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夢違え                                     没 法 子

木曜日」13号(1997年)掲載

推薦 北川 佑さん(風紋


   

 あの桜並木の桜は、もう散ってしまったのだろうか? 春の柔らかな風に乗り彼岸からでも吹かれて来たかのような薄紅色の花びらを眺めながら、私はふと、実家への道すがらに咲き誇る夢路の桜並木のことを思い浮かべた。あれはもうどのくらい前のことだろう、忘却の彼方と言えば過ぎた言葉になるが、まんざら大袈裟とは言えない月日が経ってしまったような気がする。桜吹雪の中を帰ったあの夜から、考えてみれば私は悪い夢の中を歩み続けていたのかも知れない。出来ることなら呪いでもして悪夢から逃れたいのだが、そんな都合のいい術は、知るはずも無かった。決して醒めぬ夢ならば、夢魔に意趣返しでもしてやろう。私は北叟笑み、短くなった煙草を投げ捨てた。
 娘を迎えに、私はこの見知らぬ街にやって来た。都心から私鉄で一時間ほどの、まだ緑の多く残るのんびりとした雰囲気の街だった。しかし見かけの平和そうな風景の隅に、或いは裏に、私を拒絶する確かな意志が見え隠れしていた。刺々しい視線が突き刺さる。それは駅の売店のおばさんのものだったり、果物屋の店員や肉屋のおやじのものだったりするのだが、その背後にはすべて母がいるような気がした。麗らかな風の中に数本の針が潜み、私を徐々に傷付ける。真新しいアスファルトの道が、せっかく振り絞った私の気力を少しずつ吸い取る。母はいつもそれとは分からないように私を追い込んで行く。
 街並みの印象が希薄だった。まるで映画のセットのようでどうしても現実感が持てない。整然とし過ぎているのか綺麗過ぎるのか、見た目だけを意識しているようで生活感もない。それは行き交う人々にも感じられ、何ら個性も無く容姿服装ともに平均点で、飛び抜けて裕福な人も貧しい人もいないようだ。通り過ぎる車も、三百万以下のミニバンがほとんどだった。遠くでパトカーのサイレンが鳴っている。桜の花びらがまた何処からか吹かれて来て、頬を掠めた。
 街灯の光に照らされ、夜の桜はやけに白く浮き立っていた。尽きてしまったのか僅かな風にも花びらは舞い落ち、闇の向こうに消えて行く。あの夜私は何を急いでいたのだろうか? 走っただけのせいではない胸の苦しさは今でも覚えているが、それが何のせいだったのかは、記憶が欠け落ちてしまったように思い出せない。
 母は娘を素直に引き渡してくれるだろうか? 不安が足音を立てずに背後から忍び寄って来る。一緒にいる時間が長ければ長いほど、未練の糸は断ち切り難くなる。もし駄目だと言われたら……。憂いが小波となり爪先を濡らした。遮断機が耳障りな警報音を鳴らしながら、私がこの先へと進むのを阻むかのように降りて来る。踏切なのだから電車が来れば当たり前のことなのだが、私には明確にその意志が感じられた。
 私は理緒の手を強く握り直した。それは近付いて来る電車のせいではなく、母の見えざる拒絶の手から彼女を守るためだった。理緒は何も知らない。無邪気に電車の窓に手を振っているが、すべてを告げたらどんな顔をするだろう。まだうまく理解出来ないことだろう。執拗に手を振ったせいで、手首に結んだ青い風船の糸が解けてしまった。掴み取る暇も無く、風船は抜けるようなと言う妙な形容がぴったりの青い空に溶けて行く。
 娘を、迎えに行かなければならない。このまま母に会わずに連れ去ってしまうのは簡単なことだが、どうしても納得させて、了解が貰いたかった。母は、この手土産が気に入ってくれればいいのだが……。負い目が、まだ何処かに燻っているのだろうか? しかし私は、あれから充分立ち直っている。もう、大丈夫なはずだ。遮断機は諦めたように不意に上がった。ふとしたきっかけで呆気なく引いてしまう、それはやはり母のようだった。私は左右を二度確認し、理緒の手を引いた。
 あの夜の桜吹雪の中を、私はまだ彷徨っているのかも知れない。しかし淡いピンクの花びらの色は鮮明に記憶に焼き付いているのだが、なぜあんなに急いでいたのかはうまく思い出せないでいる。深い裂け目に落ちて行ってしまったかのように、記憶は何も残ってはいない。
「ねえ、もうおうちにかえりたい」
 理緒は立ち止まった。手がだいぶ熱くなって来ている。
「もう少し我慢してね」
 額や頬も熱くなって来ていた。どうやら眠くなってしまったようだ。母親はきっと昨夜夜更かしをさせたらしい。私は一つ舌打ちをした。
「もうあるけない」
 私の手を振り払い、理緒は座り込んでしまった。この年ならば仕方のないことなのだが、私は苛立ち、母親の躾のせいにした。
「大事なお話があるんだ。良い子にしててよ。あとでソフトクリームを買って上げるから」
「チョコレートあじのがいい」
 理緒は逆に私の手を取り歩き出した。しかしソフトクリームで釣っても五分も持てば良いだろう。今度はどんな餌にしたものか早々に考えなければならなかった。

 商店街は寂れていた。多分駅前の再開発で大型のスーパーや家電量販店が出来たせいだろう。それぞれの店のウィンドゥに貼られたセール用のポップや店先の大売出しの幟が、逆に寒々しく感じられた。以前は沿線でも賑やかな商店街だったが、今はその面影もない。
 薄紅色の花びらは途切れることなく何処からか吹かれて来る。今年も、ゆっくりと桜を見る機会など無かった。私は立ち止まり花びらの行方を追ったが、淡いピンクは何処までも風に吹かれて、視界から消えて行ってしまう。久し振りに母に会う緊張感からか、胸の動悸は徐々に激しくなり息苦しいほどだった。気持ちを落ち着かせようと自販機で缶ビールを買って飲んだが、それは逆効果になった。息苦しいほどの緊張感は軽い度数のアルコールでは納まるはずもなく、逆に鼓動の速さを煽り、結局私は酒屋でウイスキーのポケット瓶を買う羽目になってしまった。
 逃げ場を失うと酒に走ってしまう。しばらく鳴りを潜めていた悪い癖が、蛇の鎌首のように頭を擡げて来た。冗談じゃないわ。そんな捨て台詞を残して去って行った妻の顔は、もう思い出せない。冗談を言った覚えはないのになぜそんなに攻められるのか、未だに分らなかった。しばらく止めていたせいかそれとも胃と肝臓がもう麻痺しているせいか、ウイスキーは乾いた砂に染み込むように身体全体に吸収されて行く。立ち直ったはずだ。だから、少しなら問題はない。決して酔いはしない。少しだるくなり、何もかもが嫌になるだけだ。吐き出す場所のない不満が頭の中でとぐろを巻く。不満はどんどん膨張し臨界点で爆発すればまだいいが、逆に収縮が始まりブラックホールのようにすべてを飲み込み陰に籠ってしまう。まあ、いいさ。私は空になったボトルを投げ捨てた。
「ねえ、もうかえりたい」
 理緒はまたぐずり始めた。
「そうだ、おもちゃを買って上げよう」
 物を眼の前にちらつかせるのは良くないと妻によく小言を言われたが、年中一緒にいる妻と同じぐらい好かれるのにはおもちゃやお菓子をたんまりと買い与えなければ追い付かない。少しの時間でも本気で相手をしてやればとよく言われるが、十二時間の労働と片道二時間の通勤から帰る身体では、『風呂、飯、寝る』と言うので精一杯だ。
「シンデレラのドレス」
 答えを予め用意していたかのように、理緒は迷わず答えた。確かもう少し行ったところに玩具屋が会ったはずだ。しかし一昨年のクリスマスに買った時は確か五千円以上した記憶がある。財布を出すのも躊躇われたので、私は頭の中で残りの千円札を数えた。多分買えるだけの金は残っているだろうが、まだ酒も必要だし、帰りの電車賃も残しておかなければならない。案の定左手に玩具屋があったが、理緒が八百屋の前に繋がれた柴犬に気を取られていたので、私はそのまま通り過ぎることにした。
 見知らぬ街だが、酒好きは自然と飲み屋や酒屋の場所が分るらしい。私はふと気付くと脇に入った古びた酒屋の前に立っていた。薄汚く狭い店だったが、日本酒の品揃えには眼を見張るものがあった。焼酎ブームの昨今、日本酒の種類を極端に減らしてどうでもいいような焼酎まで置く酒屋が増えた中で、ここは付けられた値段を見ても良心的な店だと言える。しかしいくらなんでも昼間から、一升瓶を抱えて飲みながら歩くのも気が引けたので、やはりウイスキーのポケット瓶を三つ買って上着のポケットに忍ばせた。隠れてちびちび飲むのには、ウイスキーが向いている。
 妻はもう戻っては来ない。三ヶ月前に何の添え書きもなくただ離婚届が送られて来た。あとは私が判を押すだけでいいようにすべてを書き込み、返信用の封筒まで付けて、面倒臭がりの私には至れり尽くせりのものだった。娘を母に盗られてしまった私には、もう何も言う権利は無いので、判を逆さに押して返送してあげた。後日何もいらないからもう二度と顔も見せず声も聞かせないでくれと、変えたであろうメールの履歴が分らないように、手紙でそんな連絡が届いた。そこまで嫌われたのかとベランダから夜空を見上げたが、星ひとつ輝いてはいなかった。
 商店街を抜けたところで、急に辺りの空気が変わった。住宅街に入ったと言う理由では無く、私を拒絶する意思がより明確に現れ、私を取り囲み始めたらしい。密度の濃い粘りつくような空気が息苦しかった。理緒も何かしら感じてか、大人しく手を引かれている。母の意思は空気を伝わり直に相手に流れて行く。昔からそうだった。何ら実害は無いのだが、向けられた相手は有無を言わせずその意思を心に焼き付けられてしまう。だから母は何も言わない。
 娘を迎えに、私は母の所へ行かなければならない。約束通り立ち直れたのだから母は娘を返してくれるはずだし、娘が戻ればすべてがうまく廻り始めるはずだ。現実の苦さに甘い夢を振り掛けても飲み込めないのは分ってはいるが、私にはもうそうすることしか出来なかった。桜の花びらは無数に舞い散り、まるで泉下に落ちるように消え去って行く。あの時の絶望は世の闇よりも暗く、濃く、重かった。母は、どうかしていたのだ……。
 理緒はとうとう泣き出してしまった。あまりの眠さのために自分ではどうすることも出来ずに、大声を上げ身を震わせる。玩具もお菓子も、もう六日の菖蒲だ。私はそのうち眠ってしまうだろうと思い、理緒を背負った。まさに泣き寝入りだ。たいして面白くも無かったが、私はわざと鼻を鳴らして笑った。久し振りに背負った子供は重かったが、訳の分からない責任という奴を背負わされるよりはましだった。
あの古い木造のアパートを左に曲がれば、後は一本道だ。初めての場所のはずだが、私はここを知っている。そしてしばらく行くと桜並木が見えて来るだろう。あの晩、電話での母の様子は変だった。アスファルトが見えないぐらいに花びらが散り積もった桜の隧道を、私は走った。何か勘違いをしている。焦る心とは裏腹に、走ることなど忘れていた足はなかなか前には進めない。花びらに吹かれて、もう眼は開けていられなかった。背中からは軽い寝息が聞こえる。    
 静か過ぎるせいか、娘の声が過去から聞こえて来る。甘えん坊だがその反面おしゃまで、私に対する物言いが妻にそっくりだった。少し動きは鈍いが物覚えはいいし愛嬌もある。何よりも性格や趣味嗜好が私とそっくりなのがかわいさを倍増させた。晩酌をりんごジュースで付き合ってくれ、妻の真似をして二杯目を注ぎ終わると『のみすぎよー』と口を尖らせる。妻と一緒に私を悪者にするが、妻が入浴などでいなくなれば『でもパパがいい』と言ってくれる。潜り込んでくるのはいつも私の布団だ。あの頃に、どうしても戻らなくてはらない。
 桜並木の中はさながら舞い狂う花びらの猛吹雪で、息も出来ないほどだった。視界はすべて塞がれ真っ直ぐに進んでいるのかも分からない。もうすぐだと思いながら、私はどれくらい走っただろうか。ようやくあの夜、私は実家に着いた。母は歪な笑顔で他人行儀に私を迎えてくれた。『どうも』などと間の抜けた挨拶をして、サンダルが脱ぎ散らかされている玄関を上がり、六畳の茶の間に入った。それとなく廊下を隔てた台所や食堂の様子を伺ったが、娘の姿は見えず、気配すらしなかった。
「いゃ、何処かなと思って」
 背後に立つ母の視線が私を拒否していた。視線を逸らせ、私は壁に掛けられた折の中のライオンの絵を眺めた。小学四年生の時に絵画コンクールで三位に入選した、たいして上手くも無い絵だった。母は何も言わず、二階を見上げた。私は昔からある座布団に座り煙草を取り出したが、母の視線を感じ火は点けられなかった。中学三年の修学旅行で清水寺の近くの土産物屋で買った湯飲みが、まだ卓袱台に載っている。物心付くころから柱に掛けられていた振り子時計が八つ、鐘を鳴らした。
「明日さ、急用で」
 母は黙ってお茶を入れる。隣のシロが激しく吠え出した。
「また連れて来るから」
 言葉にしなくても母の意思は直接伝わる。幾つもの思いが、頭の中に堰を切ったように流れ込んで来る。昔からそうだった。母はそうやってジャブを繰り出し、最後にストレートではなく見えないところから強烈なフックを浴びせるのだ。
「だから同居の話はもう少し待って欲しいんだ。なにしろ手狭だし、ここには住めないし」
 マウスピースが吐き出されるように、口に含んでいた言葉が吐き出された。
「嫌な訳じゃないんだ。誤解だよ、実の親子じゃないか」
 言葉を繋げれば繋げるほど、それは言い訳にしか聞こえなくなる。分ってはいたが、母の無言に、私は言葉を継ぎ足すしかなかった。
「違うよ、別に女房が反対しているんじゃない。もう少しだけ待って欲しいんだ」
 母の眼差しはとても静かで、何も語ろうとはしない。口元に歪んだ笑みを浮かべ、ただ、私を見つめていた。
「また連れて来るから。こっちもなんだかんだと忙しくてさ。合間を見て顔を出すよ。その時は『志波田』にでも行こう、久し振りにあそこの天丼も食ってみたいし」
 二階に上がろうとする私を見上げ、母は黙って首を横に振った。

 夜の闇に浮かび上がる薄紅色 鮮やかに 鮮やかに 僅かに漂う甘い香りが 桜吹雪 一面の桜吹雪 押し寄せる花びらの薄紅色に包み込まれ 私はただ途方に暮れ立ち尽くす 夜の闇に鮮やかに 鮮やかに 浮かび上がる薄紅色 花びらは舞い狂い 桜吹雪 桜吹雪 桜吹雪が私を包み込み 私を消し去って行く

 月の光は閉ざされ、私は狂気に走ることも出来ずにただ歩き続けるしかなかった。理緒を背負っているので、私はあの夜に戻ってしまったかのような気分に陥った。実家を出て、私は娘を背負いながら再びあの夢路の桜並木を抜けたのだ。母の意思を断ち切り、その意思を澱みに沈めて。あの夜が、まだ続いているのだろうか?
 桜並木を抜けても実家は無かった。ここは違う場所なのだ。季節外れの夏日は、今の私の身体にはきつ過ぎた。幾らも歩いていないのにもう息が上がって来ている。ここ一年の体力の低下は酷いもので、もう少し摂生をして身体を鍛え直さなければ、再就職も覚束無い。娘とまた一緒に生活して行かなければならないのだ。しっかりとしなければ、母だって娘を返してくれはしないだろう。
 駅からそれほど歩かないうちに家は疎らになり、空き地が目立ち始めた。造成途中で放り出されたような土地もあり、うまい具合に宅地化が進んでいないようだった。今だバブルの後遺症とも思えないので、何か別の原因があるのだろう。億を越す価格が付けられていいはずのその周辺の物件も、その半値近い値段の看板が電柱に括り付けられているだけで、販売を諦めてしまったかのような感がある。
 長い上り坂になった。後ろに回した腕の感覚は、理緒の重さのせいか徐々に失われつつあった。肩も張る。私の体力の無さが原因なのだが、なぜか子泣きじじいを背負っている自分の滑稽な姿が頭に浮かんだ。考えてみれば今まで、私は何か得たいの知れないものを背負って生きて来たような気がする。
 山の傾斜や木々をそのまま利用した公園が、坂の左右に広がっていた。土曜の午後だというのに子供達の歓声は何処からも上がっては来ない。鳥の囀りも犬の鳴き声も、車のエンジン音さえ聞こえない。不自然な静けさだった。母がおかしくなり始めたのは薄々気が付いていた。たまに実家に寄ったり電話で話したりしている時に、具体的には挙げられないが何か違和感があった。惚けならば症状を見て何某かの対策は取れたのだが、眼に見えぬ変化には何ら施すべき手段は無かった。忙しさにかまけ、しばらく様子を見ようという無責任な結論しか導き出せなかった。
 長い石段の上で母が待っている。私は理緒を背負い、百八段でもありそうな階段を上り始めた。空気が、ひんやりとして来た。母の溢れんばかりの負の意思が、私の中に流れ込んで来る。また来たのか、でも渡しはしない。帰れ、顔など見たくない。繰り返し流れ込んで来る意思を、私は黙って感じていた。母といい妻といい、なぜ私をそんなに嫌うのだろうか。陽が、だいぶ傾いていた。
 私はどうすればいいのだろうか? 娘を迎え、新しい生活を始めればそれで済むとも思えない。何が足りないのか? しかしいくらそんなことを考えても、思い浮かぶことは無かった。とにかく娘を迎えることが先決だ。あとはそれからゆっくりと考えることにしても遅くは無いだろう。それにしても私はいったい何をしたと言うのだろうか? 何もしないからいけないのよ。妻の怒鳴り声が蘇る。私は誰に対しても何もしなかった。しようともしなかった。それが、原因なのだろうか……。
 石段を上り切ると、陽は西の空に沈み掛けていた。私は記憶を辿り迷路を進んだ。何もしないということは、そんなにいけないことなのだろうか? しかし、いったい何をすればよかったのだろう? 八方塞がりだったじゃないか。すべての原因が私にあると誰もが暗に言っていた。でもみんな勝手なことを言うから、何が正しいのか悪いのか、何をしていいのかいけないのか、私にはもう分らなくなってしまったのだ。そして誰も傷付けないように、嘘を積み重ねて砂上の楼閣を築き上げてしまった。しかし私は、非難される覚えなどはない。迷路は続く。母の意思は尽きることなく流し込まれ、その狭間で妻の恨み言が木霊する。鳴り続けるサイレンの音が煩くて仕方がなかった。
 もう、いいさ……。
 母が、立っていた。私は理緒を背中から降ろした。眠りを妨げられ、見知らぬ場所と夕闇の暗さに怯え、理緒は泣き出してしまった。私がいくら宥めても、泣き止みはしなかった。もっと大人しい娘にすればよかった。私は少し、後悔した。
「ねえ母さん、代わりを連れて来たよ、理緒って言うんだ。かわいいだろ? 今度は気に入ると思うよ。だからさ、いい加減に優理奈を返してくれよ」
 母は、何も言わなかった……。
 私は途方に暮れ、黒い御影石に頭を押し付けた。

 

 

 

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