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 鍛冶屋の元ちゃん           北川 佑

 

「都塵」25号(2002年8月)

推薦 よこい隆さん(木曜日


  

 瞬間、気を失っていたのであろうか。湿った杉の匂が鼻を突く。目を開けられぬ程の圧迫を首筋から顔面に感じ、幸太郎は、急速に意識を取り戻した。
 ここは、しっかりと踏み固められた古くて大きな、おが屑山の頂上に作られた落とし穴の中なのだ。
 息苦しい。頭上からの仲間の子供達の叫び声が、いくつもの風船の破裂音にも似た、唐突な大音響に感じられた。と同時に、真上から伸びてきた手が、幸太郎の頭頂部から額の辺りをまさぐり始める。
 穴の深さは、子供の背丈より浅くしてあり、直立不動の姿勢のまま落ちるのなら、首から上は地上に出る深さである。しかし、衝撃を和らげようとする本能なのか、穴底に着地の瞬間に膝を曲げるか、やや斜めに落ちようものなら、頭のてっぺんまでが、半ば土に返りかけた、黒ずんだ古いおが屑に埋まってしまうのだ。
 幸太郎は、やっとの思いで腕を動かし、力一杯膝を伸ばし、鼻の上まで伸ばされた手にしがみつくと、体がふわっと浮いて、眩しさがやって来た。
 幸太郎を穴から引きあげてくれた手は、鍛冶屋の元ちゃんのものだった。小学上級の、近所の遊び仲間五六人が心配そうに幸太郎を見詰め、不安そうに声をかける。
「痛かんべぇ」「こんなに埋まっちまったの、初めてじゃなかんぺか」「血は、鼻血だけだかんね、心配すんな」「ちゃんと、歩けっかぁ」

 普通のおが屑の山は、林業の町、K町に四つある製材工場のそれぞれの周辺に二つや三つはあるのだが、子供達の遊びの舞台となるのは、昔からある特別に大きな、オオヤマと呼ばれるこの山だった。子供達の間ではそれが訛ったものか、鬼山と呼ぶのが常だった。
 ここは、四つの製材工場の共同のおが屑置場として、二十年以上も前に用意された土地らしいのだが、用水路のほとりの、農機具洗い場の近くのこの場所に幸太郎の小学入学の前から、鬼山は、どんと控えていた。
 鬼山以外は、さらさらのおが屑山で、製材工場からの日毎の廃棄と、近在の民家の燃料としての持ち出しで、しょっちゅうその形や大きさを変えており、子供の遊び場としては、ほとんど人気がない。
 一方、周囲が一辺十メートルほどの、角がやや崩れた正方形で、大人の背丈の二倍程の高さがある鬼山は、上部は平で、子供達の遊びのメッカである。長い年月の間に吹き付ける土砂が混じって黒ずみ、しっかりと固まっており、その頂上には両手を広げた子供の三人分ほどの直径の、相撲の土俵を作ることもできた。
 鬼山の麓には、遊びに必要なシャベルや鎌や杉の樹皮を保管する、小さな横穴が掘られている。鬼山と子供達のきずなは、かなり強固なものだった。
 他の場所での遊びをする時でさえ、一旦、鬼山の頂上に集まって相談するのが子供達のならわしなのだ。
 冬は雪合戦やらソリ遊び、夏は川遊びが主力だが、春と秋は、鬼山での遊びが一番多く、落とし穴遊びは、ここ何年もの間ルール変更もなく、鬼山遊びの人気種目の一つである。
 ここを遊び場とする近所の遊び仲間は、総勢十数名だが、日によってメンバーは入れ替わり立ち変わり、微妙に変化した。毎日放課後、自宅にランドセルを放り投げた後、駆け足で七八名が集うのが習慣になっている。
 帰宅を待ち構えていた親の説教や、家事の手伝いに捕捉軟禁され、少し遅れてやって来ると、既に遊びの種類が決定されていて、不利を被るのはやむを得ない。
 この日もそうである。幸太郎が遅れて到着した時は、穴掘りも完了し、既に落とし穴遊びが始まっていた。
 順番に、一方の麓から全力で駆け登り頂上を経て、反対側の麓に一気に駆け降りる。スタートの際にオッスと大声を出して、足踏み状態から体を勢いよく水平に二回転させること。更には、直前の人間と同じコースを辿ってはならぬというのがこの遊びのルールだった。
 自分で、穴掘りに参加していて、穴の位置を確認できている時でさえ、何度目かには落ちてしまうこともあるのだから、この日の幸太郎のように、穴掘りに参加出来なかった時は、落ちる確率が格段に高くなるのだ。
 落ちてばかりいるドジな奴は、それなりに意地悪の対象になるのだが、その反対に、あまりにも要領が良く、頂上の端ばかりを、ゆっくりと用心深く通過し、長いこと落ちたことが無いと、それはそれで仲間外れの対象にされる。
 今日の穴は幾分、入り口が広く、深かったのかもしれない。幸太郎もこれまでに、何度も落ちたことは有るけれど、こんなにすっぽり、頭まではまるのは初めてだった。片足だけはまりかけて、勢いよく転倒する場合も有れば、落ちる途中で体を捻り、首尾よく穴の縁に手をついて受け身の要領で穴の外に転がり出るという、高級技を使える場合もある。
 いずれの場合も、三度に一度の割で、鼻血を出す奴がいるが鼻血ぐらいで驚いてはいられない。年に一度は、学校を休むほどのひどい怪我で幾針も縫ったり、骨折さえもある乱暴な遊びだった。
 この遊び仲間には、滅多なことでは中学生は加わらない。中学校ははるかに遠く、下校してから遊ぶ暇なんかないのだ。一方、低学年ではこの乱暴者集団には入りにくく、鬼山の遊び仲間は、皆、年格好はほぼ同じ、小学の高学年なのだが、幸太郎を引上げてくれた鍛冶屋の元ちゃんだけは違っていた。
 鍛冶屋の元ちゃんといっても、今の今、元ちゃんの家が鍛冶屋という商売をやっているわけではない。昔、やっていて、今でもその関連の鍬、鎌、シャベル、鍋釜やら針金やらの金物商なのだが、時折は鞴(ふいご)のある炉に火を入れ、農機具の修理などは引き受けているようである。
 また、元ちゃんの家では、菜種や大豆や落花生から、油を絞りだす仕事もやっていた。ある時、元ちゃんのところの小母さんに、「鍛冶屋の小母さん」と呼びかけると、「街頭テレビが映る時代に、鍛冶屋でもあんめぇ」と怒ったように大声を出された。「鉄の固まりさ、炉で真っ赤にしてよう、ひとーつ、ひとーつ鍋釜作る鍛冶屋なんて商売は、それこそ大昔のものだんべぇ」
 それ以来幸太郎は、「元ちゃんの小母さん」か、単に「小母さん」で済ませるようにした。元ちゃんの年令は多分、中学生かそれ以上で、幸太郎よりも三つ四つは年上だと思うのだが、学校に行ってないので、今何年生なのかはわからない。幸太郎は、元ちゃんと気が合うようになってから、元ちゃんの小母さんとも時々、話をするようになった。
「元ちゃんをさぁ、学校さやってさぁ、字覚えさせてやんなかったら、可愛そじゃぁなかんべか」
「ぅんだから、おめえが、教えてやってくれや」
「小母さんが教えんのが、あたりまえだんペ」
「おらあ、読み書きが、得意じゃねえからな」
「小母さんちの人は、何でぇ、おせえねぇんだぁ」
「今は、教えるもんが、誰も居なかんべぇ。上の二人は嫁にいったし三番目は、宇都宮に行ったきり、もう一年も帰って来ねぇ」
「鍛冶龍さんだって、教えられんだねえけ」
 小母さんは、元ちゃんの父さんの鍛冶龍さんが、隣のS町の飲み屋の二階に上がり込んで、もう半年も下りて来ねぇんだかんなぁ、とこぼす。
 あんなに怖いくらいに威勢がよくて力持ちで、祭の大太鼓でも皆から「鍛冶龍さん」と親しまれている元気者が、どうして階段を下りられないのか、幸太郎には納得できなかった。
 しかし、元ちゃんの小母さんが鍛冶龍さんのことを話す時は、ぐうたら野郎とか、くそじじいとか、悪口を交えながら大声でがなりたてるのだ。だから、幸太郎は、少し怖くなって、鍛冶龍さんについての話を、あまり聞きたくない。

 ところで、穴から幸太郎を引上げた元ちゃんは、幸太郎の足下がふらつくのを見ると、いきなりオブって鬼山を駆け降りて、農機具洗い場で降ろすと、
「ウァーア」と言って、無理やり幸太郎のシャツを脱がせ、顔から首筋にかけて、自分で洗え、というジェスチュアをして、首に巻いていた手拭を差し出した。元ちゃんの四角く、浅黒い不機嫌そうな顔には、不満が吹き出したようなにきびの跡があった。しかし、その目は澄んで鋭く、不屈の強靭さをたたえていた。
 幸太郎は鼻血が出ており、洗い場にひざまずいて何度も何度も洗い流した。手ぬぐいを元ちゃんに返し、足を洗うのに恰好の砥石台に腰を下ろすと、痛む足首を流れで冷やし始める。元ちゃんは、手際よく手拭の一部を小さく二つに切り分けて鼻に詰めるように命じると、ぞろぞろと付いてきていた子供達を引き連れて、鬼山のてっぺんに戻って行った。
 鼻血の止まった幸太郎が、やや痛む足を引きずって、鬼山に戻ってみると、穴の埋め戻しは、ほぼ完了するところで、元ちゃんは、落とし穴の蓋に使った杉の樹皮を手際よく点検していた。どうやら今日は、樹皮の被害が大きく、かなり補充しておかねばならぬようで、樹皮取り用の鎌を携えて、原木置場まで、皆で出掛けることになった。
 元ちゃんは、大声は出るのだが耳が聞こえないので、言葉はしゃべれない。学校が終業時刻となり、一旦帰宅した子供達が鬼山に集まって来る時刻になると、元ちゃんは必ず顔を見せる。幸太郎が三十分以上も遅刻すると幸太郎の家まで様子を見にやって来るのが常だった。元ちゃんは、鬼山に幸太郎が居る時は誰とでも遊ぶのだが、幸太郎が居ない時は、遊ぶ気が起こらないようだった。
 ところで、鬼山でも学校でも、遊び仲間に意地悪されるなんてことは、ちょっとしたことで決まってしまうもので、いつもいつもいじめられてばかりの奴も確かに居ることは居るのだが、だいたいは、順番制みたいなところもあるのだ。幸太郎も、お弁当を包む大きなハンカチに、何やら花のような赤い模様が入っていたことがあり、学校で盛んに囃し立てられた上に、弁当の入ったランドセルを、そっくりそのまま隠されたこともある。
 ところが、鬼山をホームベースとする、近所の仲間との遊びでは、かなり変則的なことなのだが、幸太郎にはいじめられる順番がほとんど回ってこない。それは、もとをただせば元ちゃんとのことがあるからだ。
 幸太郎が、この遊び仲間に恐る恐る加わり出した三年前の夏休み直前のことである。

 新参者の幸太郎は、掘った穴をカモフラージュする作業を命じられていた。新参者は新参者というだけで、いじめの対象である。杉の樹皮を直径一メートル足らずの穴の入り口に渡す。樹皮は穴の直径よりもかなり長いので、初め、幸太郎の目にはさほど困難な作業には映らなかった。ところが、樹皮の上におが屑を撒いて、自然に見せ掛けなければならぬのに、一目でそれと分かるものになってしまうのだ。撒くおがの量を少し大目にしてみると、周囲とつながって見えるまでになったのだが、むしろ穴の部分が盛り上がって見えてしまう。然う斯うしているうちに樹皮はおが屑の重さに絶え切れず、乗せられたおが屑もろとも穴の中に落ち込んでいった。
 顔だけは良く知っていた、体の大きな赤ら顔の六年が、四つんばいに近い格好で作業をしている幸太郎の尻に、
「なーにやってんだー、バーカ」と言いながら蹴りを入れた。すると、それが合図だったかのように、数人が駆け寄ってきて、口々に幸太郎の不手際を非難しながら、背中をど突くやら、耳を引っ張るやらが始まった。あげくのはてには、幸太郎は穴の中に頭から突き落とされたのだ。

 以前から、子供の遊びをじっと見ているだけの、鍛冶屋の元ちゃんのことは、幸太郎も既に知ってはいたが、その時、穴から這上がり泣きながら反撃を開始しようとした幸太郎の前に、元ちゃんがぬっと立ちはだかったのだ。それからおもろに反転し、幸太郎に背を向け、乱暴狼籍を働いた数人の子供たちに対峙した。
 最初に幸太郎に蹴りを入れてきた六年が、元ちゃんに果敢に突っ込んでいったが、勝負は一瞬のうちについて、六年は鬼山の下まで転がされたのだった。
 その四日後のことである、幸太郎に蹴りを入れたくだんの六年が落とし穴に見事にはまって動けなくなった。
 元ちゃんが、必死で引上げたが、ぐったりしている。元ちゃんは、かなりの早さで手を動かして指示し、子供たちの何人かを指差しては、駆け足の格好をして見せたりした。
 口をぽかんと開けたままの奴や、顔面紅潮して興奮し切っている奴も居たが、けが人と元ちゃんを交互に見比べたりするばかりで、しばしの無為な時間が流れた。
 元ちゃんのしぐさをじっと見詰めていた幸太郎は、元ちゃんの意志が理解できたと思った。それはとっさのことだった。
「元ちゃんは、この三人は医者さ駆けて行って知らせろ、後の三人はこの親に知らせに行けって言ってるぞ」幸太郎は、更に元ちゃんの意志を伝える。「元ちゃんが、後からけが人を医者さおぶって行くから、俺には、元ちゃんと一緒に付いて来いって言ってるんだ」
 何のわだかまりもなく、子供達はこの指示に従い、てきぱきと行動し大事に至らずに済んだ。
 幸いけが人は、脳震盪と腕の骨折で、一か月もするとすっかり元気になって、鬼山遊びに戻って来た。
 このことがあってから、元ちゃんはもちろん、幸太郎までもが、遊び仲間から一目おかれるようになったのだった。
 子供達の遊びを、じっと見ているだけだった元ちゃんにも、これ以来大きな変化が起きた。
 穴を上手に掘ることや、そのための大人用のシャベルの提供や、杉の樹皮を上手に剥ぐことや、けが人が出たときに手当することや、手に負えないときは、医者までおぶって行くことなど、どのようなことで自分が役立つことが出来るのかを理解したようだった。
 それからというもの、自分から積極的に遊びに参加する意志を見せたし、子供達もそれを受け入れていった。
 一年経ち、二年経ち、このことがあってから三年目に差し掛かる頃になると、幸太郎と元ちゃんの意志の疎通は言葉によるものと然して変わらないほどのものになっていった。
 幸太郎程ではないにせよ、他の子供達も元ちゃんのジェスチュアを理解し、通常の遊びには何の不便もない。元ちゃんが遊びの仲間に入って、一年もしないうちに、子供達は、かなりの部分、元ちゃんの考えかたというか、やり方といったものまでも受け入れ、踏襲するようになった。
 元ちゃんは、道具や材料をきちんとするのが好きだ。子供の砂遊びのときの、小さなスコップは、あくまでも補助的な道具となり、元ちゃんの持ってきた、しっかりとした大きなシャベルなども、横穴に保管した。
 穴をふさぐ杉の樹皮も、何度か使って、よれよれになったものは、無理して使おうとはしない。きちんと五枚ずつを樹皮を紐のように細く裂いたもので束ね、鬼山のふもとに置いておく。何日か晴天が続いて乾燥すると、落とし穴遊びの後で、これに火をつけて処分したが、このこと自体、楽しい遊びになった。
 穴も、その日のうちに埋め戻すようになり、そのまま放置して帰ってしまうようなことは無くなった。
 落とし穴の蓋に使った杉の樹皮の補充に、原木置場まで、皆で出掛ける時も、元ちゃんはむやみやたらに、原木に手を付けることはなかった。
 電柱の太さの半分くらいの直径以下のものは、屋根を葺く材料としての 「杉の皮」としては不向きなので、とにかく細い原木からだけ、樹皮をはぐように、元ちゃんは子供達に指示した。
 元ちゃんは、幸太郎を通じて、あるいは直接、自分の考えを伝えるだけでなく、積極的に物事を知りたがった。製材工場の勢いよく回転する円形の鋸に、原木がゆっくりと押し出されて、いよいよ切断されると、ジーンという心地よい音がして、大量の湿ったおがが吐き出される。元ちゃんは、幸太郎に質問する。鋸のうえから水を落としているが、落とす水の量に比べて、おがの湿り方が少ないのはどうしてなんだ、と。
 幸太郎は即答が出来ず、後日、燃料用のおが屑をもらいに工場に行った際に、製材のおじさんに聞いてみた。
 幸太郎は、その結果を元ちゃんに説明する。
―― 水を落とさないと、摩擦で何百度にもなって、木が焦げるし刃も傷む。落とした水は、熱で蒸発する分が多いので、思ったよりはおがの湿りが少ないんだ。――
 幸太郎を通じて、知識が増えることを、元ちゃんは殊の外喜んだ。

 幸太郎が、中学に上がる頃になると、幸太郎も元ちゃんも鬼山遊びには参加しなくなったが、日曜日は朝から晩まで一緒に過ごしたし、学校のある日も、斜め前にある互いの家を夕食前後に行き来した。元ちゃんの家は四人家族、幸太郎の家は三人家族で、相互に訪問しても何の気兼ねも要らず、何のお咎めもなかった。
 四人家族とはいえ、元ちゃんのところは、家にいるはずの三番目の姉さんと小父さんが、ほとんど家に寄り付かないので実際には母子二人だけの生活である。しかも、鍛冶屋をしていた頃の仕事場と、更には食用油を絞る機械のある場所がそれぞれ別棟になっていて、これらの別棟は二人が自由に振る舞える天国のようなものだった。
 幸太郎の家はといえば、幸太郎は一人っ子で、小学入学前に両親が他界し、祖父母に育てられたが、小学三年の折りに祖母が亡くなって、祖父と幸太郎が取り残された。ほどなく、祖父がお手伝いさんの求人広告を出したところ、となり町の中学校の三年の担任をしているという先生がやってきて、遠縁に育てられてきたほとんど身寄りのない女子生徒の就職先を探している、とのことで話がまとまり、幸太郎は、「おねえ」と呼ぶようになった。
 「おねえ」は、雇い主の幸太郎の祖父を、幸太郎の口調を真似て「おじじ」と呼んだ。幸太郎と元ちゃんは、幸太郎の家では、幸太郎が小っちゃな子供だった頃の絵本を使ったりして、字の勉強に精を出したが、やがておねえも、元ちゃんの勉強に加わるようになった。元ちゃんの家に行った時は、主に鍛冶小屋で、いろいろな遊びの道具作りに精を出した。
 幸太郎が「万能ソリ」と名づけた遊び道具は、二人で考案したものだが、ソリといっても、いわゆる雪上を滑るものではない。
 雑木林で、直径二十センチを越えるような樫の木を切り倒し、車輪になるように輪切りにして、二人の遊び場と化した鍛冶小屋に持ち込む。後は、金物を仕入れたさいの木枠の廃材に、雑木林で切り倒した木を加えて、雪上のソリに似たものを組み上げ、これに四つの車輪を取り付けるのだ。
 冬場には、本物のソリ遊びに適した傾斜の林道があるのだが、ここで、「万能ソリ遊び」をする。腹這いになって乗れば、かなりのスピードでも危険は少ない。
 最初の設計は、幸太郎が主導権を握ったが、何度も何度も改良が繰り返され、改良の主導権は元ちゃんだった。
 元ちゃんは、先ず車軸が折れやすいので、これを太く改良した。すると、車輪の中心部分の穴を、大きくする関係で、車輪の破損がしばしば起こった。そこで、車輪の周囲に鉄の輪をはめることにした。鉄の輪作りには、どうしても鞴(ふいご)のある炉が必要になる。
 幸太郎は、危ないと止めたのだが、元ちゃんは、大きく大きく右手を振り上げ、次いでおもむろに胸に当てて、絶対大丈夫、任せておけのジェスチュアをした。
 元ちゃんが、炉の使い方にある程度の自信が持てるのは、小さな子供の頃から、元ちゃんの父さんである鍛冶龍さんの仕事を見詰めていたためだろう。それにしても、おぼろげな記憶のはずだが、元ちゃんの手で器用に鉄の輪が作られていった。
 町内に運送屋があり、トラックが何台か止まっていたが、その車庫の裏側から、エンジンオイルを調達してきて車軸と車輪の摩擦部分に塗り付けると、スピードは、ますます上がり、ソリの後ろにはみ出した足で、地面を強く押し付けるだけでは、とてもそのスピードを制御できるものではなくなった。
 元ちゃんには、とても用心深いところがあって、少しづつ少しつつ改良するのが、性に合っているようだった。
 「万能ソリ」本体に、金具を取り付けて、レバーを引くと、地面との摩擦でブレーキがかかるようなものへと、幾度ものやり直しを繰り返しながら、改良を進めていった。
 ところが、どんなにブレーキの能力が向上しても、前方操作で前方にブレーキがかかるのでは、そりごと進行方向に回転するような力が加わり、危険であることが、緩やかな短距離の斜面の試験で、はっきりした。
 元ちゃんは、かなり巧妙に鞴(ふいご)のある炉とハンマーを使いこなし、ついに前方で操作して、後方で動作するブレーキ付きの 「万能ソリ」を完成させた。
 冬になると、田んぼに浅く水を張っておくだけで、つるんつるんの遊び場ができ上がる。ところが、この近在ではスケート靴などを持っている者は居なかったし、だれもが、スケートという遊びをよく知らなかった。
 幸太郎が中一の冬休みの二日目のことだった。スケートの金具部分を、親戚とかから手に入れた子供がこれを長靴に縛り付けて、つるんつるんの田んぼで練習を始めた。幸太郎も元ちゃんも、目を皿のようにしてその様子を見つめた。二三日で、かなり上達するのを見届けると、元ちゃんは幸太郎に、あれを作りたいので、一晩貸してくれるよう、交渉してくれないかと、頼みこんだ。
 しかし、その摸作の試みは、最初から暗礁に乗り上げた。元ちゃんは、作業場の炉の前に座り込んで、しげしげと見本の金具を見詰め、ウゥーと唸り、炉に火を入れることはおろか、なかなか材料を揃えようとさえもしなかった。このスケート金具の模作は、元ちゃんにとって、かなりの難題らしいことが幸太郎には読み取れた。
 そこにひょっこりと鍛冶龍さんが顔を出したのだ。元ちゃんは突然の父親の出現に、さぞ驚いたことだろうが、ぬっと立ち上がった.鍛冶龍さんは元ちゃんが仕事場を無断使用したことを叱責するのだろうか。幸太郎は緊張した。親子二人はしばらく見合ったままだった。
 やがて、元ちゃんは固く引き締まった黒光りのする作業場の土の上に両手をつくやひざまづき、父親の顔をじっと見詰めた後、額を地面に擦り付けた。鍛冶龍さんが、元ちゃんの肩に手を当てて、立ち上がらせると、元ちゃんは堰を切ったように、両手を動かし、首を振り、鍛冶屋の技術を伝授するようにと頼み込んだ。鍛冶龍さんは、かなりの部分、元ちゃんの言いたいことを理解したようだった。
 この家にある道具は、何でも自由に使って構わない。怪我をしないように用心深くやれ。という、父のしぐさは元ちゃんを芯から感動させたようで、再び、両手を付こうとするので、鍛冶龍さんはそれをとどめ、立ち上がらせると強く抱き締めた。
 元ちゃんと、かなり親しくなって四年余の歳月が流れたが、幸太郎は元ちゃんの涙を、この時初めて見た。
 鍛冶龍さんは、元ちゃんの、―― 勝手に道具を使ってごめんなさい―― という部分までは完全に理解したようだが、後半は、どれだけ理解したのか、幸太郎には心許無かったので、念の為通訳することを決意した。
「この輪と、前の力を後ろに伝えるテコの部分は、何とか作ったが、鉄の打ち方はこれでよいのか? って言ってるよ」幸太郎は夢中で、まるで叫ぶように言い続けた。
「これはスケートっていう遊びの道具なんだが、同じようなものを作って見たい。作り方を教えて下さいって、言ってるんだ!」
 鍛冶龍さんは、しばし、ぽかんとして、まるで今初めて幸太郎のいることに気付いたように、声を発した。
「あーあ、斜め向かいの幸太郎さんかね。随分大きくなって…。元蔵のしぐさを、わしよりもよくお分かりのようで」鍛冶龍さんは震え声になって、涙をこらえているようだった。
 幸太郎は、元ちゃんの本当の名が元蔵であることを初めて知ったが、それよりも何よりも、鍛冶龍さんがこんなに優しい人だと知って、元ちゃんのためにも嬉しかった。鍛冶龍さんは、炉の前にどっかりと座ると、元ちゃんの作ったものをしげしげと見詰め、―― 分かった―― という合図をし、次いで忙しい手振りで、叩き台、炭、大ハンマー、小ハンマー、杉の葉、材料挟み、客用椅子二脚を持ってくるように元ちゃんに命じた。
 幸太郎は、鍛冶龍さんのしぐさは、ほとんど理解できたが、手出しなど出来る雰囲気では無く、ただ黙って親子の作業を見詰め続けた。
 客用椅子というのは、かまどの前の作業用と同じものだが、腰を掛ける部分に、何かの毛皮が張り付けてあって、二脚というのは元ちゃんと幸太郎の為のものであるらしかった。
 元ちゃんが、父親の命令に従って、テキパキと動くのを見て、両親の居ない幸太郎には、羨ましいという感情を通り越して、微笑しくも美しい一幅の絵画を鑑賞しているようなほんのりとした思いが涌き起こった。
 父と子、あるいは師匠と弟子の激しくも暖かい交流をそっと見守りたいという幸太郎の気持ちもあって、元ちゃんとの相互訪問の足は冬休みの間中、かなり遠のいた。
 それでも、暮に一回元ちゃんが幸太郎の家を訪れ、明けて、冬休みも終ろうという時期に、たて続けに二度ばかり、幸太郎は、鍛冶龍さんの仕事場を覗いた。
 暮も押し詰まった日の夕食後、ぶらりとやって来た元ちゃんは、鍛冶の技術を高める、修業をしているという自信からなのか、半年も、一年も会わなかったかのように、成長が感じられ、別人にさえも思えるところもある程で、すっかり大人になって居た。
 鍛冶の伝授を受けるだけでも、忙しいだろうに、字の復習も欠かさ無かったようで、五十音は全部書けたし、絵を見ただけで、「やま」「かわ」「みち」「おとこ」「おんな」「いぬ」「ねこ」が書けた。おねえがやって来て、「おったまげたなぁ、すげぇなぁ」と言った。
 元ちゃんの説明だと、一日八時間以上も、鍛冶龍さんから、様々な技術を習っているらしく、今日は初めて、油搾りの機械の操作を教えてもらったようだ。明日からは、菜種、落花生、大豆を使って実際に油を搾る練習をするんだと得意げに説明し、顔を紅潮させた。
 また、自分自身のことも、他人との比較の上で、知りたがるようになっていた。
―― 自分は耳が聞こえないが、幸太郎とおねえは聞こえる。自分とおねえは、学校に行っていないが、幸太郎は学校に行っている。自分と幸太郎は男だが、おねえは女だ。おねえは力が弱い、幸太郎は力が強い、自分は、もっと力が強い。自分は十七才で、幸太郎は十三才で、おねえとおじじは何才か?――
 おねえが即座に、
「私は十九で、おじじは八十一だ」と言って、幸太郎はそれを伝えた。元ちゃんは驚いた表情で、
―― おねえは、もっと若いと思っていた。おじじは、随分長く生きている―― と、感想を伝えたが、これは通訳をしなくとも、おねえにも分かったようで、三人で声を上げて笑い転げた。
 元ちゃんは帰りしなに、両手を畳に付け、頭を下げるので、幸太郎には、鍛冶龍さんに教えを乞うた時の様子が思い起こされた。
―― これからは、このお二人に、字と口の動きの関係を教えて欲しい―― それが、元ちゃんの頼みだった。幸太郎ばかりかおねえまでもが、ほとんど同時に、分かったというしぐさをすると、元ちゃんはぴょこん、ぴょこんと嬉しそうに頭を下げた。

 鍛冶龍さんの元ちゃんに対する特訓は、正月も返上して続けられたようだった。
 休みが終る前に、幸太郎が鍛冶の仕事場を覗くと、だれも居らず、隣の油搾りの小屋から落花生の匂が漂って来た。遠慮会釈も無く、がらりと戸を開けると、小屋のかまどには、大型の釜とセイロが乗せられておりセイロからは盛んに湯気が吹き出していた。かまどの火を調整していた元ちゃんが、緊張をやや解いたような、笑顔を返して来た。
 湯気の向う側のやや見えずらいところに居た鍛冶龍さんが、少し前に出てきて、
「おお、幸太郎さんかえ、明けましておめでとう」と、声をかけて来た。幸太郎は、鍛冶龍さんの周囲の評判とは違う余りに穏やかな対応に驚きながらも、
「明けましておめでとうございます」の挨拶を返すと、「元の奴が、まるで火が付いた見てぇに、いろんなことを覚えたがってよぉ、何時んなっても俺さぁ、帰してくんねんだかねぇ」と、嬉しそうな頼もしそうな表情で、元ちゃんを見詰める。
「帰してくんねぇったって、ここが鍛冶龍さんちじゃなかんべか」と、やや強い語調で質したが、この調子で言い合うと、後でどんな会話があったのか元ちゃんにしつこく聞かれそうなので、少しおとなしくして、話題も変えようと幸太郎は考えて、「元ちゃんが熱心なのは、鍛冶仕事や油搾りの練習ばかりじゃねぇぞぉ。(やま)とか(てつ)とか(みず)とか(いぬ)とか(ねこ)とか、書けるようにようになったんだかんねぇ」と続けた。幸太郎が、話題を変えたにも関わらず、鍛冶龍さんは「実は、おっかぁと別れることに話が付いてなぁ、おらあ、この家を出ることになったんだぁ」と、話を蒸し返したうえで「幸太郎さんよ。元蔵と付き合ってくれて、いろいろ教えてくれて、ありがとよ。どうかこれからも宜しくお願げえします」と言って、両手を両膝に当て、頭を下げる格好をするので、幸太郎はどぎまぎして、今聞いたばかりの別れ話の件は、どこかに吹っ飛んでしまった。
 この日は、落花生の油搾りを、元ちゃんが一から十まで一人でやってみる日のようで、元ちゃんはセイロの中から豆を一粒取り出して、口の中に放り込むと、セイロを降ろす時期と判断したようで、釜からセイロを重たそうに持ち上げて搾り機中央の突起部にすとんと乗せた。
 自動的にセイロに鉄板の蓋がされてから反転し、豆が機械の中に落とされると、元ちゃんは空になったセイロを取り出して、機械のスイッチを入れる。下から豆の入ったステンレスの容器がせり上がってきて、機械の上部から下りてきたピストンのようなものに触れると、モーターの音が一段と力強さを増し、次第に息苦しいような重々しい音に変わる項、容器の下方から黄色くねっとりとした液体がにじみだし、直接タンクは見えないのだが、機械の最下方に備えつけられたタンクに蓄えられているようだった。しばらくすると、元ちゃんはスイッチを切って手動に切り替えた。元ちゃんが直径が一メートルの余もあるような、重そうな丸ハンドルをぐるりぐるりと何回転させても、先程の電動のときのように、豆の容器は目に見えてはせり上がって来なかったが、それでも僅かに上昇しているのが感じられた。油はにじみ出すというより、吹き出す感じに変化していて、それはシリンダーの下部からあふれ、幅広い溝に誘導される仕組みだ。モータが止まった静かさの中で、タンクに流れ出る音が、時折聞こえる。今やハンドルは重くなり、半回転させるにも、相当の力を要するようで、にっちもさっちも動かなくなった。元ちゃんがちらっと鍛冶龍さんに目を遣って、指示を仰ごうとしても鍛冶龍さんは、涼しい顔をして黙っている。仕方が無いので、元ちゃんは意を決して、ハンドル操作を中止してしばらく状況を見守る。
 次第に、容器からの油のにじみ出しは少なくなり、やがてそれが完全に無くなるのを見計らって、元ちゃんはレバーを引いて、ステンレス容器を取り出した。
 容器の中の、お煎餅の様になった搾り滓を、大きなまな板の上に、ゴンという音と共にあけると、元ちゃんはその煎餅状の端を、なたのようなもので叩き切って、鍛冶龍さんに渡す。それを口に含んで吟味した鍛冶龍さんの表情を、元ちゃんが食いいるように見つめる。空気が張りつめて、幸太郎が耐え切れなくなったころ、鍛冶龍さんからOKが出たようだった。やっとのことで、元ちゃんの顔面に笑みが戻り、自分もその搾り滓を口に含みながら幸太郎にも渡すのだった。
 幸太郎は、その搾り滓を、少し甘味のあるお菓子のようで、とても美味しいと思った。

 この次ぎの日も幸太郎は、元ちゃんのところに行ってみた。どちらの小屋に居るのか、迷う必要が無いほどの大きな音が、鍛冶小屋から響いてくる。ドンテンヵン・ドンテンヵン・ドンテンヵン〜 鍛冶小屋の戸を開けると、真っ赤に焼けた大きな下刈り用の鎌が幸太郎の目に飛び込んできた。挨拶どころでは無い。鍛冶龍さんと元ちゃんは真剣勝負の真っ最中なのだった。
 ドンというのは、元ちゃんが立ち姿で大きなハンマーを振り下ろす音。次いで、鍛冶龍さんが、小さなハンマーをかなりの強さで真っ赤な鎌に打ち付けるのがテン、その反動の様に鎌から離れたハンマーを、少し弱い力でもう一度、鎌に打ち付けるのがカンなのだ。
 ドンテンヵン・ドンテンヵン・ドンテンヵン〜
 温度が下がった鎌は黒みを帯びてくるが、再び炉の中に入れられる。そしてドンテンヵンが続くのだった。
 やがて、もうもうたる水蒸気とジューンというすさまじい音響と共に、鎌は水入れされて、作業は休憩となった。幸太郎は鍛冶龍さんに軽く会釈をし、鍛冶龍さんは「コンチワ」と応える。幸太郎と元ちゃんは、目と目だけで挨拶終了だ。
 驚いたことに、スケート金具が三足も出来上がっている。見本はとっくに返してあるので、全部自作のものに相違ない。幸太郎の目を引いたのは、がらんとしていた作業場に、今や所狭しと、各種農機具やら、分解したチェンソーやら、リヤカーの車台の一部のパイプなどが持ち込まれていることだった。
 幸太郎が、元ちゃんに尋ねると、簡単に、―― 練習に使った ―― とだけ表現した。
 三学期の授業が始まると、お互いの訪問の足は一層遠のいたが、一月も残り一週間の土曜の夕食後、久し振りに元ちゃんが、幸太郎の家に顔を出した。
―― 親父に教えてもらって、いろんなことを、沢山覚えたぞ ―― と、元ちゃんが真っ先に自慢を始めた。
 元さんがやって来ると同時に仲間に加わってきたおねえが、幸太郎よりも先に、それは良かったと、本心からの喜びを伝える。
 ところが、どうも泣き腫らした様に元ちゃんの目が赤いので、何かあったのか、と幸太郎が尋ねると、鍛冶龍さんが、家を出た、ということだった。
 鍛冶龍さんは、家にこんなに長く居たのが珍しいくらいに、家をしょっちゅう空けて居るじゃないの、とおねえがずばり表現すると、元ちゃんは、しばし沈黙の後、――お袋と親父が別れたんだ。今度こそ親父は帰って来ない―― と、うなだれた。
 安易な慰めなど、何の役にも立つまいと、幸太郎もおねえも、しばし沈黙を守った。
 やがておねえが、二人はどうして離婚したのかを尋ねると、
――自分が、耳が聞こえないことが、不仲になったことに、関係しているのかも知れない。しかし、あの親父の性格には、お袋はどうしても合わなかったと思う――
 と、かなり冷静に考えようとしているので、ある意味では安心で、幸太郎もおねえも、この件にはこれ以上触れなかった。幸太郎が字とロの動きの関係のことを話題にすると、にわかに元ちゃんの表情が和らいだ。
――今日から、今から教えてもらいたい――という、元さんのしぐさを待ちかねたように、おねえが、紙と鉛筆を持ってきて、幸太郎の前に差し出した。
 幸太郎は、あ・い・う・え・お と書いて、次々にロの動きを教え、元ちゃんは懸命についてくる。口の動きを見て、あ・い・う・え・おの、どの文字なのかを当てるのは、一時間の練習でかなり進歩したが、実際に音を出してみると、とたんに暗礁に乗り上げてしまった。
 元ちゃんはまだまだやる気だが、幸太郎は疲れ気味で、おねえにバトンタッチだ。おねえも、一時間の余、悪戦苦闘したが、夜も更けたので、そろそろ解散ということになった。幸太郎には、おねえにバトンタッチしたからといって、それほど代わりばえしたとも、上達が速くなったとも見えなかったのだが、帰りしなに元ちゃんが、
今日は、教えて頂いて、どうもありがとうございました――と丁寧に挨拶し、更に――おねえの教え方の方が、分かり易かった――と、余計なことをつけ加えたので、怒った幸太郎が、ふざけ半分に元ちゃんに飛びかかった。それから、上になり下になりが四五回続いたのだが、最後は、元ちゃんがわざと負けて、幸太郎にゴメンを繰り返したので、一件落着となった。おねえは笑って見ているだけだった。
――スケートの金具を、三つ作ったので、明日持ってくるが、長靴を履いて、つるんつるんの遊び場に行ってみよう――との元ちゃんの提案に、幸太郎は大はしゃぎで賛成したが、おねえが「私は子供の遊びはしないけど、行くだけは行くよ」と言った。
 幸太郎は、元さんと自分が、特に自分だけが子供扱いされたような気がしたので、「めlん」と大声を出しながら軽くおねえの頭に手をかけた。おねえは、大げさに「痛いっ!」と言って両手で頭を抱えた。元さんには、おねえの発した 「私は子供の遊びはしないけど〜」という言葉の意味は解らない筈なのに、一部始終笑って見ているだけだった。

 翌々年の正月二日のこと、十二キロも離れた新しくできたばかりのスケートリンクの入場門の前に、元ちゃんの作ったスケート金具を売り捌こうとしている、元ちゃん、幸太郎、おねえ、の三人の姿があった。
 元ちゃんは独力で、何と二百足のスケート金具を作り上げていたのだ。
 幸太郎は、後三か月もすれば中学を卒業する時期で、元ちゃん十九才、おねえは二十一才、おじじは八十三才になっていた。
 おじじは、「山の原木を売るだけじゃぁ、どうにもやりくりが付かなくなったかんなぁ。こう人夫代が高くなんだら、そのうち少こーしずつ、持ち山を売りに出さなくちゃぁ、なんなかんべぇなぁ」と言うので、幸太郎は高校への進学を決めていたことで多少気が引けた。少しばかり遅まきながら、幸太郎はこの時、生まれて初めて、金銭の収入を得ることの大切さを痛烈に意識した。
 そのこともあって、スケート金具の販売には、大の乗り気で、大いにかかわった。
 二百足ものスケート金具を作るには、小屋にある材料だけではとても足りず、別途購入したようだが、この費用は元ちゃんの小母さんが、元ちゃんの棲いけんまくに抗し切れず、泣く泣く出したもののようであった。
 三人は、数日前の年の瀬に、最近出来たばかりで、かなり評判のスケートリンクを金具の販売のための下見を目的に見学に行ったのだが、その広さに度胆を抜かれた。それは昔の軍の飛行場の跡地を、一旦は田んぼにした場所だった。一周三百メートルのトラックでは、上級者が滑っており、その内側では、数十人の初心者が練習をしていた。スケート靴は上級者だけで、初心者のほとんどは金具をズック靴に、少数は長靴に縛りつけて滑っている。
「田んぼさ、ちょこっとみずぅまいただけでぇ、こんな高けぇ入場料取れんだなんて、凄げぇ凄げぇ」と、おねえは凄げぇを連発したが、むろん、水をまいただけのものではなく、階段状の何百人も座れる様な、しっかりした作りの観客席も出来ていて、県のスケート大会も、来月には予定されているとのことだった。
 この下見の日、切符売り場からかなり離れたところで、戸板の上に二三十個の金具を並べて売っている小父さんのところにおねえが寄っていって、値段の交渉をしているので、幸太郎はびっくりした。
 大分まけさせたようだが、結局おねえは買わなかった。つまり初めから、買うつもりなどなかったのだ。
 この日は、午後の三時頃から、珍しく「おねえ」を交えて鍛冶小屋に入った。金具売りの相談である。炉に炭を入れると、暖をとるのにちょうど良い。
 次第に相談にも熱が入る。金具売りの小父さんにまけにまけさせた、最終的な値段よりも、少し安い値段で売ろう、というのがおねえの考えだった。
 元ちゃんは材料費の二倍で売れればいいと言った。元ちゃんのいう値段は、おねえの付けた値段の十分の一である。元ちゃんは、おねえと幸太郎の顔を見比べるようにしながら、自分の考えを伝えた。
――親父が居なくなったので、来年には、鍛冶と油の二つの小屋を、土地と一緒に売りたいと、おふくろが言っている。だから、少しでも銭は欲しい。でももっと欲しいものがあるんだ.昔、幸太郎が鬼山で年上にいじめられたことがあった。あの時、俺は初めて人間の集まりと関わりを持つことが出来た.それまでは、耳が聞こえない者は人間の集まりとは関われなものと思いこみ、子供たちの遊びを、ただ離れて見ているだけだった。俺には収入よりも何よりも、人間の集まりと関われることが、一番嬉しいんだ、銭の儲けは、その次だ―― と。
 おねえと元ちゃんの主張する値段の開きが余りにも大き過ぎるので、値段を決めることは棚上げにして、何個持っていくかの相談に移ったが、これまた、おねえと元ちゃんの考えが大きく食い違った。
 おねえは、リヤカーに棲んで、二百個全部を持っていくという考えだった。
――見物席にいた人間を、全部足しても百人ちょっとだから、二百個持ってっても売れるわけがねぇ―― と元ちゃんが主張する。――二十個持って行こう。俺が片手に五個づつ、十個持つから、二人で残りの十個を持ってくれないか――
 元ちゃんが、字と発音の関係をおねえに習い始めてからの二年間で、おねえは幸太郎の通訳を必要とせず、口の動きと手の動作で、直接意志を元ちゃんに伝えることが出来るようになっていた。この二年間、幸太郎が学校に行っている時間帯に元ちゃんは毎日のように、おねえのところに習いに来ていたのだ。
 おねえは、
――二十個づつ売りに行くなんていう、けちなことやってると、来年になってしまうぞ――
――来年になってもいいじゃないか―― と元ちゃんが訴える。 ――冗談じゃない―― とおねえは主張する。
――金具を使っていたのは、初心者ばかりだ。周囲を滑っていた上手な人達は、ほとんど全部がスケート靴だ。靴の普及は、凄いスピードで、来年の今頃には、金具は売れなくなると思う――
 元ちゃんは、どうにも納得出来ないらしく、
――二十個づつでも、今年中に十回行けば二百個だ――と、おねえに歯向かったが、この元さんの言い分に腹を立てたおねえが、
―― 冗談じゃあない、こんな重い鉄の固まりを持って、二十回もの行ったり来たりには、とてもじゃないけど付き合ってはいられない―― と、不機嫌をそのままに表現すると、元ちゃんは、ゆっくりしたしぐさで、――別に、付き合ってもらう必要はない―― と、表現しようとしたのだが、そのしぐさが終わる前におねえは元ちゃんに向かってすごい勢いで手を出そうとしたが、それよりも早く、幸太郎が、仲に入ったので事なきを得た。しばらく間を置いて、幸太郎が、「どうして、二百個全部、一度に持ってかなきゃぁいけねぇんだ」と、おねえに問うた。すると、値段の事も含めた、おねえの、手の動きによる長い説明が始まった。
 元ちゃんは、食い入る様におねえのしぐさに釘付けになっている。
――今日、三人のこの目で見たとおり、間もなくスケートは、金具だけの時代は終わりだ。早ければ、全部が靴の時代が来年にもやって来る。金具だけを売るなんて商売が出来るのは、今だけだと思う。元ちゃんが、人間の集まりと関われることが一番嬉しい、という考えを持ってる事を知ったから、もっともっと応援したくなった。でも、この金具売りは、二百個売れたら、もう作らない方がいいと思う。二百個だけの商売だと思う。私の考えでは、私の言った値段にすれば、三四日で二百個全部が売り切れると思う。あの金具売りの小父さんは、どこかから仕入れて来ているようだから、そんなに安くは出来ないよ。そして、私たちが売りつくした後でも、細々と商売を続けると思う。あの人の十分の一の値段で売れば、二百個はすぐにも売れるだろうが、その後、あの小父さんには、お客の風当たりが強くなり過ぎて、可哀想だ。そんなに安い値段で売ってはいけないんだ。あのぎりぎり値下げした値段より、更に二割ぐらい安くして、お客にも喜ばれ、その後、あの人にも余り強い風当たりにならない様に気を配ったって『人間の集まりと関わりを持ちたい』という、元ちゃんの考えに反しないと思うよ――
 幸太郎は、この時の「おねえ」の手の動きと、それを見つめる元ちゃんの目の動きに、胸の中で眠っていた何かが、覚めて溢れて、勇気が沸き起こる思いだった。
 隣の家の鶏小屋が、急に騒がしい。猫か、イタチか腹減らしの野犬でも近付いたのだろう。「おねえ」の手振りが続く。
――それから、リヤカーで二百個、一度に持って行くのには、それなりの意味がある。ひとつには、リヤカーには、金具以外の、戸板だって、シートだって積むことが出来る。それから二百個も金具が並ぶということは、それだけでも人目を引く。一個売るためにだって、二百個並べておいた方がいいんだ。それともう一度値段の事だが、十分の一に近い法外な安売りをして、買った人に大いに喜んでもらえばそれでいいんだ、という考えも、私は余り好きじゃない。金具だけを売るなんてことは、今こそが、千載一遇のチャンスなんだよ。自分が幸せになれる、あるいは利益を得られる千載一遇のチャンスには、自分の利益をまず確保し、自分を安定させる事を優先するのが、当然だと私は思ってるんだ。喜べる時は、相手だけじゃなく、自分も喜ばなくちゃいけない。自分が安定して無きゃ、周囲まで不安定に、不幸にしてしまうんだ。いつでも誰にでも、どんな状況でも自己犠牲こそ美しいという考えには、大きく反するけれど、とにかく私はそう考えているんだ――
 おねえは、全力投球で、腕を動かし、手指を動かし、首を振り、意志を伝え終えると、少しぐったりしたようで、目を閉じた。元ちゃんと幸太郎は、おねえを、しばらくそっとしておいたが、やがて元ちゃんが、両手をおねえの両肩に当てて、静かに揺すった。おねえは目を開いたが、幸太郎には、その瞳が清らかな泉のように思えた。
 おねえの説明を受け、元ちゃんがやや神妙になり、丁寧なしぐさで、意見を述べる.
 ――運搬する数も方法も、売る値段も、おねえの考えのようにしたい。これからも、色々と教えて欲しいし、これまでのように協力して欲しい――
 おねえは、余分な動作は一切せず、簡潔に、――分かった―― とだけ表現した。

 金具販売の日は、気温がやや低く、曇天であったが、無風で、絶好のスケート日和で、下見の時より、見物客もスケータlも、かなり多いように見受けられた。
 入場券売り場の近くの最も目立つ場所に戸板四枚を並ベ、その上に純白の晒しを敷いて二首足の金具を並べた。おねえが、厚手で大型の画用紙に書いた『一ダースの値段』の下に、「ばら売りもします」と書いた看板三枚を、手近の木立にぶら下げた。
 あまりに堂々とした絶好の場所なので、撤去の要請でもあった場合は、即時に対応できるようにごく近くの、なるべく目だたない場所にリヤカーを置いて、早速おねえが落ち着いた大きな声を張り上げ初めた。元ちゃんは、戸板の後ろの中央部で、堂々として、自信ありげに自分の作った商品を見つめている。幸太郎は戸板の前に立って、用意した真新しいザルに、お釣り用の現金を入れて足下に置いた。おねえの言葉が響きわたる。
「最新モデルの金具を、御覧になって下さーい」
「バラ売りもシマスヨーっ」
 これは安い!丈夫そうだーこれが最新モデルか!というのが客が口々にする大方の反応だった。
 売り始めから十分で五足が売れたが、その後ダース売りが二回続いた。画用紙に書いたダースの値段は、十一足の値段である。
 おねえは大声を張り上げ続けながらも、商品を渡す係を兼ねてくれたが、金銭の授受は、ほとんどが幸太郎の役目だった。昼近くなって、客足がふっと途絶えた時には、百四十九足が売れていた。
 客足が途絶えるのを見計らったかのように、屈強なそうな、それでいて柔らかな物腰で話す若者が現れて、「物品の販売許可を受けていない業者さんだと判明しましたので、敷地内から退去していただきたいのですが」と、おねえに向かって話しかけた。おねえは、「こちらの法人の方ですか?」と言ってから、一瞬の間を置いて「どうも、連絡に手違いがあったようですので直ちに撤去しましょう」と言った。余りに簡単に即時に応じられたので、肩すかしに合ったようにキョトンとしていた相手に対して、「物品の販売許可を受けている、金具販売の業者さんはどこにいるんですか」と尋ねた。
「物品の販売申請は、飲食物の関連しかありませんでした」と、若者は言う。
「ですから、そこが問題です。われわれの業界は、県とは連絡を取って居りますが、こちらの法人との間での販売許可の申請方等は、県民に十分に周知徹底していませんね」と、おねえが応戦する。
「開設間もない法人ですからね。やむを得ない部分もありますよ」と、若い係官は、やや引け腰だ。
「あなたを責めているのではありません」とおねえは書う。「施設の管理が、県からこちらの法人へ移管されて、各種の申請方等が変更になったことが、県民に十分に周知徹底していなかったことは事実でしょう.それを、文書で認めて頂けますでしょうか。それならば、私どもも、本日の販売に閑し手続不備のお詫びを書面で残させて頂きたいのですが、如何なさいますか」
 ある程度の責任を持たされている人物らしく「それには及ばんでしょう」と、言う。
 おねえは畳み掛ける。
「これは、金具としては、県の指導を受けた最新のモデルなんですが、県としては、急速に靴の普及が進むと分析しているようです。ご研究のために、あなた様に一足差し上げましょう」と言って、差し出すと、煙に巻かれた相手は何のためらいもなく金具を受け取り、店じまいの三人を、ただただ見守るばかりである。
 残された五十足と、戸板や晒し、銭の入ったザルを風呂敷で包んでリヤカーに積み込んでスケートセンターを離れたが、二キロほど離れて、持参した弁当を食べようと、近くの神社の境内に立ち寄った時、三人に初めて笑顔がこぼれた。この時以来、三人組の主導権は、大きくおねえに傾いた。
 その夜、再び幸太郎の家に三人が集まった時、もともとは二十足だけ持って行こうと提案していた元ちゃんが、百四十九足も一気に売れたので、気が動転したのか、このお金を、三人で等分に分けようと言い出した。
 おねえは、いささか慌て気味に、
――これは全部元ちゃんのものだ―― と説得した。ところが元ちゃんは、
――みんなで働いたからみんなのものだ―― と譲らない。おねえは、
――幸太郎さんと私に、報酬を渡したい、という元ちゃんの気持ちは、とても良くわかった。でも、今はそんな時期じゃない――
――じゃあ、このお金はどうするんだ―― と、元ちゃんは、かなり困り顔になって、幸太郎とおねえの表情を交互に見やった。幸太郎が材料費を尋ねると、十足分より少し少ない、ということが判明した。幸太郎は、
――まず、十足分の材料費を返すのは当然だ。けど、それだけじゃなく、あと十足分くらいを、お小遺として、おふくろさんに差し上げると、喜ぶと思う――と、意見を述べると、すかさず、おねえが賛成した。おねえには、別の考えも浮かんだようだった。
――この三人は、手まねや表情で意見を交換して、ほとんど不自由はないけれど、ほかの耳の不自由な人にも通じるようなしぐさを書いた本がある。その、共通のしぐさをシュワと言うんだが、それと、これから字を勉強したり、字と発音の関係を勉強していくのに、二十足分くらいのお金を取っておいたら?――と提案する。
 結局、残り百十足分は、おねえが、元ちゃんの名義で貯金して、おねえが管理することになった。残った、五十足の金具は、もう売りに行きたくない。と、元ちゃんが、言い出した。無料で、欲しい人に持って行って貰いたいというのだった。おねえまでもが、
――金具の人気は、今年がピークだから、これ以上スケート金具を作る仕事はしない方がいいし、無料で配るにしても、今年の方がいい―― といい出した。
 元ちゃんは、これからはスケート靴の時代がやって来て、金具だけの商売はもう出来そうにもないことを悟って、少し落ち込んだが、金具の製作とその販売は、鍛冶の技術を向上させた以上に、これから元ちゃんが、社会と関わって生きて行く上で、大きな自信をもたらしたようだった。元ちゃんは、しばしの沈黙の後、おねえと幸太郎にお願いがある、と口火を切った。
――自分は、これから三つのことがしたい。今日のように、二人で、助けてくれないだろうか――
 これは話が長くなりそうだったし、おねえが夕食の支度をしなければならない時間になって来たので、いったん解散することを幸太郎が提案した。
 元ちゃんはリヤカーに棲んだ五十足の金具と、母親に渡す二十足分の預金と共に家に戻り、幸太郎も、自分の部屋に引き上げた。
 夕食後、再び幸太郎の家に三人が集まって、相談が始まったが、元ちゃんは、待ち切れないと言う風情で、おねえに習った通りの口の動きも交えながら、
――おふくろが細々やってる金物の商いは、ほとんど客が来ないのに、今日のスケート金具の商売は、あんなに客が来て、びっくりした。どうしたら沢山の客が来るんだろう。昔おやじがやっていた、農機具修理と油搾りの商売を復活させたいが、おねえと幸太郎の二人に助けてもらえないだろうか―― と心のうちを伝えた。
 二人とも大賛成で、元ちゃんに大いに協力することを約束したが、金物商と農機具修理と抽搾りの三つのうちどれから始めるかで、意見が対立した。
 幸太郎は、金物の商いを隆盛にするところから始めた方が良いと考えているのに対し、元ちゃんは農機具修理から始めたいようだった。おねえが、どちらに軍配を上げるのか二人が注目しているとすると、
――私は…――というジェスチュアをしてから、長い間を置いて、
――私の都合もあって、三つ同時に始めたほうがいいと思う――  と、予想外の意見だったが、元ちゃんが、素早く噛み付いた。
――自分の都合を俺に押しつけるのか?――
――それだけじゃないが、最初は幸太郎さんと私が手伝った方がうまく行く―― おねえが、余りに堂々としていて、つけいる隙を与えないので、元ちゃんは、さっきのけんまくは何処えやら、やおら、しおらしくなって、――おねえの都合って何なんだ?―― と、問う。
――私は、結婚する。今、すぐという訳じゃないが、後三年して、幸太郎さんが高校を卒業する年の今頃、結婚の約束をした――
――いつ、誰と約束したの?―― と、幸太郎。
――去年、皆が成人したのを記念して、中学の同窓会があった。それをきっかけに、学校時代から、ずっと好きだった人と、その後何度か会って、約束したんだ。今、二人でお金を貯めているんだ――
――三つ同時に始めたほうがいいというのは、おねえの都合だけなのか?―― と、再び幸太郎が問う。
――後、三年したら、私は結婚の為に、この家からお暇をいただく。そういうわけで三年間しか手伝えないから悠長なことはしていられない。でも、理由はそれだけじゃない。元ちゃんは農機具修理から始めたいというが、農機具修理だけで、そんなにお客が来るもんじゃない。幸太郎さんは、金物の商いを隆盛にするところから始めたいというが、これも同じこと。商品を選んで陳列の仕方も変えて、時折りは宣伝もすれば、今よりははるかに客は多くなる。でも、この半農半林業のK町は、町としては確かに大きいほうだ、が、どんなに宣伝したところで、幸太郎さんのいう隆盛な客の入りなんかには、程遠い。だから油搾りを主力に、金物商と農機具修理を補助として、三つ同時に始めた方がいい―― と。
 元ちゃんが、ダメダメ、と、手を振り、かぶりまで振った。
――油搾りなんて、季節だけのものじゃないか。一年の三分の一だけ仕事があって、後は、ずっと暇だろう――
――なんにでも、山もあれば谷もあるものよ―― と、わけ知り顔に、おねえが手を動かすので、元ちゃんも幸太郎も、何だか見下されているような気がして、むっとした。
――自分の相談ごとのために、幸太郎さんにまで、気まずい思いをさせて、申し駅ない――との、元ちゃんのしぐさを受けて、幸太郎が、
――三人とも疲れてるんだ。一旦解散して、これは時間がかかる相談だから、明日は、午前中から相談を始めよう―― と、提案した。
――朝食が終わったら、すぐに来てよいか―― と元ちゃんが問えば、
――それは困る―― と、おねえが割って入って、
――後片づけ、掃除、洗濯、朝の仕事が終わって、十一時頃から、始めよう。その代わり、お昼ご飯は、おじじの分も含めて、四人分のお稲荷さんと、卵焼きを作っておくからと―― と笑顔を見せて、見下している様子など全然なかったので、幸太郎は、さっきはむっとして、損をしたと思った。
 次の日、三人それぞれが、一晩じっくりと考えてきた意見が交錯したが、お昼を挟んで、五時間近くも相談して、かなり具体的な計画が完成した。
 隣町も一部含めて、三千五百軒の家に宣伝ビラを配ること。今、つるんつるん遊びをしている狭い場所ではなく、その十倍くらいの田んぼを、これから三月半ばまでの約二か月を、水を張らせてもらって、もちろん謝礼も出して、この場所を宣伝ビラに書く。宣伝ビラは、謄写版を、明日バスで、おねえが二台貰いに行き、赤と青で印刷する。絵は、幸太郎が書いて、文はおねえが書く。
 あさっての朝から幸太郎とおねえで印刷を始めて、一日七百枚を刷って、元ちゃんは一人で、一日七百枚を配り終えるように頑張る。五日間で三千五百枚。配り終えない分は、印刷が終わってから、幸太郎とおねえで手伝うということになった。再来週の日曜日を抽選日として、ビラ一枚で、一人一回くじが引けることにする。五百人の人がくじを引きに来るとすると、十人に一人がスケート金具の商品がもらえる。子供のために、親が来るケースも多いだろう。商品のスケート金具はスケートセンターで大人気の新型モデルだと宣伝する。五十足の当選が出た時点で、抽選会を終了する。
 おおよその相談がまとまると、元ちゃんが、宣伝の内容を確認した。三つを同時に始めるという点では、確かにおねえの考えが採用された格好だが、細かな内容は、ほとんどが元ちゃんの考えである。幸太郎は、こんなに自信に満ち満ちた元ちゃんを見るのは始めてだと思った。
 ――まず始めに―― と、元ちゃんが、手を動かした。
――鍛冶仕事は、刃の欠けた物の修理を全面に出して宣伝する。なた、包丁、鎌、鍬、唐鍬の修理と研ぎ、鋸の修理とその目立てを中心にして、後は、「その他何でも修理」として細かな事は書かない。金物の商いは、今店に置いてある商品は、古い物ばかりなので、これを、多少の流行を取り入れた新しい物に入れ替える資金が欲しいので、全品五割引から七割引として宣伝する――
と、ここまでの宣伝内容を確認すると、ふうっーと、大きく肩で息をしたが、すかさずおねえが、大きなジェスチュアで拍手をしたので、幸太郎もそれにならった。元ちゃんは、拍手に対し、ぴょこんとお辞儀をして、得意満面で次の宣伝内容の確認に入った。
――油搾りは、五月中心の菜種。九月中心の大豆。十一月中心の落花生の三種に限定し、搾り料金は取らず、搾った油の一割を頂だいする。親父の工夫したふかし方と搾り方で同業よりも一割近く多く搾れるというのを根拠に、搾った油で搾りの手間賃を頂戴したいんだ。ビラには、搾り料は無料と書いて、小さく機械のシリンダー及び油路に付着した程度の油を手間賃として現物で頂だいします、と書いて下さい。これでどうでしょう――

 田んぼを三月半ばまで、つるんつるん遊びに使わせてもらう謝礼は、金具三十足分では、多過ぎるといわれたくらいで、借りた翌日には、水を張り、翌々日には無料開放で、抽選による商品の金具は、見本と称して五十足全部をこの即席リンクに、抽選日まで、毎日展示したのだった。展示場所には幸太郎の思い付きで、蓄音機まで持ち込んで、♪緑の丘の赤い屋根〜 とか、♪赤いリンゴ など、絶え間なく流し続けた。 抽選日には、当初の予定よりもやや少ない、三百九十七人が抽選し、四十一足の金具を商品として渡した。翌日、元ちゃんと幸太郎は、何年ぶりかで、残った金具を持って鬼山を訪れた。そこで遊んでいたのは、抽選にはずれて、つるんつるん遊び場に行ってもつまらないからと、即席リンクには行かない子供たちだったので、無料のプレゼントに、歓喜乱舞で、その親たちにまで、道々に礼を言われたものだ。

 幸太郎が高校生になってから、三年近くの年月が流れた二月下旬のことである。元ちゃんの商売は、油搾りを中心に大繁盛で、順風満帆である。
 『鍛冶商店』はサービスの一環として、毎年特設のスケートリンクを無料解放したが、時代の流れは激しく、滑っている者の九割以上がスケート靴になっていた。
 スケートが、資金調達の源泉だったことから、感謝の気持ちを忘れずに、スケート靴は仕入れ値に近く、格安で販売した。
 元ちゃんは、完全に社会の中に溶け込んで、押しも押されもせぬ、一端の商売人だった。幸太郎は、その一年前から、立ち木の売貢と植林の計画をおじじから任されており、四月からは、通信教育の商学部への入学の手続きを既に済ませていた。そんな折、元ちゃんと幸太郎にとって、とんでもない大事件が勃発した。
 おねえが、簡単な書き置きを残して、忽然と消えたのだ。
 正に、予期せぬところに出現した、落とし穴だった。
 二人揃って、落とし穴に落ちたのだ。
 幸太郎は、――警察に届けるか?―― と、元ちゃんに問うた。元ちゃんの返事は、――おねえは必ず戻って来るから、半月待ってくれ。この字は、おねえの字だし、誘拐じゃあないんだからなぁ―― ということだった。 かなりボケが進んでいるので、おじじには一切を知らせないことにした。
「所帯を持つために必要と思い、収入のほとんど全部を送金していた男が、別の女と逃げて行方がわからない。たとえ行方がわかっても、よりを戻す気はない。独り暮らしの小部屋を借りて、職を探そうと決意したが、もう一度会って、直接その意志を確認したい気持ちもあり、揺れている」これが、おねえの書き置きの要点だが、幸太郎は、元ちゃんと額を寄せ合って、何度も何度も読み返した。
 元ちゃんの、待ってくれ、という半月という期間を待たずに、おねえからの便りが来た。
 それは、元ちゃんの期待とは裏腹に、部屋と職を捜し当てたというもので、戻ってくる意志など無く、むしろ戻らないという決意が、強く感じられた。
 元ちゃんは、
――結婚で辞める時に、これまでの御礼を込めて渡そうと準備していた祝金が、宙に浮いてしまった―― と嘆く。
 幸太郎にしても、おじじに代わって、渡そうとしていた今月分のお手当てと、用意していた退職金が、宙に浮いている。
 結婚による退職を予告されていた時期だから、元ちゃんも幸太郎も、おねえとの別れの覚悟は出来ていた。
 しかし、なぜにこのことで、おねえは、家を出なければならなかったのか。
 幸太郎は元ちゃんとともに、心に出来た暗い落とし穴の中で、繰り返し繰り返し、自問自答した。
 どちらが誘うでもなく、二人は揃って鬼山の麓に足を向けた。元ちゃんが、ゆったりと静かに手を動かす。――本当の深い穴に落ちたのは、おれたちじゃ無い――
幸太郎は頷く。助けることの叶わぬ、その場所さえも定かで無い、深い深い穴に落ちたのは、おねえなんだ。底知れぬ奈落の底から、おねえの悲痛な叫びが、いまにも聞こえてくるかも知れなかった。
 逃げた男を追う為などでは無く、おねえは、極度に不安定になった自分の心が、周囲を巻き込まぬ様、逃げるようにして、この土地を去ったのではなかったか。
 幸太郎には、おねえの、「自分が不安定な時は、周囲までも不安定にしたり、不幸にしてしまう」という言葉が鮮やかに思い起こされた。
 鬼山を背にして、元ちゃんの
――どうして・・・おねえは・・・落とし穴なんかに落ちたんだ!―― というしぐさを、しみじみと見つめながら、幸太郎はいつの日か、叶うことなら、あの優しかったおねえに、もう一度逢いたいと思った。
               

(了)


*当作品は、平成十四年五月、日本ジャーナリストセンター文芸創作科上野ゼミの同人誌『木曜日』に掲載され、同年六月『都塵』への転載許諾を受けた。『都塵二十五号』への掲載に際し一部加筆、表題を「鍛冶屋の元ちゃん」とした。(原題「鍛冶屋の元さん」)

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