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 続・駅前茶屋日録      久間一秋

 

「現実と文学」43号(2007年10月)所載

推薦 納富泰子さん(胡壷

 


 某月某日(長寿)
 あんたも欠席しなさったですか、と近所に住む城間さんがやってきた。今日は敬老の日で、七十五になった私にも招待状がくるようになったが、行かなかった。私は、どうもその気になれなくて、といいながら、いつものように城間さんを部屋に上げ、碁盤を出してきた。
 妻がお茶を掩れてきて店に戻っていくと、城間さんは、こんどはあたしがこっちのほうを、といって黒石の入った碁笥を持とうとしたが、無理に白石のほうを持たせた。勝ったり負けたりのヘボ碁だが、私のほうが二つ三つ歳下なので、たいてい白石を相手に譲っていた。
 敬老の日だけ大事にされましてもねえ、と、私は黒石を碁盤の真中にパチリと音を立てて打った。テレビはこの日、百歳などの人たちが県知事から表彰されているのを賑々しく報じるが、私はいつも、釈然としなかった。長寿者を表彰するかと思うと、一方では、老人が増えすぎる、財政が行き詰まる、と、年寄りは邪魔者のようにいわれ、早く死なねばいけないような気持にさせられる。
 今朝の新聞にも、高齢者からの怒りの投書が載っていた。いまの高齢者も若いときにそれだけの貢献をしてきたのだ、年金をただ貰っているように受け取られては困る、戦後のあの荒廃した社会を立て直したのは誰か! いまの高齢者たちが若いときに相当の負担してきたことを忘れないでほしい、と。
 せっかくの招待だけど、わたしは臍曲がりじゃけんあとがつかえとりますが、といわれてるようで、喜んでいく気にはならんのです、と私は、相手が石を打つのを待つ。城間さんは、パチリと控え目に自分の近くに白石を打ち、あたしは一回だけ出席しましたばって、といった。あたしが沖縄生れとわかると、何人かの人が、まあ生き残ることができてよかったですね、といってくれましたが、それが嫌で次からは行かぬことにしました、という。肉親も近所の人もほとんど沖縄戦で死んでしまって、自分だけが生き残ったことをずっと引け目に思ってきたのに、その疵を暴かれるような気がするというのだった。
 生き残った人はたいてい口を閉ざしてきましたけど、近頃は聞き書きの本も出るようになったので、自分でもやっと口を開くようになりました、酷いなんていうもんじゃなかったです、と、ときどき碁を打つ手を休める。
 米軍の艦砲射撃の弾がビユンビユン飛んでくる中、死体がごろごろ転がっている泥んこ道を、みんなあっちこっちと逃げ廻ったが、とくに小さい子が哀れだったという。親を殺られた三歳ぐらいの女の子が、逃げていく人の着物の裾を掴んで、必死に走っていた。死んだ子をいつまでも負ぶって走る母親もいた。
 木の下では、六歳ぐらいの姉と四歳ぐらいの弟が震えていた。二人とも全身焼け爛れ、姉が弟を木の葉で扇いでやっていた。親を亡くし、弟は足をやられていて歩けず、痩せ細った姉は負んぶする力はないようだった。自分も足をやられて杖に縋って逃げている身、どうしてやることもできず――弟のほうはとても助からぬと思われたので――可哀相だけど姉のほうだけ一緒に逃げようと誘ったが、行かない、と首を振る。それより、何か食べる物を下さいという。二つしか持っていなかったカンパンをやると、姉は、掌で小さく砕いて、二つとも弟の口に運んでやった。
 あんな小さい女の子が、弟のために逃げんで……、自分も飢えていたろうに、自分は食べんで……、いま思い出しても切なかです、あの弾の中じゃ二人とも生き残ることはでけんかったでしょう、と城間さんは目をしばたく。そして、今日は引き分けということにしまっしょうか、といった。
 私も、姉弟の姿がちらついて碁を続ける気がなくなり、そうしましょう、と手に持っていた数個の碁石をそっと脇に置いた。
 来年の敬老会はどうしますか、と城間さんが訊くので、やめときます、と私が答えると、それじゃまた碁でもやりましょうか、といって、城間さんは杖をつきながら帰っていった。
 *参考文献『沖縄住民虐殺』佐木隆三・徳間文庫

 某月某日(月白)
 あら、大観望ですわね、とその客は、店の壁に無造作に貼っていた数枚の写真の一つに目をとめた。六十前後の上品な感じの女性だった。
 妻は外出していたので、素人写真ですけど、と、私は注文のコーヒーを淹れて持っていった。
 大観望は、阿蘇盆地をぐるりと取り巻く外輪山の一角の突起した所にあった。前方には岩を積み上げたような根子岳が見えていた。私が行ったときには、その横の中岳から、灰色の噴煙が勢いよく立ち昇っていた。後ろには、薄の高原がはるか九重のほうまで続いていた。
 女性が、あそこからの眺めは素晴らしいですわね、と、何か話したげに私のほうを見たので、私は、ええ、とっても、とテーブルの端の椅子に腰をおろした。
 もう四十年以上になりますけど、あの頃はオリエンテーリングがはやってましてね、と女性は、遠くを見るような目になった。男性の少ない電話局の自分たち女性八人と、女性の少ない郵便局の男性十四人が、阿蘇の温泉で交流会を持ったことがあったという。戦後十年ほど経っていたが、お互いに男女交際の機会が少なかったため、労働組合の青年部主催でそういう企画がなされたのだった。
 一泊目は、旅館の大広間でフォークダンスをしたが、男女の比率が違いすぎて、同性同士が組み合わされた男性たちは浮かぬ顔をしていた。夕食のときには酒が付いたが、両方の責任者が照れていて司会がうまくゆかず、みんなの話もあまり弾まなかった。向かい合った膳の男性たちがやっと話しかけてきても、女性たちはどぎまぎしていて、話はすぐに跡切れてしまった。
 翌日は、午後から大観望の中腹に立てた旗の所まで、登山を競うことになった。あらかじめ渡されていた地図には、いくつもの登山道が記載されていた。各自好きな道を登って木札を取ってくる、というものであった。旗と各人の名前が書かれた木札は、午前中に、郵便局の人が旅館のオートバイを借りて置いてきているという。
 山麓で育ったという自信から、近道と思われる坂道を登りはじめたんですけどね、と女性はコーヒー茶碗を弄ぶ。
 最短コースなだけに道は険しく、途中でその道を登るのは諦めるしかなかった。そして緩やかな道へ出ようとしたが、今度は方角がわからなくなった。焦れば焦るほど、却って深いほうへ入っていく。見えるものは、雑木と竹笹と、頭上を這う蔦だけ。地図を広げてみたが、自分がその地図のどの辺りにいるのかさえ見当がつかない。
 そのうち、蔦の絡んでいない木に攀じ登り、四方の山の形から方角を見定めてやっと広い道に出たが、目的地に辿り着いたときは、すでに陽は没しょうとしていた。
 そこには、もう誰もいなかった。心細くなったが、幸いあと一枚、木札が残っていた。日暮れての山道は恐かったので暫く待っていると、ヤッケに木の葉を何枚もくっ付けた青年が登ってきた。昨夜の食事どきには、一番端で俯きながら酒を飲んでいた人だった。
 ぼくはドジだもんで、と彼は照れ臭そうに頭をかいた。
 陽が落ちてしまうと、東の山のむこうが白くなった。都会では見かけないような、神秘的な明るさに感じられた。やがて山の稜線から顔を出した満月が輝きを増し、それぞれに持たされてきた懐中電灯は必要なくなった。眼下の盆地にはいっぱいの灯が点り、満天の星空を思わせた。それを見おろしながら、お互いに無言で、数歩の距離を保ったまま、降りていった。
 共に名乗り合うこともなく、その後は、月影の彼の後ろ姿しか思い浮かばないが、一緒に無言で歩いた山道は、折につけ想い出された。そのたびに心が温まり、人生に潤いのようなものを感じ、見合いで結婚した夫ともうまくやっていけた。
 その夫は、三年前に肺癌で亡くなった。息子に頼めばいつでも車で大観望に連れて行ってくれようが、あの月白の道だけは一人でゆっくり歩きたい、と女性はいう。

 某月某日(監察)
 このところ朝からの客はほとんどないので、すみずみまで新聞に目を通しているが、十二人全員無罪となった鹿児島県議選買収容疑事件での過酷な取調べの実態を読んでいて、五十数年前の自分たちのことを思い出した。
 書留郵便物を扱う郵便局の特殊係では、事故があるたび、私たちは監察官の取調べを受けねばならなかった。
 事故――。つまり、一日で一万通余りの書留郵便物を、早朝、日勤、夜勤、宿直明けの者、計十二人で捌くのだが、無集配特定郵便局などから入ってきた数と、それを宛先県別などに区分して送り出した数が一致しないと、すぐに監察局に連絡しなければならない。
 夜、どんなに遅くなっても監察官はすぐにやってき、初めにロッカーの中を調べる。次に、各人のポケットの中の物を出させ、千円札でも持っていようものなら、札番号を控えていく。
 翌日からは二、三日がかりで、全員、本来の勤務のほかに、朝早くから終電車の時刻まで、無料奉仕で、郵便物の入りと出の記録を対照し、行方不明郵便物の受付局名と受付番号を見つけ出さねばならない。監察官はそれを待って、厳しい取調べを始める。
 初めて私が取調べを受けたのは、特殊係に配属されて半年も経っていない頃だった。そのせいか、私は誰よりも時間をかけて調べられた。私は、局長室横の個室に呼び出されるたび、今度は事故当時のことを聞かれるのだろうと思って行くのだが、そのことはいつも簡単にすまし、まるでもう初めから犯人と決めてかかっているような態度で、身元に関することばかり訊問された。
 家庭の状況、学歴、職歴、保証人の住所、そして……ダンス、酒、賭事はとか、はては恋人のことから、その素性にまで及ぶ。そのうえ、君は九州出身だそうだが、何か九州を逃げ出さねばならぬ理由があって東京へ来たのではないかと、何度も何度も同じことを訊問された。
 そのあげく、今度の現金書留をかっぱらった奴は、君かS君に違いない! と、自信に満ちた声で怒鳴られた。問題のブツは、十四時三分に君たちの職場に入り、十七時二分までの間に紛失している、そのときの区分台の担当者はS君でその横が君だ、S君はもうすぐ主任になる人だし、君が一番怪しい! と、監察官の疑い深い目が、私の目を捉えて離さない。
 当時の私はまだ二十歳を過ぎたばかりで、取調べを受けた経験がなく、血の気がすうっと引いてゆき、手足が震えた。自分に何ら後ろ暗いところがなくても、こう自信を持って、まるで見ていたように鋭く、分刻みで時間までいわれると、ひょっとしたら彼のいうとおりかもしれない、自分が犯人かもしれないと、自分の記憶に自信が持てなくなった。監察官の誘導や暗示に乗って、彼のいうままになりそうになる。自分のポケットやロッカーに問題の現金書留が入っているのではあるまいかと、恐怖を覚えた。
 それに、強い語調のあとに優しく世間話などをされると、再び怒鳴られるのが恐ろしく、彼に迎合したくもなった。これは、初めて厳しい取調べを受ける若者の多くが経験することかもしれない。もしこれが戦前だったら、無実の者でも片っ端から犯人にされ、監察官の成績を上げさせることになるのではないかと、いま思ってもぞっとする。
 私たち十二人がそれぞれ取調べを受けているとき、他係の者が、盗んだ奴はうまいことやったな、と話していたというが、それを伝え聞いて、私はひどく腹が立った。私が悪事を働かないのは、発覚して罰され、恥を掻くからではなかった。自分の精神の揺らぎを恐れるからであった。自尊心を失うことを恐れるからであった。いつもびくびくして暮らさねばならなくなることの精神的な損失は、何よりも大きいことに思えた。
 そのときの郵便物は、無記録のまま配達になっていたことが後日わかって、解決した。しかし私のほうは、それだけではすまなかった。監察官が私の部屋に貯金通帳の内容を調べに来たり、大家さんや近所の人ちに私の生活ぶりを聞いて廻ったりしたことで、私に対する大家さんたちの態度が、急によそよそしくなった。

 某月某日(激励)
 近所の井上さんは、古希を過ぎてもこの辺りでのジョギングを欠かさない。そして帰りに店で紅茶を飲みながら、話し込んでいく。話題はたいてい新聞記事からで、この頃はもっぱら小・中学生の、苛めによる自殺についてである。私も毎日のように報じられる自殺を、痛ましい思いでみている。
 いまの苛めは陰湿ですなあ、と井上さんはいいながら、自分も国民学校三年生のとき苛めに遭って、死のうと思ったことがあったという。
 戦時中、父は出征、母は電話局に勤めていたので、空襲が烈しくなってからは、自分だけ田舎の祖父の家に疎開させられたが、まず言葉の違いから、気取ってるといって苛められた。
 苗代の頃になると学校は休みになり、集落毎に割当てられる農家の苗代の蛾を捕りに行かされたが、農家の子は何十匹も捕れるのに、二、三匹捕るのがやっとだった。五、六センチまで伸びてきた稲の苗の上を、細長い竹でそうっと移動させ、飛び立つ蛾を捕えるのだが、蛾は素早く逃げてしまう。農家の子が、どけ! と押し退けてその蛾を追う。その度に跳ね飛ばされて尻をつき、半ズボンは泥だらけになった。
 集落では月一回、日曜日にお宮の掃除に行かねばならなかった。そこではみんなから、青瓢箪、青瓢箪と罵られ、箒で小突かれたりした。
 上級生は「上官の命は直ちに朕が命と心得よ」という軍人勅諭の一節とやらを口ずさみながら、訳もなく殴る。が、上級生からの暴力には耐えることができたものの、我慢ならなかったのは、二人の下級生からの苛めだった。下級生といっても、三月生まれの自分と、四月生まれの彼らとは一ヵ月しか違わない。痩せっぽちの自分と違って、大柄でがっちりした相手に挑んでも勝つ筈がない。それに相手はいつも二人連れだっていた。
 下級生からの苛めは、祖父にも先生にもいえなかった。子供なりに自尊心があった。上級生や同級生からなら、ひ弱な都会っ子が頑強な田舎っ子に負けても当然視されようが、いくら体力に差があっても、下級生に負けるということの屈辱は、誰にも打ち明けることはできなかった。
 相手の二人は、他の子たちがはたから囃すといい気になって、おどんの悪口ばいうたげなね、と、あらぬ因縁をつけては小突き廻す。
 或る学校帰りのときだった。ひとけのない家の前を通りかかると、軒陰からいきなり例の二人が飛び出してきた。その後ろには大勢の子供たちがいた。二人は、お土産ばやろうたい、といって、手で掴んでいた生きたままの蛇をランドセルに入れようとした。そのときばかりは精いっぱいの力で跳ね返し、逃げ帰った。後ろで、わあっというみんなの笑い声がした。
 自殺しようと思ったのは、その夜だった。自分の部屋で、腹を出してみた。切腹して果てる芝居を見たことがあったので、ああすれば死ねるのだろうと思った。部屋には学用品のナイフしかなかった。思い切って腹に突き立てようとしたが、刃が柄のほうへ曲り、手を切っただけだった。
 こんな田舎にいるよりは、空襲で死んだほうがましと、翌朝早く、母の所へ帰った。母は、辛かったろうね、と涙を流しながら話を聞いてくれ、空襲に遭うたら一緒に死のうね、と、抱きしめてくれた。
 井上さんの話を聞きながら、私は数日前の新聞を思い出した。新聞が募集した、ぎりぎりのところで死を思いとどまったという十人の、体験記事であった。共通していたのは、酷い苛めに遭っても、プライドがあって、誰にも打ち明けられなかったということと、いくら周囲の人が励ましてくれても、却って追い詰められるだけだったということだった。その中で、話をじっくり聞いてくれて、辛かったろうね、といってくれた祖母のひとことで死を思いとどまったというのがあって、井上さんの話と重なった。
 励ましてくるる人もいるにはいたばって、同じ体験者の話ならともかく、高い位置からの、口先だけでの励ましや同情は却って逆効果ですもんね、と井上さんはいう。
 わかります、わかります、と私は相槌を打った。私の場合は病気だった。大腸手術後の後遺症で何年も苦しんでいたとき、大丈夫、頑張って、頑張って、などと、主治医でもない、病状も知らぬ人々の無神経な言葉に――それが悪意でないだけによけい――傷つけられた。
 そういう病人の心に初めて気づいたという医師が、いつか新聞に投書していた。中年女性の患者に頑張って下さいと声をかけたとき、これ以上どう頑張ればいいんですかと泣かれ、はっと思わされ、それ以後は、頑張らなくていいんですよということにしている、と。
 同じようなことは、テレビでも観たことがある。或る有名な女優の告白番組だった。原因不明の難病に罹って見る影もなくやつれ、周囲からいくら励まされても自殺することしか考えられなくなっていたとき、Mという先輩タレントの、頑張らなくていいんだよ、という言葉で女優復帰への焦りがとれ、徐々に快復することができて、今度また主役をやることになった、と話していた。病気のときの写真と、美しい姿に戻った写真が映し出されたが、別人のようだった。
 欝病の人への励ましは自殺に追い込むことになるといわれているが、そういう実例も、職場にいたとき三人見た。
 頑張れといわるると、意気地なしといわれとるような気がしたもんです、と井上さんはいう。私も、人にいわれんでも本人が一番頑張っとるんですもんね、と同調した。

 某月某日(山彦)
 あの山には焚物(たきもん)がいっぱいあるでしょうな、と老人は、店先の縁台でコーヒーを飲みながらいう。私も、むかしはよく焚物とりに行ったもんですね、といいながら、縁台に腰をおろした。今日はよく晴れていて、田圃のむこうに連なる耳納連山がくっきりと見えていた。
 こうしてあの山ば眺めとると、だんだん二十歳前に戻っていくような気持になります、と老人は目を細める。出征前のことだが、近所の友人と三人でよくあの山へ薪とりに行ったものだという。
 当時は、竃と五右衛門風呂の家が多く、薪は欠かせなかった。杉林に入って落葉や枯枝を拾い集め、縄で縛って荷を作り、天秤棒で担いでくる。みんなが薪をとるので、だんだん山頂のほうへ上がっていくしかなかった。
 或るとき、三人とも薪とりが早く終ったので頂上へ登ってみた。むこう側は山また山で、どこまでも山が続いていた。山陰の斜面に藁葺屋根が点在していた。はるか遠くに、有明海が霞んで見えていた。
 三人で声を揃え、ヤッホーと叫んでみた。かすかに山彦が返ってきたが、驚いたことに、それより少し大きな声で、ヤッホーという声がした。女性の声だった。
 翌日からは、早目に薪とりを終えて山頂に登り、山続きの村に向かって、ヤッホーと叫んでみるようになった。すると、そのたびにヤッホーという声が返ってきた。
 そんなことを何度か繰り返したときだった。むこう側の杉林の中から、防空頭巾を深く被った二つの人影が現れた。十六、七の少女だった。近づくと、久留米餅のモンペに手甲姿の二人は、恥ずかしそうに顔を見合わせて笑った。
 焚物とりに来よると? と声をかけると、少女たちは頷いてから、また顔を見合わせ、くっくっと笑った。
 焚物はとれたね? と訊くと、すぐそこに置いてきたといって、また鳩のように、首を竦めて笑う。そんならここで休んでいかんね、というと、二人は少し離れて腰をおろした。両方の山の八合目辺りまでは杉林だが、頂上付近は膝までくらいの雑草が生えているだけで、ちょっとした楽園のようだった。
 わあ、見晴らしがよかねぇ、と少女たちは筑後平野を見おろして口々にいう。久留米のほうへ広がる平野のむこうに、宝満山や脊振山が連なっていた。太刀洗航空隊の二枚翼の練習機が、赤トンボのように飛び交っていた。黄色の菜の花畑と緑の麦畑が、色紙を組合せたように、筑後川を挟んで広がっていた。
 初めてこっち側ば見たね、と少女たちが頷き合う。おどんたちも初めて八女郡側ば見た、山のむこうはどげんなっとるとじやろうと思うとった、といいながら話しかけようとするが、彼女たちは恥ずかしそうに二人だけで話し合っては、また、くっくっと笑い、会話にはならなかった。
 ところが彼女たちは、次の日はもう一人、少女を連れてきたのだった。その少女はあまり人見知りせず、口をきいてくれた。そしてそのうち、手作りの菓子などを持ってきてくれるようになった。そのお礼に、自分たちも薪を分けてやった。
 六人並んで、筑後平野を眺めながら彼女たちが作ってきてくれたものを食べるときが、一番幸せな気分になれた。徴兵制度が十九歳からに引き下げられ、三人ともいつ赤紙が来るかもしれぬという中での、しばしの安らぎの時間だった。
 やがて戦局が緊迫してき、三人とも久留米師団や太刀洗航空隊へ入隊しなければならなくなった。今日が最後というとき、少女たちはそれぞれお守り札を持ってきてくれた。前もって渡す相手を決めていたらしく、自分にはお目当ての少女が渡してくれた。いつもこちらの視線を感じていたのかもしれない。
 生きてて下さい、とその少女は俯きながら、やっと聞きとれるくらいの声でいった。嬉しかった。胸が高鳴った。握手する度胸はなかったが、お守り札を受取るとき、ちょっと手が触れた。その僅かな手の感触が忘れられず、厳しい軍隊生活では、彼女を恋人と思うことで耐えることができた。
 友人の一人はインパールへ、もう一人はルソン島へ派遣され、それぞれの激戦地で戦死した。自分は沖縄で負傷して捕虜になり、二年後に復員してきた。
 ……老人はそっと山なみから目をそらしながら、話を続ける。
 友人たちの死を知らせようと、何度か山頂に登り、ヤッホーと叫んでみたが、返ってきたのはかすかな山彦だけだったと。

 某月某日(教育)
 お経が、やっと終った。ときどき横座りしながら、仏壇の上の壁にかかる、亡父母の横の長兄の写真を見上げていた私は、そっと座りなおした。兄夫婦や私の妻も、正座に戻した。和尚は私たちのほうへ向きなおると、戦死なさったお家では五十回忌が過ぎても、息子さんたちが法事をなさる所が多ございます、といった。私の実家でも、長兄の命日には身内だけで法事をしていた。
 まだ四十を過ぎたばかりらしい二代目のこの和尚が私の実家に来たのは、初めてだった。兄が、この辺の人たちはたいていみんな戦死しましたもんで、といいながら中座した。義姉は、いまお膳の用意ばしますので、と私の妻を促して台所へ出ていった。
 兄は隣の部屋からひと束の手紙を持ってくると、これが兄貴からのもんです、と和尚の前に置いた。和尚は、見せて頂きます、と合掌した。そして一通読み終るとまた合掌し、その手紙を私のほうに廻してよこした。
 六十数年ぶりに見る手紙だった。封筒に「軍事郵便」という判と「検閲済」という判が押されていた。便箋には少しシミが付いていたが、ペン書きの文字はまだはっきりしていた。検閲のさいに消されたらしい墨の跡が、何ヵ所も太い棒線を作っていた。
 音信が絶えてから半年ぶりにフィリピンから手紙が届いたとき、父は、とにかく無事でよかった、と久しぶりに明るい顔になった。手紙の最後のほうに、いまマニラ郊外の牧場で親馬と仔馬が仲好く遊んでいます、と書いてあった。母が、親と一緒に暮らしたかろうのう、と涙を流した。
 どの手紙にも、冒頭に、お国のため元気に軍務に励んでいます、と書かれていた。長兄たちは、友人同士では靖国神社で会おうと書いていたらしいが、両親への手紙には、そんなことは書かれていなかった。母の話によると、長兄は出征のとき、早く兵役をすませてきて両親の面倒を看る、といったという。
 ところがその年の十二月八日、太平洋戦争が始まり、四十歳過ぎの男たちでさえ兵役に駆り出されるような時代になったのである。
 何通日かの手紙から、私のことが書かれるようになっていた。某学校へ行きたいというが考えなおしたがいい、とか、どうしても南方へ来たいのなら商社員になって来たらいいではないか、とか。
 某学校というのが何のことか、私にはよくわからなかった。いや、わかろうとしなかった。小学生だった私は、自分も特攻隊員になって南方の戦線に参加したい、という手紙は何度も出していたが、どこかの学校へ行きたいなどとは一度も書いたことがない。私は、若者も聖戦に参加しよう! という華々しい予科練(海軍飛行予科練習生)の映画を学校で観せられたりするうち、すっかり予科練に憧れるようになっていたのだった。
 敗戦間際の二月、十四歳になったばかりの私たちは、身体が不自由な子も含めて男は全員、鬼畜米英に日本男児の心意気を示すためにと、予科練の試験を受けさせられた。
 その頃はもう学校の授業は全くなく、毎日、勤労奉仕で農作業をさせられたり、飛行機の燃料にと松の木の脂(やに)とりをさせられたりしていたが、試験の前日に半日間だけ、珍しく国語と算数の授業があった。
 ところが、その習ったばかりの国語や算数の内容が、予科練の試験にそっくり出題されていた。だがそれにも拘らず、三十人近くの受験者中、学科試験に合格したのは私を含めてたったの五人だった。
 大部分の同級生たちがわざと間違った答案を出したのではあるまいかと思うようになったのは、敗戦から何年も経ってからで、私は、一途に予科練に憧れていた自分の単純さ加減に、酷く傷ついた。
 和尚が、戦死なさった兄さんは弟さんがどこかの学校へ行くのを、一生懸命とめようとなさってたようですね、といった。兄が、弟の予科練志望ばやめさせようとしてたとです、と私を見ながら、検閲で酷か目に遭うけんそげな書き方しかでけんかったようです、と答えた。
 私は、わたしがお人好しだったもんで、戦死した兄ば困らせることになって……と、俯いた。和尚はそんな私を慰めるように、当時の教育のせいでしょう、教育は恐ろしいもんです、といった。
 長兄の手紙は、近いうちにどこかへ移動になるようなので返事不要、という乱れた文字で終っていた。
 和尚が、貴重なものを拝見させて頂きました、と合掌する。そして、自分たちの年代はどうにか戦争に行かずにすんだようですが、息子たちの時代はどうなりますことやら、と呟いた。兄が、どんどんまた戦前のような時代に逆戻りしよるごたるです、といいながら、手紙を集めた。私はその手紙に、困らせるような便りばかり出して……と、心の中で謝った。

 某月某日(鈴蘭)
 いつもは午前中に店で紅茶を飲んでいっていた井上さんが、このところ夕方寄るようになった。ジョギングのコースを山麓の公園墓地のほうへ変えたのらしかった。たまたま山麓のほうへ足をのばしてみたら、墓石が建ち並ぶ荒れた公園の片隅に、鈴蘭の花が咲いていたのだという。
 数日前の夕方のことである。井上さんが通りかかると、その鈴蘭のそばに、白っぽい和服を着た女性がじっとしゃがんでいた。黒髪を背中まで垂らしていた。後ろ姿から見て、五十前後のようだった。手桶を持っていて、水が少し入っていた。ほかに人影はなかった。
 私はふと、女性が振り向いたら顔がのっべらぼうだった、という怪談を思い出した。子供の頃に読んでいた怪談本のせいで、すぐにそんなほうへ頭がいくのだった。
 サークルの集まりなどで遅くなり、静まり返った団地の中を帰るときが、そうだった。終電車で降りる女性は、たいてい迎えの車かタクシーに乗るのだが、たまに、一人で歩いて帰っていく女性がいた。遠くからの街灯の具合で、その姿がふっと消えたり、急にまた現れたりする。振り向いた顔が真っ白で、のっべらぼうだったらという気がして、ずっと離れてしか歩くことができなかった。
 しかし井上さんが見たものは、少し目が潤んだ、はっとするほどの美人だったという。この辺では見かけない、垢抜けした感じの人だった。上唇が人気女優のSのようにやや厚めのせいか、温かい心の人に思えた。
 こんな所に鈴蘭とは珍しいですね、と声をかけると、女性は、北海道から飛んできたのかしら、と微笑んだ。小さな鈴を思わせるいくつもの白い花が釣鐘状に付いた清楚な感じのその鈴蘭は、線の雑草の中で一本だけ、凛として立っていた。
 種が誰かの服にでも付いてきたのだろうかと思ったが、女性がいうように、はるばる北海道から飛んできたのだろうと思うほうが、夢があるような気がして、そうでしょうね、と応えた。
 女性は、実家の両親の墓参りをすませての帰りにこの花に気づき、宮崎へ戻るまでの間だけでもと、水をやりに来ているといった。香りがとってもいいんです、と顔を花に近づけた。
 井上さんは翌日から、同じ時間頃に、公園のほうを走ることにした。だが女性に会ったのはその後一回だけで、短い言葉を交しただけだった。
 白っぽか和服の女性と、白か鈴蘭の取り合わせが、よう合っとって、幻の絵のごたったです、と、井上さんは夕霧が立ちこめはじめた山麓のほうへ、目を向ける。
 話を聞いていて、私の頭にも、くすんだ風景の中の白い女性の姿がぼうと浮かんできたが、足はあったろうか、という気がちらとした。

 某月某日(帰省)
 正月三ヵ日は店を閉めることにしている。三日目頃になると、テレビには帰省を終えて都会へ戻っていく若い家族連れなどが映し出される。駅のホームで見送る老夫婦と、列車の窓から別れを惜しむ孫たちの姿が、何十年も前の自分たちの姿に重なってくる。私たちもあのようにして、郷里をあとにしていた。
 あの頃は、翌日からの東京での厳しい生活に気をとられていて、両親のことはあまり考えなかったが、賑やかだった数日間のあとの残された者の生活は、どんなに寂しかったことかと、自分がその立場になって、しみじみと思う。
 とくに、五十年前のときのことは、折につけ、甦ってくる。……
 十九で失恋自殺した妹の葬式には腸の手術後で帰ることができなかったため、半年後に帰省したが、居間にぽつんと座っていた両親は、蝋人形か何かのように、動きが感じられなかった。私は口もきけないまま、靴を脱ぎ捨てて仏間に飛び込んだ。急に揺れはじめたロウソクの灯が、妹の位牌をひときわ白く浮き立たせた。父と母が、そっと入ってきた。三人はそのまま、無言で長いこと、仏壇の前に座っていた。
 帰省中は、墓参りに行ったり、妹が入水したという筑後川に行ったり、妹の友人たちの所へ、妹のことを聞きに行ったりした。妹の苦悩は、手紙でしか知ることができなかった。手紙が一往復するには一週間かかり、その間には、妹の心はもう別な状態になっていて、互いにずれた手紙になっていたようだった。
 葉書を出していたので、妹の二人の親友が遠方から来てくれた。彼女たちはときどき涙声になって、妹が洋裁店で一緒にミシンを踏んでいるとき、急に泣き出したことなどを交互に話した。そして二人は、友人として妹さんの死を喰いとめきれなくて申し訳ありません、と謝った。私は慌ててそれを遮り、あなたたちのようないいお友達を持っていて、妹は幸せだったと思います、とお礼をいった。
 話を開いているうちに、日が暮れていた。家の前を通るバスはなくなったので、隣町を通るバスの停留所まで送っていった。二人を見送って、田圃の中の一本道を戻ってくると、父が提灯を持って迎えにきていた。いかに夜道とはいえ、子供の頃からの通りなれた道を、しかも二十六にもなった大の男をと、おかしく思う前に、そんな父の心が哀しかった。
 離郷の日は、小雪が舞っていた。両親が駅まで送ってきた。来るときは嬉しかばって、と、母は何度も呟いた。子のほうが次々に先に逝ってしもうて……と、父は長い眉毛にかかる雪を払うふりして、そっと目を拭いた。弟は三つのときに肺炎で亡くなり、長兄はフィリピンで戦死していた。
 耳納連山がうっすらと雪を冠ってきていた。そのふるさとの山なみが、私には冷たく、白々しく、虚しいものに思えた。
 また寂しゅうなる。汽車がごとんと連結器の音を立てて動き出したとき、父が独りごとのように、ぼそりといった。やがて、野曝しのホームに取り残された両親の着膨れた姿は、急速に小さくなっていった。

 某月某日〈新生〉
 今日も朝から雨。こんな日には客はなさそうで、ごろ寝しながら、テレビの旅番組でも観ることにしている。
 チャンネルを切り替えたら、土産物店などに挟まれた伊香保の長い石段が映っていた。この石段を見ると、私は特別な思いに囚われる。……
 まだ東京の郵便局に勤めていた頃のことだった。上越線の渋川駅までは汽車で行き、そこからはバスで伊香保へ行った。
 あの年はとくに雪が多く、バスが山あいに入っていくにつれ、積雪が深くなっていた。
 予約しておいた郵政局指定の旅館は、バス停のすぐ近くにあった。木造二階建の古い建物だった。日暮れにはまだ少し間があったが、通された部屋は薄暗い感じがした。
 麓の渋川の街のむこうに、赤城山が聳えていた。子分たちと別れて山を落ちていく國定忠治の孤独な姿が、見えるような気がした。
 暗くなってきましたわね、といって炭火を持って入ってきた女中さんが、天井から下がっている裸電球のスイッチをひねった。くすんだ部屋が、ぱっと明るくなった。女中さんは私より二つ三つ歳上らしい小柄で美しい人だった。
 今夜はお隣に宴会が入りますのでうるさいでしょうけど、といって、女中さんは火鉢の炭火が赤く染まるのを待って出ていった。
 女中さんがいったとおり、陽が落ちた頃から、隣の部屋が騒々しくなった。五、六人の若い男女のようだった。
 やがて、唄が始まり、手拍子が重なり、卑猥な唄になっていった。そこからは、いかにも生きている、という活気が感じられた。女中さんが、騒々しくてごめんなさいね、と謝りにきては、隣の部屋に割当てられているらしい炭をこっそり持ってきてくれた。
 宴会が終って若者たちが帰っていくと、辺りが急に静かになった。ほかに客はないようだった。
 女中さんが食膳をさげ、蒲団を敷いていったあと、寝るにはまだ早かったので、私は暫く窓際に立っていた。
 月が出ていた。屋根の雪は溶けていて、月光を吸った瓦が鈍い光を放っていた。なんでもない筈のその光景が、そのときの私にはうら寂しく、心に泌みた。蕎麦屋の暖簾が微かに揺れているのや、倉庫の屋根の下の灯りがぼんやり辺りを照らしているのを見ても、感動を覚えるようになっていた。
 近くの山々の、根雪の上の葉が落ちてしまった雑木林が、前年の話題作、深沢七郎氏の「楢山節考」を思わせた。残雪を避けて岩陰で合掌しながら死を待つ老婆の幻影が、浮かぶ。
 何を見ても、暗い風景に映るのだった。まだ二十五というのに、私は生きる気力を失っていた。一年半にわたる胃腸病で、駅の階段を上がるにも息切れするほどに衰弱していた。胃がクレヨンでも棒状のまま詰め込まれているように重く、何時間も経って酸っぱい飯粒が戻ってくる。夜勤の帰りには、急に腹痛に襲われ、道端に屈み込まねばならぬことがあった。調子がいいときは少しずつ希望が湧いてくるが、一度の腹痛でそれまで積み上げてきたものがどっと崩れてしまう。
 医者は規則的な生活を勧めるが、郵便局の不規則勤務では食事も睡眠もひどく偏った生活しかできなかった。それに私は、もう摂生してまで生きようとは思わなくなっていた。すべての行為は、生の虚しさを誤魔化すためにすぎぬようにしか思えなくなっていた。
 だから、自分の躰が蝕まれていくことに、ある種の快感さえ覚えていた。だらだらと生きたくはなかった。友人はもとより、妻や親兄妹も遠い存在に思え、ひどい孤独感に囚われていた。
 とはいえ、自分から死ぬ気にもなれなかった。私は一度、自殺しょうと思ったことがあった。十五歳のときだった。夜中に階下から兄に呼び起こされ、寝惚けたまま下りていくと、いきなり殴られた。あとで知ったのだが、父が食当たりで苦しんでいたので、母や兄は手をはなせず、私に医者を呼びに行かせようと何度も呼んでいたのだった。私が病院に行く夜道を怖がってなかなか下りてこなかったと思ったものらしかった。
 私は不当に殴られたことで、ひどく自尊心が傷ついた。夏休みに入っていたので、翌日は頭痛がするといって一日中、寝ていた。兄は会社へ出かけ、父はもうけろりと治って、商い物の農具を仕入れに行っていた。妹は遊びに行っているとみえ、母だけが台所のほうで何か煮物をしているようだった。
 私は母が作ってきていた粥には箸を付けず、お茶でいっきに錠剤を飲み込んだ。父がいつかこっそり額の裏に隠していた薬を取ってきていた。英語だけの説明書しかついてなく、何の薬かわからなかったが、これを飲めばきっと死ぬだろうと思った。敗戦のとき、占領軍がやってきたら女性は陵辱され、男性は睾丸を抜かれて奴隷にされるという噂が流れ、大人たちは自殺用に薬を準備していると聞いていた。
 私は、化けて出てやる、という兄宛の遺書を蒲団の下に敷き、目を瞑った。敗戦によって目的を失っていた私は、この世に未練はなかった。ところが、時間が経つにつれ、医者を呼んできて! と母に声をかけたくなった。
 それをじっと耐えながら、このまま死ぬのなら仕方がない、と諦めていった。そのかわり、死ねなかったらもう自分から死ぬようなことはしまい、と思いながら、昼過ぎまで両手を胸の上で組み合わせ、仰向けに寝ていた。ガラス窓ごしに青空が見え、こんないい天気の日に死は相応しくないな、という気がした。
 何時間経っても、意識はしっかりしていた。いったい何の薬だったのか、いまもってわからない。夕方になって起きてみたが、外が眩しいほど美しく見えた。生きてる、という実感を全身で感じた。
 あのときは生命力が旺盛だったため簡単に死を選ぶことができたのだろうが、じわじわと病み衰え、気持の上ではいつも死と隣り合った状態になると、却ってためらいを覚えるのだった。それは、死の瞬間を意識できないからであった。
 眠れないときの焦りや苦しみなら、あとで目が覚めたとき、ああそれでも眠れていたのかと思えるが、死の場合は、これで安らげる、と意識することはできないだろう。だから――遺族の心情を思うと忍びないが――事故などでいっきに逝く人が羨ましかった。雪の山道では、ときどきバスが崖下に転落して、死者が出たりしていた。
 翌日は、スケート客を乗せた満員バスで榛名湖へ行ってみた。高原は、一面の深い積雪だった。雪国の自殺者はこうした雪の中を疲れ切って倒れるまで歩き続けるという。
 氷の張った湖上では、若者たちがスケートを競っていた。小さな点がみるみる膨らんできたかと思うと、くるり一転、燕のようにまた遠ざかっていく。私はいつも自分だけ黒い輪のようなものに取り巻かれているような気がしていて、それを破って彼らと交わることはできそうになかった。
 湖岸から引き返すバスの乗客は、私一人だった。バスが、崖の雪道を何事もなく伊香保に着いたとき、なんとなく裏切られたような気がした。
 ただ、温泉に来てからは腹痛が治まっていたので、少し歩いてみる気になり、石段のほうへ行ってみた。観光客の姿はほとんどなく、どの店もがらんとしていた。書店があったので、人生論を集めたような本を買った。
 夕食後、ぱらぱらと捲ってみると、「一日ずつ生きて」というのが載っていた。定年を前にした男性の手記であった。二十年前にひどい病いに冒され、何度も死を考えたが、一日単位で生きている人の話をラジオで聴いて、自分もそうすることで、克服できたと書いてあった。
一週間は無理でも、今日一日なら何とか我慢できる、そして次の日にはまた、今日一日、いや半日、我慢して生きてみよう、と苦痛に耐えながら、とうとう二十年間、頑張ってこられた、というものだった。なるほど、一日だけなら、たいていのことは耐えられそうだった。
 手記を読んでいて遅くなったが、風呂で温まって寝ようと、階段を下りていった。
 風呂には女性が入っているようだった。すみません、といって脱衣室から引き返そうとすると、構いませんわ、どうぞ、という声がした。女中さんだった。それでも私がためらっていると、どうぞ、とまた女中さんの声がした。
 十畳ぐらいの広さの浴場で、天井からの淡い灯りが湯気に融け合っていた。もう一つのお風呂が壊れてますので、と女中さんはすまなさそうにいう。そして胸まで浸かりながらいろいろ話しかけてきたが、私は端のほうに身を沈めたまま、ろくに返事をすることもできなかった。
 そのうち女中さんが、お背中流しましょうか、と立ち上がった。腰に巻いていたタオルが湯にとられて落ち、一瞬、湯気の上に白い裸像が幻のように浮かび上がった。女中さんはすぐにタオルを引き上げて、寄ってきた。
 私は恥ずかしくて辞退したが、その夜、床に就いてからも、女中さんが弾力的な二つの乳房を私の背中に押しつけながら洗ってくれているような感触が、生々しく迫ってきて、なかなか寝つけなかった。
 女中さんは、私がおかずを半分以上も残していたので病気療養の客として、特別に消化のいい物を作ってきてくれたりし、気を遣ってくれていたのだった。
 寝る頃になると、女中さんは蒲団まで掛けにきてくれた。女中さんが伸び上がりながら電灯のスイッチを切って部屋を出ていくと、私は姉にでも看病してもらっているように、安らかな気持になれた。
 病気休暇が残り少なくなったので、私は五日後には帰ることにした。女中さんがバス停まで送ってきた。バスが動きだしたとき、女中さんが、元気になってまた来て下さいね、と叫んだ。私もつられて、また来ます、と大きな声で応えていた。
 あのときの旅が、それまでの私の厭世観を少し薄めてくれたようだった。私は伊香保から帰ると、一か八かの気持で手術を申し出た。胃のレントゲンだけで胃下垂と診断していた内科医は、胃下垂ぐらいで手術なんかすることはないのに、とぶつぶついいながら、外科へ廻した。
 外科医は、腸のレントゲンを撮ったあと、胃下垂が病気の原因ではなく、不規則な生活か何かで大腸が肥大しており、一部を縫い縮めるほうがいいといった。が、四対六の割合で駄目なほうが強いだろうともいう。
 あとで考えると、六割は治らぬほうが強いという意味だったのだろうが、私は、治るほうが四、手術中に失命する率が六というふうに受け取り、それなら望むところと、手術を受けた。
 結果は治る四割のほうだったらしく、手術から一年後には、サークルの仲間たちと山歩きができるまでになった。
 私は、伊香保温泉の女中さんに元気になった姿を見てもらいたくなり、前回の旅から三年ほど経った新緑の頃、伊香保へ出かけていった。
 旅館は、鉄筋に建て替っていた。どの部屋も明るくなっていた。窓から見える赤城山はあのときのままだが、寂しい思いで見ていた瓦屋根は、コンクリートになっていた。近くの山々の雑木は、若葉で生き生きとしていて、姥捨山のイメージはなかった。
 女中さんも、別の人になっていた。前のときの女中さんは、石段下の土産店に嫁いでいっているという。
 翌日の昼過ぎ、浴衣姿の観光客たちが上り下りしている石段を下りていってみた。教えてもらってきた店に入っていくと、店のおかみさんになっているあのときの女中さんが、二人連れの客の相手をしていた。
 おかみさんは、私を覚えていてくれた。あらあ、といって、暫く黙ったが、お元気になられたようで、といった。私も、すぐには言葉がでなかった。
 客が出ていくと、おかみさんはお茶を淹れてくれた。よくまあお元気になられて、とおかみさんは何度もいって、私を見つめる。私は、手術を受けて元気になったことや、あのときの旅行で手術を受ける気になったことなどを話し、親切にしてもらったことのお礼をいった。おかみさんは小首を傾けるようにして、じっと聞いていてくれた。
 団体客がぞろぞろと入ってきたので、私は大きめのコケシを一つ買って、外へ出た。おかみさんは店先まで出てきて、また来て下さいね、といった。
 ……数年後、福岡へ転勤になるとき、たいていの物は処分したが、コケシだけは大事に持ってき、いまも書棚に飾っている。少し寂しげな顔のコケシを見ていると、また来て下さいね、といったおかみさんの優しい声が聞こえてくるような気がする。

 

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