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 秋の匂い         水木  怜 

「照葉樹」2号(2006年11月)


 

 

 晩秋の日曜日の朝の空気は父の匂いがする、と私は思う。それはもしかしたら、家のすぐ傍の小石神社の境内から薄く揺らめきながら立ち上る落葉焚きのせいかもしれない。

「すぐ手前に見えるこんもりと茂る濃い緑の葉はクヌギ、そして黄緑の尖った葉を気持ち良さそうにそよがせている、あの一段と高く大きい奴がセンダンの木、すこし黄色に色づきかかった葉はみちるも良く知ってるイチョウ。モチの葉は椿に似てるけど、それほど光沢がなくて、良く見るとこの森の中で一番多い木なんだ」
 屋根の上に腰を並べて座ると、父は片方の手でしっかりと少女の私の肩を抱き、もう一方の手で目の前に広がる神社の森の木々を指差しながら、やがて母の呼ぶ声が聞こえてくるまで熱心に話し続けた。そんなとき、父の肩に頬を寄せると、母が婦人会館のアメリカの中古品セールで買って、小さめに仕立てなおした濃い緑の、少しざらりとしたフランネルのシャツから、香ばしい燻された落葉のような父の匂いがした。

 あの頃から私は屋根の上が大好きだったけれど、父親が死んでからはもっと屋根の上が好きになった。玄関と母屋の屋根が交じり合う幾分平坦な傾斜になった場所は、二階の屋根の庇がどこよりも張り出していてほどよく日陰にもなり風も抜け、冬はこっぽりとした日溜まりにもなる。ぽかぽかと暖かい太陽がそそぐ頃は父親の懐に抱かれたような心地がするし、さらさらとそよぐ風が吹く頃は誰に遠慮することもなく一人で父を思い出して泣ける場所でもあった。
 その日、私は学校の図書館からやっと順番がまわって借りた本を手に、胸を弾ませ屋根に上がっていた。十二歳の誕生日から、父親が腹膜炎になって、たった十日の入院であっけなく死んでしまったその月まで、毎月一冊、少ない給料の中から買ってくれた、世界名作全集は十八巻目のアンナカレーニナで最後となり、それから先は増えることはない。だからその先は、図書館が私の書庫となっていた。
 母親は、そんなに本ばかり読んで、頭でっかちになってしまうわよ。と、たまに叱言を言ったが、私の本好きは父親譲りだった。父親のあぐらの中にすっぽりとはまるように瓦の上に体操座りをして読みふけるうち、いつの間にか私は本の中の主人公になる。荒野に吹きすさぶ砂塵のきらめき、木々から溢れる緑に染まった陽の光、砂漠に咲く一輪のバラ、何もかもが私を空想の世界に埋没させるのだった。
「みちるぅ! 降りてらっしゃい! 高田のおじさんと潤一君がいらしてるから」
 夢想の世界を破る声がした。身体を乗り出すようにして下を見ると、地面を彩る金木犀の輪の中に、母とその横にひょろりと背の高い潤一がならんで上を見上げていた。
 はあい、と返事をして、屋根から滑り落ちないように、それでも大急ぎで二階の窓から家の中に入った。温かな瓦で暖まった足の裏に畳がひんやりと冷たい。とんとんと勢いよく階段を駆け下り居間の縁側に出ると、高田のおじさんはもう縁側に腰掛けて、片方の足を膝にのせるようにしながら、地下足袋のはぜを丹念に留めている。
 私を見て、こんにちわ、みちるちゃん、また屋根だったの? とおじさんが笑った。金の足袋はぜがきりりと突き抜くような秋の日差しを受けて、おじさんが指を動かす度に揺れてはきらりきらりと光っている。その様子を一目見て、私は高田親子がやって来た理由がすぐに分かった。
 高田のおじさんは血の繋がった叔父さんではない。高校の教師をしていた、死んだ父の先輩で社会の先生だ。父も生きていて、まだ私がずっと小さな頃から、秋も深まると毎年決まって裏庭の柿の実取りの手伝いに来てくれていた。
 戦後十数年を経て、世の中は好景気の風に湧いても、私たち貧しい庶民に取っては柿は自然の恵みだったし、娯楽のない時代、柿もぎは我が家の大事なイヴェントだった。
 そんな日は朝早くから母は握り飯をつくり、奮発して甘い卵焼きを作る。
 枝も折れんばかりにたわわに実のついた老木に、身の軽い高田のおじさんが地下足袋の足でよじのぼり、もいでは袋に詰める。梯子をかけてその中程で待っている父に渡すと、今度は父が地面で待っている母に渡すという流れ作業だった。潤一は洗濯竿の先を割って桟を入れた、父の作った捻り棒で小枝を挿んでは実をちぎる。私はその横に立って、同じように首が痛くなるほどに見上げながら、葉の間に隠れた色づいた実を探しては、あそこ、あそこ、だとか、もうちょっと上! とか叫んだり、潤一が挟みそこねた柿が頭上に落ちて来る度にキャーキャーと逃げ惑い笑い転げた。
 夕暮れも近くなる頃、やっと作業は終る。パキパキと時折はぜるような音を出す焚き火、裏庭中に散らばった木の葉や枝を、父がさっさっと掃き寄せる松葉帚の心地良い音は、いつまでも耳に残り、私は今でもその音を夢の中で聞くことがある…。

 父が死んでからも、柿の実取りは毎年続いた。父に代わって梯子の中程には、高校生になった潤一が登った。
「柿って放って置くと屋根に落ちて瓦を割ったり、樋に詰まったりして、悪さばかりするんですよ。高田さんのお陰で本当に助かってます」
 母の千鶴子がすまなさそうに頭を下げた。身体が弱くて痩せていた父に比べ、高田のおじさんは大学時代、テニスの選手として国体に出たこともあるほどのスポーツマンで、地下足袋姿でもスポーツ選手のような感じで格好良かった。
 いえ…、と口ごもって、母の方を向いて笑った。日に焼けた顔の目尻に少し皺が出来て、薄い唇から白い歯がこぼれた。
 柿は一年ごとに豊作と不作がある。その年は豊作だった。高校生になって父親に似てすっかり寡黙になった潤一と高田のおじさんは黙々と作業を続け、裏庭は瞬く間に橙色の絨毯を敷いたように柿の実で埋まっていく。ひとしきり作業が終わったとき、母が手際良く選り分けた柿が、十個の袋に詰められていた。
「みちる、今年も町内の柿配りお願いね。その枝に葉っぱがついたままのは植草さんのおばあちゃんのところよ、お茶会で観賞用にって毎年待ってらっしゃるんだから」
 母が葉が覗いた袋を指差した。
「分かってるって、お母さんたら、毎年同じこと言うんだから」
「はいはい、じゃあお願いね。潤一君、いつも重いのにごめんなさいね」
 潤一は、いえいえ、と大人みたいにペコペコと頭を下げて首にかけたタオルをはずすと、片手に五袋ずつ合わせて十袋をよいしょっと持った。
 私は手ぶらで潤一の横を並んで歩いた。日差しは少し西に傾きかけて、やや、短めだけれど、くっきりと二人の影を地面に落としている。然程背が高くない私の影が背の高い潤一の影と並ぶと、大人に引かれる子どものようだった。毎年、こうして私たちは近所に柿を配って歩いた。歩きながらふざけ合い、戯れていたこともあったが、いつの頃からかお互いを意識するようになっていた。潤一も父親の血を継いでスポーツにたけている。運動オンチの私は潤一の陸上で鍛えた躍動する敏捷な動きをいつも憧れの眼差しで見ていた。
「あっ、肩のとこ、ほつれとう」
 思わず、出た私の言葉に潤一は、う?、と言って首を捻り自分の肩を見た。
「ああ、これ。さっき、枝に引っ掛けたんだ」
「帰ったらお母さんに言って縫ってもらおう」
「いいよ」
「だって…」
 潤一には母親がいないことは知っている。私が物心ついた頃にはもう高田のおじさんはいつも潤一と二人きりだった。いつもおじさんの腰に掴まるようにして潤一がいた。随分前、まだ私が小さいときに不思議に思って無邪気に聞いたことがある。
「なんで、潤一兄ちゃんにはお母さんいないと?」
 素直な疑問を潤一にぶつけたとき、なんでだか知らん!。と固く結んだ口元が今にも泣きそうに震えていたことを思い出した。

「自分で出来るよ」
「えっ、潤一兄ちゃんが自分で?」
「うん、昔はおやじがなんでもやってたけど、今はなんでも自分でやる」
「なんでもって例えば?」
「例えば、洗濯とか、掃除とか、ごみ出しとか。晩ご飯は部活で僕の方が帰りが遅いけど、早いときは俺だってやる」
 少し笑って私を見た潤一の目が黒く吸い込まれそうで高田のおじさんにそっくりだ、と思った。
「ふうん、潤一兄ちゃんの一番得意な料理って何?」
「別にそんなのないよ、でも野菜炒めと目玉焼きなら作れる」
「ふうん、凄いなあ、私にはまだ作れない」
「作れないんじゃあなくて、みちるは作らないんだよ、だっておばさんがいるもん。おばさんが作ってくれるハンバーグ、美味しいよなあ。いいね、みちるにはあんなに料理が上手で優しいお母さんがいて」
 しみじみと羨ましそうな声を出した潤一に私は少し驚いていた。今まで母親のことに一切触れようとしなかった潤一の本当の心の奥をかいま見た気がして、母親のいない潤一が可哀想で堪らなくなった。父親が死ぬまで正直、肉親がいない悲しみなど分かることもなかった私だったのに、切ないほどに潤一の気持ちが伝わって来て、胸にこみあげた塊をごくりと呑み込んだ。
「また、お母さんに作ってもらえばいいよ、そうだ、今日ハンバーグ食べていけばいいよ、私が頼んであげる」
「ダメだよ、肉なんて高くてそんなにいつもは食べれないよ」
「平気だって。私がおつかいに行くとお肉屋さんがいつもおまけしてくれるよ、二百グラム下さいって言うと、少しおまけしてくれるとよ」
「いいって、いいって」
 潤一が照れくさそうに笑った。

 全部の柿を配り終えて家に帰ったのは、鋭い秋の日差しがやっと落ちかけて、急に冷たくなった空気が身体を包み始めた夕暮れだった。開け放たれたままの木戸をくぐって裏庭から入ると、散らかっていた枝や葉は帚目のあともくっきりと掃き寄せられてすっかり片付いている。ついでにそこらの雑草を抜いたのか、掘り起こされた新鮮な土の匂いと、つんと鼻をつくどくだみ草の匂いが焚き火の煙の中に入り交じって漂っていた。
 私は心がうきうきとしていた。今日はいつもの母と二人だけの寂しい食卓ではなく、多分、おじさん、潤一兄ちゃん、母、それに自分との四人の賑やかな晩ご飯だ。ずっと前から冷蔵庫の片隅に置かれたままの冷えたビールを母は食卓に添えるのだろう。何故なら、母がこの日のために用意したことを何となく感づいていたから…。私は先週の日曜日に見に行った潤一兄ちゃんの体育祭の話がしたくてうずうずしていた。マスゲームの華麗なピラミッド、リレーのアンカーを先頭で走る潤一の晴れ姿が蘇った。出来れば潤一兄ちゃんの好きなハンバーグだと良いのに。そんなことを思いながら大きな声で、ただいま、と言おうとして、目をやった母屋の灯りの中に、なにかしらいつもと違う肌合いの雰囲気を感じて思わず立ち止まった。裏庭から続く表庭の紅葉の葉影を透して居間の縁側にこちらを向いた母と高田のおじさんの後ろ姿が見える。二人が話している声は遠くて聞こえなかったが、緋色になずんだ夕映えの中で、母の頬は濡れていて泣いているように見えた。やがておじさんの手が母の肩にのびて優しく抱き寄せたとき、私は思わず、あっ、と小さく叫び、その瞬間、潤一にぐいと腕を引かれてそのまま後ずさった。
「河原に行こう」
 潤一兄ちゃんは命令するように言うと、後は無言のまま私の腕を掴んでずんずんと歩き、私も、見てはならないものを見てしまったような胸の震えがおさまらず、ただ俯いて黙々と歩いた。
 小石神社の境内の灯籠にはもう灯りが入り、薄ぼんやりとした光が晩秋の冷めた空気に人恋しそうな温かい色を投げかけている。鬱蒼と茂る神社の森の小径は、両脇の茂った草むらに透き通る虫の音が夕闇を震わせていた。いつの間にか潤一の手をしっかり握っていた。一目散に森をくぐり抜け、目の前に広がる小石川の河原にもつれるように駆け下りたとき、前のめりに転げそうになって思わずススキの葉を掴んだ。
 痛い!、私の叫びと潤一の、大丈夫か?、の言葉はほとんど同時だった。膝小僧が擦り剥け指には血が滲んでいる。
「ごめん、俺が無理に引っ張ったから」
 何故だか無性に腹が立った。掴んだ潤一の手をふりほどいて川の水面まで行くとしゃがみこんだ。涙が頬を伝って足許にこぼれ落ちた。
 小石川のせせらぎは川底を覗けるほどに浅く、水藻が黒くゆらりとゆれるさまが涙でかすんで見える。そこここに群生するススキが銀色の穂をさやさやと揺らす度に汗ばんだ額を秋の風がひやりと撫でて通り過ぎた。
 ぽつりと呟くように潤一が言った。
「おやじ、おばさんのこと好きなんだ」
 そんなこと聞かなくても私にだってわかってる…。潤一の言葉が感情を昂らせた。
「おばさんから何か聞いてない?」
「何も…」
「俺、昨日、おやじに聞かれたんだ。おばさんのこと、どう思うかって」
「それ、なに?」
「だから、みちるのお母さんのこと、どう思うかって」
「なんで?」
「つまり、おやじがおばさんと再婚して、おばさんが俺のお母さんになることをどう思うかって、そう言うこと」
 言葉が思うように出てこなかった。身体が熱くなって力が抜けていくような気がした。
「お父さんはどうなると?」
 やっとそれだけは言った。死んだ父が可哀想だ、と思った。
 あんなに仲が良かった父と母だったのに、父が死んで、たった二年で母はもう父のこと忘れてしまったのだろうか。そんなのお父さんが可哀想すぎる…。
 暮れかかった空に、幾重にも重なり広がる鰯雲の隙間から朱色を帯びた太陽が今にも沈んで行くのだろう、夜のとばりが押し寄せる川面に、夕陽が微かに映えてチラチラと揺れている。
 日頃は無口な潤一が、とつとつと話す言葉を俯いたまま聞いていた。
「俺、おふくろの顔知らないんだ。大人の事情は俺には関係ないけど、小さいときからおふくろはいなかったし、第一、顔も覚えてないし、懐かしいとかそういう気持ちもないんだ。おやじは何も言わんし、ただ、いつも俺だけを見てくれとった。でも俺も大分、大人になって、おやじの気持ちがわかるような気がする。みちるにとっても、死んだお父さんが大切なごと、俺もおやじのことが大切やし、お父さんっ子だったみちるには辛いかも知れんけど、おやじのこと悪く思わんでよ」
 瞼の奥に、高田のおじさんの胸に吸い込まれるようにすがりつく母の涙に濡れた顔が蘇った。
「私にそんなこと言わんで!」
「だから、そんなに邪険な言い方しないでよ。おやじはみちるからお母さんを取り上げようなんて思ってないし、俺だって、みちるが俺の妹になるなんて夢みたいなことなんだ」
 思わず自分でも驚くような大きな声で叫んでいた。
「私、潤一兄ちゃんの妹になんかなりたくない! 潤一兄ちゃんなんて私の気持ち、ちっともわかってない」
 密かに憧れていた潤一への思慕がいちどきに溢れて、思わず口をついて出た言葉だった。父が可哀想、と思う気持ちより、自分が潤一のお嫁さんではなく妹になる、そのことが悲しくてたまらなかった。

 潤一の腕を振り切って森の中を随分独りでさまよっていた気がする。
 いつの間に降り出したのか、霧のように細かな雨が、セーターを透してしっとりと身体を包み、寒さが急速に増してきた。水を含んで泥まみれになった重たいズックを引きずりながら、母の温もりに誘われるように、足はとぼとぼと家に向かっていた。もう日はすっかり落ちて、人っ子一人通らぬ小石神社の境内まで帰って来たとき、大きな黒い傘をさしてぽつんと佇む人影が見えた。細い肩にタイトスカート、白い割烹着姿は一目で母と分かった。
「みちる! おかえり」
 さしかけられた傘は父の大きな雨傘だった。
「お腹すいたやろう? はよ帰って晩ご飯食べよ」
「みんなは?」
 つっけんどんな声になった。
「高田のおじさんも潤一君ももうとっくに帰ってしまわれたよ。潤一君がしょげてた。みちるに謝ってたって伝えて欲しいって。余計なこと言ったって」
 つつっと傘の下からはずれて一人足早に玄関に入った。
「先にお風呂に入んなさい、良く温まってね」
 母の声が追いかけてきた。
 家の中は何事もなかったようにいつもの光景だった。お風呂からあがると、食卓の上には美味しそうにほどよく焦げ目のついた焼きたてのサンマが、そして大好物の茶碗蒸しが並んでいる。
「さ、食べよう、どれ貸してごらん、今日は特別よ、サンマの中骨取ってあげようねえ」
 すっと手を伸ばしてお膳の前のサンマを手前に引く母の柔らかな手、朱塗りの箸で母の白く細い指が器用にサンマの腹を割り、小骨を取る様をじっと見つめていた。じんわりと涙が滲んで泣くまいと思っても自然に涙が溢れ、頬を伝う。
「どうしたの?」
 母の声にじっと下を向いたまま小さな声で言った。
「……お母さん、高田のおじさんと結婚すると?」
 少しだけ間が空いた。恐る恐る上目使いに母をみると、口を少し硬く結んで何か決心したような母の顔があった。
「隠したりしても仕方ないからみちるには本当のこと言うね。実は今日、高田のおじさんからそんなお話はいただいたのよ」
 覗きこむような母の視線を感じて又じっと下を向いた。
「みちるはどう思う?」
「……」
「おじさんのこと嫌い?」
 思わず、顔を挙げた。
「嫌いじゃあないけど…。みちるのお父さんは死んだお父さんしかいないもん」
 気持ちを入れ替えたような母の明るい声がした。
「そうね、たった一人で天国に行ってしまったお父さんが可哀想ね。みちるの言う通りね。このお話はこれでおしまいにしよう。さ、食べよ。茶碗蒸し、みちるの大好きなスボツキも入ってるわよ、熱いから気をつけて」
 無言のまま、母がむしってくれたサンマを一口、口の中へ入れた。ほこほことした魚の身が酢橘の酸味にほどよく混じって、母の味を噛み締めながらぽろぽろと涙がこぼれた。
「みちるはお父さん思いの優しい子ね、ごめんね、心配かけて、お母さん、どこにも行かないから」
 そんな母の声には隠せない寂しさがあることに気づいていながら、口を開けば何かとんちんかんなことを言ってしまいそうで、優しい子ね、と言われたことが却って面映く、私は返す言葉を見失っていた。
 二階の勉強部屋に上がってごろりとベッドに転がった。開け放した窓から皓々と冴え渡る月が見える。時折月にかかる雲が銀色の光を帯びてゆっくりと流れていく様をじっと見ていた。高田のおじさんの胸に顔を埋める母の姿が幻のように浮かんで頭の奥から離れない。
 そしてきっと父なら母の再婚を許すだろうと思った。身体の弱かった父が時折ふざけるように母のことを「千鶴子さん、千鶴子さん」と呼んでいた声が何処からか聞こえるようだった。いつだったか、ふざけるとも真面目とも分からぬ口調の、こんな父の言葉を聞いたことがある。
 …僕が身体が弱いために千鶴子さんの幸せの足を引っ張ってばかりいるねえ。もし僕に万一のことがあったら、今度は健康な人と一緒になって僕の分まで幸せになってね…。
 お父さんったら、そんなこと考えてもいないわよ。
 母は笑って答えた。
 もしかしたらあの頃から、高田のおじさんは母のことが好きで、父はそのことを知っていたのかも知れない。ふとそう思った。
 母の再婚話を父のせいにして反対した自分が腹立たしかった。高田のおじさんはむしろ、大好きで、父が死んでからは父親がいないという寂しさも、なにかにつけ面倒を見てくれる高田のおじさんのお陰でどんなに薄らいだか知れないのに…。
 寝転がったまま両手をかざしてじっと見つめた。潤一の乾いてかさかさとした大きな掌の感触が今も残っている。笑うと、少し寂しげな顔立ちの口元に八重歯の白い歯がこぼれる、私の大好きな笑顔がかざした両手に重なった。

 それから一週間が過ぎた日曜日の朝、何処までも抜けるように蒼く高い空に鱗雲がたなびく晴天だ。空気はぴりりと引き締まって風は少し冷たく心地良い。私はお気に入りの母の手編みのエンジのカーテイガンを羽織ると、本を片手に相変わらず屋根にのぼっていた。今を盛りに、枝一杯に花をつけている玄関前の大きな金木犀の甘くふくよかな香りが、風に流れて澄み渡る空気に溶け込むように滲みて身体の芯までも染まるようだ。だが、今日はなんだか本を開く気にはなれず、ネルのズボンの膝を腕に抱えこむようにして瓦の上に座ったまま、ぼんやりとして神社の森の上空を真一文字に横切る飛行機雲を眺めていた。この一週間、何事もなかったように母も私もそのことには触れず過ごしてきた。母は務めて普通に、私はいつもより明るく陽気に振る舞った。だがいつもと変わらぬ優しい母に甘えながら、心は穏やかというわけではない。なんだか母の幸せを奪ってしまったようで心が妙に騒いで落ち着かなかった。
 玄関の方から、キイッと自転車のブレーキの音がした。はっと我に返って中腰のまま見下ろすと、自転車を留めながら見上げた潤一と目があった。
「おはよう!」
 潤一の声に少し慌てて、口の中で小さく、おはよう、と返した。
「今、玄関開けるから」
「ううん、今日はみちるに用事があって。俺も屋根に上がっても良い?」
 私が頷くのを見てから、玄関のすぐ傍の槙の木を伝うと、何の苦もなくあっという間に屋根に上がってきた潤一を座ったまま眩しげに見上げた。陽の光を背に受けて潤一の幾分伸びかかったスポーツ刈りの髪が、秋風の中に栗毛のように光って見える。
「この前はあんなこと言ってごめん。おやじに余計なこと言うな、と叱られたよ。風邪引かんかった?」
「うん、大丈夫」
「良かった、気になってたんだ」
 そう言うと、脇に挟んだ茶色の袋を取り出してすっと差し出した。すぐに本だと分かった。
「これは?」
「おやじから頼まれたんだ。みちるに渡してくれって」
 海老茶色の背表紙に、しっとりとした質感のアイボリーの表紙には「ジェーンエア19巻」の金色の文字がくっきりと刻まれている。
「これ…」
「亡くなったおじさんが毎月買ってくれてたって? 世界文学全集、続きはおやじが揃えさせてくださいって。みちるはもう図書館で借りて読んでることも知ってるけど、大人になっても何度読み返しても良い本だからって、そう伝えてくれって頼まれたんだ」
「でも…」
「おやじはみちるが傷ついたのではないかって凄く心配してた。みちるとは今まで通りに、高田のおじさんとして仲良くして貰えたらそれで良いんだって言ってたよ」
 何も言えなかった。胸に熱いものが込み上げて、目の縁に涙がじんと込み上げるのを必死で堪えていた。
「俺もおやじもこの家がふるさとみたいなもんやけん、俺たちはいつもおばさんやみちるやそして亡くなったおじさんに甘えて暮らしてきた気がする…。だから俺、この一週間、おばさんやみちるにもう会えなくなるんじゃないかって、そのことばかり気にかかって」
 慌てて遮った。
「会えなくなるなんて、そんなこと」
「俺たち、いつも、みちるやおばさんのこと話してるんだ。みちるが、しょっちゅう屋根に登って本を読んでることや、それからおばさんの料理が美味しくて、おやじは白和えが一番だと言うし、俺はハンバーグだなんて言いあったり」
「……」
「台風がくれば屋根瓦は飛んでないかとか、大雨が降れば雨漏りはしてないだろうかなんてそんなことばかり話してた。おじさんが亡くなって、いつの頃からか、おばさんやみちると家族になることを夢見てたのはおやじだけじゃない、俺もなんだ」
 言葉の一つ一つを噛み締めていた。
「じゃあ」 
 少し肩を落としたまま立ち上がった潤一が、登ってきた槙の木に手をかけて途中まで降りると、あとはトンと軽い音を立てながら地面に飛び降りたとき、慌ててこみ上げる涙を拭った。自転車のハンドルに手をかけた潤一に向かって両手を口にあて屋根の上からありったけの声を張り上げた。
「潤一兄ちゃん! 秋祭り、いつもの通り来るよね!」
 はっと見上げた潤一の顔が瞬く間に輝くような笑顔になって、大好きな糸切り歯がきらりと見えた。
「おう!」
「来週の日曜日、忘れないで! 流鏑馬、みんなで見て、それから夜店に行こう!」
「分かった!」
「おじさんもよ! お母さんにハンバーグ作ってもらうけん!、白和えも! 」
「うん、分かった!」
 右手を高く掲げるように挙げると、勢い良く自転車に飛び乗り、腰を浮かしたように軽く走り去る潤一の背中のシャツが、風を含んで心地良くはためく様が視界から消えるまで見送っていた。
 
 晩秋の冴え渡る風が、窓辺に佇む私の肩先から滑り込み、机の上に開いた本をパラパラとめくる。
 本棚に目をやった。世界名作全集は四十三巻目の「戦争と平和」で終わっている。
 母が急逝したその年まで…。     

 

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