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 作品No,43

構想」No,47(2010/1発行)より転載
 
「雁木坂」はすぐれた小説とは何か、という問いのひとつの答えだ。
雁木坂への思いが、喚起力のある文章によって、描きはじめられる。人生をひたむき
に「文学に賭けてきた」作者の自伝的な告白のようでも、ありながら、虚実皮膜、従
来の私小説とは全く違った小説の領域を切り開いている。
青春時代の文学への恋と、信州の土地に育った母への愛が、物語の主旋律となってい
るが、物語は実は重層的である。物語のもう一つの層は死のテーマだ。最も生きるも
のが、最も死を深く理解する。
「雁木坂」の小説としての特質は「引用、思い出、心情、描写のバランスが見事で、
極上の酒のような味わい」という事だ。
 さらさらと、思い浮かぶばかりに自由自在、無造作に書いているように見せて、し
たたかな計算が文章の隅々まで沁み渡っており、「絶対文感」(全作家協会ホーム
ページ電子図書館掲載千枚の随筆)の筆者としての力量を見せている。
愛と友情と死の凝縮した文学を味わってほしい。いささか声が上ずっているのは私の
感動のあまりだ。
 
推薦 畠山 拓(「構想」・「小説と詩と評論」)

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2010年・第21回信州文学賞・受賞作

 

 

雁木坂

                         陽羅義光

 

 雁木坂は、がんぎざかと読む。当て字で岩岐坂とも書く。階段になった坂を一般に雁木坂と云うし、雁木とは元々木材を梯子状又は階段状に組んで登りやすくしたものだから、よく登山道などに見られる。町中の雁木坂は千代田区神田駿河台にもあるし、他にもあるのだろうが、わたくしの馴染みの雁木坂は、港区麻布台にある石段の坂で、わたくしが三十三歳のときに数えたら、三十三段だった。わたくしにとって散々な季節だったから、もしかすると駄洒落的な思い込みかもしれないが、それでも一、二段の狂いだろう。
 地下鉄日比谷線の神谷町駅を出て、飯倉片町や六本木方面に遊びに行くなら、この雁木坂を登るのが近道である。逆に六本木に背を向けて、神谷町駅から素直に帰宅するなら、この雁木坂を降るのが近道である。
左右の梢のアーチを愉しみながら雁木坂を降ると、左前方に霊友会の巨大な建造物が見える。宗教嫌いのわたくしでも、これはこれで悪い気はしない。降り切ると、疲れた五体が軽くなる。夏は風が来る。冬は風が止まる。そして近くの、蕎麦屋のザルが、また旨い。
 わたくしはこの雁木坂を気に入っていた。四十代の頃である。登るときでも降りる際でも、わたくしはこの短い坂の途中で立ち止まり、一呼吸おいて周りを見回す。そうやって暫し息を整える。それはわたくしが抱える万病の所為ではない。わたくしの長年に亘る思いの所為だ。わたくしのこれまでの生、これからの死。人間とはなんぞや。そんなだいそれたことではない。悔いはないか。いままでも、これからも。答の出ない単純な問いを発し、発した問いを祈りなのだと自認された瞬間、再び坂を登り(降り)始めるのであった。どういう訳なのかわたくしは、上林暁の私小説『野』の一節を思い浮かべている。それどころか登り(降り)ながら暗唱することもある。
【一人の神学生が、ひたむきな急ぎ足で私のそばを通り過ぎて行ったのは、恰も私がそのような切ない気持でさまようている時だった。私はその姿を見ると、自分の半生を空しく荒廃させてしまったと思う悔恨で胸を焼かれる思いがした。自分にも嘗てはあのような青年時代があった。しかし、自分は何一つひたむきな献身も敬虔な感情も経験せず、うやむやのうちに青春を過してしまった。その報いのため、今はこのような惨めな人間になったのだと思うのだった。】
 解る、解ると一人合点していたものの、後で調べてみると、上林暁この頃三十六、七歳。わたくしよりずいぶん若い。とりかえしのつかぬ思いに陥るにはまだ早い。おそらく上林は、私小説の虜となった以上、いくら惨めで荒廃した生活に陥っても、もう後戻りできない思いだったのであろう。陋巷に窮死する自負よりも自嘲がある。けれども私小説の世界は求道的なものであり、その点では神学生と変わらない。となると、書かれてはいないが、上林の本音はこの神学生の若くひたむきで敬虔な横顔にあったのではないか。俺の青春は既に終わったという、淋しい後悔の念が、この文章の骨子ではないか。当たりか外れか解らぬまでも、そんなことを考えると、それからはもうばかばかしくなって、それ以上に己の感傷が照れ臭くなって、暗唱する気も失せてしまった。
【君のようになれたらなあ。もう一度やりなおして、君と同じように、公明に快活に素朴に正則に秩序正しく、神とも世とも和らぎながら人となって、無邪気な人たちから愛せられて。インデボルグよ、君を妻として、ハンス・ハンセンよ、君のような息子を持つことができたら。認識と創造苦という呪いを脱して、甘美な凡庸のうちに、生き愛し讃めることができたらなあ。】
 おそらく上林暁の『野』に影響を与えたと思われる、この『トニオ・クレーゲル』の思いは、複雑な現代には凡そ通用しないと云う評者があるが、ここにあるのは、感傷的後悔のみではない。作者トーマス・マンの、すなわち芸術家の、深い孤独感と自負は充分に理解できるし、共感もする。
 『青春の門』を発表して人気絶頂時の作家、五木寛之がこんなことを云っていた。いくら作家が有名といったって、歌手にはかなわない。自分なんか五木ひろしの知名度の百分の一もありはしない。或るとき五木寛之が地方で文芸講演をやった際、まだ演歌を歌わないのかと客が騒ぎ出したと云う。日本一の有名作家である五木寛之でさえこうなのだから、日本一の無名作家である陽羅義光なぞは惨憺たるものである。或る講演会で或る高名な文芸評論家が、わたくしの名を挙げていろいろ云ってくれたのはありがたいのだが、「ようらさん、ようらさん」と何度も口走るので弱った。それ以前にもはや作家というものが、古き昔の佳き時代と違って、尊敬も羨望もまったくされない存在と、堕してしまっているのだ。
 以前場末の酒場で飲んでいて、ホステスが「お仕事な〜に」と聞くので「作家先生」だと威張って答えたら、嬌声を喚げて大騒ぎになった。何のことはない。連中はすぐに「サッカーのコーチ」ではなく「作家センセイ」だと知り、「な〜んだ」と、深い失望の溜息をついたものだ。それでも何を書いているのかと聞くので「小説なんだ」と今度は威張らずに答えると、「しょうせつってな〜に」ときたもんだ。世も末だと思われつつ「フィクションだ」と答えると、「それって嘘っていうことでしょう」「まあそういうことだ」「やっぱり読むんなら、アンノンフィクションでないとねえ」「しかし小説は嘘を書いて真実を伝える」と、わたくしは少々ムキになっていた。「でも真実を書いてないと信じられないわよ」と、女達は顔を見合わせた。老兵は消え去るのみであった。
 俗に坂にはみっつあると云われる。「登り坂」、「降り坂」、そして「まさか」である。作家の尊厳がここまで降り坂になるとは、それこそまさかである。しかしそれはまた安堵感も催す。登り坂を登り続けるよりは楽だ。どこまで坂を降るのか、見届けてみよう。森鴎外の『妄想』の一節を嘯きつつ。「死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下って行く。」
 旧き佳き時代の文学には、多くの坂が登場する。わたくしの場合、雁木坂で連想するのは、やはり鴎外の『雁』であるが、あれは無縁坂である。無縁坂は上野不忍で、東大生岡田と、高利貸しの妾お玉との、淡い恋物語の舞台である。「忍ぶ不忍無縁坂」とは、さだまさしの歌である。「噛みしめるような ささやかな僕の母の人生」で終わる。わたくしはひところよくその『無縁坂』を歌った。ひところとは母が自殺した後の三年間である。出だしの「母がまだ若い頃 僕の手を引いてこの坂を登る度 いつもため息をついた」という歌詞が、わたくしには自分の母のことを歌ったとしか思われなかった。「ため息つけばそれですむ 後ろだけは見ちゃ駄目と 笑ってた 白い手はとても柔らかだった」
 そうしてわたくしは『極楽寺坂切通し』という小説を書いた。わたくしの母は長野県松本市の出身である。母の父親は神主で、母は十人兄弟姉妹の末っ子であった。母は生前「長野」とか「松本」とか云わずに、必ず「信州」と云った。母は大好きな故郷信州に、わたくしの母となってから一度も帰ることがなかった。母は戦前戦中に、当時の有力雑誌に短歌を多く発表した、自称「愛国歌人」であった。母は一冊の歌集も残せなかったし、その歌風はここに引用するのも憚られるほど、ロマンまるだしの鼻持ちならぬものであった。嘘か真か、『青銅の基督』の長与善郎や『安曇野』の臼井吉見が親戚である事を、イヤミなくらい自慢していて、不肖の息子のわたくしが文学者になることを、イヤミなくらい期待していた。けれどもわたくしが処女小説集を発刊したのは、四十四歳のときで、それは母の十三回忌の年であった。
 新宿で催された出版記念会で、わたくしは、母が生きていたらどんなに歓喜したであろうと、ほとんど誰も喜んでいない、参会者席を見回しながら考えた。けれどもわたくしの小説集のなかみはほぼ、自殺した母の事を書いたものであった。敬愛するチェーホフの死んだ歳と同じだったわたくしは、いくつもの持病を抱えていた。作家としての出発が即ち到着点になるかもしれない。そんな予感に襲われつつ、わたくしはこれから書く小説の一篇一篇が、すなわち「遺書」になるだろうと確信した。それは上林暁の信念でもあったが、わたくしは今後も私小説を書こうとは考えなかった。たとえば母の事を書くとして、現実そのままを書いても、母の事を書き得たとは思われなかった。そうか、たったいま想い出した。母が行方不明だと、妹の電話で知らされたあの日も、わたくしは雁木坂を降った。急な坂を駈け降りるのは落ちる感覚であり、飛ぶ感覚でもあった。
 国木田独歩の『春の鳥』の六さんは、白痴の子供である。その母親も白痴に近い。或るとき、六さんが行方不明になった。「私」は、高い石垣の下で死んでいる六さんを発見する。「私」は、想像する。鳥が好きな六さんが、鳥の真似をして石垣の上から墜落したのだ、と。六さんにとって、「飛翔」は、すなわち「墜落」であり、「墜落」は、すなわち「死」を意味していた。
【「ハイ、六は鳥がすきでしたよ。鳥を見ると、自分の両手をこう広げて、こうして」と母親は鳥のはばたきの真似をして「こうして其処らを飛び歩きましたよ。ハイ、そうして烏の啼く真似が上手でした」と眼の色を変えて話す様子を見て居て私は思わず眼をふさぎました。城山の森から一羽の烏が翼をゆるやかに、二声三声鳴きながら飛んで、浜の方へゆくや、白痴の親は急に話を止めて、茫然と我を忘れて見送って居ました。この一羽の烏を六蔵の母親が何と見たでしょう。】
 子供の頃、具体的には七、八歳の頃か、わたくしは猿飛佐助が大好きだった。きっかけはおそらく、父の夜話での真田十勇士。九勇士はおざなりで、父は猿飛佐助ばかりを語った。父の夜話の虎の巻は、富田常雄の『猿飛佐助』だった。祖父が講道館の八段だったので、その関係で父は、『姿三四郎』で有名な富田常雄と旧知の間柄だったのだ。三四郎のモデルは祖父だと、作者本人から聞いたと父は云っていたが、三四郎には興味のないわたくしは、「禿爺さんは三四郎」と囃しつつ笑っていただけだった。長じて、少しそのあたりを勉強すると、姿三四郎のモデルは、西郷四郎ではないかと思われた。してみると、祖父は敵役の檜垣源之助のモデルか。いずれにしろわたくしは、富田常雄の『猿飛佐助』よりも、数ヶ月後に小学校の担任教師から、事細かに聞かされた、織田作之助の『猿飛佐助』の方に、すっかりまいってしまった。織田作の猿飛は、父の云う猿飛とは、まったく違っていて、醜い顔と熊手に似た手を持つ、化け物じみた大男であった。
 兄や友達と遊ぶ忍者ごっこでは、わたくしは必ず猿飛佐助をやった。というよりも、猿飛佐助よりも霧隠才蔵や服部半蔵のほうがずっと人気があったので、お鉢がまわってきただけなのだ。わたくしは「飛ぶ」ということにこだわりがあった。猿飛だから猿くらいは飛ばなければならない。押し入れから畳に飛び降りた。屋根から地面に飛び降りた。大木から草むらに飛び降りた。いやこれは飛び降りたというよりも、落っこちたのだ。猿も木から落ちる。
 いちばん好きだったのは、小川のこちら岸から、むこう岸へ飛ぶことだった。まず、川幅を目で測る。こちらとむこうの踏み位置をよく調べる。雑草が生えていれば抜いて調べる。むこう岸はわざわざ小橋を渡って、自分の足で踏んで確かめる。むこう岸の踏み土が軟らかく、足が膝までめりこんだ時があった。踏み土が崩れて、尻から川に落下したことがあった。極めて臭く汚い川で、助かったとき鼠の死骸を銜えていた。この落下の惨めさは、わたくしの脳裡の汚辱の履歴書に書かれている。
 そんな子供時代だったから、「おとなになったらなにになりたいか」
を書かされた作文では、「猿飛佐助」と書けない気がしたものだから、「パイロット」と書いて、担任の先生にアタマを撫でられた。でも「パイロット」といっても「旅客機」はアタマにない。「戦闘機」なのだ。
操縦するのは、もちろん猿飛佐助。
 今年(つまり2009年)観た映画、紀里谷和明監督の『GOEMON』では、猿飛佐助は石川五右衛門の弟分になっている。しかも最後に兄貴分の五右衛門を裏切る。幼い頃猿飛佐助だったわたくしは、こんな映画は観なければよかったと憤慨した。独立独歩が猿飛佐助なのだ。
 ついでに映画で云えば、宮崎駿監督のアニメーション映画に、『紅の豚』がある。これも1992年にリアルタイムで観た。主人公は中年の豚のパイロットである。旅客機ではなく戦闘機である。わたくしも既に中年の豚だったから共感したものだ。この映画のキャッチフレーズは、「カッコイイとはこういうことさ」。だからこの豚は、ただの豚ではない。サングラスをし、口髭を生やし、声も渋い。顔も体型も確かに豚なのだが、その気障な仕草はハンフリー・ボガード顔負けだ。「飛ばねえ豚は、ただのブタだ」と嘯き、紅の戦闘機を操って空賊をやっつける賞金稼ぎをしている。元々イタリア空軍のパイロットだったのだが、戦争が終わるとなぜか豚に変身してしまったという設定だ。
 一匹狼の孤独な豚にも、愛情を示してくれる女が二人いる。一人は戦争未亡人で、ホテルのマダムをしている。もう一人は飛行艇工場の娘。この勇ましく健気な少女を賭けて、ライバルの青年パイロットと一騎打ちをする豚。必死の闘いの末に勝った豚は、勝ち取った少女をマダムに委ねて去ってゆく。つまり、つまらんダンディズムと、くだらんフェミニズムと、わからんヒロイズムが、この豚を支えている。「飛ばねえ豚は、ただのブタ」なら、「やらねえ豚も、ただのブタ」と云われてもよい。三角関係の愛憎劇からトンズラした豚と云われてもよい。我らが豚は「カッコイイ」人生(豚生)を全うする。まるで、クリント・イーストウッドの映画と同じだ。結局、我らが豚は、ただのブタだった。そこで、わたくしは、考えていた。「カッコイイ」生き方の限界を。人生は映画ではない。亦、生きるとは即ち他人を傷つけることである。そしてわたくしに云わせれば、生きるとは即ち「飛ぶ」ことであった。中年の豚になっていたわたくしは、いつしか、宙を飛ぶ夢を諦めていた。人生を飛ぶ。二、三人の女と同時につきあったってかまやしない。三角四角関係のなかで、悶え、喘ぎ、足掻くことで、ホンモノのカッコヨサが出てくるのではないか。
 この頃わたくしは、よく飛ぶ夢を見る。猿か豚か分からぬが、飛んでいる。わたくしはひたすら飛び続けている。飛翔人間は透明人間に似ている。自分の姿は見つけられにくい。他人の姿は(鳥瞰だが)よく見られる。友は青空と雲と大気。孤独は感じない。ごくたまに感じるその孤独も快いものだ。
 眼下に杉の樹の尖端が見える。三本、いや五本見える。尖端以外は、濃い霧で見えない。霧隠才蔵。いまようやく霧隠の魅力が解った気がした。けれどもわたくしは、あくまで猿飛にこだわりたい。この地点(空点)から飛翔したい、つまり墜落したい衝動が湧き起こる。抑えられない衝動だ。できることならあの杉の樹の尖端の槍に、胸を刺し貫かれたい。それは絵になるにちがいない。わたくしの網膜には、串刺しになった人間が判然と見える。その人間がもしもわたくし以外の人間だとしたなら、嫉妬に胸を焦がすだろう。わたくしはあそこまで、飛べるだろうか。落下できるだろうか。
 いいや、飛ばねばならなかった。わたくしはもはや居ても立っても弾んでもいられなくなる。「飛翔人間」、もしくは「墜落人間」。あるいは「串刺人間」という詞が頭の中を占領する。いまこのときをおいて、他にどんな機会が訪れるというのか。いまを生きる。いまを飛ぶ。いまを墜ちる。いまぞゆく、いまぞゆく。声が聞こえる。わたくしは腰を曲げ、両手を引き、胸を反らせ、五体に全力を籠めた。いまぞゆく、いまぞゆく。スリー・ツー・ワン・ゼロ。自らの掛け声が終わる寸前、どこやらで鋭い声がした。「おい死ぬ気か」
 死ぬ気なんかなかった。〈いまここ〉を生きる。声の主は、わたくしが自殺すると勘違いしているらしい。わたくしは母のやり方はしない。串刺になっても死にはしない。まてよ、もしかして。母も、そうだったのではないか。母は、生きるために死んだ。わたくしの心で生きるために、自ら死んだ。この推理はわたくしを愕然とさせた。憔悴もさせた。わたくしは覚醒した。わたくしは目が覚めた。そうして、わたくしは、現実のなかで想い出した。あれは夢なんかじゃない、と。
 二十一歳の早春であった。同人雑誌の仲間に連れられて、鎌倉へ行った。人並みに動ける身体ではなかったが、誘われると断れない性分だった。鎌倉と云えば鶴岡八幡宮。そこをひととおり眺めて、さて小町通りで大好物のお汁粉を食べて帰ろうと思っていると、仲間の一人が「ここは目的地ではない」と、今さら云い出す。肺病病みのわたくしは、血を喀きながら、かんべんしてくれと頼むんだが、無理矢理タクシーに乗せられた。「病人を拉致してどうするつもりだあ」と叫んだときには、瑞泉寺に着いていた。白い梅の花が綺麗だった。好きな少女のえくぼを連想した。その花を喀血で赤く染めてやった。仲間全員に肺病を染してやることに決めた。仲間の一人が、「吉田松陰が長州からここまで来たんだ」と云った。それで慰められた。吉田松陰は幕末では西郷隆盛と並んで好きな人物だった。わたくしは暫く簡素な瑞泉寺を眺めていた。堪能して、さあ、いよいよお汁粉だと思っていると、門前で仲間の一人が看板を指差している。厭な予感がして近づくと、二の腕くらいの看板に、「天国」と書いてある。「この先は天国か」と呟くと、「天国ではなく天園だ」と云う。云われてみればそうだが、関係ない。と思っていたら、「天国よいとこ」と、勝手に山道を行ってしまう。残りの仲間も続く。わたくしの手を引っ張る。わたくしは「籠を用意してくれえ」と叫んだが、一笑に付された。
 山道は木々と雑草と土の香りがした。風は凍っていたが、空気はうまく、わたくしは仲間に遅れて歩いている間、一度も喀血をしなかった。時折歩を休めて、山の音に耳を澄ませた。この静けさを感じているだけで、百年ぐらいはすぐに経ってしまう気がした。一時間ばかりで頂上に着いた。いくつかの岩の塊が頂上だった。眼下の山には霧がかかり、麓はまったく見えなかった。杉の尖端ばかりが何本も見えた。仲間はみんな茶店で甘酒を飲んでいた。わたくしは岩の天辺に立ち上がって、深呼吸をする姿勢で大きく手を広げた。むろん、病んだ肺で、深呼吸をするつもりはなかった。わたくしは『春の鳥』の六さんになったつもりで、この岩から眼下の谷底に飛翔するつもりだった。そうして、できればあの杉の樹の尖端の槍に、この胸を刺し貫かれたい。「串刺人間」はさぞかし絵になるだろう。仲間も、わたくしの芸術作品に感涙してくれるだろう。こんな機会は二度とこないだろう。わたくしは両手をさらに大きく広げた。まさしくわたくしは故障した飛行機だ。墜落する飛行機だ。それでもわたくしは飛ばなければならない。せめて杉の尖端までは。そしてわたくしは鳥になる。ヤキトリになる。さあ、いまぞゆく、いまぞゆく。勇気なんぞ要らない。いささかの脚力が必要なだけで。あとは風まかせ。スリー・ツー・ワン。「おい死ぬ気か」
 仲間が叫んで寄ってくる。寄るな。寄らば斬るぞ。けれどもわたくしは簡単に取り押さえられてしまった。それから仲間は、わたくしに甘酒を飲ませた。禁酒なのに無理矢理飲ませた。酔っ払ったわたくしは仲間に代わる代わるおんぶされて、黄昏の山道を降ったのだった。四十年前の話だから歪曲も誇張もある。記憶もおぼろげだ。けれども夢でないことだけは確かなことだ。
 わたくしは十歳頃から三十歳頃まで、約二十年間自殺志願兵だった。具体的には母がヒステリーになった年から、母が自殺をした年まで。無意識に自殺したがる者や、意識的に殺人したがる者(この場合は自分を殺すという意味)の気持はわたくしには解った。わたくしがそうであったから。けれどもわたくしは、自殺した者や殺人した者の気持を知りたかった。むろん死んでしまったら知ることはできない。わたくしはその矛盾に苦しんだ。そのためか霊や魂の存在を信じたかった。自然、その関係の書物を多く読んだ。けれども信じられなかった。母の霊も魂も、どこにもなかったからだ。あるのは、想い出のみであった。
 母は晩年、わたくしたち家族によく自殺を吹聴した。首つり自殺や飛び降り自殺は、母の口から出ても、入水自殺は一度もなかった。それなのに荒川で入水自殺をした。
 母は子供の頃、夏は毎日天竜川で泳いだと云っていた。だから故郷信州を偲んで川に入ったんだろう。わたくしたち家族はそう考えたが、後で父は首を傾げたものだった。河童という渾名だったあれが、川で死ねるんだろうか。もしかすると事故じゃないんか、と兄は推理した。いや死ねるさ、とわたくしは結論づけた。泳ぎが達者なことを自覚していたから、母は毛皮のコートを身につけたまま飛び込んだのだ。「おい死ぬ気か」、と叫んでくれる者もいない、黄昏の終わりの河川敷の堤から。
 母はわたくしがなれなかった、「飛翔人間」「墜落人間」になった。「串刺人間」にはならなかったが、大雨の後の乱れた流れに自ら墜落し、「浮遊人間」となって、ゴルフ場のキャディーに発見された。見栄っ張りの母が、「腐蝕人間」となる前に見つかって良かったと、わたくしにはしみじみ思われた。葬儀のときに父とわたくしは、周りがしらけるほど号泣したが、悲しかったという以前に二人とも懺悔の念で泣いたのだった。父は、母に与えた数々の仕打ちを、わたくしは、母の自殺を願ったことを。父の仕打ちに関しては、ここでは云々しない。それを列記するだけで一冊の本になってしまう。
 わたくしは母が入水自殺するまでの一年間、ずっと母の死を願っていた。しかもそれは自殺でなければならない。母は精神も肉体も病んでいたが、病死されては困る。母は自殺する。そうして、幽霊となってわたくしの前に現れる。わたくしはそのとき、ようやく念願かなって自殺した者の気持を知ることができるんだ。けれども母の幽霊は現れず、母の霊や魂を感じることもできなかったわたくしは、自ら書いた小説のなかで母と対話した。『水の中で対話が始まる』である。
 それでも小説の中の母は、自殺の理由を明確には明かしてくれなかった。当たり前だ。自殺の理由は一つではない。自殺予備軍としての経験上はそうだ。芥川龍之介が「ぼんやりとした不安」と云ったのは、正直だった。それでも「ぼんやり」くらいでは、普通は自殺なぞしない。芥川の言葉をもじって云えば、「渦巻ける不安」か。
 還暦を過ぎて、久しぶりにわたくしは雁木坂に来た。上から見降ろす雁木坂は、黄昏どきだったせいか、なんとも冴えない殺伐とした坂であった。この坂はまるで、わたくし自身を映していると思われた。それでなにも問題はなかった。わたくしは早足で一気に降った。途中で息を整えることもしなかった。だから物思いもしなかった。そんな閑があったら、一秒でも早く蕎麦屋でザルを注文したかった。
 ザルを啜りあげると、蕎麦屋の壁の鏡に、己の老いてむくんだ顔が見える。友曰く、哀愁と孤独を湛えた、四十代の頃の表情はどこにもない。それでなにも問題はない。感傷も寂寥も何処かに置き忘れた、冴えない殺伐としたこの顔で、あれから二十年間を生き抜いてきたのだから。

「構想」No,47(2010/1/10発行)より転載

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