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 作品,45

  「igunea」創刊号(2007/11/1・発行所・東大阪市)より転載

 

ことさら苦悩を書き立てることもないのに、人はこんなふうに生きているんだ、と思わせる。人の傷みがじんわり伝わってきます。                                推薦・ひわきゆりこ(胡壷)

 
 
 

             縦書きPDF版 「口笛少年

口笛少年                   岩代明子

 

 中学生のころ、夕方遅い時間になると、口笛が聞こえてきた。キッチンが翳りはじめ、そろそろあかりを点さないと、と思う時刻、不意に色彩を持った生き物が飛び込んでくるように、音色が響きはじめる。それは見事な口笛で、かすれることも音程を外すこともなく、いつも得意げに、朗々と響いた。
 私は団地のベランダに出ると、音を頼りに、口笛の主を探す。自転車置き場か、ごみ置き場の前の歩道のあたりかと辺りを見回し、けれど人影はなく、コンクリートの建物の輪郭に区切られた夕暮れの空に、ただ口笛だけが高く響いていた。空に青みが増すにつれ、音色は少しずつ遠く、小さくなっていく。想像の中では、剥げてひしゃげたランドセルを背負った少年が、よく日焼けした首を伸ばすようにして空を見上げ、唇をとがらせる。
 記憶にあるかぎり、口笛を聞くのはいつも一人きりのときだった。母は不在で、私は代わって流しの前に立ち、米を研いでいる。制服の袖口をまくりあげ、プラスティックのカップで米をすくったり、ステンレスのシンクに流れた米粒を指で拾い集めている。夕方で、全体にくすんだキッチンに、口笛が跳ね回る。
 子供のころから、時々母は家を空けた。叔父の面倒を見るためだ。叔父夫婦が離婚することになったときには、その諍いの真っ只中、母は叔父の一人息子の面倒を引き受けた。私が十一歳、従弟の拡が十歳ぐらいのときだ。そういう大人たちの事情はもちろん後になってから知ったことで、ただ私は、いつもぼんやりとしている従弟を強引にゲームの対戦相手にしたり、大好きなアニメ番組につきあわせたりして、それなりに親しんでいた。
 拡はいつも少しぼうっとして見えた。たとえば母が問いかけると、一、二拍遅く、返事が返ってくる。それも、答えではなく、ええっと、とか、あのう、とか、曖昧で、母は問いを繰り返さねばならなかった。それから拡はよく空を眺めていた。何かを見ているというかんじではなく、やはりぼうっと上を眺めていて、どこか戸惑っているような表情だった。あるとき何を見ているのかと問うと、拡は、鳥、とゆっくり答えた。とまっている鳥ではなく、飛んでいる鳥。下から、鳥のかたちを見るのが好きなんだ。拡はぽつぽつと単語ごとに区切るように言った。彼がそんな風に言葉をきちんと使って説明することは珍しく、私は少し驚いた。つられるようにして空を見上げたが、鳥影はなく、あちこち顔をめぐらす私に、もう行っちゃったよ、と拡は告げた。 
 拡と暮らしたのはそう長くなかったように思う。叔母が仕事を見つけ、保育所を見つけ、拡を迎えに来た、その日のことは覚えていない。ただ、小さく口を開けて空を見上げている横顔だけが記憶に残っている。
 
 去年の末、叔父の葬式で叔母と拡に再会した。 
 母に続いてドアを開けると、小さな会場の前の方で、小柄な女性と若い男性がちらりと振り返った。女性のほうが、義姉さん、みずきちゃん、とぱっと笑顔になって手を振った。記憶よりは大分老けていたが、その屈託のない笑い方は叔母のものだった。
 すると、後ろにいるのが拡か、と私は視線をやった。拡は叔母とともに立ち上がり、やはり私たちのほうを見ていた。ひょろりと背が高く、色が白く、頬がすっきりと痩せていて、ぼんやりとした昔の印象はなくなっている。
 母は型どおりの挨拶の途中で、言葉につまり、せきを切ったように泣き出した。ごめんね……、と涙を流しながら、きれぎれに言う。叔母は母の手を握り、謝ることないよ、今までありがとう、と快活な口調で返していた。拡はその二人を見比べ、ぎゅっと口元を引きしめ、それから私の方をちらりと見た。何の用? とでもいうような、不遜な視線だった。
 私は出かかっていた世間どおりの言葉を忘れ、ひさしぶり、と簡単に言った。思った以上に素っ気なく響いた。拡はその挨拶にふっと唇の片側で微笑んだ。変わってないね、と今度は拡が言う。
 そうか、変わってないのか、と思いながら、そっちは変わったね、と言うと、
「どこらへんが?」
 と素早く返ってきた。記憶にない言葉の速さだ。
「背が高くなったし、ぼんやりしてないし」
「俺、そんなにぼんやりしてた?」
 拡は尋ねる口調で、けれど前を向き直って座った。答えが欲しいわけではないのか、と黙って、その隣に腰かけた。僕、ではなく、俺、になったんだと思った。
 人の少ない、寂しい葬式だった。身内に二、三人の叔父の友達が混じっていた。その中の一人は酒の匂いをさせ、始まる前からおいおいと声を上げて泣いていた。
 読経の途中、今、どうしてるの? と拡が小さな声で聞いてきた。ちらりと見上げると生真面目な表情で前を見つめている。
「働いてる」
「一人暮らし?」
「うん、大学から」
「仕事は何をしてるの?」
「幼稚園の先生」
「へえ」
 拡の声が大きく響き、私は慌てて周囲に目をやった。
「……全然、イメージと違う」
 拡はいかにも意外そうに私を見下ろしていた。いつも少し顔色が悪くて、無愛想な顔つきでいるらしい私は、よくそんな風に言われる。反撥の言葉は色々と思い浮かんだが、私はそっと口をすぼめた。
 そのとき、大きく、うめくような声が響いた。目の前で、母が肩を震わせながら嗚咽している。その隣では叔母がぴんと背筋を張って前を見つめていた。こんなに小柄な人だったか、と記憶をたどりながら、その向こうの叔父の遺影を見つめた。若い写真だった。記憶よりもずっと色が白く、はにかんだように目を伏せて微笑んでいる。私の視線を追いかけたのか、拡がぽつりと俺が生まれる前だな、と呟いた。
「写真、母さんが用意したから」
 拡は、う、と軽く返事をした。母の嗚咽は続いていた。泣き虫だなあ、と叔父が言ったときのことを思い出した。泣いていたのは私だ。泣いて、と言っても、泣かないようにぐっと涙をこらえていた。小学生ぐらいの時だったと思う。何が理由だったか、唇を軽く噛んで、キッチンを出た時に、叔父が通りかかった。私が涙を溜めているのを素早く見て取ると、泣き虫だなあ、と大きな声で言って、笑った。なぜか悔しくて、泣くまいとぎゅっと目元に力を込めると、ひとすじ、涙が流れ落ちてしまった。それを見て叔父はひゃひゃ、と中途半端な笑い声をたてた。そこで、記憶は途切れる。実家だったと思うがよくわからない。私はどうして泣いていたのだろう。覚えてないのは大した理由ではなかったからか。悔しかったことのほうが印象に残っている。
 それから、と私は記憶をたぐりよせた。一番、最後に会ったのはいつだっただろう。中学、高校と順番にたどり、ああそうか、あれが最後だった、と思い当たった。祖父の法事だ。拡は不在で、大学生だった私も翌日が試験かなにかで早くに場を辞したところ、叔父が追いかけてきた。叔父が親戚の集まりに顔を見せることは珍しく、しかも、しらふだった。
 叔父さん、残らないの? と聞いた私に、酒が出るだろ、とさらりと答えた。皆も気を使うしさ。
 なるほど、と頷く私に、ラーメン食べに行こうか、と叔父が言った。
 ラーメン? なんで?
 本気でびっくりして、そう返事をして、そのあと、内心、ちょっと慌てた。唐突だったから、気をつかった声色で返事ができなかった。叔父は一瞬傷ついたような表情を見せ、そのあと、快活に笑った。うまいんだって、一度、試さないと損だよ、と。その素早い表情の変化を見てしまったから、断れなくなった。こんな人だったかなあ、と思いながら。
 店は駅前近くで、叔父にならって醤油ラーメンを頼もうとしたが、味噌もいけるよ、とすすめるので、味噌ラーメンにした。二種類のスープが用意されているラーメン屋なんて邪道だ、と内心思った。ラーメンは特にまずくもうまくもなく、二人で無言で麺を啜った。叔父さんの食べるペースは速く、大幅に遅れてしまうのがいやで、一生懸命になっていた。なんでこんなことをしているんだろうな、とも思った。スープを残すと、何か言われるだろうか、と気にしながら器を置き、ふうと息をついた。体が内側から温まっているのを感じ、思ったより冷えていたことに気がついた。ぬくもったね、と叔父に言うと、うん、と叔父ははにかんだように微笑み、鼻を啜った。それから、何気ない口調で、みずきちゃん、幾つになったんだっけ、と聞いた。
 十八歳、大学一年。
 そうか。
 会話はほとんどそれだけだった。ずっと忘れていた。叔父はあの時、拡のことを考えていたのではないだろうか。
 読経は少しずつゆっくりになっていく。拡は退屈そうな、憮然としているような、そんな表情で前を見つめている。 
 叔父が亡くなったのは、その人生の一番ひどい時というわけではなかった。一番ひどかったのは私が中学ぐらいのころだと思う。離婚し、仕事を転々と変わり、借金を抱え、最後は朝も晩も呑んで、酩酊するしか方法がなくなった。幸か不幸か、叔父の体は頑丈で、黄疸が出たり、血を吐いたりすることもなく、ただただ呑み続けた。酒の万引で捕まったときは、母が迎えに行き、お金をはらった。たまに専門の病院に入り、断酒会に通い、生き直すことを誓っては、二ヶ月も経つとまた飲んだ。その都度、母は叔父のもとへ行き、できる範囲のわずかなお金と食べ物を運びながら、酒をやめるよう説得したようだ。ようだ、というのは、母はなんでもよく喋るのに、叔父についてはあまり話さなかったので、私は詳しいことを知らないのだ。母は疲れをにじませた顔で帰宅し、スーパーで買った惣菜を並べながら、叔父がどんなふうだったか、二人で何を話したか、簡単に報告した。いつも、母自身の気持ちがそぎ落とされた内容だった。母がそこまで叔父に力を注ぐことを父が賛成していなかったことも理由の一つだろう。
 深夜、私がベッドに入ってから、母が何ごとかを父に言い募っているのを聞くことがあった。話の内容はわからなかったが、抑揚から母の怒りが感じ取れた。父は途中でぼそぼそと何かを返事しているふうだったが、これも内容が聞き取れなかった。最後には母が泣き出すか、父が寝室にこもるかだった。中学のころはそれが毎晩のように続いた。学校から帰宅したときに母が不在なことは多く、私は、父がむっつりと黙りこんで薄暗いキッチンを見回すのが辛くて、お米を研いだりした。そんなとき、放課後遅い時間になると、よく口笛が聞こえてきた。メロディは日によっていろいろで、笑点のテーマだったり、「コンドルは飛んでいく」だったり、アイドルの曲だったりした。楽器の音色みたいにくっきりと澄んでいて、随所に細かい技が効いていて、お金がもらえそうなくらいうまいな、と感心し、耳を傾けた。
 母と口笛について話した覚えがない。母がいるときに口笛は私の耳に留まらなかったのだろうか。そもそも母は気がついていたのだろうか。

 職場から帰る電車に揺られていたとき、拡から今夜飲もうか、と携帯に電話がかかってきた。葬式以来、私達は時々、時間が空いた週末に、夕食をともにする。
 葬式の日にわかったことだが、拡は私の近所に住んでいた。最寄り駅が違うけれど、歩いて一五分くらいの距離だった。いつも使う電車の路線が違うから会わなかったのかな、と言う拡に、そうだね、と返事したが、内心では、すれ違っても気づかなかっただろうと思った。
 二人の家のちょうど中間ぐらいの位置に、惣菜の種類が多い定食屋と居酒屋の中間のような店があった。もともとは拡が行きつけにしていた店で、会う時はたいがいそこだった。
 拡は時間にきっちりしていて、いつも私が少し遅れて店に着いた。拡はそのことを別に気にする風でもなく、ネクタイを緩め、適当に何かつまみ、ウーロン茶を飲んで、と淡々と待っているようだ。拡はアルコール類を全く飲まない。子供の頃にそう決めたと言う。お酒なしで居酒屋で過ごすことには慣れているが、私が呑むのなら、それはそれで有難いと言う。
 三月も終わりごろで、寒さは大分緩んでいた。薄いコートを脱いで座ると、待ちかねたように拡は今日、と口を開いた。
「サイドカー見た」
「どうだった」
「浮いてた。まわりから」
 そう言うと、くくっと笑い、それでね、と続ける。自分で話しながら笑うのは拡の癖だ。
「それでね、交差点でUターンするから、どうしたのかと思うと、原付二台に追いかけられてた」
「ふうん、可哀相に」
「サイドカーってすごいね」
 と、感じ入った口調で言うので、そうだね、ととりあえず同意した。
「ビール飲む?」
「うん」
 拡はカウンターを振り返ると、生ビールと冷奴ねと、朗らかに声をかけた。彼はいつも、すすんで注文をしてくれる。しかもそのやり方が堂に入っている。私は拡には言わなかったが、店で食べ物を注文するのが苦手で、どのタイミングで声をかければいいのか、どの人に頼めばいいのか、一度声をかけて気づいてもらえなかったら待つ方がいいのか、さらに声を大きくするのか、などと考えてしまうので、このことだけでも拡と食事をするのは気が楽だった。
 まだ何か食べ物をと壁のメニューを見上げていると、この間の日曜日ね、と拡がまた違う話を始めた。
「アレルギー検査したんだ」
「ふうん」
「注射器で血をとって、そのあと、その、押さえるでしょ? 針を抜いたあと」
「止血するってこと?」
「そう、俺、椅子に座ってるし、手は空いているし、別に自分でできるんだけど、看護婦さんが横で立ったまま、手を伸ばして、こう、指一本で押さえてくれるんだ」
 向き直ると、拡は自分の腕を、人差し指で押さえていた。
「そのまんま、しばらく二人でじっとしてるの、なんか気まずかった」
「ふうん。ねぇ、ししゃもと大根サラダ頼んで」
 いいよ、と拡は振り返ると、あっさり頼んだ。
「あれは何だろう、サービスなんだろうか?」
「サービスって……。その看護婦さん、きれいだった?」
「かわいかった」
「……それで、結果はどうだったの?」
「結果って?」
「検査の結果」
 ああ、ハウスダストに少し反応が出た。アレルギーってほどじゃないけど、きちんと掃除をしないともっとひどくなるとかで、と、拡は話を続ける。こんなによく喋る男に成長するとは思わなかったと、いつも思うことをまた思った。とはいえ、拡は私の話を聞くときはきちんと聞く。職場の話や、担当クラスの子供たちの話を、まるでスイッチを切り替えるみたいに真剣に丁寧に聞くし、よく覚えている。エネルギー全開、というのが今の拡の印象だ。 
 拡の話題に出てこないのは、子供の頃の話、家族の話、それから、つきあっている彼女の話だ。一度、私と過ごす時間にデートでもすればいいのに、と言うと、不機嫌そうに向こうも仕事が忙しいんだよ、と答えた。本当にそうかもしれないし、うまくいってないのかもしれないし。
 ちょっと、トイレ、と拡が席を立った。
 急にテーブルが静かになる。私は残っている最後のシシャモを食べ、残り少ないビールを飲む。お代わりを先に頼んでもらっておけばよかった、と考えていた時、隣のテーブルの声が聞こえてきた。若い夫婦と、幼い姉妹。この店に家族連れは珍しい、と見ると、妹の方が退屈してきたらしく、席を離れようとしていた。母親が小さく名前を呼び、席につかそうとしているが、子供はいたずらっぽい表情で上目がちに母と周囲の様子を探ると、そろそろとテーブルを離れていく。どうやら、トイレの前の大きな鏡に興味があるらしい。そのとき、父親が急に大声で「ここにいなさい」と芝居がかった口調でひきとめた。「ミドリは良い子だから、パパの言うことわかるだろ」と、繰り返す。子供はうつむき、戻るでも進むでもなく、テーブルの木目を指でなぞっている。母親は無表情に下を向いて、ポテトサラダを箸でつついている。
 拡が席に戻ってきた。私の視線を追いかけ、それから空いたビールジョッキを見て、お代わり?と聞いた。うん、と返事をして、ジョッキを手渡した。
「そういえば、仕事は、今、春休みなんだっけ?」
 そう言いながら拡はじっと私を見つめていた。時々、拡の視線は近すぎるようにかんじる。私は上目遣いに、ええと、と口ごもりながら、答えを用意しようとした。みどり、いい子だから、パパのそばにいなさい。隣の父親の声が少し大きくなった。拡がそちらへ視線を走らせ、私もそれにならう。女の子は父親と母親を交互に見て、ぐずるような声を上げていた。父親は、いい子だから、とまた付け加えた。母親は下を向いたまま、何も言わない。
「それで?」
 拡が言った。
「ええっと、今はね、春休みだから、体は楽だけど、うっとうしいよ」
「うっとうしい? 息抜きにならないの」
「子供がいたほうが、色々迷わないんだよね。対象があるから、何をしているのかがわかるというか」私はぼそぼそと言う。
「……対象があると、迷わないのか」拡は私の言葉を繰り返し、微かに笑った。
 女の子が小さくしゃくりあげ始めた。父親は席を離れて立つと、子供を抱き上げ、泣きたいなら思い切り泣いたらいい、と今度は甘い口調になった。やめてよ。気だるい様子で母親が言う。上の女の子はそっと箸を置き、母親の隣でうつむいている。父親は母親の言葉が聞こえなかったのか、子供の顔を覗き込み、悲しい時は思い切り泣いていいんだよ、と大きい、甘やかすような声で続けていた。女の子は父親の腕の中で、首を振り、声をあげずに、ぐずぐずと泣いている。
 ごとん、とビールのお代わりが目の前に置かれた。拡が苦笑を浮かべながら私を見つめていた。
「呑んでしまう? 出る?」
「呑んで出る」
 私はきたばかりのビールを飲み干すと、げっぷを手で押さえた。拡がコートをとってくれる。
 店の外に出ると、冷たい風が髪をあおった。来た時よりも寒くかんじる。私はコートのボタンをきっちりと留めた。
 コンビニに寄りたいから、そこまで送るよ、と拡は私と同じ方向に歩き始めた。
「あの親父は、あれだな、主張してるんだな」
「主張?」
「別居中か何か、とにかく子供と毎日一緒にいるわけじゃないんじゃないかな。だから主張したいんだよ。俺は父親だって」
「ふうん。そうかもね」言いながら、私はふと亡くなった叔父のことを思い出した。拡にもあんな風な夕食の記憶があるのだろうか。
 拡は私の顔を覗き込んでいた。
「まだ陰険な目つき」
「陰険?」私は軽く顔をこすった。
「いちいち気にするなよ」
「別に……」私は息を吸うと、答えを探した。けれど、まとまりの悪い気持ちが胸にひろがり、うまく言葉が見つからなかった。
 俺が子供のころは、外食なんてめったになかったよな。最近は子供連れって結構見かけるけど。拡はこだわりなく話を続ける。私は黙ったまま、俯き、拡のゆっくりした歩みに耳をすませていた。急いで呑んだせいか、酔いが急に回っていくかんじがする。拡の足音は、言葉よりもゆっくりだ。地面を踏みしめるときに、じりっと音がするのが耳に心地よい。試しに、まねをして、足を振り出してみる。足音がゆっくりと近づき、一つになったかと思うと、離れていく。ばらりと解けたような音で、足音という感じがしなかった。そのせいか、少しずつ、自分が歩いている実感が薄れていく。百貨店のお子様ランチって、今もあるのかな。問いかけるふうでもなく、拡が言う。コンビニで麦茶を買っていこう、とぼんやり思った。

 土曜日に、実家の近くで研修があったので、ついでに家によることにした。最寄り駅の改札を出て、階段を上ると、バスターミナルの真中、桜の大木が視界に入る。認識よりも先に、子供時代の空気の感触が身体を包み、足が止まった。そうそう、こんなふうだった、と風景を眺め、時間軸がずれるような感覚をやりすごすと、再び歩き始める。桜の枝は青空を割り裂くように伸びている。開花まで、あと一月ぐらいかと考えていた時、おい、と男性の低い声が呼びかけるのが聞こえた。おい、おい、と繰り返されたが、知らない声だったので、そのまま歩きつづけると、肩を叩かれた。振り向くと書店の袋を手に父が立っていた。
「…ああ、どうも」
 聞き覚えがないと感じたことに戸惑いつつ、「おい」はないだろうと思いつつで、返事がぎこちなくなる。
「家に寄るのか」
「うん」
 前もって連絡はしていなかったのだが、父はそれだけ聞けば十分、というふうに、私の前をさっさと歩き出した。父は歩くのが早い。自然、私も速足になる。母は、新婚旅行で行った清水寺の参道で、父に追いていかれてしまったことを根にもっていて、今までに何度もその話を聞かされた。道を急いだ方がいいのか、待っていた方がいいのか、悩んで、しばらく待って、父が現れないので仕方なく参道を上っていくと、入り口のところで、パンフレットを読みふける父の姿があった。父は、母の姿を見つけると、君の分だよ、と二つあるパンフレットの一つを渡したという。いつだったか、この話を蒸し返す母に、わかりやすいところで待っている方が合理的だろう、と父がぼそっと言い訳した。そんなふうに父が自分の行動を説明することは珍しく、私には初々しく思われたが、母はその時には遠慮があってその場で文句を言えなかったのが悔しいらしく、お父さんには情緒ってものがわからないのよ、といつも最後に付け加える。
 信号が黄色になっているのを見て、父が立ち止まった。いちおう、待っていてくれているのだ。小走りで私は追いつくと、横に並んだ。父はしばらく無言だったが、不意に、母さんな、と言った。
「母さんな、具合が悪いんだ」
 父はじっと前を向いている。
「具合が悪いって?」
 父はしばらく黙った。私の聞き間違えなのかと思い始めたころに、
「どこがどうというわけじゃないんだけど、葬式以来、変なんだ」
 と、叔父の名を付け加えて言った。
「……変って?」
「わからん」と父は素早く言った。その、父に似合わない素早さに、私は少し落ち着かなくなる。
「わからんが、おかしいんだ」
 そう言うと、みずき、今日はゆっくりしていってくれないか、とやはり早口で付け加えた。要領を得ないままに、いいよ、と頷いたとき、信号が青になった。二人で無言のまま、速足で家まで歩く。前を向く父の横顔からは感情が読み取れない。
 ただいま、と父に続いて、声をかけた。あ、家の匂い、と思う。下駄箱の上、こけしや張子のトラとかの土産物が増えていたが、どれが新参者なのかよくわからない。
 すぐに、ぱたぱたと駆け足で母が迎えに出てきた。帰ってくるなら電話くらいしなさいよ、と甲高い声で言い、子供じみた目つきでじっと私の顔を覗き込む。そして鶏、焼いてあげようか、胡麻ドレッシングのサラダはとメニューを次々と言った。
 なんだ、どこも変じゃないじゃない。
 靴を脱ぎながら、なんでもいいよあるもので、とぶっきらぼうに答えた。
 なんでも、っていうのが一番困るのよ、母は素早く返してくる。
「連絡してくれたら、前もって用意しておいたのに、食べに行ってもよかったし。そういえば近所に新しいレストランができてね……」
「……鶏とサラダでいいよ」私は遮るようにむっつり答えた。母は一拍置いて小刻みに頷くと、サラダのドレッシングは胡麻ね、と念押しした。胡麻、とそのまま返す私に、わかった、と弾んだ声で言い、また小走りになってキッチンに戻る。 
 私は母と一緒にいると自動的に無愛想になる。中学ぐらいから家ではずっとそんなふうなので、自分はそういう人間なのだと思っていた。一人暮らしを始めて、社交的とまでは言わないものの、友達を家に招いたり、近所の人と世間話をしたり、することができる自分を発見して、これは役割分担みたいなものなのだと思うようになった。
 夕食が始まると、昔と変わらず、母はよく喋った。父が適当に頷きながら、小さくついているテレビを観ているところも変わらない。家に帰るといつもそうだが、どれだけ久しぶりに帰っても、当たり前のように三人が家族の雰囲気になることに、少し驚いてしまう。私も以前のように、父にならって、テレビを観つつ、母の話に相槌を打った。近所の噂話、最近夢中になっているドラマの話、プランターで育てている野菜の話と続き、それから、不意に拡の話題になった。お葬式で会ったのは、と母が話す。
「何年ぶりぐらいになるのかな。拡君、背が伸びて、男らしくなってたね。仕事が忙しいんだって。何の仕事だったっけ、主任になったばかりって聞いたけど、とにかくその仕事が忙しいらしくて、全然実家に帰ってないみたいで……」
 うんうん、と返しながら、最近、拡とちょくちょく会っていることを、母に伝えていないことを意識していた。今までは単にその機会がなかったからだが、ここで話さないと、これからは秘密になってしまうような気がした。私は一つ息を吸い込むと、拡と言えばね、と切り出した。
 母が、うん? とこちらを覗き込み、父がビールを注ぎながら、軽く顔をかしげるようにこちらを向いた。私は口を開いたが、二人の視線を感じたとたん、拡が家族のことや子供時代のことに触れようとしないことを思い出した。それで、うまく続けることができず、口ごもっていると、母が、どうかした? と重ねて聞いた。
「……うん、その、この間、知ったんだけど、けっこう私の近くに住んでいるみたい」
「あ、そうなの?」母は大して意外でもないというように、二、三回軽く頷くと、どれぐらい近いの、と聞いてきた。私は拡と自分の家の地理を話しながら、居心地わるい気持ちを感じていた。早々に説明に区切りをつけ、私もビール、と立ち上がると、
「今日は、泊まってくの?」
 間髪いれずに母が言った。冷蔵庫を前に、ええっと、と振り向くと、父と母の二人がじっとこちらを見つめている。
 ああ、こういうの、ひさしぶりだ。
 私はくるりと冷蔵庫に向き直った。
 だけど、けれども、と思いなおす。母はともかく、父は私の心配をしているわけではないのだ。母は目を丸くして、父は真面目な顔つきで答えを待っていた。私はビールを取り出しながら、ついでのような口調を装い、泊まっていくよ、と言った。
 父は早々に寝室に引き取った。私は久しぶりに実家の自室に布団を敷いた。自室、と言っても、使わなくなった家具や、段ボール箱に陣取られ、ほとんど物置になっている。母が一緒に箱を積み上げ、寝るためのスペースを作ってくれた。テレビ観たい? 食堂のを運んで来ようか、と母がしつこく言うのを、もう疲れてるから、おやすみ、と急いで断り、あかりを消した。が、一人になってしまうと、時間が早すぎてなかなか寝付けない。防虫剤のにおいがする布団のなかで、寝返りをうちながら家が静かになるのを待って、布団から起き出した。あかりをつけ、荷物を探ったが、時間をつぶせそうなものが何もなかった。仕方なくあたりの箱を開いた。ラジオくらいあったほうが良かったなと思いながら、古い雑誌をあさっていると、おそらくは父のコレクションの歴史小説があった。短編集を選ぶと、私は再び床につき、ぱらぱらとページをめくった。
 いつのまにか眠っていたらしい、誰かがぱちりと部屋の電気を消す気配がした。私は半分眠りながらも、周囲が暗くなったことを意識し、母だろうか、と考えていた。続いて、玄関のドアが開く音がして、はっと身体を起こした。枕元の携帯を開くと、朝の五時半だった。
 もうそんな時間か、と驚きながらも、再び眠るには、目が冴えてしまっていた。窓の外はまだ暗い。ひとまず水を飲もうと、暗がりのなか、手探りで部屋を出る。
 電灯のスイッチを探して、台所の入り口で立ち往生していると、背後から足音が聞こえ、ぱちんと音がして周囲が明るくなった。眩しさに目を細めながら振り返ると、寝巻き姿の父が、やはり目を眩しげに瞬かせている。
「今、母さん、出てった?」
 私が聞くと、父は、ああ、と曖昧に答えた。それから冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップにつぐと、ぼそっと付け加えた。
「……たぶん、散歩に行ったんだろう」
「散歩?」
「そう言うんだ。二時間くらい。最近、ずっとなんだ」 
「二時間も?」
「うん。朝と夕方と二時間ずつ。……ここのところ、あまり眠れないみたいだ」 
 父はそれだけ言うと、お茶を飲みほした。それで、私は当初の目的を思い出し、自分のためにコップを取り出した。水道から水をくみ、飲もうとすると、お茶でなくていいのか、と父が聞いた。うん、とそのまま水を飲み干す。生温く、塩素のにおいがした。それでも、少し気持ちがすっきりして、ふうと息を吐き出す。見ると、父が黙って私を見つめていた。
「出かけるよ。母さんを…」
 とそこまで言って、言葉につまった。母さんを、どうするんだろう、と考えていると、父が、うん、と返事をした。
 私は手早く着替えると、髪がはねているところを水で直し、家を出た。父に聞くと、散歩のコースはわからないが、坂の上の公園に寄っているみたいだ、とのことで、ゆっくりと坂を上る。大分暖かいといっても、朝はまだ冷える。ひんやりと湿った、微かな風が首筋をなでていく。私はマフラーを借りてくれば良かったと思いながら、春物のコートのボタンを一番上まで留めると、両手をポケットに突っ込んだ。太陽はまだ見えなかったが、あたりは次第に色を帯びつつある。開ききった梅の花が垣根越し、その花びらを淡いブルーに浸している。
 急な勾配の細い歩道を上り切ったころには、太陽が昇り、公園へ続く石段が白く照らされていた。子供のころ、よく遊んだ公園で、階段の上に小さな広場があり、さらに奥の石段を登ると、ブランコと滑り台の遊具がある。小学生のとき、友達の間でブランコから飛び降りることが流行った。勢いがついたころに、鎖を離し、柵の向こう、どこまで遠く飛べるかを皆と競った。鎖を離した後の身体が押されるような浮遊感が楽しかった。けれど、あるとき着地に失敗し、柵にぶつかって、額を切ってしまった。ケガのせいか、ぼうっとしていた私は、地面に座り込んで、周囲の友達の声をどこか遠くに聞いていた。ところが、不意に母親が目の前に現れ、びっくりした。連絡を受け、走ってかけつけたのだ。なんで母さんがいるんだろうと思い、けれど、母の顔を見ると突然に痛みがせまってきた。押さえているハンカチがぐっしょりと生温かい血で濡れていることに気づき、恐ろしくなったのを覚えている。あのあと病院にいき、四針ほど縫ったのだ。
 広場に出ると、キイキイと金属がこすれあうような音がしていた。一瞬なにかわからなかったが、ブランコの音だと気づいた。速いテンポで、真剣に漕いでいるのがわかる。私は額の傷跡に触れようと、指で探ったが、どこにあるのかわからなかった。石段を上るうちに身体はうっすらとあせばんでいたが、一方で、耳にいっそう風が冷たい。温かいお茶か何か持ってくればよかったと考えながら、一息つくと、最後の石段を上り始めた。
 ブランコに乗っているのはやはり母だった。子供用のブランコに、身体をはみ出させるようにすわり、足を伸ばしては曲げと、見た目にも懸命に漕いでいる。遠くからでも顔が赤らんでいるこ
とが見て取れた。けれど何かタイミングがずれているようで、立てている音ほどブランコが揺れていない。揺れ方がどこかぎくしゃくとしている。何が悪いんだろうと、少し眺め、それからゆっくりと歩いて近づくと、母が私に気づいた。一瞬はっとしたように、緊張が浮かんだが、呆然とした、感情の抜け落ちた顔になった。ぜいぜいと息を切らせ、額から汗が滴らせながらも、ぼうっとこちらを見上げている。
 私は俯き、黙ったまま、ブランコがゆっくりになっていくのを見ていた。それから、何を言おうかと迷い、思いつかず、結局、 
「足を引くのが遅いからだよ」
 と言った。
「え?」
「タイミングがずれてるんだよね」 
 そう言うと、私は母の背中を押した。
「ずうっと、足を伸ばしたままにしといてくれる?」
 そう言い、何度も背中を押して、速度をつけていく。母は私に言われたまま真面目な表情で足を伸ばしている。
「それで、一番高いところにいく、その直前くらいに足を曲げるの。高いところに行ってしまってからじゃなく、直前くらいに」
 私は説明しながら、何度か、ほら今、と声をかけた。私が手を離すと、母は言われたとおりに膝を曲げた。が、やはり遅れてしまい、バランスが崩れる。母の息がたちまち荒くなり、ブランコは軋んだ音を立てた。それでも私が時々背中を押しながら、タイミングをはかっては、声をかけていると、
「やっぱりだめだ」
 母はそう言い、足を地面に押し付けた。砂埃が立ち上がり、急にブランコが止まった。止まってしまうと辺りは突然静かになり、母の呼吸だけが響いていた。私たちは地面の方を見たまま、しばらく黙っていたが、やがて母が顔をあげ、ベンチのほうを振り返り、カバン、取ってくれる? と言った。
 ベンチから小さなリュックサックを取ってくると、母はブランコに座ったまま紐を緩め、中からタオルと、魔法瓶を取り出した。汗を拭き、魔法瓶のふたを開けると、
「お茶、いる?」
 と私を見上げた。
「冷たい? 熱い?」
「冷たい」
「じゃあ、いらない」
 母は私の格好を見下ろし、
「寒いんでしょう。そんな薄着で出かけてくるから。朝はまだ冷えるのに」
 といつもの説教口調で言った。言い返す気にもなれず、私がむっつりと黙っていると、母はさすがに口を閉ざし、お茶を飲みほした。それから、下を向くと、しばらく黙っていたが、
「……父さんに聞いたの?」
 と小さく言った。
「うん」
「父さんね、時々、様子を見に来る」
「ここに?」
「うん」
「話したの?」
「ううん。木の陰から、ちょっと見て、で、帰ってくの。こっちが気づいているとも知らず」
「ふうん」
 母は俯きがちに、小さく笑った。
「あの人ねぇ、こういうとき、話しかけたりする勇気ないのよね」 
「……話しかけてほしかった?」
 母は口元に笑みを残したまま、何も言わなかった。朝の光が、こめかみの辺りの白髪を目立たせている。どこかから、新聞配達のバイクの音が響いていた。
「……父さん、心配してたよ」
「うん。知ってる」
 母がそっと言う。それから、ふうと息を吐くと、みずき、ブランコ、得意だった? と聞いた。
「得意だった。ケガもしたけど」
 ああ、そうだったね、と母は淡く笑った。返事は早かったが、心ここにあらず、という笑い方で、胸がざわついた。私は空を見上げ、小さく息を吸い込むと、母の横顔に向き直った。
「母さんは、得意じゃなかったみたいだね」
 ふふふ、と母は笑うと、
「したことなかったから。……いつも、順番を譲ってた」
「叔父さんに?」
 一息に言うと、母は、簡単に、そう、と頷いた。
「叔父さんは、上手かった?」
「うん。……背が小さくて、細くて、でも、ブランコに乗ると、こう足が、ぐうんと伸びて」
 と、母は晴れやかな表情で顔を上げると、空のほうへ手を伸ばした。
「すごい高く、遠くまでいくから、怖かったなあ」
「うん」   
 母は、空を見上げたまま、ああ、いい天気、と立ち上がった。
「帰ろっか、じっとしてたら風邪ひいちゃうわ」
「うん」
 私は魔法瓶とタオルを受け取り、それをリュックにしまった。母はわざとなのか、振り返らずに先に歩き始める。その小さな後ろ姿を追いかけようとしたが、急に息がつまったようになって、踏み出したつま先が石段にひっかかった。母はそれに気づいたのかこちらを振り返った。帰るよ、と妙に明るい口調で、口元に笑みを漂わせている。何も言えずにじっと立ち尽くしていると、母は、大丈夫、と朗らかに笑った。
 家に戻ると、母はシャワーを浴び、それから何事もなかったように、お味噌汁と塩鮭、レンコンのきんぴらを作った。三人で食卓を囲むと、母はやはりよくしゃべり、父はニュース番組を見ながら、それにうんうんと相槌をうった。私は、落ち着かない気持ちで黙々と食べた。食べ終わるとするべきことが思いつかず、洗い物をしている母の背中に、帰る、と言った。父も母も、うん、と答える。それから母は洗い物の手を止めると、いつものように、ちょうどいいからこれを持って帰って、と夕食の残り物をタッパーにつめ始めた。私は自分の家の食器棚に重なった大小のタッパーを思い浮かべ、要らない、とぞんざいに言いかけ、けれど、口を噤んだ。私が黙っていると母は常備薬やレトルト食品、缶詰と次から次へと思いつくままに紙袋に詰めていった。
 帰りの電車は日曜の朝ということもあって、がらんと空いていた。席に座ると、重い眠気がやってきた。私は膨らんだ紙袋を足元に置き、目を閉じた。朝早かったし、慣れない布団だったし、と考えているうちに、浅い眠りに落ちていった。車内は暖かだったが、停車するたびに、初春の涼しい風が吹き込んでくる。うとうととしつつ、過ぎていく駅を数えていた。
 何か、音を聞いたような気がして目が覚めた。
 いつのまにかかいていた寝汗で、脇腹が湿っていた。車内に人はまばらで、列車が走る単調なリズムだけが響いている。私は目をこすり、重力が戻ってくるような現実感が足から立ち上がってくるのを感じていた。何か、夢を見ていたのだと思った。音は夢の中に出てきたのだと。けれど、どんな夢だったか思い出せない。一方で、こんなことが以前にもあったという感触が強烈で、気持ちが混乱した。夢なのか、記憶なのか、と考えているうちに、思い出した。
 中学生のころだ。叔父が何度目かの入院をした日。前日の深夜に、警察から電話があって、母は叔父が急性アルコール中毒で昏睡状態にあることを父と私とに伝えると、病院に向かった。そのまま、母からは何の連絡もなく、朝になり、私は学校に向かった。放課後、家に戻っても母はおらず、がらんとした部屋に西日が差していた。私はお米を研ぎ、炊飯器のスイッチを入れた。何かをしようという気持ちになれず、食卓にひじをついて座り、叔父はどうなっただろう、母はどうしているだろうと考えるうちに、うとうとと眠り込んでいた。前夜、母から叔父が亡くなったという連絡が入るのではないかと緊張して、あまり眠れなかったのだ。
 そのときも、何かの夢を見ていたのかもしれない。とにかく、口笛が浅い眠りの中にそっとしのびこんできた。メロディが四肢をめぐり、内側から皮膚をひっかかれているような気がした。抑揚が高くなったところで、目を覚ますと、身体がぐっしょりと汗で湿っていた。日が沈みかけていて、部屋はモノトーンに沈んでいたが、それとは裏腹に口笛があたりを跳ね回っていた。トルコ行進曲だった。そのリズムに私の体内が波立った。
 気がつくと、私は家を飛び出していた。そして、口笛の主を探し、階段を駆け下りた。音色はすぐ近く、ゴミ捨て場のほうから響いている。私はゴミ捨て場を目指し、けれど、途中で音色の方向が変わった事に気づき、団地の裏側かと、脇道を抜け、しかし、音は少しずつ遠く、小さくなっていった。方向を見失い、私は立ち止まると、微かになっていくその音に耳をかたむけた。聞こえなくなってしまうと、力が抜け、歩けないような気がした。呼吸を整えながらその場にじっと立ち尽くしていると、どうしたんだ、と声をかけられた。振り向くと、父が駐車場のほうから歩いてきている。すっかり日が翳っていて、表情がよく見えなかった。
 今、口笛聞こえなかった? と父に尋ねたかどうか。
 叔父さんな、と父は続けた。大丈夫だったらしい。明日にでも、今の病院から専門病院に移るんだってさ。母さんがおかずを買って帰るって言ってるから、お前、ご飯を炊いてくれるか。
 もう炊いてるよ。と私は簡単に返すと、踵を返した。桜の花びらが一つ二つ、暗がりのなかでいっそう白く、ふわふわと頼りなく、散っていた。そうだ、春だった。
 今も春だけども、と私は窓の外に目をやった。晴れてはいたが、春というほど明るくはない。風が強いのか、街路樹の枝がしなっている。まだ桜には早い。口笛も聞こえない。昔のことを夢に見たのだろうか。私は頭をすっきりさせようとごしごし顔ををこすった。アナウンスが駅名を告げた。列車の速度がゆるみ、降りる駅が近づいてくる。ドアが開くと、冷たい風が吹き込み、たちまち熱を帯びた頬が冷やされた。私は軽くため息をつくと、重い紙袋を両手で抱くように持ちながら、ホームに降りた。

 次の週の金曜、仕事から帰ってすぐに、拡から電話がかかってきた。いつもの店で、と言われたとき、母のことを思い出していた。そのせいで、すぐに返事ができなかった。その短い沈黙に気づいたのか気づいていないのか、俺さぁと拡は屈託のない口調で続けた。彼女にふられちゃったんだよね。
 そんなことを聞いてしまったら、断りづらい。「ふられた」というほどの想いがあったことも知らないのにと思いつつ、急に彼女の話題になったことに戸惑った。私はできるだけ普通のかんじで、ふうん、そうなんだ、じゃあ、店で、と電話を切った。
 夕方から風が強くなっていたが、家を出ると、ぽつぽつと風に混じって斜めに降る雨粒が頬に当たった。大した雨でもないけど、と迷い、結局閉じた傘を握り締めたまま速足で店に向かった。相変わらず拡は先に店に着いていた。私の顔を見るとすぐにビールを注文し、待ったなしで話を始める。
「この雨がやんだらな」
「うん」
 髪がすっかり乱れているのを整えながら、前の席に座った。
「桜が咲くんだって。今、ラジオで言ってた」
「ふうん」
「だから、今晩あたり見張ってたら、花びらが開くところが見れるかも」
 拡の口調はどこか上滑りだった。陽気すぎる、というか。そのくせ、視線はいつもにも増して近い感じだった。緊張して、自分が無愛想な顔つきになっていくのがわかった。
「見張るって?」
「近所中の桜のなかからつぼみが一番膨らんでいるのを選んで、見張るんだよ、一晩中。今日あたり、やってみない?」
 拡は目をそらし、最後の一言を冗談めかした口調で一息に言った。口調はさりげなかったが、何か、よりかかってくるものを感じた。
 私は拡から視線をはずし、彼のコップを指さした。
「……それ、ウーロン茶よね」
「うん」
「ウーロンハイじゃなくて」
「ひどいな」
 拡は大きく声に出して笑うと、呑んでないよと手を振った。私がじっとその顔を見つめていると、いや、ごめん、と呟き、今度は伏目がちに黙ってしまった。
 妙な感じで喋られるよりは黙っていられるほうが良かったが、おかげで、注文してもらいにくくなってしまった。私はビールをちびちび飲みながら、湯豆腐、菜の花の天ぷら、竹の子の和え物、と口の中で二、三回言って、すみません、と通りかかった店員さんに声をかけた。ところが、相手は気づかず、すっと向こうのテーブルに行ってしまう。けっこう、大きな声のつもりだったのに、と情けなく思いながら次のタイミングをはかっていると、小さく拡が笑った。その笑顔に、私はちょっとほっとした。
 拡は、すこし背筋を正すと、軽く手を上げ、すみません、と声をかけると、湯豆腐、菜の花の天ぷら、竹の子の和え物、を注文した。ちゃんと店員が伝票に書き込んでいく。
「ありがと」
 と言うと、全然、と拡が笑った。みずきって、緊張すると、気配を消すからな、と続ける。ふうん、そうなのかと思いながらビールを呑んだ。
 そして、彼女は? と聞いた。
「ん?」
「彼女は……」
 そうしなくてはいけないように思い、問いかけてはみたものの、どう続ければいいのかわからなくなって、私は口を噤んだ。拡は、うん、と真面目に私の顔を見ていたが、かすかに苦笑を浮かべた。ビール、お代わりする? と、やはり上手に注文してくれる。
 それからは、いつものように、たわいのない話をした。拡は会社の同僚の話や、取引先とのやりとりをたくさん聞かせてくれた。会社勤めの経験がないので、仕事内容は今ひとつぴんとこなかったが、毎日することがなくて、午後になると爪を切っているとかいう隣の部署の係長の話は面白かった。爪を切るだけでなく、やすりをかけたり、甘皮を削ったりして、指先はいつもぴかぴかなのだという。
「よく深爪にならないね」と、私が言うと、
「あいつはきっと、一日に自分の爪がどれだけ伸びるか、正確に知っているんだよ。一ミリか二ミリか、なんてもんじゃなくて、小数点単位でわかってて、……」と拡は続けた。
 微にいり細にいり語る拡はエネルギー全開といういつもの印象で、こういうところは叔母さんに似ているな、と思った。叔父は、呑んでいなければ、影の薄い、ぼんやりとした人だった、と今まで思ったことのないことを思って、母のことをちらりと思い出した。どうかした? と拡が聞く。うん、ちょっとと、私は言葉を濁すと、そろそろ帰ろうか、と拡が切り出した。
 店を出ると、雨が上がり、風も止んでいた。本当に、今夜、桜が咲くのかもしれないな、と思いながら拡と別れた。コンビニで水を買い、家の前まで来たとき、携帯が鳴った。拡からだった。
 何、と電話に出ながら、何か忘れ物でもしたかと、私はカバンを探った。拡はしばらく黙っていたが、どうしたの、と聞くと、
 ――見せたいものがあるから、戻ってきてくれる?
 と言う。いつもより、ゆっくりと重い口調で、気持ちが全然読み取れない。
「なんでよ」
 私は突き放すような声音を心がけて言った。
 ――いいから、来いって。
「今日じゃないとだめなの?」
 ――そう。今じゃないと
 それから、拡は早口で場所を伝えると、電話を切ってしまった。
 深い意味があるのかないのか。私は携帯を見つめながら、困惑した。拡の様子がいつもと違うことが落ち着かなかった。大体私は、役割が変わることに、慣れてないのだ。そんなふうに考え、また母のことを思い出した。大丈夫、と笑ったその笑顔を。
 やれやれ、とため息をつくと、頭をふった。もう、考えるのも、思うのも、面倒だなぁ、とぶつぶつ口の中で言いつつ、踵を返す。一歩一歩、踏みしめるように、来た道を引き返した。
 拡はいつもの店の裏側、疎水沿いのベンチに腰掛けていた。私の姿を見ると、あれ、と指差す。その先を見ると、桜が一輪だけ、咲いているのがわかった。街灯に照らされ白く浮かび上がっている。
「これを見せたかったの?」
「そうそう」
 にこにことそう言うので、私は拍子抜けして、横に座った。
「本当にこのためだけに呼び出したの?」
 拡はちらりと私の顔を見ると、少し真面目な顔つきで言った。
「このためだけってことはないけどさ。咲いてたから、見せたいな、と」
「いつからそんなロマンチックな人間に……」
 と、言いかけて、そのとき初めて、拡の手元にカップ酒の容器があることに気づいた。冷たいものが、足先からゆっくりと駆け上り、鳥肌が立った。しんと冷えた気持ちが、胸をひたして、かえって冷静になっていく自分を感じていた。
「何よそれ」
 拡は黙っている。
「やけになるために、わざわざ呼び戻したの?」
「……つきあいで呑むときもあるよ」
「うそばっかり」
 私はカップを取り上げた。透明な液体が半分ほど残っている。街灯の光りで透かすと、少し黄みがかっているように見える。
「拡、お酒を飲むのって初めて?」
「……子供のころに、飲んだことはある」
「叔父さんに飲まされた?」
「まあな」
「ずっと嫌いだったんでしょ?」
 拡は返事をしなかった。私はため息をついて、カップをベンチに置くと、空を見上げた。かすかに灰がかった黒い空で、星が全く見えない。風は凪いでいたが、空気は湿り気を帯びて、冷たい。
「もう、雨は降らない?」
「……晴れるって言ってたけど」拡は空を見上げた。「何も見えないな。暗いだけで、これじゃ、鳥が飛んでてもわからない」
 拡は独り言みたいにそう言うと、じっと空を見上げていた。
「鳥? 夜は飛んでいないんじゃない?」
「鳥ってさ、ほんとうは飛んでないんだ。滑っていく。だから、音がしない」
「うん」
 拡はひとつひとつ言葉を集めるように、ゆっくりとしゃべった。子供のころの拡をふと思い出した。エネルギー切れって感じね、私はそう言うと、立ち上がり、疎水を覗き込んだ。水が黒々と、流れも音もなく、横たわっている。
「今日はもう帰ったら?」私は疎水のほうを向いたまま言った。「ここでこうしてたってしょうがないよ。何があったか知らないけど、明日、また考えたら?」
 そう言って振り返ると、拡は私の方を見つめていた。街灯を背にしていて、表情がよく見えない。最近よく思い出すんだ。拡はぽつぽつと言葉を区切って言った。
「何を?」
「昔の、子供のころのこと」
「どんな」
 拡が、微かに笑ったような気がした。
「いいこと? 悪いこと?」
「……わからない」
 拡は笑った気配を残したまま、低く言った。喉の奥から出したような声だった。表情を確かめたくて近づいていくと、拡はゆらりと立ち上がり、カップを手に取った。そして、一瞬、戸惑ったかのように手元を見つめ、中身を一気に飲み干そうと腕を持ち上げる。そのとき、遠くから、ざぁっと枝が触れ合うような音がした。風だ、と気づいたときには、髪があおられ、砂埃が頬に当たるのを感じた。とっさに髪を押さえ、膝に力を入れる。口笛が鳴った。メロディはなく、ひとすじに、伸びていくような音だった。
 ――叔父さんな、大丈夫だったらしい。
 父の声が聞こえたような気がした。不安な、心もとない感触が、過去の空気と一緒に身体をつつんだ。めまいがして、足から地面の感覚が薄れていく。私は倒れないように背中を丸め、両耳を押さえた。それから、そっと目を開け、拡を振り返った。拡もやはり、心ここにあらずと言った風情で、耳を押さえ、カップを手にしたまま、ゆらゆらと前後に身体を揺らしている。
「拡?」
 拡は、はっと我にかえったように、けれど呆然とした表情で、私のほうを見た。顔が蒼白になっている。とっさに近づいて、カップを取り上げ、大丈夫? と声をかけたが、拡は返事をせず、目をそらすと、ゆっくりと周囲を見回した。そして、急に崩れるようにその場にうずくまる。なにかを堪えるように胸を押さえたかと思うと、地面に向かって嘔吐した。
 二回、三回と嘔吐を繰り返し、私は慌ててその大きな背中を撫でた。拡は、さっき食べたものを大体吐き出すと、ゆっくりと咳をしながら、立ち上がろうとする。
「大丈夫?」
「さっきの声」
 咳を抑えようとした微かな息で、拡が言った。
「声?」口笛じゃなくて? という言葉を飲み込んだ。
「親父に似てた」
「……そう」
 拡はまだ、足元が定かでない感じだった。私は拡にベンチをすすめ、それから、自分が水を持っていたことを思い出した。
「飲む?」
 五〇〇ミリリットルのペットボトルを見せると、拡はぼんやりとそれを眺めたが、うん、とうなずく。それから勢いよく水を飲んだ。無心な顔で、また、子供のころの拡が思い出された。
「うまい」
 拡は首をかしげるようにして、ボトルを見ると、また飲んだ。それから、私のほうをちらりと見て、うつむくと、ため息をついた。
 私もボトルをとり、一口飲んだ。冷たい感触が胸に広がり、輪郭をたどりながら、ゆっくりと染みこんでいく。
「……親父に」
「うん」
「正月に会いに行って」
「……正月って、今年の正月?」
「そう」
「拡から?」
「……昔は、呑んだくれた親父が家に押しかけてきたことが何度かあったけど、最近はなくて」
「うん」
「俺から会いに行った。一人で。何を持っていけばいいのかわからないし、つまみになりにくそうな、お菓子を買って、部屋の前まで行ったんだけど、結局、ノックできなくて、ドアの取っ手に土産をぶら下げて、出てきたんだ」
 一息に、そこまで言うと、拡は水を取り、最後まで飲み干した。
「会えなかった?」
 それが、と拡は言葉を切ると、重く息を吐いた。額を押さえながら、小さい声で、何度も詰まりながら、話を続ける。
 帰ろうとしていると、名前を呼ばれたんだ。恐る恐る振り返ると、窓を開けて、親父が顔を出していた。ずいぶん痩せて、年も取ってて、まぁ色が黒いところは変わってなかったけど、こんなに小さい人だったんだ、って。その小さい黒い顔を、くしゃくしゃにして、俺の名前を呼ぶんだ。ひろむぅ、ひろむぅ、って、あたりに響きわたるぐらい。身を乗り出すようにして、手を振ってた。俺、どうしていいか、何を言えばいいか、わからなくて、またな、って、それだけ言った。親父は、おう、またな、て答えて、でもまた名前を呼ぶんだ、大声で何度も、
 結局、と、そこまで言うと、拡は黙った。黙って、息を吸い込み、それでも、言っておいてよかったと思ってる、と一息に言った。
「……うん」
 拡はぐっとあごをひいて、ため息をつくと、痛みをこらえるみたいに目元を押さえた。それで、私は目をそらした。暗がりのなかで、桜のつぼみが黒く、ぽつぽつととんがっている。風が凪いで、辺りは静けさを強めていた。
「さっき、声がしただろ」
「うん」
「あのときの、親父の……」
 振り返ると、拡はベンチに腰かけたまま、上目がちに、じっと私を見上げていた。息をとめているみたいに口元を真一文字にして、目だけが奇妙に光っている。その前髪が、微かな、感じられないくらいの風を受けて、目の前で揺れていた。私はベンチの前にかがむと、拡を下から見上げるかっこうで、その額に手を触れた。熱いし、汗かいてるし、と考えていると、拡は思い出したように深々と息を吐き出した。初めて呼吸を覚えた人みたいに、長く、ゆっくりと。
 空耳、なんだろうな、としばらくして拡が呟いた。私が額から手を離すと同時に、うつむき、ごめん、と言った。
「……何が?」
 そう返しながら、拡が何を謝っているのか、どこかでわかっていた。
 拡は、私からカップ酒の容器を取り上げると、中身を地面にそそいだ。アルコールの香りが立ち上る。拡は眉間をひそませ、低く言った。
 ――親父の血、血。
 日本酒の甘いにおいが広がり、暗がりのなかに、ゆっくりと消えていく。その香りを追いかけるように、私たちはそっと顔を上げた。微妙に陰影をつけて腕を広げるように伸びる桜の枝、その先に一輪、ほのかに白く揺れる花びら。はるか向こうの空はやはり暗いままで、けれど、目をこらすと灰がかったところが雲のかたちで動いているのがわかった。音はなく、じっと目をこらしてようやくわかる程度に。けれど、私は、はるか上空、闇の中で、雲がうねり、ふくらんでいるところを想像していた。闇に輪郭を溶かした雲が、立ちあがり、雨と風を含み、濃く、大きくなっていく。誰にも聞こえない音を立てながら。
 拡は空を見上げたまま、ふっと笑い、やっぱ考えてもわからねえな、と乱暴な口調で言うと、勢いよく立ち上がった。
「大丈夫? まだ、顔色悪い……」
 思わず腕をとって、私が引き止めると、
「大丈夫、大丈夫」
 拡は朗らかに笑い、つかんだ私の腕をぽんぽんと軽く叩くと、勢いをつけるように立ち上がった。送るよ、と言いながら先を歩きはじめる。
「ちょっと」
 拡は、肩越しに言う私をちらりと振り返り、けれど口元に笑みを浮かべたまま、ずんずんと歩みを進めた。その笑顔に、母が大丈夫、と言ったときの顔を思い出した。私は小走りで後を追いながら、試しに口の中で、だいじょうぶだいじょうぶと繰り返してみた。何度も言うと、言葉の意味が遠ざかり、感触が消えていく。
「水、買って返すよ」
「いらない」
 私は不機嫌な口調で答えた。拡は歩くスピードをゆるめた。それから私たちは無言で、ゆっくり数えるように歩いた。夜の街のざわめきが遠くに響いている。風のせいか、それは高くなったり低くなったり、波のようなリズムを持っていた。その中心に地面を確かめるような一歩一歩が響いていた。拡と私の影が四方に伸びながら、その足音と一緒に、ひょろりと伸びたり、ひっこんだりしている。同じはずの物音が、なぜ拡には父の声に聞こえ、私には口笛に聞こえたのだろう。私は、目の前で背を伸ばす影をぼんやりと眺めながら、そんなことを考えていた。あの音は、確かに外から聞こえてきたのだ。風とともに、背中ごし、ずっと遠くから、呼び止める響きで。
 汗ばんだ手のひらを夜気がゆっくりと冷やしていく。足音と影の動きがずれているような心地がしていた。音がどこからやってきたのかを考えるほど、歩いている感覚がなくなって、影がひとりでに動いているような気がしてくる。そのとき不意に拡が立ち止まった。慌てて自分が止まるのに合わせて、じりっと地面がこすれる音がする。そして無音が私たちをつつんだ。
「どうしたの」
 そっと拡の横顔を覗き込むと、やはり何事かを考えているふうに、口元を引きしめていた。静かだ、と穏やかな声音で言う。拡の視線を追うと、ずっと先の商店街のあかりと、その上に広がる暗い空が目に入った。
 父と、それから母に、口笛少年の話をしてみよう、と考えていた。

 

 

    「igunea」創刊号(2007/11/1・発行・東大阪市)より転載

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