動画

 

 


作品No,40

氷魚Vol.04・05)より転載

 
レイモンド・カーヴァーを代表とする、ミニマリズム作品を読んでいるようでした。

推薦 ひわきゆりこさん 胡壷」(福岡県)


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 誰もいない部屋                   河邑航

 

                          


 男が命を落とす前日の土曜日、タニグチ理容店は普段通り午前十時から営業しており、店主の谷口安男氏はまさにその男の髪を切っていた。
「眼鏡を着けていただけますか」
 眠っていた客が目を覚まし、彼の手元に頭を差し出すようなしぐさをする。谷口氏は男に眼鏡をかけ、彼の後頭部でうやうやしく鏡を開く。
「どうでしょうか」
 谷口氏は男の襟元の生え際を注意深く観察する。定規を当てたようにきっかり定位置だ。
「いいね」
 男は関心のない声で即答した。「ではお顔を剃ります」
 谷口氏は男の椅子を回し、背もたれを倒す。男は目を閉じ、谷口氏の姿をすばやく視界の外へ追いやる。谷口氏の顔が不快だからではない。視線のやり場に困るくらい近づきすぎてしまうからだ。男にとってこの瞬間は多少の緊張を強いる。通い慣れた店とはいえ、他人との距離を失うのは気味のいいことではない。
 しかし谷口氏は手慣れた動作でクリームを男の顔全体にまんべんなく塗り、暖かく蒸したタオルで鼻だけ残して顔を塞いでしまう。相互不可侵条約を締結し、国境を挟んだにらみ合いに終止符が打たれる。後はなすがままで、男は訪れた平和の味を噛みしめながら無防備な眠りに落ちる。谷口氏は黙ってかみそりを当てていく。まるで料理人がランチに間に合わせようと大量のジャガ芋の皮をむいているようだ。男がうっかり舟をこいでも手元が狂うことはない。理容師になって以来、食事より他人の顔を剃った回数のほうがおそらく多いのだ。
 職業上の作法として、谷口氏は内面というもったいぶった不可解な液体を包み込む男の頭部を、脂っこい表皮からもじゃもじゃしたものが生えている奇妙だがちょっと高価な物体として扱う。あたかも数十分後には見栄えよくして持ち主に返還しなければならない預かりものをしているかのようだ。客が孤独に悩もうと尊大な人物であろうと、髪は生えてくるし谷口氏は髪を切らなければならない。
 仕事においても私生活においても谷口氏は他人への関心に乏しい人物だったし、彼自身が人から興味を持たれることもなかった。彼は理髪師であることと谷口家の主であることに満足していて、ほかの選択肢があるとは考えたこともなかった。もちろん、ときには人と人とを分かつ境界線の向こう側を覗いたり、足を踏み入れたりしたいと思うときもある。しかしそれを実行に移すには彼は少々引っ込み思案だったし、もともと人格や自我といった抽象的観念にあれこれ思い悩むような素地を持っていなかった。同様に、タニグチ理容店をひいきにしている客のほとんども店主の趣味や心情を知ろうとしたり打ち明け話を期待したりすることはなかった。店主と客の間にあるのはカット三千八百円の契約関係と熟練した職人の手つきだけであり、それはそれで混じりけのない完全無欠な世界を形作っていた。
 とはいえ客との会話を楽しむこともある。時の政権や天気のこと。客の勤め先の経営状態や近所の人間模様。しかしそれは谷口氏が聞き出すわけではない。客がその日の気分で話し始めるのに相づちを打つだけだ。客もウィットに富んだ回答や思慮深い忠告を求めているわけではないように思えた。浪費癖のある妻や展望のない生活を続ける息子の話をしたとしても、彼のプライベートな領域に入り込むことを許可しているわけではない。ここは告解室ではなく理容店なのだから。
「うちのがね、学校を辞めるって言うんだよ。手に職つけなきゃ大学出たって仕事がないご時世なのにね」
「私たちのころとは価値観が違うのでしょうね」
 客がそうぼやき、谷口氏が相づちを打つ。客が望まない限り、いつも物語はそこまでだ。おそらく客は何かを打ち明けたいのではなく、時々自身の人生の窓を開けて、少しばかりの換気をしたいだけなのかもしれない。時間が経つにつれ空気が淀んでくる人生という部屋の窓を一時ばかり開けるだけで、そこから出てこようとは考えもしない。髪を切っているときの谷口氏は時としてそういう窓の役割を果たした。谷口氏も窓を覗いて話しかけようとは考えたこともない。人生を部屋にたとえるなら谷口氏のそれは質素な外観とは裏腹に要塞のように堅牢で、数十年昔に妻がやってきて以降、ほとんど誰も訪れたことはないし、彼も誰かを訪ねたことはない。そこに出入りするためのドアがあることすらしばしば忘れてしまう。
 整髪料をつけ、髪の毛をブラシで掃いて落とす。二人は連れ立つように玄関先のカウンターに向かう。男はまたしても居心地の悪さを覚える。道端でそれほど親しくない知人と出会い、しかも行く先が同じだったときの気分。谷口氏はそそくさとカウンターの裏に回る。二人を分かつカウンターはいわば休戦協定に基づく停戦ラインだ。ちゃんと理容師とその客に線引きしてくれる。
「お荷物はありませんでしたね。三千八百円になります」
 男が財布から五千円札とタニグチ理容店のメンバーズカードを差し出す。千円ごとにスタンプが一個、三十個たまれば一回分のカットがタダだ。五枚目になるそのカードはもう二十七個たまっている。
「さっぱりしたよ」
 男が満足そうに呟く。
「ありがとうございます」
 メンバーズカードの氏名は空欄のままで、谷口氏は常連のこの男の名前を知らない。分かっているのは、彼が谷口氏と同年代で店の裏手のマンションに一人で住んでいることぐらいだ。「うちのがね、学校を辞めるって言うんだよ」。谷口氏は男に家族がいることにかすかに困惑する。そんなとき、何とも言い難い感情が谷口氏の心を過ぎる。彼も他人のことを知りたいと思う。男の名前を聞く勇気と話術があればとも思う。「お子さんはいまどちらに? うちはついに子供は作りませんでしたが」。客はなんと答えるだろうか。しかし他人の人生にほんのちょっとだけ足を踏み入れてみたいという感情は、谷口氏が動揺するよりも早く、何かの鳥のようにあっというまに通り過ぎてしまうので、彼は自分の心に何が起きかけたのかに気づくことはない。結局、それは彼にとってどうでもいいことなのだろう。個人的な興味よりも職業的な倫理を優先させるべきだと考えているのだから。彼は理容師であり、それは揺るぎのない事実だった。
 店内には、いま、谷口氏一人だ。客が落としていった髪の毛をほうきでちりとりに集める。後かたづけをした後は、だいたいたばこを吸うか、店の前の通りを眺めている。


 所轄の警察官がタニグチ理容店を訪ねたのは日曜日の午後七時を回った頃だった。
「橋田文夫さんはご存じでしょうか」
 薄暗い部屋だった。小さな電球が一つだけ、天井に隠れるように点っている。応接スペースを仕切るガラスケースと本棚の向こうに鏡と洗面台、回転式の椅子が二つ見える。目が慣れるまで男はそこが仕事場であることに気付かなかった。確かに水槽のように仄暗いガラスケースの内部には黄色や緑色をした洗髪料の瓶がいくつも並んでいる。本棚はすべて漫画本だ。
 男は袴田だと名乗った。黒縁の度の強い眼鏡の奥で谷口氏の小さな目がつかの間、何かを探すように動いた。タニグチ理容店ではなく谷口夫妻を訪ねてくる客など、親族を除けばここ数年皆無といってよかった。
「存じませんね」
 谷口氏が答えた。
「こちらの会員証を持っていたんですがね」
 袴田氏は責めるような口調で呟いた。
 丸顔に癖の強い髪が乗っかっている。「持っていた」という言葉が過去形なのに注意を払わないまま、谷口氏は彼の髪のことを考えた。硬くてまとまりの悪い髪だ。しかし大丈夫。私はどんな髪もいやがらないし、見栄えよく仕上げてあげる。そして目に見えない鋏が動き出す。
「ほら、この人ですよ」
 袴田氏はテーブルに写真を差し出し、人差し指で叩いた。谷口氏は眼鏡を持ち上げながら写真を顔に近づけた。居酒屋のような場所で、縁なしの眼鏡を付けた面長の男が複数の男女と一緒に写真に収まっている。
「後頭部が写っていればよく分かるんだが。その、職業柄、顔よりも頭を見ていることが多いので」
 谷口氏は独り言のように呟いた。袴田氏は腹を立てたらしく、無言で次の言葉を促している。谷口氏は写真を見直して答えた。
「この人でしょう?」
「会員証にはいっぱいスタンプが押してありました」
「ええ、お得意様です」
「なのに名前も知らない」
 袴田氏は仏頂面で呟いた。彼はまだ新米の刑事で、ある小さな事件で橋田氏の所持品から判明した理容店を当たるよう指示を受けていた。タニグチ理容店のメンバーズカードにはスタンプが二十七個も押してあったので、彼はこの小男からある程度の情報が得られると期待していただけに失望が大きかった。だめだ、こいつは何も知らない。袴田氏は内心ため息をついた。
「僕はね、他人様のことはあれこれ詮索しないようにしているんですよ」
 谷口氏は彼をよそに胸ポケットから煙草を取り出しながら口を開いた。袴田氏があの客の話を聞きたがっているということに、谷口氏は奇妙な興奮を覚えた。この刑事は俺にあの男の、いわば人生の切れ端を探し出そうとしている。その感銘が谷口氏を珍しく浮き足立った気持ちにさせた。
「ほら、こういう仕事でしょう。職業倫理なのかなあ」
 谷口氏とテーブルを挟んで疑似革のソファに腰を下ろしている刑事は次の言葉を待った。半ば絶望しながらもこの床屋がまだ何かもったいぶっているかもしれないという期待を持っていた。
「彼なら昨日、髪を切りましたよ。しかし……、彼は一体どうしたんです?」
 普段なら聞かずにすませていたような質問を袴田氏に投げかけた。
「死にましたよ」
 彼はぶっきらぼうに答えた。
「ほう。それはまたどうして?」
 谷口氏が目を輝かせた。
「隣町のマンションから転落して、先ほど亡くなりました」
「しかし……、単なる事故ではないと?」
「わかりません」
 袴田氏は突き放すように答えた。それから、死んだ男が何時ごろ来店したか、変わった様子はなかったか、何日おきに来店しているかを質問した。谷口氏は、昨日は午前十時前で、だいたい三週間か四週間おきの土曜日の同じ時間に来ている、変わった様子はないが、裏手のマンションに住んでいるということ以外は知らないし、知ろうともしなかったと回答した。それが職業倫理だからと付け加えることも忘れなかった。
「彼はO町に知人がいましたか? 我々が知り得た範囲ではそのマンションに知り合いもいないし、七階の踊り場から転落しなければならない職業的な必然性もないのですよ」
「もちろん、交友関係もこちらから聞き出そうとはしないのですよ」
「ご協力ありがとうございました」
 袴田氏は立ち上がると、谷口氏に目も合わせずにそう言った。谷口氏は彼の顔に「こいつは何も知らない」という表情が浮かんでいるのを我に返るような気持ちで見つめた。彼は自分が非難されているようなやましい気持ちに陥ったが、それがどうしてかは分からなかった。
「その辺で会ってもね、こちらから挨拶することはないし、やっぱり他人様のことは詮索しないようにしているんですよ」
 言い訳するように付け加えたが、袴田氏はすっかり関心をなくしたようだった。谷口氏はふと、「あの男のつむじの形やひげの生える場所なら誰よりも知っている」と言い出したい気持ちに駆られたが、彼の顔を見て止めた。
 谷口氏は店の裏手に位置する玄関まで袴田氏を見送り、それから仕事場の灯りを消して、居間に引き返した。妻がリモコンを手にしたままニュースを見ていたので、谷口氏も並んでホームセンターで購入したソファに腰掛けた。番組はローカルニュースに変わり、県議会の一般質問の様子を手短に伝えたあと、O町での転落事故に触れた。谷口氏は妻の手からリモコンを取って音量を上げた。
「これ、うちのお得意さんだよ」
 谷口氏は少し自慢するように妻に教えた。
「あら、お気の毒に」
 妻が驚いたように目を瞬かせた。「さっきの方はこの話を聞きに来られたの?」。
 ニュースは「男性が誤って転落した可能性がある」と付け加えた。何かを知っているけれどあえて言わないといった感じだった。
「そうだね。昨日、彼の髪を切ったよ」
「何があったのかしらね」
 夫婦の会話はそこで途切れた。所轄の刑事が訪れたときの奇妙な興奮はすっかり冷え切ってしまい、理由もなく自分たちがひどくみすぼらしく感じられた。転落した橋田氏と所轄の刑事もローカル局のアナウンサーもみんな知っていることを自分たちだけが知らずつまはじきにあっているように思った。世の中の大事なことが、自分たちを素通りしているような気がした。
 リモコンは妻の手に戻り、テレビの音量が小さくなる。家の中が随分静かになった。興奮が静まり、余韻のような居心地の悪さがゆっくりと流れていく。夫婦二人はぽつんとソファに腰掛けていた。谷口氏は住み慣れた家がこれほど静かなのにはじめて気づいた。
「もう十一時だね。寝ないとね」
「そうね。寝ないといけませんね」


 翌日は月曜日で床屋は休日だが、谷口氏は普段通り七時に起床した。猫の額ほどの庭に、曇り模様の空から弱い光が差し込んでいた。妻はもう起きて台所に立っていた。
「変な夢を見たよ」
 谷口氏は眼鏡をつけながらつぶやいた。寝間着のまま台所に入り、小窓から裏庭を覗く。
「裏のマンションが撤去されてね、更地になってた」
「あら」と関心のない声で妻が相づちを打つ。
「おもしろいのがね、あれは鉄筋コンクリートではなくて、プレハブみたいになってたんだ。舞台の書き割りみたいにね。だから、あっという間だった」
 妻は珍しく多弁な夫をいぶかしがるように一瞥し、すぐに視線を手元に落とした。谷口氏はつかの間、小窓を通して四階建てのマンションを見つめていた。ブロック塀を挟んだ南向きの一階が橋田氏の住居のはずだった。
 食事後、谷口氏はお茶を飲みながら新聞を丹念に読んだ。転落事故は県版にベタ記事として載っていた。昨晩のニュース同様、「N署は誤って転落した可能性があるとみて調べている」という文言が付け足されている。多少なりともこの手の文章に通暁している人間であれば、この言い回しが言外に意味していることを察したであろうが、谷口氏はそうした推察や詮索が苦手だった。
 妻は洗濯物をしている。家の前の通りは通勤通学の時間帯を過ぎて静かだ。くすんだ灰色をした歩道は、タニグチ理容店をこの地に開業して数十年、法事で数回家を空けたのを除けば、同じコマを使い回すアニメのようにほとんど途切れることなく彼の人生の場面場面にどこかで使われていた。長年の使用にすっかり消耗して、もうどんな意外な出会いも魔法のような出来事も運ばなくなった道だ。店のガラス戸を開けて入ってくるのは常連客ばかりで、たまにやってくる一見の客もどこかで見たような顔をしている。谷口氏も、ある日ガラス戸を開けるとそこに別世界が広がっているなどということを考えたり望んだりもしなかった。しかしとにかく、橋田氏は土曜の午前十時前にやってきて、そして出て行ったのだ。そのことを考ようとしても、すぐに狐につままれたような気持ちに陥り、筋道立てて納得できる見解を導くことが出来なかった。
(何もおかしいことはない。誰だっていつか死ぬじゃないか)
 そう考えてみるが、問題は人の生き死にじゃないのだと、心のどこか遠いところから彼とは違って賢そうな声が諭すのだ。
 妻が洗濯機の前から動かないのを横目で確かめると、谷口氏はそっと新聞紙を置いて、裏庭に出た。背丈よりやや低い、湿った灰色のブロック塀を挟んで、細長い四階建てのマンションが立っている。隣家からは掃除機や洗濯機のモーター音が聞こえてくる。彼は勝手口のポリバケツをブロック塀に寄せ、しばらく周囲の様子をうかがってからバケツに足をかけ、塀をまたいだ。決して運動神経が良くない谷口氏は着地するとき姿勢を崩して、あやうく派手に転ぶところだった。
 降りたところは橋田氏の庭で、すぐ目の前の柵を挟んで砂利を敷き詰めた駐車場になっており、型の古いクラウンとミニヴァン、軽自動車が停まっていた。谷口氏はかがんだ姿勢のまましばらくじっとして辺りの気配を窺った。彼のいる場所は裏庭に当たり、蛇腹の勝手口があるだけで、室内の様子は分からない。
 突如、間近に足音が迫り、彼はうつむいた姿勢のまま硬直してしまった。谷口氏は不意に我に返り、ちょっとした恐慌に陥る。私は何をやっているんだ? かといって動くわけにも行かず、聳えるブロック塀を背中に、じっと足元の砂利を見つめていた。やがて軽自動車が動き出し、人の気配は消えた。谷口氏はほっとして顔を上げた。軽自動車が走り去った小道が見える。道路を挟んだ向かいには生け垣に埋もれたようなアパートの庭から柿の木が伸び、灰色の歩道に曖昧な影を落としていた。人物を描き忘れた風景画のような無機質な感じがかえって彼の心を引きつけた。
(こんな道が近所にあっただろうか?)
 谷口氏はいぶかしむようにその道を凝視した。見覚えのない柿の木、心を閉ざしたかのようなアパート、人間が嫌いな画家が定規を使って描いたような道路。それが自宅の目の前の通りだと分かると、新たな感銘が起こった。
(何て異様な光景だ)
 満足げに呟くと、腰をかがめた姿勢のまま行動を開始した。音を立てないよう砂利を踏みしめて表庭に回った。一階は一部屋しかないので、ここが橋田氏の部屋で間違いはなかった。庭は谷口家よりも若干狭いようだが、コンクリートで固めたベランダと物干し用のロープがあるだけなので広く感じられた。隣家はいずれも二階建てで、庭を見下ろすように立っていた。庭はどこからでも丸見えだったが、どの家も通気窓程度で見張っているというよりは背を向けているという印象を受けた。
 ふと頭上を見上げると靴下が四本と白のシャツがロープに垂れ下がっていた。谷口氏は何かその光景に嫌らしさのようなものを感じて、すぐに視線を戻した。ベランダまでたどり着くと、窓から家の中を覗いた。
 窓の半分には水色をした厚手のカーテンが引いてあったが残り半分はレースのカーテンで、小さな隙間もあった。谷口氏は息を潜めて身を乗り出した。
 何の変哲もない部屋だった。目が暗さに慣れると、色彩を失った部屋の様子が背景の薄暗がりから浮かび上がってきた。フローリングの床に勝手口から仄暗い光が差して、そこだけが薄暗い部屋の中で冷たく輝いていた。テレビやファクス兼用の電話機が直に床に置いてあった。家具は少なかったが生活感を欠いているわけではなかった。小さなテーブルを挟んだ二脚の椅子の一方にワイシャツとネクタイが掛けたままだった。
 結論から言ってしまえば、謎とか秘密とか言える要素は皆無だった。破滅に向かう人生の苦悩や我が身を滅ぼす悪徳の痕跡、あるいは観客の涙や怒りを誘う小道具になるようなものは何もなかった。どこにでもいる平凡な男が付き合い先とゴルフにでも出かけて、昼過ぎになれば何事もなく帰ってくるという結末が一番しっくりくる。
 谷口氏は少し落胆したが、一方で安堵に似た苦笑が零れた。朝から彼を捕らえて放さなかった漠然とした想念が、冬の朝の霜のように跡形もなく溶けていくようだった。かわりに住居不法侵入を犯したという現実的で正常な恐れが回復し、彼は早々にこの場を立ち去ることにした。
 そのとき、彼の目がテーブルの横にあるゴミ箱を捉えた。ペダルを踏むと上蓋が開閉するタイプのもので、市指定のゴミ袋の口が乱雑に折り返されて上蓋の下から覗いている。蓋を開けて口を縛って取り出せばそのままゴミ置き場に持って行ける。ゴミ箱も汚さないで済む。ほんの少し未来の苦労を取り除くため、誰でもやっているような生活の工夫だ。近辺のゴミ回収日は月曜日だ。
(一日か二日先か分からないがゴミを出すつもりだったんだろう。が、その機会は訪れなかった)
 一人暮らしの男が、思いがけない結末が目の前に迫っていることに気づくよしもなく洗濯物を干し、ゴミ箱に指定のビニール袋を入れる。よく観察してみればゴミ箱だけでなく、椅子の背もたれにかかったワイシャツも干してある下着も、カウンターキッチンに置いてあるコーヒーカップもどれもが男の帰りを待っているように見えた。その光景は待機命令を受け、解除の声あるまで己の任務に忠実な兵隊を連想させて、谷口氏は似合わぬ苦笑を漏らしかけた。しかし唐突に別の考えが浮かび、谷口氏はぎょっとした。
(この部屋は誰も待っていない)
 部屋は一見主人の帰りを待っているかのような表情をしている。あたかも男の死はつかの間の中断に過ぎず、彼らはあくまで男の人生の小道具という役割を放棄しないで、重たい緞帳の裏側で劇の再開を待っているように見えた。しかしそれは表情を装った擬態だ。男の人生の残照をまとったその裏側で、あらゆるものを突き放すような凄惨な何かがこちら側を窺っている。彼らが男に置き去りにされたのではない。彼らは男の人生が与えた表情を隠れ蓑にしているだけなのだ。
(この部屋はもう誰も待っていない)
 うめくように同じ言葉を繰り返した。谷口氏にとって「部屋」というのは常に誰かの人生の一部のはずだった。とりわけ密室劇のような人生を送る彼の場合は舞台そのものだった。誰の所有でもない部屋なんてものが存在しうるのだろうか。廃墟だってきっとここよりは人間の匂いがするはずだろう。谷口氏はそんなことを考えた。
 すぐ近くでガラス戸がぴしゃっと閉まる音がした。谷口氏は再びぎょっとした。隣家だろうか。まさか誰かに見られやしなかっただろうか。不安が彼の心臓をわしづかみにした。立ち上がって周囲の様子を確認する勇気はなかった。彼は腰をかがめた姿勢のままじりじりと来た道を引き返し、駐車場で立ち上がると努めて何食わぬ顔をしてあの表通りを通って自宅に戻った。玄関に入るとき、自宅が橋田氏の部屋のような表情を見せるのではという迷信めいた感情に緊張したが、妻が掃除機を掛けている音にほっとした。妻は玄関から現れた夫を不思議そうな目で見たが、それきり気にするでもなく家事を続けた。



 彼の人生にとってきわめて珍しい数日を経た後も谷口氏は普段通り髪を切り続けた。客を一人失ったが、新規客が二人来た。一人は転勤族らしかったが、谷口氏は客が進んで話さない限り身の上を詮索するようなことはしなかった。
 夫婦ともに社交が苦手なので橋田氏がなぜ隣町のマンションから転落したのかは分からなかった。新聞報道もあの日限りだった。一週間ほど経ったある昼過ぎにトラックがマンション前に横付けしているのを見た。多分、橋田氏の遺品を運び出したのだろうと想像したが、それを確認する気はなかった。「学校を辞めると言っていた」息子が来ているのかも分からずじまいだった。
 部屋を覗いてから二三日は朝目覚めると、慣れ親しみ人生の一部となったはずの自宅が突然橋田氏の部屋のように色彩を失い、彼の人生という擬態を脱ぎ捨てようとするのではないかという妄想に捕らわれたが、それも日が経つにつれ忘れた。職場と隣接した自宅と、妻と月曜日に出かけるスーパーマーケットで構成される彼の人生は以前と変わらず緊密に結びつき安定していた。
 年が明けて冷え込みが厳しくなった頃に妻が体調を崩して寝込んだ。熱が引かず、数日後に大事を取って入院して様子を見ることになった。入院当日、谷口氏は午前中で店を閉めて古ぼけたトヨタのセダンで妻を送った。妻は黄色の寝間着にコートを羽織ってじっと目をつむっていた。
 病院は車で十分ほど離れた丘の中腹にあった。妻の病室には六台のベッドがあり、二つが埋まっていた。妻と同年代らしい女性が退屈した顔で点滴を受けながら週刊誌を読んでいた。妻の寝台は窓のそばで、町が一望できた。医師が来るまでの間、妻は半身を起こして窓の外を眺めた。
「なんだか見たこともない風景ね」
 高い熱で朦朧としているのか、彼女はそう呟いた。
「そんなことはないよ。あれが市役所で、あそこが公園だろう。あの辺りが我が家だよ」
 谷口氏はそう言って一つずつ指で示した。曇天の冬空の下に起伏のない家並みが輝きを失って広がっていた。確かに自分の住む町がこんな風に見えるとは知らなかった。家からそう遠くないのにこの界隈に来たことはほとんどなかった。
「旅行に来たみたいね」
 妻がやはり呟いた。谷口氏は何か言おうとしたが、週刊誌を読んでいた女が「寒いから窓は開けないでね」とかみつくような口調で注意したので黙ってしまった。妻も無言で寝台に横たわり、軽く目を閉じた。
「夕方から忙しくなるし、一度帰るよ」
 医師と看護婦が点滴器具を持って現れたのを頃合いに谷口氏は立ち上がった。病室を背にしてエレベーターに向かう途中で、「外山さん、窓を開けますよ」と、医師の声が聞こえた。
 自宅に戻ると、玄関から入ろうとして思いとどまり、庭に回った。橋田氏のとは異なり、狭いながらも芝生が植えられ、小さい庭石もある。彼は橋田氏の部屋を覗いたときのように、家の外から夫婦が暮らす部屋を覗いた。まるで部屋が彼の帰宅に気づくと困るかのように息を潜め、開いたままのカーテンから居間と和室の様子を窺った。短い縁側があって、左手が和室。障子が半分開いて、テーブルの木目がぼんやりと薄日に映えている。居間にはソファが窓と平行にならんでいる。アームレストにテレビのリモコンが置いたままだった。カウンターキッチンの横にホーム用品店で買った小物入れが架かっていて、公共料金や新聞購読の領収書が挿してあった。家具から壁の模様、床の木目に至るまで光を失ったモノクロの色調に支配されていた。夫婦の数十年という決して短くない時間のなかで角がすり減り柔らかくなじんでいたはずの調度の一つ一つが、主に監視されていることに気づかず、喪服のヴェールを上げるように擬態をほんの少しだけ解いて辺りを窺い始めていた。部屋全体が沈痛な思いに耐えているかのようだった。谷口氏は部屋に入ることもできずただ庭に立ちすくんでいた。

 

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