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 階段           水木 怜

 

照葉樹」4号(2007年11月)

推薦 よこい隆さん(木曜日


  
 くる……。
 その瞬間、聡子は身体の自由を奪われた。眠りの闇にいきなりぐいと引き込まれ、穴底に落ち込むような異様な感覚がしたと思ったら、薄ぼんやりとした物体が聡子の肩に手を廻し、ベッドの中に寄り添うかのように横たわっていた。
 聡子はその正体をはっきりと見たわけではない、ただ、微かに漂う匂いに懐かしさを覚えると、それは、やはり死んだ夫だと感じた。
 …あなた、すみません、私はまた逝かれませんよ。和夫を一人にしてあなたの傍には逝けません。だって和夫はまだ中学生なんですよ。せめて和夫が一人前になるまで待っててください…
 固まった喉仏から振り絞るように訴える言葉は、乾いた紙切れのように切れ切れとなり舌がもつれて動かない。
 …あなた、逝けません…、逝けません…
 はっと目が開いた。気が抜けたように空気がいちどきにどよめいて、硬直した身体が溶けると、胸のあたりにぞわっと冷えた汗のぬめりを感じた。
 焦点の定まらぬ目で辺りを伺い、漂う正体を探してみるものの、何の変化もない。たた、四隅に薄く影を落とした黄ばんだ壁に掛かるカレンダーの紫陽花が、夕暮れの有り余る静寂を我がものにして浮きあがるばかりだ。窓の高さに置いたベッドの足許に西陽がじわりと初夏の葉影を落としている。
 二年前、自分が脳梗塞で倒れたその日に夫の信一郎の十三回忌を済ませた、ということは、早いものでがれこれ十五年に近い歳月が流れているのか…。
 …久しぶりにまたあの人がきた…。ふぅっと深い溜め息をついた。

 死んだ当初、夫の信一郎は何度となく聡子の枕辺に立った。四十五歳の若さで突然逝ってしまった夫は、さぞや無念さを残していたであろう。階段の下に佇み、もの言いたげにただじっと見上げている気配を感じることもあれば、寝入りばなに突如、腹の底を揺さぶるような階段を踏む音がして布団の脇にゆらりと立つ影を見たこともある。そんなとき、聡子は眠りの淵から強引に引き戻されるが、果たしてそれも夢なのか説明がつかない。人は死んで肉体は滅びても霊魂は残るというが、ひょっとして夫も現世を恋しがり、年月を経た今も聡子のまわりを彷徨っているのだろうか。聡子は霊の世界を信じているわけではないが、たまに解明できぬ現象に襲われることがある。
 …あなた、私を迎えに来ないでください、和夫を独りには出来ません。もう少し待ってください…。いつも言い含めるように夫に懸命に語りかけていた言葉だった。しかし、また何で、今更同じ言葉を言ってしまったんだろう…。今度きたときには、連れて行って下さい、と頼むつもりが、と悔やんでみても、もう遅い。
 今となっては取り残されたのはこの私…。和夫はとっくの昔に夫の傍に逝ってるのに…。諦めのつかぬ悲しみは寂しさと混じりあい、ため息まじりの目線を整理箪笥の上に置いた仏壇にむけた。
 バイクが横転して後方から来たトラックの車輪に巻きこまれ、ぼろぼろになった和夫を見たときの、あのショックを未だに受け入れられないのか、事故当時の和夫は夢に出てこない。確かに仏壇の和夫の写真は、二十六歳の若さ溢れた青年だが、聡子がしばしば夢に見る和夫は、まだそこまで成長していない。いつも二歳かそこらの小さな子どもなのだ。夢の中で聡子は堅太りのずしりとした和夫を胸に抱き、和夫の丸いふくふくとした餅のような掌を肩先に感じながら、自問自答を繰り返す。
 …ひょっとしてこの子は死んではいないのかもしれない、だってこんなに小さいんだもの、バイクになんか乗れるはずないじゃない。やはりあれは夢なんだわ、本当の和夫は、ほら、生きてるんだわ…。と何度もくどく念をおし、目覚めてみれば、忘れるはずもない我が子の温もりと重感を腕に残しながらも、そこには現実という失望が容赦なく待っているのだった。

 聡子が脳梗塞で倒れたのは、信一郎の十三回忌を終えて遠来の客も帰り、華やかな舞台の緞帳が降りたかのような深閑とした一瞬だった。和夫を失った翌年のことで、崩れそうな心を、なんとか夫の十三回忌まではと持ちこたえていたのが、途端に抜け落ちるほどの脱力感に襲われながら、取り敢えず風呂に水を張ろうと蛇口に手を伸ばしたとき、頭の隅で鈍い音がした。瞬間たぎるような熱の柱が背中を走り身体がフニャリと崩れるのを覚えており、記憶はそこからブレーカーが落ちたようにふっつりと切れている。スカートの裾が排水溝を塞ぎ、風呂から溢れ出た水が廊下を伝い、玄関から表通りに川のように流れ落ちていたのを隣の人が見つけてくれなければ、聡子は間違いなく死んでいただろう。救急車に乗せられ病院に搬送されたことも勿論覚えていないが、記憶が戻るまでの空白の時間、何故か聡子の脳裏には、必死になって衣類の整理をしていた感覚が残っている。
 生死の世界を彷徨っている間に見た夢だったのだろうか、今でも聡子には、はっきりとした現実との区別がつかない。昼なのか夜なのかも分からないが、滲むような薄墨の視界に埋没して畳の上に踞くまっていた。やっと片付いたと思うとサッカーのユニフォームやら靴下、パジャマ、Tシャツ、トレーニングウエアなどがベッドの布団の中に丸まって隠れていたりする。箪笥の抽き出しにぐちゃぐちゃに詰めこまれた夏物冬物を問わず溢れかえった衣類を、ここにも、ここにもと引き寄せてはたたむ。そんな作業を延々としていた。場所は確かに和夫の部屋だった。肩に食い込むおぶい紐の重みが首筋を突き上げ頭が割れるように痛い。背中には小さな和夫を背負っている感触があるのに、暗い壁には和夫の高校サッカー優勝記念の写真が見える。どこからともかくゴールを決めたときのうねりたつ歓喜の声が聞こえ、聡子は和夫の晴れ姿を見損なうと気ばかり焦りながら、独り黙々と手を動かしていたのだった。

 朝方、屋根の上に頭一つ、こんもりと繁るにまかせた樫の枝から屋根の庇にと、光の糸で放物線を描きながら空中を泳いでいた蜘蛛が、夕方には見事な網を張り終え、緋色に滲むレース模様を屋根に揺らしていた。この場所に古くから縄張りを張っているに違いない。庇の奥には根気強く獲物を待って身を潜める黒い主の息づかいがするようだ。
 一年近くもの長い入院からやっと退院した日、人の良さそうなタクシーの運転手にあたったのを幸いに二階のこの部屋に担ぎ揚げてもらった。聡子が人生を投げている様子が伝わったのかも知れない。とつとつと聡子に言い聞かせる。
「人生これからですばい、こげな病気やらに負けたらいかん。一歩一歩で、病気ばやっつけなっせ」
 人生の終焉に取り憑かれていた聡子には男の言葉は他人事のように思えた。頼みもせぬのに勢い良く開け放ってくれた窓の外にやはり今日と同じ、大きな蜘蛛の巣が張っていた。巣の中央近くに蝉が掛かっており、空を掻いてもがくさまがトラックの車輪の下で苦しげに動いた血だらけの和夫の指を思い出させた。胸を突く痛みに目を背けた。やがてやってきたヘルパーの清水さんの顔を見るなり、自由になる左手で指差し「た、す、け、て」と廻らぬ口で頼んだ。清水さんは目をやってから「ここからは届きませんよ、嫌なものは見ないほうがいいですよ」と諭すように言いながら窓を閉めた。清水さんが帰った後、祈る思いで窓を開けてみると、ジジッと鋭い声をあげ、まさに蝉が網を抜け出し飛び立つ瞬間だった。大きな穴の空いた巣の中央付近に黒い主が前足を挙げ身を反るようにして呆然と見送る姿が見えた。胸のすくような爽快さがこみ上げて、嬉しさに思わず笑った声があああぁと唇の端からこぼれた。
 翌朝目覚め、明け始めた仄白い空の宙に、一心にほころびを繕う黒い主の姿をみた。光の糸が透いたガラスとなり、太陽を眩く反射するその中央に八本の足をしっかりと踏ん張り無心に手足を動かす逞しさが、何故か聡子には、生き抜くことの厳しさを示唆されたように思えた。誰にも頼れない…、所詮、たった独りで生き抜くしかないのよね…。いっときを自失したように見惚れていた。

 寝付いてからの聡子は一度も階段を下りたことがない。もともとは姑の隠居部屋として建て増した二階は、一部屋に僅かな水回りとトイレだけだが、陽当たりの悪い一階に比べたら格段に気持ちも良く、風呂がないことの文句さえ言わなければ充分暮らせた。
 午前十時、判で押したように清水さんがやってくる。
 ドアに鍵を差し込む音がすると、まず玄関の上がりがまちに荷物をどんと置く。几帳面に靴を揃える微かな玄関のタイルの軋みがして、階下の窓という窓を開け放す音がひとしきりすると、やがて筋肉が躍動する健康な足が階段を上る軽い響きが近づいてくる。
「こんにちは、今日はよう晴れて気持ちんよかですよ。昨日はぐっすり眠れました?」
 張りのある通る声がはじけ、清水さんの笑顔が飛び込むと、静寂はいちどきに肩をすくめて部屋のどこかに姿を消した。
「はい、これが今日の郵便、いつものラブレター来てるみたいですよ。それと買い物の領収書。それから年金入ってました、つけ込みしていつもの分を降ろしてきました」
 てきぱきと聡子の座る小さなテーブルに並べた。ゆっくりと郵便をめくる。自然と口元がほころぶ。和夫の親友だった山元だ。和夫が死んでからは折りにふれ気遣ってくれる。
 決められたたった一時間の間に全てのノルマをこなそうと清水さんの身体は休みなく動き、聡子は清水さんのなすがままに身をまかせる。洗面所に熱い湯を張り、聡子を椅子に座らせたまま仰向けにして髪を洗いながら清水さんは立て続けに口を動かす。
「今岡さん、私が来ている間に一度、階段下りてみましょうよ」
 清水さんのシフトが変わって来月からは見知らぬヘルパーさんが来ることになっている。それを清水さんは心配しているのだった。
「ね、今岡さん、せめて郵便局に自分の年金を取りに行くくらいまで。病院だって、すぐそこだもの、往診頼まなくても自分の足で行けるまでは頑張ってみようよ。今岡さんはやらないだけで、その気になればもっと人生も開けると思うし。ね、私と一緒にやるだけやってみよう!」
 聡子の麻痺は右半身で、ろれつは廻ってはいないが、ゆっくりと喋ることも出来るし、杖に頼れば足を引きずりながらも室内を歩くことも出来た。そんな聡子を清水さんがなんとかやる気をおこさせようと叱咤激励するのだが、肝心の聡子にその気がおこらない。和夫を失ったとき、夫の十三回忌までと何とか持ちこたえた精神力は、動けぬ身体となった今は、もはや生きる意欲まで喪失しているのだった。
「あのぅね、きょう、おぉとが、むかえにきたの」
「えっ、御主人が? 悪いけど、気持ちわるぅい、もしかして、それって夢ですか」
 聡子は、うぅんうぅんとかぶりを振りながら少し笑う。
「でもぅね、ばかぁね、わたぁし、ことわっちゃあた、これが、かずぅおだぁたら、ことわらなぁいのになぁ」
「まあ、御主人じゃ今一って感じですか?」
「あたりまぁえよ、こどもはべつ。でもね、にゅういんしてぇて三回忌もやぁてあげられなくて、おこぉてるのかな、かずぅお、ゆめにもでてこなぁの」
「何、馬鹿なこと言ってるんですか、息子さんが怒ってるとしたら、お母さんがリハビリもせずに二階に籠ってることじゃないですか。三回忌が出来なかったなら、今度の七回忌を目標に頑張りましょうよ! 息子さんの七回忌はいつになりますか?」
「ええと…、わたぁしが、たおれるまえのとしに、しんだかぁら」
「とすると、あと丸三年後だから、充分間に合いますよ。今岡さん、リハビリして七回忌は下の座敷でやりましょう。私がいる間にリハビリの手続きしておきますから、ねっ、バスで送迎もしてくれますし。まずは階段を下りる勇気ですよ」
「そうね…」
 やる気のない返事をした。

 はっと息を飲んだ。掛かった…。墨色の甍を越えて突然、初夏の風と戯れるようにゆらりと舞い上がった蝶がそのままレースの中央に貼り付く瞬間を見た。昆虫好きの和夫が子どもの頃一番好きだったアオスジアゲハだ。和夫が泣きべそをかく顔が浮かんで消えた。
「だめよぅ…にげて」
 黒の縞模様に縁取られた青い羽根を苦しげに上下に揺らすたびに、幾何学模様の透明のレースが空を背負って揺れる。今まで小さな羽虫が掛かっても動く気配のなかった主か、丸い真っ黒な尻を幾分上げ気味に庇の下から縦の糸を音もなく滑るように這い出て成り行きを見守っている。身体をしなわせて粘りつく糸から羽ばたこうと試みるたびに舞い散る鱗粉が微塵のもやをかけ、鮮やかな黒と青のコントラストは見る見る剥げ落ちてまとわりついた糸が水飴色に身体中を被い始めていた。
 …和夫、待ってなさい、お母さんが助けるから…、聡子は辺りを見廻して、まず弁当の惣菜に付いていた魚の形の小さな醤油の容器を掴み、ベッドの上に這い上がると麻痺のない左手で思いきり投げつけてみる。容器は瓦に当たりどうやら樋にはじいて地面に落ちる乾いた土の音がした。手辺り次第に投げてこれが最後、と渾身の力を込めて投げつけたダイレクトメールが巣を支えた糸に当たった。その途端、見る間にレースは萎んで蝶を呑み込んだまま樫の葉影に吸い込まれてしまった。主を見ると糸に縋って屋根を這い、庇に逃げ込むところだった。
 …人生、甘くないことあんたも良く知ってるでしょ、ごめんね、許してね…。首をすくめて見送った。蝶は恐らく助かることはないだろう、地面に転がる姿を想像してみるのである。とどのつまりは分解され蟻に運ばれるのだろうか…。でも、目の前で蜘蛛の餌になる姿は見たくない、ねぇ…、振り返った仏壇の和夫が笑っているように思えた。

 くる…。
 睡魔に呑み込まれたそのとき、くすぐるような子どもの忍び笑いがした。はっと目を開けようとしたときにはもう石になっていた。目を閉じたまま、カチッカチッと響く金属の微かに触れ合う音を聞く。忘れようとして決して忘れることはない、階段の真鍮の手すりにあたる、あの子の半ズボンについたボタンの音だ。
 …チョコレート…グリコ…パイナップル…たどたどしくもあどけない声が階段の下から霧のように這い上がってくる。この階段で飽きもせず遊んでいた和夫の小さな姿が、瞼の奥にはっきりと蘇ってくる。あの子だ、和夫だ、とうとう来たんだわ、階段を上がってくる。グリコで三つ、チョコレートで五つ、パイナップルで六つ、そう、階段は十四段でおしまい、鼻の奥からつんとこみ上げてくる熱い感触が涙となって、つつっと耳元を走るのを感じた。見たい、あの子を…。と思いながらも身体が動かない。もう少しよ、和夫、階段を上って、お母さんのとこまで来て! と思うや、首もとにむちっと汗ばむ小さな腕が、さらりとした髪がゆれて子どもの頃の和夫とおぼしき影が見えた。
 …かーくん、来てくれたのね…。
 瞼のなかに樹々の葉群れの隙間から白い絵の具を落としたような雲がパステル色の空にちりぢりに切れて浮かんでいる。ウルトラマンのTシャツとポケットに飾りボタンがついた半ズボン、…確かに和夫は階段を上り、私のところへ来たんだ…。嬉しさがこみ上げる。和夫が指差す方を見ると、一斉に咲いた夏みかんやざぼんやだいだいの白い花に群れる蝶がいた。今、二人の廻りに昆虫図鑑から抜け出たようなあでやかなアゲハ蝶が枝葉を渡り泳ぐかのように悠々と飛び交っているのだ。小学生の頃、和夫は昆虫図鑑のアゲハ蝶の名前を全てそらんじていうことが出来た。アオスジアゲハ、クロスジアゲハ、キアゲハ、ジャコウアゲハ、ミカドアゲハ、モンキアゲハ、ナガサキアゲハ…。あどけない声を精一杯張り上げて得意満面な笑みを浮かべ両手をあげて走り出す。
 待って! あらぬ限りの声で叫んだ。かーくん、どこにも行かないで!
 和夫が振り向いた場所は見覚えのある階段の下だった。追いかけようとして足がすくむ、そんな聡子に向かって、大丈夫だ
よというふうにVサインをした。
 うううっと言葉にならぬ腹の底から湧き出たわめきで目が開いた。部屋は眠りから覚めやらぬ気配で早朝の薄い色に充たされている。夢…、夢だったのか…。ベッドに半身を起こしたまま、明け方の鮮やかな夢を惚けたように思い返していた。
 和夫はこの世で一番楽しかった子どもの時代に返り、幾万と数えきれない蝶に囲まれ今も、この宇宙の何処かで虫かごを肩に走り回っているかも知れない。ひょっとすると聡子が投げつけたダイレクトメールで、しぼんだ糸に絡まれ葉影に消えたアオスジアゲハが天に昇り、和夫のもとに聡子の心を伝えてくれたのかも…。
 胸をつきあげる熟い痛みがあった。夢も半ばに突然人生を終えた夫と和夫、その逆に死ぬべきところを助けられ今も生きながらえる私…。何故、私だけが…。私はこんな辛い思いを抱えていつまで生き続けねばならないんだろう…。
 和夫は何かを伝えに来たのだろうか…。いつまでも、ぐじぐじとした、こんな私を心配して、階段を下りる勇気を出せとでも言いにぎたのかしら…。

 左肘をベッドに立て左足を踏ん張り上体を立てると、傍に置いた杖を引き寄せ力を込めて立ち上がる。ドアを開けると後押しするかのように朝の光が背後から階段を照らし出した。手を抜かない清水さんのおかげで階段は曇りのない黄色みの柔らかな光沢を放ち、聡子を待ち受けているかのようだ。ここから落ちれば死ねるだろうか…。そっと見下ろしてみる。一年振りに見る階段は恐ろしさに腰が引けた。健康な頃、自在に上り下りをしていた同じ階段とはとても思えないほどに、急な勾配がついて見える。無理よ、和夫…。立ちすくんでは部屋に戻り、気を取り直して再び階段の上に立つ。階段は八段下りた辺りに僅かなスペースの踊り場がある。そこから更に六段玄関に向かって下りている。何度も見るうちに立ってるから恐いんだ、と思い当たった。左足を使って右足を投げ出したまま踞ってからそのまま後ろにずしりと尻餅をつくと、左手で支えきれない上体が傾いて思いきり壁にぶつかる。もうそれだけで呼吸が突き上げてくる。落ちて死ねたら本望、と思うと下りてみたいという衝動に駆られた。
 落ちたら死ぬ、でも、もし下りれたら? そのときは生きるしかないんだ…。
 階段にいざりより姑のために付けた真鍮の手すりを掴もうとして杖が邪魔になることに気付いた。使える腕は左だけ。ためらった挙げ句、思い切って杖を階段に滑らした。…もう下りるしかない…、使い慣れた飴色のアルミの杖が軽い音を響かせて橇のように落ちて行った。
「どうしたんですか!」
 悲鳴にも似た声がして踊り場に四つん這いになり、見上げる清水さんの引きつった顔が覗いた。
「ああ、もうそぅんな、じかぁん?」
 玄関が開いた音にとんと気付かなかった。
「何をしてるんですか!」
 清水さんの声は驚きと心配とでパニックに起こしている。
「あのぅね、おりてみようとおもぅって」
 ふぅっと肩の力が抜けたように清水さんがいつもの明るい笑顔になった。
「そうですか! そしたらがんばってみます? でもちょっと待ってくださいよ」
 清水さんが聡子をいつでも受け止める姿勢で階段の中程に足を大きくふんばり身構える。
「今岡さん、落ちても平気ですから。私が身体ごとキーパーみたいに受け止めますよ。だから思い切って下りてみてください」
 深呼吸をする。伸ばした左手で手すりをしっかりと掴み、左足をまず一段目に下ろす。
「違う違う、足は二段目まで下ろすんですよ。そして踏ん張ってお尻を一段目に落としてみて、大丈夫、落ちませんよ。私がいます!」
 的確な指示が清水さんの口から出される。左足を二段目まで伸ばし左手と左足でぐいとふんばると、思わず腰が軽く浮いて聡子はそのまま一段目の階段に尻を落とした。
「ほら、出来るじゃありませんか、その感じでやってみてください」
 清水さんの方が興奮している。聡子はいつの間にか左手と左足が萎えた右の分まで強靭になっていることに気付いた。左手を伸ばし手すりを持ち替えて左足を下ろし、ぐっと力を込めて浮いた尻を下に落とす。一段下りるごとに地上が近くなり空気さえもがひんやりと重たく感じる。最後の階段を下りたとき、緊張が溶けて身体中からいちどきに汗が噴き出すのが分かった。不思議な感動が聡子の全身を満たしていた。
「やった、やった、やったね、今岡さん」
「かずぅおがね、かずぅおが、きっと、おりろって、わたしにいぃったのぅ」
 泣き出した聡子の身体を抱き、清水さんが幼子をあやすように背中を撫でさすった。

 玄関口に聡子を座らせ、清水さんがドアを大きく開け放った。聡子に取って一年振りの地上の光景だった。昨夜、かなり強く降った雨をたっぷりと吸い込み膨らんだ地面が、陽に温められて放つ湿った土の匂いを思いきり吸い込んでみた。玄関前の僅かなスペースに植えておいた紫陽花がこの一年で子どもの丈ほどにも茂り、下葉の一枚たりとも惜しみなく降り注いだ雨の雫
が太陽を満面に受け、柔らかな緑が光にまぶされてあざやかに息づいている。
 ゆっくりと立ってみる。
「あ、ちょっと待って」
 慌てる清水さんに、首を振ってみせた。
「いいのぅよ、はだぁしで」
 清水さんに頼りながら地面を踏む。この感触…、健康なときは気にも留めなかった土の表面の小さな粒の突起が、足の裏から末端神経を駆け抜け頭の先にまで伝わるようだ。二階の屋根に先端を覗かせていた樫を見上げると、濃い綴れの葉を縫い空が抜け落ちてくる。硬い拳のように盛り上がった節目の木肌を突き破り、伸びた幾つもの細い小枝の先に、産まれたての薄羽のような若緑が風に戯れはしゃいでいた。思わず愛おしさがこみ上げて、おぅおぅと言葉にならぬ声を出していた。ぐるりと辺りを見廻す。表札の文字は夫の信一郎のものだ。学生時代、書道部で鍛えたというだけあって逞しい筆の勢いは古びてもなお、毅然と今岡の姓を主張している。
「あれぇは?」
 聡子が目をやった先を見て清水さんが笑った。軒先に見慣れぬ鳥の巣があった。
「私、話しましたよ。ツバメのこと。燕が巣を作って雛が孵った話、したじゃないですか。雛は三羽ですよって」
「あぁ」
「親鳥がせっせと餌を運んでますよ、階段下りて、見てみませんかって、何度も」
 聡子は大きく頷いた。
「全部、飛び立ちました。ほんの何日か前に。でもきっとこのままにしていれば来年も来ますよ」
 清水さんの声を聞きながら、聡子は自分の止まった時間を考えていた。
 生きる意味を失った日々の間にも、時は進み続け、自然は生命をはぐくみ続けていたのだ。足の裏から這い上がる大地の温もりが固く閉ざした聡子の心を溶かしていくようだった。

 久しぶりに階段を上り下りする小気味よい足音を聞いていた。山元がやってきたのだ。大学生の頃、鹿児島から出て来て寮住まいをしている彼を、和夫は頻繁に家に連れてきて、聡子は二人の旺盛な食欲を満たすために色んな料理を作った。そんな山元の単身赴任の宿に二階を貸すことになったのだ。マグカップに注いだお茶をすする。貰ったばかりの鹿児島の薩摩の新茶だ。薄緑の湯気に穫れたての夏の匂いがたちのぼる。
「昔、帰省するたびに、母からお茶ばかり持たされたもんですが、今度はかみさんが、また同じごと、お茶ば持って行けって言うがです。田舎は何の名物もなかですけん」
 鹿児島訛りの声が頭をよぎり心がふっと和んだ。
 脳梗塞に倒れてのち二階から初めて階段を下りた日のことだ。下りるに良しとして結局、清水さんにおぶわれて上がった。聡子をベッドに下ろし、崩れるように畳に座り込んだ清水さんに、ごぅめぇねぇ、と謝りながらも笑いがこみ上げる。二人共通の達成感に充たされて汗だくのまま笑い転げた。
「座敷が遊んでるじゃないですか、座敷に引っ越しましょうよ」
 清水さんがここまでは自分の仕事だと、市や保護団体にかけあって補助金を貰い、台所や風呂場など至るところに手すりをつけさせ部屋を階下に移した。その日、清水さんは昼風呂をたて、聡子を抱いて一緒に入った。
「ごぅくぅらぁく」
 我が意を得たり、と快心の笑みを浮かべる清水さんに向かって、思わず手を合わせた聡子を「嫌ですよ」と清水さんは笑いとばした。
 縁側を開けると、隣との境界線のブロック塀が迫っており二階ほどの開放感はないが、僅かばかりの庭は縁の下からびっしりとユキノシタやドクダミが幅をきかせ、朝露の降りた早朝は緑の息吹に噎せるようだ。塀の隅に生前、信一郎が山で抜いてきたツワブキが姿勢を正して立ち並び雄々しく風に揺れている。夏は日が届かぬ縁側も冬ならば陽射しも畳一畳分は差し込んでくるし、何と言っても動く範囲が増えて体力がついたせいだろう、聡子も随分と身体が軽くなってきた。和夫が高校二年だったか、庭に向けて口からぷいと吐き出したサクランボの種からなんと芽が出て、手入れもせぬのに春にはひ弱な薄白い花を咲かせる。
 隣の屋根にカササギが居着いているらしい。翼を拡げ見上げる空を悠々と舞い降りる様は、歩くことさえ難儀をしている聡子には天の使いのように見えた。
 この庭にも蜘蛛がいた。二階の蜘蛛より随分と貧弱だった。
 …上のが横綱ならあんたはまあ小結ってとこね…。
 縁側に置いた椅子に座り、空中を遊泳している小結に話しかける。周囲の家に区切られた空は狭くほぼ四角だ。隣の庇からサクランボの枝に糸を張る。レースも小さく形もいびつだ。だからかかる虫もせいぜい蚊か羽虫だ。…あんたは、だめね、こんな巣じゃ大成しないわよ…。などと悪態をついていたとき、襖の外から声がかかった。
「おばさん」
「どうぞ」
 人懐っこい顔が覗いた。
「おちゃぁ、おいしかぁたあよ」
「おばさん、僕、あちこち、単身赴任してるんで、料理出来ますよ。たまには台所まかせてください」
 働き盛りの逞しい山元を眩しく見上げた。

 片付けでもしているのか夜半まで聞こえる二階の物音に、久しぶりに人の気配をかみしめながら、布団の中でゆっくりと目を閉じた。
 座敷に部屋を移してから、夫も和夫も枕辺に立つことはとんとない。
 ときおり様子を見にやってくる清水さんにそのことを話すと
「あの頃は、今岡さんの調子も悪くて、御主人も息子さんもよっぽど心配してたんですね」と淡々とした口調で言った。
 聡子もその意見を素直に受け止めた。思いもかけない山元の出現は、和夫が聡子に生きる勢いを投げ与えてくれた、そんな気持ちがするのである。

 


2007年11月10日UP

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