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ひとり未満ひとり以上

                                     ひわき ゆりこ

            「 えとわす」 6号 (1998/7)

推薦 よこい隆さん(木曜日 


 

 

 布美加が突然あらわれた頃、私は一日中、規則を守ることに集中していた。それは祐輔が私を置き去りにした頃でもあった。
 祐輔がいなくなってからというもの、私は私の中でいろいろな決まり事を作った。それがあまりに沢山なので、時どき何かを忘れて規則どおりに行動していないのではないかと不安になるほどだった。

 目が覚めるとまず、神経を集中してその時の天気を予想した。それから、枕元に置いてあるメモ帳に日付と天気を書き込んだ。起きあがって北に面したカーテンを引き、予想が当たっていれば○、外れていれば×をマーカーで塗りつぶすように重ねて書いた。三度に一度くらい、祐輔が選んだ遮光性の強いカーテン生地の威力について意識を動かした。
 目が覚めて最初の食事は、カラス麦を中心にしたシリアルとナッツ。それに干しぶどうを六粒入れて牛乳をかけたもの。牛乳を温めてからかけるとカラス麦が柔らかくなって美味しいのだけれど、一人になってからは冷蔵庫から出した牛乳をそのままかけた。シリアルは祐輔が買い置きしていた物が気が遠くなるくらい沢山あったけれど、牛乳は買いに行かなければならなかった。時には牛乳がなくて、水をかけて食べた。硬いシリアルは食べるのに時間がかかった。何度も何度も噛んでいると、ものすごく大量に食べた気がした。飲み物は水だけ。食事の後の歯の磨き方にも、口をゆすぐ回数にも決まりがあった。
 外出する時は規則をひとつ残らずきちんと実行するために緊張した。ある時、アパートを出て小さな路地を歩いていた私は、祐輔のことが頭に浮かんできて涙が出そうになった。その時、ネコがゆったりと路地を横切っていったので、私はその場で規則を追加した。車がすれ違えない細い道でネコに出会ったら、その場で回れ左をして最低五分は道なりに進まなければならない。回れ左をするために、私はちょっとの間、思考を集中させなければならなかった。そして、五分たったらいま来た道と違う道を通らなければならない、という規則も作った。この規則のおかげで、私は何度か迷子になった。その他にも電柱やマンホールに関する規則や薬局の前を通るときの規則など、いろいろな規則があった。
 私の頭の中は起きている間じゅう規則でいっぱいになった。それなのに、少しでも余裕があると新しい規則を作ろうと、そのことばかり考えていた。
 布美加が何の前触れもなく訪ねてきた時、来客に関しての規則を作っていなかった私は、たいそうあわてた。自分がどう行動したらよいのか判らなかったからだ。でも、布美加はそんなことはお構いなしに、勝手に上がり込んで祐輔が使っていた奥の四畳半に荷物を置いた。
 久しぶりに会う布美加は活力にあふれていて、私の思考が付いて行かないくらいの勢いでしゃべった。私は規則を作ることも忘れて、布美加の言葉の断片を拾うのに集中しなければならなかった。
 ひと息つくと、布美加は部屋の中を点検していった。そのやり方は、私にとってとても奇妙なものだった。布美加は目を通して入ってくる情報をひとつ残らず声にして、並べ立てていった。祐輔が置いていったイーゼル、何枚かの完成しているのかいないのか判らないキャンバス、油絵の具で汚れた手作りの棚。本棚の前では、端から一冊ずつ題名と著者名に出版社まで読み上げていった。本の数はそう多くはなかったけれど、月刊誌の題名と発行月、出版社を二年分、読み続けた。単調に繰り返される布美加の声は急に抑揚を失って、私は眠くなってきた。居間に敷きっぱなしにしていた布団にもぐり込もうかと思ったくらいだ。
 私の考えていることが伝わったのかもしれない。祐輔の部屋から出てきた布美加は、荒い動作で布団を畳み始めた。
「朱色の生地にクリーム色の梅の花模様の掛け布団。カバーはファスナー式の白。ベージュのマイヤー毛布はチェック柄。シーツは黄色いタオル地。敷き布団は緑の絞り柄」
 布美加の声だけが途切れずに続いている。
 布美加は畳一枚分の台所も、二個しかない茶碗の数や模様からキッチンマットの材質まで解説し、冷蔵庫を開けた。小さな冷蔵庫の中はほとんど何も入っていなかったので、点検はすぐに終わった。
「買い物、買い物」
 とつぶやきながら、荷物の中から財布を出してきた布美加は、キュウリ、キャベツ、ハム、パン、マーガリン、牛乳など、次つぎに食品名を並べ立てながら出ていってしまった。

 

 夢を見ていた。
 祐輔は、いなくなる前の不機嫌な祐輔ではなく、一緒に暮らし始めた頃の祐輔だった。
 祐輔が一枚の絵を私に見せた。彼の腰の高さくらいあるキャンバスには、黒と白の絵の具が分厚く重ねられていて、所どころに朱色や茶、緑の点が散らばっていた。目を近づけてよく見ると、点は細い線で細密に描かれた昆虫だった。一度その姿を認めると、私の目は昆虫ばかりに惹きつけられ、体中を何かが這いまわっているような気味の悪さを感じた。
 祐輔は、ヒトの知覚概念とか象徴的実体とか、私には理解できない言葉ばかりを並べて話し続けている。何もすることがないので笑いかけると、話をちょっとの間やめて微笑み返した。「ちかくがいねん」も「しょうちょうてきじったい」も何も解らなくても、その笑顔だけで祐輔とつながっていることを確信した。
 美大の入試に失敗して美術系予備校に通い始めた私は、予備校の寮に入った。同じ部屋に布美加がいた。私たち二人は、いつも非常勤講師の祐輔の話ばかりしていた。三十半ばにもなって独身で、見るからにお金と縁のなさそうな祐輔を他の女の子たちはあまりよく言わなかった。私と布美加は、それは彼女たちの興味の裏返しだと言い合った。そして、祐輔の無造作に巻いたバンダナやちょっと風変わりなファッション、同級生の男の子たちにはない、何かを拒絶するようないかつい表情など夢中になって話した。
 秋の終わり頃だったろうか、布美加は暗い顔をして黙り込むようになった。そんな彼女を見ていると、日ごとに親しくなっていく祐輔の話をするのがためらわれ、私は以前よりも頻繁に寮を空けるようになった。
「俺の部屋に来ればいいじゃないか。荷物も何もいらない、手ぶらで転がり込んでくりゃあいい」
 祐輔のあの言葉は今でもはっきり覚えている。
 身のまわりの品だけをまとめて寮を出ていく時も、布美加はただ黙って私を見ていた。上目遣いの暗い目が私をとらえたまま動かなかった。私は慣れ親しんだ古いおもちゃを捨てていくような気がして、布美加を抱きしめたくなった。でも、布美加の目は私を拒んでいた。
 私は予備校に行かなくなり、祐輔も非常勤の仕事を辞めた。私たちはいつも一緒だった。祐輔が絵を描いている間、私は横に寝転がって筆の動きを眺めたり、祐輔の独り言のような話に耳を傾けたりした。祐輔が買ってくるものを食べ、何日かに一度は狭い風呂場で体を洗ってもらい、そして一組しかない祐輔の布団で眠った。
 たまにお金がなくなると、祐輔は知り合いの所にアルバイトに出かけた。ラジオもテレビもない部屋で、私は一日中お腹をすかせていた。そんな時は、敷きっぱなしの布団にもぐり込んだ。祐輔のにおいがして、うとうとしているとタイムサービスの値下げ札が付いた総菜を下げた祐輔が帰ってきた。
 祐輔はいつも、「何もできない亜実が好きだ」と言った。私が着るものも祐輔が選び、洗濯も祐輔がした。私はいつも祐輔のぶかぶかのコットンパンツやスウェットシャツを着せられていた。祐輔が言わない限り私はアパートから出ることもなく、私の下着や生理用品も祐輔が買ってきた。
 祐輔は私の頬を軽くつねったり額を撫でたり、時には私を抱きかかえて、粘土をあつかうように体中に手を這わせながら話をした。そのうちに大きな賞を取って、世界中から注目される画家になる話だった。私の頭の中には、ニューヨーカーの紙面を飾る祐輔のポートレートや、パリの画廊のオープニングパーティーで挨拶しているタキシード姿の祐輔が浮かんだ。私はそんなものを見たことはないのだけれど、祐輔はそのすべてが目の前で現実に起こっているように話すのが上手だった。
「その時、亜実は黒のイブニングドレスだ。背中が思いっ切り開いてて太股までスリットが入ったやつ。亜実の白い肌によく映るよ。アクセサリーは付けちゃいけない。付けるとしたら、ちょっと変わった形のプラチナのピアスくらいかなあ。アクセサリーなんて、年取った女が付けるもんだ。そうしたら、あちこちで囁き声がするんだ。なんて可愛らしいレディなんだろうって」
 私は祐輔と一緒に空想を楽しんだ。
 夢の中の祐輔も、いつものように私に笑いかけて抱きしめた。懐かしいにおいがする。布団の中で体をくっつけ合っている心地よさと安心感。私の体を撫でまわす祐輔の手の感触。胸を触る時の力の強弱のつけ方。でも、どこかが違っている。子供のような頼りない感触だ。
 ぼんやりとした頭で薄目を開けた私は、叫び声を上げそうになった。反射的に布団から転がり出て、柱で向こうずねを強く打った。すねを押さえて痛さを我慢していると、少しずつ昨夜の記憶が戻ってきた。布美加が来て独り言を言い続け、買い物に行ってしまったのだ。待っている間、ちょっとのつもりで布団にもぐり込んだらそのまま寝てしまったようだ。戻ってきた布美加も私の横にもぐり込んだのだろう。何しろ布団はこの一組ですべてなのだ。
 私はその場に起き直って、転がり出た布団をながめた。私が寝ていた場所がぽっかりと空いていて、その向こうであどけない顔をした布美加が眠っていた。布美加の手は、私の胸があったあたりでゆっくりと上下に動いている。私はあらためて布美加の顔をのぞき込んだ。彼女はとても不思議な顔をしていた。布美加の顔なのに、布美加ではない。造作のすべてが丸みを帯びているようで、どことなくたるんだように見える。それなのに、何か柔らかい意志を持った優しさのようなものが漂っている。彼女の幼い頃の写真を見ている気分になった。
 布美加は柔らかく握り拳を作った両手を精一杯のばし、目と目の間に皺を寄せてから大きなあくびをした。口を閉じた彼女の顔を見て、私は声を上げそうになった。その顔から柔らかさが見る見る消えていき、私が馴染んでいる顔つきになった。
 布美加が目を覚ました。昨夜きた時と同じ顔になった布美加を見て、私は自分がいま見たものが信じられなかった。人の顔が見ている間に変わっていく、などということがあるのだろうか。それとも眠っている時は、みんな違う顔をしているのだろうか。祐輔の眠っている顔を思い出そうとしたけれど、うまくいかなかった。あせればあせるほど祐輔の顔は薄くなっていき、普段の顔さえ細部まで克明に頭の中で描くことができなかった。
 自分の記憶がおかしくなってしまったようで、涙が出てきた。こんな時に有効な規則はないものかと考えながら座り込んでいると、布美加の声がした。
「朝御飯、食べよう。昨日の夜、パンと牛乳と玉子とハムとキュウリとバターとサラダ油と買っといたから、食べよう」
 彼女は食品名をいちいち口に出して言いながら、冷蔵庫から取り出した。私が何も返事をしないのに、独り言を言いながらフライパンを出して朝食を作り始めた。
 久しぶりで調理した熱いものを食べた。フライパンで焼いたトーストは油がまわっているようで美味しくなかったけれど、目玉焼きの白身を口に入れるとサラダ油の風味と焼けたタンパク質の香りがして、懐かしさがこみ上げてきた。また涙が出てきた。涙は次つぎに出てくるのに、布美加は私がまるでそこにいないような顔で食べ続けている。絶え間なく食べ物を口に運び、音を立てながら噛み砕く布美加の口元を見ていると、自分が意味のないことをしているようで泣くのが馬鹿らしくなってきた。
「早く食べちゃいなよ。今日は出かけよう」
 布美加は口の中に食べ物を入れたまま、しゃべっている。
「どこに行くの?」
「どこでもいいから、とにかく出かけよう」
「私、今日はここにいる」
「だめだよ。一緒に行こう」
 私はあれこれと言い訳を考えた。
「ひょっとしたらアパートを出たところでネコに出会うかもしれないし、交通事故にだって遭うかもしれない。電車に乗ったらお金がかかるし、歩いたら疲れるしお腹も空くし、道に迷うかもしれないし……」
 本当は「留守の時に祐輔が戻ってくるかもしれない」と言いたかったのだけれど、布美加の前で祐輔の名前を言う気になれなかった。
 布美加は、私の言い訳を聞いている時間も惜しいというように、たえず独り言を言いながら忙しく動きまわって出ていった。

 

 一人になると、やはり何もすることがなかった。昨夜、布美加か来るまでと同じなのだけれど、どこかが違っていた。自分が何もしていないことが心地悪い。布美加が来る前はこんなことはなかったはずだ。何かしようと思っても、することを思い付かない。思い付かないことが腹立たしいような気もするのだが、あえて立ち上がろうとも思わない。私のどこかで、何かしなければ、と声がする。でもそれは、私に行動を起こさせるほど強いものではない。そんなことを繰り返し考えていると、自己嫌悪に陥ってきた。
 私はやっとすることを思い付いて立ち上がり、窓のカーテンを閉めた。部屋が薄暗くなり気持ちが鎮まってきて、祐輔と暮らしていた頃の自分に少し戻った。畳の上を転がっていき、布美加が畳んだ布団の中から毛布を引っぱり出した。頭から被ると、私は布美加が来る前の自分に戻っていった。
 祐輔と歩くヨーロッパの街角、柔らかい陽差しがふりそそぐカフェテラス、まわりのテーブルから聞こえてくるフランス語。ギヤラリーでも美術館でもブティックでも、祐輔は時おりフランス語で受け答えしながら堂々としている。言葉が解らない私が微笑むと、周囲のフランスの人たちも微笑みを返してくれる。それを見る祐輔も、とても満足そうに微笑む。
 祐輔はバラの花びらを浮かべたお風呂の話もしてくれた。白い大理石の大きなバスタブ一面に、ピンクの花びらが浮いている。飾りの付いた金色の湯口からお湯が出ている。体を沈めると、湯気とバラの香りで息が詰まりそう。私の肌はオイルを塗ったように、しっとりと潤ってくる。バスタブから出ると、砂漠の砂のように乾燥した大きなバスタオルとバスローブが用意されている。色はどちらも純白。小さなピンクのバラの縫い取りが付いている。
 バラの香りがしたような気がして、うっすらと目を開けた。ささくれた畳と、丸めたソックスが見えた。急に現実に引き戻された私は、また泣きたくなった。祐輔がいないのに、どうやってフランスに行けばいいのだろう。どうしたらバラのお風呂に入れるのだろう。祐輔と一緒に何もかもが、どこかへ行ってしまった。
 私はバラのお風呂の続きを考えようとして、このところお風呂に入っていないことを思い出した。祐輔がいなくなってから銭湯に行くようになったが、このまえ行ったのはいつだったろう。三日前だったか四日前だったか、はっきりしない。そう思うと、髪の毛が脂っぽい気がする。体中が汚れているようで落ち着かず、銭湯に行くことにした。
 ビニール袋にタオルや石鹸と下着の替えを入れた。ゆっくりと深呼吸して、小引き出しを開けた。なるべく中を見ないように注意しながら、必要なだけの小銭を取り出した。小引き出しはずっしりと重く、底板が見えないくらい小銭が入っている。祐輔が置いていったお金だ。たくさんの小銭の中には、くしゃくしゃになった千円札も何枚か混じっている。五千円か一万円札も、奥の方に見かけたような気がする。でもそれは、取り出そうと思ったとたんに消えてしまうものなのかもしれない。
 お金を取り出すときの規則は、とにかく短時間にやること。必要最低限しか取らないこと。いくらあるか、引き出しの中のお金を数えたりしないこと。もしそんなことをしたら、限界が判ってしまう。数えない限りお金はなくなることなく、使った分だけわいてくるような気がする。ポケットをたたくとビスケットが増えていく、あの童謡みたいに。
 鍵を取って靴を履こうとした時、布美加のことを思い出した。私がいない間に布美加が帰ってきたら、部屋に入れない。彼女はどう思うだろう。私が嫌がって閉め出したと思うかもしれない。私の頭には、必死でドアを叩き続ける布美加の姿が浮かんだ。そこいらじゅうに聞こえるような大声で私を呼び続けるかもしれない。
 走って行ってできるだけ簡単に体と髪を洗えば、布美加が戻るまでに帰れるかもしれない。一度、戻した足をまた靴に突っ込んだ。でも、ネコに出会うかもしれないし、外に出るとマンホールや電柱がたくさんあるし薬局やマーケットだってある。いつ帰って来られるか判らない。
 私は寝ころんでいた場所に戻って、どうするべきか考えた。いくら考えても結論は出なかった。銭湯にも行けない自分の不自由さを思うと、布美加に腹が立ってきた。何の連絡もなく急に現れて、私を縛り付ける布美加が憎らしかった。
 布美加はなぜ突然、現れたのだろう。最後に見た布美加は暗い目をしていた。それが別人のようになって、私のところへ来た。祐輔の代わりなのだろうか。私にご飯を食べさせてくれたし、買い物をしてくるところをみると、お金も持っているようだ。祐輔のようにいろいろな話をしてくれるわけではないけれど、それは来たばかりだからかもしれない。でもどうして、祐輔が布美加になってしまったのだろう。
 考えることに疲れた私は、また毛布の中でうつらうつらした。

 

 目が醒めたとき、布美加が布団を運び込んでいた。一瞬、布美加の家に居るのかと思った。奥の部屋に敷き布団を置いた布美加は、すぐに出ていって掛け布団や毛布など次つぎに運んでくる。どれも古いもので、あまり清潔とはいえなかった。
 驚いて訊ねる私に、布美加は舌足らずの甘い声で答えた。
「きみちゃんとこでいらないっていうから、もらってきた。あげるあげるって、うるさいんだもの。きみちゃんとこが近くでよかった。運ぶの大変だものね。きみちゃん、今夜、大津まで行くんだって。大津にはきみちゃんが生まれた家があって、そこでお母さんがきみちゃんが来るの待ってるんだって。だからもうお布団はいらないって、ふうちゃんにくれたの」
 ふざけているのかと思った。
「布美加、ちゃんとしゃべってよ」
「布美加じゃないもん。ふうちゃんだもん」
 布美加は何ごともなかったように、話の続きに戻った。
「きみちゃんね、荷物まとめてた。お母さんが畑仕事するのにいるからって、オレンジ色のゴム長とティッシュペーパーを風呂敷に包んでた。ゴム長はね、二十一センチので、上に白い線が入っていて、字が七つ書いてあった。きみちゃんのお母さん、小さいんだね。まだおろしてない、新しいゴム長だよ。ティッシュペーパーはね、箱に入ってたらポケットに入らないから、引っぱり出してきれいに畳むの。いつまで引っぱり出してもまた出てくるから、ものすごく時間がかかるの。ふうちゃんも手伝って一箱やってあげたけど、忙しいから帰ってきちゃった。ティッシュペーパーの箱、いくつもあったから、きみちゃん、今夜中に大津まで行けるかなあ。それからねえ……」
 いつまでも続く布美加の話を聞いていると、頭が痛くなってきた。今朝までとは違い、みょうに子どもっぽいしゃべり方も不自然だ。改めて布美加の顔を見つめると、ゆっくりと瞬きした。それを見て一気に思い出した。そうだ、今の顔は今朝ねむっていた時の布美加の顔だ。間違いない。あの時は見間違いかと思ったけれど、確かに幼い顔になっている。布美加の妹とすり替わったような、布美加の中身だけが誰かと取り替えられたような、そんな気味の悪さを感じた。
 私は強引に言葉を割り込ませた。
「きみちゃんって、誰?」
「えーっ、亜実ちゃん知らないの。大家さんとこのきみちゃんでしょう。離れにいるおばあちゃんじゃない。布美加のお友達だよ。亜実ちゃんも、明日お友達になろうよう。でも、きみちゃん、もうお母さんの所へ行ったかもしれないね。水筒も持って行くっていってたけど、見つかったかなあ……」
 アパートと敷地続きの大家さんの家には、名前は知らないけれど確かにおばあさんがいる。デイケア・センターの送迎車から降りてくるのを見かけたことがある。あのおばあさんのことだろうか。わけが分からず混乱している私の横では、布美加がしゃべり続けている。
「ちょっと黙っててよ。それに、亜実ちゃんなんて、呼び方しないで。気持ち悪いじゃない」
 苛立った私の言葉に、布美加は急におびえた目になった。しゃべるのを止めて部屋の隅に行き、右手の親指を噛みながらその場で足踏みして回り始めた。伏し目になったその表情は読み取れない。何度か話しかけてみたけれど、私の言葉にはまったく反応せず同じ動作を繰り返している。
 何が起こったのか判らなかったけれど、布美加がとても切羽詰まった悪い状態であることは想像できた。布美加の中に布美加じゃない、誰かがいる。その時、私は布美加が現れた理由が判った。これはきっと、私への罰なのだ。
 部屋の隅に行き、噛んでいる布美加の右手を取った。指の腹に血がにじんでいた。
「ごめん、ごめん。ふうちゃん。もう大丈夫。もう怒ったりしないから。ほうら、ここに座ろう」
 布美加は意志を失った人形のように、私に体をあずけた。座卓の横に座らせると、そのまま崩れるように横になったので毛布を掛けてやった。
 あどけない布美加の顔を見ていると、予備校の寮で暮らしていた頃を思い出した。
 布美加はどちらかといえば、世間知らずの真面目タイプだった。授業にはきちんと出席するし、門限も守っていた。時どき寝坊して一時間目に出ない私を、布美加の方が心配した。
「亜実、出といたほうがいいよ。一緒に行こう」
 布美加は何度も私に声をかけた。眠いばかりの私は荒い言葉で返事することもあったけれど、彼女はいつも親切だった。
 しょっちゅう出歩いていた私は、寮に戻れば布美加がいる、というイメージがある。部屋のドアを開けて布美加の顔を見ると、自分の場所に戻ってきたという気がしたものだ。行動範囲は違っていても、私たちはよく部屋でおしゃべりをした。寝つかれない夜は、お互いのベッドに入り将来の夢を語り合ったりもした。
 夏のころだったと思う。布美加が時どき出かけるようになった。私にはとても珍しいことに思えて、理由を尋ねたことがある。布美加は曖昧な笑みを返し、「もう少ししたら教える」と答えた。
 あの頃の布美加の顔を思い出そうとするのだけれど、浮かんでこない。何度やってみても、私が部屋を出て行く時の暗い目をした布美加の顔が浮かんでくる。頭から、あの布美加の顔を消してしまいたい。私は目の前で眠っている子どものような顔をした布美加を眺め続けた。
 辺りが暗くなり始めた頃、布美加が急に顔中に皺を寄せ、両手を精一杯ばんざいの形に伸ばした。今までの行動が信じられないような、はっきりとした表情で起きあがった。
「晩ご飯を作らなくちゃ。亜実は何が食べたい? お米なかったよね。買ってこなくちゃ。お米お米、それに、よし、今夜はカレーライスにしよう。肉、ばれいしょ、にんじん、たまねぎ、カレールウ、福神漬け。肉、ばれいしょ、にんじん、たまねぎ、カレールウ、福神漬け。そうだそうだ、明日の朝ご飯もついでに買ってこなくちゃ。えーと明日は、玉子はあったから、ハム、きゅうり、ヨーグルト。うん、ハム、きゅうり……」
 布美加はしゃべり方まで元に戻っていた。私に「亜実ちゃん」と呼びかけていた布美加は、何だったのだろう。
「ねえ、布美加、いったいどうしたの? あなた、きみちゃんとかいう人の話して、急に寝てしまったのよ」
 私は聞かずにいられなかった。布美加は不審な顔をして、私を見つめている。
「あのお布団、きみちゃんからもらってきたんでしょう」
 布美加は布団と私の顔を見比べている。少し間を置いて、またしゃべり始めた。
「そうだっけ。よく覚えてないのよね。そんなことがあったかもしれない。でも、そんなのどうでもいいじゃない。晩ご飯は何にするんだったっけ。そうだ、カレーライスにしなくちゃならないんだ。えーと、何だったっけ。亜実がへんなこと言うから、忘れちゃったじゃない。まず、お米だったよね。お米、お米。うーん、それと、肉、たまねぎ、ばれいしょ、にんじん。いや、違う。何だったっけ。そう、お米、肉、ばれいしょ、にんじん、たまねぎ、カレールウ。そうだ、そうだ」
 私は思わず言ってしまった。
「福神漬けは?」
「そうだ、そうだ。お・こ・め、肉ばれいしょにんじんたまねぎ、そして福神漬け。これで大丈夫」
「明日の朝ご飯は?」
「うん、何か適当に買ってくるよ。亜実の相手してたら、晩ご飯なんか食べそこなっちゃう。財布、財布。うん、持った持った。靴、私のツートンのスニーカー、白黒の紐が付いたスニーカー。あっ、これだ、これだ。ここんところを持ってつま先を入れて、人差し指を突っ込んで踵も入れて、こっちの足も。よし、ドアを開けて……」
 布美加はひとつひとつの動作や目に映るものを数えるように言いながら出かけていった。

 

 二人で食べるカレーライスは美味しかった。胃の中から暖かさが広がっていくようで、くつろいだ気分になった。カレーの香りは、私に家庭を連想させた。
 布美加は、それがそこにあるのが当然のような顔をして奥の四畳半に布団を敷いた。疲れたのか、すぐに寝てしまったので私は銭湯に行くことにした。
 布美加が来てから、初めて外に出た。先ほどまでしゃべり続けていた布美加の声がまだ耳の底に残っていて、耳鳴りがした。ネコに出会わないように、真っ直ぐ前を見ながら路地を通り抜けた。夜はいろいろなものが見えなくなるから好きだ。明るい道を避けて、暗がりを拾うようにして歩いた。電柱の電線の付け根に目が行かないように注意した。うっかり目線を先へ延ばすと、街灯に照らされたマンホールが見えた。あわてて目をそらしたけれど、もう見てしまった。仕方なく、私は道の中央まで行ってマンホールの中央にあるサクラをかたどった市のマークを踏んだ。道沿いに連なる塀の下の方ばかり見ながら歩いた。銭湯の敷居をまたぐ時、左足が出てしまったので、十歩さがってやり直した。
 体を洗うときは、まず手首足首の脂肪が付いていない部分からだ。だんだん脂肪が付いている部分に移り、お腹と胸で終わる。これはいつも祐輔が洗ってくれた通りの順序だ。
 石鹸を付けた垢擦りタオルを動かしながら、私は布美加のことを考えた。やはり彼女がやってきたのは、罰なのだろうか。何に対する罰なのか考えようとして止めた。それを考え始めたら、もうやって行けない気がした。とにかく私は許されなければならない。それだけははっきりしていた。いつになるか判らないけれど、祐輔が戻るまで布美加と暮らしていれば私は許されるのだろうか。そして、布美加はもとの私たちが知り合った頃の彼女にもどるのだろうか。
 何が原因で何が結果なのか、何と何がつながっているのか、判らないことだらけだった。こんな時、祐輔がいたら、私は何も考えなくてすむのに、と思うと、また悲しくなってきた。涙が出てきたので、体を洗うのを中断して顔を洗った。私は考え続けた。気づくと、胸をタオルでこすっていた。銭湯での規則を無視していることに気づいた私はあわてた。必死で思い出そうとするのだが、どこまで洗ったか思い出せなかった。これでまた罰が増えそうな気がして落ち着かない気分になった。
 規則をうっかり守らなかった時に唱える、呪文のようなものがあれば便利なのに。
「スーパーカリフラジリスティックエクスペリアスドゥーシャス」
 こんな言葉だったろうか。子どもの頃、ビデオで見た呪文を覚えて得意になっていた。周囲に聞こえないように、口の中でつぶやいてみた。軽くて、いかにも効き目がなさそうな響きだった。
 今度こそ失敗しないように注意しながら、規則どおりに体重計に載った。載る時の自分の動作をゆっくり思い返し、間違いがないことを確かめて、赤いデジタルの数字をのぞき込んだ。また減っていた。

 

 アパートの前まで来ると、大家さんの奥さんに出会った。
「ちょうどよかったわ。今、お宅にうかがったところなの。お留守みたいだから、帰ろうと思ってたのよ」
 家賃の催促かと思い、あわてた。祐輔がどのようにして支払っていたか知らないし、今月分が支払われているかどうかも判らない。
「あのねえ、ちょっと変なこと聞くけど、お布団、知らない? うちのおばあちゃんのね、お布団がないのよ。どうしたのって聞いても、もうお布団はいらないって言うばかりで……。それでひょっとしたら、お宅の妹さんが昼間きてらしたみたいだから、何か知ってらっしゃるかもしれないと思って聞きにきたんだけど……」
 こんな時どう答えればよいのか知らない私は、緊張してしまい何と言ったのか覚えていない。ただ、どうにかして布美加を守らなければ、と思っていた。気が付くと、私は大家さんの奥さんに謝っていた。
「ごめんなさい。すみません。お布団はすぐに返します。今から取ってきます」
 奥さんの方があわてたようだった。
「あっ、いいの。いいのよ。あのお布団、古いし、新しいのに替えようと思ってたところだったの。でもおばあちゃんが、新しいお布団を嫌がってねえ。自分でどこかへやっちゃったものだから、今は新しいお布団で寝てるわ。申し訳ないけど、おばあちゃんの見えないところで処分してくれたら、ありがたいんだけど……」
 私が布団の始末を引き受けると、奥さんは安心したようで、大きなため息をついた。
「ところで、近ごろご主人、見かけないようだけど」
 それが祐輔のことだと判るまでにちょっと間があった。
「ええ、ちょっと」
「どうか、なさったの?」
「はい。体を悪くして入院しています」
 咄嗟に言ってしまった自分に驚いていた。奥さんは急に親密な声になった。
「まあ、あなたも若いのに大変ね。障害のある妹さんかかえて、ご主人がご病気じゃあ。うちもおばあちゃんが、あんなになっちゃったでしょう。お互い、いろいろあるけど、頑張りましょうね」
 奥さんはそれからおばあちゃんのことを少し話し、気持ちが晴れたような足取りで帰って行った。
 奥さんが言った「ご主人」という言葉が気になった。祐輔が私のことを「妻」とでも言ったのだろうか。嬉しいような、どこか誇らしいような、それでいて哀しいような気分になった。
 私は何をどう頑張るのか判らないまま、部屋に戻った。中に入ると、襖が開けられたままの四畳半は明かりが消えていて、布団にくるまった布美加が見えた。顔を見てみたい気もしたけれど、やめた。居間に布団を広げてもぐり込んだが、なかなか寝つかれなかった。自分がとても重要なことを見逃しているようで、神経が尖っていた。それにさえ気づけば、祐輔がいなくなったことも、布美加が急に現れたことも、何を頑張るのかも、すべてがはっきり判るに違いない。布美加が来てからのことを思い出そうとしたけれど、あまりに多くのことが一度に起こったようで混乱していた。

 

 夜中に何度も目を醒ました。何かの物音で、急に意識が呼び戻される。何の音なのか考えようとして、また浅い眠りの中に引き込まれていく。そんなことを何度も繰り返した。
 完全に目が醒めてから、布団の中で今日の天気を予想した。とても静かだ。雀の鳴き声も、木の葉が揺れる音もしない。私はさらに耳を澄ました。かすかに雨が落ちる音がしたようだったが、はっきりしなかった。「今日は小雨」と、心の中で三回くり返し、メモ帳とマーカーを手に取ろうとした。私の手の届くところにそれらの物はなく、昨夜、用意しなかったことを思い出した。考えてみると、昨日の朝も私は天気の予想をしなかった。
 後悔の気持ちが強まってきて、得体の知れないものに押しつぶされそうで吐き気がしてきた。私は得体の知れないものの正体を確かめようと、考えをめぐらせた。罰のせいで私は、規則を守れない状態に追い込まれたのだろうか。それとも、規則を守らなかった罰でこんなに気分が悪いのだろうか。ひょっとしたら、規則を作らなかったために祐輔がいなくなったのかもしれない。そして、まだ規則が足りなくて、罰として布美加がやってきたのかもしれない。私は、そう思いたかった。
 何と何がどうつながっているのか、何が原因で何が結果なのか、ほぐしてたどるには複雑すぎる事柄が目の前にたくさんあった。このまま布美加を見続けていれば、何かがつながってくるのかもしれない。何にしても、私の周囲には布美加しかいないのだ。今の私がするべきことは、それしかない。
 四畳半の襖は閉じられていた。襖の向こうで祐輔が絵を描いているような気がしたけれど、そんな思いを引っ込めて布美加に声をかけた。
 返事がないので、もう一度ことわってから襖を開けた。
 私は一瞬、別の空間に紛れ込んだのかと思った。四畳半の様子はすっかり変わっていて、部屋の隅で正座した布美加が壁に向かって何かつぶやいていた。
 中に入ってゆっくり辺りを見回しすと、奇妙に落ち着きの悪い、何かに駆り立てられるような気分になった。押入の戸ははずされ、タンスや引き出しは開いたまま空になっていた。とにかく部屋中に物が散らばっていた。散らばっているという言い方は正しくないかもしれない。祐輔の下着やソックスはきれいに畳まれているし、壁に沿って微妙なバランスで積み重ねられている物もある。
「これ、いったい、どうしたの?」
 布美加は二十歳の表情で、私の方に向き直った。
「ここは物がばらばらになってて落ち着かないから、整理したのよ。物はね、それぞれにきちんと分類するべきよ。こうしておくと、気持ちがいいでしょう」
 改めて見まわしたけれど、衣類だけがまとめられているわけでもないし、本にしてもあちらこちらに分けて置かれているし、私には布美加が言う意味が判らなかった。
「ここに置いてあるのは、何なの?」
 手近な場所にまとめて置かれている物を指した。
「それはね、丸くなる物」
 タオルが二枚とベージュのソックスが一足、週刊誌が何冊かあった。
「丸くなるものって、何?」
 布美加は面倒そうに、タオルやソックスを端から巻き、週刊誌も縦に巻いて棒のようにして私に向かって振った。
「じゃあ、あそこにあるジーパンは? ソックスもいくつかあるじゃない。あれも巻けば丸くなるでしょう」
「あそこは足がある物」
「ジーパンには足があるかもしれないけれど、一緒に腕時計やバッグもあるわ」
「そうよ。みんな出かけて行くでしょう」
 判ったような、判らないような説明だった。
「じゃあ、こっちは?」
 私は次つぎに聞いていった。
「子どものための物」
「絵の具」
「レモンに似た物」
「犬が欲しがる物」
「爆発しそうな物」
「アで始まる物」
「目より上にあっても不思議じゃない物」
「数学に属する物」
 なぜ絵の具だけが「絵の具」として分類されているのかも判らないし、聞いているうちに頭が痛くなってきた。布美加の分類は、すべての関係性が崩れている。ひとつのものを基準に考えると、他の分類がすべて意味のないものになってしまうような分け方だ。同じ分類のものでも、私の目にはほとんどが何の関連性もないものの集まりに見える。何がどうつながるのかに考えをめぐらせていた私は、突然それがまったく無意味なことに気づいた。物と物とには関係性なんて、ない。
「一晩じゅう働いたから、お腹が空いた。朝ご飯を食べよう」
 布美加は立ち上がって、台所へ行った。
 二人で向かい合って食べながら、自分が和やかな気持ちでいることに気づいた。そういえば、布美加のいつもの独り言がない。私の頭が痛くなるほどしゃべり続けていた彼女が、黙ってゆっくり食事をしている。四畳半を自分の思い通りに片づけて安心したのだろうか。布美加がそうしたいのなら、それでいいと思った。

 

 布美加は時どき「ふうちゃん」になることもあったけれど、機嫌良く暮らしている。「ふうちゃん」になった時は一緒にでかけることもあった。私が規則を守りながら、道の中央まで出てマンホールを踏もうと、薬屋の前で広告旗の下から二番目の文字を撫でようと、それが何か重要な意味があることといわんばかりの表情で、大人しく待っていた。
 でも、スーパーで私の姿が見えなくなるとたいへんだ。店中に聞こえるような声で私を呼ぶ。そんな時、私は半泣きになりながら私を求めている布美加を見る。
「ふうちゃん、ごめん、ごめん。もう大丈夫だから。今日は特別にお菓子かってあげようか」
 頬や頭を撫でながら、私は優しく話しかける。布美加は私の言葉ですぐに機嫌を直し、お菓子の棚の前で目を輝かせている。そんな時は、周囲からクスクス笑いが聞こえてくる。布美加は確かに、他人の目には奇妙に映るのかもしれない。でも、信頼しきって私を見つめる布美加の目を見ていると、みんなは何故このかわいらしい純粋なものを感じ取らないのだろうと不思議に思う。布美加はすべてを許してしまいたくなるような表情を私に向ける。
 布美加は「ふうちゃん」になった時、きみちゃんの所へ行っているようだった。うちに連れてくることもあった。二人で四畳半に入り、声を上げて笑ったり、何か作ったりしていた。襖のこちら側で聞いていると、ままごと遊びでもしているようだった。
 私はだんだん「ふうちゃん」に馴染んでいった。二十歳の布美加は私にとって、「ふうちゃん」よりもっと得体の知れない存在だった。強い口調でしゃべる彼女は、寮にいた頃とも違っていた。私に対してはほとんど興味がないようで、いつも自分のことやその時するべき行動について自信ありそうに話した。
 布美加が祐輔のことをまったく言わないのも、不思議なことだった。聞いてみたい気もしたけれど、彼女はわざとその話題を避けているのかもしれない。祐輔と布美加の間に何があったのか、知るのが怖かったこともある。でも、もし祐輔のことを話し始めると、布美加が完全に崩れてしまうような気がした。もう戻って来られないような完全な崩れ方だ。なぜそんな気がするのかは判らないけれど、確かに今も布美加のある部分は崩れている。そして、それは祐輔に関係があると思えてならない。私の中で、確信に近いくらいその思いが強くなっていく。

 

 布美加は毎日十時ごろに出かけていった。きみちゃんの所へ行って「ふうちゃん」になって戻ってくることもあれば、布美加のままのこともあった。私は相変わらず何をするでもなく、規則にだけは注意しながら毎日を過ごした。
 時どきお金のことが気になったけれど、なるべく考えないようにした。食料品は布美加が勝手に買ってくることが多いし、気を付けてさえいれば小引き出しは魔法の力を発揮し続けるはずだ。日が経つに連れて、自分にそう言い聞かせる回数が多くなった。
 今日も布美加は午前中に出かけていった。お昼をまわった頃だったろうか。息を切らせた大家さんの奥さんが駆け込んできた。
「うちのおばあちゃん、知らない?」
 なんと答えたらよいのか判らないまま黙っていると、奥さんは一気に話し始めた。
「今、お友達が電話で知らせてくれたの。駅の向こうを川沿いに歩いていく老人を見かけたって。それが、うちのおばあちゃんに似てるって言うのよ。なんでも、ものすごい勢いで歩いてて、その後ろを若い女の人が泣きながら追いかけてたって。友達は陸橋の上から見てたらしくて、すぐに私に連絡くれたんだけど。お宅の妹さんとうちのおばあちゃんじゃないかしら」
 奥さんの話を聞いている時間も惜しかった。
「私、探しに行ってきます」
 後ろで奥さんの声が聞こえた。
「警察には電話したから、何か連絡があるかもしれないし、私は家にいますから。必ず途中で電話してね」
 駅に向かって走った。もうネコもマンホールも薬局も関係なかった。ただ前を見て、できるだけ速く走った。すぐに息が苦しくなったけれど、歩いてしまえば布美加が助からない、私が走っている限り望みはある、という確信のようなものがあった。私が苦しめば苦しむほど、布美加は救われる。
 駅を越えた所で足がもつれてきた。何かしなければ、ここで立ち止まってはいけない。自分に言い聞かせながら足を前に出そうとするのだが、どのくらい前進しているのか自分にも判らなかった。出がけの奥さんの言葉を思い出して、やっと立ち止まった。電話をかけようとして、大家さんの電話番号も知らないし、お金も持たずに出たことに気づいた。
 あの時ちょっと考えて奥さんに聞いておけば、小引き出しからほんの少しの小銭を持って出さえすれば。どうして自分はそんなことも思い付かなかったのだろう。走り出てきたけれど、自分に何ができるというのだろう。そんなことばかり考えていると気分が悪くなり、その場にしゃがみ込んで少し吐いた。体中の筋肉が一度に口に向かって引っ張られるようで、汗が出てきた。
 吐き気が収まると、汗ばんだ体が急に冷えてきた。私には何ができるのだろう。私は何をしなければならないのだろう。立ち上がって通行人に交番の位置を聞き、私は歩き出した。
 中年の警察官は丁寧に対応してくれた。
「家族の方から連絡があった、あのおばあさんと娘さんですね。警ら中の警官が見つけまして、すぐ連絡を取りましたから、もう家族の方が迎えに来られたと思いますよ。現場はここから三キロくらい行った所ですが、そこにはもうおられないでしょう。担当した警官に連絡して確かめてみましょうか」
 警察官の申し出をできるだけ丁寧に断り、礼を言ってから外に出た。重い足をどうにか動かして、やっとアパートにたどり着いた。部屋をのぞいても布美加の姿はなかったので、仕方なく大家さんの家に行くことにした。
 おばあちゃんは真新しい布団でぐっすり眠っていた。枕元には、布美加が口を開いたまま表情のない顔で座り込んでいる。奥さんだけが生き生きと活力にあふれて見えた。
「よかったわ。帰ってきてくれて。あなたの所から戻ったら、警察から連絡が入っててね。すぐに追いかけたんだけど見えなかったから、タクシーでおばあちゃんを迎えに行ったの。途中でも出会わなかったし、まだ探してたら、どうやって連絡しようかと思ってたところだったわ」
 奥さんはお茶を入れてくれながら、一部始終を興奮気味にしゃべった。一通りしゃべり終わると、布美加を上目遣いに見ながら声を落とした。
「今まで徘徊はなかったら、よかったんだけど。今度こういうことがあったら、私、どうしたらいいか判らないのよね。それでね、今夜、主人にも相談してみるけど、何か方法を考えなくちゃならないでしょう。妹さんには悪いんだけど……」
 私は、判りました、と答えて、布美加を抱えるようにして立たせた。
「何か困ったことがあったら、言ってちょうだいね。お力にはなれないかもしれないけど」
 布美加の様子を見ていた奥さんが言った。
 布美加の手を引いて部屋に戻った。転んだのだろうか服に泥が付いていて、顔も涙と汚れですすけている。私は風呂の用意をして、ひと言も口を利かない布美加を洗ってやった。布美加はされるままに大人しくしていた。
 大きく膨らんだ布美加の胸ばかりが目に付いた。見ないようにしようと思うのだが、狭い風呂場ではつい目が行ってしまう。寮にいた頃は、一緒に入浴することもあった。布美加の張りのある胸に比べ、自分の薄い胸を貧弱だと感じていた。布美加はあの頃よりやせたようにみえるけれど、豊かな胸は変わりなく、ウエストから腰にかけての曲線がよりいっそう目立って見える。
 布美加の幼い顔つきは成熟した体つきを、成熟した体つきはその幼い表情を、お互いに引き立てているようで哀しい気持ちになった。どちらかひとつになれば、布美加も、そしてそれを見ている私も救われるかもしれない。
 布美加の体を拭いてやり、きみちゃんの布団に寝かせた。布美加もわたしも疲れ切っていて、眠る以外になにをする気にもなれなかった。

 

 どのくらい眠ったのだろう、うめくようなかすかな声で目が醒めた。布美加がうなされているのだろうか。起き上がって居間の電気を点けると、襖を開けたままの四畳半がぼんやりと見えた。起こさないようにゆっくりと四畳半に入り、布美加をのぞき込んだ。
 私には馴染みのない顔が見えた。布美加でもない。ふうちゃんでもない。不安になった私は、声をかけてみたが返事はなかった。時間が経てば経つほど悪いことが膨らんでいくような気がした。私は何をしているのだろう。私が何かしなくては。
 枕元に座ると、布美加は布団を頭から被り手足を縮めた。布団をそっとめくると、力を込めて目を閉じてこぶしを握りしめ、背中を丸めている。
「布美加、布美加、ふうちゃん、ふうちゃんなの?」
 何度も呼びかけたけれど、返事はなかった。布美加でもふうちゃんでもないことは、自分でも判っていた。
「あーぁ、あーぁ」
 また奇妙な声が漏れた。今の私には何か問い続けることしかできなかった。
「誰、誰なの?」
 聞き取りにくい声が返ってきた。
「みつき」
「そう、みつきちゃんっていうの。みつきちゃんは、どこから来たの?」
「判らない。だって、まだ生まれてないんだもの。ママのお腹の中にいるの」
 息が詰まりそうになった。私は勇気を出して聞いてみた。
「みつきちゃんのママは誰なの?」
「みつきのママは、田坂布美加」
 ずっと以前から知っていたことを、改めて確認した気分だった。さすがに、父親の名前を尋ねる気にはなれなかった。
 私は混乱したまま、布美加の体をこすり始めた。布美加のお腹にいた小さな命が闇に吸い込まれてしまったように、目の前の体を精一杯まるめた布美加も、どこか私の手の届かない場所に行ってしまうような気がした。布美加をここに留めておくためなら、私は何でもする。
 布美加の体は少しずつ熱を持ち始め、固く丸まっていた手足もほぐれてきた。
「布美加、布美加、ふうちゃん、ふうちゃん」
 私は呼び続けた。

 布美加は「みつき」になった日以来、「ふうちゃん」にならなくなった。「ふうちゃん」の代わりに出てきたのが、「タサカ」だった。タサカは小学校三年生で、なかなか活発なマンガが好きな女の子らしい。タサカになると、その辺の紙切れにマンガを書き始めるのですぐに判る。髪の毛が大きく波打ち顔の半分くらいの大きな目をした少女の絵ばかりだ。こんなものまで小学校三年生に戻ってしまうのかと、布美加のデッサンを見知っている私は不思議な気分になる。
 大家さんの奥さんは時たま顔を合わせることがあるけれど、おばあちゃんと布美加の話は避けているようだった。当たり障りのない天気の話などして、ご主人のお加減はいかが、と必ず聞かれる。曖昧な返事をすると、お大事に、と言われて短い会話は終わる。
 おばあさんの姿はあれ以来、見かけなくなった。訊ねてみたい気もしたけれど、奥さんにとってそれは辛いことなのかもしれない。「ふうちゃん」にならなくなった布美加も、きみちゃんのことは忘れてしまったのだろうか。私も、あのきみちゃんと呼んでいたおばあさんは本当にいたのだろうか、と思うことがある。ふうちゃんの作り話に乗せられていただけかもしれない。
 でも私は、奥さんが「ご主人」と言うたびに祐輔のことを思い出した。今では「ご主人」という言葉に私自身が慣れてしまった。祐輔の記憶が少しずつ薄れてきてから「ご主人」と思うなんて、考えてみれば奇妙なことだ。でもあの頃の私たちは、結婚したようなものだった。もしも、私と祐輔がいて、そこへ布美加が来たらどうなっていただろう。「ふうちゃん」になった布美加は、私たちの子どもみたいなものだろうか。
 そんなことを想像していると、自分がとても嫌な人になったようで気分が悪くなってきた。「みつきちゃん」はどうなるのだろう。布美加の気持ちはどうなるのだろう。ひょっとしたら私が知らないだけで、布美加と祐輔の結びつきの方が強くて、私が余分な存在なのかもしれない。
 祐輔が戻ってきて私たち二人を見たら、どうなるのだろう。私は、自分が「みつきちゃん」になるかもしれないと思った。布美加を見ていると、私が「みつきちゃん」になっても不思議はないし、誰も驚かないだろう。そんなことを考えていると、本当にいつか「みつきちゃん」になってしまうような気がしてきた。真っ暗な中で、独りで体を丸めて泣き続けなければならない。それは私に対するもっと大きな罰なのかもしれない。そんな大きな罰を避けるには、と私は必死で考えた。きっと今の小さな罰をきちんと受けるしか他に方法はないのだろう。
 さいわい近ごろは規則が気にならなくなった。マンホールや薬局の広告旗やネコを見ても、気持ちを乱されることはない。そんなものはどうでもよいものだ、と気づいた。とにかく、布美加を守らなければいけない。それが私に与えられた罰だ。いや、ひょっとしたら罰ではないのかもしれない。祐輔もいなくなった今、私にできることは、布美加のために何かすることだけかもしれない。頭の中に、もつれた釣り糸のかたまりが詰まっているようで、頭痛がしてきた。

 

 近ごろは布美加を守ることばかり考えるようになった。そして、考えれば考えるほど、不安が大きくなってくる。まずはお金をどうにかしなければならない。布美加は私のところへ来てから、家族や友達に連絡を取った様子はない。どのくらいのお金を持っているのか知らないけれど、いつかはなくなるだろう。なくなって、「タサカ」や「ふうちゃん」になったまま元に戻らなかったら、私はどうしたらいいのだろう。いや、「タサカ」や「ふうちゃん」ならよいけれど、「みつきちゃん」になったらと思うと、私にはやっていく自信がなかった。もう二度と「みつきちゃん」になった布美加は見たくない。そのためには何をすればいいのだろう。何かをするよりも、まずお金をどうにかしなければならない。なるべく見ないようにしているけれど、魔法の小引き出しも近ごろは底板がのぞくようになっている。
 銭湯に行く途中、思い付いてコンビニエンスストアーで求人情報誌を見た。余分なお金がなかったので、銭湯はやめにして情報誌を買った。
 部屋に戻ると、二十歳の布美加が洗濯をしていた。
「ねえ、ちょっといい?」
 私はなるべく刺激しないように気を付けて、話はじめた。
 今日の布美加は調子がいいようで、大人しく私の話を聞いていた。
「いつまでもこうしているわけにもいかないし、私、働こうと思うの。家賃も払っていかないといけないしね」
 私がひと息つくと布美加は黙って立ち上がり、四畳半から財布と貯金通帳を持ってきた。
「これで、全部」
 布美加が財布を振ると、小銭と千円札が二枚でてきた。貯金通帳からは何度も細かく引き出されていて、残金が三万円とちょっとになっていた。私も小引き出しの中身を全部広げた。計算してみると、手元の現金は二人あわせて六千五百三十八円あった。
 布美加は構わないと言うけれど、通帳のお金には手を着ける気になれなかった。
「じゃあ、私も亜実と一緒に働く。この通帳は、困ってどうしようもなくなった時のために取っておこう。お守りみたいなもの」
 強い味方ができたようで、先ほどまで一人であれこれ考えていた自分が別人のような気がした。私と布美加はマーカーを手に、求人情報誌を開いた。分厚い求人誌は、めくってもめくっても多くの求人広告で埋め尽くされている。
 このアパートからあまり遠くなくて、必要な分だけ稼いで外は拘束されないアルバイトを探すことにした。「自分の力をためしたい方」や「収入は貴方しだい」などのコピーが入っているものも大変そうなので外すことにした。私たちはパソコンもあつかえないし、車の免許も持たないし、結局は最も多い飲食店がよさそうだ。いくつか見てみると、時給が八百円くらいだ。ということは、二人で五時間、働くと八千円になる。一日、それもたった五時間、働いただけで、今ふたりが持っている現金よりも多くのお金が手に入る。私たちは金の鉱脈でも掘り当てた気分だった。
「でも、これって毎日くれるわけじゃないんでしょう。お給料日に計算してからくれるんでしょう」
 布美加に言われて、気がついた。それまでどうやって生活していけばいいのだろう。
「大丈夫。私の貯金通帳があるから。それまであのお金を使って、お給料をもらってから戻せばいいじゃない」
「だめだよ。あれはお守りなんだから、使ったらお守りがなくなって、きっと悪いことがおこるよ」
 つい言ってしまったけれど、本当にそうなるような気がしてきた。
 求人誌に目を戻すと、「現金即日払い」「入店準備金」などの文字があった。職種欄にはフロアレディ、女子カウンター、コンパニオンなどの文字が並んでいる。時給がぐっと高くなって、二千円以上。二人で五時間だと、二万円にもなる。
「ここで二日、働けば、お守りよりたくさんのお金が入るじゃない。私たちがこの仕事に向いてなくても、二日くらいはもつよ」
 私が言うと、布美加も嬉しそうな顔をした。
「そうよね。すごいね。もし風俗なんかで働いたら、二人でマンションが買えるじゃない」
 私たちは声をあげて笑った。
 気が大きくなった私と布美加は、見学を兼ねて食事に行くことにし、ありったけの現金をポケットに突っ込んだ。

駅近くのファミリーレストランでハンバーグセットを食べた。久しぶりで豪華な食事をして、私たちははしゃいでいた。千九百九十五円を支払って外へ出るとますます気分が浮き立ってきて、電車に乗って飲屋街へ繰り出すことにした。
 学生が行くような居酒屋を選んで入り、ビールの中ジョッキ一杯ずつと枝豆を注文した。二人でものすごい贅沢をしているようで、幸せとはこんなことだろうと思ったりした。
 すぐ顔に出る布美加も、目を少しうるませて気持ちよさそうだ。居酒屋を出た私たちは、飲屋街を歩いてみることにした。
 あちらこちらで、いろいろな声がする。スナックの扉の前では、背広を着た男の人たちを見送っているのだろう、薄い生地のワンピースを着た女の人が何か言っている。私と布美加は顔を見合わせた。
「ああいうのは、無理かもしれない。だいたい、あんな服、持ってないもん」
 私が言うと、布美加がおかしそうに笑った。
「制服ありってのもあったから、どうにかなるよ」
 私たちはどこということもなく、気が向けば通りを渡ったり曲がったりしながら歩きまわった。初めて歩く街は、私たちを旅行気分にした。ひとつの通りに入ると、薄暗い中で点滅する派手な色のネオンが目立っていた。
「いざって時はこういうところも考えておかなくちゃならないから、行ってみよう」
 布美加が歩き出した。呼び込みのような男の人が店を出たり入ったりしながら、通りを行く人に声をかけている。男性が立ち止まると急にひそひそ話になり、何か相談しているように見える。
 布美加と二人で歩くと、からかいの声が飛んできた。呼び込みの人と目が合わないようにして、歩いた。自然と足早になってくる。
「おねえさん、うちで働いていかない?」
 いくつかの声のひとつに思わず振り返った。そこに立っていたのは、赤いハチマキにブルーのはっぴを着た祐輔だった。一瞬、人違いだと思った。髪を短く切り、サラリーマンのようなズボンを履いていた。少し太ったのか、頬の辺りが膨らんで見えた。私と布美加は手を握り合って突っ立ったまま祐輔を見つめた。私たちに気づいたのか、祐輔は何も言わず店の中に引っ込んでしまった。
 自分が何をどうしたいのか判らなかった。それどころか、何をしているのかも判らなかった。後でその時の気持ちを思い出そうとするのだけれど、気分が悪くなったという記憶しかない。二十歳の布美加がいろいろ変わるように、その時の私は私ではなかったのかもしれない。ただ、祐輔が消えた店に向かって歩き出した時、腕を強くつかまれて引き戻されたことを覚えている。
「亜実、家に帰ろう。私たちのお家に帰ろう。こんな所にいちゃいけない」
 布美加が私の腕をつかんだまま、路地の出口に向かって歩き出した。私たちは黙って歩き続けた。明るい駅の構内に入り、やっとひと息ついた。
「亜実、あといくら残ってる?」
 ポケットのお金をすべて引っぱり出して数えた。
「二千二百五十三円ある」
 布美加は指を折りながら、何かつぶやいている。
「よし、電車賃が二人で四百円だから、千八百五十三円の余りだね。電車を降りたら、それ全部つかって飲み物と食べ物を買おう。今夜はお祝いしよう」
 布美加の気持ちが判らなかった。
「何のお祝いなの?」
「私たち、ずーっといいことなかったじゃない。たまにはお祝いしてもいいよ。きっと、これから、いいことあるから」

 

 

 

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