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 作品,53

 

社会の片隅でひっそりと生きる人びとが、哀愁のこもった文章で綴られている。人の息遣いが伝わってきて、人間の存在の確かさを感じる。


                 推薦・ひわきゆりこ(KOKO・胡壷 

      
 

「詩と真實」600号より転載
縦書きPDF版 「メトロノーム


  メトロノーム

  辻一男

  右へカーブして行く電車内の窓から、前方の箱型の車両が不規則な動きをしながら円軌道の上を曳かれているのが見えた。
 僕は乗降口のパイプの支柱に寄りかかり、潮がひくような、浅瀬から深みへと連れて行く緩やかな眠りを待っていた。しかし当たりのあったウキのように、不意に引きずり込まれる感覚が、失神する恐怖を誘い出し、どうしても眠ることができなかった。
 昨晩、僕の横には幼虫のように身体を丸めて眠る洋子がいたが、僕は温もりの移っていないシーツに、顔を擦りつけることを繰り返すだけの長い夜を持て余していた。
「まだ眠れないの?」洋子は僕のほうに寝返りを打ち、うつ伏せになっている僕の裸の腰を指圧した。洋子の指には思わぬ力があって、ツボを的確な強さで押してくる。
「疲れるからもういい」
「気を使わなくてもいいの。眠くなったらやめるんだから」洋子は僕の背中にキスをし、指先に力を込めた。
「飲み屋でね…バス通り沿いの…」
僕は洋子のアパートに来る前に立ち寄った店の話をした。
「もつ煮込みの美味しいところよね」
「ビールを飲んでいたら、チッチッて鳴声のような音がするんだ。それで、カウンターのおばさんに、『小鳥飼ってるんですか』って訊いたら『店で小鳥なんて飼いませんよ』って嫌な顔で言われてね。ま、たしかに食べ物を置いているとこで、小鳥を飼うことはありえないことなんだけどね…でも本当に聞こえたんだよね…」
洋子は指の力を緩めた。
「小鳥ではなくってネズミだったんじゃないの。あの店ネズミが安心して棲めそうだもの。あ、でもあなたこの頃耳鳴りがひどいって言ってたから、身体の内と外の音が曖昧になたってことかも」

 通過して行く駅は、駅名だけが変わっているように見えた。車窓越しに、水をたっぷり含んだ空がを見上げた。遠くに見えるサラリーローンの広告塔は霞んでいるのに、線路沿いのバーやスナックの看板の文字は、無駄な陽光がない分しっとりとして見えやすくなっていた。
 駅の跨線橋の窓から、僕が乗っていた電車が、少し大粒になっている雨の中を、尻を振りながら遠ざかって行くのが見えた。駅舎の出入口で、僕はアルトサックスの入ったケースを脚の間に下ろし、ビニール傘を開いた。
 ワックス切れした革靴に雨を沁み込ませながら、線路沿いの道を歩いた。下水が流れ出るヒューム管の口が数個開いている護岸が見え、小さな橋の向こうに、闇市が少しずつ姿を変えて生き残ったようなアーケードがあった。僕は楽器ケースを提げている左腕を上げ、腕時計を見た。三時からアーケードにある楽器店のスタジオを予約していた。
 アーケードは雑多なニオイが澱んでいて、入口から風が吹き込むと皺が寄るように、消えていたニオイが僕の鼻に絡みついた。
 脇道の小料理屋の店先で、雨の加減か、行灯仕立ての朝顔がこの時間まで萎れずに、赤や紫のラッパ状の花弁を開けていた。
 肉屋の店先で、若い女が惣菜用に手羽先を揚げている。油の腰がなくなっているのか、狐色の泡がフライヤーから溢れるほどに盛り上がっている。若い女は気にならないのか「ペッパー警部」をハミングしている。
 ヤマハのトロンボーンとトランペットとサックスが、ホルダーに掴まれているショーウィンドーの前に来ると、僕は傘立に傘を挿し込み、ガラスのドアが開けた。ブラスバンド部員と思われる二人の女子学生が、クラリネットのリード選びをしているだけの、店内のショーケースには、セルマーのアルトサックスとバックのトランペットとムラマツの銀のフルートがヴィンテージ物のワインのように飾られていた。
 僕は楽器ケースを床に降ろし、カウンターの男に軽く手を挙げた。鼻の下に薄い髭を無理やり生やしている男は昔、同じバンドでトランペットを吹いていた小野だった。
 小野に会うのは二年ぶりだった。小野がエレクトーンの講師と結婚し、楽器店で働いているのは知っていたが、この楽器店だと分かったのは、予約の電話で彼と話した時だった。
「久しぶり」小野はすっかり板についた営業用の顔で、僕との距離をどのくらいとって良いのかを見極めるように僕を見つめた。
「ちょっと寝不足」僕は訊かれもしない顔色の悪さの言い訳をした。眼の下を指で擦り、カウンターのガラスに映る自分の顔を見た。身体に比べてまだ肉の落ちが目立たない顔が映っているが、顔色が良いのか悪いのか分からない。
「いつから『銀の馬車』で吹いているのよ」小野が言った。
「もう二ヶ月ぐらいになるかな」
「ハコで入っているワケ?」
「いや、体調を崩したサックスのトラ」
「何かもったいないね」
「そんなことないさ。気楽だし結構おもしろいよ」
 もう二人には共通の話題がなかった。昔を懐かしめばよいのだろうか。奥さんはどんな人なの、子供はまだなのと訊いたら良いのか。
 僕は二時間分の料金を払い、楽器ケースを縦に持ち変え、ショーケースにぶつけないように気遣いながら奥のスタジオに向かった。
 二重扉の中は六畳ほどの広さで、キーボード、アンプ、スピーカー、スタンドマイクが二本備えられ、角の雛壇にドラムセットが置いてあった。
 僕はパイプ椅子に腰掛け、ストラップを首に掛け、アルトサックスを吊り下げた。口に含んで湿らせたリードをマウスピースに締め付け、ネックにグリースを塗って挿し込んだ。
 リードは厚くて腰の強いものを使った。薄いリードは楽に音は出るけれど、高音が詰まるし、響に艶がない。硬くて吹き辛いくらいのリードを木賊でバラランスの良い音が出るまで削っていく。
 口から何のくびれもない一本の管を腹まで通すように、横隔膜を下げ、喉を大きく拡げる。全てのキーを使うために、クロマティックスケールを一音ずつ、息の続くかぎり長く吹く。手癖がヌケの良いキーと悪いキーを作っている。速いパッセージは吹かない。響だけに耳を澄ます。
 譜面台にインプロヴィゼーションの教則本を開いた。
 備えつけの、古いメトロノームのネジを巻き、アンダンテに速度を合わせ、教則本を消化していく。心臓とメトロノームのカウントが重なっているのを体感する。少し速めの拍動。キーを押さえる指が、楽譜を追う目と同時に滑る。
…と突然、メトロノームと心臓の拍動が微妙にずれた。心臓がグズっと小さく空打ちし、一拍止まり、送り切れなかった血液を送るため、次の拍動をシンコペーションのように倍の強さで打った。僕の脳は怖気付き、プレストの速さで心臓を打たせ始めた。
 僕はアルトサックスを楽器ケースの上に置き、小銭入れの中から精神安定剤を出し、二錠口に放り込んだ。噛み砕いた時、舌も一緒に噛んだ。口腔に血のニオイが拡がる。
 苦痛はないが不安が大きい。不安は恐怖となり、さらに拍動を速くした。一過性のものでしばらくすれば落ち着く、速くても正確に打ち続けている限り大丈夫だと楽観的に考える。意識を身体の内に向けず、外に向けること、そうすればこの前のようにしばらくすれば治まるはずだと自分に言い聞かせた。
 予約の時間が終わるまでじっとしているしかなかった。メトロノームがいつのまにか止まっていた。

 傘を忘れてきたのに気がついたのは、コーヒー専門店のカウンターに座ってからだった。雨は止んでいたらしい。コーヒーは心臓に良くない気がするけれど、このまま仕事場に入る気がしなかった。
 湧水で踊る砂のようなコーヒーを見つめる。竹のヘラでサイホンを攪拌する若い店員の所作に、いかにもプロというあざとさがあり、せっかく落ち着きはじめた気持をざわつかせた。
 楽器店を出るとき、小野の眼に、まだクスリを止めてないのか、という蔑みの色が浮かんでいた。小野が止めているのは血色の良い顔色を見たらすぐにわかった。僕も止めたのだ。ただ、内臓に後遺症が少し残っているだけなのだ。
 三年前、ジャズ・コンボのメンバーのとき、僕は長いアドリブの途中、演奏不能になり、しゃがみ込んでしまうという失敗をやらかした。「効くぜ」小野に分けてもらったクスリに頼るようになり、量が増え、眠らないので痩せていき、爆発力はあってもスタミナが無くなり、一時的に自分の予想を超えるオリジナルなフレーズを吹けることもあったが、確実に演奏能力は落ちていった。
 近くでドラマのロケーションがあったのか、L字のカウンターの端に、演技派で知られる男優が、たぶんADの若い男と二人で座っていた。男優の不遜な態度とADの卑屈な物腰は見事に対照的だった。うしろのテーブルから若い男女の話し声が断片として聞こえてくる。カウンターの食器棚のガラスに映る男は眉毛を剃ったスキンヘッドで、女は金髪のショートカットだった。男が情熱的に自分のことを女に話していた。
 入口が開き、客が入ってきた。バンドマスターでピアノを弾く西条だった。西条は僕がいるのに気がつくと、ヨッと片手を挙げ、僕の隣の椅子を引き出して座り「雨あがったね」と呟き、僕の顔を見た。なにか言いたそうに見えたが、「モカ」と言ってタバコに火をつけた。僕もタバコを咥えた。少しも旨くなかった。
「ドリアンモードの練習した?」
「少しだけですけど」体調さえ良ければやるはずだった練習のことを誤魔化した。
「ねぇ前から訊こうと思ってたんだけどさ、君はヒンデミットとかヴィラロボスが好きなのかい」僕が意味を取り損ねて間が空く。
「いやね、君のサックスがクラシックの音だからさ」
 西条はたっぷりある髪をかきあげ、黒縁のメガネを外し、カウンターの紙ナプキンでレンズを拭いた。メガネは伊達だろう。テレビのクラシックの音楽番組で見かける西条はメガネをかけていない。
 『銀の馬車』の専属バンドはピアノ、サックス、ベース、ドラムのカルテットだが、僕以外、みな本職がオーケストラのコントラバス奏者という、ちょっと変わったバンドだった。
「音が良いのはスバラシイことだけど、ただそれにこだわると自由な感じが損なわれるんだよね」
 西条には高飛車なところや、押しつけがましさがなく、僕の耳へ素直に入って来る。
「フリージャズはその名の通り、最小限の約束事だけ、自分の責任において何をやっても許される、アドリブだよね。歌舞伎やオペラや新劇のように、決められた所作やセリフを、練習を重ねて研ぎ澄ますのではなく、何を話し掛けてくるのか分からず、こちらも準備した答えではなく、時間も与えられず、走りながら対処していくような、演奏するほうも聴くほうもハラハラドキドキするところが命ではないか、と思うよ」
 西条は教条的になったのが面映いのか、最後にちょっとおどけた顔をした。僕の最も不得意なことを西条は言っている。僕はコミュニケーションが苦手で、当意即妙なことはもっと苦手だった。一番不向きな仕事に就いているのかもしれない。
 午後六時、コーヒー専門店を出た。外はまだ少し明るさが残っていた。線路沿いの道を西条と踏切まで歩く。遮断機が降りていて、黒のハードトップが、ゲートに入れられた馬のように震えながら身構えていた。
「俺たちのうしろのテーブルにいた男ねえ、スキンヘッドの。彼は舞踏家なんだろうね、もしくはその卵か」と西条が言った。
「彼の話に土方巽や大野一雄の名前が出てきていただろう」
 僕の記憶には何の引っかかりも残っていない。
「山海塾という名前も出てきていたから、その道ではかなり有名な集団だな」
 通勤快速電車が通り過ぎただけで遮断機が上がり、ハードトップは尻を上下して踏切を渡り、肩に『銀の馬車』の電飾看板を付けた二階建ての前を、タイヤを鳴らし折れていった。
 西条の後について『銀の馬車』の裏口に回り、狭くて急な階段を、楽器ケースを前に出し、腹で支えて上っていった。二階には簡易な給湯設備とホステスのロッカールーム、その奥に楽屋があった。給湯所の壁に、ホステスの指名獲得数を表した棒グラフが貼られている。僕は洋子の棒をいつも見てしまう。高くはないが低くもない。
 ロッカールームの前で、洋子がタバコを喫っていた。西条が軽く挨拶をして通りすぎ、僕も目で合図を送って通りすぎようとした時、洋子は僕の股間を一撫でし「オハヨ」と言っていたずらっ子のように笑った。
 楽屋にはベースの佐々木が先に来ていて、ミニのポットに入れたウイスキーの水割りを飲んでいた。しばらくすると、ドラムの林田が挨拶もそこそこに飛び込んできて、ワイシャツに着替え始めた。僕らはそれがいつもの合図で、一回目のステージに上がる準備をした。

 洋子が『帰ってくれれば嬉しいわ』を唄っている。ハスキーな声がこの曲にとても合う。客の入っていない早い時間、ホステスたちが簡単な楽譜を持って、西条に伴奏を頼みにくる。西条は演歌から歌謡曲までなんでも弾いてやる。バンドは付加価値のようなものだから、西条もホステスには少し気を使うのだ。僕はピアノ譜を見て、頭の中で調性を短三度下げ、シャープやナチュラルが増えた譜面を吹くことになり、面倒くさい思いをする。
 洋子はレコーディングの経験はないが、鶯谷のダンスホールでビックバンドをバックに唄っていた経験があり、レパートリーは全てジャズのスタンダードナンバーなので、西条も僕も愉しく、のびのび演奏した。
 洋子が唄っているときは、客が入ってきてもホールマネージャーはやめろとは言わない。しかし洋子は程をわきまえていて、切りの良いところでホステスに戻る。
 西条は客に合わせ、映画の主題歌やポピュラーなラテンのナンバーをチョイスする。途中一度ドリアンモードの4バースをやったが、対話すると言うにはほど遠かった。
 楽屋に戻ると、コーヒー専門店にいたスキンヘッドの男が立っていた。自分は今日のショータイムのダンサーですと頭を下げた。並んでみると、男の上背は僕と変わらなかったが、顔が小さく、水泳選手のように、均整のとれた身体をしていた。
 男は西条とショータイムの曲の打ち合わせをし、準備があるから床を借ります、と言って楽屋の黒く脂汚れした床の隅に新聞紙を敷き始めた。
 二回目のステージで、『本日のショータイム』のアナウンスがあり、西条が『カルメン』のハバネラのリズムを刻み始める。照明を落としたフロアーの隅に立つ男へ、スポットライトが当たった。男の身体が黄金色に輝いている。頭からつま先まで金粉が塗られていた。
 男は真紅の薔薇を咥え、「パンツ着いてないの?」と囁く客席の間を摺り足で動く。静と動のコントラストを異形のフォルムで際立たせている。それは一般的なダンスとずいぶん違っているように見えた。男に近づかれた客は迫力にたじろぎ仰け反った。
 楽屋に戻ると、男が新聞紙の上で座禅を組んでいた。壁に向かって座る男の背中が波打っている。金粉を塗り込めたせいで皮膚呼吸ができない分を深呼吸で補っているようだ。
僕は楽器の手入れをしながら男の背中を見た。脂肪がなく、内側から筋肉が盛り上がり、猫背のようにさえ見えた。肋骨を押し広げる肺臓の力強さ。個々の細胞が酸素を求めて男の肉体を突き動かしているようだ。精神は深部に下りているのだろうか。
 僕は男のように深呼吸をしてみる。不整脈がでた。自分が思っているより身体は弱っている。夜中、胸苦しく仰臥していられなく、上半身を起こし、暗闇が怖くて蛍光灯を点け、肩で呼吸を繰り返すとき、生物にとっての原初的な恐怖を感じる。死にたくないと思う。「チョット待ってよ」運命の支配者かなにかにすがったりもする。
 男の黄金色の背中に電飾看板の明りが映っている。明りは点滅を繰り返し、終わりのないゲームをしているように見えた。警笛が聞こえ、電車のライトが窓から射し込み、男の背中で明滅する明りを消し去ったが、僕には後ろの明りが前の明りに追いついたように一瞬見えた。

                             

                      「詩と真實」600号より転載

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