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 作品No,42

 
木曜日」No,26(2010/4/30発行)より転載 
 
 
コルタサルの短編を読んだ時に感じためくるめきを、久しぶりに体験しました。 

推薦 小島義徳 文芸誌O」(長野県)   


 

       印刷用縦書PDF版       

 

掌の上の恩恵

                         菅原英理子

 

 


 時にして幼い日の本当にささやかな瞬間が、実は全て今に結びついていることに気が付くことがある。これまで願うともなく歩いてきた道それ自体が、実は導かれるように続いてきているのだと。

 それは一つの短い記憶から始まる。

 幼い私は車両の隅っこに腰掛けていた。どういう理由か、母や家族と一緒ではなく一人だった。
 電車は長く続く水堀に沿ってゆるやかに走っていた。並んで長く伸びて行くお堀と線路の両脇には、数えきれない程の色とりどりのビルが連なっている。正午の太陽の光線の強さは少しだけ和らぎ、暖色系に色が変わり始める前のまだ透明感を残した穏やかな日差しの中で、お堀の水はゆっくり波打っていた。午後の車両に乗り合わせた五名ほどの乗客が、まばらにぽつりぽつりと離れて、それぞれの角に身を寄せて腰かけている。
 目を閉じると、柔らかな風が開け放たれた窓から車内を滑りぬけて頬を撫でる。お堀の脇のオフィス街の昼さがりの喧噪が水音に包まれ、様々な音と混じりあいながら届いてきた。
 鳥の羽ばたきの音で、瞼を開けると、水辺の向こうに枯れ枝を左右に広げた木々が並ぶ薄茶色の土手が続いていた。お堀に湛えられた水の色が艶々と光を跳ね返している。車内の乗客達は、暖かな陽気に身をゆだねていた。私は彼等を走り続ける車両の一隅から、何の気無しに見渡した。

 その瞬間、ぱちり、と音がした、いや、音がしたように感じられた。私は、はっと車内を見渡した。
乗客達が一斉に瞬きをしたのだ。たまたま居合わせた彼等の動きと共に、そのほんの一瞬、車内の空気が真空になった。目を見開いたまま、ある感覚が私の中を通り過ぎた。

 もう一歩で、そこに至る。

 奇妙な確信のような迷いのような、硬くて柔らかい感触を肌のすぐ近く感じた途端に、その感覚は水面に広がる波紋のように周りに広がり解けるように消えていった。それは追い掛けるすべも無いまま失われていき、通り過ぎていく連なる風景の中に、私は取り残されていた。

 乗客達は何事も無かったのかのようにシートに埋もれている。
 窓の外に目をやると、あの瞬間のどこか遠い所へ行ってしまいそうな、足元が急に雲のかすみになってすり抜けて行くような…不思議な気分、居心地が悪いような、空間の隙間に飛び込んでしまいそうな、そんな一瞬の奇妙な感覚。それはすでに跡形も無く消えていた。

 あのまばたきは? そして、あの感覚は?

 私は同意を込めた誰かの頷きを求めて、不思議な気持ちのまま、同じ車両の他の乗客達を順々に眺めた。だが、彼等は今の午後の日常に身を任せたまま、変わらない様子で電車に腰掛けているだけだった。彼等の背後では、つい先程と変わりもなく、たゆたう光りを含みながらお堀の水は輝いていた。


 もう一つの記憶は、川べり土手のすぐ傍にある、緑に囲まれた一つの邸宅の中の記憶だ。そこはピアノ教室の敷地だった。
 ピアノのレッスンは広い庭の敷地内に建てられた小さな「離れ」で行なわれていた。幼い私は幼稚園の入園祝いに買ってもらったクラシックアルバムに入っていた『エリーゼのために』という曲を気に入り、それを弾けるようになるつもりで、ねだってピアノ教室に通い始めていた。ただ、習いたての子供への定石としてあてがわれる、幼い可愛らしいメヌエットの曲調がどうしても気に染まず、いつも余り練習していかなかった。そんなことだから、淡いピンクのグラデーションの眼鏡をかけて、首元に柔らかくスカーフを巻いた、かつてはその土地の小町と囁かれ、美しく年老いた先生にちくちくと叱られる。
 いつも散々なレッスンが終わると、飛び石を辿って母屋の脇の細道を通り、出口の繰戸から表へと出るのだが、その繰戸の手前に三本の大木が母屋の屋根よりも高くこんもりと茂っていた。中の一本にまな板のような厚い板を二本の太い縄でくくりつけたブランコが下がっている。エリーゼを諦めた子供にとって、時々これに乗る事ができる喜びが、ここにくる一番の楽しみになっていた。
 そっと近付いて、周りを見回してみるが誰も居ない。子供心にも、レッスンではあまり胸を張れる生徒ではないという遠慮があり、誰も居ない時でないと、なかなかブランコに触ることさえ出来ないのだ。このささやかな機会に、肩をすくませながら、縄を掴み、板に腰かけて漕ぎはじめた。
 茂った木々の間を、空が形を変えて近付いたり離れたりする。ぎしぎしという太い枝の軋む音。木々の動きが自分の動く背中と連動していると感じると、同時にブランコの振れる高さもより高くなり、両足を揃えてあげると空に届きそうだ。風とブランコと一つになって、目の前が水色一色になった時、思わず呟いた。
 空に届いた!
 その瞬間、私自身も空色になっていた。

 ふいにその時、一人の少女が母屋からひょいと顔を出した。ドキリとして、反射的に私は運動靴を地面に引きづって、ブランコのスピードを落とした。私より二つ三つ年嵩に見える少女はこちらを見詰めて、口元をもぞもぞさせている。ブランコの縄をわさわさ弛ませながらとまると、少女はようやく口を開いた。

 あのね、それは、うちのブランコなんだからね、あなたはそれにはのっちゃだめなのよ。

 少女は口を閉じてしばらく厳めしい顔をしてみせると、すぐに小さな頭を引っ込めて、ぴしゃんと引き戸を締めた。私はブランコの綱を握ったまま取り残され、母屋の扉を見詰めていた。
 その後、しおしおとした気分で、帰りの道を風をきって、しゃりしゃりと音のする自転車を漕ぎながら考えていた。
 あの子、けちんぼ。けちんぼ。
 川風が頬にあたって後ろに流れて行った。
 でも、でも、確かにあのブランコはあの子の家のものだものね。ピアノを習いに来る子供達が、みんなが乗っているから、きっと言いたくてしょうがなかったのかも。やっと言えたんだろうな。だから、仕方ないか。だって、私は空に届いたもの。それだけでいいよね。私はあの時の水色の記憶の中へと帰って行った。


 ピアノの教室の隣は、赤い屋根の幼稚園で、私はかつてそこに通っていた。幼稚園の庭からは隣り合わせに建つ神社の瓦屋根が見えた。神社のお坊さんが幼稚園の園長先生も兼ねるその幼稚園では、先生方のお話の中にしょっちゅう「不思議なお化け」が出てきた。先生方の家の傍には暗い森があり、そこに入ると着物がぼろぼろになったり、見えない妖精が何かと話し掛けて来たりする。そんな話を聞いて、私は自分の家の傍に森がないことが本当に有り難いことだと、ホッとすることがしばしばだった。
 巡る季節の中で、幼稚園の子供達の通う建物の裏の小道は秋になると足首まで枯れ草に埋まる。気の小さい子供は幼稚園の暗いおトイレが苦手で、わざわざそこに潜んでいって、しゃがんでおしっこをする。暗いトイレよりかは、まだそこは明るかったのだ。でも、そこは逆に、幼稚園の先生が話す物の怪の気配が、冷たく小さなお尻に染み入るような場所でもあった。
 その頃の私は不思議でしょうがなかった。どうしてみんなこんな普通の顔で、歩いたり食べたり出来るのだろう?
 世の中は怖いものが溢れている。夜になると自分の家のトイレや二階の部屋には一人では行けなくなる。さっきまで自分がいた部屋も電気を消して真っ暗にすると、途端に気配が変わる。裏のおじさんの家の塀に描かれた顔と目が合うのが恐ろしくて、おまじないをつぶやきながらでないと通れない。お使いに行った道と帰る道が違うと、「じくう」が変わってしまいそうで、そろそろ苛めっ子がうろうろしはじめる道でも、やはり同じ道を通るしかない。細い道に立つ四本のポールの右から二つ目を通って駅前の文房具屋にいったら、帰りもそこをまた通らないといけない。そうでないと、「同じ」家に着かないのだ。だから、そのポールに苛めっ子が腰掛けていても勇気を持ってそこを通らないといけないのだ。こんなことが、家の外にも中にもいっぱいあるのに、世の中の他の人は、どうしてそれをやり過ごして生きているんだろう? 何がおきるか解らないのに、どうして、普通にご飯を食べたり、お風呂に入ったり、眠ることができるんだろうか? みんながすごく強いのか、それとも、私だけがとっても弱虫なのだろうか?
それが、上の学校に上がるとともに、段々とその恐怖は別の形に変わって行き、周りの友達や先生の目の奥にまだ見たことのない、恐ろしさが潜んでいるのを見付けることが増えていった。その度に、あの時の物の怪の恐ろしさに、温もりと懐かしい親しみさえ覚えるようになっていた。

 
 それから暫くして、上の学校に通っている、ある時のこと。朝、起きて朝の空を眺めると、庭の銀杏の木の向こうの薄桃色の朝もやの色から、胸の内側へと奇妙な重いものが染み出てきた。なんだ、なんだ。これはなんだろう?

 お前は罪人だね。

 その言葉は頭と心臓に入ってきた。訳も解らず、頭の中を探ると胸の奥から流れて浮かび上がる、少し前に目にした光景があった。

 私の母とピアノのお稽古が一緒だったお友達のミナちゃんのお母さんが話をしている。ミナちゃんのママは目がくりくりと大きくて肌が白く、柔らかなその微笑みが、私はとても好きだった。
「木村先生、ずいぶんと怒ってらしたわね」
「ケント君のことらしいの。帰り際に先生にアッカンべーをして帰ったんですって」
「もう一人の女の子だか、男の子とかだかも、同じようなことしたらしいわ。結構いっぱいいるのね。」
「先生は『あの時は、今まで教えてあげたことを返して、って思ったわ』っておっしゃっていたわよ」
 その後、あなたじゃないと思うけれど、と前置きしながらも母に問いただされ、身に覚えが無いと否定した後の母の顔は、安堵した様子であった。ただ、こっそりしまった胸の内には、先生に酷くしかられたあと、ぽつぽつ飛び石を渡って帰る道、疲れた頬に指をあてて顰めっ面で振り返ったことはある。それがアッカンべーに見えたことがあるかもしれない。むしろ、アッカンべーをしたい気持ちが山々でもあったから、元々、その仕種はアッカンべーの「出来損ない」であったのだから…でも、安堵している母にはもう言えなかった。このことには、しばらく胸がちりちりしたが、その時はそれ以上自分の胸の内で、何かが広がることはなかった。

 そこで、それより前の記憶を探ってみる。
 朝の小学校の椅子に置いてあった手紙が思い浮かぶ。開いてみるとたどたどしい文字で書いてある。
「あなたは、明日からみんなで休み時間にやってる縄跳びの遊びからはずれてね、あなたはワガママだから、もう一緒に遊べないの」
 小学校の小さな椅子の上に貼付けてあった、絶交状を見付けたときは、冬の日の凍える空気が肺に入ってくる感じや、大事なぬいぐるみを無くしてしまった時のような切ない感じが併せてこみ上げてきた。それでも、他に昼休みの手芸に誘ってくれる、大人しい子供達のお陰でか、自分の罪を肌で感じることは無かった。

 こうしたことの積み重ねがとうとう飽和地点に達したのだろうか。どういうわけか、誰にも気付かれないまま、あの朝から私は罪人になっていた。あの朝靄の淡い光りの中からそれは届いていた。それは何処から来たのだろうか?

 あの時の実は無邪気でさえあった母親達の会話は徒然に、こんなふうにも続いていた。
「熱心な先生には申し訳ないことだけど、ケント君はピアニストを目指してる訳ではないものね」
 白い肌のミナちゃんのおかあさんも笑って手を振った。
「まあ、そうね。それに、先生も教えたことを返してとおっしゃるものの、ケント君のお月謝はきちんと受け取られているのでしょう?」
「それは、そうでしょうね」
「お稽古の時間の代価は支払われ済みなのよね。小学生や幼稚園児だし、言ってみれば躾料だわね」
「まあ、昔堅気の良いお家のご出身の先生のことだから、腑に落ちないでしょうね。先生世代の礼儀正しいきちんとした子供を教えるという感覚とは違うものね」

 私の中の罪人の思いは、さらにその上の学校に上がった数年後までしばらく続いた。
 ある夏の日、図書館へと続く道を歩いている時のこと。夏の日ざしの中で、白いブロック塀の下に私の影がくっきりと伸びていた。影に手をのばして、自分の頭の部分に触れてみた。すると急に日が陰り、影もコンクリートの地面の色も同じに塗りつぶされてしまった。
 やっぱり罪人だから? すると不意に後ろから声がした。
 
 まて、まて! ツミビト!

 バタバタと足音がして、小さな子供達が脇を走り過ぎて行った。ちょうど赤い屋根の幼稚園に通うような年令の子供達だった。

 とまれ、とまれ! ツミビト!

 先頭を行く、一人の男の子を追い掛ける子供達の群れの中で、女の子が一人だけ叫んでいた。

 まちなよ! ツミビト!
 私はあんたの味方なんだよ!

 大騒ぎをして走って行く子供達を見送ると、空を見上げた。空はにわかに曇ってきていた。ただ、そのくすんだ雲のふちから輝く光がもれているのが見えた。


 その後、大分経ってから気付いたが、それからのちも、私はあの時々のような光の気配を何度も感じていたのだった。

 あれは、高校生の頃に通っていたカトリックの学校でのこと。授業の棟の隣に続きで教会があり、日曜日にはミサが開かれていた。
 私はクリスチャンではなかったが、教会から二階のシスターがいる部屋に行く階段が好きだった。授業が終わった誰も居ない放課後に、木の手摺を伝いながら階段を登ると、二階にあがる踊り場のステンドグラスは色ガラスを通した光で一斉に輝いている。その輝きを見上げながら階段を登る時と、視界いっぱいに光が広がり何も見えなくなった。その光の中でふと私は呟いた。

 大天使ミカエルよ、祝福のラッパを吹け

 それは、子供の頃に読んだ本の中にあった台詞だった。
それが何のセリフなのか解らぬままに、光の中で、その台詞を何度か繰りかえした。
 
 それから更に時は流れ、仕事に付いてからのこと。
 休日の夜、殆ど電気の消えたビルの一角で、終わらない仕事を前にして、一人机に向かって居た時だった。あっちこっちに書類の散乱したフロアは、いつもより空気が重い。ただ、ざわついた平日の空気の中で次々電話がなることもなく、作業ははかどりやすい。そんな時にふと、誰も居ないフロアに誰かの存在を感じることがあった。
 その頃の隣の部門は、低年齢の消費者市場の資料をまとめる担当で、彼等がリサーチと称して巷であつめて来たおもちゃのぬいぐるみが、業務中も音や光りに反応して、歩き回ったり、言葉を発する事が多々あった。そのため、日常的に無人の中の人の気配には、余り気にもとめなくなっていた。サンプルの中には、台詞が百くらい内蔵されていて、出し抜けに「お腹すいた」と不用意に声を出すものもあり、大方がそのおもちゃが反応している気配に違い無かったのだから。
 その日は仕事を終え、片づけをして重いガラス扉を閉じて電気を消すと、暗闇から声がした。
「もうかえっちゃうの?」
 こんな台詞、入っていたかしら? いつものおもちゃの声に慣れていた私は暗闇に返した。
「帰っちゃうよ」
 暗闇の中はしんとしている。少々乱暴だったかもしれない。私は思いなおして、暗闇にまた顔をむけた。
「では、また、月曜日にね」
 扉の鍵を閉めると、扉の隙間から穏やかな声がした。
「おやすみなさい」
 思い掛けない、優しい口調に思わず振り返ると、入り口のガラス扉の奥は真っ暗で、そこには私の姿が写っていた。入り口の非常灯のほのかな光を受けて、ぼんやりと浮かび上がる自分自身を見て、それまで、思い及びもしなかった眼差しが、実は私自身を通して私の姿を見つめていたのかもしれない…と不意に思い及んだ。


 もう一つの最後の記憶は幼い頃ではなく、ごく最近の記憶である。その記憶は、床に散らばったレコードの脇で、蓋も無く剥き出しにおかれたレコードを載せる回転板だけがくるくる回っている、きしり、きしり、という音とともに始まる。
 お入りなさい。エプロンを付け、肩までのばした艶やかな白髪の婦人が手招きをしてくれる。
 その家は下町の住宅街の家の近所には珍しく丸太を組んだログハウスのような外観だった。奇麗に芝生が敷き詰められているが、塀のない彼女の家は、大人の背丈ほどのモミの木がまばらに並んで目隠しになるので、家の様相は外からはっきり解らないものの、脇の小道からシロツメクサとクローバーを探しているうちに気づくと中まで入り込んでしまうような造りになっていた。その日の私もそんな風にして彼女の目の前に辿り着いた。
 ただ、懐かしいクローバーをおいかけて庭に現れたのは、既に少女の私ではなく、少女のように迷い込む大人としての私だったのに、彼女は、私を手招きした。
 開いた大きなガラス窓の向こうから、彼女がテーブルの前に腰掛けている様子が見えた。そこには暖かい湯気の上がる、薄茶色の焦げ目のついたふんわりとしたパンケーキが積み重なっている。並べて置いてあるガラスの壷にはイチゴやオレンジ、ブルーベリー色のジャムや生クリームが色鮮やかに光っていた。そことそこを通って歩いてきてね、と穏やかな老婦人の声が響く。同時に婦人の指差す手は、部屋の中で、器用に曲線を描いてテーブルに辿りついた。床を見ると、部屋は沢山の剥き出しのレコード盤や画集で、無造作に幾つもの山が要塞のように作られていて、彼女の指差す道を辿らないと確かにテーブルには行き着けそうも無い。言われるままに、板の間の入り口で靴を脱いで、少しずつ山を避けて通る。その中では銀色のレコードの回転板だけがきしりきしりと音を立てて回っている。隣の火の消えたストーブの音のようにも思える微かな、定期的な音が続いていた。
 では、召し上がれ、席に着くと、いびつな温もりの器にちょっと温いお茶をいれてくれる。器を持ち上げると、湯気の向こうに窓ガラスの向こうで静かにしゃがんいる、白と黒の猫の姿が目に入った。
 そうそう、あの子もおやつの時間なのよね。老婦人はにっこりしてそちらに向かって歩き出した。
 どうやってパンケーキを平らげてしまったのか、何故か全く覚えていない。ただ、これをどうぞ、といわれて抱えた薄い茶色の紙袋を持って外にでる。中を開けると、七色の光が地球らしき惑星の上に降り注いでいる絵が入っていた。そのまま上を見上げると、その時の空は薄曇りの中に輝いて不思議な色をしていた。この発光するような輝きを私はいつも見ていた。

 あれからしばらく、どのくらいだか、その家を通りかかることがなかった。随分月日が立った頃に、あの老婦人の庭の小道を通りかかり、通り過ぎてから振り返ると、その家は、ただ建っていた。ピアノの音を響かせながら。モミの木が枯れてしょんぼりと立っている足元には、膝まで雑草が元気に生え育っている。誰がピアノを弾いているのだろうか。
 垣根の無い庭にわけ入ると、扉の脇の大きなガラス窓の中を小さな背中の先客が覗いている。白と黒のぶちの猫である。まさかあの時と同じ猫では無いだろう、と思いながら、見つめる私に猫はちらっとこちらを見上げたが、済ましてまた前を向いてちょこんと座っている。
 白斑猫と並んで覗くと、部屋の中では白髪まじりの長い髪の痩せた男がピアノの前で何かを歌いながら、鍵盤をかき鳴らしている。アップライトピアノの正面の板は外され、内側のハンマーとダンパー部分が曝し出されて、鍵盤の動きにあわせて細やかに動いている。私は猫とともにその背中を見詰めてた。
 ふと振り返った男の瞳は、ばらばらに額にかかった髪の間で、穏やかな光が宿っていた。猫と私の姿が見えているのかいないのか、男は表情も変えずにちょっと微笑みをたたえた唇を震わせて、そのまま歌い続けた。どれほど時間がたっただろうか? 男はふいと立ち上がって奥へと消えて行った。

 ふと気付くと、庭にはだれもいない。猫が座っていた草の上は柔らかく踏みしだかれていたが、ガラス越しに見える家の中には、廃墟のように本やアルバムが散乱し、このままずっと誰もいなかったかのようだ。
 ガラス窓に私の姿が写っているだけであった。長いこと、私は一人で此所に立って、私の姿だけを眺めていたのかもしれない。
 私は老婦人の家を後にした。小道から振り返ると、ガラス窓の角度が変わり、暮かけた夕日を受けて、銀色に光る窓は金の縁取りを揺らめかせながら光を強めて限り無く白に近付いて行った。

 光の気配を間近に感じながら歩いていると、それがどこに繋がるのかは、言葉には出来ないものだったが、常にそれはいつも同じ所から差し込んでいた。そして、その光は常に、そこここに降り注いでいるものであることを私は知っていた。

 

 

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