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        てゅら                       ひわき ゆりこ    

胡壷」3号(2004年11月)

推薦 小島義徳(文芸誌O


 

 彼女は四十代半ばでひとりぼっちになった。二十代で結婚もしたが、彼女の両親と同居した婿養子は季節がひと廻りしないうちに女を作って出て行った。家に居ても仕方がないし、母親が「近所の手前」などと言い出したので勤めに出たが、四十歳を過ぎた頃に辞めた。母親の痴呆が進んだためだった。それから母親を亡くし、数年後に父親も他界してしまった。彼女は遅くできたひとりっ子だったため、年からいえば母親の痴呆もその後の父親の死も特別なことではなかったのだが、彼女にとって想像もしていなかった出来事が数年の間に立て続けに起こった。
 彼女は数年の間、人が生きていくためにしなければならない日常的な雑事の三人分をひとりで背負ってきた。掃除をし、洗濯をし、食事を作り、ゴミを出し、庭の草を引き抜き、延びすぎた植木を切り、順番が回ってくれば地域の世話役を引き受け、親類の慶弔時や盆暮れにはそれなりの品や金銭を贈り、するべき事は無限にあった。急にひとりぼっちになった時、彼女にはそれらすべての雑用が無意味に思われた。
 ひとりぼっちになったと同時に、彼女は多くの物を所有した。福岡市郊外の土地付き一戸建ても今では彼女のものだったし、家の中には両親とそのまた親たちが所有していた品々がぎっしりと詰まっていた。それらすべての物が自分に属していると思うだけで、息が詰まりそうな鬱陶しさを覚えた。彼女は、自分が生きている事自体が疎ましいほどの無力感に襲われた。
 その頃の彼女は毎日、家に籠もって時間が過ぎてゆくのを待っているだけだった。生きる気力もないが、死ぬ勇気もない。このまま何もしなければいつかは死んでゆくのだと思うのだが、ひとりになってからやたらと人が来るようになった。近所の人だったり、親戚だったり、どこで聞いたものか以前つとめていた職場の人までがやって来た。その人たちは一様に、「あなたのことが心配で」と言い、「生きていればきっと良いことがある」ふうの説教を精力的に垂れて帰ってゆく。中には身内を亡くした時の思い出話などを延々と語る人もいて、彼女は自分の不幸を利用されているような気になった。
 彼女の中で徐々にひとつの思いが膨らんできた。このままここで年を重ねていけば、母や父のようにいつかは死を迎えることになる。案外、早くその時は来るのかもしれない。しかし、ここでは死ねない。もし彼女の生命に関わる事態が起これば、誰かの通報によって救急車が呼ばれるだろう。母親の時も父親の時もそうだった。連れて行かれた先は、見知らぬ他人に取り囲まれた世界だ。プライバシーなんて欠片もないし、「このまま死なせてくれ」と泣いて頼んだところで聞き入れられるはずもない。
 彼女はただただ他人との関わりが煩わしかった。そうこうしているうちに訪れる人たちの足も次第に遠のいていき、彼女は少しの希望みたいなものを抱いた。このままいけば、いつかは誰にも邪魔されずに死を迎えることができるかもしれない。しかし、彼女がもし誰にも発見されることなく病死や餓死したらどうなるだろう。きっとあの人たちは涙を流して後悔するだろう。「もう大丈夫と思って近ごろご無沙汰していたら、こんなことになってしまって……」という声が聞こえてきそうだ。それに、誰かが第一発見者になる。両親を亡くした彼女には、死や遺体そのものに対する感覚的な怖れがあった。自分自身が、できることならこれ以上だれの死にも関わりたくなかったし、自分の死にも関わってほしくはなかった。彼女の中でいろいろな思いが整理され、少しずつ明確になっていった。
 そんなある日、彼女は居酒屋のカウンターでひとりビールを飲みながら、何皿目かのカレイの唐揚げをつついていた。隣りに座った五十がらみの脂ぎった男が店の主人としゃべっている。男は彼女の存在などまるで目に入らないみたいに、大声でまくし立てている。お腹もいっぱいになってきたし、不愉快なので帰ろうとした時、男の話がきっちり耳に入ってきた。
「オレの友達でさあ、遺産を受け継いだヤツがいるんだよ。外国の話なんかで、よくあるだろう。遠くの親戚が死んじゃって、思ってもない遺産が転がり込む話が。ところがさあ、やっぱ日本はあんなふうにはいかないね。その遺産ってのがさあ、すんげえド田舎の家と土地。周りの住人はみんなとっくに村、捨てて出て行ったってのに、最後までそこに住んでたんだって。そんなもん、もらってもさあ、売れもしないしさあ」
「別荘として使えばいいんじゃないですか」
 主人が取りなすように言うと、男は赤くなった頬をぷるぷると揺らしながら頭を左右に振った。
「そいつんち、農業やってて、田んぼの真ん中に住んでるもの。そんな別荘、欲しかねえよ」
 彼女は飛んできた小石がこちんと当たったような気がした。それはとても気持ちの良い当たり方だった。
「すみません、お話が聞こえてしまったもので。その方が相続された家って、売るつもりはあるんですか?」
 男は、はじかれたように彼女の方へ向き直った。男の遠慮のない視線に緊張し、急に居心地が悪くなった。
「えっ、ええ、そうなんですよ。ボクの友人は売りたがってるんですがね、タダでもらってくれって言っても誰も欲しがらないようなシロモノなんですよ」
 男は急に話し方まで変わり、「どうぞ、どうぞ」と自分のビールを勧めたりもする。そうなれば彼女も悪い気はせず、案外いい人なのかもしれない、と思ったりした。両親を亡くし、ひとり暮らしをしていた彼女には、なんの係累もない男の泥臭さが温かく感じられたのかもしれない。
 男は少しろれつの回らなくなった舌で、その場から遺産相続者に電話もしてくれた。

 母親の痴呆が深刻な状態になった頃だったろうか。彼女はひとつの唄を口ずさむようになった。確か「一週間」という題名のロシア民謡だったと記憶している。水曜日にお風呂を沸かして木曜日にお風呂に入る、みたいな内容だった。最初に聞いたとき彼女はまだ小学生だったが、翌日にはお風呂のお湯が冷めてしまうだろうに、と思ったものだ。
 彼女は家事をしながら民謡のリフレイン部分を唄い続けた。たまに母親がそのリズムに反応して、笑いながら手を上下に振ったりした。そんな母親を見るのは心安らぐものがあったが、彼女にとっては終わりのない家事に見切りを付けるための呪文だったのかもしれない。目の前にある、やるべきことを先送りするための言い訳だったのだろう。
 しかし今回、彼女はやるべきことを先送りしなかった。しかも、注意深く事を進めた。男と出会った居酒屋には二度と行かなかったし、家の持ち主とも電話で話しただけで、交渉はすべて持ち家の売却とともに不動産業者に任せた。
 契約する前に、一度だけ彼女は家を見に行った。不動産業者から渡された住所と地図を頼りにひとりで出かけた。彼女はこの時と引っ越す前に荷物を運び込む時との二度、自分で運転して出かけたのだが、よくそんなことが出来たものだと思う。ペーパードライバーだった彼女は仕方なく父の車を運転するようになったが、運転は恐怖でしかなかった。自宅のガレージに入れるのにも手こずり、当然、車のボディーはでこぼこだったし、隣の塀にぶつけて謝りに行ったこともある。そんな彼女が高速道路を通って、行ったこともない山奥まで車を走らせたのだ。
 目指す家は石垣の上に立っていて、手すりのないコンクリートの急坂が下の道から続いていた。彼女は坂の下に車を止め、どうにか車一台分の幅を取った坂道を歩いて登った。表札もそのままになっていて、田所伊蔵という名を確かめて人気のない家の周囲を見てまわった。
 思ったほど家は傷んでいなかったが、周囲は藪になっていて花壇や畑もどうにかそれと判別できる程度だった。立ち枯れた草をかき分け家の横手にまわると、裏山から引いた樋から水盤に水が流れ込んでいた。庭先に立つと、山の中腹にあるので見晴らしが利く。はるか下には水田が広がり、右手の山の麓に集落が見える。周囲の山はほとんどが植林されていて、整然とした深い緑に覆われている。その集落以外に、どこにも人が住んでいる気配がないことが彼女を満足させた。

 引っ越してきて、まず彼女が好もしく感じたのは光と音だった。この場所で初めて暗闇というものを知った気がする。夜が来れば、自分が瞼を開いているのか閉じているのか判らない闇に包まれる。しかし雲が途切れて月が顔を出せば、一面に白っぽい風景が広がる。音のない世界で、月明かりは昼間とは違った景色を浮かび上がらせる。最初は厳重に戸締まりをしていた彼女だったが、次第に屋外も住まいの一部のようで気にならなくなった。
 住まいもまた、彼女に好奇心と新鮮味をもたらした。元の家主の家財道具については、相続人の希望と彼女の意向が一致してほとんど残されたままだった。彼女は、整えられた他人の生活をまるごと自分のものにしたような気がした。生まれてから一度も引っ越しをしたことのない彼女にとって、それはとても奇妙な感じだった。自分の所有物なのに、いつも新しい発見がある。台所の戸棚の中に並んでいる食器類は、彼女が馴染んでいるものとは違っていた。使う物と使わない物とを分けようと、戸棚の中から出して並べてみた。藍色を主体にした小皿や茶碗の数々は、骨董屋の店先を見ているようだった。
 押入の天袋も彼女にとって未知の空間だった。奥までぎっしり箱が詰まっている。手前のいくつかを取り出して開けてみると、合成樹脂の菓子盆や派手な九谷焼に似せた大鉢だったりした。ひっくり返すと、日付とともに「落成記念」や「敬老記念」などの色褪せた金文字が並んでいる。結婚式の引き出物なども混じっているのだろう。
 彼女も以前いくつかの結婚式に出席し、引き出物をもらった。同じように押入の天袋に詰め込んでいたが、業者に処分を頼んでそのまま置いてきた。そんな自分が、他人が集めた引き出物をまた所有していることが奇妙な巡り合わせように思えてくる。記念の品々の箱は古びているが、中の品物は使われた形跡はなく微かな晴れがましさを発散させていた。
 母屋の西側には納屋が建っていた。機械類は処分したのだろう、がらんとしたコンクリート貼りの大きな空間があって、壁際には鎌や鍬などの農機具が並べられていた。天井裏もあり、梯子段を登っていくと砧や分解寸前の糸繰りなどが放置されている。彼女はその中から一抱えもある桶を引っ張り出してきた。洗ってみると、しっかりした造りで水漏れもない。玄関脇に据え、満たした水に草花を浮かべた。
 庭には茂った雑草に混じってグラジオラスやマーガレットが顔をのぞかせたし、コブシやモクレンも見上げるほどの大木に白磁の破片を散らしたような花を付けた。敷地を出て歩き回れば、そこにもまた山桜や名前も知らない山野草が咲いていた。彼女は思い付くままに花を摘み桶や花瓶にこぼれるように挿したし、戸棚から取り出した古いガラスコップにも飾って家のあちらこちらに置いた。花はいくら摘んでもなくなることがなく、彼女はとても贅沢な気分になった。春先に始まった彼女の新しい生活は、探検と発見に満ちていた。
 車は引っ越してくる時に手放した。車の運転から解放され、彼女は自由を得た気分だった。自分の足で歩けば、移動しながら周囲の風景を眺めたり、考え事をすることもできる。移動に必要なものだと思えば、自分の二本の足も改めて大切なものだと思えてくる。彼女の技術のせいでもあるのだが、鉄の塊の訳の分からないメカニズムで動く車には最後まで親近感が持てなかった。
 彼女は、どうしても必要なものはバックパックを背負って集落まで歩いて買いに行く。一軒だけの小さな商店には、日持ちのする食料品や下着類、釣り道具なども並んでいるし、アイスクリームボックスにはパックのまま冷凍された小間切れ肉や魚の切り身が霜を被って詰め込まれている。ここはバス停留所でもあり、小型バスが一日に二回やって来てはまた折り返して行く。天気の良い日には、店先の縁台に老人が数人集まって何をするでもなく時間を過ごしている。
「あんたあ、どこん人ね」
 彼女が最初に掛けられた言葉だった。棚から取った小麦粉の袋を手にしたまま、彼女はどう答えればいいのか判らず黙っていた。
「ここいら辺に住んどうと?」
 老婆は味噌煎餅をぽりぽり噛み砕きながら訊いた。
「ええ、まあ」
 わざとぼかした答を返したが老婆は気にするふうもなく、彼女の横まで来て味噌煎餅の袋を差し出した。
「ほら、遠慮することいらんと」
 彼女が無視して種物を並べたスタンドを見ていると、老婆も移動してきて一緒に覗き込んだりする。
「あっ、そりゃあ難しか。こっちの二十日大根と小松菜にしんしゃい。どうせ、素人やろうもん」
 彼女は老婆を無視して手当たり次第に数袋を取り、他の食料品と一緒に支払いを済ませて店を出た。
「近ごろの若いモンは、なんば考えとうか判らん。口ぐらい利いたっちゃ、損するわけでもなかろうに」
 後ろで老婆の声がした。
 帰り道を歩きながら、彼女は気持ちが沈んでいた。老婆が言ったとおり、口を利いたからといって損をするわけでもない。自分に対して示された好意を平然と無視したことにも、罪悪感がある。しかし彼女の中に、人付き合いに対する鬱陶しさが根強く居座っている。
 最初のうちはお菓子を分けてもらったり、種物を選ぶのを手伝ってくれたり、野菜の育て方を親切に教えてくれたりして、彼女もそれを心地よく思うだろう。そのうちに、いつもお菓子をもらうばかりという訳にもいかないので、お返しを考えなくてはならない。彼女はどんなお菓子をどんなタイミングで差し出せばいいのか判らなかったし、そのことに頭を悩ませるのも面倒だった。野菜作りにしても、もし老婆が出来具合を見にやって来たらどうしよう。せっかく教えてもらったのだから立派な野菜を収穫しなくては、と彼女は思うだろう。そうなるともう、誰のために野菜を作っているのか判らなくなる。彼女の頭には、鬱陶しさばかりが浮かんでくる。
 傾斜が急な上り坂にさしかかり、彼女は額の汗をぬぐった。両肩に食料を詰め込んだバックパックの肩紐が食い込んでいる。彼女は深く腰を曲げ、バックパックを背中に載せるようにして登って行った。この坂を登り切れば、家まではすぐだ。坂の途中で立ち止まって振り返ると、今いた集落が小さく見える。彼女の気持ちは少しずつ自由を取り戻していった。
 先ほどの老婆の言葉を思い出してみると、なんだかおかしい。彼女のことを「近ごろの若いモン」と言っていた。彼女にとって「近ごろの若いモン」とは、二十歳前後の人たちを指す。彼女にとっての「近ごろの若いモン」は非常識で傲慢であり、ちょっと羨ましくもあった。ここでは彼女が「近ごろの若いモン」なのだ。そう考えると、先ほどの老婆に対する愛想の悪さも特別なことではないのかもしれない。

 テュリャ テュリャ テュリャ テュリャ テュリャテュリャリャー
 テュリャ テュリャ テュリャ テュー リャー リャー
 彼女の中で、同じメロディーが何度も繰り返される。正確に言えばそれは頭の中だけでなく、実際に声に出して唄っているのかもしれない。何日間、人と会っていないのだろうか。最後に誰かに向かって声を発したのは、いつ何処でだっただろう。彼女は寝起きの頭で思い出そうとするのだが、すぐにどうでもよくなった。
 頭の中で「テュリャ テュリャ」が「てゅら てゅら」や「Tyula Tyura」になったりしている。
 昼間は半袖で過ごすようになった。彼女はある朝、床を出るのがひどく億劫だった。起きてからするべき事を考えてみるが、どうしてもしなければならない事柄を思いつかない。朝食だって誰かに食べさせなければならないということもないし、自分だけなら一食や二食ぬいたからといってどうなるわけでもない。彼女はぼんやりしながら、床の中でロシア民謡のリフレイン部分を繰り返している。
 両親が元気だった頃は、ダイエットに気を遣っていた。しかし専業主婦の母親はケーキなども手作りし、彼女はつい誘惑に負けて過剰な量の食べ物を口に運んでいた。母親が痴呆になってからは、味わってものを食べた記憶がない。彼女の料理技術にも問題があったが、四六時中なにかに追いかけられ、ゆっくり味わって食べる暇もない生活だった。そんな中で彼女がリラックスできるのは、甘いものを口にする時だけだった。家事と家事との合間のわずかな時間に、彼女は甘いものを口に放り込んだ。舌に広がる優しい感覚は彼女の緊張を解き、しばしの幸福感をもたらした。
 父親とふたりの生活になってから、彼女の体重は更に増えてしまった。逆に父親は以前にも増して小食になり、いつも彼女の手料理を残した。彼女は自分が拒絶されているような気がして、食卓には店屋物やパック詰めの総菜が並ぶ回数が増えていった。今から思えば、小食になったのは年を取ったための自然な成り行きだったのかもしれないし、慣れ親しんだ妻の味が恋しかったのかもしれない。しかしその時の彼女には、父親を思い遣る気持ちの余裕がなかった。隣家から「お宅の木の枝がうちの方にまで伸びてきて困ってます」と言われれば、「はあ、娘に言っておきましょう」とにこやかに答えて庭に足を踏み入れもしない父親だった。彼女はいつも多すぎる量の食べ物を注文し、買い求め、残してはもったいないと思いながら食べ続けた。そんな食習慣はひとり暮らしになっても変わらなかった。
 彼女が体型の変化に気づいたのは、引っ越してしばらくした頃だった。カレンダーがないので時間の経過が判らないし、体重計もないので数値ではっきり確認したわけではない。しかし、食い込むように身体に密着していた衣服がゆるくなって動きが楽だったし、洗面台の鏡には頬骨と鎖骨が浮き出た自分が映っていた。
 彼女は横になったまま、ぼんやり考えていた。引っ越してから甘いものをほとんど口にしなくなった。越して来る前に食糧などの生活必需品を大量に車で運び込んだ。それでも、なるべく買い物に行かなくて済むように食料品は節約して使った。春はタラの芽や竹の子などの山菜がいくらでも採れたし、前の人が植えたのだろう、畑らしき所から野菜が芽を出すこともあった。彼女はそれらを積極的に食べた。新鮮な食材は美味しかったし、収穫も楽しかった。
 しかし近ごろは食べ物に対する興味が失せてしまった。我慢できないほどの空腹を感じた時に、最低限の食物を摂るだけになっていた。また痩せたようで、床の中で腰の辺りに手を遣ると突き出た骨盤に触れた。
 彼女はまだ起き上がるきっかけを捜していた。顔を洗わなくてはと思いながら頬を撫でると、適度な湿り気を帯びた肌が指の腹に吸い付くようだ。脂っぽいのとも違う。ここに来てから肌の手入れをしなくなった。洗顔も山から引いた湧き水を溜めた水盤に顔を突っ込むだけで、石鹸を使わないことも多い。以前は朝夕の洗顔を念入りにしてクレンジングなども使い、何種類もの高価な化粧品を塗り込んでいた。そこまでしても眉間から鼻に掛けては脂が浮き上がり、反対に頬や顎は粉を吹いたように皮膚がカサついた。肌の手入れに費やした時間と手間はなんだったのだろう。だいたい自分は何のために肌の手入れをしていたのだろう。誰か特別な人に会うわけでもないし、ことさら美しくなりたいと願ったわけでもない。
「今朝は洗顔、パス!」
 元気よく言ったつもりが音はすぐに消え去り、本当に自分が声を出したのかどうかも覚束ない。意識の中だけの声だったのかもしれない。
 横になったまま身体の位置をずらすと、座卓の上に置いた花瓶が目に入った。花も葉も茶色になって、うなだれている。家の中にも外にも、同じような光景が散らばっている。訪れる人もないこの家で、自分はいったい何のために花を飾ったのだろう。花のある生活がそんなに好きだったのだろうか、と彼女は自分に問いかけた。気の利いた料理を作ったり、本を読んだり、映画を見たり、そんなことの全てが、何の意味もないように思えてきた。
 とりとめなく頭をめぐらしているうちに、起きるきっかけがやってきた。下腹部に違和感がある。「気のせいだ」と言い聞かせて目を閉じたが、尿意は激しくなるばかりだ。もう我慢できない。急いで外に飛び出し、数日前に掘った穴を跨いでしゃがんだ。
 一気に解放感が来た。そのままの姿勢で辺りを見まわすと、また緑が勢いを増したようだ。山全体がうごめきながら増殖しているようで、見ているだけで息苦しくなる。緑の勢いに気圧されたのか近ごろよく、とらえ所のない不安が湧き上がってくる。
 無防備にお尻を晒したまま彼女はまた考えていた。今はいいが、寒くなったら外で用を足すというのはどんなものだろう。やはり冬場は室内のトイレを使った方がよさそうだ。思い切ってトイレの内容物を汲み出そうか。そのための道具はたぶん、納屋の右側に収納されているあれだろう。彼女の肩くらいまである柄の付いた柄杓と、紐付きのバケツが二個。あれでああして、と手順を組み立ててみるが、やはりやろうという気力が湧かない。
 引っ越した当初、彼女はなんの躊躇いもなくトイレを使っていた。彼女が子供だったころは自宅のトイレも汲み取り式だったので、懐かしく思ったくらいだ。ある時、固形物が落ちた時の音がいつもと違って聞こえた。こわごわ覗き込むと、なんだか大量に溜まっている気がした。そこで初めて、彼女はこのまま使い続ければどのようなことになるかに想像が及んだ。自分のものなら仕方がないと諦めもつく。しかし、どうも田所伊蔵のものも混じっているようなのだ。最初、使う時に確認したわけではないが、空だったとは思えない。田所伊蔵がいつまで使っていたかは知らないが、どんなに時間が経過したところで全てが蒸発してしまうはずはない。見ず知らずの、しかももうこの世にはいない田所伊蔵の排泄物を汲み出すのは、どうも気が進まない。
 彼女は汲み出しを先延ばしするために穴を掘った。穴は一回で埋めてしまうこともあれば、何度か使うこともある。埋めた場所は草が生えていないので、それと判る。周囲と判別がつかなくなった頃には、内容物も土に還っているだろう。穴を掘る場所なら、無限にあった。ただ、いくら自分のものとはいえ、無意識に掘っていて白い紙のようなものが出てきたら気分が悪いので、使った紙は一カ所に集めて燃やした。
 汚物となった紙がたまっていくと、彼女は台湾や韓国のトイレを思い出した。母親が元気だったころ、一緒に旅行した。ホテルやレストランのトイレにはプラスチックのくず入れが置かれていて、使用済みのトイレットペーパーが入っていた。母親が「好もしい処理方法だ」と言って違和感を示さなかったのが意外だった。あの頃は彼女の有給休暇のほとんどが母親との旅行に使われたし、休日はふたりで買い物を楽しんだ。父親はお金を稼ぐことだけが自分の使命と思っているような人だった。妻娘が使うことには文句ひとつ言わなかったが、彼女たちの楽しみに加わることもしなかった。
 目の前の嫌なことから逃げ出したいというだけの、無鉄砲にも思える彼女の新しい生活はいろんなところで軋みが生じ始めていた。

 それは最初、ほんのわずかな気配のようなものだった。陽が昇るとすぐに蝉が鳴き始めた。彼女は相変わらずロシア民謡を口ずさみながら、あらゆることを先送りする生活を決め込んでいた。しかし、どうしても先送りできないのは排泄と食物の摂取だった。彼女にとってはもう、食事という形態もなくなっていた。
 いつものように穴の上にしゃがみ込んでいると、熊笹の繁みがわずかに動いた。風とは違った不自然な動きだった。無防備な格好をしていたのでその場で身構えたが、すぐに気配は消えた。それからは時どき外にいると、それの気配を感じるようになった。気配は脈絡なく生じ、彼女が注意深く探っているといつの間にか消えた。彼女の住まいの裏側から人が来ることは考えられない。見渡す限り、人が住んでいるのは下の集落だけだ。彼女は穴にしゃがむ前に敷地の端まで行って集落へ続く一本道を点検するのが習慣になった。毎回、目を凝らして見まわすのだが、そこに人の姿を見つけたことはない。だが確かに生き物の気配を感じる。
 そうするうちに、彼女はそれの気配に慣れていった。それは危害を加えるふうではないし、どこか生き物特有の温かさを漂わせているようでもある。野生動物か何かなのだろうか。ひょっとしたら、猿か鹿が棲息しているのかもしれない。そう思うと、なんとしてもそれの姿を見てみたいし、できることなら餌付けなどして飼ってみたい。彼女はしだいに外で過ごす時間が多くなっていった。
 暑い日が続いていた。このところ、それの気配がだんだんあからさまになってきている。その日も暑い時間帯に楠の大木の根方で本を読むことにした。田所伊蔵はミステリー好きだったようで、どうやって手に入れていたのか松本清張や森村誠一の文庫本がかなり揃っていた。適当に一冊を抜き取って、涼しい風が通る木陰で読み始めた。
 それは、すぐにやって来た。彼女は本を読むふりをしながら、全神経を繁みの中に集中した。居ることは確かだが、まったく動かない。持久戦を決め込んで、我慢強く待った。どのくらい経っただろうか。彼女がゆっくり本を閉じて横に置いても、繁みの中のそれは反応しなかった。音を立てないように注意して立ち上がり、そっと繁みに近づいた。枝葉の間から、布のような物が見える。獣の体表を想像していた彼女は、目をこすって顔を近づけた。笹の葉が揺れ、さわさわと音を立てた。
 とたん、まるまっていたボロ布のような物がほぐれ、ものすごい早さで繁みの奥へ消えた。
 彼女はその場に尻餅をついて、しばらく動くことができなかった。いま見た光景を思い出そうとするのだが、ストロボを焚いたような静止画像がいくつか頭の中に焼き付いているだけで、一連の動きとして記憶していない。
 画像の一枚を引っ張り出して頭の中で思い浮かべる。それは布を纏った人間に見えた。子どもくらいの大きさしかなく、こちらに向かってお尻を突き出していたようだ。ちょうど赤ちゃんが這うところを後ろから見た構図である。ボロ布だけではなく、後ろに二本、脛のようなものが突き出していた。日焼けを通り越したような濃い褐色だったが、あの質感は人の肌だった。脂肪などはまったく付いてなくて、鶏の足のように筋張っていた。
 集落の老婆のひとりが偵察に来たのだろうか。見た感じは老婆のようだったが、集落の人たちとは明らかに違っていた。着衣もズボンのようではなく、着物かスカートのように筒状になった裾から両足が出ていたようだ。しかし纏っていた布地の質感は、着物やスカートとは違っていた。
 最初に見た時のボロ布のかたまり、次のお尻を突き出して這う後ろ姿。きっとそれは彼女を窺っているうちに眠気が来てうたた寝でもしたのだろう。気が付けば彼女から反対に見られていたので、あわてて退散したようだった。彼女にも驚かせるつもりはなく、すこしばかり気の毒なことをしたような気になった。
 急に彼女はその場に尻餅をついたままの格好で笑い出した。それのあわてふためいた姿、なにやらわけのわからない着衣。彼女にしても、タンスの中から引っ張り出した田所伊蔵の作業ズボンを履いていた。明日はやろう、明日はやろう、と洗濯を先延ばししているうちに着る物がなくなったからだ。田所伊蔵の作業ズボンは生地がしっかりしていて、木の根方に直接すわったりするのに適していた。
 今日はもう、それが来ることはないだろう。彼女は家に入り、開け放した座敷に寝転がって本の続きを読み始めた。水盤から溢れた山水が流れる音が微かに聞こえてくる。広縁の先は真夏の陽射しと蝉しぐれ。彼女はしばしまどろんだ。
 目覚めると身体の中に気怠さが残っていて、起き上がるでもなく、眠るわけでもなく、ぼんやりしているのが心地よい。見上げると、鴨居に賭けられた数枚の写真が見える。この家のご先祖様の写真で、遺影として使われたものだろう。みな紋付き姿で、一枚だけ軍服を着た若い男がいる。髷を結った老婆の写真もあって、実在の人物ではないような気がする。遺産相続者は田所伊蔵とはよほど縁が薄かったのだろう。こんなものまで手つかずで飾られたままだ。
 ふと、田所伊蔵はどんな顔をしていたのだろうか、と思った。ここの最後の住人だから、田所伊蔵の写真は飾られていないのだろう。お葬式くらいしただろうから、そのうち何処かから遺影が出てくるかもしれない。一番、右端は田所伊蔵の奥さんかもしれない。人の良さそうな丸顔で、修正されたのか皺のない顔は輪郭が少しぼやけている。男たちは軍服姿の若者を除いてみな頭頂部まで禿げ上がり、三日月のような長顔だ。きっと田所伊蔵も似たようなものなのだろう。仏壇の中は彼女が越して来た時から空だった。さすがに遺産相続者もそこまではおろそかにするわけにもいかず、どこかに祀ったと思われる。田所伊蔵は、あの世で奥さんや先祖に会えたのだろうか。
 彼女はなんだか奇妙な気分になった。会ったこともない人たちの写真を眺めながら、あれこれと考えをめぐらしている自分がおかしかった。写真の人たちにしても、何年も先に見ず知らずのなんの縁故もない女が自分たちの座敷に寝転がり、やれ禿げているだの三日月型だのと勝手なことを言うなんて想像もしなかったはずだ。
 その夜、彼女は久しぶりで米を炊き、何品かの料理も作った。

 しばらく消えていたそれの気配をまた感じるようになった。確かに、それがまた来ている。彼女はわざと気が付かない振りをして、外に出る時は大きな声で唄って自分のいる位置を知らせた。それがかなり近くまで来ていると感じる時もあるが、やはり姿を見せない。彼女のことを怖がっているのだろうか。もしそうだとしたら、危害を加える心配などないことを伝えなければならない。しかしどうやって伝えればいいのだろう。話しかけたりしたら、また現れなくなるかもしれない。
 彼女は思い付いて、引っ越し前に運び込んだ荷物を点検した。まだ開けていない食料品の箱があったはずだ。引っ張り出して開いてみると、乾パンやスナック菓子が出てきた。それは年を取っていそうだから、硬いものはやめた方がよいだろう。ポテトチップスなんかも年寄りは食べないだろうから、やはり甘いものがよい。餡の入ったまんじゅうなどがよいのだが、日持ちのするものしかない。彼女はチョコレートクッキーの袋を開けた。
 紙の上に五枚のクッキーを並べて大楠の根方に置いた。その日は何をしていても落ち着かなかった。クッキーを見に行きたくて仕方ない。西の空が朱色に染まったころ、彼女はやっと大楠の根方に行った。紙全体に土をまぶしたように蟻がたかっていた。クッキーの数を数えたが、ちゃんと五枚あるし位置が動いた様子もない。彼女はひどくがっかりした。
 ひょっとしたら、それは、チョコレートクッキーが食べ物だと知らないのかもしれない。彼女は夕食を食べながら想像をめぐらした。それが、下の集落から来たのではないのは確かだ。だとしたら、彼女の住まいよりもっと山奥から来たのだろう。彼女は迷わない範囲で周囲の山を歩き回ったりもするが、いくつかの廃屋はあっても人が住んでいそうな建物や場所を見たことはない。それは、もっと遠くから来ているのだろうか。そもそも、それ、とは一体なんなのだろう。何のために彼女の所まで来て、なぜ姿を見せないのだろう。狼に育てられた子どもや、戦争が終わったのを知らずにジャングルの中で生活していた人の話を彼女は聞いたことがある。それも、そのようなものなのだろうか。この山のどこかで、ひとりぼっちで自給自足の野生生活をしているのだろうか。
 翌朝、彼女は多めに炊いた御飯で梅干し入りのおにぎりを三つ作った。戸棚の奥から出てきた竹の皮をきれいに洗っておにぎりを包み、さらに晒しの布巾にくるんだ。布巾の端をよくそれの気配がする辺りの木の枝に結び付けた。日陰を選んだが、暑い日が続いているので心配だ。なるべく早くおにぎりを見つけてくれるようにと願いながら、彼女はその日、家から出ないようにした。
 翌朝おにぎりを吊した場所に向かうと、昨日の朝と同じように布巾がぶら下がっているのが見えた。彼女はがっかりした。しかし近づいて行くと、なにやら様子が違っている。おにぎりの重みで垂れ下がっていた部分が不自然だ。彼女は走って行って、布巾に触れた。中にはなにも入っていなかった。彼女の中にじわじわと喜びが湧いてきた。それと、接触できたことが嬉しいのだろうか、それともこのところ熱中していた事が成功したので喜んでいるだけなのだろうか。彼女は自分でもよく判らなかった。
 次の日から、食べ物を包んだ布巾を木の枝に吊すのが彼女の朝の日課になった。朝食を作るとき少し取り分けておいたり、戸棚の中を適当な菓子類はないかと見まわしたりする。その行為は、彼女が幼かったころ同居していた祖母が仏壇に供え物をしていた姿を思い起こさせた。いつも翌朝に布巾は空になっていたが、たまにスモモや名前も知らない木の実が入っていることもある。
 彼女はまた外で過ごす時間が多くなった。それは、いつの間にか来て布巾の中の食べ物を持ち去る。やはり姿は見えないが彼女の近くまで寄って来ることもあった。彼女は雑草を取り除き、袋の裏の説明書を読みながら種を蒔いて育て、トマトやオクラなど何種類かの野菜が収穫できるようになっていた。それは、彼女がいない時に畑に入っているようで、時どき野菜の支柱の立て方が変わっていたり、苗が植え直されていることもある。
 彼女は、それとの関係を好もしく思っていた。束縛し合うこともないし、相手に対して責任を負うこともない。気持ちを移さなければ、乱されることもない。それは、空気のように漂い、彼女の意志とは関係なく出没する存在だった。
 彼女は外で作業しながら、ロシア民謡のリフレイン部分をよく口ずさんだ。声を出して唄いながら、母親の笑顔を思い出した。痴呆で会話もまともに成立しなかった母親のことを思うと、それも、きっと聞いているような気になる。それが、どんな顔をしているのか知らないが、母親がやっていたように両手を上下させながらリズムをとっているように思えるのだ。

 ある朝、外へ出ると玄関脇にトウモロコシが積み上げられていた。ひと抱えもあるトウモロコシの山は、食料の確保という点で彼女に安心感をもたらした。一本を手に取るとずしりと手応えがあり、大きな黄色い実がぎゅうぎゅう詰めで並んでいる。それの、贈り物なのだろう。素直な感謝の気持ちを抱いた。
 彼女は久しぶりで買い出しに出かけることにした。近ごろは布巾の中の物は食べ物だと理解したらしく、それは、スナック菓子なども食べているようだ。どら焼きやまんじゅうなども入れてみようと思いながら、集落へ向かう彼女の足取りは軽い。
 店の前には相変わらず数人の老人たちがたむろしていて、今日は男性も混じっている。風が通る木陰で、色とりどりのアイスキャンデーを手にしてみんな真剣に食べている。舐めてみたり、噛みにくそうにちょっと囓ってみたり、溶けないうちに食べてしまおうと集中しているのだろう。
「あんたあ、どこんモンな?」
 店内で商品を物色していると、いち早くアイスキャンデーを食べ終わった老人が店の入り口に立っていた。無視していると、彼は自尊心を大いに傷付けられたようだ。
「人が訊きよるとに、返事する道も知らんとか!」
 彼女は強い口調に気圧されて答えた。
「あのう、田所伊蔵さんの家に……」
 老人の表情がきつくなった。
「伊蔵んとこは跡継ぎはなか。どこから来たな?」
「ええ、遠縁に当たる者で、管理のために時どき来ています」
 口からの出任せだったが、老人はそれで勢いを削がれたようだった。不機嫌そうに彼女を睨みつけている。
「またあ、こん人は若かオナゴと見ると構うてから。オトコはいくつになっても仕様んなかこと」
 妻なのだろうか、声が掛かると老人は表情を崩し、頭を掻きながら元の場所に戻った。彼はこのようにして共同体を守ってきたのだろう。
「若か人は若か人の考えがあるっちゃけん、お迎えが近か年寄りがなんか言うても聞きなさらんと。私たちゃ、ここで死んでいくだけやけん、若か人のよかごとしたらよか」
 老婆の言葉が嫌味にも聞こえたが、大らかな受容にも取れる。
 老人たちは一応、納得したらしく、自分たちのおしゃべりに戻っていった。
「また頭の黒かネズミが出たばい。トウキビばごっそりやられた」
 そのひと言で、彼女の意識は老人たちの会話に引き寄せられた。
「あんたんとこのトウキビはとうの立ちよったばい。早う採らなあ、硬とうて食べらりゃせん。種にでもするとな?」
 周囲から笑い声が上がった。
「そりゃあ、わかっとるばってん、若いモンなおらんし、なかなかそこまで手がまわらんたい」
 トウモロコシを盗まれた老人は口を尖らせて言った。
「ここしばらくは出んじゃったけん、死んでしもうたかと思うとったとばってん。それにしても、ネズミはどげんして暮らしよるもんじゃろうか。着るモンやらも要ろうに」
「なんせ、頭の黒かネズミじゃけん、こん前は洋服ば干しとったら盗られてしもうてから。娘が送って寄こした上等モンじゃったとに」
「あーた、そりゃタンスの奥から出てきた言いよったじゃなかね」
「そうやったかいな」
 老人たちがネズミと呼んでいるのは、それの、ことらしい。彼らの話は横道に逸れながらも、ネズミについて延々と続いた。彼女は商品を選ぶ振りをしながら聞いていた。お互い耳が遠いのか、振り絞るような大声を張り上げるので、店の中に居てもはっきり聞こえる。
 彼らの話を総合すると、それは、老婆らしい。元はどこかの大地主の娘だと言う人もあれば、地主の家の奉公人だったと言う人もいる。家が没落したとか、養子である地主との仲を知られて叩き出されたとか、時代がかった話になっている。二、三日前の出来事のように戦時中の話をする人たちだ。頭の中は時間など超越しているのだろう。その後それは、放浪して落ちるところまで落ちた、という点では一致していた。
「とうとう他人様にゃ言われんごたあことまでして食いつなぎよったばってん、脳梅ば患うてしもうて、気がふれたげな」
 先ほど彼女に詰め寄った老人は意味ありげに声を落としたつもりらしいが、きっちり聞こえている。
「考えてみりゃあ、酷か話ばい」
 老婆がしんみりと言った。彼女は老人たちの会話が気になって仕方ない。思い切って質問してみた。
「あのう、それって、みなさんは顔を見られたことありますか?」
 お互い顔を見合わすばかりで返事がない。少しして先ほどの老人が口を開いた。
「しかと顔まで見たこたあ、なかばってん、いっぺんだけ捕まえろう思うたら捕まえられたとやけど」
 老人は立ち上がって身振り手振りを交えて話し始めた。
「畑がイノシシに荒らされたことがあってなあ。見まわりよったら草むらで音のしたけん、持っとった棒ば振り下ろしたと。手応えのあったもんねえ。こっちにゃ向かって来んごたるけん、草ば掻き分けて覗いてみたら、なんと、ネズミが足ば引きずりながら逃げて行きよった。わしゃあ、イノシシと思うとったけん、たまがったばい。ネズミは口が利けんっちゃろうや。叩いた時も、ウンともスンとも言わじゃった。あんたんとこも、ネズミが出るとな?」
「いえ。ただ、みなさんの話を聞いていて、どんな人かなあ、と思ったものですから」
「そういやあ、ネズミの顔ば、しかと見たモンはおらん」
「元はものすごい別嬪やったげな。ばってん、梅毒に罹って顔じゅうにひびの入って、ふた目と見られん顔になっとるそうな。我がで判っとっちゃろう。誰にも姿ば見せようとせん」
 老人たちの話はどこまでが真実なのか判らない。彼女はだんだん不愉快になってきて、店を出た。
「ネズミに引かれんごとしときんしゃい」
 後ろで声がして、老人たちの笑いが後に続いた。
 重い荷物を背負って坂を登りながら、彼女は無性に腹が立ってきた。アイスキャンデーの棒を手に立ち回りを演じていた老人は、ちょっと得意気でもあった。集落の老人たちが、それに対して、優越感を持っているようにも感じられた。
「自分たちのボケを棚に上げて、なんでもかんでも、それのせいにして」
 彼女は声に出して言ってみて、奇妙なことに気づいた。彼女の中では特定の「それ」ではあるが、集落の老人たちが絡んでくると単なる代名詞であり、なんともとらえ所のない曖昧なものになってしまう。集落の老人たちは「ネズミ」と言っていたが、名前が「ネズミ」なんかでよいはずはない。
 彼女は「それ」を現実に存在しているものにするために、「てゅら」という名前を付けた。彼女にとって、頻繁に繰り返される親しんだ音だった。「テュリャ」でもなければ「Tyuia」でもない。「てゅら」こそが最も相応しいと思えた。
 彼女の中で名前を持っているのは、今のところてゅらと田所伊蔵だけだ。自分にも名前があることを改めて思った。ここに来てからというもの、誰からも呼ばれず、自分の名前を書くことさえなかった。声に出して言ってみたが、他人のもののようでもあり、現実には存在しない人のようでもある。名前とは、他人の為のものなのだろう。「てゅら」も、てゅらの為のものではなく、彼女の為のものだった。
 彼女の鼻唄も、呼び掛ける対象を得て以前とは違う意味合いを持つようになった。
 てゅら てゅら てゅら てゅら てゅらてゅらら
 彼女はてゅらのことを思いながら、声を出して唄う。
 山での生活が長くなるに連れて、彼女の感覚は鋭くなっていくようだ。以前よりもてゅらの気配を濃く感じるようになっていた。てゅらが近くに居る時、彼女は自分が受容されているのか拒絶されているのかが何となく判る。てゅらの感覚はもっと鋭いのだろう。今あの草むらを掻き分ければてゅらの姿をとらえることができる、と彼女が思っただけで、ふっと気配が消えてしまったりする。そんなことは自分ひとりの思い込みだという気もするが、日を追うに従ってお互いが発散する気配は強くなり、彼女の中で確信となってゆく。

 いつの間にか、昼間でも半袖では過ごせなくなっていた。朝夕の冷え込みは日ごとに強くなっている。彼女は納戸から電気ゴタツを出してきた。冷えたつま先を突っ込んでスイッチを入れると温かさが広がり、ゆったりした気分になる。この家に電気がきていることを心の底からありがたいと思った。これからはもっと寒くなる。コタツだけで冬を越せるだろうか。彼女は納屋にストックされている炭や練炭と、その使用法を確認しておくことにした。
 田所伊蔵は用心深くて、何でも貯め込む性格だったらしい。こんな所で最後まで暮らしたのだから生きていくための知恵だったのかもしれないが、かなりのストックがあった。しかし彼女には、それらがいったい何時までもつのか判らない。とにかく節約しながら冬を越してみようと思った。
 ふと、てゅらはどの様にして寒さを凌いでいるのだろうと気になった。寒さだけではない。煮炊きもするだろうし、湯も沸かすだろう。自分は今までどうしてそのことに気づかなかったのだろう。それからの彼女は一日に何度か周囲の山々を注意深く見まわすことにした。それらしきものはすぐに見つかった。夕暮れ時、裏山の木々の間から煙のようなものが立ち上っているのが見えた。彼女の家よりずいぶん上で、気を付けていなければ見落としてしまいそうな弱々しいものだった。あの辺りにてゅらの家があるのだろう。何か目印になるものはないか捜したが、同じような木が一面に生えているだけだ。仕方なく、彼女はおおよその位置を頭に叩き込んだ。
 翌日もその翌日も裏山を丁寧に見まわすのだが、煙は見えなかった。日が暮れてから火を焚いているのだろうか。山は実りの季節を迎え、その朝も布巾を吊す木の根方に茸が置かれていた。顔も本名も知らず、口を利いたこともないてゅらからの贈り物は昔話を思わせる。人間ではない、自然の中の生き物からの精一杯のお礼のようだ。てゅらからの贈り物は食糧になると同時に、彼女に知識を与えもした。てゅらが置いてゆく自然の恵みは、それが食べられることを意味している。彼女も家の周囲を歩きまわって木の実や茸を収穫した。
 天気の良い日が続いていた。初夏の猛々しい緑とは異なり、金色に染められた木々は優しい落ち着きを見せていた。彼女は竹籠を腰に結び付け、茸狩りに出かけた。自分で把握できる範囲はすでに歩きまわったので、その日は今まで行ったことのない東側を目指した。迷わないように何度も振り返って家の位置を確認しながら進む。尾根をまわり込んでクヌギ林を抜けたところで、彼女は驚いて空を見上げた。煙が立ち上っている。距離ははっきりとつかめないが、彼女が立っている位置から水平に数百メール先のように見える。思わず身を低くして辺りをうかがった。てゅらの気配はない。腰を落としたままで前に進もうとしたが、籠が邪魔をしてうまくいかない。紐を解いてその場に籠を残したまま笹や雑木の間を進んでいると、前方に不自然に曲がった枝が見えた。低木の枝を無理に引っ張って地面近くに結び付けているようだ。地面との接点には数個の石が置かれている。鳥や小さな獣を捕る罠なのだろうか。それとも、近づいた人を追い払うための仕掛けなのだろうか。いずれにしても、
それはてゅらの物であって、彼女が勝手に触れることは許されないように思えた。
 彼女はてゅらの生活を見てみたいと思うのだが、一方では見てしまったら全てが終わるような気もしていた。「鶴の恩返し」では見ることを禁じられていたにもかかわらず妻の本当の姿を見てしまい、全てを失う。そこには人間というものの愚かさが語られている。てゅらの彼女に対するメッセージもまた、見ることを禁じている。他人との関わりの煩わしさから逃れるために、彼女はここにやって来た。好奇心だけでてゅらの生活に踏み込んではならない、と彼女は自分を戒めた。
 てゅらに悟られないように足音を忍ばせて家に戻った。

 彼女の頭の中に、低い目線で見据えた木の枝の仕掛けと、雑木の下生えが繰り返し出てくる。あの先にてゅらの住処があると思うと、すぐにでも行ってみたくなる。そんなことを考えている自分はてゅらに何を望んでいるのだろう。もし、てゅらの住処に辿り着いたら、彼女は自分を抑えることができないかもしれない。抱きしめて頬ずりしてしまいそうだ。彼女はもう、気配だけでは我慢できなくなっていた。言葉を交わしたり、直に触れたくてたまらない。
 彼女は時どきてゅらに話しかける。独り言の時てゅらは何も反応しないが、話しかけたとたんに気配は消える。それが近ごろは彼女が近寄って行かなければ、てゅらも同じ位置にじっとしている。てゅらは彼女の言葉を理解していた。しかし決して現れようとはしないし、声も発しない。
 夜ひとりでコタツに入っていると、自分が頼りなく思えて、心の底から淋しさがこみ上げてくる。誰かが一緒にコタツに入って言葉を掛けてくれれば、どんなに温かいだろう。布巾に食べ物を包むのではなく、ひとつの鍋のものを分け合い、微笑みを交わしながら食べたとしたらどんなに美味しいだろう。
 しかし、望んだ生活は手にしたとたんに色褪せてしまうことを彼女は知っていた。いままで彼女は多くの夢を描いてきた。社会に出さえすれば、親から解放されて自由になる。結婚しさえすれば、童話の中のお姫様のようにめでたく安定した生活を送ることができる。ファッションやインテリアに関しても、彼女は同じようなことを繰り返してきた。マスコミが提示するライフスタイルはあんなにも輝いているのに、手に入れると急に輝きを失ってしまう。
 この家に引っ越してきた時も彼女は家中に花を飾って楽しんでいたが、すぐに止めてしまった。今では咲いている花を見ると美しいと思うが、わざわざ切り取って飾ろうという気にはならない。会社勤めをしていた時は、映画も見に行ったしベストセラー小説を読んだり、音楽を聴いたりもした。世の中に遅れないようにと映画館へ出かけたり本を買い求めていたような気がする。すべては意味のない行為だったのかもしれない。
 てゅらを求めている自分の気持ちも、同じようなものなのだろう。実際にてゅらが目の前に現れたら、彼女はどのように付き合えばよいのか判らないのだった。彼女は、何かを分かち合う相手を求める気持ちと、実際に望むものを手にした後の絶望感の間で揺れていた。
 彼女は畑仕事をしながら、てゅらの気配に向かって話し掛けた。
「あなたの名前は、てゅらよ。私が付けたの。気に入らない? もし嫌だったら、布巾の中に小石を一個、入れておいてね。あなたの名前を教えてくれてもいいのよ。そうだったわね。私の名前を言ってなかったわ。でも、あなたは私の名前なんか、知りたくないのかもしれないわね。もし、私の名前を知りたかったら、布巾の中に枯れ枝をひとつ、入れておいてね。枯れ枝が入っていたら、私の名前を教えるから。でも、私は自分の名前があまり好きじゃないみたい。自分のものだって気がしないの」
 彼女は話し続けたが、いつの間にかてゅらの気配は消えていた。
 翌朝、布巾の中には黄色い小菊がひと枝はいっていた。親指の爪ほどの丸く盛り上がった花がいくつも付いている。彼女はガラスコップに挿して、水屋の上に置いた。コタツに入ると自然に目が行く位置だった。部屋の空気が柔らかくなり、素朴な黄色い花を彼女は好もしく思った。
 その日も彼女はてゅらの気配に向かって話し掛けた。
「お花をどうもありがとう。小石が入っていなかったから、あなたの名前は、てゅらね。私の名前はコギクかしら。あなたが付けてくれた名前よ。漢字の小菊は時代劇に出てくる親孝行な町娘みたいで恥ずかしいから、片仮名のコギクにしてね。ねえ、聞いてる? もし、もしもよ、てゅらが気にしないんだったら、一緒にご飯を食べない? 私の家にはコタツもあるから暖かいわよ。今からどんどん寒くなるし、冬の間は私の家に居てもいいのよ。使っていない部屋もあるし、お布団だってふかふかのがたくさん押入に入っているわ。食べ物だって、私がお店まで行って買ってくるから大丈夫よ。ふたりで美味しくて温かいものをお腹いっぱい食べましょう」
 コギクはもう、自分を抑えることができなかった。思い付く限りの事柄を並べててゅらを誘っていた。しかし気が付くと、やはりてゅらの気配は消えていた。
 それからのてゅらは布巾の中の食べ物を取りには来るものの、前ほど気配を現さなくなった。冬支度で忙しいのかもしれない。でもひょっとしたら、怒っているのかもしれない。コギクはてゅらの事情を考えもせず一方的に心地よいものを並べ立てた自分が恥ずかしかった。
 冬が近いという感覚はコギクにもあった。まずは、トイレを春まで使用できる状態にしなければならない。汲み出したものをそのまま畑に撒くのは違和感があったので、畑の横に大きく穴を掘った。前準備だけで、額に汗が浮くほど身体が暖まった。
 いよいよ田所伊蔵自身が直接この世に残したものに手を掛ける時が来た。飛沫が飛んでもいいように田所伊蔵の雨合羽を着込み、分厚いゴム手袋をして汲み取り口の蓋を開けた。柄の長い柄杓を突っ込んでみたが、石にぶつかったような手応えが戻ってくるばかりだ。何度か繰り返していると、固い氷河を割るように柄杓がもぐった。適当にかき回してすくい上げた。想像していたほどの悪臭はないし、虫なども湧いていない。ただ見掛けだけは受け入れがたいので、なるべく見ないようにして二個のバケツに移した。あまり多く入れないように気を付けて、それぞれのバケツの紐に天秤棒を通して担いでみた。少しふらつくが、なんとか持ちこたえた。畑の横の穴に中身を空けると、充実感があった。何往復かするうちに暑くなって、コギクは雨合羽を脱いだ。便槽の中をすっかりさらい終わり、身体が暖まっているうちにバケツと柄杓を洗った。
 やってみれば案外、簡単なことだった。今までどうしてあんなに敬遠していたのだろう。会ったこともない田所伊蔵に対して、これでやっと正面から向かい合えるような心持ちになった。

 てゅらの気配はやはり以前ほど頻繁には感じないし、贈り物もなくなった。寒くなってきたのでコギクも外で過ごすことがあまりなくなり、てゅらも動かないのだろう。たまたま外に出ている時にてゅらの気配を感じると、コギクは温かさが身体の中に湧いてくるような気がした。コギクは生きていくために必要な技術を少しずつ身に付けていた。鎌や鉈も、それが正しい使用法かどうかは判らないが、使うようになっていた。砥石で刃を研ぐことも覚えた。
 畑の近くまで進出してきた笹を切り払っている時だった。久しぶりでてゅらの気配がした。コギクはここに来てから自分が獲得した能力を誰かに認めてほしかったのだろう。できる限り速く鎌を動かした。研ぎたての鎌は刃先が白く光り、笹がざくざくと根本から倒れていく。てゅらの気配は動かず、一カ所に留まっている。コギクは得意になっていた。鎌をひときわ大きく上段に構え、力一杯ふり下ろした。鎌の先が土にもぐり、反射的に上向きの力を加えると鎌はコギクの脛に食い込んで止まった。瞬間、痛みは感じなかった。てゅらの目を気にしていた。鎌を抜くと、刃先に鮮血がしたたっていた。コギクは貧血を起こしそうになり、てゅらのことも忘れて家に戻った。歩き始めると、傷口が焼け付くように痛む。
 畳に血を落としながら、田所伊蔵の救急箱を取り出した。作業ズボンを脱ぐと、皮膚が上下に割れて周囲が盛り上がるように腫れている。痛みが増し、頭の芯まで突き刺さるみたいに響いてくる。ガーゼで傷口を押さえたが、すぐに全体が赤く染まってしまう。とにかく止血しなければ。ガーゼを取り替えてタオルを巻き、紐できつく縛った。
 位置を高くするためコタツの天板に足を載せて仰向けに寝転がると、気分が悪くなってきた。あの時もう少し気を付けていれば、鎌の刃の切れ味がいつものように不充分だったら、笹の切り払いを明日にしていたら……。何かがほんの少し違っていたら、こんなことにならなかったはずだ。コギクはいくら考えてもどうしようもないことを後悔し続けた。
 しばらくすると血は止まったようだったが、ズボンを脱いだままなので寒くなってきた。傷口の辺りだけが熱を持って、心臓の鼓動に合わせて脈打っている。タオルの上から手を当てると、熱をもち腫れもひどくなっているのが判る。悪寒はますます強くなり身体の芯に氷を詰められたような寒気を感じるが、頬は熱っぽく火照ってきた。
 コギクは足を引きずりながら、とにかく温かいものを口に入れた。飲み込む時に違和感があり、食べた物が食道を移動していくのが判る。どうにか食べ終わると身体が温まってきたが、またすぐに悪寒がぶり返す。身体を起こしているのもだるく、やっと引っ張り出した布団に倒れ込んだ。
 風邪を引いたのだろうか。もしかしたら、傷口から何かとんでもない黴菌が入ったかもしれない。そんな考えが、ぼんやりした頭をよぎる。
 眠いばかりで、もう寒さも痛みも感じない。薄れていく意識の中で、このまま死んでいくのかもしれないとコギクは思った。死ぬのは怖くなかった。その時のコギクにとって死は、安らかな眠りの先にあるものだった。
 コギクは夢を見ていた。夢の中では、コギクと母親の関係が逆転していた。コギクは若い娘である母親に「みっちゃん」と呼び掛けながら、あれこれと世話を焼いていた。
 ふたりは向かい合って夕ご飯を食べていた。父親の姿はない。
「ねえ、みっちゃん、今度のお休みにお買い物に行きましょうよ。この前、訪問着が欲しいって言ってたでしょう。買ってあげる」
 母親であるみっちゃんは嬉しそうに笑い、グラタンの海老を口に入れた。コギクは自分の皿から海老を選り分け、みっちゃんの皿に入れてやる。みっちゃんが、また笑った。ほっぺが丸く膨らんで愛くるしい。みっちゃんのこの笑顔さえあれば他に何もいらない、とコギクは思う。みっちゃんを喜ばせるためなら、着もしない訪問着だって何だって買ってあげる。
「私がおばあさんになったら、どうする?」
 唐突にみっちゃんが訊いた。
「何いってるの。みっちゃんがおばあさんなんかになるわけないじゃないの」
 コギクが答えると、みっちゃんは目の前でどんどん変わっていって、本当におばあさんになってしまった。これは何かの間違いだと思いながら見ていると、おばあさんのみっちゃんはサラダを鷲づかみして口いっぱい頬張った。
「これ、止めなさい。そんなお行儀の悪いことをしてはだめでしょう」
 みっちゃは、ケケッと笑ってグラタンも鷲づかみした。ホワイトソースがテーブルの上に飛び散り、みっちゃんの口の周りや服にも付いた。
「そんな悪い子には、もう訪問着なんて買ってあげないから」
 怒っているコギクをみっちゃんが睨みつけた。
「そうだったわね。いま思い出したわ。みっちゃんは、いつもそうだった。昔からずっと、私の言うことなんか聞いてくれなかった。いつだって、自分の思い通りに事が運ばないと気が済まないんだったわね。私にあれこれ指図することが何より好きなのよ」
 コギクは途方に暮れて泣き出した。みっちゃんは機嫌良くテーブルの上の物を手づかみして遊んでいる。もう何もかも終わりだ。コギクは出口のない絶望感の中にいた。
 てゅら てゅら てゅら てゅら てゅら てゅらら
 その時、唄が聞こえてきた。慣れ親しんだメロディーだが、どこか違う。風鈴を鳴らすような澄んだ唄声は遠くの山から風に乗って流れてくるようでもあったし、コギクの近くで誰かが唄っているようでもあった。自分はもう死んでしまったのかもしれない。美しい唄が流れているここは、あの世なのかもしれない。
 誰かがコギクの上体を起こした。口に何かが入ってくる。優しい口当たりの液体が、コギクの身体の隅々まで生命を吹き込むように行き渡る。仏教徒でもないのに、これは極楽浄土の食べ物なのだろう、とコギクは思った。そしてまた、意識が遠のいてゆく。
 そんなことを何度も繰り返し、ある朝コギクは目覚めた。すぐには自分が居る場所が判らなかった。意識がはっきりしてくるに連れ、いろいろなことを思い出していった。そうだ、ここは田所伊蔵の家だと思い、自分の家だったと思い直した。自分は、足に怪我をして倒れたのだ。あれから一体どのくらいの時間が経ったのだろう。怪我をしたのが昨日のことのように思えるし、何年も前の出来事のような気もする。時間の感覚がまったくつかめなかった。
 起き上がろうとしたが、身体の芯がぐにゃぐにゃして支えられない。コギクはゆっくり時間を掛けて布団を抜け出た。足には裂いた布巾が巻かれている。毎朝、食べ物を入れて枝に結び付けていた、あの布だ。熱や痛みはないが、まだ少し足の腫れが残っているようだ。布を解くと、傷口に水で戻した枯葉のようなものが幾重にも貼り付いている。そっと剥いでいく。傷口はふさがっていたが、周囲の皮膚がひどく変色している。黒ずんだ紫に葉の茶色が混じったような色で、自分の肌ではないみたいだ。コギクは注意深く葉を戻して布を撒いた。
 手を動かしていると、身体の部分部分が少しずつ本来の機能を取り戻していくようだ。コギクは猛烈な空腹感を覚えた。台所へ行くと、なにやら様子が違っている。鍋や食器の位置が変わっているし、冷蔵庫にはビン入り牛乳が入っている。カマドも火を焚いた跡がある。コギクは眠っていた間のことを思い出した。誰かが手当をし、食べさせ、唄ってくれた。途切れ途切れに記憶が戻ってきた。
 そうだ、てゅらがやって来たのだ。コギクはてゅらの顔を見たような気がする。ひび割れもなく整った顔立ちで、穏やかにコギクに笑いかけていた。ひょっとしたら、熱に病んだコギクの頭脳が創り出した幻なのかもしれない。コギクは微かに記憶に残っている像をてゅらの顔として頭に刻んだ。
 土間に降り、カマドに火を熾した。ガス屋に頼めばプロパンガスのボンベを取り付けてくれるのだろうが、そのままになっている。面倒な時は自分で持ち込んだカセットコンロを使っていたが、今はカマドで火を熾す作業のひとつひとつが楽しかった。焚きつけの杉の葉が一気に燃え上がる様も、小枝を継ぎ足す頃合いも、自分の身体の一部のように馴染んでいる。
 お腹がいっぱいになり、家の外へ出てみた。風になびいている真っ赤な鶏頭や撫子、畑で育っている野菜、木立や雑草さえもが今までと別のものに見える。ただその辺りに存在しているだけだったものが、コギクとのしっかりしたつながりを主張し、愛おしささえ感じた。
 敷地の端まで行き、連なる山々や谷を見渡した。
 てゅら てゅら てゅら てゅら てゅら てゅらら
 コギクは精一杯、声を張り上げた。てゅらに、この唄声がとどくだろうか。感謝の気持ちを込めて、唄い続けた。

 コギクは朝、起きるとカマドで食事の支度をする。ふたつあるカマドの一方には水を張った釜がかかっていて、灰を被せたおき火ですこし温まっている。火をもう一方のカマドに移して煮炊きする。釜のお湯で顔や食器を洗い、使った分はまた継ぎ足しておく。
 昼間は薪を集め、野菜を収穫して漬け物にしたり干したりして保存する。生きていくために必要な事柄をこなすだけで、一日が暮れていく。コギクの頭の中には食べて眠り、その日その日を過ごすこと以外に何もない。ただひとつの例外は、てゅらのことだった。あれから、てゅらの気配はふっつりと消えてしまった。布巾に食べ物を包んで吊しても、手を付けた様子はない。何日かそんなことが続いた後、コギクは煙が上がっていた場所に行ってみることにした。
 記憶を辿りながら、家の東側を水平に進んだ。尾根をまわり込んだ所で落葉樹の林に入った。葉を落とした木々は様変わりしているが、確かこの辺りで煙を見つけたはずだ。更に進んだが、あの時に見た罠のような仕掛けは見あたらず自信がなくなってきた。でも、陽の高いうちならなんとかなるだろう。還り道が判らなくなったら、とにかく下を目指せば集落の近くに出るに違いない。少し迷ったが、水平に進んだ。煙はすぐ近くに見えた気がするのに、いくら進んでも同じような林が続いているばかりだ。あきらめかけた時、前方に鮮やかな赤が見えた。近寄って行くと、真っ赤な紐が木の枝に結び付けられている。コギクは次々に現れる紐を頼りに進んで行った。
 やっと見つけたてゅらの住処は、窪地を利用して廃材や板を渡した粗末なものだった。一応、床には板が敷かれているし、雨風は凌げるようになっている。石を組んだカマドもあって、横には燃料用の廃材がたくさん積んである。中に入ってみたが、人の気配はなかった。外からの光りを頼りに見まわすと、立てかけられた板が目に入った。炭で書いたのだろう、ところどころ掠れた踊るような字が並んでいた。

  コギクさま
  さよなら
       てゅら

 板の下にはビニールの肥料袋で厳重に包んだ物が置いてある。開いてみると、塩だった。きっと、てゅらが廃屋の中から集めてきたのだろう。コギクは塩を抱いて泣いた。母親や父親が他界した時とはまったく違う喪失感がコギクを満たした。
 日が翳る前にコギクは塩をかかえて家へ戻った。山道を歩きながら気持ちを集中すると、あちらこちらでてゅらの気配が立ち上る。
 翌日からコギクは時間を見つけては山歩きをするようになった。歩いているうちに、以前は見分けが付かなかった獣道もそれと判るようになり、どこへ行ってもちゃんと自分の家に戻って来られるようになった。
 今ではコギクは山全体を把握している。てゅらは住処をいくつも持っているようで、いくつかの廃屋で暮らしていた跡が見られたし、近ごろまで手入れされていた畑もみつけた。
 一時期、コギクはてゅらがどうなったか、ばかり考えていた。ひょっとしたら自分が何か悪い病気をうつしたのかもしれない、と気になった。動物は自分の死を悟ると、姿を消すという。だから、てゅらも「さよなら」という言葉を残したのではないだろうか。しかし、山歩きをするうちにコギクは考えることをやめた。姿を消したのは、てゅらの意志だ。てゅらはきっと今でも山のあちらこちらを移動しながら暮らしている。コギクの気配を察して姿を消すことなど朝メシ前だ。どこからか、コギクの動きを見ているに違いない。コギクは、そう思うことにした。コギクにとっては山全体がてゅらであり、コギクを見守ってくれている。コギクには確信があった。

 その日の朝は特に冷え込みが強かった。コギクは田所伊蔵の綿入れを羽織って、防寒のための雨戸を開けた。遠くの山並みまで、見渡す限り白い雪が舞っていた。初雪だ。コギクは厳かな気分になった。
 土間に降りて、カマドに杉の葉と小枝を入れた。小気味よい音がして、すぐに炎が上がった。手をかざすと、手の平から身体じゅうに温かさが広がってゆく。電気ゴタツでは得られない、身体の芯まで溶かすような温かさだ。心までほぐれていくようで、雪が止んだら集落へ行ってみようと思った。
 集落の店の入り口には注連縄が掛かっていて、コギクは正月というものがあったことを思い出した。白い息を吐きながらガラス戸を開けると、朝顔型の練炭火鉢のまわりに数人の老人たちがいた。火鉢には金盥が載っていて、湯の中に数本の牛乳ビンが浸かっている。
「久しぶりやないね。また来とると?」
 老人のひとりが声を掛けた。なんだか親しげだ。
「ええ、まあ」
 コギクが答えると、すぐにまたおしゃべりに戻っていった。
「これ、飲んで行きんしゃい」
 コギクが買い物を終えると、店の老婆が湯煎された牛乳を差し出した。
「金はいらん。ほら、やるたい。サービスたい」
 コギクが戸惑っていると、更に勧める。思わず受け取ってしまった。
「この頃は、ネズミが来んねえ。いつやったか、牛乳ば盗りに来よったけん、仕入れば少うし増やしたら来んごとなってしもうて、牛乳が余るったい」
 誰にともなく老婆が言った。コギクは吹き出しそうになった。その牛乳を飲んだのは私です、と言ったら、この人たちはどんな顔をするだろう。
 わだかまりが取れ、コギクはキャップを外して牛乳を口に含んだ。温かい牛乳は甘味があって、極楽浄土の味がした。

 


 

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