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  お客さん                    ひわき ゆりこ

 

「えとわす」12号・2001年7月

 

 

  ―理想からことごとく違う「自分も含めた我が家族」に反発を感じる年ごろの娘が、
   大事な家族への思いと自分自身への思いを、異質な「お客さん」と関わることで、改
   めて認識するまでの、実に見事な秀作です。
推薦 納冨泰子(胡壷

 

 

 

 二十五歳の私は、将来を考える手がかりもなく、心を奪われるような出来事に出会うこともない毎日を送っていた。そんなある日、我が家は久しぶりでお客さんを迎えることになった。
 私はアルバイトから戻ると、急いで着替えてダイニングへ降りて行った。まずバティックのテーブルクロスを広げ、箸置きを並べていく。久しぶりに出す箸置きは少し煤けているような気がしたが、構わず置いた。キッチンに最も近い場所が母の小夜子、それから私と兄の哲哉が並び、母の向かいが父の稔。そして、奥の壁際がお客さん。母だけがいつもの席で、他はお客さん用の席順になる。そんな些細な事柄がもたらす非日常も新鮮に思えて、少しずつ気分が浮き立ってきた。
 次は箸とグラスだ。取り皿も用意しなくては。箸を並べながら、やはり箸置きの汚れが気になって流しへ持って行った。洗剤で洗っていると、忙しく動きまわっている母の尖った声がする。
「加奈子ったら、もう、神経質なんだから。そんなもの、布巾でちょちょっと拭いときゃいいのよ。どうせ、誰も気付かないんだから」
 小さい頃から、来客時のテーブルセッティングは私の役目だ。我が家では家族が揃ってテーブルを囲む機会はそう多くはない。それなのに、お客さんの時だけは家族四人が吸い寄せられるように集まり、一緒に時を過ごす。いつもは帰りが遅い父も、あまり家に寄り付かない兄もお客さんを囲んで座ると饒舌になる。
「加奈子、今、何時? もう、パパも哲哉もお客さんだってこと分かってるのに遅いんだから。ちょっと、哲哉に電話してみて。それから、ここのサラダやなんか、持ってって。それと、大きいスプーンも出しといてね」
 私は言われるままにきれいに盛り付けられたサラダボウルをテーブルの真ん中に置き、スープ用のスプーンを五本だした。今まで、何度この動作を繰り返したことだろう。そして、何人のお客さんが来たことだろう。お客さんはいつの間にか来なくなり、また新しいお客さんが来る。その度に母は張り切って料理を作り、普段は使うこともない食器類が並ぶ。
 母が朝から玄関やトイレを磨き、花を飾ってタオルやマットも洗濯した物と取り替えたのがわかる。きっと午前中に買い物を済ませ、昼過ぎから料理に取りかかったのだろう。それでも何かをやり残しているような気がしてならないらしく、時間が経つにつれて機嫌が悪くなってくる。普段は気にならないような些細なことも、腹立たしく思えてくるようだ。
 母は帰宅した父に対しても、苛立ちをぶつけるような物言いをした。
「ほら、さっさと着替えて手伝ってよ。飲み物、点検しといてね。そろそろみえる頃だから、急いでよ」
 母の声だけが家中に響き渡り、父と私はただ黙って指示どおりに役割をこなす。これもいつも通りの、お客さんを迎える前の風景だ。兄がいないのもまた、いつも通り。準備の時はいないのに、タイミングよくふらりと戻ってくる。そんな兄の要領の良さを、私は真似ることができない。
 ドアチャイムが鳴ったとき、家中が静まりかえった。しかしそれも束の間で、母が普段より高い裏声で応えながら玄関へ走った。
「まあ、よく来てくださったわ。さあ、上がって上がって。遠慮しないでね。梅雨時だから心配してたんだけど、雨にならなくてよかったわ」
 卸したてのような白いポロシャツを着た背の高い青年は、母に先導されてテーブルに着いた。
「やあ、いらっしゃい。私が堀田で、こっちが娘の加奈子です。この上に兄がおります。哲哉といいますが、じき戻って来るでしょう」
 客を迎えた時の父を見ていると、腰の辺りがむず痒くなってくる。家族の前では見せることのない、一家の代表者としての物言いと振る舞いだ。
 椅子にゆったりと座っている父に、青年は立ったまま挨拶した。
「大西猛といいます。今日はお招きにあずかり、図々しくお伺いしましたが、よろしくお願いします」
「まあ、どうぞお座りください。で、家内とはどこで?」
「そんなの後、後。まずは乾杯しましょう。大西さんはビールでいいかしら? ほら、あなた飲み物お願い」
 父の問いかけを遮った母は、わざとからかっているように見える。
 飲み物が行き渡り、四人がそれぞれグラスを掲げようとした時、兄の哲哉が帰ってきた。母に急かされ、挨拶もそこそこに五人がグラスを目の高さに上げた。
「かんぱーい!」
 誰もが中腰になって腕を伸ばし、グラスを合わせた。人が集まり飲み物が出されると必ず行われるこの習慣に、私はどうしても馴染むことができない。何のための乾杯なのだろう。グラスどうしをぶつけ合って音を出す行為も野蛮な気がするし、音自体も騒々しくて好きになれない。その場に居合わせた全員ともれなくグラスを合わせるのも、強制されているようで嫌な気分になる。それは同時に、そこに居る全ての人たちに対する好意をも強制しているように思える。しかし四人の人たちはにこやかに笑い、見るから嬉しそうに乾杯している。
 避けて通ることのできない大切な儀式をやり終えたように、みんなの緊張が緩んだ。
「さあ、どんどん食べてちょうだい。今日は大西さんがみえるから、美味しい物をたくさん作ったのよ。ちょっと煮物を温めてくるわね。それとね、大西さんは大学、高嶺なのよ」
 母が台所へ消えると、ビールを差し出しながら待ち構えたように父が口を開いた。
「どうぞ、どうぞ。遠慮しないで、どんどんいってください。へえ、高嶺大学出身でしたか。じゃあ、私と家内の後輩ということになりますね」
「ええ。お二人は大学の同級生とか。文学部だったんでしょう。私は経済学部で、校舎が文学部から一番、遠いんですよね」
「そうそう。いやあ、懐かしいなあ。経済学部の横に池があったなあ。池といっても、水たまりみたいなもんだったけど、酔っぱらって柵乗り越えて入ったりしてた。あの頃はみんな汚い格好してたから、気にせずバカなことばっかりやってたなあ」
「いや、私の頃は池はなかったです。埋め立てられたんじゃないでしょうか。私が卒業してからも、あの辺は変わりましたからね」
「そうだよ、そんな三十年以上も前の話したって、無理だよ。それに、今どきの若いヤツは大学に思い入れなんか持ってないよ。時代が違うんだから」
 父と兄の間に、微妙な緊張が流れた。私たち兄妹は高嶺大学の受験に失敗し、ランク下の大学を卒業していた。両親共に自分たち以上の学歴を期待していただけに、失望は大きかったようだ。以来、家族の中では、大学の話題をなんとなく遠ざけているようなところがある。
 父はどこに持って行きようもない不満をうち消すように話題を変えた。
「ところで、家内とはどこで?」
「はあ。英語教室でご一緒させていただいてます。みなさん良い方ばかりで、いつもお世話になってばかりなんですが、今回、お宅に誘っていただので、あつかましく押し掛けまして、本当、すいません」
 私は恐縮しているらしい大西が気の毒になった。おそらく、後輩とはいえ自分を招待した人の夫から関係を訊ねられることに気を遣っているのだろう。しかし、この家にお客さんを連れてくるのはほとんどが母で、年齢も性別もばらばらのお客さんに家族の者は慣れている。父はただ、次の会話の糸口をつかもうとしているだけなのだ。
「ほう、英語教室ですか。いや、家内はあれこれ習い事をしているようなんですが、どれも長続きしませんでね。で、外人の先生の英会話ですか?」
「ああ、いえ。英会話じゃくて、アメリカンポップスで英語を学ぶという講座で、市民センターでやってます。半年間だけの講座で、先生は日本人です」
「パパったら、なに言ってんの。この前、その話したじゃない。もう、人の話、真剣に聞いてないんだから」
 キッチンカウンターから乗り出すようにして、母が言った。そういわれてみれば、母が近ごろCDに併せて英語で歌っているのを私は思い出した。
「アメリカンポップスって、どんな曲をやるんですか?」
 兄が勢い込んで会話に入ってきた。音楽のことなら自分の守備範囲と思ったのだろう。
「カーペンターズとか、サイモンとガーファンクルとか、古い曲ばかりですよ」
「ああ、でも近ごろコマーシャルやドラマなんかで、その頃の曲を使ってますよね。あの車のコマーシャルで流してる曲、あれ何だったかなあ。えーっと」
 話の流れが兄の方へ行ってしまったので、父があわてて切り込んだ。
「いやあ、懐かしいなあ、サイモンとガーファンクル。『卒業』、あの映画、見に行きましたよ。あの頃は私も若かったなあ。ダスティン・ホフマンでしたかね。しかし、大西さんのように若い人からサイモンとガーファンクルなんて聞くとは思わなかったなあ」
「いえ、私もそんなに詳しくはないんですが、年の離れた姉がよく聴いていたものですから、耳に馴染んでて」
「ほう、ところで大西さんはおいくつですか?」
「はい。三十三です」
 私は会話に加わらず、気づかれないように注意しながら大西を見ていた。視線が合いそうになると瞬時に目をそらし、行ってしまうとまた見続けた。父と兄が競って話し掛けるので、観察するのは楽だった。
 色は黒い方で、骨張った鼻梁が神経質なイメージを抱かせたが、内面の繊細さとも取れた。運動音痴という言葉があるが、私は顔音痴だと思う。人の顔がハンサムだとか美人とかが、よく判らないのだ。テレビ画面に出てくる顔は判定できるのだが、実際に接する人に対しては判断力が働かなくなってしまう。性格だとか、その日の状態などの要素が強調されて、顔立ちとは関係なく美しく見えることもあれば、その反対もある。
 大西の顔は、世間的に見るとどのランクに属するのだろう。もし友達の誰かが大西とデーとしている時に偶然いき合わせたとしたら、私はどう感じるだろうか。ひとり、想像を働かせた。きっと悪くはないだろう。洗練されているという印象は持つだろうとおもった。
「Hello darkness my old friend……」
 突然、母が唄いながら煮物の鉢を手に戻ってきた。私が母親を恥ずかしいと思うのは、こんな時だ。周囲の流れなどお構いなしに、誇らしげにこんなことをやってのける。しかもLやRの発音を強調し、FやVのときは大げさに下唇を噛んでいる。普段、接する機会が多いだけに、私にはその不自然さがことさら際立って見える。
「来週はカーペンターズのイエスタデイ・ワンス・モアでしょう。もう予習した?」
 母は勝ち誇ったように、親しげな口調で二人だけの話題に持ち込んだ。
「いえ、まだ」
「そうかあ、大西さんは予習なんかしなくても、あの程度の英語なら問題ないんだ」
「いや、そんなことないですよ。堀田さんこそ、学生時代は英語が得意だったんでしょう?」
 兄は退屈そうな顔でビールばかり飲んでいたが、父はまだ諦めてはいなかった。
「私たち世代は、なんといってもビートルズですよ。訳も分からず耳で覚えて歌ったもんです。ビートルズはやらないんですか?」
「ああ、イエスタデイかなんか、一曲くらい入ってたような気もします。いや、違ったかなあ」
「そうか。いや何といっても、ビートルズは入れるべきですよねえ」
「ビートルズはイギリスでしょう。アメリカンポップスじゃないわよ」
 母の言葉に、大西は居心地の悪そうな顔をした。
「大西さんは、どんなお仕事をなさってるんですか?」
 家族を冷ややかな目で見ながら傍観者を決め込むつもりだったが、大西に申し訳ないような気がして私も話し掛けていた。
「駅前の大蔵デパートあるでしょう。あそこに勤めています。火曜日が休みなもので、午後からの英語教室に通ってるんです」
 大西が初めて自分の方を向いて語りかけてくれたことが、私を少し誇らしい気分にした。
「じゃあ、今日は金曜日だから、お仕事の帰りですか?」
「いえ、今日も休みです。週休二日で、用事がない限り金曜日も休みです。といっても、なんだかんだで出勤することが多いんですが。加奈子さんは……」
「やあ、やっぱりこんな時代だから、どこも大変ですなあ」
 大西が言いかけたところで、父が口を挟んだ。
「そうですね。今は信用で物が売れる時代じゃないですから、デパートもあの手この手でやっていかないと。ところで哲哉さんでしたっけ……」
 哲哉に話を向けたのは、大西の気配りだったのかもしれない。しかしその問いかけも遮られ、今度は母が話し始めた。
「ほんと、パパもいつも帰りが遅いものね。今日は大西さんがみえるんで、早く帰ってきたのよ。丸山流通運輸、知ってる? あそこの開発部に勤めてるの」
 母は自分のことのように仕事内容を説明している。父と母が強引に話に割って入ったことで、庇われているような気になった。
 私は今年二十六歳になる。大学を卒業して三年近く働いたが、職場での人間関係がうまくいかず辞めた。両親は疲れ果てた私にとりたてて理由を正すこともせず、説教らしいことも言わなかった。半年ほど何もせず家にいたが、そのまま家の中に埋もれてしまい二度と社会に出ることができなくなるような不安を覚えた。今は週に三日、図書館で書籍整理のアルバイトをしているが、親に依存していることに変わりはない。
 食品のセールスをしている二歳年上の兄はすでに二度も転職してるし、離婚歴もある。アパートで一人暮らしをしているが、度たび家に帰ってきては母から小遣いをもらい、私にも借金を言い出す始末だ。母がこれまで何度か家へ戻るよう説得しようとしたが、戻る気はないらしい。私には兄の気持ちが解る。自分だって、もしこの家を出たならば、二度と戻りはしないだろう。ただ、出ていく場所と勇気がないだけだ。
「ああ、もうこんな時間なんですね。居心地が良いもので、すっかり長居してしまって。そろそろ失礼しなくては」
 大西が立ち上がりかけると、両親と兄は電気ショックを受けた小動物のように瞬時に反応した。
「まだいいでしょう。若いんだから」
「そうですよ。もっとゆっくりしていってくださいよ」
 父と兄は大西の方へ身体を乗り出すようにして引き留めている。
「いえ、本当にもう。明日は仕事がありますので」
「じゃあ、ちょっと待っててね。煮物やなんか詰めるから持っていってちょうだいね。大西さん一人暮らしだから」
 母に言われて、大西は浮かした腰をまた椅子に戻した。予定が狂って急に空き時間ができた時のような、しらけた空気が流れた。父と兄は何かしゃべろうとするのだが、一度ゆるんだ頭を緊張させるのに手間取っているようで、なんだか滑稽に見えた。
「今日、哲哉はどうするの? 帰るんなら、あなたの分も詰めるわよ」
 キッチンから母が大きな声を出した。少し前のにぎやかな雰囲気が、その瞬間だけ戻ってきた。
「ああ、今夜は泊まっていく。僕の分はいらないから」
 みんな、母が早く詰め終わらないかと、そのことばかり考えていた。
 家族四人が玄関に並んで大西を見送った。
「もし、大蔵デパートへいらっしゃることがありましたら、六階のフロアで呼び出してください。何かお役に立つことがあるかもしれませんから」
 大西は礼儀正しく頭を下げてから、ドアノブに手を掛けた。
 ドアが閉まったとたん、家族は仮面でも脱いだように無表情になり、無言でそれぞれの場所へと散って行った。私自身、誰かに声をかける気にもなれないほどの疲労を覚えた。

 翌朝、久しぶりで家族四人が揃って食卓に着いた。大西の訪問により共通の話題を得て、話が弾んだ。大西のことなら何でも、その発言や細かい動作までをそれぞれが再現しようとした。再現性を競うことはこの家族にとって自分の能力を表現することであり、全てが出尽くしてしまうまでお客さんについての話が飛び交う。
 私も会話に加わるものの、両親や兄ほどには熱中できない。ひとりで、今回はどちらになるだろうと想像した。家族の大西争奪戦とまではいかないけれど、それぞれからのアプローチに辟易し、大西自身の意志で足が遠のくのか。それとも、家族内で大西に対する批判的な思いが膨らんでいって気まずくなってしまうのだろうか。
 これまでも、お客さんと最も親密になった者は他の家族に対して優越感を抱いたし、自分しか知らない情報を提供することは親密さの証明だった。しかし、お客さんの方が興味の失せたおもちゃのように捨てられることもある。誰かが文句を言い始め、それが説得力を持つ場合、瞬く間に全員に伝染してしまう。お客さんの悪評は次から次へと捕捉され、イメージが塗り固められていく。
 私は、そんな客との接し方に嫌悪感を持ち、軽蔑さえ覚えてしまう。そこには個などなく、私以外の三人がまるでひとつの人格のように感情を揺れ動かしていた。
 先に食べ終えた兄が席を立った。
「じゃあ、おれアパートに帰るから」
「今日は休みなんでしょう。自分の家なんだから、もっとゆっくりしていけばいいのに」
 兄は母の言葉を無視して食卓を離れ、私にだけ判るように人差し指を上げる動作をしてから二階へ消えた。
 階段を昇って行くと、兄がいつもの人懐っこい笑顔で目の高さに両手を合わせた。
「頼む。一万円。給料日には利子つけて返すから」
 貸したお金が戻ってくるのはどのくらいの確率だろうと考えながら黙っていると、ぎゅっと閉じた目の片方を少し開けてこちらの顔色をうかがっている。一方を強く閉じているので、いかにも開きにくそうで口が大きく歪んでいる。子供じみた不器用な動作に、半ばあきれながら私は部屋から五千円札を一枚もって来た。
「お兄ちゃん、今日はこれだけしか……。今月は私も苦しいし」
 兄は鳥が獲物をかっさらうように札を手にすると、胸ポケットから取り出したタバコのセロファンの間にすべり込ませた。タバコを元に戻すと、安心したようにポケットの上から軽く叩いた。
「うん、うん。これで充分。加奈子、おまえいい嫁さんになるぞ。美人だし」
 美人という言葉を聞いて、私は更にしらけた気分になった。容姿のことでは、幼い頃から兄と比較されてきた。丸顔で大きな目をした兄は誰が見ても可愛らしい子どもだったし、動作や物言いも周囲の大人たちの微笑みを引き出した。反対に私は細面で切れ長の目をしていて動作や物言いも大人びたところがあり、周囲からは可愛げのない子どもと見られていた。「愛嬌のない子だねえ、男と女が入れ替わってれば良かったのに」という大人たちの声を聞きながら育ってきた。
 成長した現在も兄は世間でいう甘い顔立ちで、その表情や仕草も相まって他人に緊張感を抱かせない。反対に私は、黙っていると思いつめたように見えるらしく、他人に不要な緊張を強いる顔つきのようだ。
 そんな私の思いなどお構いなしに兄は階段を駆け下り、すぐに玄関ドアの閉まる音がした。家を出たら、パチンコ屋に直行するのだろう。パチンコをしない私には判らないが、あの五千円が夕方まで残っているとは思えない。兄にお金を渡しても意味がないと判っているのだが、頼まれるとつい差し出してしまう。兄の憎めない仕草は、私の気持ちを少し柔らかくした。
 しかし兄のような男性と結婚するとなれば、話は別だ。私が一時期「お姉さん」と呼んだ女性も、何度となく同じようなことを繰り返したのだろう。自分から去って行った彼女が決心を固めるまで、いろんな葛藤があったに違いない。兄も自分のことが少しは判っているようで、最後まで彼女のことを悪くは言わなかった。
 居間に行くと、母が出かける用意をしていた。
「ママ、どこか行くの?」
 母はバックの中をのぞき込んだまま答えた。
「お友達と絵画展に行く約束してるの。冷蔵庫に何かあると思うから、お昼、パパの分もお願いね。夜は、そうねえ、途中で電話するわ」
 ベランダで釣り道具をいじっていた父も、後ろ向きのままで言った。
「ああ、パパもお昼はいいよ。久しぶりで釣りにでも行ってみるか。途中で弁当、買うから。防波堤のところでイワシがあがってるらしい」
 二人がそれぞれの方向へ出かけ、家の中で一人だけになった。ぼんやりとソファーに座っていると、いろいろな思いがわいてくる。母は出かけることが決まっているのに、なぜ兄を引き留めるようなことを言ったのだろう。兄が帰ることを見越していたのだろうか。それとも、兄が家にいても自分は予定通り出かけるつもりだったのだろうか。父にしても、釣りに行くことはいつ決めたのだろう。兄が家にいたら、釣りは取りやめにしただろうか。それとも、一緒に行こうと誘っただろうか。私は、家族の誰かが一緒に出かけたり遊んだりする様を思い描くことができない。
 自分の家族が他と違っていると気づいたのは、小学校高学年の頃だったろうか。当時、仲良くしていた女の子の家で夕食をご馳走になった。私は、自分が初めて一人でお客さんになることに緊張していた。みんながお客さんとしての私に話しかけ、気を配るはずだった。ところが実際は家族それぞれが話し手であり、聞き手でもあった。家族のみんなが揃って食卓に着き、誰もがその日の出来事や、テレビ番組について楽しそうにしゃべった。そして、誰かが話せば必ず誰かが応えた。私ひとりが話の内容についていけず、黙って食事をした。
 翌日、友人は「うちって、みんなおしゃべりでしょう。お友達が来ても、みんな勝手におしゃべりばかりしてて恥ずかしい」と言った。私の家では家族全員が夕食時に揃う自体がめったにないことだったし、家族内で話が弾むというようなこともなかった。友人の家での食事風景は、ホームドラマの世界から抜け出してきたような輝かしいものだった。
 いつの頃から今のような家族になったのだろう。兄や私が幼かった頃は公団のアパートに住んでいて、母はいつも家に居た。簡単な服や袋物は母の手作りで、それらは私の自慢だった。ボタン付けも面倒がってなかなかやろうとしない今では信じられないことだ。当時から帰りの遅い父は別だったが、私たち三人は一緒に夕食を食べていた。休日にはおにぎりやサンドイッチを持って、家族でよく出かけた。近くの公園や河原で食べるのだが、私たちは父が加わっていることではしゃいでいた。
 私が小学校に入ると、母は昼間だけのアルバイトを始めた。どのような仕事をしていたのか記憶にないのだが、午後四時ごろには家に戻っていた。そのうち兄が中学に入ると、クラブ活動で帰りが遅くなり、別に夕食を取るようになった。
 私が中学校に入った年、公団のアパートを出て庭付きの一戸建てに移った。引っ越した時は本当に嬉しかった。新しい家は部屋数も多く、とても豪華で贅沢な気がした。この時は父の力に素直に感謝したし、その威力に感心もした。家族みんなが、それぞれの役割に従ってまとまっていたように思う。
 しかし引っ越してしばらくすると、母は不規則に動きまわるようになった。近所の主婦が開いている学習塾を手伝っていたこともあったし、講習に通って資格を取り、医療事務の仕事をしていたこともある。どれも長続きしないのだが、すぐに何か見つけてきては駆けまわっていた。この頃には、私たち家族はひとりひとりが別々に食事をするのが普通のことになっていた。ただ、お客さんの時だけは、家族全員が揃う。誰かが遅れて帰ってくることもあったが、とにかくみんなが同じテーブルに着いた。
 家族のことを考えていると、ますます気持ちが沈んできた。仕事を辞めてから空いた時間が増えたせいか、いろいろなことが気に掛かり、私はいつも自尊心とコンプレックスの間で揺れ動いていた。ある時は自分が協調性のない我が儘な人間に思えたし、他人より能力が劣っているような気もした。そんな思いに私の気分はますます塞ぎ込み、なぜ自分には人並みの能力が備わらなかったのだろうと、恨みがましい気持ちになった。しかしある時は、わけもなく自尊心が肥大していき、私を認めなかった全ての人びとの無能さをあざ笑ってやりたくなった。
 ふたつの感情の間を行き来すればするほど振幅が大きくなり、その落差に疲れていた。私は、何故こんなことになったのか何度も自分に問いかけた。そして、いつも行き着く先は、親の育て方に原因がある、というものだった。もっと愛情を掛けられて育っていたら、意固地になったりせず自然体で生きていけるはずだ。いつも家族が揃っていて笑いの絶えない家庭だったら、私も周囲の人たちから好かれる明るい性格になったはずだ。そう考えると納得がいって落ち着くのだが、それはどこか的外れな気もした。

 翌週、アルバイトの帰りに大蔵デパートに寄った。このデパートは家からバスで二十分ほどの私鉄駅ビルにあり、どこへ出かけるにもこの駅を利用することになる。この日は、友人の結婚祝いの下見をするつもりにしていた。今まで用事がなくてもデパートへ行き、ウインドーショッピングで時間をつぶしていたのだが、自分に対して言い訳がましい理由づけをした。
 正面入り口を通り抜けるともう冷房が入っていて、乾いた空気と一緒に香水の匂いが流れてきた。フロアは一点の陰もないような照明に照らし出されていて、大西の白いポロシャツを連想させた。エスカレーターの脇で立ち止まり、普段は見ることもないフロア案内板に目をやった。家庭雑貨は七階になっている。取り扱い商品に和・洋食器、エプロン・スリッパ・タオル、テーブルファブリックと書かれているのを確かめてから六階に目を移すと、紳士服・紳士雑貨という文字が並んでいた。大西は六階のどんな売り場にいるのだろうか。ワイシャツ、ビジネスウェア、メンズバッグなどと一緒にフォーマルやロイヤルオーダーもある。ひとつひとつを丁寧にたどっていると、悪いことでもしているような気になった。私は周囲を見まわしてからエスカレーターに乗った。
 エスカレーターは滑らかな動きで、ゆっくりと昇って行く。やっと六階の床が目の高さに来た。紳士物のスーツやネクタイが並び、全体に暗く落ち着いた感じがする。視界全体を確かめる前にフロアに着いてしまった。後続の二人連れにせかされるように、立ち止まる間もなく七階へのエスカレーターに乗った。六階はすぐに視界から消え、エスカレーターの動きが私が思っていたより早いのを知った。
 七階の売り場を歩いてみたが、これといった品物に行き当たらない。どれを選んでも儀礼的な感じがしたし、自分がもらう立場だったら嬉しいとも思えない物ばかりだ。弾んだ声で結婚を告げた友人に嫉妬しているのかもしれない、と思った。電話の声だけで友人の笑顔が想像できたし、長々と聞かされた結婚準備の様子はブライダル雑誌のグラビアページを見ているようだった。
 自分もいつかは結婚するのだろうか。結婚は身近に転がっているようでもあり、自分とは縁のない遠い世界のことのような気もする。学生時代、会社に勤めていた頃、いくつもの恋愛をした。恋愛の延長線上に結婚があると考えていたのだが、すべて結婚には至らなかった。付き合い始めはいいのだが、時間が経ち結婚を意識するようになると「この人ではない」という思いが強まっていく。すると急に相手が疎ましく感じられ、体に触れられるどころか顔を見るのも嫌になってしまう。そしてまた私は、「この人だ」と思える出会いを夢に描いて次の恋をした。
 恋愛していた頃は家を出ることばかり考えていた。構われるわけではないのだが、家族の存在そのものが鬱陶しかった。家族のそれぞれが自分の都合だけでいろいろなものを押しつけてくる気がしたし、私の思いは誰一人として受け止めてはくれなかった。会社を辞めてからのことは家族に感謝する気持ちもあるが、成り行きでそうなってしまった、というだけのことなのかもしれない。母は相変わらず外出が多いし、兄も私のわずかな収入をあてにしていまだに借金を言い出す。父の生活も何ら変わっていない。真新しい家庭用品を眺めていると、私の中でまた、家を出たい、という気持ちが強くなっていった。
 息が詰まりそうな家庭雑貨のフロアを後にした。ちょっと迷ったが、そのまま六階を通り過ぎてデパートを出た。それからはアルバイトの帰りに、大蔵デパートに寄るのが日課になった。自分には縁のない六階に行くことはないが、婦人服や化粧雑貨のフロアを目的もなく歩きまわった。

 大西が来てから何週間かが過ぎた。兄の哲哉もあれから家に帰っていないし、大西のことが話題になることもない。ある時、母に英語教室のことを訊ねてみたが、はっきりしない返事が返ってきた。
「あの教室もあと一カ月で終わりだし、大西さんもここんとこお休みなのよ。ママ、来週からスイミングに通おうかしら。近ごろ太ってきたし、ここらでどうにかしとかないとね。加奈子も何か始めたら? 時間がもったいないじゃない」
 記憶にある母はいつも何かしていた。習い事やサークルを含めると、かなりの数になる。私が大学を卒業してからは、収入の伴わないお稽古ごとや文化講座のようなものばかりになった。母にとっては今が一番よい時なのかもしれない、と思ったりする。
 母と大西が顔を合わせることもないようだし、もう大西がお客さんになることもないのだろうか。以前より他人と会う機会が少なくなった私にとって、大西の訪問は気になる出来事ではあった。
 その日もアルバイトの帰りに大蔵デパートに寄った。父も母も外で夕食を済ませると言っていたので、自分のためにパンを買った。パン売り場を出て隣のギフトサロンに目を遣った私は、とても不思議な気分になった。こちらに向かって歩いて来るのは、紺のビジネススーツを着た大西だった。こんな大西との出会いを想像する一方で、絶対にありはしないと頑なに思い込もうとしていた。
 目が合うと大西は立ち止まって、確かめるように顔を少し前に出す仕草をしてから微笑んだ。
「やあ、堀田さんじゃないですか。加奈子さんでしたよね。今日はお買い物ですか?」
 私は腕に抱えたパンの袋を揺すって見せた。
「先日はすっかりご馳走になっちゃって、ありがとうございました。あれからお母さんにお会いしてないんですが、みなさんお変わりありませんか?」
「ええ、おかげさまで」
 いつもはあまり意味のない儀礼的な挨拶を軽蔑しているのだが、すんなりと言葉が出てきた。
「えーと、今、お急ぎですか?」
「いえ、別に。家に帰っても、今日は誰もいませんし」
「だったら、美味しいものでも食べに行きませんか? この間のお礼です。今日は僕がご馳走しますよ」
「ええ、でも大西さんはお仕事中なんでしょう?」
「あーっと、あと三十分したら帰れます。申し訳ないけど、それまでどこかで時間をつぶしてもらえないかなあ。三十分後に駅の中央改札口の前とかじゃあ」
「はい、わかりました。今、六時三十五分だから、七時五分に中央改札口の前ですね」
「そう。期待しといて」
 あわただしく去って行く大西の後ろ姿は、何度も見た風景を再現映像で流しているようだった。
 私の中にろいろな感覚がよみがえってきた。男性と出会い、一緒に時を過ごすうちに膨らんでいく快感。その切れ端をつかんだような浮き立った気分になり、私はあわただしく頭をめぐらせた。
 自分の話し方はきちんとしていて、礼儀正しく素直な印象を与えただろうか。普通にしているだけで暗く見られがちだから、ちゃんと笑顔で応対できただろうか。ほんの少しの時間だったが、大西の言葉遣いが親しみあるものに変わっていったのは何を意味するのだろうか。大西はどの程度、女性としての興味を私に抱いているのだろうか。
 食事の誘いは、単なる返礼ではないはずだ。もし出会ったのが兄の哲哉だったら、大西は食事に誘ったりはしないだろう。いやひょっとしたら、「いい店を知ってます。これから飲みに行きませんか」くらいのことは言うかもしれない。しかし大西と兄が二人で飲みに行くのは不自然な感じがするし、先ほどのような誘い方にはならなかっただろう。それに、大西が男性である兄に興味を示すとも思えない。
 あれこれ考えていると、ひとりでに頬が緩んでくる。他人が、それも男性が自分に向かって動いたことが快感をもたらした。
 大西は二十分ほど遅れてやって来たが、思いをめぐらすことに忙しかった私はそれほど気にならなかった。
「ごめん、ごめん。急に用事ができちゃって。もういないかと思った。いてくれて、よかったー。さあ、行こう」
 何の説明もなしに握らされた乗車券、ずっと以前から親しかったような言葉遣い、混雑した人たちから守るように肩に軽く添えられている手。それらすべてが頼もしく思えて、私の気持ちは満たされていった。
 導かれるままにホームに上がり、入ってきた電車に乗った。車内も混んでいて、向かい合わせになると鼻がくっつきそうなくらい近くに大西のビジネススーツがあった。微妙に色の異なる縦糸と横糸が織り出す質感を、皮膚で確かめたくなる。つい触れたくなる手を拳に握り、電車が揺れる度に寄り掛かりそうになる体を必死で支えていた。
「次だよ」
 耳たぶに柔らかい息が掛かった。耳が熱い。赤く染まった耳を見つめられているようで、恥ずかしかった。
 大西に案内されたのは、入り組んだ路地奥の古い建物だった。看板もなく、知らない人が見たら倉庫か何かだと思うだろう。低めのカウンターに座ると、薄暗い証明の下で父や母と同年輩と思える店主が声を掛けた。
「いらっしゃい。今日はスズキが入ったから、魚料理は香草焼きです。大西さん、お好きでしたよね。飲み物はいつもの通りビールですか? それとも……」
 大西が私の顔をのぞき込むように見たので、あわてて答えた。
「私もビール、お願いします」
 言い終わると同時に小振りのグラスが置かれ、ビールの栓を抜く音が気持ちよく響いた。私は祝福されているような気分になり、泡立つグラスを目の高さに上げた。
「今日の再会に、乾杯!」
 大西が微笑みながらグラスを合わせた。私も微笑み返し、「乾杯」と言ってからグラスに口を付けた。
「イワシのマリネと季節の野菜です」
 店主は美しく盛り付けられた皿を置き、大西と話し込んでいる。私はゆっくり食べながら、店内を見まわした。カウンターの他に大小二つのテーブル席があるだけで、一切の装飾を拒否したような簡素な造りだ。グラスなどの食器類はすべて客の目からは見えない場所に収納されていて、カウンターの上もすっきりしている。直線ばかりで冷たくなりがちな店内を、カウンターやテーブルに使われている重厚な天然木と抑えた照明が暖かく見せている。
「では、近いうちに見本を持ってうかがいますので、都合の良い日を連絡してください」
 大西が頭を下げると、店主は持ち場に戻って行った。
「やあ、ごめん、ごめん。つい話し込んじゃって」
 大西は嬉しそうに説明した。
「オーナーには先週もうちでスーツ仕立ててもらったし、冠婚葬祭のお返しとかお中元、お歳暮もいつも利用してもらってるお得意さんなんだ」
 デパートとはこちらから出向いて、その売り場にいる見知らぬ店員から購入するものと思っている私は意外な気がした。
 私は二皿目を箸でつまみながら訊いた。
「ここって、何料理のお店なんですか?」
「うん、ベースはイタリアとかスペイン料理なんだけど、ベトナムとかメキシコとかいろんな要素が入ってるオーナーのオリジナル料理ってとこかなあ。メニューはなしで、その日の仕入れと気分で決まるコースだけ。箸で食べるってのも、気取ってなくていいよね」
 そう言われれば注文もしないのに料理が出てきたし、周囲の客も進み具合はまちまちだが同じものを食べている。
 大西は仕事の話を終えた開放感からか、豪快に食べ始めた。食べながらよく飲み、よくしゃべった。料理が出される度にオーナーに声を掛けたし、顔見知りなのか他の客にも当たり障りのない挨拶をしている。瞬く間に皿を空にする大西のペースに合わせようと、私は聞き役に徹しながら味わう余裕もなく食べ続けた。立ち食いそばのお店でコース料理を食べている気分だった。
 食後のエスプレッソを口に含むと、こもっていたオリーブオイルが洗い流されていくようでやっとひと息ついた。
「どう、満足した?」
 訊ねる大西に、私はにこやかに答えた。
「ええ、とても美味しかったです。素材の生かし方がバラエティーに富んでて、味を想像しながら口に入れるんですけど、私の想像とひと味ちがうんですよね」
 ほとんど何が何だか判らないまま食べ続けた料理だったが、雑誌の特集で読んだような文句がすんなり出てきた。
「気に入ってもらえたみたいで、よかった。また誘ってもいいかな」
 自分の力でたぐり寄せた成果に満足して答えようとした時、大西が付け加えた。
「あっ、加奈ちゃんの場合はお母さんに許可もらわないといけないんだ。お母さんじゃなくて、お父さんかなあ。ひょっとして、お兄さんもだったりして」
 家族のことを言われ、急に現実に引き戻されたようで嫌な気分になった。加奈ちゃんという呼び掛けも、軽くあしらわれているようで不愉快だった。
「そんなこと、ありません。私、自分のことは自分で決めます。この年になってまで、いちいち親に報告したりしません。今までだって、そうだったし」
 私より高い位置にある大西の目が、真っ直ぐ私を見ている。その時、大西が首を傾げて楽しそうに笑った。私には、可愛くてたまらない、と言っているように見えた。先ほどは子どもっぽく見られることが不満だったのに、大西の笑顔は私を幸福な気分にした。
「じゃあ、今、付き合ってる人のことも家族に話したりしないんだ」
「付き合ってる人なんて、いません。それに、いたとしても家族になんか絶対に話したりしません。うちって、そうなんです」
 大西は正面を向いて残りのエスプレッソを飲み干し、私の方へ向き直って言った。
「それなら、僕と付き合ってみない?」
 心臓が強く縮こまり、すぐに目一杯ふくらんだようで、頬も首の辺りも熱くなった。何度くり返しても、この瞬間は緊張する。付き合っている男性と初めてベッドに入る時よりも、私は動揺してしまう。そして、私はこの瞬間が一番、好きだ。ただ一人の女性として恋愛の対象に選ばれた満足感が、私を高揚させるのだろう。しかも相手が言い出した以上、決定権はこちら側にあるのだ。私はそんな思いを包み隠し、ちょっと困ったような顔で言った。
「私なんかで、いいんですか?」
「もちろん」
 私は消え入りそうな声で「ええ」とつぶやいた。
 その日は携帯の連絡先を交換して、大蔵デパート前のバス乗り場で別れた。一人になると、大西との出会いが空想の中の出来事のように現実感がない。それなのに私の気持ちは弾んでいて、見慣れた街の風景がいつもと違って見える。私の中に力がこみ上げてきて、仕事を辞めてからの劣等感を吹き飛ばした。付き合っている男性がいるということが、私を晴れて世間一般の仲間入りを果たしたような気にさせた。
 バスを降りて、久しぶりで深夜の空気を胸一杯に吸い込んだ。会社勤めをしていた頃は残業や付き合いで遅くなることも多かったが、辞めてからはこんな時間に出歩くこともなくなっていた。静かな住宅街を歩いていると、どの家にも幸福な人たちが住んでいるような気がしてきた。他人には些細な事柄でも当人にとっては喜びになるような出来事に出会いながら、毎日を精一杯、生きているのだと思えてくる。
 家ではワイシャツの腕をまくってお茶漬けを食べている父の横で、母が柔軟体操をしていた。私は自分の幸福を少し分けてやりたい気分になって話し掛けた。
「パパ、お茶漬け美味しい?」
「ああ、加奈子も食べるんなら、飯はまだあるぞ」
 母が、床に足を投げ出して勢いよく上体を曲げながら言った。
「パパも今、帰ってきたところよ。ちょっと違ってたら、加奈子と同じバスだったのにね」
 その言葉を聞いて、私は自分の幸運を喜んだ。ちょっと違っていたら、大西と一緒のところを父に見られたかもしれない。これから大西と逢うときは気を付けなければ、と自分に言い聞かせた。
 父と母は学生の時に出会って恋愛し、卒業後一年して結婚した。そのためか、自分たちの子どもも恋愛して自力で結婚相手をみつけてくると思っているようだ。しかし考え方には古風なところがあって、肉体関係を持った相手とはそのままゴールインするのが理想だと思っている。兄に対しては比較的、柔軟に考えているようなのだが、女の私に対してはそれとなくプレッシャーをかけてくる。
 私は母に当たり障りのないボーイフレンドの話はしても、今までに関係した男性の数なんか絶対に言えない。今まで付き合った男性とはほとんど関係を持ったし、このまま付き合いを続けていけば大西ともそうなるという予感があった。

 大西とは週に一、二度、アルバイトの帰りに時間を調整して一緒に食事をするようになった。私がどこかで時間をつぶしてから逢うこともあったし、大西が食事の後でまた仕事に戻ることもあった。
 私は家族に対して細心の注意を払った。訊かれもしないのに学生時代の友人から悩みを打ち明けられていると説明したし、大西と一緒の時は家族の目に触れるような場所は避けた。知られないための細工をする度に、私の心に密かな喜びがわいた。大西と私だけが共有する秘密を持つことで、より強く結ばれていることを実感した。
 メールの遣り取りも大西との距離を急速に埋めていき、私の言葉遣いも親しいものに変わっていった。メールは多いときで日に二、三通あり、一通も来ない日もあったが、私はいつも携帯が震え始めるのを待っていた。朝、「おはよう。今日も暑いネ。」と入っているだけで、一日を浮き立った気分で過ごすことができた。夜に「まだ仕事中。疲れたー!」と入っていれば、すぐに「ご苦労様。無理しないで。」と返信した。その時どきに私は大西の様子を思い浮かべ、彼を独占しているような気になった。
 お盆も過ぎたある日、朝食を食べているとポケットの中の携帯が震えだした。居間で新聞を読んでいる母に気づかれないように、テーブルの下で着信ボタンを押した。
「今日、ヒマ? 出かけない?」
 急いで言葉を作った。
「うん、ヒマ。どこ行くの?」
 送信を終えるとあわてて残りのパンとコーヒーを口に詰め込み、流しで食器を洗った。
 お皿を拭いていると、また携帯が震えだした。
「どこ行きたい?」
 急いで二階に駆け上がり、部屋に入って返事を送った。何度かの遣り取りの後、大西の車で海を見に行くことになった。いつも街中で逢っていたので、初めてのドライブが新しい何かをもたらすような期待を抱かせた。
 私はシャワーで汗を流し、念入りに髪を洗った。下着も新しいものに取り替え、買ったばかりのワンピースを着た。母が電話で長話をしているので、「お友達と遊びに行きます。夕食はいりません。加奈子」と書いたメモを置いて家を出た。
 バスで駅とは反対方向に2つ行った公園の脇で、私は大西のセリカに乗り込んだ。いかにも女の子ウケしそうな車の助手席に座ると、優越感みたいなものを感じた。
「カッコいい車ね」
「うん。仕事の時はほとんど会社の車を使うからなくてもいいんだけど、うちのお客さんが中古を譲ってくれたから」
「でも、まだ新しいみたい」
「その客ってのが、金持ちの車道楽。ちょっと乗っただけで飽きたからって、安くしてくれた。気まぐれで買ったみたいで、その人にとっちゃセリカなんか車のうちに入んないんじゃないの」
 大西のしゃべりは力無く、投げやりな感じがする。休日だから気を抜いているのだろうと思い、会話が進まないまま車は走り続けた。それでも海が見える所に出ると、私たちは歓声を上げた。道は海岸線に沿って続いていて、横を向くと視界いっぱいに青い海と空が広がっている。私は窓を開けて深呼吸した。
「潮の香りがする。水着を持ってくればよかった」
「誰も来ないような所を探して、裸で泳げばいいじゃない。僕も付き合うよ」
「まさか」
 私は笑いながら、大西の頭の中をのぞいてみたいと思った。そこに作られているイメージをビデオテープで再生するように見ることができたら、どんな映像が流れるのだろう。自分の肉体が大西の興味を惹き付けていると思うことは、私に快感をもたらした。
 私たちは見晴らしの利く場所に車を止め、途中で買ったトウモロコシとソーセージを食べてコーラを飲んだ。ウイークデイのためか、お盆を過ぎた海は人気がなく高い波が打ち寄せていた。
「あー、腹いっぱいで眠くなったなあ」
「お昼寝したら? 居眠り運転されたら怖いもの」
 大西は木陰に車を移し、窓を開けてエンジンを切るとシートを倒した。後部座席のパンフレットを取って顔の上に広げ、そのまま眠ってしまったようだ。
 窓から気持ちの良い風が入り、波の音がしている。大西を見ると、肩から上がすっぽりカタログで覆われている。お中元商品のカタログなのだろう、「大切な方へ今年も心を込めて」と書かれていて、そうめんや缶ビールの写真が並んでいる。大西がお中元販売機になったようで、奇妙な感じだった。
 私は無防備な大西の顔を、飽きるまで眺めてみたくなった。最初にお客さんとして我が家に来た時、私は大西の顔ばかり見ていた。あの時の印象をひとつひとつ拾い集めるように、思い浮かべた。この薄い紙の下にあの顔がある、と思うとカタログを取り除きたくなる。しかし、私にそんな勇気はなかった。
 顔のない大西を見ていても仕方がないので、シートを倒して目を閉じた。
 人の気配で目が覚めた。日差しが少し弱くなっている。口の中が乾いていて、唾液が干からびたような違和感がある。ぼんやりしていると、視界が大西の顔で塞がれたので反射的に目を閉じた。ひんやりとした唇が押しつけられたが、口の中が粘ついていたので堅く口を閉ざしていた。大西の唇と舌はやわやわと口の周りを這いまわり、少しずつ湿り気を引き出していく。久しぶりの粘膜の感触は、私を懐かしい場所に戻ってきたような気にさせた。手を伸ばせば簡単に触れることのできる皮膚は、獣でいえば硬い毛に覆われた皮だ。しかし粘膜は違う。滑るようになめらかで、濡れていて熱い。
 大西の手が脇を伝って、胸の位置で止まった。服を通して、大西の指の動きが手に取るように判る。求められているという思いに、私は体が震えるほどの興奮を感じた。
 しかし大西が熱中すればするほど私に掛かる荷重が増え、苦しくなってきた。体の位置を少しずらしたいのだが、シートにすっぽりとはまり込んでいる私の体は大西につかまれて微動だにしない。大西の体を少し押し戻してみようか、それとも苦しそうな声を出そうかと思うのだが、薄目を開けてその表情を見るとためらってしまう。なんとか我慢していると、やっと大西の体が離れた。彼も不自然な姿勢で、無理をしていたのだろう。私が急いでシートを戻したので、ちょっと驚いたようだった。
「嫌だった?」
 訊かれたので、私は相手を傷つけないような答えを探した。
「ううん、そんなことない。ただ、ちょっとびっくりしただけ」
 大西は私の顎をつまんで笑いかけ、軽くキスしてから車を出した。来た道を戻る途中で車はホテルに入ったが、私はおとなしくしていた。ひと言もしゃべらず思い詰めたように前ばかり見つめている大西は、ただひとつの私という目標に向かって行動していた。
 それから私たちは、会うとすぐにホテルへ直行するようになった。部屋に入ると、決められた手順を消化するように服を脱いでベッドに入った。ホテルを出る頃にやっと言葉を交わすようになり、レストランや喫茶店に行っておしゃべりをした。時には大西の仕事が忙しく、ホテルから職場へ戻ることもあった。そんな時でも、私のために時間を作って来てくれたと思うと嬉しかった。
 しかし私の快感は、大西と海を見に行った日が頂点だったと思う。大西の欲求が次つぎと具体的になるにつれて、私の期待と満足感も膨らんでいった。大西が求めている次の行為を想像しただけで、私は眩暈を覚えるほどの快感の中にいた。あの日ホテルを出るとき私は、もうこれより先はないのだ、という虚しさみたいなものを感じ、最後まで残しておいた美味しい食べ物にとうとう手を付けてしまったような気になった。大西と逢ってもそれなりの喜びはあるのだが、もう以前のような強い心の動きはなくなってしまった。

 日曜の朝、目が覚めると十時近かった。階下へ行く気にはなれずベッドに腰掛けて雑誌をめくっていると、玄関に誰か来たようだった。母の「どうも、ご苦労様」という愛想の良い大声が聞こえた。宅配便が届いたのだろう。お中元の時期はとっくに過ぎているし、普段はあまりないことなので見に行った。
 居間では父と母が大きな箱を前に騒いでいる。私の顔を見るなり、母が勢いよくしゃべり始めた。
「ねえ加奈子、これ、哲哉宛ての荷物なんだけど、品名が紳士服ってなってて、なんと、差出人が大蔵デパート内、大西ってなってる。なんだろうねえ。デパートで服でも買ったのかしら」
 父もいつもより興奮しているように見える。
「そりゃあ、そうだろう。でなきゃ、そんなものが哲哉に届くわけないだろう。おい加奈子、何か聞いてないか?」
「お兄ちゃん、何も言ってなかったけど」
 平静を装って答えたが、私は二人とは桁外れに動揺していた。一昨日の金曜日は昼過ぎに大西と逢い、ホテルへ行った。ホテルを出てからしばらく喫茶店で過ごし、客との約束があるというので別れたのだ。その時は兄のことなど、ひと言も話さなかった。大西の陰険さを垣間見たような気もしたが、言い忘れただけかもしれないとも思う。
 私の思いなどと関係なく、父と母の興奮は続いているようだ。
「どんなのが入ってるか、開けてみようか」
 包装紙に手を掛けた母を、父が止めた。
「だめだよ。哲哉宛ての物なんだから、勝手に開けたりしない方がいいんじゃないか」
「お兄ちゃんに電話してみたら?」
 二人とも落ち着かない様子なので提案すると、母が嬉しそうに受話器を取った。
 電話を終えて報告する母は、なんだか誇らしげに見えた。
「今、こっちに向かってるんだって。それでね、哲哉ったら荷物のこと聞いても、後でって言うだけで、何も教えてくれないのよ」
 当事者の兄がいなければ話にならないとでもいうように、父はソファーに座って新聞を読み始めた。母はテレビをつけ、また柔軟体操をやっている。私も親を相手に話すことも思いつかないので、朝食を取るためにキッチンへ行った。
 間もなく兄がやって来た。
「今日の午前中にこっちに届けてくれるように頼んどいたんだけど、もう来てたのかあ。いやあ、大西さん、おれの会社の方に持ってきてくれるって言ったんだけど、無理いってこっちに送ってもらったんだ。びっくりした?」
 しゃべっている兄の横で、待ちかねた母が力任せに包装を解いてスーツを取り出した。
「これ、哲哉のなの? ちょっと羽織って見せてよ」
 兄は母が差し出した上着に腕を通し、自分の手柄でも披露するように一回転して見せた。まだ日中は汗ばむ季節なのに、ウールの上着を脱ごうともせず上機嫌だ。
「大西さんに世話してもらって買ったんだ。これ、生地は英国製でそこいらのスーツとはちょっと違うんだから」
「うん。手触りからして違うじゃない」
 母は襟の辺りを撫で回している。
「だろう。このくらいのグレードだと、軽く十万は超すらしいよ。それをね、デパートが生地だけ大量に買い込んで、中国とかで仕立てるんだって。他ではやってない特別の企画商品とか言ってた。大西さんも、この企画に加わったんじゃないかなあ」
「へえーっ。パパなんか結婚してからこっち、デパートでスーツ作ったことなんてないなあ」
 父の口調は羨ましそうだ。
「うん。おれだって買う気なかったんだけどね。たまたま大蔵デパート行ったから、大西さん呼び出してみたんだ。話してるうちに、スーツの掘り出し物がありますって言うんだよ。別の場所に保管してあるからって、次の日にわざわざうちの会社まで持ってきてくれたんだ。何着かあって、合わせてみたら、これがピッタリ。ズボンだけは縮めてもらったけど。ね、オーダーしたみたいだろう」
 父も母も兄の姿を見てうなずいている。
「それでいったい、いくらしたの?」
 母が訊ねると、兄はますます嬉しそうな顔をした。
「ふっふっふっ。一万円。一万ポッキリ」
「えーっ、嘘みたい」
 母がはしゃいだ声を上げ、父も「そりゃすごい」とか言っている。
「ねっ、ほんとうに嘘みたいだろ。英国製のスーツが一万円だよ。うちの会社の連中も二人、ちょうど合うのがあったから買ったんだ。知り合いがいるってのは、こうも違うもんかと思ったよ」
 私はだんだん苛立ってきた。
「英国製のスーツじゃないでしょう。生地だけは英国から来たんだろうけど、結局は中国製のスーツなんじゃない」
 三人のお目出度さにあきれながら言ってみたが、私の言葉など無視して盛り上がっている。
「今度、パパも行ってみるといい」
 兄のアドバイスに、父もその気になっているようだ。
「女物は、そんなのないのかしら」
 母は自分の出る幕がないのが残念そうだ。
「聞いてみたらいい。大西さんって一応は紳士服の担当らしいけど、外商でまわることも多いみたいで、お客さんから頼まれれば何でも扱うらしいよ。それでね、いつも六階にいるわけじゃないみたいだよ。でも、六階で聞いたら連絡が取れるって言ってた。会社の連中も感心してたけど、ほんと、大西さんってセールスマンの鏡みたいな人だよ。おれも見習わなくっちゃ」
 兄はこの家で一番の大西通を自負しているようで、会った時の様子まで事細かに説明している。父と母は時どき口を挟みながら熱心に聞いている。
 私はますます苛立ってきた。大西の最も近くにいるのは兄ではなく私なのだ、と言いたかった。しかも安い服を世話してもらうなんて関係じゃない。この私は一昨日も、大西と裸で抱き合ったのだ。大西が私の体をどのように扱ったのか、微に入り細に入り話して聞かせたかった。もちろん、そんなことできるはずもないのだが。
 私は家族に大西との関係を隠し続けたし、大西との間でも家族の話題は出さなかった。二人で居る時の話題は大西が提供する側で、私は聞き役がほとんどだった。
 八歳年上のビジネスマンは恋愛相手として手強い存在であり、私はそのことでも気を配っていた。恋をすると、家族のことやその日の出来事を一方的に話し続ける女の子がいる。そんな自覚のなさを私は軽蔑していたし、そのような緊張を欠いた関係が真の恋愛とも思えなかった。
 しかし気配りしているにもかかわらず、私は以前のように浮き立った気分にはなれなかった。時どき私は大西と付き合い始めた頃を思い返した。大西のことを考えただけで心が温かくなったし、街並みも人も輝いて見えた。確かに私は恋をしていた。しかし、今はどうなのだろう。私は恋愛とは何かが解らなくなってきた。

 大西との関係は相変わらずだったが、仕事の愚痴を聞かされることが多くなった。そして、愚痴を言えば言うほど大西は不機嫌になっていった。恋愛というものに対して男性主導のイメージしか抱くことのできない私は、どうすればよいのか判らなかった。
 秋風が立ち始める頃、私は二十六歳になった。誕生日の三日前、大西は私をフランス料理のレストランへ連れて行った。
「誕生日おめでとう。少し早いけど、今日は二人でお祝いしよう」
 ワイングラスを持ち上げて大西が言った時、誕生日を覚えていてくれたことが単純に嬉しかった。素直な気持ちで乾杯しワインを口に含むと、かすかな酸味と甘い香りが広がった。
「プレゼントをあげなきゃね」
 ワイングラスを置いた大西が、上着の内ポケットに手を入れて探っている。私は期待しながら手の動きに見入っていた。
 大西が取り出したのは、小振りの長方形をした包みだった。一目で指輪ではないと判った。それが不満なような、それでいてどこか安堵したような気分だった。
「何かしら。開けてもいい?」
 いつものように無邪気を装った。
 同意を得て包みを開くと、ブランド物のキーホルダーが出てきた。目立ちすぎるほどのブランドマークが入ったキーホルダーは、醜悪にさえ見えた。
「あら、素敵。こんなの欲しかったの」
 思いとは裏腹に、都合のよい言葉が出てきた。
「気に入ってもらえて、よかった。さあ、食べよう」
 大西はいつもの旺盛な食欲を発揮していたが、私は自分のペースでゆっくり食べた。誕生日に行うべきことは全て終了したように大西はまた仕事の話を始め、ひとりでしゃべり続けている。今夜は、最初に私を連れて行った店のオーナーの話から始まった。納品のことでトラブルがあり、出入り禁止になったようだった。
「ほんと、団塊の世代って扱いにくいからなあ。頑固だし、世の中の正義を自分ひとりで背負って立ってると思い込んでる。親にもらった財産があるもんで、あの店なんか趣味でやってるようなもんだろうが。そのくせスパイスがどうの火の通り加減がどうのに始まって、インテリアにまで専門家みたいな屁理屈ばっかこねまわして。お前はそんなに偉いのかよって言ってやりたくなるよ」
「言えたらいいのにね。ほんと、お仕事って大変ね」
 時どき相づちを打つように言葉を挟むと、私も同じように感じていると思うらしい。大西の愚痴や文句は延々と続いた。
 話は私の知識とは関係なく一方的に展開されるので、最初はほとんど内容が解らなかった。ただ感情だけは伝わってくるので、適当に当たり障りのない言葉を並べていた。しかし、点と点が線で結ばれるように、次第に私はいろいろな事柄を理解していった。
 大西は私の想像をはるかに超える数の顧客を持っているようだった。その客たちの間を行き来することで、給料の他に副収入を得てることも判ってきた。
 衣料品の返品や売れ残った物は、バーゲン品として値引き販売されることもある。返品するには規定があるのだが、相手がお得意さんだと以後のことを考えてデパート側も強く拒否できないため、再び商品として扱えない物も出てくる。バーゲン品としてさばくのも、デパートの信用を損ないかねないため、どの品でもというわけにはいかない。それにもしバーゲンに出したとしても、更に売れ残る物もある。だからかなりの品物が処分品として片づけられるのだが、大西はそれらを個人的に売りさばいていた。
「そんなことがデパート側に知れたら、よくないんじゃない?」
 私は不安になって訊いてみた。
「いや、心配ない、心配ない。客には、ちょっとワケありなんで何かあったら直接、僕の方にって言ってるから。客の方も得してるんだし、そのくらい心得てるよ。それに、客の商売にもいろいろ貢献してるし。何でもありのご用聞きみたいなもんさ」
 私は兄が一万円で買ったスーツを前に、家族がはしゃいでいた光景を思い浮かべた。私はしだいに、大西の無神経さが我慢できなくなってきた。
「じゃあ、兄とその職場の人たちのスーツ代も、大西さんのお小遣いになったのね」
 大西は一瞬、表情を硬くしたが、すぐに元の顔に戻った。
「ああ、そういうこともあったなあ。あれ、いいスーツだったろう。絶対、得だよ。あんな値段じゃ手に入らない。お互い得したってこと」
 大西の言っていることは正しいのかも知れないが、私は感覚的にどうしても受け入れることができなかった。
「なんだよ、怖い顔して。付き合ってる人の家族にはタダで物を配れっての? だいたい、そうやって稼いだ金でホテル行ったり、飯食ったりしてるんだよ。加奈だって、その金のおかげでいい思いしてんだから。ねえ、もうこんな話よそうよ。せっかくの誕生日なんだから、楽しく過ごせばいいじゃないか。そのためにわざわざこんな店、来てんだから」
 その時の私は、罰を受けているような気になった。あれほど気分を浮き立たせ、受け入れ続けてきた末に行き着いたところがここなのだろうか。この状況も、私は受け入れなければならないのだろうか。
 私の気持ちは硬くなったまま、食事だけが進んでいく。
「僕が悪いんなら謝るから、いい加減で機嫌なおせよ。飯が不味くなるだろう」
 私はとっくに味など感じなくなっていた。大西の言葉も私には理解できなかった。「悪いんなら謝る」ということは、自分は悪くないと思っているのだろう。それなのに謝るとは、どういうことなのだろう。ご飯を美味しく食べるためだけに、この人は謝ることができるのだろうか。
「ほらあ、機嫌なおせって。ただでさえキツイ顔してんだから、二人でいる時ぐらい愛想よくしてろよ」
 顔のことを言われて、一気に血液が頭に上った。手に持っているナイフとフォークを大西の顔めがけて投げつけてやりたかったし、とんでもない侮蔑の言葉を吐きかけたかった。
 しかし、私は震える手で食べ続けた。どういうふうに怒りを伝えればいいのか、知らなかったのだ。
「まあ、そのキツイ顔が、僕は好きなんだけどね」
 薄笑いを浮かべながら大西が言った。大西の好みというだけで侮辱されているような気になり、私はますます自分の顔立ちが嫌いになった。
 食事が終わり席を立つ時に、私はバッグから財布を取りだした。
「自分の分は自分で払います」
「いい加減にしろ。他人の好意を何だと思ってんだ。恥をかかせる気か」
 別人かと思うような形相で大西は言い捨て、勘定書をわしづかみにしてレジへ行った。
 大西の顔は、今までと違った印象で私の記憶に焼き付いた。細く骨張った鼻梁は安っぽく、心の狭小さや陰湿さを物語っているようで不快だった。細身でバネがありそうな体つきや身のこなしも、計算高い狡猾さが透けて見えるようだった。
 店の前で気まずく別れた。家に帰りながら、私は自分の身体が自分のものでないような気がしていた。何度となく、私は大西と関係を持った。その度に私の体内へ、精液と一緒に汚れのようなものまで注ぎ込まれたようだった。その汚れは澱のように、私の身体の奥深くに積もっている。
 私は、自分が汚れていると感じた。これまで複数の男性と関係を持ったが、こんな感覚は初めてだった。以前は関係を持つ前と後で、私の中で何かが増えたとか減ったとか実感したことはない。そこには確かに、行為がもたらす親近感や、皮膚の感触を通して得られる安心感があった。しかしそれらは、私を根底から変えてしまうようなものではなかった。
 大西との場合は、どこかが違っていた。こんな結果が少しでも予測できたとしたら、私はあの時、ホテルへ行かなかっただろう。強い後悔が私を襲った。
 家に戻って丁寧にシャワーを浴びたが、私の中の汚れが取れることはなかった。

 土曜日の朝、私はベッドに入ったままぼんやりしていた。大西と別れてから何をする気力も失せ、気分が塞いでいた。
 階下で物音がして、兄の元気な声が聞こえてきた。
「おーい、加奈子。まだ寝てんのかー。いい加減で起きてこーい。今日はお前の誕生日だろうが。にいちゃん、ケーキ持って来たぞー」
 思いがけない兄の言葉に、胸が詰まって返事ができなかった。
 兄は足音を響かせながら階段を上り、私の部屋のドアを開けた。
「ほら、加奈子、起きて来いよ。みんなでケーキ食べよう。お前にはいつも迷惑かけてるから、このくらいしとかないとバチ当たるもんなあ。このくらいじゃ、足りないか」
 気持ちがくじけていた私はわけも判らず目が潤んできたので、うつ伏せのままで返事もしなかった。
「待ってるから、降りて来いよ」
 着替えて階下へ行くと、テーブルの真ん中にデコレーションケーキが乗っていて、母が紅茶をいれていた。
「どこかにロウソクなかったかなあ」
 父が言うと、兄はそこまで思いつかなかったことを悔しがった。この年で家族を前にロウソクを吹き消すのも気恥ずかしい。私は気の利かない兄に少し感謝した。
 家族四人でケーキを食べて紅茶を飲んでいると、くつろいだ気分になった。
「それにしても、哲哉、お前よく加奈子の誕生日おぼえてたなあ」
「ほんと、でも突然くるんだもの。先に電話でもしといてくれれば、何か用意したのに」
 父と母も楽しそうだった。
「今日はね、びっくりさせようと思って。土曜日のこの時間なら、たいていみんな家に居るだろう」
 兄は口の周りに純白のクリームを付けたまましゃべっている。
「ほら、哲哉、口ふきなさいよ。もう、いつまでたっても、そんなとこは子どもの頃のまんまなんだから」
 母が笑いながら、ティッシュペーパーの箱を差し出した。兄は丁寧にクリームをぬぐい取り、ちょっと改まった顔をした。
「おれのことでも、ちょっとね。わざわざ言うほどのことじゃないんだけど、今度、営業主任ってのになってね。別にだからどうっていうこともないんだけど、今の会社でやっていく自信がついたっていうか、とにかくそういうこと。みんなに言っといたほうがいいと思って」
 母は興奮気味に、給料は上がるのかとか、仕事内容はどうなるのかなど訊いている。父は黙っていたが、うつむき加減の目が赤くなっていた。私には、父の気持ちが自分のことのようによく解った。
「哲哉、この前スーツ作っといて、丁度よかったじゃない。これからは服装ももうちょっとちゃんとしなくちゃ。また大西さんところに行ってみたら? そうだ、パパもちょっとはおしゃれした方がいいわよ。今度、一緒に行ってみようか。加奈子も行こう」
 何も知らない母が可愛らしく見えた。
「大西さんとこはデパートなんだから、そんな掘り出し物みたいなのばかり頼んだら、迷惑なんじゃないの?」
 私は何とかして、家族を大西に近づけないように頭を働かせた。
「別に掘り出し物を頼みたいわけじゃないわよ。みんなでデパートに買い物に行こうって言ってるだけじゃない。大西さんともあのままだし、ちょっと顔見に行くのもいいじゃない。そしたらまた、うちに遊びに来るようになるかもしれないしね」
 母は本気らしい。父も嬉しそうに笑っている。私は焦ってきた。
「この年で家族四人でデパート行くの? なんか気持ち悪くない? それに大西さんって、何か得体の知れないようなところない? ママもあれから会ってないんでしょう。どんな人かも判らないし、あんまり近づかない方がいいんじゃないかなあ。そんな気がする」
 黙っていた父が口を開いた。
「加奈子、どうしたんだ。ママとも話してたんだが、仕事を辞めてからずっと、お前へんだぞ。特に近ごろは、どうかしてるんじゃないのか? 二人とももう立派な大人なんだから、親がとやかく言うのもと思って黙ってた。でもなあ、そんな気がするというだけで他人のことを決めつけるのは、してはならないことだろう」
 私の中に、気づいてくれていたという嬉しさと、否定された悔しさが同時にわいた。
 このまま引き下がるわけにはいかなかった。私は、以前、興味の失せたおもちゃのように捨てられたお客さんを引き合いに出して反論したが、父は顔色ひとつ変えず冷静に応えた。
「ああ、あの人か。お前たちには黙っていたが、ある時パパの会社に来て仕事上の便宜をはかってほしいと頼まれた。それも、かなり非常識な条件を一方的に押しつけられそうになった。単なる取引というだけならいいんだが、プライベートな付き合いをそういうふうに利用するのは、パパは嫌いだ。それに、うちに来た時だって始めの頃はよかったが、慣れてくるとかなりのマナー違反をやってただろう。お前たちも、それは知っているはずだ」
「じゃあ、大西さんとはどうなのよ。プライベートな付き合いのはずが、こっちが掘り出し物をまわしてもらって得しようとしてるじゃない。そんな付き合い方って、間違ってるんじゃないの?」
「それは違うだろう。ママも哲哉も、得することだけが目的で大西さんに近づいてるんじゃないだろう。その点に関して、パパはみんなを信じてる」
 私は返す言葉がなかった。
「ババってね、学生時代は理論闘争に強かったのよ。話すことに説得力があってね、サークルの中でもやり合っては論破してた」
 母は熱っぽい目で父を見つめた。
「しかし加奈子も言い出したら引かないからなあ。お前、パパに似たんじゃないか?」
 兄が言うと、緊張が緩んでみんなが笑った。私も笑いながら、大西に違和感を抱いた理由が判ったような気がした。きっと、この家に生まれて、この家族の中で育ってきたからなのだろう。

 私は、家族を守るために自分が動くべきだと考えていた。自分の家族が大西に利用されるのは、我慢できなかった。
 決心した私はアルバイトの帰りに、大西にメールを打った。
「今日、会える?」
 十分ほどして、ショルダーバッグのなかで携帯が震える鈍い音がした。
「7時30分なら」
「7時30分に駅裏の喫茶店で」
 すぐに返信した。今まで何度も大西と行った店だからすぐに判るだろうし、あまり緊張せずに話ができるだろう。「OK」という返信を受け取ってから、本屋で時間をつぶした。
 五分前に喫茶店に着き、窓際に座るとミルクティーを注文した。待っている間、今まで何度も頭の中で繰り返した科白を、順序立ててまた思い浮かべた。大西を前にしてちゃんと話すことができるだろうかと不安になったが、自分に言い聞かせた。
「私は父の子どもだ。父のように、興奮せず相手の話はきちんと聞いて理解しよう。その上で、自分の主張を最後まで曲げなければ、きっと大丈夫だ」
 七時四十分になった。窓の外を見ていると、横断歩道を渡ってこちらに向かっている大西が見えた。急ぐ様子もなく、普通に歩いている。もうすぐ右に曲がると、ここからは死角になって見えなくなる。それから十歩以内で、この店のドアの前に立つはずだ。私はドアの色とデザインを思い浮かべた。ドアが開いて大西が入ってくる頃だと思った時、大西の顔が見えた。操り人形を動かしているような気になって、気持ちに余裕が出てきた。
「やあ、待った?」
「ううん、そんなでもない」
 いつも通りの遣り取りだった。
「これから、どうしたい?」
 大西はコーヒーを注文すると、これもまたいつも通りの質問をした。ここで「まかせる」と答えればホテルへ直行で、その後で食事になる。ほとんどがそのパターンなのだが、たまに「お腹が空いてるの」と言えば食事が先になる。いずれにしろ、私はこの二つ以外の返事をしたことがない。
「ここで、話しましょう」
 今日の私の答えに大西は面食らったようだったが、椅子に座り直して正面から私を見つめた。
「なんか特別な話でもあるの?」
「別に、そういうわけじゃないけど。いつもだって、二人で話してるじゃない。今日は何の話をしようかなあ。そうだ、大西さん、英語教室どうなった? 母はもう行ってないみたいだけど」
「ああ、あれはもう終わった。途中から僕は行かなくなっちゃったけどね」
「ふーん。お仕事、忙しいものね。両方は大変よね」
 私がいつもの話し方に戻ると、大西もいつもの調子が出てきたようだ。
「そうなんだよ。あれって、最初はお得意さんに誘われて行き始めたんだけどね。経済的にも余裕があって、ある程度の教養がある人が集まるから紹介してあげる、とか言われてさ。そしたら、そのお得意さんとこが倒産しちゃって、夜逃げ同然でいなくなるだろう。まあ僕の売り上げは回収してたし、教室でも何人かの客はつかんだからよかったけど、何なんだって感じだよね」
 やはりそういうことだったのか、と納得した。あなたこそ何なのだ、と言いたかったけれど、私はいつもの調子を崩さなかった。
「そんなことまでするなんて、ますますお仕事が増えちゃうわね」
「そうなんだ。でも、やれることは何でもしとかなきゃね。全て成績に結びつくんだから」
 私にはもう、大西に訊いてみたいことも確かめたいこともなかった。
「私の家族のことなんだけど、これから先いっさい接触しないでね。もし家族の誰かがデパートに行って大西さんを呼び出したりしても、相手にしないでね。そんなことはないでしょうけど、もちろん大西さんの方から連絡するなんてこともなしにして。私に対してもよ。いい?」
 大西は何が起こったか理解できないような顔をしていたが、すぐに口を開いた。
「いったい何を言い出すかと思ったら、それってどういう意味なんだ。こないだの続きか? だいたい僕が加奈の家族に対して、何か悪いことでもしたか? 便宜を計ってやったことはあるけど、そんなこと言われる筋合いないだろうが」
 語尾が荒くなっている。大西と背中合わせの席の客が振り返って私たちを見たが、気づく様子もなく鼻の穴を広げて息をしている。相手が興奮していると思うと、私はますます冷静になっていった。
「これってね、大西さんにとっては意味なんかないの。ただ私がそうするって決めただけなの。もし、私が言ったようなことを大西さんがしたら、私はどんなことでもするわよ。兄のスーツをデパートに持って行って、大西さんから一万円で買ったって言うわ」
 大西は薄く笑った。
「やっぱ世間知らずのお嬢ちゃんだなあ。それって証拠がないだろう。領収、切ってないんだから。僕がそんなの知らないって言えば、それで終わりなんだよ」
 私は「世間知らずのお嬢ちゃん」という言い方に反応したが、ここで相手のペースに巻き込まれたら負けてしまう。ゆっくり話すように努力した。
「そうかしら。お客様係に持ち込んで、一万円だなんて安すぎて不安だから確認したいとか、もっと欲しいから販売方法について詳しく説明してほしいとか言ったらどうかしら。それに、兄の職場にはあと二人、同じスーツを買った人がいるんだし」
「まったく、何なんだ。それって脅しか!」
「そう思ってもらって結構よ。私はただ、私たち家族と関わらないでって言ってるだけよ」
「加奈がそういうつもりなら、こっちにだって言うことくらいあるんだからな。加奈の両親に全部バラそうか。お宅のお嬢さんと実は付き合ってて、いつもホテルに行ってます。お嬢さんって大人しそうに見えるけど、ベッドでは大胆ですねって付け加えてもいい」
 私はわざと、うんざりしたような顔をして見せた。
「大西さんって、もう少し大人だと思ってた。言いたければ言ってみればいいわ。うちの親から『娘と結婚するつもりですか?』って訊かれるわよ。立場が悪くなるのは、大西さん、あなたの方でしょう。まあ私も親から何か言われるでしょうけど、そんなもの怖くなんてないのよ。何を言われても、私が何をしても、私たち家族の仲はそのうち修復されるでしょうし、関係自体は変わらないの」
 大西は顔を真っ赤にして何か言いたげだったが、すぐには言葉が出てこないようだった。
「私は本気よ。これから先、私たちには絶対、関わらないでね」
 立ち上がると、勘定書の上に千円札一枚を置いて店を出た。
 夜の街を大勢の人たちが行き交っていた。みんなそれぞれの目的に向かって、しっかり歩き続けていた。私も家に向かって歩き出した。歩きながら、本当の恋って何だろう、と考えていた。手応えのあるヒントにも行き当たらない私は、父と母に訊いてみたくなった。

 

 


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