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 作品,51

構想」51号より転載

 

数ある畠山作品のなかでも、より神秘的、且つより魅惑的なメタフィクション短編である。完成度が顕著で、高質なエッセイでもある。「神話入門」はすなわち、「文学入門」とも解釈できる。そう捉えれば、この静謐な語り口の奥に潜む、人生の哀感や、人間のマグマにさえ出会えそうな気がする。テーマ、構成、文章、リズム、私は「シーシュポスの神話」の言葉を借りて、「すべてよし」と呟く。


                           推薦・陽羅義光(構想 
 

 縦書きPDF版 「神話入門

    神話入門

                                    畠山 拓

 

孕む女神

                             

 知人の女、ふたりが妊娠中だ。

 一人は三十代半ばだ。もっと上かもしれない。北国生まれの色白な女で、足がきれいだ。性格もはっきりしていて弁もたつ。優秀な会社員と評価されていた。三十で結婚した。大手企業のサラリーマンとである。ハンサムな男だ。女の方が積極的だった。

 妊娠したが二度流産している。二度の流産の後、夫婦仲があやしくなった。女は仕事を辞め、子供が無事生まれることに専念した。

 女が妊娠したので、私は仲間と喜び合っていた。

「妊婦はしばらく飲めないな」と、飲み友達と一緒に軽口をきいていた。

「私が名付け親になってあげるよ」と、仲間の誰かが言う。

 気がつくと、出産予定日を遥かに過ぎている。

直接、本人に問うのも気が重い。悪い予感がわく。

私は仲間に間接的に問うた。「出産はもう少し後になるようです」と、仲間のメールが来る。優しさのある言い方だ。また、駄目だったのかと、気持ちが暗くなる。

 丁度、日本神話に関する文章を読んでいた。

イザナギとイザナミの夫婦神の話だ。ふたりの神の性行為によって日本の国土が生まれるという神話。最初の性行為は女の神から誘った事が原因でヒルコという骨なしの怪物を生んでしまう。私はヒルコの語感から「蛭」を連想してしまう。蛭のような気持ち悪い子供。すぐに処分したくなる。

 イザナギの意味は、「誘う男」というのであるらしい。

 夫婦神は二度目に成功して、八つの国を生んだという。

 もうひとりの女は無事に生むだろう。彼女は四十歳での妊娠だ。高齢出産という事になる。初めての子供ではない。十二歳の女の子がいる。

 女は離婚している。妊娠は新しい夫との間の事だ。新しい夫を愛しているから、ことさらに嬉しいだろう。高齢出産に不安もあるだろうし「不本意ながら仕事も辞める」のだから、重い決心が必要だ。

 女がどんな事情で離婚したのか、私は知らない。今の夫が原因だったのか。離婚してから知り合ったものか。

 女は丁寧な便りをくれる。

「お腹の子は母親の腹をさかんに蹴り…。何気ない日常の光景が今日はいつになく静かで、ひときわ穏やかに感じるのは、真っ白な外の風景のせいでしょうか。それとも元旦だからかなあ。

 雪はいろんなものを美しく変えてしまう気がします。家の外も内も。娘が、雪の上をぐるぐる歩いてうずまきになった足跡を見て喜んでいました。4月には中学生になる娘。幼い行動をみると、今、かけがえのない時を過ごしているのだとしみじみ感じてしまいます」

 大きな腹を抱えて庭の雪景色の中の子供を見守っている女の姿が目に浮かぶ。

四十歳の麻子と五十五歳の私は出会った。

 恋に落ちても子供が生まれる可能性については真剣に考えたことはなかった。若いころの私の恋人たちは避妊薬を飲んでいた。

 麻子は子持ちである。出産の時は難産で苦しんだという。もうあんな苦しみは御免だという。男には解らない苦しみだ。私の女に対する畏怖の念や、嫌悪の念は案外そんな事で植えつけられているのではあるまいか。

「歯痛にだって快楽はあるさ、と僕は答える。まる一月、歯痛を病んだ経験があるから、僕はちゃんと知っているんだ」〈江川卓・訳〉

 ドストエフスキーの「地下生活者の手記」の文章である。

 出産の痛みにも快楽はあるのだろうか。ドストエフスキーなら何と言うだろう。女は痛みに強い、と人は言うけれど出産の痛みに耐えられるからなのだろう。私は他人の痛みをどのように感じられるか解らない。自分の痛みの経験を思い出すぐらいが、せいぜいだ。

 友人の佐竹が尿路結石の激痛に襲われたという話をした。

「病気の痛みの中では一番だというが」

「汗を流した。呼吸が止まり、失神するんだ」

 私は歯痛の痛みぐらいしか経験はない。最近、夜中に頭痛に襲われる。悪夢を見る。

 私は亡くなった麻子を取り戻すために黄泉の国に行くらしかった。前の日に麻子と喧嘩をしている。「私が死ねばいいんだわ」

 地下に通じる穴であるらしい。辺りは薄暗い。湿気か強く、生温かいようでもある。数年前に旅行した遺跡の記憶が夢を作っているらしい、と目覚めてから気がつく。カッパドキアの遺跡である。

 私は大声で麻子の名前を呼んでいる。小さなころ私の田舎では人か死ぬと、誰かが屋根に上り死人の名前を呼んでいた。夢の中での私の振る舞いは幼いころの記憶によるものだろう。地下なので屋根のようなところに上ることはできないが、私は声を限りに麻子を呼んだ。

 麻子の声がする。姿はよく見えない。「私は黄泉戸喫(よもつへぐい)をしてしまったのよ。だから、もう戻れないかもしれないわ。でも、待っていて話をつけてくるから」

 ヨモツへグイとは黄泉の国の食事の事だと思う。どこかで読んでいたものらしい。夢の中の私の解釈である。

「誰と話をつけるのだい。ああ、お母さんかい」と、私は思う。夢の中で私は黄泉の国とも、また麻子の家がある街とも思っている。麻子は私の存在を母には隠しているのだ。外出するときはそれなりに苦労する。夢は奇妙にディフォルムされているのだ。母親が地獄の閻魔さまというわけか。

 私は暫く待っている。暗い地下トンネルの中だ。一刻も早く、麻子を連れ出したい。

「こっちに来ないで、見てはだめよ」と、私は麻子に言われていたけれど、無暗に寂しくなる。麻子は戻ってこないかもしれない。不安で仕方ない。洞窟の奥に歩みを進める。洞窟全体が薄明るいので何とか歩ける。

 前方に麻子の姿が見える。立っているのか、座っているのか解らない。麻子がいるという事だけがわかる。気配のようなものか。姿は見えているはずだ。見えていても、どのような姿勢なのか解らないのだ。

 普通ではないなと思いながら近づいてゆく。黄泉の国なのだから、不思議な事があっても不思議ではない。

 麻子は横たわっているようだ。全身に白いウジ虫がまとわりついている。数千匹、数万匹のウジ虫に覆われている。「神話の通りだ」と、私は夢の中で考えている。神話ではさらにイザナミの頭、胸、腹、性器、左右の手足に「雷の神」が生じていた、という。全身、燐光を放っていたのか。あるいは腐りかけていたという意味か。

 麻子の全身を覆っていたものは、よくみれば白米のようでもある。飯粒のひとつひとつがウジ虫に見えたのだ。よほど急いで飯を食べたのだろう。麻子にはそんな無邪気なところがある。ご飯をこぼして私に注意される。

 麻子の頬についた飯粒を口でとってあげる。飯粒のようでもあり、白いウジ虫のようでもある。弾ける歯ごたえを感じた。

 私は逃げなければならない。麻子を少しもこわがっていないのに、逃げなければならない。私は夢の中で神話を演じているのだ、と思った。

「麻子の夢を見たよ」

「どんな夢なの」

 私は少し云いよどむ。麻子がイザナミ、イザナギの神話を知っているのか解らない。そのまま話したら嫌がるかもしれない。

「麻子の老後は私がみてあげるよ」と、私は言う。二十歳も歳が違うのだから、私が先に死ぬことは解りきった事だ。黄泉の国まで私を取り戻しに来てくれるだろうか。麻子は来ないだろう。私は黄泉の国など信じていない。

「鬼ごっこの夢さ」

「遊んでいたの」

「麻子と鬼ごっこをした。最後に石の蔭に隠れて、麻子と口げんかをした」

「貴方が悪いのよ」

 曖昧なまま夢の話は終わった。頭が痛みだした。

「頭痛がする。飲み過ぎたのかな」

「出て御薬を買いましょう」と麻子は言う。

 席を立ち、蕎麦屋から寒い師走の街に出る。麻子に私の夢の話をありのまま言うわけにはいかない。麻子が死に死体がウジ虫に覆われて腐りかけているなどとは言えない。

妊娠した女のひとりは遠方に住んでいる。

 メールで近況を話し合う。女の妊娠を知った時「こんども女の子でしょうが・・・」と、私はメールした。「どうして解るのですか。貴方の直感ですか」と、返事が来た。女は最初の時は女の子供だと、確信したという。今回は感じがないと言っていたが、私が予感した通り女の子だという事だった。

「出産予定日は、私の誕生日と同じです。もっとも、ピッタリに生まれるとは限りませんが」

 友人からメールが来た。「彼女の出産は遅れるようです。今度の新年会は彼女の家の近くでやりましょう。帰りにみんなで、誕生祝いの品を届けようではありませんか」

 私の勘違いだった。子供は生まれるのだ。

 妊娠について麻子と話した事はほとんどない。ふたりとも妊娠の事は心配していないのだ。まったく可能性がないわけではないが、心配ごとではない。

「もしも、そうなったら生むかい」

 現代の医療事情なら高齢の麻子も出産は可能だろう。旧約聖書を読めば、出産や死亡年齢はとても高い。

「もったいないわ」

 万一そんなことになっても、私にはとても子供を育てることはできない。友人の佐竹は孫が自分の子供のような気がする、と言っていた。私にも孫はいるけれど、子供とはやはり違う。

 寒い風に当たったせいか益々、頭が痛くなった。

黙り込んでいる私を麻子は心配して「家まで送る」と、言う。タクシーを拾い後部座席で麻子にもたれている。さっき、飲んだ頭痛剤が効いてきたのか、痛みは治まっていくようだ。しきりに眠気がわいてくる。

 巨大な雲が渦巻いている。

 私は空を見上げているらしい。海の波に浮かんでいるようだ。身体が不安定だ。黒い雲と、薄紫の雲が渦巻いている。私には激しい雲の動きが何を意味するか解っている。雲が性交しているのだ。しばらくすると空から雨、霙、霰、雹、が降ってくる。

 日本神話の国生みに立ち会っているのだな、と考えている。「生み」は「海」なのだなと考えている。

「ついたわよ」と、麻子の声。タクシーが止まったらしい。

「降りないよ。もう少し行ってくれ」と、私は麻子と利用するホテルの場所を言った。

「大丈夫。休んだ方がいいわ」

「ホテルで休むよ」

 タクシーはホテルの前にとまった。麻子も承知したらしい。承知したのは雪が降ってきたからだ、ホテルの玄関にうっすらと雪が積もりだしている。

 部屋に入ると、私はベッドに横になった。

「おいでよ。こっちに」と、私は麻子を呼ぶ。

「大人しく、寝ていらっしゃい」

 私はしばらく眠った。麻子が添い寝をしてくれないのは不満だった。飲みなれない頭痛薬を飲んでいるせいか、むやみに眠かった。

 イザナギ、イザナミの夢の続きを見た。私は連続の夢を見るのが得意だ。

 私は夢の中で演じていた。後ろから麻子が追いかけてくる。麻子の周りで稲妻が散っている。暗い曲がりくねった洞窟を出口の方向に私は走っていた。私は夢中になり、力の限り走った。後ろから麻子が黒い影となって追ってくる。裸足の足音が聞こえる。無言なままなのがさらに恐ろしい。

 やっと出口があるらしい。日の当る所に出られるのだ。洞窟の入り口には、神話の通り桃の木がある。生い茂る桃の葉の間に桃の実を見つける。

 目が覚めると、窓際のソファーに麻子が洋服のまま座っている。ホテルの浴衣姿ではない。風呂にも入らずに何をしていたのか。私を置いて、もう帰ってしまうつもりなのか。

「楽になったよ」

「今、フロントで借りてきたの」と、麻子は言って、果物ナイフで桃の皮を剥きだす。桃の香りが広がる。

「桃じゃないか」と、私は驚いて言う。

「街へ出て買ってきたのよ。好きでしょう。桃が」

 私は立ちあがって、麻子を抱きしめる。

 

両性具有パラダイス

 

 私は両性具有者だと思わぬでもない。

 若いころも美しくはなかった。とても痩せていて、男には見えなかった。今当時の写真を見ても男とは思えない。病弱だったためもあろう。詩人仲間のひとりからは「男というより魔女のような雰囲気で、とんでもなくお喋りだ」と書かれたりしていた。

 私も勿論、肉体的には半陰陽ではなく、女しか性の相手にはしない。男とのセックスは出来ない。

 私の詩集「聖家族」に詩人の財部鳥子氏が「・・・しかし彼の詩は感性で包まれた自身の世界を、神と人間、昼と夜、男と女、全ての境界を曖昧にすることによって、詩としている」と書いていただいている。

 詩を何時の頃から書いていたのか覚えていない。文字が書けなかった頃、母は私の独り言が面白くて、書きとめていたらしい。詩と呼べるものなら詩なのだろう。

 母がノートに書いた私の独白は残っていない。私は二十歳過ぎまで詩を書いていた。詩が書けなくなった。何故なのかわからないが、言葉が出てこなくなった。小説を書くようになったからかもしれない。

 自分で気に入った初めの小説は「曲芸師」というタイトルだった。綱渡り芸人が綱を渡る物語だ。カフカの小説に影響されたものだったかはっきりしない。当時、カフカを読んでいたのかも記憶にない。

 記憶力に自信がなく、整理整頓も苦手なので、同人雑誌に長年書いた作品は四散してしまう。もったいないと考えて記録をとることにした。

作品年表をつけている。手元に作品はないが、年表で記憶をよみがえらせる。眺めていると「両性具有」をテーマとした作品もある。五十五歳の頃書いた「蜘蛛」という短編がそうだ。もっと、多いと思っていたが一遍だけだ。

心ひかれるテーマであっても書けなかったのだろう。

 バルザックの「サラジーヌ」「セラフィタ」や「灯台へ」のバージニア・ウルフの「オーランド」など傑作は数多くある。

   私が天使や両性具有者に興味をもったのは、虚弱だったからだろう。若いころ、信じられないほど痩せていた。身長は百八十センチ体重が五十キロ。田舎から進学で都市にやってきた。貧弱な肉体に劣等感があり、克服しようと筋力を鍛えた。丁度、三島由紀夫の筋力トレーニングや趣味の悪い屋敷や下手な芝居を知り、嫌になって止めた。肉体を男らしくしようと考えたことが、私が詩を書けなくなった理由のひとつだと思う。

 男と女が惹かれあうのは、もともとひとつの存在だったからだという考え方がある。古代の神話や、哲学には未分化な世界観がある。カオスは混沌とした不完全なものではなく、完全なものともいえそうだ。男と女はひとつの存在だったとすれば、一種の両性具有者という事になる。アダムとイブの物語でも、あばら骨からもう一方の女が作られるのだから。

  私の田舎は温泉地だ。子供のころから村の子は宿の温泉がフリーパスだ。色々な温泉客と一緒に風呂に入る。

 背中が歪むほどに大きな傷の男を見かけた。子供の私は傷の大きさに驚いてしまった。何かのきっかけで男と口をきいた。

「これか、骨をとって女にやったのさ」

「どうしてそんなこと、したべ」

「本当は、女を作ったんだよ」

 子供の私はますます男の言葉が解らず、混乱した。

 肺結核治療の肋骨摘出手術だったのだ。当時、行われていた治療法だ。

 露天風呂の上がり場に綺麗な女が現れて、浴衣を脱ぎだした。風呂場に入ってきた女はどうやら傷の男の連れらしい。大きな傷の背中を流したりしていた。 今でも、男の傷と女の白い裸体をはっきりと覚えている。子供の私は旧約聖書の物語を知らなかったのだ。男は私をからかったのだ。

 今だったら病気の男に惚れた女。「女を作った」という言葉を面白がるかもしれない。

 アダムとイブの物語は両性具有者の物語として読めるのだ。

 言葉とは物事を割る斧のようなものだ。各国の創世記神話を読むと、闇と昼を、海と陸を、分ける。水と石とを分けるのは言葉である。

 ヘレンケラーが水を知った時、水という言葉があった。分けられていた言葉と物が結び付いたのだ。

 完全とはものが未分化な状態をいうのだろうか、それとも物を究極までに割った果てを言うのだろうか。物理学は物を極限まで割り続けたのだろう。

 「学際」という言葉がある。細分化、専門化されすぎた学問の垣根を取り払い、広い視野で学問を構築し直す事を言うらしい。

 「異化」という言葉を初めて小説手法として知ったのは大江健三郎の著書によってだったと思う。日常の自動化された言葉づかいを断ち切り、意識化された言語を構築する。ロシアの文芸思想のひとつらしい。

 大江健三郎の小説だったか、随筆だったかに、「自分は幼児の頃女の着物を着て山に入った」という内容の文章を読んだ記憶がある。文章を読んで衝撃を受けた記憶もある。私にも同じような記憶があるからだ。

 季節は何時だったか。晴れた日で、開け放された座敷に日が差し込んでいたのを覚えている。母が箪笥から出した着物を広げて虫干しをしていたのだ。開

け放された家と、広げられた色とりどりの着物。私の心は弾んでおり、興奮していたと思う。

 赤い着物を着たくなった。一枚を身にまとって、家を飛び出した。

村を駆け回り、ついには森に入り、夜中に私は発見された。母は私を黙って抱きしめて泣いた。今考えれば子供の私は両性具有者だった。

 渋沢龍彦の著書「夢の宇宙誌」河出文庫を読んでいる。氏の文章にもあるが「プラトーンは原始の人間は両性具有であり、容姿は球体であり回りが背中と横腹であった」

神の怒りにふれて、身体を二つに裂かれた。男性と女性になったのである。以来、二つの性は元の完全に戻るためにお互いを求め合う、のだという。プラトーンが言う、原始の人間の姿は抱き合っている男女の姿である。

 私が初めて男と女が抱き合う事を知ったのは、春画だ。不良の少女がいた。子供の私を何かと可愛がってくれる。遠い親戚にあたる娘らしくて、嫌な顔をしながらも、家の者は仕方なく受け入れているらしかった。

 祭の日、娘は私を誘いに家に上がっていた。家人のいない障子を締め切った座敷で、娘は私をひき寄せて、春画を見せた。

 祭の太鼓の音が遠くで響いているのを、今でも思い出す。

 麻子と私は知り合って間もなく、抱き合った。麻子を抱いた時、私は両性具有を思っていた。ふたりは完全な一人の人間になり得たのではないか。

 麻子は男か女かわからない。

 気の強い麻子は私を引きずり回す。私は引きずり回されることはそんなに嫌いではない。麻子の我儘は私を試しているところがある。子供のころ私が母に対した態度と似ているのかもしれない。どんなに我儘を言っても嫌われることはないと、麻子は高をくくっている。

 私は男らしい性格とか、女らしい性格というのは信じない。社会制度が作ったおしつけであると、ジェンダーのように言うつもりはないが。

 私に初めて「性」を教えた娘も気が強い女だった。性を教えられたといっても、肉体的な接触があったわけではない。春画を見せられただけだ。  

 子供の私は暫くの間、娘を私の恋人だと思っていた。

 男には乳房が好きな男と、尻が好きな男がいる、と私は思う。尻とは勿論女の尻である。私は乳房には母性を感じすぎるのか、異性としてのエロスは感じない。乳房の美しい女を犯すのは母親を犯しているのと同じだと感じるからなのか。男のエロスには臀部派と乳房派があると思い込んでいる。

 乳房が大きい女は臀部が小さい。臀部が大きい女は乳房が小さい。両方小さい女も、両方大きい女もいるのだ。

 プラトーンの著書「饗宴」に登場するアリストバネースも少し酔っていたと私は思う。多少酔い心地の方が真理に近づくものだ。酒は常識を打ち破る力があるからだ。

 新潮文庫「饗宴」の訳者、森進一は解説では饗宴は知識人たちの酒におぼれる事のないかなり高度な会話かが交わされていた、と書かれている。

 プラトーンの「饗宴」を読むと、ある人物の話として古代の三種類の種族が語られている。男性、女性、両性具有の三種族である。両性具有の種族の能力は高く神を脅かす。神々は相談のうえ、手足がそれぞれ四本あり、頭が二つある種族を二つに割る。これで力が半分になる。

 宴席だからであろうか、愉快な解釈が続いている。ホモやレスビアンの説明や、両性具有者から男女に分けられた人間の恋愛好きなど。神々は「さらに人間が神に反抗するときは、人間をもう一度半分にする。そうすれば一本足で飛ばなければならない」と、言っているのだ。神は恐ろしい。

 私は思わず笑ってしまう。

 物事を認識するとはものを分ける事だとすれば、学問は物事を分ける行為である。まさに神の行為である。神話には人間が神にさからう物語が多くある。学問・知識をもつ事が、神の権限を脅かすことになるのだ。

 麻子は小さい乳房を気にしていたと思う。

 女を好きになるのは不思議なものだ。若いころはセクシーな女であれば抱きたかった。実際に関係をもった女はセクシーとは限らなかった。

 私は麻子を好きになった理由は解らない。若いころから、女性関係は少しあった。妻に不満をもった事もなかった。家庭生活で全く不満のないことなど考えられない。

「どうして、私を好きになったの」と、私は図々しく麻子に聞く。

 麻子ははっきりとは答えない。答えようもない事だ。ギリシャ神話のようにロマンチックに考えるか、味気なく考えるかは各自の自由だ。

 男と女が惹かれるという神話が理解できたとしても、個別の人間が惹き合う事が理解されたわけではない。優しく、愛嬌があって、見目麗しく、男に従順で、性的な欲望を掻き立てる。それが女らしさというのなら、麻子の属性だろう。

 麻子の属性が原因で恋に落ちたわけでは無い、と私は感じている。

 ジェンダーならずとも、女らしさというものは、生来のものとは考えにくい。社会の制度が人間を鋳型にはめたとしか思えない。明治政府が軍事教練をし、兵士の所作、動作を変えた事は誰でも知っている。

 男らしさというのも同様だ。男が支配する社会で、女は服従者として女らしさを植えつけられた。では何故男が支配して、女が支配される社会が出来上がったのか。私は知らない。女が支配する社会では女と男の言葉や所作が逆になってたろう。

 私が所属する文学団体の有力会員である、某女子からの葉書。「男って変な人間なのだなと思いました。そんな事も気がつかなかったのか、と改めて自分を考えました。それとも私という女が変なのかなあ」

 プラトーンの「饗宴」も変な会話が多い。男も女も変なのだ。だって、神が半分に割ってしまった。変なものにしたのだ。一本足になってしまうかもしれない。これ以上変な体になったらどうしよう。

 麻子は少年のような美しい体だ。美しいというのは私が思うのである。古代神話の女神のようにふっくらとした美しさではない。少年の牧神の美しさである。驚くほど食事を旺盛にするけれど細々としている。私は勝手に両性具有の神の名をつけている。身体のあちこちに小さい黒子がある。どんな身体にも探せばあるものだ。付き合い始めたころは新しい星座探しに熱注したものだ。

「愛するとは良いものを愛する事だけれど・・・良いものを求めるのは幸福を求める事なのだが・・・なぜ、幸福でありたいと望むのか。

 プラトーンの「餐宴」の中の言葉だけれど、幸福になることが最終目的であると読める。私と麻子は幸福になれる。

「貴方は酔っ払って変なこと言ったのよ」と、麻子は言う。

「何を言ったのかな」

「出会って間もないころよ」

「飲んだね」

「貴方は、僕は天使なんだ、と言ったの」

「麻子には本当の事を言いたかったのさ」

 私は背中の羽を大きく広げて麻子を抱きしめた。

 

シーシュポスの休息

                           

 カミュの作品に触れたのは十代の終わりのころだ。私は小説を書きはじめていた。若いころから会社勤めをし、小説を書いている。

なぜ書くのかといわれても、特別な理由はない。「自分で決めたから」としか言いようがない。小説は読むのも書くも好きなのだ。

 麻子にメールを送る「・・・元気かい」

「心も体も疲れている。お昼に・・来て」と、返事が来る。私はときどき麻子の会社の近所でお茶を飲む。

 麻子は勤めている。中年になってからの会社勤めは辛いだろ。麻子の会社勤めは金銭のためだ。僅かの給料で生活を営んでいる。勤めだしてから数年たつ。麻子は優秀な社員のようだ。

 麻子は仕事を辛いと嘆いているばかりではない。息を弾ませ、独特な明るい表情で、仕事のことを話すことがある。仕事することで、心が満ち足りることもあるのだ。

 カミュの「シーシュポスの神話」を読んだのは四十年以上昔のことだ。

再読したくなって、書棚を探したが、無い。

「異邦人」「ペスト」などは残っている。引っ越しを繰り返しているし、何らかの理由で手元から離れてしまったのだ。

 十代の終わりにカフカも知った。空中ブランコの芸人の物語も読んだ。手元に見当たらないので、買った。麻子と昼食をしに出かけた時に買ったのだ。小さな食堂で麻子を待ちながら読んだ。短い作品なのですぐに読んでしまえる。

 若い頃、「曲芸師」という作品を書いた。手元に残っていない。残っていないからなお愛着がある。大学の新聞部の懸賞小説に応募した。受賞はしなかったが「受賞作に迫る」と評価された。私は悪筆なので、応募原稿を後輩に清書してもらった。アルバイトをさせたのだ。

 知人の女性がアルバイトで「清書」の仕事をしているという。大きなお腹を抱えて、内職で印刷会社の下請け仕事をしている。

「清書」といっても、今は印刷用データー作成することを言うらしい。一文字、数十銭の仕事だ。テープ起こしは三十分もので五千円だという。学生の私は後輩にいくら払ったのか、覚えていない。麻子の給料は二十万円足らずだ。

 麻子との待ち合わせの途中、本屋を覗いてみた。小さな本屋だが、新潮文庫に収録されているはずだ。大抵の本屋の書棚に何十年も見ている気がする。

 神の怒りにふれたシーシュポスが巨大な岩を山頂へ押し上げる罰を受ける。岩石は山の頂上まで押し上げられると、転がりだす。麓に落ちていく。シーシュポスは岩石を追い、麓まで降りて行く。無限に繰り返される苦役に何の意味があるのか。「不条理」という言葉を覚えた時期だった。

 書店に立ち寄ろうと考えながら家を出た。時間がなくなり立ち寄らなかった。麻子は食堂で笑っていた。

「記憶が飛んだの。頸になるわ。幹事さんにお茶も差し上げなかった」

 仲間の新年会の二次会に麻子は皆を自宅に呼んだ。一次会で酔っ払って、二次会では接客どころではなったらしい。客に出そうと下ごしらえした料理もできずにはしゃぎ回っていた。

 苦悩に満ちたメールの調子だったが、酔っ払った失敗談なのだ。気楽なものだ。生活費の足しにあげている小遣いも欲しがらない。珍しいことだが油断はできない。

「五円しか入ってないの」と、麻子はブランドの古い財布をテーブルに置く。財布は別れた亭主からのプレゼントだ。

 失業者やホームレスが街にあふれている。先日、映画監督のマイケルムーアの作品を観た。富裕層と大多数の貧民層のドキュメンタリーだ。金持ちはますます金持ちになり、貧乏な人はますます貧乏になる。

 サラリーマン時代、酔えば銀座に繰り出していた。酒と愛と金は近い関係にあった。男たちは愛と酒を求める。銀座の女たちは金を求める。勿論、愛も金も大好きだ。資本主義は金権主義。愛は古代より人間の生きがい。バッカスの神は人間の味方。アルコールは自制心を取り除く。私は「愛と金は別だよ」と、麻子に言う。麻子は同じだという。

 私の住む川崎の多摩川の河川敷には青いテントがあふれている。ホームレスたちが空き缶を拾い集めている。電車の窓から見える。

 麻子に会うために一時間以上電車に乗る。往復、二時間である。

 何度目かに本屋に寄った。

 本屋には私が思っていた通り「シーシュポスの神話」があった。新潮文庫である。四十年ぶりに手にする。初版発刊は四十四年七月となっている。

 目次を開くと、「不条理な論証」「不条理な人間」「不条理な創造」「シーシュポスの神話」となっている。不条理についての論考だ。

 読み始めるが、難解である。初めの三つの章の読んだ記憶はない。忘れてしまっているのだ。当時も理解できなかったかもしれない。カミュの「異邦人」は何度も読んでいるが、ほかの作品はきちんと読んでいない。

 何故、カミュの「シーシュポスの神話」を読みたくなったのかを考えた。サラリーマン時代は、サラリーマンの生活と「神話」を重ね合わせて考えた。今は、退職している。日々の生活に苦役はないはずだ。

 心配事は麻子のことだ。離婚して麻子は苦労している。苦労のおもなものは金銭の不足だ。私も多少は助けているが、間に合っていない。金持ちの母親にもねだれずに居る。中年になってからの会社勤務も大変だろう。

 毎日ではないが、往復に時間かけて麻子の顔を見に行く。麻子は慣れない勤めを毎日している。

 原因は麻子自身が作った。麻子が男を作ったからだ。原因は麻子と私にある。亭主と不仲になり、別れた。二人目の亭主だった。私はすでに定年退職をしていたから収入はない。麻子に十分な援助はできない。麻子が働かなければならなくなった。

 シーシュポスの苦役は神々の怒りに触れた罰だ。何故怒りに触れたのか。カミュの「シーシュポスの神話」には幾つかの理由が記されている。いずれも死にあらがったのが原因のようだ。死すべき存在の人間が死に逆らったのだ。ひとつにはシーシュポスは死の神を縛りつけてしまった。冥府には誰ひとり死者が来なくなった。ひとつにはシーシュポス自身が冥府から蘇り、けっして死の世界に戻ろうとしなかったからだ。

 作家、カミュは「神話」に思いを託している。不条理の思想を「神話」に託している。山裾の平原に転がり落ちた岩石を再び、押し上げるためにシーシュポスはゆっくり降りてゆく。

「神々のプロレタリアートであるシーシュポスは、無力でしかも反抗するシーシュポスは自分の悲惨なあり方をすみずみまで知っている」と、カミュは記している。

 私が何故、四十年ぶりに「シーシュポスの神話」を読みたくなったのか解った。私が労働者でなくなったからだ。サラリーマン時代私は、多分、カミュの短い物語を支えとして生きてきたのだ。「シーシュポス」に託して生きてきたのか。毎日を忙しく動き回って生きている麻子を神話として見ているのか。

「吉田と別れなければこんな苦労はなかった」と、麻子は言う。「嫌いになったのなら、どこにでも行ってくれ」と、酩酊した私は喚く。「誰がそんなことを言った」と、麻子は言う。

 男を作り、離婚して、生活し、子供を養うために僅かな金銭を求めて働く中年女。私は麻子を「ひとつの神話」にしたかった。コピーをとり、メモをとり、電話をとり、パソコンをたたき、お茶を入れ、忙しく働く麻子。家の食料買い出しの自転車をよろめかせ、子供の夜食を作り、母親をふろに入れ、毎日の苦役をこなす麻子。

 定年退職して暇になったせいか、昔の書籍や書類を片付ける事が多くなった。定年後田舎に引っ越しした。引越しの荷物の片付けということもある。

「シーシュポスの神話」もどこかにあるはずだけれど、結局見つからなかった。

 手紙の束が出てきた。何時頃のものだろう。何気なく一通の手紙を見た。名前に記憶がない。便せん何枚かの手紙を広げる。几帳面な筆跡である。手紙は少し砕けた調子で綴られている。

「私の仕事おさめは26日(金)に決まりました。臨時は産休も育休もないので仕方ありません。正規社員は給料を満額もらいつつ、産前産後8週間ずつの産休があります。私は「妊娠?じゃあ継続は無しね」で、終わりです。こんなに正規社員との格差を感じながら働いたのは初めてです。

同じ労働者でありながら、ナントカ手当もない(いろいろな種類の手当)、

産休も忌引きもない、雇用の期間は決められていて、最長2年。

これで労働組合のある組織なのですから、皮肉です。

天は人の上に人をつくってはいないつもりでしょうが、人間同士がこのように格差を作っていますよね。

数か月前のことですが、『民間企業の労働者は世の中を変えようという意識が低い』と、ある職員が言ったので、私は怒ってしまった!!

『絶対に首にならないという安全な柵の中にいて、何を言っているのですか?

民間企業でこぶしをつきあげれば『気に入らないならやめていいよ』と即クビです』と言うと、

『それを恐れていては何も変わらないでしょう!』ときたので

『今、生きていかなくてはならないの。いつかの変化を夢見て今の生活を守らないわけにはいかないの。子どもを育てなくてはいけないの。理想ばかりじゃ食べていけないの。だいたい、民間の労働者は…という前に、あなたの目の前にいるこの私だって労働者です。あなたと同じ労働者。

臨時職員というだけで、正規職員とのこの格差はなんですか。

目の前のこの労働者をまず救って下さい。

私は、自治労の労働者です。安定した雇用を下さい、産休下さい、忌引き下さい』…で、ついでに、『飲み会、温泉、観光付きの出張が多すぎる。その費用は民間企業の人たちの税金ですよ。民間労働者の意識が低いなんて、言っているけれど!』と、言いたいこと全部!かなり怒って、最後は泣いて、ぶちまけました。

『ずいぶん熱いねえ』と他の職員にからかわれつつ。

こっちは生活がかかっているのに。働きたいのに。

からかう余裕のある人はいいわ。

それからまもなく、臨時職員にも忌引きが約束されました。

私は母が亡くなった昨年、必要だった特別休暇ですが。

雇用延長はだめでした。で、26日で退職です。

公務員の労働組合ってちょっと異世界だな。そんな印象が残った2年間でした」

 思い出した。

手紙は私と同じ会社で働いていた社員だ。手紙の日付を見ると二十年ほど以前のものだ。

 手紙の主がどんな事情で会社を辞めたのだったか。転職して、地方役場の臨時職員になったのだった。出産が理由で仕事を辞めるという時の手紙だ。

 二十年過ぎているが、現在、日本の労働環境はますます悪化している。正社員として働き出した麻子は偉いものだと、思う。私は定年退職して、仕事をしていない。働こうと思えば何か仕事はあるだろうか。独立しての商売も特に資格があるわけではない。退職金は家を建築するのに使った。年金があるからと貯えを使いきって、なれない事業に注ぎ込む危険は冒せない。

「シーシュポスの神話」を広げて縁側でぽつねんとしている。読む気もしないで日光で暖まっている板敷に寝ころぶ。空に雲が浮かんでいる。雲は様々な形をしている。形がゆっくりと変わっている。流れる雲を見ていると、さまざまなものを連想する。

 人の形をしている雲。大きな円形の岩を押している、シーシュポスの影だ。岩の影はゆっくりと空を流れていく。シーシュポスの影も動いている。

 退職したら、思う存分、小説を書きたいと願っていた。今、ようやく時間はある。「世界作家会議」という文学団体に所属している。色々な作家の集まりだ。

 何時、誰だったか、私が小説を書いていることへの質問があった。

「どうしてあなたは売れもしない小説を書いているのですか」

「良く分からないが、書きたいから書いているのかな」

「目的は何なのですか」

「暇つぶしかな」と、私は相手を煩く感じ始める。

「暇つぶしならもっと楽しいことがあるでしょう」

「私にとっては最も楽しい時間ですよ」

 意地悪な人の言うように、無意味なことをしていると感じないこともない。私は神の罰を受けたわけではない。私が小説を書かなくてもだれも困らない。書いたとしても誰も喜ばない。私はただ書き続ける。岩石を山に押し上げるように苦しみながら。渾身の力を振り絞って。

 私は「シーシュポスの神話」の言葉を借りて、「すべてよし」と呟く。

 

 

構想」51号より転載

 

 

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