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 塩の柱         村上青二郎 「層」長野ペンクラブ


 

 

 男は傘をすぼめながら、痩身を折るようにして店に入ってきた。
 節子がその居酒屋に勤め始めて一週間ばかりたった日である。
 岸本と呼ばれたその男は、カウンターの一番隅にかけ、少年のような声でつまみとビールを注文した。
 初めて会ったのに、なにか懐かしいような気がした。
どこかで会った覚えがあると節子は感じたのである。
 結構通っているらしく、ほかの常連客と笑みをかわしては、たわいもない話に溶け込んでいた。
 笑うのを恥じているような笑顔だった。厨房で皿を洗いながら節子は男のほうを盗み見て、そんな印象を持った。
 その店のマスターは麻雀が好きで、店の向かいにあるマンションの二階の住居の一室に麻雀卓を置いていた。
麻雀をする客はまず店で軽く飲んでマンションに上がっていくのが常だったが、岸本もその夜は誘われて店を出ていった。
 節子は店が終わってからママに荷物を頼まれて、マンションに顔を出し、麻雀をしている連中にコーヒーをせがまれた。いつもなら疲れ切っていて面倒なその仕事を、節子は喜んで引き受けた。
 私も麻雀を覚えようかなと言って、岸本のうしろにかけて、しばらく様子を眺めていた。
 話の中で、岸本が四十を越えているのに独身だと知った。
「もっとも、岸ちゃんのは毒々しいの毒だけどよ」
 小久保という男がそんな冗談を言い、ついでに麻雀のツキをくれと言って節子の胸に触った。
 節子は水商売は初めてではなく、酔客の、もっと失礼な行為にも馴れていたが、今は顔だけでなく、体全体が真っ赤になるのを感じた。
 もう岸本を意識しているのだった。
 節子はスカートの膝のあたりを整え、椅子を岸本の後方にひいて、胸をかばうように腕を組んで、そんな自身の心を不思議なもののようにみつめていた。
「私、岸本さんのこと、おにいさんって呼ばせてもらおう」
 節子はとうとうその夜三時ごろまで、麻雀を覚えたいと言って、岸本のうしろにへばりついていた。
 酔った岸本は陽気な麻雀を打った。
 少年のような声で駄酒落を連発し、振り込んでも、不思議な笑みをたやさなかった。
 次に岸本が顔を出したのは金曜の夜で、口あけであった。
 岸本ちゃん珍しいね、こんなに早くというママの言葉を、厨房でお通しを皿に盛りつけながら節子は聞き、また頬が染まるのを感じていた。
「それはどうしたの、昔、なにかあったの」
 岸本は仕事の疲れもあってか、はやばやと酔いが回った様子で、カウンターにもたれかかるようにしていたが、節子が隣にかけるとそんなことを聞いた。
 真剣なまなざしである。
 酔いの底から突き刺してくるような、暗い光のある目である。
 節子の左の手首には、紫色のきわめて細い糸を巻いたような傷跡がある。
 それと思って見なければ、わからないだろう、かすかな痕跡だった。
「うん、昔ね、昔むかしね、ちょっと」
 そう節子が答えると、岸本は頷き、次の瞬間にはもうそのことを忘れたように、カラオケの本を開いていた。
 節子はさして暑くもない陽気なのにしとどに汗をかいた。何度もハンケチでぬぐうのだが、焼酎のボトルを棚から引き出す時、「せっちゃんどうしたの、ほら汗がすごいよ」
 ママが驚いてそう声をかけた程である。
 背中に島の地図を書いたような汗がにじんでいた。汗はしばらくとまらず、しかたなくトイレに入り、ママの貸してくれたブラウスに着替えて、再び店に出た。
 その日は岸本は足もともおぼつかなくなるほど深く酔っていたが、帰り際に出口で節子の耳元に、
「さっきは御免。悪いことを聞いた」と、また深い酔いの底で確かにものを見詰めるまなざしになり、そう言い残して帰っていった。
 しばらく節子は後ろ姿を見送っていたが、岸本は雨を楽しむ若い人のように濡れていった。
 岸本が傘を忘れていることを、節子も忘れている。
 そしてしばらく行ったところで道端にうずくまり、戻している様子だった。
 駆け寄って、背中をさすってやる。岸本はどぶ川にかかる小さな橋の欄干にすがり、胃が飛び出てきそうな、ひどい吐きかたをした。
 店に戻って綺麗にしてすこし休んだらという節子の言葉をふりきり、大丈夫と言いながら、ふらふら帰っていった。

 

 その翌日、節子は睡眠薬を多量に飲み、入院することになった。
 病院へ救急車で連れていったママの話はこうである。
 店の料理の仕入れを手伝ってもらおうと節子のアパートを尋ねると、あたかもパジャマ姿でママを迎えに出てきたように廊下に立ってこちらを見ていた。腰がぬけたかのように冷蔵庫につかまり、足を踏み出していたという。 ものを見ている目ではなかった。薄くまぶたを開いていたが、眠ったままの目で、呼びかけても答えはしなかった。
 手洗いのノブも回せないようで、細身ではあるものの、なにしろ腰がぬけかかっている。さすがにママも必死にうしろから支えて、廊下でパジャマをぬがせ用をたさせた。
 あとはひきずって奥の部屋に戻ったが、シーツから枕もとの畳にかけてものを吐いたあとがある。
 よく見ると、蜜柑の身に混じって、白い錠剤が溶けかかってはいるがまだ形をとどめている。
 とにかく救急車を呼び、近くの病院に運んでもらったが、医者が、「どうして最近の若い人たちはこんなことを」
と呟きながら腕に注射をする時に節子はわずかに目を開いたが、あとはまたまぶたを閉じて深く眠った。節子が時々見せる眉間の皺もその時は消え、安らかなような寝顔になった。
 医者は心配はいらないと言っていたが、ママは一度店に戻り、常連客の奥さんに一晩店に出てもらうよう電話
をかけ、アパートをかたづけ、また病院に戻ってずっと付き添っていたという。
 ママの人生にもそんなことは幾らもあった。九州の出で、マスターの博打狂いのために水商売に入ったが、やくざの店にそれとは知らずに雇われ、あやうく体を売るような所までいったりした。
 死にたいと思ったことなど何度もあった。なんの縁かはしらないが、目の前でこんこんと眠り続ける節子の頬に涙が流れているのに気がつき、それを指で拭ってやりながら、不思議に迷惑とは考えなかったという。
 節子はその夜遅くにようやく眠りから覚め、
「ああ、私、助かったの」
と呟いた。
「なかなかね、まだ神様が死なせてくれない間はね、生きていなきゃならないものだよ」
 ママがそう言うと、
「すみません」
とだけ答えて、また眠りに落ちたという。
 翌朝、病院のベッドの横でママが林檎の皮をむいてくれた時に、節子はいつか手首を切った際に自身の母親がまったく同じようにして林檎の皮をむきながら、
「節子が死ぬんなら私も生きてはいけない」
と呟いていた日のことを思い出していた。
「あの時は、死ぬつもりだったのか」
 そう岸本に聞かれ、節子は息をとめるようにして自分の中をみつめ、
「わからない」
 しばらく沈黙してから低い声で答えた。
「時々、こわれるの」
「変になるのか」
「砂漠が広がるの。心の底に」
 頭の中は多量の薬で眠っていても、体が朝の尿意を感じ、とにかく手洗いに行かなければと起き出したようだった。
 節子は小さく笑いながら、そんなことを言った。
 病院には二日いただけだった。医者はなにか悩みがあるならまた相談にきなさいと言ってくれた。
 そのあと、アパートに最初に顔を出したのが岸本で、
「御免。俺が妙なことを聞いたから、いけなかったね」
 そう言って優しい目で微笑んだ。
 そうかもしれない、と節子は思った。
 いや実際、そうだったのだ。岸本に手首の傷を見られて、それだけで節子はこわれた。
 同時に、なにか子供がわざと悪さをしてみせるように、岸本に自分のほうを向いてほしくてああしたのだろうと、感じていた。
 心が妙に急ぐことがある。
 それも結局は男によりかかりたい、飢えた心を見せているにすぎないのかもしれない。
 自分の外に求めても、なにも変わりはしない。
 通っている病院のカウンセラーにそんなことを言われ、結局は男を求めている心を露わにされたような、羞恥にとらわれたことがあった。
 でも、そうではなく、ただひとかけらの優しさをほしがっている、それだけなのですと、病院の帰りにつぶやいていた。
 たしかに病んでいるが、日常の暮らしができないというほどのものでもなかった。節子がそのような病いを抱えているとはつゆ気がつかずにいる、そんな友達ばかりだったのである。
 さらりと普通を装うことができた。ということは、結局節子は普通なのかもしれない。
 たしかに、普通であるとはどういうことなのかは、節子には見えているのである。
 しかし、その手前に薄い膜があって、節子はついにその膜を破って普通になりきれないまま、もう二十代も終わりにさしかかっていた。
 ひと突きで簡単に破れそうな、それはそんな膜である。
  膜の向こう側にとび移ったら、何をしたらいいのかもわかりきっている。
 今日までそれができずにきたのは、怠惰というのか、どう呼んだらいいのか。
 節子のパジャマの胸がはだけ、岸本はその肌に触れながら、「白い肌だ。まるでキリマンジャロのようだ」と言う。
 なんと大袈裟な言い方をする人だろうと節子は思ったが、口には出さなかった。
 テレビの上のカレンダーを見て、岸本と初めて会ってからまだ二週間しかたっていないと、呆れたような、うれしいような気分になった。節子はもう岸本の家に転がりこんでいる。
 節子の手首の傷はいつもより色づいている。
 岸本に抱かれたあと、紫が濃くなるような気がするのである。
 普段はほとんどない脇の匂いが強くなることにも気がついていた。
 岸本の所へ、節子はほんのわずかな物をもってきた。
 着るものがすこし、台所のものがすこし、そして本とである。
「聖書なんか持ってるのか」
 それは岸本の軽自動車でも楽に運べる量だった。その荷をときながら、岸本は新旧二冊そろった節子の聖書に目をとめて、そう聞いた。
 それから、コリン・ウイルソンの「アウトサイダー」を見つけ、岸本はほおっと、呆れたような声をもらした。
「わりと、本を読むのが好きなの」
 節子はそう言い、岸本の本棚に並んだおびただしい本に賛嘆の声をあげ、
「これだけあれば、私ずっと本を買わなくてよさそうだわ」
と、はしゃいでみせた。
 はしゃいでいる自分に気づき、気持ちにずれがないのを、また節子は不思議なように感じていた。
 いつもなら、人に合わせているその言葉のあとから、
空虚が忍び込むのである。
 そんなことばかりだった。人に言葉を投げる、その言葉が途中で萎えてしまう。
 というより、言葉を投げるその先から、砂漠は荒涼として節子の心の中に広がった。
「あんなことをしたのも、初めてじゃないし」
と、節子は打ち明けた。
 手首を切ったのは十七の時で、それには格別の直接的な動機があったわけではない。
 あえて言えば、徒労感なのである。
 ただ生きていくために生きていく、ために装う、そのわざとらしさへの徒労感。自分の暮らしにまとわりつくそんな感じに、節子は十七でもう疲れ果てていたのである。
 剃刀で切った手首にそれほど痛みはなかった。妙に涼しかった。そして、自分の血が手首からしたたり、体から流れ出した途端に、自分の血ではなくなった。
「私、心というより、自分の言葉が通じる人にはじめて会ったような気がする」
「そんなことを言うと、もう次の瞬間に、その言葉が自分を傷つけにくるんじゃないのか」
そう、今までは、と言いかけて、節子は黙った。
「言葉はひとつの病気だからね」
「あんまり言わないほうがいいのかな」
「それはそうだ。幸せだなんて言うと、神様が嫉妬するからな」
「すごい。そういうことって、本当にあるの」
「受け売りだよ。誰かの小説にあったんだ」

 

 暮らしとはこういうものだった。男と女の暮らしとは。
 岸本は近くの、自転車で十分もかからない工場に勤めている。朝の八時ころ、油やニスの染み付いた作業衣を着てでかけていく。一時間ほど残業をして帰り、少々晩酌をやり、座蒲団を枕に本を開く。
 ほとんどは節子が十代の頃に憬れた純文学の本である。
 あまりテレビも見ない。それは、節子もそうだったので、かまわなかった。
 節子も適当に自分にわかりそうな本を引き出して、しばらく読んでいるうちに寝てしまう。
 時々、店が忙しいときはママから電話が入るので手伝いにでかけ、もっぱら厨房にいた。
 常連客がほとんどなので、岸本とのことも知れ渡っており、嫌なことをする男客もあまりいない。
 一月にチップも含めて十万を越える額が手に入るのである。
 節子は店の手伝いのこともあり、料理の本を買ってきて、昼間から熱心に読み、毎日違うものをこしらえては岸本に食べさせた。
 暮らし始めて数日めの夜のことだ。眠っていた岸本がふいに呻き出し、節子は目を覚まさせられた。低い呻きをしばらく続け、節子は驚いて岸本の額に手を近づけたがしばらくさわりかね、そのままにしていた。岸本の腕に、鳥肌が立っている。
 なにより、夢にうなされる、鳥肌の立つようなリアルな夢も見るものだということに節子は驚かされた。
 低い唸り声を聞きながら、もしかしたらこの人も私と同じで心を病む人なのか、だから私のような女を受容できたのかと納得するような気持ちでいたが、じっと見詰めているその気配を感じとったのか、岸本は目を覚まし、
「おれ、なにか言ったかい」
と、尋ねた。
「呻いていた。怖い夢でも見たの」
そう聞き返すと、
「そう、若い頃にね」
 意味のわからないことを答え、額に浮いた汗を拭い、その手をしばらくかざして、掌を見詰める様子だった。
 そして、こちらに顔を向け、節子の手を両の手で包むようにして、
「ソーニャ」と呟いて、節子がなんのことかと聞き返しても微笑むばかりで、やがて目を閉じて静かな寝息を立て始めた。
 何かの小説の登場人物かと節子は思った。
 翌朝は節子が何度も揺すり、布団をはいで子供を相手にするようなことを言ってようやく起こすと、岸本はしばらく布団の上でうつろな目をして腹のあたりを撫でている。
「胃の具合が悪いの」
と尋ねると、
「ああ、朝ね、吐きっぽいことがある」
と苦笑いしながら答え、ようようのことで起き上がり、寝間着を脱ぐ。
「お酒、時々抜いたほうがいいんじゃない」
 本当に食欲がないらしく、パンを一切れかろうじて食べ、汚いような作業衣をそそくさとまとって、出かけていくのだった。
 その次の夜は、節子が店から帰るのが遅くなり、風呂もそこそこに寝床に入ると、岸本は待ちかねていたように節子の手を求め、自分の両の手でそれを包み、少年のような気弱な笑みを投げた。
「あなたって、時々はっとするほど童顔になることがある」
 節子はいささか不安の混じる、しかし、これまで経験したことのないような男に対するいとしさの胸の奥にしっとりと湧いてくるのを感じて、これが母性本能というものなのかとひとり頷いている。
「ああ、そんなものだろう。若い頃、年をとることができなくなってしまって」
 なにか、意味ありげなことをまた呟くように言い、それを聞きながら、節子は自分を引きつけていたものが実はその岸本の、男でありながら男であることを拒否しているような、そんなところだったのではないかと考えていた。
「あとはずっと同じなんだ。気持ちは同じ所でとまってしまい、自分を変えようという気に、とうとうならず、いつの間にか、体だけが年をとってしまった。本当にそうだ」 それは節子も同じだ。どこか普通の大人になりきれず、あやういような自分を抱え、生き惑っていた。
 抱かれる時にも、こうして二人してこの世界にあることの、互いの心はたしかに手の届くところにあるようなのだが、ふたりの体がこの世界にあることの頼りなさ、というより、むしろ二人を包んでいる世界の陽炎に似た頼りなさが、ひそひそとつきまとう。
 そんな感じをとらえては、何なのだろうと節子はいぶかしむことがあったが、節子はもちろん、岸本もこの世界ではとうに生きていないたぐいの人間だったのだから、考えてみればあたり前なのかもしれなかった。
 節子は時折、ことに生理のころに、ひどく貝合が悪くなる。それだけならいいのだが、それだけの所から、現実の世界から一気に脱落したいような、そんな衝動に襲われることもあったのである。
 怒りにも似た衝動である。怒りとすれば、自身に向けたものなのか、世間に向かったものなのか、それがわからない。その正体を捕らえようとすれば、すでに変様している。正体がつかめないからなおのこと苛立つ。そんな思いにとらわれることが、岸本と暮らし始めて、消失していた。
 あるように、ある。なにか、そんな感じで暮らしは流れていた。
 翌日の休みには岸本と腕を組んで近くのスーパーに買い物にでかけた。
 スーパーのかごに盛り取られたものにはそれぞれの暮らしがあった。なにか、それを恥じているような女たちに混じりレジに並んで、節子は岸本の横顔をながめながら、そういえばこの人のことをまだ何も知らないと今更のように気がつき、ふと、結婚という世間並な形を踏んでもいいなと思い、ほとんど今では行き来もしていない実家のことを思い浮かべていた。
 岸本の家族はといえば、東京に嫁いだ姉がひとりいるだけらしい。
 スーパーからの帰り道に、父親のこぐ自転車の荷台に乗った小さな女の子が手を振りながら二人を追い越していった。振り向いてみると、後方から母親が歩いてくるのである。その子に節子と岸本が手を振り返すと、女の子は違う違うというように、おかっぱの頑を左右に振ってみせる。その様子があまりに可愛いので、
「ねえ、子供、欲しくない」
と節子が肘にさわりながら尋ねると、岸本は曖昧な返事をした。
 それは節子も予想していたことだった。岸本の暮らしを見れば、そこに子供の姿を想像することは何か似合わなかったからである。
 終日歩き回ったその夜は節子の掌をまた包むようにして眠りにつく岸本に、週末ゆえの疲れがどことはなく滲み、節子が自分の胸に岸本の顔を引き寄せ肩を叩いてあやすようにしてやると、岸本はじきに寝つこうという様子だった。
 しかし、岸本が急に笑い出した。
「どうしたの」
「だってな、息が同じなんで、おまえが俺の分まで空気を吸ってしまいそうな感じで」
 そう言われればなるほどそうで、吐く息吸う息があまりにあいすぎ、節子もふき出してしまうのだった。
 そして、節子は岸本がずいぶん自分に馴染んでくれたと感じて、
「私ねえ、なんだかあなたといると、すっかり治ってしまいそうな気がする」
「それは、よかったな」
「人がね、私を病人としてしか見ていないとね、私はますます病気になってくの。病院の先生なんかの前でね、そう思うの。その、私を病人としてしか見てくれない視線にさされて、ますます、出口もなく、病んでいくということがね、あるの」
「ああ、そうだろう。そして多分、病人にしか見えないものがあるだろう。そう思っていた。そう、前にね、考えたことがある」
「病気の人でないと見えないの」
「そうじゃないかな。というより、そこまで見える人だからこそ、病むということがあるんじゃないか。むしろ病まない人ほど本当はどこか病んでいるというか、そうなんじゃないか」

 

 その夜は会社の付き合いで、岸本はかなり酩酊して帰ってきた。
 節子の敷いた布団にうつぶせになり、
「死ぬことを隠していた」
などと、訳のわからないことを呟いていたが、やがて背中を波立たせ、笑っているとも泣いているともつかない様子でかれこれ十五分あまり、そのままの姿勢でいた。
 節子は驚いて、自分が通っていた病院の待合室で、これとよく似た光景を目にしたことがあったと、老妻に背中を抱かれ、なにか周囲のあらゆるものを拒む様子で寒い待合室の古びた長椅子に横になっていた男の姿を、思い出していた。
「どうしたの。なにか、話したいことがあるんじゃない」と節子が、その時の老妻のいたわりようを真似るようにして聞いてみる。
 ああ、これは、この人はやはり私などよりもっと病んでいるのかもしれない。節子はしかし随分素直に、その認識を受けとめることができた。
「ここには神もいるのかも知れない」
と、岸本は節子の手首の傷跡を握る。
 そして、その手首を蛍光灯の明かりに向かってかざすようにした。人は酔いに溺れているようで実は酔うほどむしろものがよく見えるようになると節子は水商売に入ってから気がついたが、岸本の酔いの目もそうだった。
「あるいは神もいるかもしれない」
 重ねてそう呟いて、いつもの酔いに任せた陽気な冗談口と、言い方はさして変わらない軽みを取り戻した様子で、いささかの照れを浮かべた。
 節子が胃の具合が悪いのに、どうしてそんなに飲むのかとおずおずと口に出すと、
「酔って、やっとのことで一日が終わるんだ」
と、その日一日の暮らしの果てに、まだほてりを残す心に苦しむ様子で、そんなことを言った。
 岸本は、足を伸ばして節子の足にからめて、目を閉じ、
「時々、夜が過ごせないかと思うことがあるんだ」
 そして、また台所から酒をコップについできて、しばらく酒を舐める音を聞かせていたが、やがて寝入ってしまった。
 翌朝も、岸本は起きあがるとしばらく布団の上に座ったまま、おくびをこらえる様子で、のどや胸のあたりに手を当てていた。
「具合が悪いの、休んで病院に行ってきたら」
 そう節子が声をかけると、振り向いて照れたような笑みを浮かべ、そろそろと立ち上がるのだが、押し入れの上の段に布団を上げかけた姿勢のまま、またこみあげるものをこらえる様子でしばらくじっとしている。
 その背中を眺めやって、よく言われるように、ストレスが原因の胃病だとしたら、この人の心疲れは、自分と暮らすことで深くなっているのではないかと節子はふと思った。
 そして節子自身がこれまで他者に対して抱きつづけてきた、どこかで他者に対してしっかり閉じていなければ、自分がなくなってしまうようなあやうさをたぐりよせていた。
 岸本がこの年まで独身だったということは、節子よりももっと他者に対する距離が必要だった人なのかもしれない。そう思ったのである。
 岸本は少し酒をやめてみようと答えて勤めに出かけたが、その日も帰ってくると、いたずらっ子のように、
「あれ、こんなところにこんなものが」
と言いながら、近くのコンビニエンスストアの袋の中から罐ビールやワンカップの瓶を取り出して、笑うのだった。
「やっぱり飲まないと、一日が終わらないの」
 そう聞いた節子の思い浮かべていたのは、糖尿でもう体がぼろぼろなのに、毎日のように店に飲みにくる客の姿だった。
「うん。言い訳だけどね」
 節子は岸本が工場でどういう仕事をしているのか知らなかったことに今更のように気がついている。
 腕時計の日付とか曜日が見える所があるだろう。時計の小窓の、と岸本は随分古い時代の腕時計のコマーシャルソングをくちずさみ、その窓の枠を作るのが俺の仕事なんだと、はにかんだように答える。
 そういえば、油に汚れた作業衣を節子が洗濯する際に、ポケットから金属の四角い小さな枠のようなものがこぼれることがしばしばある。そういうものを日に何万と作るのだそうで、節子はそんなにすごい数を作って、時計が売りさばけるものだろうかと思う。
 百分の一ミリを単位とした仕事で、この規格を維持していくのがなかなか大変で、そのために神経を磨り減らす毎日のようだ。
 春に会社で健康診断があり、その時はバリウムを飲んでのレントゲン撮影で十二指腸に変形部分があると言われていたと言う。
 だから今度は胃カメラを飲まなければならないだろうと、勤め先で誰かに聞かされたらしい。岸本は胃カメラと口にしながら顔をしかめた。
「もし私と暮らしていく気があるんなら、早く医者に行って診てもらってください」
 自身のそんな切り出しかたを節子はいささか芝居がかっていると感じながら、口に出していた。
 岸本が夜中にしきりに寝返りを打った。節子が目を覚ましてみると、パジャマから出た腕に今夜も鳥肌が立っている。節子は岸本の肩を揺すって起こし、膝を揃え、本当は私を愛しているのならと聞きたいところを、そう切り出してみたのだった。
 岸本は瞼の腫れた顔で、しばらくは何も言わずぼんやりしていたが、やがて、ぽつりと、「わかった」と答え、眠りに落ちていった。

 

 しばらくして岸本はようやくのことで年休をとり、予約の上で胃カメラを飲みに病院に行った。
 岸本を送り出してから、節子は簿記の本を開いて勉強をはじめていた。
 岸本と暮らして行けるなら、世間に出て他人と接触するようになって傷ついても、以前のように癒えない深い傷ではないだろう。なんとか勤めていけるかもしれないと自信めいたものもわいてくる。
 しかし、今日は身が入らない。
 もしかしたら、治らないような病気かもしれない。考え始めると、きりがなかった。
 それでも、もしも最悪の事態になっても、短い間でも岸本と暮らせたことを心のよすがとして暮らしていけそうだと言いきかすように考え、やがて不思議に透き通ったような気持ちに変わっていた。
 気をまざらすために買い物に出る。
 初夏、路面には逃げ水が浮いていた。学校の庭にあたかもこちらを見詰めて笑っているようなひまわりの鮮やかな黄色にふっと救われた気になる。
 潰瘍には肉よりも白身の魚、トマトジュースに蜂蜜を溶かして飲むのも良いなどと本で調べておいたものを買いこみ、近くの団地の並木道を歩いて帰ってくると、岸本が教会の前に佇んでいる。
 桜並木の奥に、目をこらさないとわからないような、小さな教会がひっそりと隠れているのである。
 何を見ているのか、ズボンのポケットに手をいれ、いつもの猫背になって、鈍い青さに染まった空に視線を投げていた。
 節子はしばらく声をかけるのをためらった。
 今の岸本は見知らぬ人のようである。ふと昨日までの暮らしが一刷毛で消し去られたかのような感じがした。
「ああ、買い物だったのか」
 節子に気がついて微笑んだ岸本の素直な髪に光が踊っている。節子は自分の頬が染まるのを感じた。
「何を見てたの」
「いや、なんとなく。あんなところにあんなものがあるから」
 教会の屋根の上の、白い十字架を指している。
「検査は、どうだったの」
「やっぱり軽い潰瘍があるって。でもまあ、薬で治るほどのものらしい」
 さすがに胃カメラの管が喉に押し込まれた時にはどうなることかと思ったが、喉を通してしまえばあとはされるがままで、かえってくったりとしていたのがよかった。潰瘍を捜してカメラがいったりきたりしても、癌かどうかを診るために組織を取って血がそこから流れ出るのを見たときも、もうどうということはなかったという。
「自分でそれが見られるの」
「ああ、目の前にテレビみたいな画面があるんだ」
 しかしそれだけの短い検査でも、やはり緊張から疲れが出たようで、岸本は家に帰って軽い昼食を食べたあと、節子が気がつくと濃い眠りにおちていた。
 華奢な顎の線を見せて、まるで少年のような寝顔だった。かえって病に身を任せきって安堵したというような穏やかな表情をたたえている。
 本当に不思議な人だと思う。いつか岸本が言っていた、若い頃に年をとるのをやめてしまったという言葉を思い出していた。
 容貌だけではない。言葉もそうである。なにか現実の生身の、四十男とは思えない声音で、呟きに似た言葉を漏らす。
 そして言葉にまつわりつくはずの、人それぞれの濃い自我をとうにどこかに忘れてきたかのような、自身の口から出る言葉でありながら一つの肉体を超越してしまったような、そんな言葉を、いわば岸本は虚空に向かって放り投げるのだった。
 岸本の優しさとは節子にはそういう感じを抱かせるものだった。
 節子はいつの問にか岸本の寝顔の上におおいかぶさるように体を折って、そのなかば開いた唇に自身の唇を軽く触れていた。
 この人は、意識しているかどうかは別として、病んだ体を私に預けたかったのかもしれない。
 もしかしたら、私の所で死にたかったのかもしれない。
 もしそうなったら、きっと他の人は遠ざけ、この人とふたりきりで手を握り合いながら、死をみとることになるだろう。
 節子は毎晩の、岸本が子供のように自分の手を握り眠りにつくのを二人だけのかけがえのない儀式だったように思い返していた。
 暮らしの辛さになんとか耐えて、まるで一日がそこに辿り着くためにあるかのように、互いの掌をあわせて眠る。日々の終わりに軟らかい掌があるのだった。
「ああ、寝ていたのか」
 目を開けた岸本が乾いた唇でそう語りかけ、いじらしいような笑みを浮かべて、
「おまえの聖書があっただろう。どこに入っていたっけ」
 節子の荷物はまだ整理しきらずに、奥の八畳にダンボールに入れて重ねてあった。節子が聖書を捜し出してくると、手に取ったきり、しばらくぼんやりと、なにか思い出すことがあるようで、窓からさしてくる光に向かい、遠くを見る視線を投げていた。
 それから気がついたように聖書の黙示録のあたりを開き、節子の用意した桃の缶詰を食べて読み耽っていたが、いつの間にかまた寝息、というよりいびきを立て始める。
 ああこの人はやっぱり疲れている。節子は思った。
 それもたぶん、昨日や今日の疲れではない。
 その、年をとれなくなったという若い頃から、生き悩むうちに沈澱した深い疲れなのだろう。
 病院からもらってきた薬にも眠気を呼ぶものが入っているのだろうか、夕飯のあとも岸本は夜半までこんこんと眠った。
 眠りが眠りを呼ぶようである。
 夕飯のかたづけをすませてから節子はまた岸本の寝顔にのめりこむように見入っていたが、やがて瞼が重くなってきた。
 寝間着に着替えた節子が布団にはいると、
「死にたかったのかもしれない」
 岸本がふいに、つぶやくように小声で漏らした。
「おまえと一緒に暮らして、ようやく死に場所を確保したような、そんな気でいたのかもしれない。どうも、自分を深い所で、死んでしまえと呪い続けていたようだ」
 こんなふうに半ば覚めて横になっていると、罪の思いが際限もなく責めにくるのだと、岸本はそんなことも口にした。
「人を殺したんだよ」
 そして、節子を、というより、その罪を見詰めて見開いた目が濡れていた。
「どんなことでもいいから、話してごらんなさい」
 学生運動の上で、同志だった男を殺した。
 二十年前のことだ。
 神奈川にある刑務所で、法的な勤めは終えたという。
 闘争から脱落した男が、活動の経験を小説に書いているという。
 逃走すること自体が許されないことだった。岸本の属していたのはそういう組織だった。いわゆる学生運動の水準ではなかった。
 ましてそれを書いて発表するなど、言語道断だった。
 ある夜にアパートを襲い、男を車で拉致し、千葉のとある沼の近くで「査問」にかけた。
 一応は説得して活動に復帰させるという名目だったが、組織の上部でははじめから命を奪うこともやむをえないと考えていたようだった。
 殴ることで同志として復活させようということでリンチは始まった。
 男は殴られながら、ふてくされたような笑みを浮かべて仲間を見回していた。
 もっと殴って気絶させれば、蘇生した瞬間に真の革命家になっているだろう。リーダーが今度はそんなことを言い出し、屈強の男の同志たちがかわるがわる腹を蹴った。
 その腹は内出血でみるみる紫に染まった。
 私にこの話を聞く権利があるのだろうか。
 節子が考えたのはそういうことである。
 なにが、総括だ。泣きわめきも命乞いもせず、そううそぶくようにしてこときれた男を田代ともうふたりの男が林に埋めた。
 岸本は歯の根が合わなくなり、その場にへたりこんでしまいそうな脱力感にひたされていた。
 のどの奥から「かあちゃん」という言葉がほとばしっていたという。
 幼児のような声である。
 そして言いようのない感覚が下半身から這い上がってきた。失禁したのではないかと、アジトに戻って手洗いに入り確かめたが、濡れたあとはなかった。
 俺の革命とは、こんなものだったのかと、手洗いの中で長いあいだじっとしていたという。
 狂いそうだと、思ったという。
 いや、いつから狂っていたと、そう呟いていた。
 そして、自分の口からひゅうっと、長い微かな悲鳴に似た音を出して、いつまでもすわりこんでいたという。
 あいつはやっぱり駄目だった。自分が死ぬことを、おれたちに隠していた。革命家として蘇生するつもりはまるでなかったんだ。
 そんなリーダーの、観念に毒されきった総括の言葉を聞くうちに、岸本は脱落を決めていたという。
 たしかにあったそのことが、今でもあったと考えられない。ありうべきことではなかった。
 すべてが間違いだとは思わない。今でもこの世界を少しもいいと思わない。あの場所に岸本がいなくても、きっと他の誰かがいたに違いない。
 しかし、人を殺す、そんなことが、岸本の人生にあろうはずはなかった。
 まだ逃げている男もいるという。二十年もの間だ。
 その場にただひとり立ち会っていた女の仲間は、その後数回の自殺未遂を繰り返し、深い病の底にいるという噂を聞いたことがある。
「俺ももう駄目になるのかと思っていた」
と言う岸本の顔ににわかに老いと呼べそうな表情が浮かんだように見えた。
 ああ、人はこうして年を、こんなふうにしても年をとるのだと、節子は妙に納得したような気になった。
 仕事中でも思いがそこに戻ると、時がとまってしまうという。呪文をかけられたかのように、あるいは、誰かの視線で自分を裁かれているように。そして、目を見開き、羞恥の、悲憤のとりことなり、そこに凍りつく。
 その時、自分の体の中で、たしかにこわれていくもののあるのがわかる。心ではなく、体が現に壊れていくのだという。
 振り向けば、塩の柱。たしか、聖書にそんな話があったと節子は思い出していた。振り向くな。振り向くと、塩の柱になってしまう。
 節子は疲れ切っていたが、心の底は不思議に冴えかえっていた。そして、私はこの人を知っていると、妙なことを、胸の中でつぶやいていた。
 ずっと前からだ。はじめて会った日に、もう懐かしいような気がした。あれはたしかに本当だった。
 節子は岸本の髪をなでながら、この人の優しさは、とうに自身を罪人と見定めたことからきているのだと、考えていた。
 岸本はやがてようやく眠りについた。
 眠り残される、先に眠られてしまう。いわばその夜の節子はそうだった。なにか疲れきった体の中で胸の動悸はいつまでもおさまらず、汗をしとどにかいて、かたまったように横たわる節子の体のそのはるか上を、なにかがたしかにすみやかに飛び去るような感じがあった。
 自分がもしかしたら狂うかもしれないと怯えていた頃がある。
 世の中にはたしかなものがあって、それが自分にはつかめないという焦燥が原因だった。
 その頃の、節子の夜を襲ってくる体感がたしかこうだった。
 たしかなものなどなにもありはしないとわかってからは、その認識が狂うことへの漠然たる不安をいくらか鎮めてくれた。
 そう思うことで、世界を、あるいは自分自身を投げ出してしまえたからだ。
 あれはなにか、怒りに似ていた。たしかに怒りのたぐいだった。
 あるいは、その怒りで岸本たちが不条理な世界をこわそうとしたのに対して、節子は自分の方をこわしてしまったのかもしれない。
 相容れないものだから、どちらかがこわれるしかないからである。
 節子も、だから時代が時代であれば岸本のように運動に加わっていたような気がする。
 節子は自分から岸本の手を捜して、軽く指を握った。
 そしてとうとうその夜はまんじりともせず、眠りに近づきながら引き離されては、朝の明けるまでを過ごした。
 この人の重みを、私が引き受けることができるかどうかと、節子は朝の明るさを帯びてきた窓に目を向けながら、しきりに考えていた。
「いい奴だったんだ。飯を食うのが遅くて。いつも、顔を真っ赤にして汗をかきながら、人の倍も時間がかかるんだ」
 いつの問にか起きていた岸本がいきなりそんなことを口にした。
 岸本は一度その男の家に泊めてもらったことがあるという。
 信州の奥の田舎町。何という名なのか美しい山が、ちょうどその町の中央を下る道の行きつく先に聳えていたという。
「会いにいってきたら」
 ぼんやりした頭に浮いた妙な言葉を節子が口に出すと、岸本は机の中から随分古くなった便箋を取り出し、広げてみせた。
 墓参りに行かせてもらおうかと考え、男の両親あてに何年も前にしたためたものだという。
「会ってくれるかな。それでどうなるというものでもないけどな」
 岸本がその手紙を書き直している間に、節子は朝食の支度をし、こんな、こんなと呟きながら、涙を流していた。
 脳裏に、この世の果てでうずくまる節子の体が透き通り、一匹の虫になってしまったような姿が浮かんでいた。
 私はもう病むことはないだろう。
 その時、節子はなぜかそう確信していた。
 手紙を出してくると言って外に出た岸本を追って、節子もエプロン姿のまま、玄関を出た。
 青白い岸本の顔に、初夏の武蔵野の木漏れ日が落ちている。
 その肌を照らす陽もありき。
 節子の心に、どこかで読んだ詩の一行が浮かんだ。

 

 

第14回信州文学賞 受賞作 

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