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 作品,54

 

 題名の現代性から受ける感じと作品の内容の意外性もいい。また、読後感がいい。できるだけ多くの人に読んで貰いたい作品であると同時に、何時までも残していきたい作品である。同人誌は100部とか200部印刷されるが、本当によまれる作品は多くない。埋もれてしまうのが大部分である。この作品が埋もれてしまうのは勿体ない。


               推薦・北大井卓午(季刊・遠近 

    
 

胡壷・KOKO」11号より転載



縦書きPDF版 「女子会をいたしましょう」

 

 

  女子会をいたしましょう

  ひわき ゆりこ

 


 リップクリームを取り出そうとバッグを開いたら、携帯電話の小さなランプが点滅していた。あわててバッグの口を閉じ、引き出しに戻した。
 私の携帯にメールをくれる人なんて、片手で数えるくらいしかいない。しかも週の前半となると、ほぼ想像がつく。自分の卑屈さを見せつけられるようで、開くにはためらいがある。先延ばししようと思うのだが、我慢できずに開いてしまうのもいつものことだ。その日も気になって仕事に集中できず、トイレに行く振りをして携帯を開いた。
 受信ボックスに入っていたのは「亀田珠代」という名前で、件名は「たまよ」とあった。そこには「佐野貴之」という名前があると、何の疑いもなく思っていた私は気が抜けた。
 珠代さんからの初メールは「よかつたらさんにんてあいませんか」と平仮名ばかりで書かれていた。理解するまでに少し時間が掛かった。萌絵ちゃんにも同じメールが行ったのだろう。今週は佐野さんからの誘いもないようなので、珠代さんに連絡を取ってみるのもいいかもしれない。今まで思い出しもしなかったのに、珠代さんの笑顔や萌絵ちゃんの語尾が消え入りそうな口調が懐かしかった。

 珠代さん、萌絵ちゃん、私の三人は日帰りバスツアーで知り合った。ツアー客の中で、私たち三人は浮いていた。ひとりで参加した六十代、四十代、二十代の何の共通点もない私たちには最後部の席が割り当てられた。ガイドが喋る度に車内は大盛り上がりで、いちいち歓声や拍手が起こる。騒々しさに気圧されていると、両側のふたりも同じなのか、言葉も交わさずぼんやり外を見ていた。左側は母と同じくらいの年代だろうか。背中を丸めて車窓に見入っている。ショートブーツの爪先がやっと床に届くくらいで、足を動かす動作がどことなく子どもっぽい。右は若い女性で、縦横ともにたっぷりした背中には艶やかな髪が波打っている。時折のぞく化粧っ気のない頬の辺りが、私には誇らしげに見える。
 最初に立ち寄ったのは菓子工場に隣接する直売所だった。何がそこまでさせるのか、参加した人たちはものすごい勢いで試食のお菓子を口に放り込みながら売店内を進んで行く。
「こんなに食べたら、お昼の焼き肉食べ放題が入らなくなるわ」
 次の試食に爪楊枝を突き刺しながら誰かが言うと、周囲で笑い声が上がる。
「いいのよ。甘い物は別腹」
 また誰かが言うと、ひときわ賑やかになる。
 休みを代わってもらった同僚と家へ小さな菓子折ふたつを買うと、他にすることも思い浮かばない。人びとの流れから弾き出されるように外に出て、目の前の国道を走る車を眺めていた。ふと気づくと、バスの中で両側に座っていたふたりが側にいた。一瞬、目が合ったけれど、気まずそうに三人とも目を逸らした。言葉は交わさなかったけれど、ひとりで立っているより何となく心地よかった。
 店内に戻ると、ツアー客はみんな一カ所に集まっていた。「お得コーナー」と書かれたのぼりが立てられ、ロールケーキの切れ端やどこかがちょっと不良で商品にならない菓子を格安で販売している。詰め放題もあるようで、煎餅を口まで詰め込んだビニール袋を捧げ持って摺り足でレジに運ぶ人もいた。
 焼き肉店に入っても状況は変わらず、私たち三人は自然の流れに乗るように隅にかたまって座った。
 私はぼんやりと、一度だけ佐野さんと食べた焼き肉を思い出していた。いつも一人分ずつが供される店で食事をしていたのに、「たまには焼き肉でも食べようか」と佐野さんが言い出した。彼は慣れているらしく、どんどん焼いては「焼き過ぎないうちに食べなくちゃ」と、私の皿に自分の箸で肉を載せた。焼き肉が嫌いではないのに、うっすらと血の滲むような肉は気味悪く、私は不当な扱いを受けている気になった。
「さあ、食べよう。まずはタン塩だよね」
 珠代さんの言葉掛けで、私は現実に引き戻された。彼女は意を決したように、菜箸を使って大皿のタンを網の上に並べ始めた。
「あのう、カルビも焼いていいですか?」
 萌絵ちゃんが、どうにか聞き取れるくらいの声で言った。
「好きなもの、どんどん焼こう。この盛り合わせを食べちゃったら、後は追加し放題なんだから」
 珠代さんの明るい声で緊張が解け、私たちはやっと口を利き始めた。
「ほら、もう焼けてるから食べて、食べて。早く食べないと、お肉が炭になっちゃうから。えーと、お名前、何だっけ。私は亀田珠代。六十七歳、ひとりモンで無職でーす。珠代さんって、呼んでくださーい」
 珠代さんに促され、「岩倉千紗。四十三歳で、私もひとりモンです」と、顔だけで笑った。
 すかさず「お仕事は?」と珠代さんに突っ込まれた。
「旅行社に勤務しております」
 硬い口調になった。
「私は南萌絵。二十歳です。えーっと、コンビニで店員してます」
 いたずらを見つけられた子どもみたいだった。
「そう、千紗さんと、萌絵ちゃんね。どうぞ、よろしく」
 食べるにつれ口もほぐれてきて、私たち三人はツアー参加の経緯や肉の感想など言い合った。
 今回のツアーは商店街の福引きの景品だ。当てた人には無料招待券。外れても、四千二百円を払えば参加できる。それぞれのグループの誰かが当たりくじを引き、他の人たちは料金を払って参加しているのだろうか。小さくて古い商店街なので、顔見知りが多いのかもしれない。私たちを除いた一体感ある盛り上がりは、商店街の新年宴会といったところだ。駅を挟んで反対側に住んでいる私にはあまり馴染みがない。
 珠代さんは電車でふたつ目の駅に住んでいる。
「気分を変えようと電車に乗って買い物に行ったら、当たっちゃったのよ。ひとりだと焼き肉屋には行けないしね。いいチャンスじゃない」
 運に恵まれていそうな笑顔で言った。
「ひとりで参加しても、友達ができると思ったし」
 と、探るような目つきで私たちふたりを見る。
「私、生まれて初めてくじに当たったんです。これ、行かなかったら運が逃げて行く気がして……」
 萌絵ちゃんは商店街を抜けた所のワンルームマンションに住んでいた。
 私だけが両親と同居している。母は無料招待券を手に、喜び勇んで帰宅した。いつも車で行く郊外のスーパーマーケットで買い物をするのに、たまたま行った商店街で当たりを引き当てたことに興奮していた。ところがツアー前日から父と一泊で温泉に行く予定で、予約も入れていた。母もまた自分が手にした幸運を無駄にしたくないらしい。いつにない熱心さで私に参加を勧めた。仕事柄、見ておくのも悪くないと思い、行くことにした。
「実はね、当選者参加用紙に千紗ちゃんの名前を書いて来ちゃった。思わぬ出会いがあるかもしれないわよ」
 近ごろあまり言わなくなった一言を添えた。
 焼肉を食べながら三人で話すのは、奇妙な開放感があった。ついさっきまで、まったく知らない人たちだった。このツアーが終われば、また関わりない人たちに戻ってゆく。それなのに、同じ網の上の焼肉を食べている。それぞれの性格が見えるようで、焼けた肉を巡る微妙な気遣いも好もしい。
 ツアーも終わり、別れ際に珠代さんから提案があった。
「もし、よかったらなんだけど、私たち、また会わない?」
 生まれて初めて女の子に告白する少年みたいな言い方だった。
「私、いいですよ。また会いましょう」
 萌絵ちゃんがコートのポケットから携帯を取り出し、珠代さんに質問しながら登録してゆく。つられて私も出した。萌絵ちゃんは要領よく珠代さんの携帯にもふたり分を登録した。
 別れてから携帯を開いた。ふたりの名前と番号に、メールアドレスが入っている。本当に連絡が来るのだろうか。またふたりに会いたいか、と自分に問うてみた。会うことで生まれる何かが、私には見えなかった。たまたま三人で焼肉を食べただけだ。このまま連絡が来ない確率の方が高い。アドレス帳の「保留」グループにふたりを入れた。

 週の半ばに佐野さんから会社に電話があった。お互いが声だけで判るのだが、いつも通り事務的に名乗り合った。私たちの関係はあくまで依頼者と担当者でしかない。受話器を置く前に「じゃあ、また」と親しげなひと言でも添えたなら、一気に崩れて行きそうだ。しかし佐野さんも私もそんな事はしない。似た者同士なのだ。佐野さんにとって私は都合いいだけの女でしかない。彼もまた、私にとって都合いいだけの男なのだろう。
 佐野さんは小さな建築デザインの会社を経営していて、出張や社員旅行でうちの旅行社を利用してくれるお得意さんだ。家族旅行の手配も頼まれるので、私は彼の家族構成も知っている。三歳年下の奥さんと、ふたりの女の子は高校生と中学生。住宅街の一軒家に住んでいる。彼は奥さんと家のローンや子どもの進学について話し、もう少しすれば老後のことなど考えるのだろう。ふたりで将来を予測し、協力しながら積み上げてゆく。私と佐野さんはたまに時間を共有するだけで、何処へも向かわない。時どき、どうしてこんなことをしているのだろうと思う。
 その日は早めに仕事を切り上げ、閉店と同時に会社を出た。途中で家に電話を入れたが、誰も出なかった。
 灯の消えた家のテーブルにはメモが載っていた。
〈お父さんと、お兄ちゃんの所へ行きます。ご飯は食べてくるので、冷蔵庫の物で適当にすませてください。母より〉
 珍しいことではないのに、その夜は気持ちが折れたような閉塞感があった。この世界中の何処にも、私を待っている人なんていない。そう思うと、自分の存在が頼りなく取るに足りないものに思える。
 ぼんやりと佐野さんを思い浮かべた。彼の両腕で抱き止められ、暖かく柔らかい胸板に顔を埋める時の感触。耳元で囁かれる言葉は私だけに向けられている。他の誰でもない、この私ひとりに。
 突然、携帯が鳴った。音のない空間で大きく響いている。「亀田珠代」とディスプレイが知らせていた。
「あのう。私、亀田珠代といいます。バス旅行で一緒になった者ですが……。あっ、いま電話いいですか?」
 珠代さんは気の毒なくらいおどおどしていた。
「はい。いいですよ。お久しぶりです。その節はお世話になりました。メールもらったままで、ごめんなさい。お返事しなくてはと思いながら、つい」
「えっ、メール、ちゃんと届いたんですね。初めてだったから、千紗さんには届かなかったんじゃないかと思って電話してみました」
 話すうちに珠代さんの口調は滑らかになり、初めて会った時を再現しているようだった。
 珠代さんと萌絵ちゃんの間では既に話ができていて、私が休みの日に珠代さんの家に集まることになった。
 目標ができた気になり、風呂に湯を張りながら冷蔵庫を物色した。

 その日は朝から落ち着かなかった。よく知らない人の家を訪問することに馴染みがない。何か持って行こうと思うのだが、珠代さんはツアーで買い物をしなかったから、菓子類は喜ばれない。果物はどうだろう。もっと気の利いた物はないだろうか。早めに家を出たのに、商店街を行ったり来たりするだけで時間が過ぎてゆく。あわててワインを包んでもらい、電車に乗った。待ち合わせの四時ちょうどに着く電車だった。
 ふたつ目の駅で降りると、改札口の横に珠代さんと萌絵ちゃんが立っていた。私に向かって手を振るふたりの笑顔で緊張が解けた。
 珠代さんに案内されて家の前に立った時、私と萌絵ちゃんは息を呑んだ。篠竹のひと叢が古いブロック塀の上からはみ出している。正面玄関は両開きのガラスドアで、擦れた金文字は「亀田醫院」とある。内側に白い木綿のカーテンが引かれていたが、すっかり色が変わって年季を感じさせた。父が口にする「藪医者」という言葉が頭に浮かんだ。
「近所の人たちから、お化け屋敷って言われてるの。さあ、こっちこっち」
 珠代さんは気にするふうでもなく、建物とブロック塀の間をすり抜けて行く。診療所の建物とつながっている自宅部分も古い建物だが、その時どきで手が入れられた跡がある。
 通された居間は暖かく、こたつの上にはいろんな料理が並んでいた。
「うわぁー、お正月みたい」
 萌絵ちゃんの言葉に、珠代さんは恥ずかしそうに微笑んだ。
「お客さんなんて来ないから、どうしたらいいか判んなくて、デパ地下で買って来ちゃった。飲み物もいろいろ用意したから、ゆっくりしてってね」
 彼女は何度も「こんなの女子会っていうんでしょう」と、とても嬉しそうだ。
 ビールで乾杯し持参したワインが空になるころには、萌絵ちゃんのろれつが怪しくなってきた。とろんとした目で、「努力しなくちゃ」としきりに繰り返す。未成年ではないが、飲み慣れていないのだろう。
「大丈夫です。ちょっと眠ったら、すぐに醒めますから」
 私たちの心配をよそに、座布団を枕にしてこたつにもぐり込んだ。
 珠代さんが萌絵ちゃんの顔を覗き込みながら言った。
「努力って言ってたけど、何を努力するんだろう」
「さあ」
「千紗さんって、いま努力してることある?」
 答えに詰まった。努力なんて考えたこともなかった。
「今までに努力したことでもいいんだけど」
「そうですねえ、受験勉強の時とか。それと、英語検定を受けた時が努力に近いかなあ。その時は意識してなかったと思うんですけど。珠代さんは、どうですか?」
「さっきから考えてんだけど、まったく思い当たらないのよ。かといって、一度も努力せずにこの年まで来たって気もしないし」
「必死で何かをやったってことはないんですか?」
 珠代さんは、ぽつりぽつりと話し始めた。ひとりっ子で病弱だった子どもの頃は、自分から進んで何かをした記憶がないという。大人になっても同じような環境だった。二十代半ばには、親に言われるまま何度も見合いをした。
「でもねえ、初めて会う人と向かい合って、この人とセックスするんだって思うとピンとこなくて。この人じゃないって、いつも思ってた。親も無理強いするようなことはなかったし」
 どきりとした。私だって、相手を知らないうちからセックスすることが決まっている状況は考えられない。しかし誰かに向かってセックスについて話すのは、躊躇いがある。珠代さんは少し酔っているのかもしれない。
「私が三十のころ、父が亡くなったの。医者の不養生っていうのかしら、心筋梗塞だった。父は予測してたのかもしれない。母は生まれたまんまみたいな人で、世間のことには疎かったわねえ。私も同じようなものだったし。それでも、ふたりが困らないだけの物は用意してあったもの」
「それからずっと、お母さまとおふたりで?」
「そう。母も十年前に亡くなったわ。最後のほうはすっかり惚けちゃって、私を母親と思い込んでたみたい。少しでも私の姿が見えなくなると、探しまわるの。泣きべそかいて」
「大変だったんですね」
「そうねえ、他に兄弟もいないしね。でも、自分がしてもらったことをそっくりそのまま返してるみたいな感じだったかなあ。あら、ごめんなさい。あんまり人と会うことがないもんだから方図が判らなくて、面白くもない話を長ながとしちゃったわね。えーと、何の話だったっけ。そう、そう。私のは苦労っていえるかもしれないけど、努力じゃないわね」
「努力もされたんじゃないですか? お母さまが気持ちよく過ごせるように、いろんなことして。それって、努力と思います」
「ありがとう。千紗さんとまた会えてよかったわ」
 珠代さんはにんまりした。彼女の年になったら、私はどんな顔をしているのだろう。両親を看取り、今の家にひとりで暮らしているのだろうか。室内を見まわすと、物は多いがきちんと片付いている。清潔で心地良い。これも珠代さんの努力と思う。
「ごめんなさい。私、寝ちゃったんですね」
 萌絵ちゃんが急に上半身を起こしたので、びっくりした。すっかり酔いが醒めた顔をしている。肝細胞だって若くて元気なのだ。
「なんか、お腹空いてきました。いただいても、いいですか?」
「もちろんよ。ぜーんぶ食べてってちょうだい。いま温め直すから」
 珠代さんはいそいそと皿を抱えてキッチンへ行った。萌絵ちゃんは蒸し鶏のサラダを取り皿にこんもりと盛り、頬ばった。咀嚼する度に頬がゴム毬のように弾む。淡いピンクの肌は柔らかく張りがあって、指先でつついてみたくなった。
「千紗さん、食べないんですか? とっても美味しいですよ」
「あっ、ごめん。じろじろ見られてたら食べにくいわね。私のことは気にしないで、どんどん食べてちょうだい」
 旺盛な食欲に目を細めている自分がいる。私にも、こんな頃があった。体重を気にしながらも食欲には勝てず、いろんな物を食べていた。何を食べても美味しかったし、もっと食べたいという欲求は尽きることがなかった。
 佐野さんと会う時は、ゆっくり食事をする。私たちは料理の話ばかりしている。彼がソースの味を褒めれば同意し、火の通り加減の微妙さを解説すれば大人しく聞く。たまに私が解説側にまわることもある。「美味しい」と口に出して言うのだが、いま萌絵ちゃんが味わっているのとは別物だ。佐野さんに向かって口にするそのひと言は「ごちそうさま」とか、時には「そうなんだ」くらいの意味しかない。
「さあ、どうぞ」
 珠代さんが湯気の上がる皿を並べた。
「あのう、私、そろそろ帰らなくちゃ。明日も早番なんです」
 萌絵ちゃんが箸を置き、すまなそうに言った。
 料理を温める前に言えばよいのに、なんと間の悪い子なんだろう、と少し苛立った。私が二十歳の頃は、もっと気配りしていたはずだ。そのくらいのことは身に付けていた。
「そうねえ、若い娘さんを遅くまで引き止めちゃいけないわね。じゃあ、持ってってちょうだい。今、詰めるから」
 珠代さんは気に留めるふうもなく、立ち上がってキッチンに行った。
「もらって帰ってもいいんでしょうか」
 小声の萌絵ちゃんは不安そうだ。
「珠代さんひとりじゃ食べきれないくらいあるから、戴いたら?」
「でも、わざわざ買って来た物を私がもらっても……」
 容器や紙袋を抱えた珠代さんが戻って来たので話は中断した。
「容れ物は返さなくていいから。たくさん溜まっちゃって、処分する気にもなれないし、役に立ってよかったわ」
 珠代さんは「若い人は、こんなのも好きよね」などと言いながら、詰めてゆく。萌絵ちゃんは「もういいです」を繰り返しながら、顔がどんどん強張ってゆく。困り顔を通り越して、しかめっ面になってしまった。
 亀田医院の門の前で珠代さんと別れた。彼女は「また女子会しましょう」と何度も言った。
 紙袋を提げた萌絵ちゃんと並んで駅までの道を歩いた。駅で迎えてくれた時はあんなに楽しそうだったのに、黙って足元を見ながら歩いている。
「どうかした?」
 駅の灯りが見えてきた所で訊いた。
「なんだか珠代さんに悪くって」
 萌絵ちゃんは紙袋を持ち上げて見せた。
「迷惑だった?」
「そんな、迷惑だなんて。食費も助かるし、デパ地下のお総菜なんか自分じゃ買えないから、嬉しいんですけど……」
「だったら、いいんじゃないの」
「でも、よく知らない人から、こんなにしてもらうなんて……」
 萌絵ちゃんのことが鬱陶しくなり、私まで気持ちが沈んできた。
 黙って前を向いたまま、並んで電車の座席に腰を下ろした。ふたつ目の駅舎が見えてきた時、萌絵ちゃんが立ち上がりながら言った。
「私、他人から良くしてもらったことないから」
 先に電車を降りた彼女にホームの端で追い付いた。
「千紗さんは西口ですよね。私は東口だから。今日はどうもありがとうございました」
 頭を下げると、そのまま行ってしまった。
 珠代さんの嬉しそうな顔と萌絵ちゃんのしかめっ面が交互に浮かんだ。家への道を辿りながら、「今の若い人はあんなものかもしれない」、「偶然に出会った人たちなんだから、そんなに気にするほどのことではない」と自分に言い聞かせた。沈んだ気持ちを断ち切ろうと繰り返し思ってみるのだが、うまく行かなかった。

 四十歳を過ぎた頃、母が急に結婚の話をしなくなった。母なりに踏ん切りがついたのだろう。いつも家に居て温かい手料理を用意し、家の内外を清潔に整える人だった。それが父とよく出掛けるようになり、食卓に出来合いの惣菜が並んだり窓ガラスの曇りが目立つこともある。初めは父も面食らったようだが、近ごろは仲良くふたりで出かけている。結婚ってこんなにいいものなのよ、と見せつけているようで微笑ましくもある。
 佐野さんに誘われたのも、その頃だった。仕事の帰りに飛行機のチケットを届けに行った。たまにあることなので、仕事の延長と思っていた。ひとり会社に残っていた佐野さんは、ペールグレーのシャツを腕まくりして製図台に向かっていた。
「やあ、すまないね。宅急便でも良かったんだけど、急ぐし、直接もらった方が安心だし。今日はお礼に美味しいものをご馳走するよ。近くにいい店があるんだ」
 言うなり身支度を始めた。黙って突っ立っていると佐野さんは灯りを消し始め、「さあ、行こう」と先に部屋を出た。せっかちな人なんだと思った。
 あのとき行ったレストランも食べた料理も覚えていないのに、帰り道で抱き締められたことは鮮明に覚えている。人影もまばらな通りの、街路樹の根元だった。他の誰でもない、この私が求められている、という思いが快感となって私を満たした。
 別れ際に私たちは携帯番号とメールアドレスを交換した。
「これは個人用だから、僕からの連絡を迷惑だと思った時は拒否してくれていいから。僕に対して気を遣う必要はない」
 佐野さんは、その時は今まで通りの社員と顧客に戻るだけだ、と言った。その言葉は、次に訪れる事態を予感させた。
 メールをくれるのはいつも佐野さんで、間もなく私たちは食事を終えてホテルに行くようになった。初めての時、「こんなものなのだろう」と思った。家庭を持っている人とそのような関係になるのは初めてだった。恋愛と結婚を結び付けるほど若くはなかったし、恋愛はすでに甘く切ない情感をもたらすものでもなかった。佐野さんとの付き合いが恋愛といえるならの話だが。
 いずれにしろ、続けるかやめるかの選択権は私が握っている。着信拒否にすれば、ふたりだけの関係は終わってしまう。私の方が優位のはずなのだが、いつも佐野さんに媚びたり合わせようとする自分がいる。
 深夜に帰宅しても、両親は何も言わなくなった。娘の人生に関わるより、自分たちの人生を楽しむことを選んだのだろう。

 厚手のコートを脱ぎ街を行く人たちがすっかり軽装になった頃、珠代さんからメールが来た。
「そろそろ、女子会をいたしましょう」
 ちゃんと漢字変換されていて、絵文字まで付いていた。先に萌絵ちゃんと連絡を取ったようで、彼女の都合も書かれていた。亀田医院の佇まいが懐かしく思い出され、すぐに返信した。
 しかめっ面をしていた萌絵ちゃんがまた来ると知り、私の気持ちは軽かった。
 その日は萌絵ちゃんとホームで待ち合わせ、電車に乗った。私はワインとチーズが入った紙袋を提げていて、彼女はスイトピーの小さな花束を持っていた。
「私、お金がないから、こんなものしか持って行けなくて……」
「春らしくて、いいじゃない。珠代さん、きっと喜ぶわよ。萌絵ちゃん、気にし過ぎるんじゃないの? 若いんだから、手ぶらで行っても誰も気にしないわよ」
「そうでしょうか……」
「萌絵ちゃん、もっと自分に自信を持った方がいいんじゃない?」
「えっ、自信ですか? そんなこと考えたこともないし」
 私は萌絵ちゃんの頬みたいなピンクのスイトピーと、たるみのないきれいに伸びた指を見ていた。
 珠代さんは予想通り喜んでくれ、すぐにカットグラスに挿して座卓のまん中に花を飾った。
「また買って来ちゃった。代わり映えしなくて、ごめんなさいね」
 珠代さんは言ったけれど、菜の花や竹の子が季節の巡りを思わせる。
「萌絵ちゃん、若い人は遠慮なんかしちゃだめよ。せっかく買って来たんだから、いっぱい食べてよ。年取るとあんまり食べられなくなるから、今のうちよ。ほら」
 乾杯して女子会が始まった。珠代さんはすぐに箸を置き、「若い人が食べてるのを見るのも、気持ちがいいものね」と満足そうに萌絵ちゃんを見ている。
「ねえ、海ホオズキって知ってる?」
 珠代さんが唐突に訊いた。
「お盆に飾る朱色のホオズキなら知ってますけど」
「違う、違う。海で捕れるのよ。何かの卵なんだろうねえ。巻き貝とかにくっついてて、たまに魚屋さんにあるの。こんな形をしてて」
 両手の人差し指を左右対称に動かしながら、手に入れた時の嬉しさやどうやって音を出すかを細かく説明する。
「海ホオズキがどうかしたんですか?」
 萌絵ちゃんの問い掛けに、珠代さんの顔から笑みが消えた。
「ごめん、ごめん。この前、魚屋の店先で急に思い出したものだから。こんな話、おもしろくもなんともないわね」
「あっ、いいえ、そうじゃないです。もし珠代さんが持ってたら、見てみたいなと思って」
 あわてている萌絵ちゃんに口添えした。
「私も見たいです。それって植物じゃなくて、動物なんでしょう。なんだか不思議な物みたい」
「そうなのよ。でも、小さい頃に見たきりで、もう六十年以上みたこともないわね。その後、ゴムで似せて作ったおもちゃもあったんだけどね」
 珠代さんはまた話し始めた。ひとりで過ごす時に頭に浮かぶあれこれを解き放つようにしゃべる。孤独な時間の埋め合わせをしているように見えた。
 萌絵ちゃんの目がとろんとしてきて、また「努力しなくちゃ」とつぶやいている。私と珠代さんは顔を見合わせた。
「萌絵ちゃん、何のために努力するの?」
 珠代さんが訊いた。
「私、人並みになりたいんです。普通の、どこにでもいる人みたいにしていたいんです」
「萌絵ちゃんは、普通のかわいらしいお嬢さんよ。今のままでいいじゃない」
「だめなんです。珠代さんも千紗さんも私のこと知らないだけなんです。知ったら私のこと、嫌いになるから」
 ふたりの遣り取りを聞きながら、後ろめたい気持ちになった。
「嫌いになったりしないわよ。誰かに話したら気が楽になることもあるでしょう。私たちって、ここで会うだけだから他の人に話したりしないし。年寄りに話すのもいいかも。若い頃の悩みなんか、年取ったら小さな事に思えてくるから」
「そうでしょうか。珠代さんも大きな悩みとかあったんですか?」
「そりゃあ、あったわよ。ずっと若い頃のことは忘れちゃったけど、母を看てた時は辛かったわ。今みたいに介護制度がちゃんとしてなかったし。徘徊もあって戻って来れなかったり、お店の物を勝手に持って来ちゃったり。近所からよく苦情がきてね、頭下げてまわったりして。それでも、二度とこんなことのないように、とか言われて。まわりの人がみんな私たちを責めてるような気がしたし、母ひとり護ってやれない自分が情けなくてね。母と一緒に死のうって思ったこともあったわ」
「そうだったんですね。私、珠代さんは何の心配もなくて、子どもの頃からずっと幸せな人なんだって思ってました」
「そんなわけないじゃない。でも、いつの頃からか、あんまり心配しなくなったわね。居直っちゃったっていうか、こうなりたいとか目標みたいなものもなくなったし。他人にどう思われようと、あまり気にならなくなったわね。昔は、ほんと意地張って生きてたわ。今はいろんなことがどうでもよくなって、気楽なものよ」
「そんなものなんでしょうか」
「私の場合、そんなものね。年取るのも、悪いことばかりじゃないわよ」
 自分が年を取るという現実から目を背けていた私には重く響いた。
「で、萌絵ちゃんは、どうして嫌われるなんて思ったのかしら」
 話そうかどうか迷っているようで、下を向いたまま黙っている。
「ごめん、こんな訊き方して。話さなくていいんだから」
 謝りながら、珠代さんが萌絵ちゃんの二の腕の辺りをゆっくりさすった。
「いえ、私、本当は誰かに聞いてもらいたんです。独りでずっと考えてて、毎日が厭でたまらないんです」
 顔を上げた萌絵ちゃんの大きな目に泪が溜まり、淡いピンクの頬に流れ落ちた。
「私、妊娠したのに、赤ちゃんを死なせてしまったんです」
 彼女は高校生のときバイト先の男性と付き合うようになった。当時三十歳だったその人は頼り甲斐があり、優しかった。家庭環境に恵まれなかった萌絵ちゃんにとって、心置きなく甘えられる人だった。三年生の秋、妊娠したのを機に男性の家で彼の両親と同居するようになった。それ以来、学校には行っていない。
「一緒に住むようになったら、すぐに叩かれるようになったんです。お父さんもお母さんも仕事してたから、私が家のことしてて。でも、うまくできなくて。あの人が帰って来た時にご飯ができてなかったりするし、こんなまずい物が食えるかって言われたこともあるし」
「その家のお父さんやお母さんは助けてくれなかったの?」
「あの人が怒り出すと、ふたりとも黙って自分たちの部屋に行ってしまいます。何か言うと、もっと怒るから」
 冬が終わるころ、階段から蹴り落とされた萌絵ちゃんは流産した。病院で意識が戻った時、身の周りの物を詰めたボストンバッグがひとつベッドの横に置かれていた。内ポケットにまとまった現金が入った封筒が乱暴に突っ込んであった。
「なんて、ひどい話なの。それで、萌絵ちゃんのご実家の方たちは?」
「一応、病院から母に電話したんですけど、そちらのお家の人にしてもらいなさいって言うばっかりで……。母もいろいろあって、勝手に出て行った私のことまで手がまわらないし。あの人に連絡するのも、また叩かれると思うと恐くて」
「どうしようもない男ね。そんな男、別れてよかったわ」
 珠代さんは声を荒げた。
「でも優しいとこもあったんです。私がもっと人並みにいろんなことができてたら、こんなことにはならなかったと思うんです」
「その男と一緒に住んでて、幸せになれたと思う?」
「それは判らないけど、私がもっとちゃんとしていれば赤ちゃんを死なせなくてすんだかもって思ったりします」
 珠代さんは頭を左右に振り、大きな溜め息をついた。
 私も言葉を掛けたかったが、何かで読んだDV対処法や通り一遍の慰めしか浮かんでこなかった。
 まだほんの二十歳なのに。柔らかい心の襞に深く刻まれた傷を想像するだけで身震いした。萌絵ちゃんのしかめっ面を鬱陶しく思った自分を責めた。
「それっきり、その男とは会ってないのね」
「ええ。連絡もしてません。籍も入れないままだったので、そのまま。私の実家ともそのままになってます」
「萌絵ちゃん、よくひとりで頑張ってきたね。今は自分で稼いだお金で生活してるんでしょう。大したもんだわ。私なんて、一度も自分で自分の生活を支えたことなんてないもの」
 家賃も払わず食費も親に頼っている私だって、珠代さんと同じだ。
「そりゃあ珠代さんのお家はお金持ちだから、私とは違います。私はこうするより他にないし……。ただ、将来のこともあるから、もっとちゃんと暮らしてゆけるように努力しなくちゃ」
「萌絵ちゃんのこと、応援する」
「私も、応援する」
 ひと言しか言えない私は卑怯だった。珠代さんくらいの年になったら、少しは自分なりの言葉を掛けたりできるかもしれない。それは漠然とした希望のようなものだった。
 その日、珠代さんは前回よりも大きな袋にお総菜や買い置きの食料を詰めた。萌絵ちゃんは嬉しそうに受け取って、何度もお礼を言った。
 萌絵ちゃんと駅までの道を歩いた。
「夜はまだ冷えるね」
 彼女が笑顔でうなずいた。空を見上げると、星がたくさん出ている。
「お星様を見るのなんて、久し振り。いつも見てるはずなのにね」
「そうですね。私も、こんなふうに見ることなかったです」
 ふたりで立ち止まって夜空を眺めた。
「萌絵ちゃん、ごめんね。私、何も言ってあげられなくて。でも、萌絵ちゃんのこと、嫌いになったりしないから。絶対にそんなことないから」
「ありがとうございます。今日、話してよかったと思ってます。努力してれば、どうにかなるって気がしてきました」
「そうよ。まだ若いんだもの」
 私にも二十歳の時があった。経験も知識もなかったけれど、自分が獲得してゆく未来への希望があった。あの頃の晴れがましいような、まばゆいような気分を思い出した夜だった。

 佐野さんから誘いのメールが来た。新しい展開があるわけでもなく、生活の一部のように習慣化している。
 指定されたレストランで佐野さんの名前を告げると、壁際の席に案内された。座ると同時に、携帯が鈍い振動音を立て始めた。佐野さんからのメールには、少し遅れる、と書かれている。
 グラスワインを注文し、ゆっくりと口に含んだ。視線の先に、私と向かい合わせに女性がひとり座っている。彼女も誰かと待ち合わせているのだろう。不安げに何度も入り口に目を遣り、時どき水を飲んでいる。女性が発する空気感がその場に不釣り合いに思え、つい見てしまう。年齢は五十歳前後だろうか。丸襟のスーツは生地の張りを失っていて、長年しまい込んでいたのを引っ張り出してきたみたいだ。子どもの入学式とか卒業式のためにあわてて買い揃えたものだろう。うなじの辺りでひと括りにした髪が生活感をにおわせる。平坦に塗られた顔全体に、くっきり引かれた眉と牡丹色の口紅が目立つ。レストランでこの時間に食事する機会などない専業主婦のようだ。いったい、どんな人と待ち合わせているのだろう。
 また女性が入り口に目を遣った。とたん、別の人みたいに表情が輝いた。スタッフに案内されて来た男性のくたびれたスーツが、その痩せた体型を強調している。こちらに背を向けて座った後頭部がかなり薄い。長年、連れ添った夫婦が何かの記念に外での食事を思い立ったのだろう。妻は緊張から解放されたように、しきりと夫に話し掛けている。その顔から自信に満ちた幸福感が伝わってくる。
「やあ、お待たせ。これ選んでたら遅くなっちゃった」
 テーブルに赤いリボンが掛かった小箱が置かれた。プレスの効いたボタンダウンシャツに、下ろし立てみたいなブレザーを羽織った佐野さんが立っている。その時になって自分の誕生日であることに気づいた。四十四歳になった私は、顔だけで笑った。
 食事を終えてテーブルを立つ時、あの夫婦に目が行った。ふたりの間には、くつろいだ親密さがあった。店を出て歩きながら、妻のはしゃいだ顔や、甘えるように小首を傾げて夫に話し掛ける様が浮かんだ。あの妻は夫から暴力を振るわれたことがあるだろうか。日常的な暴力とは無縁そうな顔だった。
 その夜はベッドに入っても、なかなか集中できなかった。佐野さんも含めて、私は今まで付き合った男性から暴力を受けたことはない。たまたま、そうだったのか。佐野さんの中にも暴力への衝動があり、理性で抑えているだけなのか。私には判らない。
 佐野さんは同じ動きを繰り返している。それは突然、来た。自分の外枠がぽんと弾けるほど、強い感覚が湧いた。
 セックスはギャンブルみたいなものかもしれない。自分を取り巻く現実はどこかへ飛んでしまい、自分ではない何かに支配される。ほうけたようにパチンコ台に向かっている人や、馬券を握り締めて声の限りに叫んでいる人と同じ状態なのだろうと思ってみたりする。だからといって、私が依存症とか中毒に陥ることはない。佐野さんに会いたくなっても、セックスへの衝動とはつながらない。私はただ、自分というものの存在を確かめたいだけだ。それが束の間であっても、一心に私に向けて働き掛けるものが欲しいのだ。
 レストランで見かけた妻や佐野さんの奥さんは、こんなことは思わないだろう。彼女たちは共に向き合い、生活をまわしてゆくパートナーを持っている。佐野さんとの関係は私が決定権を握っているようだが、彼にとって消滅しても構わない程度のものとも言える。二者択一を迫られれば、彼が何の迷いもなく家庭を優先するのは明らかだ。
 すべてを話して嫌われるのは萌絵ちゃんではなく、私なのだ。

 梅雨明けも近く、時折り強い陽射しがのぞく。子どもたちは夏休みを目の前に、そわそわしている。仕事も忙しくなった。萌絵ちゃんは、ちょっとは楽に生きてゆけるようになっただろうか。珠代さんの中では、ひとりの時間に溜め込んだ諸もろが出口を求めているんじゃないだろうか。私は珠代さんからの連絡を心待ちにした。
 メールに気づいたのは、帰り支度をしている時だった。珠代さんからと萌絵ちゃんから、二通きている。女子会の連絡と思い、軽い気持ちで珠代さんのメールを開いた。「できたら、電話をください」とだけ書かれている。先に届いた萌絵ちゃんのメールと関係があるのだろう。件名が「お二人へ」となっているメールを開いた。
「突然ですみません。遠い街に行くことになりました。彼と一緒に行きます。お二人のことは忘れません。ありがとうございました。」
 厭な予感がした。
 急いで会社を出て、歩きながら携帯を開いた。アドレス帳の「女子会」グループには、ふたりの名前がある。珠代さんに電話を入れた。
「千紗さん、萌絵ちゃんのメール、見たでしょう。私ね、見てすぐ萌絵ちゃんに電話したの。その時はまだ電話が生きてて、心配しなくていいって言うんだけどね」
 珠代さんはあわてていて、早口で知る限りの情報を並べた。萌絵ちゃんがいう「彼」とはコンビニの店長らしい。
「その彼の親御さんが病気で働けなくなって、治療費とかで借金がかさんだんだって。サラ金が彼の所まで取り立てに来てたみたい。ふたりで温泉旅館に住み込んで働くんだって。三年、我慢したら借金が返せるって言ってた」
「そんなことって……」
「そうなのよ。なんで萌絵ちゃんばっかりって、私、思ったわよ。携帯は解約するけど、無事に借金返済したら必ず私たちに連絡するって。案外、明るい声だった」
 珠代さんは、「話してくれればよかったのに。私がしてあげられることなんて、ないんだけどさあ」と言って電話を切った。
 すぐに萌絵ちゃんに電話したが、つながらなかった。
 それからは頭の隅に萌絵ちゃんのことが居座って落ち着かない。時間が経つにつれて、それはどんどん膨らんできて捌け口を求めていた。しかし珠代さんを除いて、私の周囲に萌絵ちゃんの話題を共有する人はいない。思い切って珠代さんにメールを出した。彼女を真似て「女子会をいたしましょう」と打ち込み、「どこかでお昼をご一緒しませんか?」と誘いの言葉を添えた。珠代さんの返信には、用事があるので来週の月曜日以降にしてほしい、とあった。
 私たちは自然食レストランで待ち合わせた。自分でも可笑しいくらい、その日が待ち遠しかった。先に着いた私は、いつか見た女性のように何度も入り口を見ては水を飲んだ。
 久し振りに会う珠代さんは、心持ちほっそりしていた。萌絵ちゃんの新しい情報はなく、溜め息ばかりで会話も沈みがちだ。
「今度の人は大丈夫なんでしょうか?」
「さあ、どうなんだろう。それにしても、三年って長いよね」
「そうですねえ。でも、萌絵ちゃん、三年後はまだ二十三歳なんですよね。若いですね」
「うん。若いね。私なんか、三年後はもうこの世にいないかもしれないのに」
「まさか。珠代さんはまだそんな年じゃありませんよ」
 珠代さんがまた大きな溜め息をついた。
「萌絵ちゃん、幸せになってくれたらいいな。私ね、あれから神社の前を通りかかったら、お参りしてるの。萌絵ちゃんが健康でちゃんとご飯を食べてますようにとか、笑ってますようにとか。今までこんなに真剣に他人の幸せを願ったことなんてあったかしら。やっぱり年取ったんだよね」
 彼女は食が進まないようで、しゃべりながら割り箸の袋を折りたたんだり広げたりしている。
「萌絵ちゃん、きっと大丈夫ですよ。努力の人だし、まだ若いし」
「それも、そうね」
「ふたりで女子会しながら、萌絵ちゃんを待ちましょうよ。私、こんなふうにして珠代さんと時どき会いたいんですけれど」
 彼女は何も応えず黙ってしまった。萌絵ちゃんのことがよほどショックだったのだろう。
「あのね。迷ったんだけど、やっぱり千紗さんには言っておくわね。私ね、来週の月曜日から入院するの。乳癌の手術のために。前から判ってたんだけど、どうせひとりだし死んでもいいかなって思ってそのままにしてた。でも萌絵ちゃんのこと思ったら、それじゃあいけない気がして。先週は検査入院だったの。転移もあるみたいだから、どうなるか判んないんだけど。とにかく取れるところを取ることになって」
 自分を立て直すのに少し時間が要った。
「病院はどこですか?」
「お見舞いなんて、いいのよ。萌絵ちゃんじゃないけど、退院できたら私の方から連絡するから。しばらくはしたくてもメールも電話もできないだろうし」
「何か私にできることありますか?」
「大丈夫。保証人とか手術の同意書とかは、母方の従姉妹がやってくれるから。普段は行き来もしてないのに、こんな時はありがたいものね。やっぱり、人間、ひとりでは生きていけないようになってるみたい」
 混乱した私は、「きっと手術は成功して、また元気になれます」と繰り返していた。
「私も、そう願ってるわ」
 珠代さんは、あの運に恵まれていそうな笑顔を見せた。
 買い揃える物があるという彼女と、レストランの前で別れた。
「私も、今日から神社の前を通ったらお参りします。珠代さんと萌絵ちゃんのことを護ってくれるようにお願いします」
「誰かが私のために手を合わせてくれるなんて、ありがたいわね。きっと、また女子会しましょうね。じゃあ、これで。千紗さんも元気でね」
 少し歩いてから振り返り、珠代さんの後ろ姿を目で追った。見えなくなってから携帯を取り出し、佐野さんを着信拒否にしてアドレス帳から削除した。

                        © ひわき ゆりこ

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