で、どこで生まれたのやら、親も兄弟もわかりません。わたくしを買い取ってくださった長老さまだけを、親と思ってお慕いしてまいりました。死ぬまでおそばに置いていただけるものと信じて尽くして来た長老さまから、いきなりイムさまに従いて行けと言われた時は、死ねと言われた方がましだと思えるほど辛かったものでございます。召使の分際で不届きな話ですが、それほど長老さまに愛しまれているイムさまを、嫉ましく思いました。もっとはっきり申し上げれば、わたくしから長老さまを奪ったイムさまを、お恨みさえしたのでした。
 気立てが良くて信仰深い娘をという嫁取りの条件に、長老さまは迷わずお気に入りのイムさまをお選びになったのでした。イムさまご自身はまだお若かったことですし、大人の決めたことに逆らえなかっただけでしょうが、ご両親は玉の輿に選ばれた娘を誇りにお思いのようでした。先さまからは、結納として沢山の羊や麦を贈って寄越したそうで、その半分は長老さまに届けられました。何と言っても、豊かな南の村へ、それも村長の跡取り息子の妻として嫁ぐのです。親孝行な娘よ、運の良い親よと村中の羨望にとり囲まれたものでした。
 けれども、どの村にもどの家にもそれぞれの仕来たりというものがございます。まだほんのねんねだったイムさまにとっては、それに慣れるのが一苦労でした。気が利かないと言ってはお姑さまに叱られ、何をしても不器用だと言って小姑には嗤われ、ひっそり涙を流しておられたことも度々です。正直に言えば、内心小気味よく思うこともないではなかったわたくしですが、やはり二人きりのよそ者同士、情が移るとでも申しましょうか、慰め合い励まし合って今日まで来たというわけなのでございます。
 ご自分のそんな経験を思い出すからでしょうか、実家が遠いのは何より心細いことだからと、イムさまは子どもたちをみな望む相手と一緒にさせておやりになりました。次男のギボルさまの場合などは、小さい頃から好き合っていたらしい娘さんが妊娠してしまったので、仕来りを破ってご長男より先に結婚させなさったのです。旦那さまにとっては、信仰する神が違うことが何より心配の種だったようですが、お腹の大きくなった娘さんを見捨てるわけにはまいりません。一緒に暮らすうちには、いずれ女は夫に従うものと望みを持って、小ぢんまりした家を建てておやりになったのでした。
 ところが相手は父親のいない家庭の長女でしたから、その小さな家に母親と義妹たちをみんな引き取り、ギボルさまが面倒をみなければならないことになりました。事実上婿入りした形になってしまったわけです。
 何事もなければそれでもよかったのですが、ご長男と三男のお二人が一遍に亡くなってしまった今、この家の男子は次男のギボルさまお一人ということになってしまったのです。女の子が二人もでき、向こうの母親や義妹たちにも頼りにされているご次男を、今更返してほしいとも言えず、ご両親にとってはまことに頭の痛いことになってしまいました。さすがに気弱になって、旦那さまもため息をおつきになることが多くなりました。
 旦那さまは以前から、ご自身が役を退いた後のことを色々考えておいででした。ご本心は末のオベデ坊ちゃまに継がせたいと思っておられたのです。村長という立場上、ほかの人にはうっかり愚痴もこぼせませんが、わたくしになら何を言っても大丈夫と信頼してくださったのでしょうか、時々本音を洩らされることがありました。「あの子をもっと早く与えられていたらなあ」と、口惜しそうにおっしゃったこともございます。「長男のベンは、体も丈夫だし力も強いが、大まかでいま一つ思慮深さに欠ける。次男は度量が小さ過ぎる。女房の尻に敷かれているから頼りなく見えるのではないかと、何度も目をこすって見直すが、やはり村を任せられる器ではない」と、肩を落として言われました。娘さんたちが嫁した相手もそれぞれ良い若者ですが、旦那さまが自信を持って村長に推すには、今一つ何かが欠けていたのでござましょう。
 村長ともなれば、村の隅々まで、つまり働けない病人や身よりのない老人にまで穀粒が行きわたるように気を配らなければなりません。オベデ坊ちゃまならその気配りができると、旦那さまは見ておられたのです。
 歳を取ってからひょっこり生まれた子は特別に可愛く、神さまからの授かりもののように思えるものだと聞きますが、そんな依怙贔屓を差し引いても、オベデ坊ちゃまには、確かに特別な賢さと優しさが備わっていたと、わたくしも思います。例えば麦の収穫の時など、旦那さまがわざと畑に沢山穂を落としたまま引き上げた後、それを拾いに来る女や子供たちに混じって、坊ちゃまもせっせと落穂拾いをなさいます。拾いに来られない病人の家に届けて上げるためでした。あんな優しい坊ちゃまをお召しになるとは、神さまもよくよく意地の悪いお方でございます。
 シルトーンが大分前から村長の座を狙っていたことは、旦那さまも苦々しい思いで感じておられたと思います。しかしあの四角頭の男には、とても村を任せるわけにはまいりません。彼が刈り取った後の畑には、落穂どころか藁屑一本落ちていないのは有名な話です。物欲の強い人が権力を併せ持ったら、村に助け合いの気持ちがなくなります。みんな我欲で自分の生活を守るようになり、必ず奪い合いが始まるでしょう。襲って来る他民族となら戦いようもありますが、内部の憎み合いだけはどうしようもありません。旦那さまがおっしゃる通り、村は内側から簡単に崩れて行くに違いありません。
「この歳になってこんな仕打ちを受けるとはなあ。残酷な神を恨まずにはいられないよ」
 低い声でそんな愚痴を呟かれるご主人に、イムさまはご自分の気持ちを言い当てられたような気がするのではないでしょうか。だからだと思いますが、慌てて旦那さまの口を押さえなさるのです。
「おやめになって、あなた。そんな言葉がもし神さまに聞こえたらどうします?」
 長老さまが自信を持って推薦なさっただけあって、イムさまは信仰深い素直な方です。でも、召使ごときが失礼を顧みず生意気なことを言わせていただければ、苦労しておられない分だけ単純なところがおありで、不安な面もあります。ただただ神さまの罰を恐れるだけの信仰では、もし誰かに神さまのご意志だと耳もとで囁かれたりしたら、どんなことでもやりかねないような気がするのです。
 わたくしは罪の塊のような人間で、神さまについては恐れ多くて何も言えません。が、幸運や不運は天から降って来るもので、人が選べるものでないことだけは存じております。何故? などという疑問に答えなどございますまい。神さまがお決めになることには、誰も逆らえないのです。納得できてもできなくても、黙って従うことしか人間には許されていないのです。北の村の長老さまは、いつかわたくしたちを苦しみから解放してくださる方が、天から下っていらっしゃるのだとおっしゃいました。その日を信じて辛抱強く待つ人だけが、救いにあずかれるのだと。それがいつのことかわたくしなどにはわかりませんし、それまで生きていられるかどうかもわかりません。待つことは、耐えることなのでございましょう。
 あの強烈な光と熱を持つ偉大な太陽でさえ、一日の始めには必ず眠らされるではありませんか。太陽が眠っている間、わたくしどもは闇に伏して待つだけです。太陽が目覚めて、再び村を明るく照らしてくれなければ、人は何をすることもできないのです。もう少しで畑を耕し終わるからと言って、太陽に眠るのを待ってもらうわけには行きません。シェバ族が襲って来たあの禍々しい日でさえ、太陽は眠り、また目覚めて昇って来ました。あの大雨の日も、雨の向こう側で太陽はいつもと同じように眠ったり目覚めたりしていたのです。それが証拠に、あんなにひどく雨が降っている間も、朝になれば村は明るくなったではありませんか。
 わたくしどもの住む地方では、夕方太陽が眠る刻から一日が始まります。砂漠のずうっと東の方には、一日は太陽が昇る時から始まる土地もあるそうですが、それはどういうわけなのでしょう。神さまは天と地から始めて、光や闇や生きものなどを、お一人でお創りになりました。最後に人間を創ってすべてのお仕事を終わり、満足してまずお休みになったのでした。この休養の時こそ、神聖な一日の始まりなのです。家族が集まっての食事、夫婦の睦み合いなど、一日の始めにすべき大切なことがすんだら、神さまに倣ってゆっくり眠るのがわたくしどもに与えられた最初の恵みなのです。
 わたくしがお夕飯を持って部屋に上がりますと、次第に暗くなって行く空を窓から見上げて、旦那さまは辛そうに呟かれました。
「今までは、一日の始めの安らかな眠りが何よりありがたかったものなのに、この頃はろくに眠れないんだ。この年まで、忠実に掟に従って来たわたしを、神はどうして守ってくれないんだろう。神のなさることが、わたしにはさっぱりわからなくなったよ」
 豆のスープをおすすめしながら、わたくしは気休めにしかならないようなことを申し上げるばかりです。
「まあまあ、旦那さまったら、今日はずいぶん弱気でいらっしゃいますこと。天や地を創られたほどの神さまですもの。その方のなさることなど、小さな人間にわかるわけはございませんでしょう。神さまがご自身で納得の行くように応えてくださるまで、余計なことはお考えにならずに、ゆっくりお休みなさいませ」
 ご主人さまに向かって、「長年忠実に仕えて来たのだから、守ってくれてもよかろうに」と考えるのは、召使や奴隷の立場にいるものでございましょう。反対にご主人さまの側にすれば、「払うものは払っているのだから、その分だけはきちんと働け」と言うことになるのでしょうか。いずれにしても、旦那さまのような立派な方と神さまとの間には、もう少し違った関係がおありなのではないかと思います。いずれにしてもわたくしには、何故旦那さまがこんな目に遭わされるのか全くわかりませんので、いつまでもこの苦痛から解き放してくださらない残酷な神さまを恨みたくなります。
 しかし奥さまには、旦那さまとは違う別の感じ方がおありになるようでした。
 昨日のことですが、臆病そうに周りを気にしながら、低い声でおっしゃったのです。
「ねえ、アマル、もしかすると、これはわたしへの罰なのじゃないかと思うのよ。わたしに辛い思いをさせるために、神さまはあの人に鞭を当てていらっしゃるんだわ」
 わたくしはびっくりしてイムさまの口もとを見つめました。
「わたしは罰を受けても仕方がない妻なのよ。神さまを心から崇めて来たとは言えないし、夫に心を尽くして来たとも言いきれない女ですもの。考えてみれば、わたしって、どんな時でも夫より子供の方を大事にして来たでしょう? 正直に言えば、子どもの父親だから、あの人に仕えて来たのかもしれないんだわ」
「そんなこと、罪でも何でもありません。イムさまは母親なんですから、力強い大人の男より先に、か弱い子どもを大切にするのは当たり前でございましたもの」
 わたくしはちょっと呆れてそう申しました。するとイムさまは、自分の手の指先を見つめるようにしながらおっしゃったのです。
「でもねえ、もう子どもたちはとうにわたしから離れて行ったわ。だから子どもの父親としてのあの人は、わたしからいなくなっちゃったのよ。近ごろはあの人、寝間でもわたしを楽しませてくれなくなったし、夫婦の愛情というものが、本当はどういう形のものなのか、わたしにはよくわからなくなっていたの」
 そんな不実な妻を、神さまがお許しになるはずがないと言うのです。何とまあ可愛らしい奥さまでしょう。親に隠れて悪さをした子どものように、どうしようもない不満から来る妻としての不誠実さを、ずっと気に病んでおられたらしいのです。でも、考えようによっては、あまりにも自分勝手な悩みというものではございませんか。実際に苦しんでおられるのは旦那さまなのです。怪我の痛みを感じていない奥さまの方が、それを自分への罰と受けとめるのは、もうこれ以上見ているのが辛くてたまらないというお気持ちからでしょう。旦那さまを心からお慕いしているわたくしとしては、それより先に、どうしたらこの苦痛を和らげてさし上げられるかを、真剣に考えていただきたいと思うのです。
「神さまは、オベデに続いて夫までわたしから取り上げるおつもりなのだわ、きっと」
 イムさまは、着物の前をかき合わせながら、そう言って涙ぐむのでした。
「大丈夫でございますよ、奥さま。旦那さまはきっと良くなられます。二人で一生懸命に看病してさしあげましょうよ」
 わたくしは、こんなことしか言えない自分が焦れったいくらいです。でもイムさまは、素直に頷いてお休みになりました。

 

       四
 ケパール村の日没は、よその村よりかなり早いと思います。村の西側に牛の寝姿のような恰好をした丘があるからで、太陽が燃えながらその大きな牛の背に沈むと、村は急にひんやりと丘の影に包み込まれてしまうのです。が、その時、黒い大牛は金色の光に縁取られ、まるで神さまの懐に抱かれでもしたように輝いて見えます。村人はその美しい日没を「太陽の眠る刻」と呼び、鍬や鋤を片付けて家路につくのです。
 村に来たばかりの頃、故郷を恋しがるイムさまの手を引いて、わたくしはよくこの丘に登りました。頂上に立って砂漠の果てに沈む太陽の最後の光を浴びると、何とはなしに神さまの慈愛に包まれるようなぬくみを感じることができるのです。そのぬくみで涙を乾かしてから、昼間の仕事でお疲れの旦那さまを夕食の席にお迎えするように心がけたわけです。
 五人の子どもを産み、村長の妻としてすっかりこの村に根を下ろされたイムさまには、さすがにもうそんな気遣いも無用になりました。久しぶりで丘に登ってみたいとイムさまが言い出されたのは、朝早くからラシャーやシルトーンのお陰で嫌な思いをさせられたからかもしれません。いくらかでも気持ち良く新しい日を迎えたいと思われたのでしょう。
 歳のせいか、近ごろ時々胸が苦しくなるわたくしには、急な登り坂が思いのほか難儀でした。以前はわたくしが手を引いてさし上げたのに、今はイムさまの手にすがるようにしながら、休み休み登らなければなりません。イムさまもそんなわたくしをいたわって、時々立ち止まっては背中をさすってくださいます。
 丘の斜面は村人の丹精で頂上近くまで段々畑になっています。細かい石を積み上げてほんの僅かな土を止め、粟や豆を植えているのです。所々に土留めを兼ねて植えてあるアーモンドは、薄桃色の花が散ってしまった今、生まれたばかりの実を包む赤い萼の色に変わって来ています。頂上の牛の背はただのごつごつした岩ですが、その岩の割れ目から健気にも赤い罌粟や白いシクラメンの花がひょろっと咲いていたりするのです。野山羊の糞を踏まないように気をつけて、イムさまとわたくしは少し平らな岩に腰を下ろしました。
 暗く静まった村の反対側は、地平線まで続く赤い砂漠で、風が作った襞のうねりに、夕陽は赤と黒のくっきりした波模様を描いております。砂漠の果てに太陽の丸い頭が吸い込まれた瞬間、ぱあっと金色の光が天を射し、雲をオレンジ色に染めて行きます。やがてその雲が紫色に変わると、砂漠にも急速に闇が降りるのです。
 丘を境に砂漠と農地がはっきり別れているのは、遠いむかしからの村人の努力によるものです。彼らはたった二つの井戸から運んで来た水で砂に牛糞を練り込み、長い時間をかけて根気よく作物のできる土に改良して来たのでした。
 その尊い先祖の遺産をお見せするために、いつでしたか、小さいオベデ坊ちゃまをおつれしたことがありました。坊ちゃまは眩しそうに大きな黒い目を細めて、沈んで行く太陽を指差し、
「あそこが、お陽さまのお家なんだね」
と可愛いことをおっしゃいました。その同じ方向にシェバ族の村があるのは、何とも皮肉なことではございませんか。
 そう言えば、頭に怪我を負った坊ちゃまは、シェバ族のことを色々知りたがって、わたくしを困らせたものでした。
「あの人たちの村は砂漠の真ん中で、麦も豆も育たないところなのだそうですよ」
とお話しますと、坊ちゃまは、
「可哀相に。それならあんなに意地悪く追い払わずに、倉にある麦を少し分けて上げればよかったじゃないか」
と、怒ったようにおっしゃるのです。
 五つの倉に貯えてある麦を一倉分だけでも分けてやれば、あるいはあんな凄惨な戦いをしないですんだかもしれません。いつ来るかわからない飢饉のための備えを、今飢えている人に分けてやれないわけを、どう説明すればわかっていただけたでしょう。農村では、神さまが自分に与えて下さる日々の糧を感謝することだけしか、子どもに教えてやれないのです。戦い取ることに誇りを感じる砂漠の民については、坊ちゃまもやがてご自身で知るようになるはずでございました。
 塩を吹く砂地に麦や豆を実らせるまでに、どんなに長い間村の人々が苦労して来たかは、坊ちゃまも理解してくださった様子です。しかし真水が出る井戸を掘り当て、それで農業ができるようになる前は、この村の男たちも、彼らと同じように徒党を組んで平和な村々を襲い、牛や羊を盗み歩いていたのかもしれないなどとは、想像もなさらなかったでしょう。
 オベデ坊ちゃまが亡くなった日の午後、ほんの少しだけ雨がぱらついて、村の上に大きな虹がかかりました。イムさまは、その美しい七色の橋を驢馬に乗って渡って行く坊ちゃまを見たとおっしゃいます。呼んでも叫んでも振り返ってはくれなかったけれど、あれは決して幻ではなかったと、言い張っておられました。
 ご長男に並べて末の息子さんを葬るご両親の気持ちはどんなだったでしょう。泣きじゃくるイムさまを、わたくしは抱きかかえるようにしてようやく立っていました。けれども、その頃まだ傷も化膿していなかった旦那さまの方は、少しも取り乱さず冷静でいらっしゃいました。小さな墓に花を捧げながら奥さまに囁かれた言葉を、わたくしはよく覚えております。
「良い息子たちを育てさせていただいて、わたしたちは幸せだったね。これからは、神がおそばに置いて可愛がってくださるだろう」
 子どもを作るために快楽を味わう男と、産むために苦しむ女との違いを、わたくしはその時感じないではいられませんでした。
 しかし村長としての旦那さまにとっては、ご自分の息子の死を嘆いてばかりはいられない時だったのです。失った家畜をどう補充するか。盗賊に踏み荒らされた畑をどこまで救えるか。働き手を失った家庭をどんな風に保護するか。急いで考え、手を打たなければならない問題が山のようにあったのですから。
 悲しいことに、あれ以来ケパール村では何も彼もが悪い方へばかり向きました。多分その数日後に来た大雨のためでしょうが、せっかく残った牛が原因のわからない病気で次々に死んで行きました。命懸けで流れるのを食い止めた麦には黒黴が生え、初めは何とか平年の半分くらいはと踏んでいた収穫の予想が大幅に減ってしまいました。
 ラシャーやシルトーンには精一杯強がって見せたわたくしですが、実のところ旦那さまのお怪我には、不安を感じないではいられません。万一これが彼らの言う通りサタン病だとすれば、このまま家に隠しておくことはできないのです。サタン病に罹った人は、村を追い出されるのが、むかしからの掟なのですから。
 まだ北の村で暮らしていた頃、サタン病というものを、わたくしは真近に見たことがございます。長老さまの羊の世話をしていた少年でしたが、顔の半分が丁度旦那さまの脇腹のように赤紫色に腫れ上がり、黄色い膿を流しておりました。彼が寝泊りしていた小屋が焼き払われた時の恐ろしい光景を、わたくしは未だに忘れることができません。
 追い出された少年がどこへ行ったのか、本当のことは存じません。砂漠をどこまでもどこまでも西へ行くと大きな塩の湖があり、その湖を囲む山の中にその種の病人が集まる谷があるのだと教えられただけです。そこは神さまの光が届かない深い谷で、一年中夜のように暗いのだとも聞かされていました。
 小さな子どもの頃から長老さまの家で育てられた羊飼いを、長老さまの隠し子ではないかと陰口をきく人がいましたが、それは違います。わたくしと同じように隊商がつれて来た奴隷の子でした。わたくしは弟のように可愛いがってやりましたが、彼の方はイムさまが可愛くて仕方がないようでした。馬が好きなイムさまにせがまれて、よく一緒に乗っていました。片手でイムさまを抱え、片手で鬣を掴み、砂埃を舞い上げて走るのが、それは楽しそうでした。お腹が空けば棗椰子の実をもぎ、喉が渇けば山羊の乳を搾り、彼はイムさまを王女さまのように大切にお守りしていました。
 二人はよくしゃがみ込んで、木の枝で地面に絵を描いたり、石積みをしたりして遊んでいましたが、ある時、そんな二人を長老さまが何故かひどくお叱りになったことがございました。彼を羊小屋に閉じ込め、イムさまだけをご自分の部屋に呼びつけられたのです。
「あいつはお前にどんなことをしたね」
「何もしません」
「嘘を言ってはいけない。あいつはお前の足の間に手を入れたではないか」
「転がって来た石を拾っただけです」
 イムさまは上目遣いに長老さまを見上げておどおど答えていましたが、長老さまは納得なさいません。いきなりイムさまの服を脱がせ、体を隅々まで調べられたのです。心配で扉の隙間から覗き見をしていたわたくしは、思わず声を上げそうになりました。
「あいつはこんな風に触ったのだろう?」
 長老さまがイムさまの太股の間に手を差し込むので、イムさまは泣き出しそうな顔で後ずさりなさいました。
「いや、お前を責めているのではない。悪いのは奴なんだから、こらしめてやるためだ」
 長老さまは笑いながらイムさまの小さな乳首をつまみ、ぽっちゃりしたお腹をぺたぺたと軽く叩きました。それから机の上の小箱を開けて、小さな青い石をつまみ出しました。
「綺麗な石じゃろう。お前に一つ上げよう」
 そして、羊飼いとはもう遊んではならない、今日のことは決して両親の耳に入れてはならないなどとくどくど言い含めて帰したのでした。泣きじゃくりながらとぼとぼ帰って行くイムさまの後ろ姿を、長老さまはいつまでも窓から見送っておられました。
 その夜の長老さまはいつもより葡萄酒を過ごされ、わたくしを寝間にお呼びになると、淫靡な姿態を強要して激しく燃えなさいました。お歳の割りにはお元気で、三日に上げずわたくしをお抱きになる長老さまでしたが、あの夜のように大きな声を上げなさったのは初めてのことでございます。
 その頃からだったと思いますが、長老さまはちょいちょいイムさまの家を訪ねるようになりました。昼間はご両親とも畑に出ておられますので、イムさまは一人で留守番していらっしゃるはずです。そんなところへ出掛けられる長老さまを、わたくしは辛い思いで見ておりました。まさかまだ子どものイムさまに、わたくしにするようなことをなさったりはしないでしょうが、お二人きりで何を話しておられるのでしょう。きりきり胸が突き刺されるようなあの痛みが、嫉妬というものだったのでしょうか。自分が身分違いの召使であることを、あの時ほど辛く思ったことはございませんでした。
 部屋の掃除をする時、わたくしは衝動的に長老さまの小箱から青い石を一つ盗み出しました。その石は商人が持って来るもので、砂漠のずっと南の方で採れるのだそうです。長老さまはイムさまに、もし約束を破ってご両親に話したりすると、たちまちこの澄んだ青が曇るのだと言って脅されましたが、確かに緑色の縞が入ったその青い石は、何やら神秘的で謎めいて見えました。
 盗みはしたものの、自分で持っているのは恐ろしかったので、わたくしはそれを羊飼いにやりました。初めて見た綺麗な石にびっくりしている彼に、絶対人に見せてはいけないと言い含めた後、わたくしは彼の耳たぶを唇で摘んでみました。産毛がいっぱい生えた耳たぶは、こりっとして何と瑞々しい感触だったでしょう。きょとんとしている彼が無性に可愛くて、わたくしは思わず抱き締めてしまいました。まだ子どものくせに下腹に触れるものは意外に堅くて、思わずはずんでしまう息を、わたくしはもてあましたものでした。
 老人の股間の赤らんだ蛇の頭を吸わされるのには慣れておりましたが、見たことのない少年のそれは、想像するのも恥ずかしい思いでした。彼のものがどうぞあのような猛々しい蛇ではありませんようにと、祈る思いで体を離したのでした。
 羊飼いの顔に腫れものができたのは、それから間もなくのことです。初めはぽつんと赤い小さなおできでしたが、彼が汚い手で掻いたせいでしょうか、膿んで腫れ上がって来ました。外へ出て来ないので小屋へ様子を見に行きますと、体がだるいと言って、彼は藁の中に寝ていました。窓のない小屋は暗くてよく見えませんでしたが、渇いた膿が痰のようにこびりつき、蝿が真っ黒にたかっておりました。彼が動くと、湿った藁からむっと腐臭が立ち上り、わたくしはたまらなくなって小屋を飛び出しました。
 長老さまは容赦なく彼に出て行くことを命じ、目の前で小屋に火をおつけになりました。呆気なく燃えてしまった小屋の灰の中から青い石が見つかり、彼には盗みの罪が被せられることになりました。
「見ろ、やっぱりそうだ。神は隠れた小さな罪も決して見逃さない厳しい方なのだ」
 そうおっしゃる長老さまの前で、わたくしも遠からずサタン病に侵されるに違いないと、恐ろしさに震えたものでございます。
 長老さまとの寝間での愉しみは、イムさまと村を出る前夜まで続きました。もう青い石を盗むようなことはしませんでしたが、男と女の交わりの方は、どうしてか神さまが見逃してくださったようでございます。わたくしどもが村を離れてから何年か後の収穫祭の日、長老さまはできたての葡萄酒を飲みながら突然倒れたと聞きました。神さまはいくらか依怙贔屓をなさるのでしょうか。葡萄酒の酔いの中で、苦しみもなく亡くなった長老さまを、村の年寄たちはみな羨んでいたそうでございます。

 

        五
 地平線に陽が沈み、空を染めた光の色も薄れると、砂漠が褐色に沈む前に、わたくしたちは丘を降りました。
 いつもの習慣で勝手口から入ろうとして、わたくしははっと足を止めました。納屋の前で薪を割っている大柄な男に気づいたからです。果たしてイムさまは、つっと目を背けられました。この男はガナブといって、実は逃げ遅れたシェバ人なのです。彼がここに居ついてから一ヵ月以上経ちますが、イムさまは決して彼を見ようとなさいません。彼の方が挨拶しようと腰を屈めても、イムさまの目はひんやりとそらされてしまうのでした。
 二人とも何も話しませんが、あの戦いの次の朝、麦畑の中に倒れていたガナブを最初に見つけたのは、イムさまだったと思います。いつものように水を汲みに行ったわたくしは、麦畑を走り出て行くイムさまの姿を遠くから見ました。そのせかせかした様子に何やら不安なものを感じたわたくしが急いで麦畑に入ってみますと、この男が倒れていたのです。
 彼はひどい怪我をしていてほとんど意識がなく、わたくしが声をかけても反応がありません。踏み倒された麦にも彼自身にも、黒い血がこびりついていました。が、不思議なことに、蹲った彼の背中から赤い血がどくどく流れ出ているのです。昨日の怪我ではなく、たった今負った傷だということはすぐわかりました。傍には両手でなければ持てないほどの大きな石が血塗れになって転がっておりました。辺りに草苺の実が散らばっているところを見ますと、苺を摘みに来たイムさまが、この様子を見て動転なさったのに違いありません。
 驚いたイムさまが、慌てて村の誰かを呼びに行ったのだと思い込んだわたくしは、しばらくその場に立って待っておりました。でも考えてみれば、イムさまが戻っていらっしゃるはずはありません。このまま放っておけば死ぬに違いないシェバ人を、どうして助ける必要があるでしょう。シェバ人に、イムさまは大切なご長男を殺されたのです。そしてその朝も、ご主人と末の息子さんが瀕死の重傷で苦しんでおられたのです。殺したいほど憎いシェバ人を、しかしどうしてかわたくしは背中に乗せていました。
 長年水汲みをしているせいか、腰が曲がり始めても力だけは人に負けません。大きな男ですので、足が膝から下引きずってしまいますが、それでも何とか納屋に運び込むことができました。背中の傷は無惨にぱっくり口を開けていましたが、そう深いものではなく、わたくしが頭に被っていた布でぎゅっと縛ってやると、何とか血も止まりそうでした。頭や足の傷はかなり重傷でしたが、これはもう血が黒く固まっています。
 やがて男はうっすら目を開けました。
「あんたが助けてくれたんですかい?」
 擦れた声には、ひどい訛りがありました。その時になって、わたくしはこの男を助けたことが恐ろしくなりました。歩くことはおろか這うこともできないほど弱ってはいますが、村にとっては許せない敵です。頼まれもしないのに、何と節操のないことをしてしまったのでしょう。
「水をください」
 喘ぐように男は言いました。わたくしは水甕を置きっ放しにして来たことを思い出し、慌てて行って取って来ました。冷たい水を一口飲むと、男は蹲ったまま涙を流しました。朝食のパンを少し残して持って行ってやると、彼はむさぼるように食べてまた涙を流し、わたくしを拝むように頭を地面に擦り付けました。
 どうしたものかと思いあぐねた末、旦那さまにだけそっと打ち明けることにしました。お叱りは覚悟の上、殺すなり捨てるなりおっしゃる通りにしようと決めてお話してみたのです。旦那さまもお困りになった様子で、少しの間考えておられましたが、やがて静かに頷いてくださいました。
「歩けるようになったら、二度と来ないように言い含めて帰してやりなさい。ただ、くれぐれもほかのものには知られないように」
 村人に知られれば、すぐに殺されてしまうにきまっています。助けたわたくしも許されないでしょう。納屋の戸を閉めっぱなしにし、誰にも気づかれないように注意深く傷の手当てをしてやったのですが、男の本性というものはどうにもなりません。少し体が動くようになると、何時の間にか納屋を出て来て薪割りをしていました。使用人仲間には、遠いところから親戚のものが訪ねて来たようなことを言って誤魔化しましたが、いつまでその嘘が通じますことやら。服だけは旦那さまの古いものをいただいて着せましたが、体の大きなガナブにはまるで子供服を着ているように見えました。力仕事を何でも引き受けてくれますので、とりあえず女たちは喜んでくれていますが、そのうちに親しくなれば、どこから来たの、わたくしとはどんな関係だのと訊かれることになりましょう。
 やがてガナブは、この村で牛馬の代わりに働かせてほしいなどと言い出すようになりました。誰からかこの家の息子さんたちの死を聞いたそうで、罪滅ぼしがしたいと言うのです。自分が拾って来た男だけに突き放すのも可哀相で、わたくしは再度旦那さまに相談してみました。情の厚い旦那さまは、村人の目に触れないよう家の中だけでという条件なら働かせてもいいと許してくださいました。
 ただ彼を見る度に辛い思いをなさるはずのイムさまが気の毒で心が痛みます。あの朝、草苺を摘みに行ったイムさまが彼を見つけ、憎しみのあまり石を投げ付けたことを、わたくしは知らないことにしています。ガナブ自身も口外する様子はありませんし、もちろん奥さまを恨んでもいないと思います。問題はイムさまのお気持ちで、石で打ち殺したつもりでいた賊が生きていただけでなく、自分の家で働いているとなれば、さぞ口惜しいことでしょう。シェバ人特有の鋭い光を持つあの黒い目に、脅かされるような思いも抱かれるのではないでしょうか。旦那さまのお怪我が芳しくないのは、すべて自分への罰だなどと言い出すイムさまの言葉の裏には、この事件も含まれているのではないかという気がいたします。あの時衝動的に湧いた激しい殺意を思い出せば、ご自分でも身がすくむような恐ろしさだと思うのです。
 旦那さまに夕食をお出しするよう命じておいた若い召使が、心配そうな顔をしてわたくしたちに近付いて来ました。
「先ほど芋のスープをお持ちしたのですが、旦那さまは全然食欲がないご様子でした。どういたしましょう」
 気遣わしそうに家の中へ入って行かれるイムさまに続いて、わたくしも灯りを持って旦那さまの部屋にまいりました。旦那さまは床に半身を起こした姿勢で、辛そうに脇の傷を押えておられましたが、わたくしを見ると、ほっとしたようにおっしゃったのです。
「ああ、アマル、丁度よかった。お前もここに座ってくれないか。イムと一緒に聞いてほしいことがある」
 低い声でしたが、旦那さまの真剣な思いが感じられましたので、わたくしは息をつめて奧さまの後に座りました。
「わたしはみんなが想像するような悪いことはしていない。それだけは信じてほしい」
 わたくしは力一杯深く頷きました。イムさまは泣き声が出ないように手で口を覆いました。
「それでもやはり、ここにいるのはもう無理のようだ。イムを一人残して行くのは不憫だが、アマル、お前が力になってやってほしい」
 旦那さまは村を出る覚悟を決めたのに違いありません。少なくとも、シルトーンたちに追われる日が近いことを予感しておられるのでしょう。
 わたくしは旦那さまが思いつきで動く方ではないことをよく知っております。熟慮した結果の決断をお止めしても無駄だと思いました。イムさまも同じ考えなのでしょう、低く呟くようにおっしゃいました。
「もし西の谷へいらっしゃるおつもりなら、わたしもつれて行ってください」
 夫の苦しみが妻の罪によるものだとしたら、妻の自分がぬくぬくと生き残るわけには行かないというイムさまのお気持ちは、わたくしにもわかります。不当な罰を受ける夫の行く先が死の谷なら、ついて行かなければならないと思われたのでしょう。
「いいや、イム、お前はここに残ってベンの子を見守ってやっておくれ。夫も財産も失くした可哀相なエベルを扶けてやれるのは、お前だけなんだから」
 旦那さまはイムさまの手を取って接吻なさいました。熱のある唇は渇いて皹割れ、痛そうに血が滲んでさえいます。
「おふくろの腹から生まれた時は、わたしも素っ裸だった。これから死ぬというのに何も持って行く必要はない。それなのに、イムやエベルのことを考えると、奪われた家畜が惜しまれてならないんだよ。この先お前たちがどんなに苦労するだろうと思うと、可哀相で仕方がない」
 そう呟くようにおっしゃって、旦那さまは涙の流れる頬を引きつらせました。
「わたしの人生は幸せ過ぎるほど幸せだった。でもイムは、もっともっと幸せにしてやりたかった。それなのに思いもかけないことになってしまって、何もしてやれなくなってしまった」
 考えてみれば、旦那さまは骨身を惜しまずに働いた汗の実として、ずいぶん沢山のものを手にお入れになりました。父上の時代に比べて、牛も羊もほとんど二倍の数に上っておりましょう。お陰でこのわたくしまで、北の村では想像もしなかった豊かな生活をさせていただけました。でもそれらが何だったでしょう。今旦那さまのお命と取り替えることができないなら、財産になど何の価値もないような気がいたします。
 揺れる薄灯りの中で、イムさまはわたくしの膝に顔を埋め、いつまでも肩を震わせておられました。

 

        六
 その夜更け、とろとろ眠りかけていたわたくしは、エベルさまの叫ぶ声で起こされました。袖に腕を通しながら奥の部屋に駆け付けますと、エベルさまが両手をさし出して甲高い涙声を上げました。
「あ、アマル。お願い、何とかして。お腹がひどく痛むの」   
「わかりました。すぐにお義母さまをお起こしして、お産の準備をいたしますから、もう少し我慢してくださいませ」
 イムさまはご自分が五人もお子をお産みになった経験者ですのに、お嫁さんのお産となると何をして上げたらいいのかわからないようでした。せっかく起きて来ても、ただエベルさまの肩を抱いて「大丈夫よ」と、同じことを繰り返すばかりです。そんな姑さまが頼りないのか、エベルさまはわたくしの手を握って離しません。
「本当に大丈夫ですよ、若奥さま。お義母さまもわたくしもついておりますから」
と、わたくしもイムさまと同じことを申し上げるしかありません。
「うまく男の子を産めるかしら。もし女の子でも、ベンによく似た子が生まれるかしら」
「男でも女でも、ベンさまにそっくりな赤ちゃんが生まれますよ、若奥さま。少し痛くても、女はみんな我慢して来たことですから、
頑張って乗り切ってくださいましね」
 わたくしは子どもを産んだ経験がございませんが、イムさまのお子を五人とも取り上げております。陣痛の間隔はまだまだ遠く、生まれるまでにはかなり時間がかかりそうでした。でもぼやぼやしてはいられません。真っ暗な家の中を、叫びながら駈けまわりました。
「誰か水を汲んで来ておくれ。沢山だよ。ありったけの水甕を全部いっぱいにしておくんだ。それから誰か、納屋にある藁を奥の部屋に運んでおくれ。産褥の床を作るんだから、これもいっぱい頼むよ。それから誰か精のつく食べものを作ってくれないか。初めてのお産は時間がかかるから、しっかり食べておいていただかないと体が保たないんだ」
 ああ、忙しい、忙しいと呟きながら動くわたくしにつられて、イムさまも立ち上がりはしましたが、落ち着かない様子で部屋を出たり入ったりうろうろするばかりです。
 ガナブの話では、シェバでは子どもが生まれると村中の男が父親になるのだそうです。お天道さまと砂と風だけしかないシェバでは、誰がいつ死んでも困らないように、村中が一つの家族になって子どもを育てるらしいのです。男は戦って死ぬものだからと、当たり前のように言う彼が無性に腹立たしくて、わたくしは思わず怒鳴ってしまいました。
「お前たちさえ来なかったら、うちには立派な父親のいる幸せな赤ん坊が生まれるはずだったんだよ」
 丁寧に並べた藁を叩いて平らにし、イムさまと二人で大きな布の両端を引っ張り合ってその上に被せれば、産褥の床は出来上がりです。エベルさまは大分痛みの間隔が詰まって来た様子で、藁床に横たわると背を丸めて呻き声を上げました。
 わたくしは踏み台に乗って太い縄を天井の梁にしっかり結び付けました。いよいよという時は、この縄にしがみつけばお腹に力が入ります。イムさまの一番初めのお産の時は、手のひらと頬に縄の擦り傷が真っ赤に付いてしまって、いつまでもひりひり痛そうでしたので、二度目からは縄の上に布を巻いて上げることにしました。
 良いことが全くなかった主家に、新しい生命が生まれるのです。召使たちも興奮しないではいられません。裏庭にはいくつもの火が燃され、音をたてて湯が沸いています。が、エベルさまの陣痛は、強くなったと思うと急にまた弱まって、いつの間にか日が昇り始めました。
「わかるわね、エベル、わたしがいいと言うまで、痛くてもいきまないで我慢するのよ」
と、何度も言い聞かせるイムさまに エベルさまは額に汗を滲ませながら頷いておられました。
 イムさまの初めてのお産が思い出されます。同じこの部屋で、イムさまは長男のベンさまをお産みになったのでした。エベルさまはあの頃のイムさまより大分年上ですが、思いは同じでございましょう。ベンさまの形見の可愛いお孫さんを見れば、旦那さまも少しは元気になってくださるに違いありません。
 エベルさまは陣痛の合間にうとうとなさいますが、そばについているわたくしたちの方は気が気ではありません。あまり長引くと、お腹の中で子が弱ってしまいます。揉まれるうちに臍の緒が首に巻き付いてしまうという話も聞いたことがあります。ベンさまが亡くなってから、エベルさまは一歩も外に出ずに泣き暮らしておいででしたから、あれでお腹の中の子が大きく育ち過ぎたのかもしれません。小言がましいことは言いにくい姑の立場はわかりますが、もしこれが本当の娘さんだったら、イムさまも出産の経験を持つ母親として、遠慮なく体を動かす仕事をおさせになったのではないでしょうか。
 エベルさまの陣痛がようやく本ものになったのは、太陽が大分高くなった頃でした。天井から下げた縄にすがりつき、腰を持ち上げるように身悶えながら、大声でベンさまの名を呼ぶ様子は痛ましい限りでした。姿を見せない人を呼ぶ声は悲しさを増し、イムさまは何度も目を拭っておられました。
 赤ちゃんの頭がようやく黒く見え始めた時、伸び切った母体の皮膚がぴりっと裂けて鮮血がほとばしりました。お可哀相に、さぞ痛いでしょう。わたくしは布を手に巻いて待ち構え、半分くらい出て来た頭を掴んで引っ張りました。肩から下は滑るように出て来た赤ちゃんを手で受けて、イムさまが臍の緒を切りました。エベルさまは息を引くような奇妙な声を最後に叫ぶのをやめ、ぐったり腰を落としてしまわれました。
 今まで見たことがないほど大きな赤ちゃんです。わたくしは手が滑らせないように気をつけて両足を持ち、逆さにぶら下げた赤ちゃんの背中をぴしゃぴしゃ叩きました。赤ちゃんは体をちぢこませて大きな泣き声を上げてくれました。人間は誰でも、生まれるとすぐ一番初めに泣くものなのです。どんな幸せな環境に生まれる赤ちゃんでも、笑うのはずっと後のことなのでございます。
「お手柄よ、エベル。立派な男の子だわ」
「ベンさまの赤ちゃんの時にそっくりじゃございませんか」
 わたくしたちが二人して同時にそう叫ぶと、不意にエベルさまがびっくりするような大声で泣き出しました。エベルさまにとっては今日が母親としての誕生日なのでしょう。赤ちゃんと同じように、泣きながら新しく生まれ変わるのかも知れません。
 布にくるんだ赤ちゃんを抱き締めて、イムさまも涙ぐんでおられます。汗びっしょりになったエベルさまの下腹をさすって後産を待ちながら、わたくしも涙がこぼれました。イムさまにとっても、わたくしにとっても、涙で始まった生活は今までと全く違うものになることでしょう。
 赤ちゃんのしっとり濡れた黒い髪は、女の血の匂いがいたします。ベンさまが生まれた時の旦那さまのご両親を思い出します。お二人とも、それはそれは嬉しそうでした。あの時のイムさまと同じように、後継ぎを上げた誇らしさを、今エベルさまも深く味わっておられるに違いありません。
 湯をたっぷり使って綺麗に洗った赤ちゃんを新しい布にくるんで、イムさまは旦那さまに見せに行かれました。この家の祭儀を受け継ぐ長子の誕生です。まず家の主人の祝福を受け、名前をつけて頂かなければなりません。すべてはそれからのことなのです。さて旦那さまはどんな名前を考えていらっしゃることでしょう。
 が、驚いたことに、イムさまは間もなく蒼い顔をして産室に戻って来られました。旦那さまがいなくなったとおっしゃるのです。狼狽したイムさまは立っておられるのがやっとで、わたくしが支えなければ、危うく赤ちゃんを落とすところでした。
 そう言えば、一晩中エベルさまにつきっきりだったわたくしたちは、旦那さまを放ったらかしでした。夜中に一度だけわたくしが尿を取りに上がっただけで、誰も旦那さまのご様子を見に行きませんでした。いつもなら朝一番にしてさし上げる小用のお手伝いも傷の手当ても、わたくしたちは思いつきませんでした。寝返りもご不自由な旦那さまが、どんなに心細い思いで待っておられたことでしょう。この辺りは昼間はぎらぎら暑いのに、夜は思いがけなく冷えるのです。昨夜窓を閉めたきり、日が昇ってもわたくしは開けに行くことをしませんでした。熱の高い旦那さまを暑い部屋に閉じ込めたまま、陣痛に苦しむエベルさまに棕櫚の団扇でせっせと風を送って上げていたのです。本当に申し訳ないことをしてしまいました。
 それにしてもあの衰弱しきったお体で、旦那さまはどうやって部屋を出られたのでしょう。
「アマル、探しておくれ。あの体だもの、まだ遠くへは行っていないと思うのよ」
 イムさまはもうおろおろしていらっしゃいます。わたくしは今にもイムさまの腕からこぼれ落ちそうな赤ちゃんを抱き取って、咄嗟に人差し指を口先に当てました。そしてうとうと眠っておられるエベルさまを振り返り、小声で申し上げたのです。
「若奥さまにはまだ知らせないでおきましょう。その方がよろしうございます」
 エベルさまは、旦那さまの傷があんなに悪いのをご存じありません。一つ家に住んでいても、エベルさまは部屋にこもりきりで、旦那さまの看病など全くしなかったのです。旦那さまがサタン病だったなどと、知られたくない思いがわたくしにはありました。
 名を付けてもらえぬままの男の子を、そっとエベルさまの傍に寝かせ、わたくしたちは家畜小屋から畑の方まで駆けずり回って旦那さまを探しました。が、どこにもお姿が見当りません。
 つくづく困り果てているところへ、思いがけなく次男のギボルさまが駆け付けて来られました。急いで走って来たらしく、息をはずませておられます。
「母さん、父さんはどこへ行ったんだい?」
 イムさまの腕を掴んで、ギボルさまは噛み付きそうな勢いで怒鳴りました。ひどく興奮していて、声が上擦っていました。
「今朝太陽が昇るより早く、馬で西の方へ行くのを見たって言う人がいたんで、何かあったのかと思ってさ」
 わたくしはびっくりして、ギボルさまにたたみかけるように訊きました。
「えっ? 誰が見たんです? 旦那さまお一人でしたか?」
「いや、見慣れない大柄な男が付き添っていたそうだ。一体何の用があって、病気の父さんが出掛けなくちゃならなかったんだい」
 西の方と聞けばすべてがわかります。どのくらい行けばそこに着くのかは知りませんが、旦那さまはとうとうご自分を葬る決心をされたのです。イムさまに止められるのを恐れて、わざと誰にも気付かれないように家を出られたのでしょう。付き添っていたという大柄の男は、ガナブに違いありません。あの男が今朝から姿を見せないことに、わたくしは気づいておりました。
「誰なんだい? その大柄な男ってのは」
 ギボルさまは何か感付いていらっしゃるのでしょうか。今度はわたくしに食い付きそうな顔でおっしゃいます。
「近ごろ雇い入れた召使です。旦那さまのお世話をさせていました」
 わたくしはイムさまの表情を気にしながら、いい加減なことを言いました。もし本当にガナブが旦那さまをつれ出したのなら、何と言ってお詫びしたらいいのかわかりません。
「ふん、それで二人で朝の遠乗りというわけだったのかい? いつのまに父さんはそんなに元気になったんだ」
 ギボルさまは責めるように母親を見つめました。わたくしはどきまぎしてお二人を見守るだけでした。
「あの体で馬に乗るなんて、いくら何でも無茶というものじゃないのかい? それともどうしても父さんでなければならない用があったのかい? 言ってくれれば僕が代わって上げるのに、何も知らせてくれないんだから。よれよれの恰好で、馬の首にしがみついている父さんなんて、隣近所にだってみっともない話じゃないか」
 ギボルさまは憤懣に耐えないというように、唾を飛ばして大声になりました。
「今は僕がこの家の後継者だよ。母さんも、もっと僕を頼って、何でも相談してくれればいいじゃないか」
「お前がこの家の跡継ぎだったら」
 イムさまは顔を上げると、低い声で早口におっしゃいました。
「一々知らせなくても、父親のことは心配してくれるはずだろう?あの嵐の晩だって、飛んで来てくれたはずじゃなかったのかい? そうすりゃあ、父さんがこんなに 苦しまなくてすんだんだよ」
 イムさまは少し混乱していらしたのでしょう。普段はそんなきついことをおっしゃる方ではないのに、つい言っても仕方のないことを口走ってしまわれたようでした。確かにあの大雨の時、もし旦那さまの代わりにギボルさまが働いてくださっていたら、こんなことにはならなかったでしょう。でも、もうすんだことです。今更言ってみてもどうなることでもありません。
「嵐の夜って、あの凄い大雨の時のことかい? そりゃあ無理だよ、母さん。あの時は家の屋根を直さなくちゃならなかったんだ。うちはこんな立派な作りじゃないから、雨が洩って家中水浸しになっちまうんだ。放っといたら、女房の母親もうちの子どもたちも、みんな風邪を引いちゃうところだったもの」
「わかったよ。せいぜい奥さんの実家の面倒をみておやり」
 イムさまは、ぷいと脇を向いてしまわれました。ギボルさまにはそんな女親の不満はわからないようでした。
「もちろんそのつもりだよ。みんなが僕を頼りにしているんだもの。でも、僕自身にとっちゃあ、実家はここだからね。父さんや母さんのことも心配しなきゃならないと思ってるんだ。僕が継がなきゃ、この家にはもう男がいないんだから」
「その心配は要らないよ。この家の跡継ぎはたった今生まれたから」
「えっ? 一体どういうことさ」
 ギボルさまは心底驚いた様子でした。
「奥へ行って、義姉さんにお祝いを言っておいで。立派な後継ぎが生まれたんだから。催促するわけじゃないけど、後で形だけでも祝いの品を持って来た方がいいね。何しろお前はこの家の当主の叔父に当たる人なんだから」
 ギボルさまは二人の子持ちですが、二人とも女の子でしたから、義姉も女の子を産むだろうと高をくくっていたのでしょうか。夫を亡くした義姉が女の子を産めば、もう後継ぎは自分以外にないと決め込んでいたのかもしれません。チェッと舌打ちする次男の背中を母親は家の中に押し込んでしまいました。
 ギボルさまの後ろ姿が見えなくなると、わたくしはイムさまに近付いて深く頭を下げました。
「本当に、お詫びの申し上げようもございません、奥さま。旦那さまをつれ出したのはあいつに決まっています」
 召使の話では、旦那さまに朝食を運んだのはガナブだったそうです。やはり彼が旦那さまをそそのかしたのに間違いありません。イムさまのお気持ちに逆らってシェバ人を助けたわたくしの責任です。
 しかし意外にも、イムさまは静かに首を横に振られました。
「彼がつれ出したのじゃなくて、あの人が頼んで一緒に行ってもらったんだと思うわよ」
 死の谷から帰って来た人など一人もいないのに、馬で四日はかかるという話が伝わっております。そこまで行き着くことができない病人は途中の砂漠で行き倒れ、禿鷹の餌になるわけです。
「一人でなくて良かった。決心したからには、静かに眠りにつけるところまで行き着かせて上げなければ可哀相だもの」
「もし奥さまのおっしゃる通りでしたら、あの男、力だけはありますから、旦那さまをおぶってでも谷までおつれすると思います」
 死の谷を流れる川は人の死体が積もって緑色に澱んでいるそうです。サタン病に罹った罪人たちの神を呪う声が、谷中に木魂のように響いているなどと、まことしやかに言い伝えられてもいます。が、今はそんな話に耳を塞ぎ、旦那さまが静かに眠られることだけを祈ることにいたしましょう。
「ところで、アマル」
 イムさまはいきなりわたくしを揺すぶるようになさいました。
「赤ん坊の名前だけど、誰に頼んだらいいだろう。これから神殿へつれて行って、祭司さまにお願いすることにしようか」
 そう言われて、わたくしははっとしました。大分前になりますが、旦那さまから赤ちゃんの名前についてご相談を受けたことがあったのです。旦那さまは、ご自分のお祖父さまの名や歴史的英雄の名などいくつかお挙げになった後で、「もし叶うものならオベデという名にしたいのだが」とおっしゃったのです。ただ、エベルさまとしては、ご自分の長男に義弟の名をつけられたのでは、面白くないのではないかと気にしておられました。また、亡くなった末息子の名を明け暮れ耳にすることになるイムさまの辛いお気持ちにも、旦那さまは心を配っておいででした。
「それでも、オベデという名に心を惹かれておられました。オベデ坊ちゃまには何もして上げられないうちに亡くなってしまわれたので、その続きをお孫さんにして上げたいと、旦那さまはおっしゃっておいででした」
 できれば旦那さまの願いを叶えてさしあげたいと、わたくしは少し強引な言い方をしたかもしれません。でも、イムさまは、
「わかったわ。あの人の遺言としてオベデに決めましょう」
と素直に受け入れてくださいました。遺言などでなく、ただ相談されただけだということを言いそびれてしまいましたが、ともかくも旦那さまのお気持ちが通って、わたくしはほっといたしました。
「じゃあ、アマル、すぐに誰かを隣村へやってちょうだい。良い方の馬車でエベルの両親を迎えに行くのよ。主人がいなくても、することはしなくちゃ。大丈夫、客の前はわたしが何とか取り繕うから」
 旦那さまが急に見えなくなって、すっかり弱っておられるはずのイムさまが、意外に気強くするべきことをしようとおっしゃる様子は、かえって痛ましくみえました。
「大丈夫ですか? 奥さま。少し落ち着いてからになさったらいかがです?」
「いいえ、わたしたちができるお祝いは、多分これが最後でしょうから、思い切ってできるだけのことをしましょう」
 台所の方へ走って行きながら、ふと振り向きますと、イムさまは崩れるように床に座り込んで顔を覆っていらっしゃいました。健気にも、何とか女主人の役を務めようと明るく振る舞っておられましたが、やはりお辛いのでしょう。これからこの家をどう支えて行けばいいのか、おっとり暮らして来られたイムさまには見当もつかないはずです。北の村の長老さまは、可愛がっておられたイムさまが、将来こんなに苦労なさることを想像なさったでしょうか。一人の弱い女から、ここまで何もかも取り上げてしまう神さまのなさりようが、わたくしにはどうしても理解できません。
 いわれのない病いに苦しむお気の毒な旦那さまを思えば、わたくしは本当のところ、何も彼も放り出して後を追いたい思いです。死の谷だろうと地獄だろうと、最期まで付き添ってさし上げたい気持ちでいっぱいなのです。でもわたくしには、旦那さまに任せられた役目がございます。残して行く妻を「頼む」とおっしゃった旦那さまの悲槍なお顔を想えば、迷うことは許されません。この婆の残りの人生はすべてイムさまにさし上げることを、あの時決心したのでした。あの世とやらで、いつかもう一度旦那さまにお会いできる日があったら、お役目を果たしたことを喜んでいただかなければなりません。お優しかった旦那さまのために、今のわたくしができることはそれ以外にないのです。

 

       七
 召使たちを総動員して、跡継ぎの誕生を祝う宴の準備が始まりました。男たちは羊を屠って肉を炙ります。女たちは干した棗椰子や無花果を山に盛り、塩漬けのオリーブには野菜や茹でた卵を色どりよく混ぜ合わせました。パンは溶いた小麦粉を釜に貼り付けて平らに焼き上げますが、それにつけるひよこ豆のペーストは、いつものようにわたくしが味を整えました。葡萄の葉に包んでオリーブ油に漬け込んでおいた酢飯も、ちょうど食べ頃になっております。これは旦那さまの大好物でしたから、主のいない食卓に乗せることが悲しくて、思わず涙がこぼれそうになりました。
 そろそろエベルさまのご両親が着くはずの夕刻になって何やら外が騒がしくなり、召使の一人が顔色を変えて駈け込んで来ました。
「村中の男たちが集まって騒いでいます。うちへ向かって来る様子なのですが」
「何だって? うちへ来るのかい? 村中のものに来られても困るじゃないか」
 普通ならシルトーンやラシャーなど、親しい村人を招くところでしょうが、今回は旦那さまのご病気を理由に、祭司さまだけしか招待していないのです。そんなに大勢でやって来られては、酒もご馳走も足りなくなってしまいます。
 何とか断ろうと、わたくしが玄関の前に出て行きますと、イムさまも不安そうにショールを被ってついていらっしゃいました。
 なるほど暮れかけた町を、大勢の村人がこちらへ向かってやって来る様子です。でも、何だか様子が変なのです。男たちの塊りは妙に殺気立っていて、みんな手に手に石を掴んでいます。いえ、よく見れば男ばかりではなく、女や子どもも混じっていて、みんなまるで憑きものでも憑いたような怖い顔で歩いて来るのです。これはただごとではないと直感しました。
 まだ少し距離はありましたが、彼らが来るのをじっと待ってもいられません。わたくしは思い切って大声を張り上げました。
「お前たち、もし旦那さまに用があるのなら帰りなさい。旦那さまは太陽が昇るより早く旅立たれて、もうここにはおられないから」
 群れにちょっとした動揺が起こりましたが、彼らの足を促すように、先頭に立ったシルトーンが、こちらに叫び返して来ました。
「そこを退いてもらおう。われわれはこの呪われた家をとり壊しに来たんだ」
 一団の中からちょろちょろ走り出て来たラシャーが、両手を振り回しながら甲高く叫びました。
「この村を襲った重ね重ねの災難は、悪徳村長の隠れた罪によるものだったのだ。これ以上神を怒らせてはならなーい。われわれの誠実を証しよう」
「サタン病の蔓延を防ぐのだー」
「おう」
 代わる代わる叫ぶシルトーンとラシャーに応じて、彼らは一斉に石を投げつけて来ました。いきなり無数の石に打ち据えられて、イムさまはその場に倒れ、気を失ってしまわれました。駆け寄ろうとするわたくしを突き倒して、彼らは家の中になだれ込みました。
 扉を蹴破って灯りのついた客間に駈け込むと、宴の準備が出来上がったテーブルに、シルトーンは泥足で飛び乗りました。
「村の衆、家を壊すのはちょっと待て。われわれが飢えている時に、こんな贅沢な馳走を食っている家だ。隠しているお宝がごまんとあるに相違ない。まずそれを運び出せ」
 さすがにシルトーンです。そう叫ぶが早いか、自分は卓の真ん中に飾ってあった大きな銀製の七又燭台を掴んでいました。
 子どもたちは羊の炙り肉にかぶりつき、男たちは争って葡萄の酒をがぶ飲みし始めました。台所から麦の袋を担ぎ出して来たのは、腰の曲がったシルトーンの父親です。どやどやと奥へ走り込んだ者の中には、何と旦那さまが今朝方まで使っていた毛布や羊の皮を抱えて出て来たものさえいました。何が「サタン病の蔓延を防げ」でしょう。もし旦那さまが本当にサタン病だったら、その寝具にはたっぷりサタン病の膿がしみ込んでいるはずです。欲深かなくせに無知な村人のすることに、わたくしは呆れるばかりでした。
 彼らが引っ繰り返した油に灯りの火が移るのを、わたくしは必死で叩き消しました。代々続いた格式のある家を、こんな愚かな連中に焼かれてしまったら、ご先祖さまに申しわけが立ちません。が、ほかの召使たちは、わたくしがいくら声を張り上げても、隅に固まっているだけで動こうとしないのです。そのうちに誰からともなく、一人二人と暴徒に紛れ込み、壁飾りや食器を抱え込みました。女たちは奥からイムさまの着物を盗んで来ました。
 勢いに乗った村人は家畜小屋の戸を壊すと、逃げ迷う羊や鶏を自分の家へ追い込むことに夢中になり、この家を壊しに来た目的を忘れたように四散して行きました。オベデ坊ちゃまが大切にしていたあの可愛い驢馬の子は、一体誰の家へつれて行かれてしまったのでしょう。申し訳ないことですが、追い掛けることも取り戻すこともできず、わたくしは自分の無力に歯噛みするばかりでした。
 彼らが再び襲って来ないうちに、ともかくもイムさまを納屋へ隠しました。しばらくはじっと息をひそめておりましたが、どうやら誰も戻って来る様子がありません。みんな分捕って行った酒に酔い潰れてしまったのかもしれません。祭司さまは、とうとう最後まで顔をお見せになりませんでした。
 家の中のものは何も彼もなくなってしまいましたが、エベルさまと赤ちゃんが無事だったのが、何よりありがたいことでした。わたくしが咄嗟に思いついて二人を隠した薪小屋は、大分前から扉が壊れていて把手が取れっぱなしになっていたのです。いつも開け放したままにしてあるのですが、中から閉めれば容易には開きません。万一開いたところで、入っているのは薪ですから、わざわざ盗むものもいないでしょう。赤ちゃんが泣きさえしなければ大丈夫と、わたくしはそればかりを祈っておりました。
 少し遅れて着いたエベルさまのご両親にとって、この騒ぎは理解を越えた恐ろしさでした。このような狂暴な人たちの住む村に娘や孫を置いては行けないと思われたのも無理はございません。有無を言わさずお二人を馬車に乗せると、そのまま引き返して行かれました。

 

        八
 真夜中になってイムさまが意識を取り戻された頃、辺りは不気味なほど静かになっておりました。暗がりの中で、囁くようなイムさまの声が聞こえました。
「アマル、アマルはいる?」
「いますとも、奥さま。すぐ傍におります」
 わたくしはイムさまの手をしっかり握りました。
「暗くて何も見えないけど、ここはどこ?」
「納屋です。変な匂いがしますけど、少し我慢してくださいまし」
「エベルはどうしたかしら」
 奥さまにとっては、出産したばかりの義娘の安否が、何よりも気にかかるのでございましょう。
「しばらくはお里帰りということにしていただきました」
「赤ん坊も一緒に?」
「はい。あの騒ぎの中で、泣きもせずにおとなしく眠っていてくださったので助かりました」
 本当はエベルさまが「お義母さまもご一緒に」と、強くお誘いくださったのですが、あちらのご両親がちらっとですが迷惑そうな顔をなさったので、わたくしの一存で遠慮することにしたのです。あちらも別に悪気ではなく、ただ思いがけない事態がひどく怖かっただけなのでございましょう。が、助けていただけば事情をお話しなければなりません。旦那さまが要らぬ誤解を受けることになりかねないのが、わたくしはどうしても嫌でございました。
「祝いの席に招ばれたはずなのに、あの騒ぎでは、エベルの両親もさぞびっくりしただろうねえ。でもよかった。あの二人をあずかってもらえれば、さし当って安心だわ」
 そう言ってイムさまは咳き込まれました。
「それより、わたしの力不足で、召使を一人も引き止めることができませんでした。本当に申し訳ございません」
 わたくしにはそれが一番口惜しく腹立たしいことでした。どこの家よりも良い待遇で雇っていただいている召使たちが、いざとなると、みんな旦那さまのご恩を忘れて、逃げてしまったのですから。
「当分はわたし一人で、ご不自由を忍んでいただかなればなりません」
「わたしはアマルがいてくれるだけでいい。アマルさえわたしを見捨てないでくれれば、誰もいなくていい」
 イムさまはわたくしの手を握ったまま、声をしのばせてしばらく泣いておられました。
 腑甲斐ない話ですが、わたくしはそんなイムさまを抱き起こしてあげることもできません。気を失ったイムさまをどうやってここまで運んで来たのか全然覚えがないのですが、今は自分の体を起こすのがやっとで、息をするだけでも背中と腰にびしびし音がするような痛みが走るのです。石をぶつけられたり押し倒されたりした時、骨が折れたのでなければいいのですがー。それでなくても近ごろは自分の老いを感じて情けない思いをしておりますのに、こんな体になったのでは、この先いつまでイムさまのお役に立てるでしょう。
 わたくしは、北の村でイムさまが生まれた時からよく存じ上げています。長老さまに命じられて、イムさまの子守りをしたくらいですから、時間の長さだけなら、旦那さまよりずっと古いお付き合いということになります。女主人と召使という立場の違いこそございますが、こうして藁の中で二人きりになってみますと、同郷人としての親しみを感じるのが不思議な気がします。何となく心をすり寄せたい思いになるのでした。
 イムさまも同じお気持ちなのでしょうか、ため息と一緒に呟かれました。
「わたしたち、北の村へはもう二度と帰れそうもないわね」
「いいえ、奥さま、養生なさって、驢馬に乗れるようになったら行けますとも。わたしもお供いたしますよ」
「でも、わたしはそんなに長くは生きられないような気がする。苦しくて、息をするのが精一杯ですもの。このままここで死んでしまうんだわ、きっと」
 それからイムさまは、痛々しいほどの擦れ声で、静かにおっしゃいました。
「わたしが死んだら、アマルはもう自由よ。誰の奴隷でもないわ。故郷へ帰ってゆっくり生きなさいね」
 ありがたいお話ですが、わたくしは苦笑しないではいられませんでした。
「奥さまもご存じじゃありませんか。わたしには故郷なんてありゃしません。長老さまは、わたしをアラブ人の商人から買ったとおっしゃいましたが、産みの親はどこの国の人間なのか、いつわたしを産んだのか全然わからないのです。わたしの生涯で一番長く暮らしたところと言えば、このケパール村でございますよ」
「そうだったわね。親代わりの長老さまも亡くなってしまったし、北の村に帰っても、アマルは独りぼっちなんだわねえ」
 お互いの顔が見えないような暗闇では、何か話でもしていないと落ち着かないものです。わたくしたちは古い記憶を探って、北の村の知り合いの噂をあれこれ話しました。長老さまが亡くなって間もなく、イムさまのお父さまも亡くなりましたが、お母さまはまだお元気で、ご自分の妹さんの家族と一緒に暮らしておられると聞いております。お母さまがお達者なうちに、是非一度お会いしたいものでございます。
 いつまでもきりのない北の村の話から、わたくしたちのおしゃべりはケパール村へ来た頃の思い出話に移っていました。するとイムさまが、いきなり思いもかけない話をなさって、わたくしをびっくりさせました。
「大分むかしだけど、うちの人、アマルを結婚させようとしたことがあるのよ。あの話は、結局どうなったんだったかしら。相手の方もとっても良い人だって聞いたんだけどー。丁度その頃お姑さんの具合が悪くなって、取り紛れてしまったんだわ、きっと」
「結婚だなんて、とんでもございませんよ」
 そう言ってわたくしは笑いました。するとまた背中がぎしぎし音をたてて痛みました。
 イムさまはご存じない様子ですが、実はそのお話を、わたくしは旦那さまから直接うかがっておりました。わたくしが相手の方の顔も見ずにお断わりしたことが、旦那さまには腑に落ちなかったらしく、奥さまには何もお話しにならなかったのでしょう。
「結婚して一人や二人子どもを産んでおかなければ、歳を取ってから心細いだろう」
と、旦那さまは気遣ってくださったのです。わたくしが嫁に行っても子を産めない体だということは、ご存じなかったからでしょう。わたくしもまだ若くて見栄を張りたい年頃でしたから、そんなことを打ち明ける気はございませんでした。
 北の村で暮らしていた頃、何とか長老さまの子を産みたいという一念で、わたくしはあの貪欲な蛇の頭に必死でむしゃぶりついたものでございました。が、最後までとうとう駄目でした。
 ずっと若い頃に、実は一度だけ妊娠したことがあるのですが、長老さまの寝間から戻った途端に出血し、僅か二ヵ月で流れてしまったのです。あの時はひどい出血がいつまでも続いて、すっかり長老さまの機嫌を損ねてしまったものですが、わたくしが子を産めない体になったのは、それが原因ではないかと思います。
 あの時代、イムさまはまだほんの子どもでいらっしゃいましたから、さすが好色な長老さまも、手が出せなかったのだと思います。ちょっとした悪戯も、ご両親に言いつけられるのを恐れてびくびくしておられました。その点わたくしは、秘密を漏らす相手がいるわけではなし、安心して慰みものにできたのです。わたくしの方も長老さまに捨てられたら身よりのない体です。可愛がっていただくために一生懸命に尽くしました。どこをどう愛撫してさし上げれば喜ばれるのかも、すっかり心得ておりました。イムさまのような子どもに負けてたまるか。子種さえいただけばこちらの勝ちだと、浅はかにも思い込んだのでございます。そんな女の汚れた子宮に、神さまが子どもをお与えにならなかったのは、当然かもしれません。
 しかしその縁談をお断わりしたわけは、女としての体の弱みだけではございませんでした。実はケパール村で暮らし始めた時から、わたくしは旦那さまに熱い思いを抱くようになっていたのでございます。召使の分際で、片時もお傍を離れたくないという、思い上がった願いを持ちました。旦那さまのお顔が見えないところへなど、どんなに良い条件でも嫁に行く気にはなれなかったのです。育児に気を取られていらした奥さまの目を盗んで、わたくしはいそいそと旦那さまの身の回りのお世話をさせていただいたのでございます。
 女盛りを自分たち家族のために犠牲にさせたのでは心苦しいと、旦那さまはよくおっしゃってくださいました。わたくしが腰を屈めて「旦那さまにお仕えするのが何よりの喜びでございますから」と申し上げても、使用人の忠節としか受けとめてはいただけません。召使の思いになど全然気づいてくださらない旦那さまをお恨みしながら、一方では脇見をしない誠実なお人柄にますます心惹かれるのでございました。
 奥さまの産褥の間、また毎月の汚れの日、わたくしはどんなに自分が妊娠の恐れのない体であることを打ち明けたかったか知れません。こんな体ででも旦那さまをお慰めできたらと、ひそかに香を焚き込めたりしたこともございました。でも、旦那さまにとっては、イムさまは何にも替えられないほど愛しい方でした。万一わたくしの思いに気づかれたとしても、相手になどしてくださらなかったに決まっています。機会を得なかったお陰で恥ずかしい思いをしないですんだことを、感謝しなければなりますまい。
 悲しくても寂しくても、また好きでも嫌いでも、内心の思いは外に出さず、黙って働くのがわたくしども召使に定められた運命なのです。どこででもわたくしの前に立ちはだかって望みを砕いてしまうイムさまが、ふいといなくなってしまう生活を、わたくしは何度も夢に見たものでございました。
「神さまは人間をご自分に似せてお造りになったといいますが、あれは本当でしょうか」
 わたくしは独り言のように呟きました。
「人間は神さまよりよほど悪魔に似ているのではございませんかしら。そんな気がして、自分が恐ろしくなることがございます」
 イムさまは黙っておられました。この方は、この歳になるまでいつも周囲の愛に包まれておいででしたから、人を憎んだり疑ったりすることをご存じないのです。一番身近な召使が、ご自分の夫を恋していたこともご存じなければ、ご自分の幸せがその召使の嫉妬や悲しみを掻き立てたことにも気づいてはおられません。そんなお嬢さまだけに、今回のこの災難はひどくこたえておられましょう。暗闇に慣れたわたくしの目には、仰向けに寝たままのお顔をつつっと耳の方へ落ちる涙が見えました。
 風が出て来たらしく、裏庭のオリーブの木がざわざわ鳴り出しました。いつも旦那さまに抱かれて母屋の奥に寝ていらしたイムさまは、夜風の音など聞いたことがなかったのではないでしょうか。薄い板戸一枚で外気と接している納屋は、夜の冷えもひどうございます。お気の毒ですが、今夜は寝つきにくいかもしれません。
 それにしても、旦那さまがあの騒ぎの中におられなくてよかったと思わなくてはなりますまい。お腹が腐りかけた村長を見れば、村人はもっと興奮したに違いありません。彼らに石を投げられる屈辱よりは、お一人でひっそり逝かれる方が、まだ耐えやすい苦痛ではないでしょうか。そんなことを考えながら暗闇を見つめておりますと、やはり眠れないらしいイムさまが、ぽつんとおっしゃいました。
「アマルは、北の村の羊飼いを覚えてる?」
「覚えていますとも。あの子のことは、どうして忘れられるものですか」
「アマルは知らないでしょうけれど、わたし、子どもの頃、あの羊飼いと遊んではならないって、長老さまにひどく叱られたことがあったのよ。でも、わたしにはどうしても納得できなかった。だって、彼は悪いことなんて何もしなかったもの」
「長老さまはやきもちをおやきになったんじゃありませんか? 二人があんまり仲良しだったから」
「あの羊飼いは、どうしてサタン病になんかなったのかしら。正直ないい人で、わたしは大好きだったわ」
 実を言えば、長老さまはわたくしとあの少年との仲を疑っておいででした。わたくしの若い体が、年取った長老さまだけで満足するはずはないなどと無体なことをおっしゃるのです。あんな可愛い少年を誘惑するほど、わたくしが淫蕩な女に見えたのでしょうか。弟のように可愛かったあの羊飼いのことを思うと、今でも心がしくしく痛みます。
「サタン病は神さまの罰だなどというのは、絶対嘘だと思います、わたしは」
 きっぱりと、そうわたくしは申しました。
「旦那さまだって、神さまに恥じるようなことは、何一つなさいませんでした。人を貶めたり、欲を張ったり、神さまから罰を受けるべき人はほかにいっぱいいるのに、そういう連中はみんな元気でピンピンしているじゃありませんか」
 旦那さまは正しい人だったという確信を持ってくださらないイムさまに、わたくしは苛立たしいものを感じないではいられませんでした。
 わたくしには想像もつきませんが、今頃旦那さまはどの辺を歩いておられるのでしょう。わたくしなど、いずれもう長くは生きられない婆です。サタン病に感染しようと、地獄の火に焼かれようと、かまうものではごいません。もし神さまがほんの少しでも憐れみというものをお持ちでしたら、旦那さまの代わりにこの婆を切り刻んでくださればいいと思います。日頃掟に逆らってばかりいる女の身勝手な祈りが、言葉通り天に届くとなどとは信じておりませんのに、自分でも不思議なほど真剣に、わたくしは祈りたい思いでした。
 神は全智全能で、何一つできないことはないのだと長老さまに教えられました。それなら愚かな婆の願いを叶えてくださるくらい、わけもないことではありますまいか。今までわたくしは、どんな時も神さまを当てにしたことなどありませんでしたが、今度だけは何としても願いを聞き届けていただかなければなりません。どうぞこのわたくしめの命と引き替えに、旦那さまを助けてくださいまし。
「横になった方がいいわ、アマル。そんな恰好では疲れが取れないでしょう」
 イムさまにそう声をかけられて、わたくしははっと顔を上げました。地面に額をついて俯せになった姿勢のまま、うとうと眠っていたのでした。
「まあ、何と情けない。わたしとしたことが、お祈りしていたつもりなのに、いつの間にか眠ってしまいました。全くだらしのない年寄りになってしまったものです」
「大丈夫よ、アマル。神さまは、人間を年を取るようにお作りになったんですもの。年寄がお祈りしながらうたた寝するくらいのことは、大目に見てくださるわ、きっと」
 おやっ? とわたくしは思いました。今までのイムさまは、そんな気休めを言う方ではありませんでした。イムさまの崇める神は厳しい神で、決して弱い者を大目に見てくださるような寛大な方ではなかったはずです。ことによると、イムさまの中にも神の慈愛にすがりたい気持ちが生まれて来ているのではないでしょうか。
 イムさまは寝返りを打ちたそうに肩を持ち上げなさいましたが、どちらを向こうにも体が思うように動かないようでした。わたくしも、ようやく起こした体をもう一度横にしてしまったら、二度と起き上がれなくなりそうで心配だったので、蹲った姿勢のまま眠ることにいたしました。
 
       九
 幸い骨は折れていなかったらしく、次の朝は何とか立ち上がることができました。が、イムさまはほとんど一ヵ月以上寝たままでした。背中にできた床ずれが膿んで、旦那さまの脇腹の傷を思い出させます。こじらせると大変ですから、夜中誰も外に出ない時刻を見はからって水を汲んで来ては、洗ってさし上げています。あの事件以来、わたくしも背中と腰が痛んで、以前のように大甕を頭に乗せることができなくなってしまいました。体をだましだまし、小さな甕を抱えて運んで来るというわけで、何とも情けないことになったものでございます。
 家畜は一匹残らず奪われてしまったので、山羊の乳も飲めません。納屋の隅に転がっていたわずかな薯や豆を柔らかく煮て、少しずつ口に流し込んで上げることにしました。初めのうちは食欲がなかったイムさまも、少し回復して来るとやはりこのまま朽ちたくはないと思うようになったのでしょう、わたくしが作ったものは何でも、一生懸命に食べてくださるようになりました。
 たまにですが、お嫁にいらした娘さんや次男のギボルさまがお見舞いに来てくださるようになりました。昼間人の目に触れては困るらしく、夜陰に紛れてこっそり来られるのです。それでも母親の身を案じて来てくださるのですから、ありがたいことです。
「長男の嫁のくせに、姑の世話もしないで実家に帰ってしまうなんて、義姉さんも呆れた人だな。男の子を産んだというのに、この家が継ぐ価値のない家になっちゃったもんだから、さっさと逃げ出したんだ。まさかそんな冷たい人だとは思わなかったよ」
と、ギボルさまは義姉のエベルさまにひどく腹を立てていらっしゃるようでした。そしてその次は、必ず父親への恨み言と決まっているのでした。
「父さんが僕を信頼しなかったからいけないんだ。兄さんが死んだ時点で、すぐに継ぐものを継がせてくれていたら、こんなにスッカラカンにならなくてすんだんだよ」
 わたくしは傍で苛々して見ていますが、イムさまは黙って聞き流しておられます。父親を罵る息子を叱る気力もないのでしょうか。言えば気が済むなら言いなさいというお気持ちらしいのです。それでもお子さまたちが持って来てくださる食物だけは、文句なしにありがたいものでした。少しずつでもイムさまが回復なさったのは、多分この差し入れのお陰です。
「喜んでよ、母さん。女房がまた妊娠したんだ。今度は男の子だといいんだがなあ」
 その夜は、ギボルさまがにこにこしてパンや無花果を持って来てくれました。
「それはおめでとう。転んだりしないように十分気を付けるように言ってね」
「ああ、うちの女房も母さんのこと気にしてないわけじゃないんだ。あいつは義姉さんと違って情のある女だからね。でも、今はここに出入りさせない方がいいからさ」
 ギボルさまは悪口ばかりおっしゃいますが、エベルさまも情の厚い義娘さんでいらっしゃいます。今は赤ちゃんも小さく、実家のご両親の手前ご自分では来られない様子ですが、時々召使を見舞いに寄越してくださいます。少しほとぼりが冷めたら近所に家を用意するから来てほしいと、この間も優しい手紙を託されました。ギボルさまに言って張り合わせても仕方がないと、イムさまはわざと黙っていらっしゃるのでしょう。
「兄貴の嫁さんだもの、もう少し温かい人だったら、僕だって一生面倒みるつもりでいたんだ。子供だって、一人じゃ心細いだろうから、僕がもっと産ませてやってもいいとまで思っていたんだよ」
 ギボルさまは、美しいお義姉さまがどうにも気になって仕方がない様子です。エベルさまは当分の間ご実家にいらした方が安全かもしれません。
 古い掟では、サタン病が出た家は火をかけることになっていますのに、空っぽになった家を誰も焼いてしまおうと言い出さないのはどうしたことでしょう。代々村長として人を集めて来た家はかなり立派なので、焼くのは惜しいからでしょうか。それとも、本当は誰も村長がサタン病だったとは思っていないということなのでしょうか。ただ、未だに暗くなると忍び足で入って来る村人がいるのは薄気味悪くて困ります。あれだけ掻き回しておいて、まだ何か残っていないかと探しに来るのですから、呆れるではありませんか。
 ギボルさまの話では、予想通りシルトーンが新しい村長に決まったそうです。逃げ出したこの家の召使は、みんなシルトーンの家に雇われることになり、彼らが盗み出した着物や食器なども、結局はシルトーンに取り上げられてしまったようです。食事もろくに与えられず、太陽が昇る前から沈んだ後まで働かされるので、耐えきれずに逃げ出した男が一人、ギボルさまの家に転がり込んだそうです。ギボルさまはかかわり合いになりたくないので追い返したとおっしゃいますが、可哀相に、シルトーン家では厳しい制裁を受けたことでしょう。しかしまあ、相手は主家を裏切った召使のことです。何をされても仕方のないことかもしれません。
 シルトーンは今家を新しく建てているという話です。息子が結婚するので従来の家では手狭になったというのですが、村長として、それらしい風格のある家が欲しくなったのではないでしょうか。村人が交替で石を積んだり土壁を塗ったりしに行くそうですが、ラシャーの作った順番表にはギボルさまが入っていないらしいのです。ギボルさまは自分が前村長の息子だから一目置かれているのだと呑気なことを言っておられますが、ことによると村八分にされているのではありますまいか。子どもたちが村の悪ガキにいじめられるなどと言うギボルさまの愚痴も思い合せて、わたくしはひそかに心配しているのです。
 シルトーンはまた、盗賊の襲来に備えて若者たちを訓練しているそうです。シェバ賊が使ったような鋭く長い矢を、動物の骨で作るだけでなく、隊商から鉄の刀や矢を大量に買い入れていると聞きました。そのために、穀倉の麦も三棟分使ったという話です。村のために、村人が貯めた穀物です。何のためにでも、必要なら使えばいいでしょう。でもその倉を守るために死んで行った若者たちを思うと、わたくしはやはり胸がつまります。

 

        十
 起きられるようになると、ものに掴まって少しずつ歩く練習をし、イムさまがどうやら一人で歩けるようになった頃、季節は秋になっておりました。誰も手入れをしないのに、裏庭のオリーブの古木も艶やかな緑色の実を沢山つけました。近々取れたての棗椰子を届けると、ギボルさまも言ってくださっています。今年は麦の収穫が悪かっただけに、オリーブや棗椰子の豊作はありがたいことです。
 陽が傾き始めた頃、何か思い詰めたような表情のイムさまが、久々に丘に登りたいと言い出されました。まだ少し無理ですからとお引き止めしましたが、どうしてもとおっしゃるので、二人で登ることにいたしました。
 情けないことに、わたくしは最近ますます息がしにくくなり、時々胸が塞がるように苦しくなります。水を汲みに行く時も何度か休まなければならないような具合で、登り坂は気が重いのですが、病み上がりのイムさまを気遣う風を装って、ゆっくりゆっくり歩くことにいたしました。
 村が丘の陰に包まれ始めても、頂上ではまだ太陽が西の空に眩しく、羊のような雲がぽかりぽかりと浮かんだ空は真っ青でした。
 いつもの岩に腰掛けると、まだ息を整えているわたくしに、イムさまはいきなり話し始めました。
「あの事件以来ずうっと考えていたんだけど」
 わたくしは肩を大きく持ち上げるようにして息を吸いこむと、イムさまの話を聞くために少し遠くなった耳を寄せました。
「近いうちに西の谷へ旅立つことにするわ」
「どうしてまた、急にそんなことを」
「わたしみたいな罪深い女は、生きていちゃいけないのよ」
 お可哀相に、納屋で寝ていらした間中ずっと、イムさまはそのことばかり考えておられたらしいのです。あの暴動の中から命拾いした直後は、神さまがほんの少し優しい表情を帯びて来たのかと感じられた時期もあったのですが、イムさまの神はやはり厳格な恐ろしい方だったのです。人に愛される幸せに慣れ切ったイムさまには、膝まづいて許しを乞うことはおできになりません。神にも人にも見捨てられた絶望の下で、「助けてください」と必死の叫びを上げることがどうしてもおできにならないのです。何とか歩けるようになった足で、まず神から逃げ隠れることしか思いつかないのでしょうか。
「アマルには散々世話になったのに、何も報いて上げられなくてごめんなさいね。色々考えたんだけど、アマルはエベルの家に身を寄せたらどうかしら。ギボルの家では死ぬまでこき使われそうで心配だけど、エベルなら大切にしてくれるわ。小さいオベデのお守りをしてやってちょうだいな」
「何をおっしゃるのです、奥さま。わたくしはどこまででも、奥さまのお供をいたしますよ」
「気持ちはありがたいけど、今度だけはつれては行けないわ。だって谷は暮らすところじゃなくて死ぬところなんですもの。それに、果たして行き着けるかどうかもわからないし」
 イムさまの顔は入日の色に染まり、お痩せにはなりましたけれどまだまだお美しく、死の谷へ行くには早過ぎるように見えました。
「旦那さまはわたくしに、奥さまを頼むとおっしゃってお預けになったのです。お約束ですから、絶対お一人にはしません」
 西の谷へ行くことは、わたくしがひそかに願っていたことです。こんな形でイムさまに先を越されて、苦笑しないわけにはまいりませんでした。万一そこでもう一度旦那さまにお会いできたら、今度こそ最後までお世話をさせていただきましょう。もし旦那さまが先に逝かれてお会いできなくても、悔いたりはいたしますまい。生まれた国も知らないわたくしが旦那さまと同じ谷に骸を沈めることができたら、それ以上の幸せはございませんもの。
 夕陽は急速に傾き、砂漠の一点に向かって落ちようとしています。この美しい光景を見られるのも、今日が最後かもしれないと思うと、熱いものが喉にこみ上げてまいります。
 その時です。地平線に何か黒いものが動くのが見えました。
「あ、何かこちらに来るようですね」
 近頃わたくしは、手もとのものが見えなくなりました。小さな豆粒など、霞んで二つにも三つにも見えてしまいます。が、遠目となると、まだまだかなり見えるのです。反対にイムさまの方は、むかしから遠くがよく見えないたちの目でした。
「まさか、また盗賊じゃないでしょうね」
「盗賊ならもっと大勢でまいりましょう。商人ではないでしょうか」
「商人だったら荷物が沢山あるはずよ。駱駝でもつれている様子?」
「さあ、駱駝のようには見えませんが」
「村に報せた方がいいかしら」
 思わずそんなことを口にしてしまってから、イムさまはふっと嗤いました。村に誰が来ようと、今のわたくしどもには何の関係もないことだと気づかれたのでしょう。
 その間にも黒い点はどんどん大きくなって、どうやら人を乗せた二頭の馬らしいとわかるまでになりました。この分だと、わたくしたちがどんなに急いで走ったところで、あの馬より先には村に着けないでしょう。
 入陽を背にして来る黒いシルエットをじっと見つめるうちに、わたくしははっと胸を突かれて立ち上がりました。唾を飲み込むと、喉が締められるように息が詰まります。胸が大きく音をたて始めました。
「あ、わたしにも黒いものが見えて来たわ。二つのように見えるけど、アマルにはもっとはっきり見える?」
「いいえ。はっきりというわけではございません。でも、間違いないと思います。もしかすると、神さまはわたしのような卑しいものの祈りをお聞き届けくださったのかもしれません」
 イムさまは興奮して、わたくしの手をぎゅっと握り締めました。
「何なの? 何を神さまにお願いしたの?」
 わたくしは息が苦しくなって、立っているのが辛くなりました。ひどく足が震えて、思わずその場にへたり込んでしまいました。
 イムさまは意味のわからない叫び声を上げて、いきなりわたくしの手を引っ張りました。ついこの間まで歩くのもご不自由だったのに、信じられないような力でわたくしを引きずって走ろうとするのです。それでいて言葉は何を言っておられるのかわかりません。
「そんなはずないわ。そんなこと、あるはずがないわよ、アマル」
 そう叫んでおられるようでした。
「そうかもしれません。いえ、そうだと思います、奥さま」
 わたくしも言葉にならない叫びを上げていました。涙があふれて来て、何もはっきりは見えなくなりました。でも、わたくしには近づいて来る馬の足音が聞こえるような気がします。乗った人の息遣いが感じられるのです。神さまがお返しくださった方のお顔が、見えて来たような気さえするのです。
 夕風は丘の下から砂漠の砂を吹き上げて来ます。イムさまに引っ張られても、わたくしはもう息ができません。歩くことにも慣れていないイムさまの足は力なくもつれ、わたくしたちは手をつないだまま斜面をずるずる滑り落ちました。村の側とは違って、西側の斜面はとても急なのです。岩と砂利ばかりで道もなく、生えているのは茨だけです。ようやく岩に掴まったわたくしは、肩を大きく上下してぜいぜい息をしました。
「すみません、奥さま、わたくしはもう、駄目です」
 それだけ言うのがやっとでした。苦しくて気が遠くなりそうでした。
「じゃあ、後からゆっくりいらっしゃい。わたしは行ってみるから」
 そうおっしゃった直後に、またイムさまはずずっと滑りました。ショールが茨に引っ掛かって無残に裂けてしまいました。
 夕陽を背にした二人は真っ黒で、ここまで降りて来てもまだ顔ははっきりしません。が、丘を転げ落ちるわたくしたちの方は明るい光の中です。彼らが馬を急がせたのは、わたくしたちが見えたからに違いありません。イムさまが転がりながら丘を降り切った頃、二頭の馬も麓に近付いて来ておりました。ほっとした途端、目の前が暗くなり、わたくしは足もとから地面に崩れ込みました。
 遠くから呼ぶ太い声に覚まされ、ふと気がつくと、わたくしは大きな男の腕の中におりました。口移しに飲まされたらしい水がわたくしの顎から首まで快く濡らしていました。
「気がついたかい?」
 やはりそうでした。ガナブの声です。
「こうして毎日、二人で旦那の帰りを待っていたのかい?」
 顔中を覆った黒い髭の中で、ガナブの白い歯が笑っていました。訛りの強い言葉が、妙に懐かしい響きでした。
「奥さんもお前さんも、旦那の無事を信じていたわけだな。まさかあんな掠り傷くらいで禿鷹の餌になるなんて、思いやしなかっただろう? 全くなあ、サタン病なんて糞食らえだ」
 ああ、やはり本当だったのです。旦那さまが正しい人だったことは、よそ者のガナブでさえ知っていたのです。嬉しさを言葉で表したいと思いましたが、声が出ません。かすかに息がひゅうと出ただけでした。
「おい、見ろよ」
 ガナブの太い指が差す丘の麓に、しっかりイムさまを抱き締めておられる旦那さまが見えました。ガナブに負けないほど髭が伸びてお顔がよく見えませんが、間違いなく旦那さまです。イムさまが痩せて、一回り小さくおなりになったせいか、以前にも増して頼もしく立派に見えました。
「俺たちシェバ族は生きて行くために牛や羊を盗むけど、人間を殺しに来るわけじゃない。死ぬような毒は使わないんだ」
 ガナブはまるで馬にするように、わたくしの首のまわりを軽く叩きました。
「俺たちゃ、怪我しても病気になっても、みんなして一生懸命治そうとするけどよ、この村じゃ神の名前で切り捨てちゃおうっていうんだからおったまげたぜ。おかしな話だよ」
 農業で生きる村は、いつも天災を恐れてびくびく暮らしているのです。家畜や作物の病気と同じように、人間の病気も蔓延するのが恐いのです。だからと言って、切り捨てることを神さまのご意思だと決めたのは、一体どこの何者だったのでしょう。
「おい、アマル、目を開けて馬につけた荷物を見ろよ。全部薬草の苗だぜ。種も沢山取って来た。俺が必ずここの土で育ててみせるからな」
 何と嬉しいこと。旦那さまの怪我を治したような凄い薬草が根付いたら、みんなが命を大切にするようになるでしょう。このがさつな大男が、村に新しい命を運んで来てくれたのです。村中が仇と憎むシェバ人が、この村を変えてくれるというのです。
「おーい、しっかりしろ、アマル。これは俺からお前さんへの礼なんだよ。わかるか? 命を助けてくれたお前さんへの礼だよ」
 ガナブはわたくしの耳に口を近付けてそう言うと、かっかっと豪快に笑いました。それから、その唇でわたくしの耳たぶをいたずらっぽく引っ張るのです。わたくしは夢の中にいるようなうっとりした気分でした。
 旦那さまが生きて帰って来てくださるだけで十分だったのです。わたくしが生まれて初めて、神さまというものに祈ったのはそのことだけでした。それなのに、その上まだ貴重な薬草まで与えてくださるなんて、何とまあ、情け深い神さまではございませんか。
 わたくしを呼ぶ声が遠くから聞こえます。ガナブの声、イムさまの声、そして、ああ旦那さまの声も聞こえます。恐る恐る目を薄く開いて見ますと、目の前にわたくしを覗き込んでいる旦那さまのお顔が見えるではありませんか。
「ありがとうよ、アマル。留守中よくイムを扶けてくれたね。本当にありがとう」
 イムさまの涙で濡れた顔も見えました。イムさま、ごめんなさい。わたくしはあなたさまの忠実な召使ではありませんでした。使用人の意地から、落ち度のないように働きはしましたが、必ずしも心を尽くしたとは申せません。旦那さまのために祈ったほどのことは、あなたさまのためには何もしせんでした。
 太陽はもう砂漠の果てで眠りに入った様子です。刷毛で刷いたような空の光が薄れてまいりました。雲も紫色に染まり、もうすぐ闇が降りる時刻です。神さまにとっては役にも立たない命ですが、お約束通りお召しください。でも、ガナブの逞しい腕に抱かれ、快い汗の匂いに包まれて旅立てるなんて、思いもかけないことでした。旦那さまに見送っていただけるような贅沢を、わたくしは望んだことがございませんでした。
「ありがとう、ガナブ」
 それだけは言いたいと思いました。旦那さまをこれからもお願いね、とまでは恥ずかしくて言えそうにありませんでしたけれども、懸命に喉に力を入れました。唇は少し動かせたような気がしますが、声になったでしょうか。でもガナブが大きく頷いたところを見ると、何とか気持ちは通じたのでしょう。
 視力と意識が静かに遠退くのと一緒に、眠気のような脱力感が体を満たし始めました。そしてそれとともに胸の痛みも息苦しさも、不思議に消えて行きました。
 砂を巻き上げる風から庇うように、ガナブの腕がきつくわたくしを抱き締めてくれました。今から始まる一日は、誰にとっても昨日とは全く違う新しい日です。ひどく疲れました。太陽と一緒に、わたくしも眠らせていただくことにいたします。
 ぼんやりした視界に白くなびいているのは、茨にひっかかったイムさまのスカーフでしょうか。まるでわたくしの旅立ちを送ってくれる旗のように風にひらめいておりました。

 

 



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