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     散文長詩 

 器械屋の憂欝  ボードレール風に習作

 

                                                                            井本元義

                                   「季刊午前」第36号  


私もこんなものがたりを語ってみたい。でも、こんなには飛べない。

推薦 ひわきゆりこさん(胡壷)


 

  
 私は祖父の代から続く医療器械販売の会社を経営していた。私が死んだ父の跡を継いで社長になったのはまだバブルが始まる前であったから、私の若さを誰も問題にはしなかった。プライドの高い医者を相手に商売をするのは楽だったし、お互いに少々お金にずぼらでも結構お互いが儲かる時代であった。日々は単調に流れて行ったし暇を潰すというよりぼんやりしていてふと気がつくと長い時間がいつの間にか流れ、一日が終わっているというようなことで何年も過ごしたことだった。医者も医療よりも金儲けを重視した部類の人たちはまず土地から株から女と投資していた。しかしバブルがはじけ威勢のよかった医院も片っ端から潰れる時代がいきなり訪れてきた。当然に私の会社も不良債権を抱え経営は一瞬にして苦しくなった。またなんの新しい施策も打たず最新式の医療器械の勉強もしていない私の会社は新興の会社に瞬く間に市場を取られてしまうことになった。冷たい銀行の貸し剥がしにも対応することもできず、社員も一人減り二人減り、社屋も取られとうとう残ったのは郊外にある大きな倉庫と長い間私に番犬のように仕えてくれた忠実な一人の社員だけになった。忘れてしまいかかったがその数年のドタバタの日々に私は2才の子供を亡くし、いつのまにかいなくなった妻のこともほとんど記憶に残らないほどに変わってしまった人生を送るようになっていた。

  一人残ったKという社員は私に影のようにいつもついてきてくれたし結構頭もいい人間だった。彼は方々の潰れた病院医院から使い古しの医療器械を集めてくるようになった。倉庫は広かったのでタダ同然で引き取ってきた器械を保管するには充分だった。廃棄する器械を洗浄するものは誰もいない。血液や肉片や体毛のついたままの組織がこびりついているものも多かった。私たちの仕事はそれをきれいに洗浄して油を差し使えるようにして販売することであった。経営の楽でない医院相手に器械はよく売れた。私とKは別に食うに困らないほどの仕事しかする気はなかったが忙しくなるばかりだった。そして意に反して小金も溜まるようになっていった。倉庫の中は異様な匂いで充満していた。私とKの風貌も異常なばかりに変わっていたに違いない。しかし気に留める必要はなにもなかった。ただ私の人生はなぜこうも二転三転するのだろうか。ある朝、倉庫へ行くと高い天井から奇妙なものがぶらさがっているのに気がついた。それは首を吊ったKだった。理由はわからない。人間の肉体に差し込まれたり切ったり引きちぎったりする金属の器械に毒されたのか、洗い流された様々な人間の肉の組織の呪いなのか。彼は気が狂ったに違いない。

  それで私はこの仕事も止めることにした。さりとてする事もない。生活に困ることもない。憂欝な日々が始まった。これがふた昔前のことだったら早速私は阿片窟に出かけ至福の悠久の時間に浸り悔いのない死を迎える事ができるはずであった。本でも読むことにするか。それである時私はこの詩句に出会うことになった。「今いる場所でないところへ行けば、いつも幸福になれるような気がする、どこでもかまわぬ、どこでもかまわぬ、この世の外でありさえすれば」

  私の人生は四転することとなった。ある年の晩春私はついに異国の地に立った。そこは東洋と西洋の混じった小さな島で、宝石の売買で栄え賭博場と娼窟と阿片窟が公認されているという所であった。その頃私は小金どころかまあまあの金を持っていた。沢山の社員を抱えて会社を経営してネクタイを絞めていた数年前となんという変わりようだろうかと考えるとおかしいというより実に爽快な気持だった。その高揚した気持ちのためだったか私が酒や女よりもまず最初に足を踏み入れたのは賭博場だった。いつか小説で読んだ男の話を思い出したためだった。すべてを投げ打って勝負する賭博の魅力とは。今の私には関係のない話ではあるがふとその気になっただけである。

  確かにスリルはあったし楽しい事ではあった。大金を一発で賭けて勝負をするということは勿体ないことであった。少しずつ私は心安らかな時間を楽しんだ。ふと明日の朝目覚めた時に今日も何か楽しいことがありそうだと思う自分をなぜか想像したりした。何年ぶりかの酒も手にした。香水と他人の煙草の匂いが快い。いよいよ安住の阿片の世界へ降りていくか。その時だった。ふと正面の席を見るとKがいたのだ。なぜか私は驚きよりも自然に彼を見た。彼も特別に変わった表情は見せずにしきりに視線をある数字に向けて私に合図するのだった。思わず私はその数字に手持ちのチップを全て賭けてしまった。私の誕生日の14、彼が首を括ったのも14日だった。チップから手を放し目を向けると彼は昔景気がよかった頃に大きな商談を纏めたときによく私に見せた事のあるウインクをしたのだった。ルーレットが回り始めた。そして出た数字は14であった。

  わッと歓声があがる。しかしそこに彼の姿はなかった。私はまわりに祝儀を払い換金して外に出た。たかが36倍であるから大した金額ではない。しかし気分は悪くない。Kはどこへ行ったのか。あの大きなガランドウにぶら下がっていたのは本当にKだったのか。幽霊か。しかし私には恐怖はなかったし久々に幸福な気持だった。少し大袈裟ではあるがこれで安心して心おきなく死んでいくこともできるとさえ感じられた。

  海岸通りは美しい夜であった。この島から大陸へかかっている一本の長い橋には無彩色の無数のライトが連なりまたそれが海面に映えていた。対岸は色とりどりのネオンがきらめき怪しげな歓楽の夜を想像させた。海からのそよ風がこの上なく快い。それが一瞬首筋をさっと撫でて通りすぎたとき、私はこの上ない幸福な気持ちに襲われて、思わず込み上げてくる涙を押さえ切れなくなった。まだ少年の頃の春の記憶が蘇ってきたのだ。それは生暖かい早春の風の記憶に過ぎなかったが、その時私はこれからの人生でこれ以上の快さと幸福感を味わうことはないであろうと思うほど感動したのだった。そしてその感動はそれ以来すっかり忘れていたものだった。

  私はそこに何時間佇んでいたことだろう。周りの男女の嬌声や音楽がいつの間にか消え人通りも少なくなってきた。私は全てに満足しきっていた。人生に悔いが全くない時間を持つことができるなどと私ほど恵まれた人間は他にいないであろう。この時私は女も酒もまだ経験したことのない阿片も興味をそそられなかった。もっと激しく強力な稲妻のように襲ってくる刺激というか一瞬の破壊しか私には思いつかなかった。しかしこの穏やかな甘い海の香りの生暖かい優しい風に身を任せている時にそれは望むべきことではなかった。

  あたりには全く人影もなくなった。近くの建物の灯も消えつつあった。灯りが少なくなると岸に寄せる波の音が微かに感じられるようになる。すると二三人の男の足音と吐息が闇の先から近づいて来るのがわかる。それが今から破裂する狂暴さを秘めているのを感じるにはほんの一秒があればいい。私はぞっとする恐怖に見舞われるが、それが身を貫く快感へ昇華していくに違いないという期待感へ変わっていくのを知るのはほんの一瞬のことだった。私は思わず彼らの方へ一二歩近寄りかけた。至福の時をゆっくり味わうために。    

                                    

                                            「」はパリの憂欝より


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