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       雪おんな                 森野こと

 

頌(オード)」25号(2006年7月)

推薦 北川 佑さん(風紋



 何度でもなんどでも生まれ変わってお前に会いにゆこう。
 どこにお前がいても、どこに逃げようともきっときっと、探し出して会いにゆくよ。


 「私は、悪い男なんですよ」
 Hさんが、話がしばらく途切れた後に、突然にそんなことを言うので、私は思わず指にはさんだ煙草を取り落としそうになった。慌てて灰皿を手元に引き寄せて、体勢を整える。そしてそっとHさんの様子をうかがうと、相変わらず困ったような穏やかな笑顔を浮かべていた。どこまで本気なのかわからないのが、Hさんの魅力のひとつなので、私も曖昧に笑った。
 Hさんは、半年ほど前から私の勤める会社の守衛として、会社の出入り口にある守衛室に座っている。年齢は四十代後半から五十代初めといったところで、そこを通り過ぎるときに、いつも感じの良い笑顔で挨拶をしてくれる。第一印象がどんなものだったか覚えていないが、私の部署の部屋の鍵のことで初めて言葉を交わしたときに、ああ、背が高いな、それにいい声だとちらりと感じ、すぐに忘れた。
 そんなHさんに休日にいきつけの喫茶店で顔を合わせた。黒いタートルネックを着たHさんは、薄暗い店の奥に溶け込むように座っていたのだが、席を探していた私と目が合うと、まるで待ち合わせをしていたかのように笑いかけてくれた。それで何となく私もすとんとHさんの前に椅子に腰をおろしてしまった。それから休日になると、約束をしているわけでもなくその喫茶店で会うようになり、いつの間にか互いの部屋を行き来する仲となったのだ。
 もちろんそれは男女の仲ではなくあくまで茶飲み友達のそれだ。Hさんは気をつけて見れば長身であるし、それなりに顔立ちも悪くないのだが、「今さら男とか女とかもないでしょう」といった飄々とした雰囲気を漂わせていた。私にしてもまだ四十歳になったばかりとはいえ、苦く長い離婚騒動を経てから、男とまたそんな関係を持つことに疲れていたので、適度に枯れているHさんに連帯感のようなものを感じていた。
 いつ会ってもHさんは守衛室でのHさんと少しも変わらずに人当たりの良い笑みを絶やさず、口数少なく、自然私ばかりが話すことになるのだが、その話に耳を傾けてくれる。それが私には嬉しかった。別れた夫は、自分の話したいことだけを大声でがなり、女を作ってだまされ借金をこさえ、その合間に私を罵り殴りという感じで、別れて数年たっても誰かに向かって私的な言葉を発するという行為が、私にはスムーズに出来なくなっていたから。
 不思議なことにHさんは、別れてひとりになりその顔を思い出そうとしても、輪郭がぼやけてしまって像を結ばない。珈琲カップを持っている長い指や、意外に広い肩幅は思い出せるのだが。別にそれで不都合ということもない。心弾むほどでもないが会えば気持ちよく過ごし、暗黙の了解として深入りすることはないという関係がしばらく続いた。
 冬の季節に入り、朝から冷たい雨の降る土曜日のこと、私はHさんを自宅での夕食に招待した。実家から牡蠣を大量に送ってきたので、Hさんに鍋でもご馳走しようと思ったのだ。それに友人が送ってきてくれた酒もあったし、電話でその旨を伝えると、Hさんはいつものように静かに笑って承諾した。
 ダイニングテーブルの上に料理を並べ終える頃、時間通りにHさんはやって来た。日本酒を飲みながら鍋をつつき、とりとめのない話を続ける。やはり私ひとりが話し、Hさんはニコニコとして聞き、ときおり「そうですか」「それはまた」などと気をそらさない合いの手を入れてくれる。酔いがまわったこともあり、誰にも話したことがなかった別れた夫のことなども話題に乗せ、随分調子に乗ってしまった果のこと。ちょうど朝から続いていた雨の音がしなくなったことに気づき、カーテンを開けてみると、ここでは珍しい雪が暗い空からほとほととおりてきているのだった。
 「私の故郷は雪が多いところでね、そこで生まれたこどもは小さいときから雪おんなの話を聞かされて育つんですよ」とHさんは言う。
 雪おんな…。何だっけ。ああ、あれだ。私は酔いのまわった頭で思い出す。雪おんなは恋した男の妻になりすまし、しばらく幸福に暮らす。だけどある吹雪の夜、針仕事をしているその妻の横顔に、男は思わずこう言ってしまうのだ。
 『お前は昔会った女によく似ている』
 『その女って誰?』
 『それは言えない。誰にも言わないって約束なんだよ』
 『あたしに言えないというのなら、あんたはその女を愛してるのに違いない。』
 そう言って女は男の膝に突っ伏してさめざめと泣き出すんだ。
 『そうではない。そうではないが…』と男がすっかり話してしまうと、女は伏せた顔をあげてさっと立ち上がる。窓や戸がひとりでに開け放たれ、雪と風がさあああと舞込んで…。
 「そう、その雪おんなです」Hさんは、手酌で酒をお猪口に酌むと、口元に持っていく。その時、Hさんの少し厚めの唇に目がいき、不意に私は落ち着かない気持ちとなった。

 「もう雪は二度と見たくないと思っていましたけど、こうして久し振りに見ると、やっぱり懐かしく慕わしいものですね。」
 カーテンを開けたままにして、少し窓を開けて欲しい、雪が見たいから、とHさんは言う。やはり酔いがまわっているのか、いつもはきちんと分けている前髪が少し乱れ、なにやら男っぽく見える。それに、お猪口を持つ長くて大きな指に目がいって仕方がない。
 「雪おんなの話の違うバージョンには、路で雪おんなに会うと、腕に抱いた赤ん坊を渡される…というのがありますね。赤ん坊を受け取ることを拒んでもその場で殺されるし、受け取ってしまえば赤ん坊は冷たい氷塊となってどんどん重くなり、結局は殺されてしまう…。どちらにしても会ってしまえば運命は決まり、逃れることは出来ないのです。」
 開けた窓からは雪が舞い込みはじめたが、酒で火照った身体には心地よく、もうしばらくそのままにしておくことにした。
 「雪にもなれず、人間にもなれず、雪おんなは雪原をさまよい続けるそうですが、私は生涯で二度雪女に会いましたよ。」
 Hさんのコントラバスに似た声が、頭と胸に染みとおっていく。テーブルの上に乗った食事の残骸を片付ける気分にもなれず、まあいいかとHさんの声で語られる物語に身を任せることにする。それは少し奇妙な話だったが、そんなこともあるのかもしれないと私は思い、半分夢の中にいるような気持ちで耳を傾け続けた。

 「もう十年も前になりますが、私はたったひとりの肉親が目の前で自ら死ぬのを見ていました。そうなるのではないかと思いながらも、私は彼女を止めることも出来ず、自分で自分の頭を撃ち抜くのを…見ていました。
 それは私の妹で、ずいぶんと私は愛していたつもりだったのですが、やはりそうではなかったということなのでしょう。私も彼女に背中を撃たれ半死半生をさまよいましたが、こうしてまだ生きていることは業が深いというのか悪運が強いというのか…。それも何かの罰なのかもしれません。
 どうしてそんなことになったのか…。私もそればかりをこの十年もの間考え続けてきたけれど、それはそういうさだめであったとしか言えないように思えています。」
 Hさんはそんな風に話を始めた。

 ――私が十六歳のときに父とその若い後妻との間に妹は生まれたのですが、両親はその直後に相次いでひとりは死に、ひとりは消え、それから、私たちは二人だけで生きてきました。故郷はとても寒く、みな自分たちを寒さから守るのに精一杯で、誰も頼ることは出来ませんでしたし。
 私は、とてもひとにはいえないような悪いこともしたし、汚いこともやってきました。あれもこれも私を必要としてくれる妹がいてくれたからこそ、そんな生活に耐えぬくことも出来たのですが、当時はそんなことは自覚せず、妹のために自分を犠牲にしているとまで思えて仕方なかったのですよ。――
 悪いこととはどんなことでしょうと問う私に、Hさんは笑って答えない。何だかHさんのその笑顔が、今までの感じの良い笑顔とは違ってきているような気もして、私はだらしなく椅子に据わっていた姿勢を少し正した。
――二歳過ぎる頃までは、妹を施設に預けていましたが、それからは私が引き取って育てました。今から思えば子どもが子どもを育てるようなものですが、何故かそうしなければならないような気がしたのです。
 妹は私だけを見て、私だけを頼りにして、私の後をいつまでもどこまでも追いかけてきました。私ときたら、目の前にある生活に気をとられ、妹が何を考えているのか何を望んでいるのかなど考えることもなく、ただちゃんとついてきているのか時折振り向いて確かめるだけだったのですが。
 けれど、二人だけの閉ざされた生活の中で、妹は成長するとともに少しずつすこしずつ心を病んできました。私以外の人間とほんとうの意味で接触する機会がないので当然といえば当然ですが、彼女は私にだけ執着しそのほかのことは全くの無関心な人間でした――
 Hさんはそこで言葉を切り、しばらく黙っていた。私としても話をうながすのもどうかと思え、Hさんが再び口を開くのを待った。
 「妹が中学を卒業する頃、私たちは故郷を出て中央の大きな都会に出てきました。仕事のない故郷とは違い、少しは生きるのが楽になるかと思ったのですが。」
 と言ってHさんは空になったお猪口に酒を注ぐ。
 「やはり、そう上手くはいかないものですね。私はとある会社の社長に拾われ、まあそこもあまり良い仕事をしているところではなかったのですが、そこで働くうちに私はすっかり人間が変わってしまいました。」
 「変わってしまった…ってどんな風に変わってしまったんですか?」
 私の問いにHさんは、しばらく眉をしかめて考えていたが、やがて 「人としてやってはいけない最後の一線まで平気で越えてしまう…とでもいいましょうか。あんなに可愛がっていた妹も可愛いとは思えなくなりました。妹が私の生活を心配するのがうっとうしくてたまりません。
 妹はそのうちに、『あんたが好きすぎて苦しくてたまらない。だから殺してくれ』と言い出すようになりました。
 その時の妹の顔の凄絶な美しさというのか…この世のものではない顔となっていくのが私には恐ろしくてなりませんでした。もともと私とは全く似ていない、色白で一皮目で、とりたてて美しいというほどでもない日本人形めいた地味な顔立ちだったのですが、それが青白い炎に燃え上がっているような、例えて言うなら樹氷が炎に包まれているかのような姿で、ひたひたと迫ってくるのです。
 後ずさりながら、私は昔、私の方に手を伸ばしながら、同じような姿で同じような言葉で迫ってきた女を思い出しました。どうしてそれまで忘れていたのか不思議なほどでしたが、その女の顔が妹の顔に重なり、私はびくりとしました。
 それは、父の後妻でしたが、当時の私とは七歳しか離れていませんでした。女は父のいない夜には、私の部屋に入ってきては自分を抱けとかきくどくのでした。拒み続ける私の手をとり、自分の着物の胸元に差し込ませながら、女は上気した目で私をにらむのです。
 「あたしはあんたとならどこにだって行けるよ」
 「あたしを抱けないというなら、このままこの手で殺して。」
 そして女は子どもを孕んで病にかかり、雪の降る朝に子どもを産み落とした直後に死にましたが、最期私の手首を握って薄く笑って言いました。
 「どこにいようとも、どこに逃げようとも、あたしはまたあんたに会いにゆくよ」

 Hさんはそこまで話すと、煙草に火をつけた。冷えてきた部屋に紫の煙が漂っていく。私は話も話だが、何より笑っていないHさんが別人のように、息がつまるほどにいい男であることにさっきから気づいてしまい、何とも居心地の悪い思いで同じように煙草に火をつける。
 「それで、Hさんは後妻と『こと』を致してしまったのでしょうか」
 我ながら気がきかない不躾な質問だが、口にしてしまったのだからとわざと平気な顔で煙草の煙を吐き出す。
 「そうだったかもしれないし、そうではなかったかもしれません」
 Hさんは、唇をゆがめるようにして微笑した。
 「妹は私の子どもかもしれないし、そうではないかもしれない」
 続けて、さらりと何でもないことのように言うHさんの目は夜のように漆黒で、覗けど何もみえない井戸の底のように暗い。    「私は、自分の私利私欲にかられ、妹の私への盲目的な愛情を利用して、人としてやってはいけない最低の犯罪をやらせましたし、極限まで彼女を追い詰め、人間である一線を踏み越えて人外のものへと変わらせました。そうしておいて、私は彼女を拒絶したのですから、私こそ人間ではないものかもしれませんね」

 妹は私の恋人になりたかったし、どこまでも一緒に行きたがったのですよ。でも、私はつまらぬ倫理観に縛られ、いや、単に妹が恐かったのか、彼女が必死に行かないでくれと頼むのに、背中を向けてひとり歩き出したのです。
 あの日、私たちは一度捨てた雪降る故郷に戻り、二人でよく歩いた雪原に行きました。お互いの心には、ここでほんとうに何かが終るのだという予感があり、たどり着くまで二言も言葉を交わしませんでした。
 愛も悲しみも、痛みもあらゆる感情が凍りつき、それが雪となって降り注ぎ世界を白く覆っていくような日でした。それが朝なのか夕方なのさえもわからず、上から降っては積もる雪だけが、時間が過ぎていることを感じさせます。
 私は「愛していないのか」と問う妹に「愛していない」と答え、「ここからは一人で行け」と言い、彼女に背中を向けて歩き出しました。
 いつ手に入れていたのかそれはわかりません。ただ、当時の私の身の回りには、そういったものが身近にありましたので、隙を見て抜き取っていたのでしょう。妹は私に拳銃を向けて撃ちました。私はここで死んでもいいと覚悟していたのですが…。彼女をこうしてしまったのは私なのだし、彼女に殺されるのなら本望ではないかとさえ思えていたのです。
 私を殺してしまったと思った妹は、その場ですぐ銃口をこめかみに押し当てて引き金を引きました。私は薄れてゆく意識の中で声も出せずに、全てを見て…見続けなければならなかった。それは…到底言葉では言い表されない感覚ですよ。
 自分の愛するものが、死んでいくのを見ていなければならないというのは…。

 一度ならず、二度も私は一緒に行こうというものを拒み、ひとり生き残りました。

 Hさんはそこで話をやめて、窓から入ってくる雪をてのひらをさしのべて受け止めた。
 「ここまで来れば雪は降らないかと思っていましたが、やはり雪のほうが追いかけてきましたね。もっとも私は、いつでも彼女が来ることを待っているのですが。そして今度こそは一緒にいってあげたいと思うのです。」
 さっきから雪は勢いを増し、風とともに部屋の中に吹き込み、Hさんの黒い髪に 降りかかる。そのHさんの横顔を見ているうちに、それこそ私も雪おんなのような激しく高まる情念を感じてきて、気づかれぬよう脚を組み替えた。

 その日の夜、私とHさんとはHさんの言葉を借りるのなら、「こと」を致したかもしれないし、しなかったかもしれない。
 次の朝、私が目覚めるとHさんはいなかったし、月曜日に出勤しても守衛室には誰もいなかった。
 Hさんはその後も会社に来なかった。一週間後に代わりの守衛が来た。その新しい守衛に、「前の人はどうしたの」と聞くと、連絡もなく辞めたらしいとのことだった。
 その後何度かHさんの家に電話をしたが、呼び出し音がいつまでも続くだけだった。
 雪おんなが来たんだ。熱くて冷たい手でHさんを捕まえたんだ…。
 しばらく、私は熱に浮かされたような気持ちが続いて、時折「あ」と声をあげたりするような日々を送った。

 でも次第に印象は薄まり、もうHさんの声も思い出せない。

 

 

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