アンケート

 

 


 

 

  月の記憶                   鶴 陽子

「月の記憶」PDF版(印刷用縦書き)

 小説π」第4号(さいたま市)より転載

2002年下半期「文學界」優秀作

推薦 納富泰子さん 「胡壷・KOKO」(福岡市)


 

          

 気がついた時には、もう始まっていた。

 希んだことも選んだこともないのに、]染色体を二つ持つ生体の中心に着床し、分裂を始めたのだ。  有性生殖を選んだ生物の流れの端で。

 

 迷ったり、喜んだり、産みたくないと思ったり、選択をしたのは母親と呼ばれる人だ。頭蓋骨の中の、異様に膨らんだ脳のどこかで、母親は、理解したり困惑したりする。  自然の命じるままに生殖する習いから変化したことは、与えられた幸運な能力なのか? それとも、進化という罰なのか?

 

 

 

 

 急に降り始めた雨を避けて、雪沢志保はアプローチを突っ切り図書館へ駆け込んだ。入口で足元を見ると水を含んだ土が靴にこびりついている。五月の陽を吸って熟れた黒い土だった。大学キャンパスのほぼ中央にある図書館は最近建て直されたばかりで、志保はいつものように、大きく切ったガラスの窓の並ぶ二階の閲覧ラウンジへ向かう。テーブルを囲む小さなソファーに座って見上げると、勢いのある雨に打たれて木々の緑が広い窓いっぱいに波立っていた。志保は何をするでもなく長い間雨を見ていた。風に吹き寄せられ、飛沫をとばし、時に白い縞を描く微細な水滴のうねりを見ていた。  持ってきたテキストに形ばかり目を通し、二時半からの授業のため立ち上がってビデオブースの横を通り抜けようとした時、肩を震わせて泣いている女子学生の後ろ姿が志保の視野に飛び込んできた。左右を仕切で隔てられたボックスの画面で館内のビデオを見るコーナーの、通路から二列目にポツンと彼女は座っていた。志保は思わず彼女が見ている画面をを見た。斜め後ろからでよくはわからないが、画面には暗い枠の中に白くぬめぬめ光るカエルのような生き物が映っていた。その映像を見ながら、彼女はハンカチを目に当てて涙を抑えきれない、というふうに泣いていた。無造作に束ねられた長い髪が、ヘッドホンの間から背中に流れ、涙を拭く手の動きにつれて小さく揺れている。志保はそのまま二、三歩進んで振り返り、その人の顔を見ずにはいられなかった。ハンカチの合間に白い頬と細い鼻が見えた。きれいな人、と志保は思った。その横顔の一瞬の印象に打たれていた。  彼女が、去りがたく突っ立っている志保に気付く気配はなかった。窓の外に小降りになった雨を見ながら、志保はやっと出口への階段に向かった。

 

 

 日本文学科の書庫には、すぐ横に長机と椅子が置いてあるだけの小さな部屋がある。そこは、なんとなく学生達のたまり場のようになっていて、大学院まで様々な学年の学生が入れ替わり出入りしている。志保はその左の端の椅子に座って清水俊介を待っていた。三年先輩で大学院の二年目になる俊介が、五時に来ることになっていた。志保は今の下宿を七月末までに出るよう言われていて、新しい住まいを探していた。俊介は自分の近くの学生マンションに空きがあるのを教えてくれたのだった。 「今度編入してきた院生のとこでさ。」 「日文の院生?」 「うん、そんな近くに住んでるって知らなかったんだけど、隣の部屋が空いてて貸しに出てるって言うから。雪沢、部屋探してるって言ってただろ?」 「はあ。」と答えて、俊介の近くということに志保の気持ちは動いていた。五時に俊介が来て、そのマンションについてきてくれることになっている。彼は誰にでも親切でこだわりがないが、その接し方はサラサラと乾いた砂のように淡白で、志保には楽に感じられた。安心して話せる数少ない他人だった。  五時を少し過ぎて、俊介が顔を見せた。地下鉄で三つ目の駅から五分くらい歩くと、まだ新しい外壁の四階建てのマンションがあった。白っぽい外壁が飾り気無く区切られ、窓には様々なカーテンがかけられている。  外で待っているという俊介を残し、管理人に来意を告げると、意外にもすぐに空き部屋を見せてくれた。志保はその日、話を通す不動産屋を聞き出せれば充分だと思っていた。だが空き室を見て、志保はすぐにこの部屋に住むことに決めた。トイレとバスが小さいがそれぞれ別に仕切ってあり、二階の角で窓が大きく二つあるのが、志保の希望にかなっていた。志保の予算では、諦めていた条件が二つとも満たされていたのだった。思っていたのより少し高いことも、管理人の、ちょっと上下とか隣の音が聞こえて気になる人もいるみたいだけど、と言う言葉も気にならなかった。どうしてもこの部屋に住みたいと思った。管理人に貸し主の連絡先を教えられ、一応手順を踏むように紹介された不動産屋の前まで俊介は付き添ってきた。彼は不動産屋に行くまでにコンビニや、郵便局がある場所を教えてくれたりした。彼は、話が急展開に進んだことに驚く様子もなく、長身の体を少し左右に揺らすように歩いていた。 「俺んとこはこの先二つ信号渡った向こうだけど、今日はこれで帰るわ。ここからなら駅わかるよな。引っ越しの時は手伝うよ。」  俊介はそう言って不動産屋の前から帰っていった。志保は礼を一言いうのがやっとで、さっさと遠ざかっていく俊介の背中を見送った。書庫で同学年の友人に相談していたのを俊介が耳に留めていてくれたことが、今更ながら現実離れした幸運に思われた。志保は握っていたメモを確認し、パソコンの並ぶ不動産屋に入っていった。

 

 

 志保はぼんやりと引っ越しの手順を思い描いている。上京の際父親が絶対の条件にした今のアパートが解体される事になり、新しいマンションを決めたこと、家賃などを知らせたとき、父が思いの外すんなりと了解したのが不気味なひっかかりになっていた。今の下宿は父の知人のアパートで、女子の学生ばかり八人、風呂が共通という古い造りで大学からも遠い。しかし、この条件を呑めば上京できる、という思いで二年前の志保の心は飽和していて、部屋のことなど気にならなかった。志保が東京の大学を勝手に受けて決めるまで父親との間に流れた長い長い消耗の時間は、父親をも等分に疲れさせていたものか。今度の気抜けするほどの反応は、かつてのどこまでも家族を支配しようとする父の習わしからは遠く隔たったものだった。あの反抗と諍いと無軌道な圧力とがせめぎあった時間の末に、二年間の空白を経て父は自分のことを諦めたのかもしれない、と志保は思った。父は母を諦めたように、娘の存在にも無関心になったのだろうか。志保の脳裏を弟の横顔が飛行船のようによぎっていった。東京へ発つ朝、玄関で靴箱の上の人形に手を触れて黙って見送ってくれた弟の眼差し。家に残って一人父の関心に晒される弟を思い出して、志保は痛みを感じた。  部屋の片付けを考え始めると、様々な持ち物に母親の記憶が顕ち現れた。色鮮やかな和紙が貼られた整理箱はダンボールを利用して母が作ったものだ。刺繍のある小物入れ、クッション、マフラー、どれも志保が十六才になったばかりの秋に母が突然失跡するまで、母から娘へと注がれた愛情の痕跡だ。母の愛情――くぐもった優しい声でかけられたたくさんの言葉、髪を梳かしてくれた手のぬくもり、なだらかな身動きの記憶……。志保は蝶の縫い取りのあるクッションを両手で抱きしめて固く唇を噛みしめた。ポタッポタッと音を立てて、涙が布の表面に落ちていく。こんな、自分から悲しみを引き寄せるようなやり方で母のことを思い出すのはやめようと、何度も繰り返し言い聞かせてきたのに。そう思って、志保はいっそう強く唇を噛んだ。砂糖水のような感傷にすがって母が自分たち家族を捨てていったという事実をごまかすことは出来ない、そう考えることが、母の思い出にどこまでも情緒的に付き従っていきたくなる自分をくい止める唯一の方法に思われた。固く目をつぶってじっとしていると、潮のようにさしてきた母への思いは静かに去っていった。こうして襲ってくる記憶と感情の波をやりすごすのも、何度となく繰り返して、もう慣れてしまっている。志保は流しに立って顔を洗い、インスタントコーヒーを入れた。三日後にレポートの締め切りが迫っている。資料のコピーは整理済みだが、まだ一行も書いていない。ワープロ不可の授業なので、清書の時間も見なければならなかった。志保はミルクを注いだコーヒーカップの湯気に、スプーンを使う母の手がゆらゆらと揺れるのを見た。だが、それはもう、心を乱してはこなかった。  二、三日して新しい家主から連絡が入り、直接顔合わせしたいと打診があった。夕方の時間を指定され、志保はマンションへ向かったが、地下鉄の階段を下りかけると後ろから俊介が追ってきた。 「バイト前にいったん部屋帰ろうと思ってさ。こっち方面に用?」 「そう、例のマンションで家主さんに会うんです。不動産屋通して話がまとまったんで。」 「そうか、じゃ同じ方向になるね。」  俊介は表情のない声でいって、型どおりの笑顔を向けた。走って追いついてきたわりに、地下鉄の中の俊介は何を話すでもなく肩掛けカバンから取り出したコピー原稿に目を通していた。 「ゼミの発表近いの?」 「え?ああ、来月なんだけどね。何遍やっても嫌だね。発表は。」  志保に向けられた俊介の目がすぐ上にあった。一重の目は近くで見ると、白目が青く光って見えた。  駅を出て少し歩くと志保はもう記憶が怪しく、道の見当がつかないまま俊介と並んで歩いた。俊介は前の時のようにあれこれ説明することもなくすたすた大股で歩いていたが、少し行くと信号の方を指さして、 「あ、あれ、雪沢が行くマンションの青木だ。彼女が空室情報教えてくれたんだ。」と言った。  細身で髪の長い後ろ姿がゆっくりと歩道を渡っていく。 「清水さんの後輩の?書庫で会ってるかな、私。」 「いや、あいつほとんど書庫来てないから。この春編入してきてまだあの辺なじめないんじゃないか。」 「今度のマンションでお隣になる人ですよね。」 「そういうことだよな。」  俊介はあっさり言ったが、目はずっと彼女を追っていた。彼女は横断歩道をひどくゆっくり渡っていた。信号が点滅しても急ぐふうもなくゆっくりと渡っていく。渡りきって二、三歩行くと彼女はちょっと立ち止まった。俊介と志保が、あっ、と声をあげたのは同時だった。歩き出そうとした彼女がぐらりとよろけたのだった。彼女は立ち止まって側の立木にもたれ、こめかみのあたりに手を当てていたが、またゆっくり歩き出した。 「あいつどうしたんだろ。」 「よろけてましたよね。」  二人はどちらともなく言って、彼女をつけるような形になる。何度かゆらゆらしながら歩いていく彼女を追って、みるみる間隔がつまっていき、もう声をかければ届きそうになった時、彼女はマンションの入口を入ったところでふっと畳まれるようにしゃがみ込んでしまった。 「青木、大丈夫か?」  俊介はためらわず駆け寄ったが、横に突っ立ったまま声をかけた。額に手を当てて座りこんでいる人の横にまわって顔を見たとき、志保はそれが図書館で泣いていた人だと一瞬でわかった。 「青木さん、気分が悪いんですか?」  そう言う志保の方にゆっくり向けられた目は、半ば閉じられて力がなかったが、 「大丈夫、よくあるの、こういうこと。ちょっとじっとしてれば大丈夫。」と、答える声は、低く響いて張りがあった。そのままバッグを持ちなおして立ち上がり、歩きかけて彼女は志保の方に大きくよろけた。 「青木さん、つかまってください。」  志保は両手で背中を支えるようにして一緒に階段を上がった。俊介も付いてくる。二階の廊下の先の、青木瑞子とマジック書きのプレートのある部屋に着いて、志保は鍵を開ける瑞子の緩慢な手元を見ていたが、瑞子は急にもどかしげにドアを開けて部屋にとびこんで行った。片手で口を覆って洗面所に駆け込む瑞子を俊介は迷わず追っていった。志保は靴を脱ぐことも出来ず入口に立ったままだったが、すぐにドスンと音がして俊介が洗面所から姿を現した。後ろ手についた両手で体を支えている俊介は、どうも尻餅をついたらしかった。俊介はきまり恵そうに立ち上がると、苦笑いをしながら志保の方に歩いてきた。苦しそうに坤く声が水音の中に何度か繰り返され、ふらふらと瑞子が口もとにタオルをあてがって現れた。 「ごめんなさいね。御迷惑かけて。もう大丈夫ですから、ほんとにすみません。」  瑞子は血の気のない顔で詫びを言った。 「清水君、ごめんね。吐くとこ見られたくなかったもんだから。」  瑞子は小さい炎のような微笑を浮かべて俊介を見た。 「いいよ。本当に平気なのか? ああ、この人雪沢。君が教えてくれて隣りに越してくるんだ。」 「そうなの。」と、瑞子はもう一度微笑した。  部屋を出て志保は俊介に訊かずにいられなかった。 「さっきどうしたんですか?」 「うん。突きとばされたんだ。片手だけどすごい力だった。」  俊介はいつものように淡々と言って笑った。

 

 

 志保が大学から帰ってくると、珍しく高石冬美の部屋に灯りがついていた。冬美は他大学の薬学部にいて、志保より早く帰っていることは稀だった。彼女もこのアパートを出て行かねばならないが、次の部屋を探すでもなく、埼玉の実家に帰るつもりでいるらしい。志保が上京してこのアパートに住み始めてすぐ、下の階に越してきたのが冬美だった。京都の実家から逃げるように上京してきた志保は、東京のことは何も知らなかったが、冬美はすぐに声をかけてくれていろいろなことを教えてくれた。その年このアパートに入居した学生は二人だけだったから、二人並んで風呂の当番の説明を受けた。その時の志保は、いかにも地方出身のぼんやりした感じに見えたらしい。冬美はよく、「志保はほんとにのんびりしてたよね。最初から。」とおかしそうに言う。志保は冬美のことをずいぶん大人に感じた。  ドアをノックしながら声をかけると、 「入って。」と返事があった。  引っ越し用のダンボールが既にいくつか積んであるが、生活のスペースはきちんと分けて確保されて整然としている。片付けるつもりがどんどん散らかす結果になっている志保と違って、それはいかにも冬美らしかった。 「やっぱり実家から通うことにするわ。朝ちょっとつらいけど、家の方が楽なこともあるしね。」  冬美は、冷蔵庫からオレンジジュースを出しながら言った。 「実験とかで遅くなるとさ、もうくたびれちゃって自炊する気にならないもん。家だとさ、母親か父親かが作ったもんがなんかあるじゃない。」 「そうね。お宅はお父さんも料理するって言ってたよね。」 「そ、共働きだからね。お姉ちゃんもいるしさ。母親が仕事で遅いときは、誰か作ってるからね。」  冬美の家の話を聞くたびに志保は、その活気に満ちた様子にとまどってしまう。古めかしい家族論を振り回す父や、その父にただただ忍従していた病弱な母の姿が浮かび、苦い思いに襲われるのだ。 「冬美のとこは家族うまくいってる感じだもんね。家帰るの面倒でヤダとか思わないでしょ。」  ため息混じりに言う志保の顔を冬美はちらっと見た。志保は自分の家のことを大体冬美には話していた。あまり話す方ではない志保が、冬美には気負うことなくうち明け話をしていた。父と母のいびつで緊張した関係をずっと重荷に感じていたこと。母の度重なる病、そして母が突然いなくなったことも。話を聞く前と後で少しも態度に変わりのないのが冬美の思いやりの質だとわかって、志保はほっとしたのだ。特に気を通うふうでも、慰めるふうでもなかった。それは、その内容がかさばってきてからも変わらなかった。  冬美の部屋の小さな本棚はまだ手がつけられず、見慣れた背表紙が並んでいる。 「冬美の部屋で本見せてもらうのも、もうこれが最後かな。」 「そうねえ。でも、私には会えますよ、いつでもね。」 「脳の話、まだ途中だったのにね。まだ、よく解ってないよね、私。」  冬美は、脳を支配する脳内物質や脳の仕組みに関心があって、自分が読んだ本を志保に勧めたり、仕入れた知識を志保に伝えたりして感想を聞きたがった。志保の反応は独特で面白いというのだった。脳の中で情報が伝達される仕組みがわかれば、抑鬱的な性格の偏りなども薬で治すことができるようになると冬美は言って、薬が脳の中に引き起こす現象を詳しく説明したがった。志保は、薬物、化学物質で脳をコントロールするという発想自体についていけず、必ずしもよい聞き手ではなかったが、冬美はかまわず話したがる。 「志保ってほんと、不思議な人だよね。あんたみたいに浮世離れした人、私の周りには全然いないからさ。」と、冬美は何度か言った。それは、志保が日本の古典文学を専攻している事への冬美の違和感を示す言葉だったが、同時に志保を貴重な友人と感じている表明なのだと納得させる親密な気配を持っていた。 「冬美はどうしてそんなに脳のこと勉強するの?脳の仕組みが解明できたら人の感情とか性格とかコントロールできるって思うの?」  志保は、一度訊いてみたいと思っていたことを口にした。 「そうだなあ。セロトニンを調節する薬で鬱病が改善されたり、そういうことはあるだろうけど。私はただ知りたいだけだよ。今、脳を知ることで何が分かるのか。」 「そう。」 「あのさ、もし魂とか心とかがじぶんの身体と別に存在するんじゃなくて、神様とかも人間の外に存在してるんじゃなくて、みんな、人間自身が脳の中に立ち上げたイメージで、電気信号の織物みたいなものだとしたら、それをヒトが理解して受け入れたらさ、少なくとも人間は、もうちょっと謙虚になるんじゃない?」 「謙虚?」 「そう。人間だけが霊的知的で特別な存在だって言う思い上がりは、もう、いいんじゃないの。所詮、生き物のはしくれなんだから。」 「人の心は無いっていうこと?」 「じゃなくて、心の領域だって意識される機能も全部、タンパク質とか酵素とか電気信号とか化学反応とか、よくわかんないけど動物の細胞レベルのやりとりで支えられてるって思うこと。とても明噺ですっきりするでしょう。そこで起こってることは神秘的なくらい複雑だけどね。あるレベルまでは、化学で実証できるし。」 「神も、心も人の頭の中で作り上げてるだけってこと? 脳を調べればそれが分かるの?」 「そういう日も来ると思うけど。」 「そうかな。そんなにすっきりいくのかな。仮にそれが実証できても、人の生き方が変わるようには思えないけど。」 「ま、そうかもしれないけどね。」 「明噺だってことは、気持ちがいいけど、危ないんじゃない? 気持ちがいいことは怖いよ。なにか罠を感じる。私には、恐ろしいことのような気がする。」 「恐ろしいか……なるほどね。」  冬美は低い声で言って小さく頷いた。 「でもね、私は脳の研究で明らかになってくることで人が揺さぶられている今が面白い。混乱したり、修正したり、揺り戻しが来たり。でも、確かに、それで人の世界観が変わるなんて、あんまり期待できないのかもね。結局、見たいもんしか見ないのかも。ああー、なんかわかんない、もういいわ。」  冬美は両手を耳の後ろに当てて、軽く頭を振った。 「志保と離れるのは痛手だよ。この引っ越し、他にはそんなにデメリットないんだけどさ。あ、そうだ。志保、ケータイ買いなよ。」  冬美は、引っ越してしまうともう今までのように何気なくお互いの部屋で過ごすことが出来なくなることに、こうして話していて初めて気付いたというように、今後連絡を取るための方法を矢継ぎ早に提案した。志保は、冬美のよく動く口元を、明るんだ気持ちで見つめていた。冬美の急に溢れ出たような自分への執着が嬉しかった。 「お母さんは、冬美が帰ってきたら嬉しいよね。」 「え? わかんない。とにかく元気な人だからね。どっちでもいいと思ってんじゃないの?あんまり手伝いは期待されてないみたいだからね、私。」  湿度の低い暖色の風が吹き通るような冬美の家を思って、志保は少しぼんやりする。  志保は母親だけが好きだった。家族を自分の思い通りに動かそうとする父が嫌だった。父のいつも怒鳴っているような声を聞くたびに、なぜこの人はこんなに不必要な大声で、命令形で話すのだろう、特に母に対しては威嚇するようにしかものが言えないのだろう、と思っていた。母は、何か抗って言いかけた言葉を最後まで言い終わることはなかった。それはいつも途中で、数倍の音量と言葉数の父の声に押しつぶされた。  弟を産んだときの妊娠中毒の後遺症で腎臓に無理がきかない母は、そのことを自分の犯した罪のように、歯がゆくも申し訳なくも思っているようだった。病気の前からずっとそうなのか、病気が父と母の関係を変えたのかはよく分からない。だが、志保は父を粗野で荒々しい征服者のように思うことがあった。そして母は、略奪されてきた他民族の女のようだった。自分の日常に父が細かく口を出すようになると、志保は自分も、異文化の他者に支配されるのだと感じた。なぜ、私はこの男の娘でなければならないのだろう、と志保は繰り返し思った。老舗の漬け物会社を経営し家族を守っている父にとって、娘のこのような疑問は不可解なものだっただろう。しかし、志保は、自分は捕らえられているのだという思いから長いこと逃れられなかった。蒼白い頬で冷ややかに「わかりました」と答える母の声が、低く響いて、志保の内側を浸していた。  苦しい記憶に襲われて志保は強く揺すぶられた気がした。 「ね、やっぱり携帯あったほうがいいよ。」  冬美は熱心さを増した口調で、何度も志保にそう勧めている。

 

 

 

 大学は休みに入った。引っ越しの日、曇り空を危ぶんだが、雨に遭わず荷物を運び入れて、ほっと一息つくと激しい夕立が落ちてきた。 「トラックが帰ってからでよかったな。荷物運んでる最中じゃ大変だった。」  手伝いに待機していてくれた俊介が、窓の外の雨を見ながら言った。タンスや食器棚などの大きな家具を運んだり、本棚を組み立てたり、俊介はあまり口もきかず手早く仕事をしていった。志保は前夜遅くまで荷造りにかかっていたので、頭の奥がづきづき痛んだが、マンションの前に立っている俊介を見たときに感じた安心感が、ずっと体中に揺れ広がっていくのを感じていた。  二時間もした頃、隣の青木瑞子が顔を出した。 「あ、もうだいぶ片づいたのね。私今帰ってきたの。これ、差し入れ。」と、瑞子はコーラの缶を二つ差し出した。  瑞子の顔色は相変わらず良くなかったが、前の時よりはずっとしっかりしてみえた。 「こないだはごめんなさいね。」  そう言って笑うと、ずっと幼い顔になった。あの、瑞子を部屋まで送った日からそれとなく気にかけていたが、大学でも、図書館でも一度も彼女を見かけることはなかった。あらためて正面から見ると、白い肌が際だつくっきりした顔立ちだった。俊介はコーラをゆっくり飲み干すと、 「じゃ、俺バイトだからもういくわ。」と立ち上がった。 志保があわてて、 「すいません。引っ越しの手伝いまでしてもらって。」とあとを追うと、 「いいよ、近くなんだから。」  そう言って、俊介は空になったコーラの缶を志保に手渡した。 「あと、何かあったら青木にきいてさ。青木、コーラごっそさん。」  俊介は二人に声をかけると大股に部屋を出ていった。 「相変わらず面倒見がいいわね、彼。」 「ええ……」 「高校が一緒だったのよ。同じクラスになったことはないけどね。一浪して大学院に来たら、清水君がいるんで驚いた。でも、全然変わってないわね。ずっとあんな感じだった。」 「あんな感じ?」 「何かね、いっつも誰かの面倒見てた。ブラスバンド部ですごく部員が多かったんだけど、彼がまとめてる感じだったな。私の友達も部員で、いつもトラブルと彼に相談してた。下級生にも優しかったみたいよ、男子にも女子にも。」 「そうですか。」 「気になる?」と瑞子は言って、返事をきく気もないように部屋を見回すと、 「ああ、ここは窓が二つあるのね。」と言った。  窓の外には、小降りになった雨を通して、暮れかけた街が見えた。 「夕飯、大丈夫?」 「はい、今日はコンビニで何か買いますから。」 「そう、じゃ、またね。」  瑞子はあっさり立って、空き缶を持って部屋を出ていった。まだなじめない部屋の中に、俊介と瑞子の身動きや言葉の名残が場所を占めて、打ちやられた衣類のようだった。志保は、あわただしく過ぎた数時間を思って、大きくため息をつき、とりあえず布団袋を開けた。

 

 

 引っ越して半月ほどたった夜、もうだいぶ遅い時間に、志保はトイレで大きなもの音を聞いた。どすんと壁に何かがぶつかるような感じで、その後微かに人がせき込むような音が聞こえた。気味悪く思ってしばらくじっと耳を澄ませたが、もう一度どしんと音がして、志保は今度はそれが人の体だと直感した。隣の部屋とはトイレどおしが接する造りのはずだと気づくと、志保は、瑞子の身に何かが起きたのだという推測から逃れられなくなった。志保はすぐに部屋を出て、瑞子の部屋のチャイムを押した。こんな夜遅く、間違いだったらというためらいはほとんどなかった。後先を考える間もなく何度か押し続けると、瑞子がドア越しに、だれ?という声がきこえた。 「雪沢です。青木さん、何かあったんじゃないですか?」 少し間をおいてからドアが開いて、憔悴した様子の瑞子が出て来た。 「……ちょっと体の具合が憩いの。」 「大丈夫ですか?」と、問う間もなく、瑞子は手を腹部に当てたまま二つ折りになって、玄関にしゃがみ込んだ。 「青木さん」と叫んで志保は瑞子に肩を貸し、部屋の中へ担ぎ込んだ。 「どうしたんですか。さっき倒れるような音がしたから……。お腹が痛むんですか?救急車呼びますか?」  ほとんど自分を落ち着かせるために、志保は次々と言葉をかけた。瑞子は部屋の床にうずくまって、首だけを何度も横に振った。 「大丈夫、こうしてじっとしてるしかないの。いつものことだから、仕方ないのよ。」  顔も首も汗で光っていて、時々食いしばった歯の間から坤く様な声が漏れた。志保は、少女の頃薄氷の上を歩くような母の病状が時に悪い方へ傾き、その発熱する体を支えて病院へ運んだ日のことを思い出していた。不安で胸がつぶれそうになり、何度繰り返しても、母を失うかもしれないという怖れを飼い馴らすことは出来なかった。あのときと同じ切羽詰まった思いが、久々に志保を押し流していた。 「本当に大丈夫だから、部屋に戻って。明日になったら少しましになると思うから。」  弱々しい声で瑞子は言ったが、志保は答えず、瑞子の腰をやみくもにさすった。 「青木さん、痛むんだったらとりあえず痛み止めは?こんなに苦しいんじゃ消耗しますよ。」  瑞子は黙って、肩で息をしていた。そしてまた呻いたかと思うと、ふらふらと立ち上がって洗面所へ行き激しく吐いた。めいっぱい開いた水道から水音がこぼれ、右手を洗面台に引っかけたまま、瑞子は、またしゃがみ込んだ。志保は水を止めて瑞子を壁にもたせかけると、タオルに水を含ませて瑞子の顔と喉をふいた。もう抵抗するのも煩わしいというように瑞子は目を閉じて、白い顔をぐらぐらとなすがままにさせていた。汗に濡れた生え際の髪が生き物のように艶めかしかった。胸のボタンを二つはずすと白い肌に静脈が透けて見え、タオルで拭くと薄赤くなった。  少し痛みが遠のいたのか、瑞子はうすく目をあいて、志保の顔を見ていたが、 「あのね、あいつのせいなのよ。」と、洗面所から這うように出て窓の方を指さした。瑞子の指さす方には、机と、夜の空を区切る窓があるばかりだ。 「あれ、あいつ。あいつのせいで私は毎月こんな目に遭うの。」  瑞子のまなざしの先を追うと、夜更けて上がった円形に近い月があった。 「おどかしてごめんなさい。要するにひどい生理痛なの。始まる五日前くらいから信じられないくらい強い症状が出るの。初めからなのよ。ひどいでしょう。痛み止めも全然効かないの。どの種類もダメなのよ。かえってひどく吐いちゃうの。こうしてしのぐしかないの。原始的な体よね。」  瑞子は、悲しみの表情に近い笑いを浮かべた。 「命にかかわるようなんじゃないの。もう、帰って寝てちょうだい。」  そう言われて、志保は、納得のいかないながら引き上げる他はなくなった。 「何かあったら呼んでください。」と言った時、志保に正常な羞恥を含んだ感覚が戻ってきていた。

 

 それから二日目の夕方、瑞子がひっそり顔を出した。顔色は悪いが、立っている様子に危なげはなかった。 「ごめんね、おとといはありがとう。お寿司買ってきたけど食べない?」と誘われて、志保は瑞子の部屋で夕食を食べた。  瑞子の部屋はクーラーがきいていて、熱い緑茶がおいしかった。志保は初めて、しみじみと瑞子の暮らす空間を見回した。大きめの本棚は本でいっぱいで、テレビもコンポも新しい。丸い小さな座卓を挟んで、カーペットの床にじかに座って向き合うと、古くからの知り合いのような柔らかな気分が漂った。 「毎月あんなにつらいんですか?」  志保は迷ったが、やはり訊かずにはいられなかった。 「うん……亡くなった母が心配してね、高校になってすぐ、母の友達のお医者に連れて行かれたんだけど、異常がある訳じゃないみたい。ちょっとだけ右に曲がってるらしいけどね、子宮が……その時は、思春期でバランスが悪いんだろうって、結局ね。いろいろ試したけどダメなのよ。あんなにひどくない時もあるんだけど。」  瑞子はあまり食べずに話して、志保に食べるようしきりに勧める。志保は所在なくて、常に口をいっぱいにしていた。 「雪沢さん、あなた家族に病人がいる?」  瑞子は、じっとうかがうように見ながら突然訊いた。 「え?」 「うん、ちょっとそんな気がしたの、何となくね。」  瑞子はすぐ視線を逸らして窓の方を向いた。その横顔の鼻梁が、清潔にとがっていた。 「病人、いましたよ。母がずっと弱かったんです。私が小さい頃からずうっと。」 「そう。」 「それで、その上卵巣の病気になって……手術はなんとかできたんですけど、あと三日で退院っていう日に……」  志保は、自分の意志に反して、声が震えるのを感じていた。瑞子がこちらを見て何か言おうとするのを遮って、志保は話した。ずっと、瑞子に聞いて欲しかったのだという気がしていた。 「突然、病院からいなくなったんです。何も持たずに、探さないでくれって書き置きして……父にだけ。私や弟には一言もなくて……今は生きてるのかどうかもわかりません。あんな体だったし……」  志保は冷めかけた茶を飲んで、放心したように黙った。 「そう……あなたが顔を拭いてくれたとき、とてもいい気持ちだった。手際がいいなあと思ったの。」  瑞子のくぐもった声が志保の奥の揺れやすいところに触れ、志保は、わっと泣き出した。取り繕おうと言う気持ちはどこかへ行ってしまっていた。ひとしきり泣き続ける志保の側で、瑞子はじっと黙っていた。 「あのね、志保さん、あなた減胎手術って知ってる?」  やっと涙がおさまった志保の頃合いを計るように、瑞子は静かに尋ねる。 「私の母はね、父の至上命令でとにかく跡継ぎがいるからって、長いこと不妊治療をしてたの。それでやっと妊娠したんだけど、四つ子だったのそれが。排卵誘発剤による多胎児だったわけね。でも、四人じゃ母体の危険が大きすぎるって、父が手を回してね。知り合いの産婦人科医に頼んで減胎手術をしたの。つまり四つの受精卵のうち二つをね、注射で殺すのよ。十週くらいの胎児の心臓に塩化カリウムを注射するんだって。これは、後で新聞の記事で読んだんだけどね。たぶん同じ方法でやったんだと思う。でも、結局、残した二人のうち一人は死産でね。私だけ未熟児でも何とか生きながらえたの。ひどいような、悲しいような話でしょ。どうして残ったのが私だったんだろうって、あとの三人はどこへ行ったんだろうって、そのことを知らされてから、ずうっと毎日そう思ってる。」  瑞子はかすかに微笑した。志保は、瑞子の出生にまつわる話をすぐには理解できなかった。だが、透明な薄い膜が瑞子と自分を包んで、小さなもろい細胞のように揺らぐのを感じた。 「今だって公式には認められてないのよ。減胎手術なんて、そのころは極秘だもの。母はショックでノイローゼ状態だったらしいの。きっとだれにも知られたくなかったと思う。つらい不妊治療の果てに授かった命なのに、一人しか残せなかったんだから。なのに、父が全部私に話しちゃったのよ。そんなにまでして産んでもらったんだから、青木家を継ぐことに自覚を持てって。」  瑞子は小さくため息をついた。 「中学に入って、私は政治家の父が嫌でしょうがなかった。窮屈でたまらなかったの。母への無神経さにも腹が立ったしね。だから、父の望むことは絶対にしないって宣言して刃向かってた。父は父で当てが外れて焦ってたのね。」 瑞子は立っていって、冷蔵庫からアイスコーヒーのパックを出した。 「だけど、すごい神経だと思わない?瑞子って、母の入院中に父がつけた名前なんだけど、漢字がいい字だからとかいって。でも、この状況でミズコはないんじゃない?母の耳にどう響くかなんて、考えてもみなかったのね。父が私を呼ぶたびに、減胎した子と死んだ子の事呼んでるみたいな気がしたでしょうに。」  瑞子は、話しながらコーヒーをグラスに注ぎ、志保の前に置いた。志保は、瑞子の話の容量を確かめるように、言葉を返さずに考えていた。すると、初めて瑞子を見た時の行き過ぎがたく感じた心の状態が、そのまま戻ってくるようだった。 「青木さん、ビデオ見ながら泣いてたの、私、見たことがあるんです。」  志保は唐突に言った。 「え?」 「大学図書館のビデオブースで、青木さん、泣いてました。だいぶ前だけど。ここに引っ越すことになって青木さんに会った時、私すぐにわかりました。」 「ええ?そうなの。やだな。そんなとこで会ってたの?……私時々ああやってるからね。」  瑞子は言葉つきはど驚いた様子もなく、自分の爪を見ていたが、思い立ったようにテレビの方に立っていって、手書きのタイトルの貼られたビデオを一本持ってきた。 「これと同じもの見てたの。図書館にあるのみつけてね。この部屋はデッキがないから……。見たくなったら大学で見てたの。」  ビデオの背には、「生命、四〇億年はるかな旅」とあった。テレビの科学特集のシリーズのようだった。 「私の母は、二年前に亡くなったの。ひどい頭痛持ちで季節の変わり目にはよく寝込んでたけど、とりあえず大病とは縁がなかったのにわかったときは肺癌だったの。一年半で亡くなったけど、良くもった方だと思う。その母と最後に見た番組なのよ。これ。」  瑞子は、淡々と言って、自分の中に籠もっていくように見えた。志保は瑞子を知りたいと思う心の流れが、だんだんとどめ難いものになるのを感じた。瑞子に近づいていく想いの道づたいに、どこまでも行きたいと思っていた。 「青木さん、もう体は大丈夫なんですか?」 「なんとかね。出血が始まって二日目になれば痛みはずっと楽になるから。」  瑞子はゆっくり目を閉じて、静かに答えた。暗い声だった。 「私もつらいときはあるけど、青木さんみたいな人がいるなんて、想像できなかった。」 「月のうち何日も支配されるのよ。悔しくてたまらないわね。」  瑞子は目を閉じたまま言った。 「あいつに繰り返し侵攻されるのよ。刃向かいようもなく侵されるの。月のうち何日も出血させられるだけでも受け入れ難いのに、何日も前から支配される。足に全然力が入らなくて、頭の中が白くなる。食べ物の味がわからなくなって、ああまた来ると思うと痛み。すごい痛み。立っても寝てもいられないような痛み……私あいつに罰を受けてるのかな、と思うことがあるわ。」  志保は、瑞子があいつと呼んだ、円形に近い月を思い出していた。闇に浮かぶ白い月に繰り返し向けられる瑞子の憎悪を思うことはつらかった。 「母の生殖器は、人の手で命が発生させられて、すぐに殺戮された現場なの。血生臭い。やりきれない……ほんとうに、たまらない……。」  呪いの言葉を唱えるような低い声で言って、瑞子は、はっと目を見開いた。その目は、志保をみとめると明らかに後悔の気配を浮かべた。 「ごめんね。暗い話になって。おとといはほんとにありがとう。ああいうとき、誰かにいてもらって良かったと思ったの初めてよ。」  瑞子は、まぶしそうな目で笑った。志保の中を、暖かい喜びの帯が、ゆるゆると降りていくようだった。

 

 

 

 真夏の街路は大変な照り返しで、汗も乾いてしまいそうだ。志保は冬美の買い物に付き合って、炎天下の舗道を歩いている。冬美はオレンジ色のノースリーブから海で焼いた腕をむき出しにして、大股に歩いていく。もう、夏物の最終バーゲンが始まっているので、冬美は気が急くらしかった。あちこち歩きまわって冬美は大きな紙袋に二ついっぱいの買い物をし、志保もペールブルーのブラウスや、ハイネックのTシャツを二枚買った。冬美はさっさと自分の物を選ぶと、「もう、いい?」と店を出るとき確認するくらいで、志保の買った物に特に関心を示さない。  そんなところが楽で、志保は冬美とだけは一緒に買い物をした。二時近くになって二人はやっと昼食をとった。冬美が先輩に聞いてきたという店でパスタを食べた。冬美は、通学時間がかかるようになって一日に使える時間がずっと少なくなった気がすると言い、志保のマンションの様子を聞くと、今度いっぺん泊めてね、と言った。 「そりゃきっと心因性だね。鎮痛剤なんかで麻痺させられるのと別のとこから痛みが来てるって事でしょう。それは。」  冬美は自明のことだというように言った。瑞子の激しい痛みと、鎮痛剤の効かない様子だけを、志保は冬美に話した。 「呻くぐらい痛むって、なんかそれ普通じゃないでしょう。」 「うん。何か打つ手ないのかしらね。」 「脳の研究でも痛みのメカニズムってよくわからないみたいよ。幻肢痛ってあるでしょ。足とか腕とか切断したあとに、その手足があるように感じたり、それがすごく痛んだりするっていうの。」 「うん、聞いたことがある。戦争の後とかの話。」 「その研究をしていくと、痛みの中枢っていうのが、視覚とか触覚とか、痛みに関して蓄積された情報っていうか、記憶っていうか、そういうものとお互いに影響し合ってるものだっていうのがわかるんだって。」 「痛みの記憶……」 「そ、これ以上つっこまないでね。あんまりわかんないから。」と冬美は笑った。 「案外、心理療法なんかが効くんじゃないの? 学校行きたくない子が朝お腹痛くなったりするじゃない。生理のことで、こう……自分にも説明できないこだわりがあるとか……何か聞いてないの?」  そう訊かれて志保は、少し間をおいて、 「何も聞いてない。」と答えた。  ほんの少しの情報で冬美が言い当てたことは、思いの外的を射ているような気がした。 「冬美に話すと、話がすっきりしてきた。」 「え? そう? ふふ。ほめてもらったと思っとく。でも、そんな人隣りにいるんじゃ、気、遣うね。」と言って、冬美はナフキンで口を拭った。 「ね、もう一つ先輩に聞いてきたとこあるんだ。シャーベット食べに行こう。」  大きな袋を下げた冬美について、志保はまた、衰えない陽ざしの舗道を歩き出した。  夏休みも残り少なくなり、図書館が開くのを待って、志保は貸し出しビデオのコーナーで、瑞子の見ていたビデオを探した。映画やアニメの奥にテレビシリーズのコーナーがあって、「生命」のビデオは、案外すぐに見つかった。ただシリーズは五本もあって、それぞれ二回ずつの放送分が収録されていた。瑞子が見ていたのがそのうちのどの回なのかわからず、志保は仕方なく前半の二本を持ってビデオブースに向かった。前に瑞子を見かけた時同様、利用者は少なく、志保は奥の方の席を取ってビデオを再生させた。第一集は「海からの創世」とあって、まだ二酸化炭素やガスが充満していた火の玉のような地球の映像が現れた。志保は一瞬の記憶を頼りに、瑞子が見ていた場面を探そうとして、所々早送りをしてみていたが、海にとけ込んだたくさんの物質から生命が発生する過程を追う試みは面白く、思わず内容に見入ってしまった。  一集は、地球に海が出来、二十億年かかって酸素を利用して生きる細胞が作られるまで、二集目は五億三千年前の海で起きた、海中生物の爆発的な多様化を扱っていた。その中から背骨の原型を持ったピカイアが生き残るところまで、進化の必然と偶然をかいくぐった生物のデザインが、化石の発掘と共にたどられている。  志保はもう、ほとんど早送りすることもなく、興味を持ってこの集を見終えたが、瑞子が見ていたらしい場面はなかった。もう既に一時間半近くが過ぎている。だが、志保は番組の先が見たくなってしまっていた。見つからなければ何日か来て、一通り見てしまいたい気さえした。とりあえず二本目をセットすると、いきなり暗い夜の海が現れた。闇の中に微かに陸地が見分けられ、天空にはほの白い大きい月がかかっている。そこに、ぬめぬめと光るものが蠢いている。大写しになったその生物は、光の加減で白っぽくも緑がかっても見えたが、志保は、それが瑞子の見ていたものだと気づいた。あっけなくみつかったという気がした。  その映像に続いて、第三集「魚たちの上陸作戦」とタイトルが現れた。それは、三億六千万年前、一億年という魚の進化の過程を経てついに陸に上がった初めての生物、イクチオステガのCG映像だった。新しい未知の環境、生存の場を求め、魚たちは進化した。まず、地球に川が出現し、その中で生き残っていけるよう背骨が出来た。そして、地上の重力から内臓を守るため肋骨が発達し、上陸への条件が整えられた。三集も終わり近くなって、冒頭にあったイクチオステガの姿が映った。化石から復元したイクチオステガは、大サンショウ魚のような、一メートル以上もある生き物である。象のような足に、切れ込みの浅い指、ワニのような口、丸い目を付けた生物は、月の淡い光の中で今にも上陸を果たそうとしている。最初、海に見えたのは川岸の水辺で、既に上陸し繁茂している植物の群に向かって這い上がろうとしているところだ。今までに経験したことのない重力がその体にかかっている。その苦しみのせいか、イクチオステガは呻いているように、涙を流しているように見える。それは、情感豊かな音楽の効果もあって、大変感動的な一瞬だった。瑞子が見ていたのはこの場面だ、この終わりの場面だったのだと、志保は強く確信していた。この、たった一匹で決死の上陸を試みるぬるぬる光る生物の何が、あんなに激しく瑞子を泣かせたのか、それは謎のままだったが、志保は瑞子が見ていた映像をつきとめたことに深い安堵を覚えた。画面は一転して、明るい光を透かした人間の胎内を映している。ナレーションは人間が胎内で生命の進化をなぞることを述べ、胎児にエラが現れることや、手の指が最初はミズカキ状であることなどを映像で示している。 「子宮は胎児をはぐくむ海です。そして、出産直後の産声は、初めての空気呼吸の証しであり、まさに子宮という海からの上陸の瞬間でもあるのです。」  子宮という海からの上陸……。ひときわ音楽が盛り上がってこのナレーションを聞いた時、思いがけなく、右の頬に涙が直線を描いて落ちるのに志保は気づいた。

 

 

 九月にはいると新学期の試験のため、学生がキャンパスに戻ってくる。志保はいくつかのレポート提出をひかえて、準備を始めていた。なかなかめどが立たないのが中世講読のレポートで、ぼんやり浮かぶ構想を組み立てては壊すという段階でずっと足踏みを続けている。書庫に行って俊介に会うこともあったが、彼も調べものに忙しそうで、引っ越し以来ゆっくり話すこともなかった。俊介は古代、瑞子は上代文学を専攻している。志保は中世文学で卒論を書こうと思っていた。中世の説話文学への興味が、だんだん自分の中ではっきりしてくる気がしている。仏教説話を中心に、説話文学の中の出来事が、テキストに整然と並ぶ活字を食い破って自分を揺さぶるのを感じる。説話文学は不特定多数の人々によって口誦で伝えられた話が、ある時点で文字に留められたものである。長い時間の問にたくさんの人間のイメージをくぐり抜け、語り伝えられた話には、集団が抱いていた幻想、イマジネーションの跡が刻まれていて心引かれる気がする。ある時代の人々が、どんな想像力で世界を掬い取ろうとしたのか……。  志保は授業で配られた資料のプリントに改めて目を通した。インド起源の外来説話として、月のねずみ、月の兎、斑足王、一角仙人などの項目があり、活字に起こされた各資料が切り貼りされ細かい字面を並べている。志保は授業を受けたとき、月の兎の話に特別な印象を持ったのを思い出した。世界に広く分布する、月に兎がいるという話の起源を探る項目だ。  帝釈天が老人に姿を変えて動物たちに食糧を求め、その要求に応じるため、兎が自分の身を火に投じて老人の空腹を満たそうとしたという話である。これは複数の経典に様々な異同をもって語られていて、兎が単独で、あるいは狐、猿、猟などの動物と一緒に登場する。志保はまだほんの入口に立ったばかりで、仏教の起源や、伝承の歴史についてほとんど何も知らない。だがなんとか資料を辿っていくと、この物語がインドの経典ジャータカに記されているのは、それがもともとは釈迦の本生譚、つまり釈迦が、「私の前世はこの兎であった」と語る話であったからだと理解することが出来る。この兎の慈悲深い行い、菩薩行の結果、釈迦がこうして悟りを開くものとして生まれてきたという因果の物語なのであった。漢訳された経典の中では、『大唐西域記』が、死後、兎の骸を月に上げてその行いを後世に伝えたと言う一節をジャータカから引き継いで、月の兎の話の元となった。  志保はこの物語の中で、自分の身を火に投じる兎のイメージに強く惹かれるものを感じていた。それは説明のつかない感情で、目を瞑ってその光景を想像すると、知らず知らず動悸が早く打ち、ぼおっとしてしまう。そして、この話が、疑うことなく語る、転生という物語に無防備に絡め取られていく自分を感じる。  志保は、冬美の部屋で読んだ記憶の形成についての記述を思い浮かべた。言葉や意識は、脳の記憶する機能によって支えられている。海馬と呼ばれる脳の部分で、たくさんの情報が電気信号になって結びつけられ、新しい脳で保存され記憶となる。一つの言葉が記憶されるのに何度も同じ情報が繰り返し流されることが必要なのだとしたら、転生――この複雑な概念は、どんな信号が伝え合うのだろう。神経細胞の隅々を、どのくらいの量の物質が、電流が、どのくらいの速さで、どのくらいの回数流れたら、人は輪廻、転生と言う世界観を理解することが出来るのだろう。  志保は、光の川が脳の中を渦になってうねりながら流れる光景を思い浮かべ、またぼおっと上気した。こうして自分の想像した世界に浸っているときの楽しみは、流行の服や、映画や、恋愛を語るときとは比べものにならないくらい、強く、深く志保を捉えた。冬美が、浮世離れしているとからかうのは、志保のこういう傾きを敏感に察知しているのかもしれない。  月の兎の話は、日本でも広く受け入れられたらしく、今昔物語にも説話的なふくらみを加えて採られている。仏教説話には、救いを求めた衆生の切ない思いが揺曳する。志保にはそれが、遠い時間に生きて死んだ人間がむしゃぶりつき、噛みしめた幻想の残滓のように思えた。説話の時代、人々が紡ぎだしたイリュージョンの集積は、甘い汁を含む果実のように、志保の前でゆらゆら揺れている。地域を越え、時を越え、たとえば転生という言葉を多くの人間が理解するのはどういうことなのだろう。避けがたく受け入れねばならぬ死。生きてある現世の苦しみ。病苦、愛憎。死を前提に生きることを知ってしまった人間が、欠けてもまた満ちる月のような魂の甦りを希う思いは、様々な境を超えて、通いあうということだろうか。  母ももう、どこかで別のものに生まれ変わっているのかもしれない……そう考えかけて、志保は、ふっと小さな笑いを漏らした。冬美ならば、異文化の人々の幻想が似たような形を取るのは、脳が規定する神経回路の癖のようなもので、進化した人間の脳が皆同じメカニズムで作動している結果だと言いそうな気がしたからだ。  志保は、夢想に流れて少しもまとまらないレポート準備に大きくため息をついた。同じ授業をとっている友達が、先輩にコンサートチケットと引き替えでレポートの代作を頼んだと言っていたが、そんな風に単位を取ることだけに割り切れれば、大学生活もあっさりしたものになるかもしれない。志保は、そんなことが出来るはずもない自分に苦笑して、もう一度ノートの整理に取りかかった。  何日かたって、志保は大学生協の書籍部で俊介に会った。 「雪沢は京都に帰らなかったの?」と訊かれて、志保は黙って頷いた。最初の年には帰るよううるさく言ってきた父は、三日いただけで戻っていく娘に不満の電話をよこしたりしていたが、去年も、今年も何も言ってこなかった。年末年始は、弟のために家で過ごすが、夏は、祇園祭の賑わいをふっと思い出すことはあっても、父のいる家、母のいた家に帰りたいと思ったことはない。俊介はそのことにはもう触れず、ラウンジに志保を誘った。  地下の書籍部から外に出ると、まだ粘りを残した陽ざしがキャンパスに白々と降っていた。みるみる首筋に汗が流れた。俊介はゆっくり歩いていく。 「清水さんは実家どこでした?」 「静岡。」 「帰ってたんですか?」 「うん、ちょっとおやじの具合が良くなくてね。」 「え?」 「ずっと心臓悪いんだけど……でも大丈夫だったよ。帰るときには平気になった。」  植え込みの下に白い花の蕾がたくさんついている。ラウンジのテーブルに向かい合って座ると、俊介はいくらか日に焼けた顔を傾けて紙コップのアイスティーを飲み干した。 氷をガリガリいわせる俊介の顎の骨が、盛り上がっている。 「あのマンションはどう?」 「え、もう落ち着きましたよ。」 「青木とは話したりするの?」  俊介はごくさりげなく訊いた。だが志保は、俊介が自分を誘ったのは瑞子の事を聞きたかったのだと即座に了解してしまった。 「ゴミ出しに行くとき、時々会いますよ。あ、こないだ、また青木さん体調壊したんです。ひどく。」 「そう。」 「何ていうか、持病があるみたいですよ、周期的に悪くなるっていうか。」 「生理痛、なんだろ。」  俊介は全く逡巡の気配なく、そう口にした。 「知ってるの?」 「いや、高校の時月末になると保健室来てたから。俺ずっと保健委員だったんだよ、これが。いっつも倒れて何日か休んでたんじゃないかな。で、急に吐いたりするから、口の悪いヤツが妊娠してるとか言って。何するわけでもないのに、目立ったしな、あいつ。」 「へえ。」 「うち、妹もしょっちゅうぐずぐず言ってたから、多分そうだと思ってた。でもあの頃よりひどくなってるんじゃないか、今の方が。」  前に俊介と一緒に、ふらふら歩く瑞子を追っていった日のことが思い出された。俊介と志保の目の前に、瑞子が座っているようだった。 「今度うちに帰ってさ、おふくろに青木が大学院に編入してきたって言ったら、あいつの家の話になってさ。家は近いわけじゃないけど、あっちは政治家だから、地元の人間はみんな知ってるらしいんだな。あいつの家の事情。」 「事情?」 「うん、お母さんが二年前に亡くなったらしいけど、その後にお父さんの愛人?影の人?そういう人が男の子二人連れて後妻にはいったんだと。」 「ふたり……」 「どっちもお父さんの子らしいよ。男の子だから跡継ぎだろ?で、瑞子は大金をもって家を出た。今の所に一人暮らしを始めたらしいよ。」 「家出るって……」 「母親のいない家で、他人と暮らすのもな。」 「そうだけど……」 「あいつ、ほんとに一人なんだな。」  俊介はそう言って、残りの氷を全部噛み砕いた。 「おふくろなんか憤慨しちゃっててさ。瑞子さん、可哀想じゃないねえ、とかって……」  俊介が母親の言い方をなぞって、声を高くするのがおかしかった。こんな俊介を初めてみたと思った。 「清水さんのお父さんは、ほんとに大丈夫なんですか?」「うん、家で翻訳の仕事して、無理は出来ないけどね。俺はとにかくバイトと奨学金で何とかやってるから、あの人はマイペースでいいわけよ。」  俊介が、いつもバイトの時間を気にしているのを志保は思いだしていた。瑞子を間に置いて俊介と話せたことを、志保は思いがけなく与えられた幸せと感じた。

 

 

 彼岸の連休に、突然弟が上京してきた。志保はレポートを仕上げたところだった。レポートは、前半と後半で論旨がずれていい出来ではなかったが、もう書き替える時間もない。  前日の夜、弟から電話があった後は、様々に悪い想像をした。新しい部屋を見たいからとだけ言って切ってしまった電話は、どう考えても不自然だった。弟の隆は、来春受験を控えている。遊びに来るなら夏休みに来るのが自然だろう。  東京駅で会った隆は、正月にあったときよりも幾分痩せて、人の流れの中で頼りなげに見えた。地下鉄を乗り継いでいる間も隆はあまり口をきかず、車内の広告を目で追っていた。 「急やからびっくりした。あんたひょっとして、東京の大学受ける気でいるのと違う?」 「いいや、僕は京都の大学しか受けへん。」  隆は部屋に着くまで用件を言う気はないという様子に見えた。確かに内容を聞いてみると、それは、会ったとたんに車中で話す気になることではなかったかもしれない。部屋に着くとすぐに、隆は、「母さんの消息がわかった。」と言った。  志保は、自分がそれになんと答えたか覚えていない。隆の話は更に志保を混乱させた。母は卵巣嚢腫の治療に当たっていた主治医と二人で失跡して、今も一緒に暮らしているのだという。  医師……。何人か記憶の中の像をたどるが、志保には全く思い当たらない。 「どういうこと?なんでそんなことがわかったん?」 「おやじはだいぶ前から知ってたらしい。思い出してみたら、ずっと酒飲んで母さんのことなじってたのが、急に黙って飲むようになったやろ。あの辺でわかったらしい。母さんの方から連絡したのか、自分でつきとめたんか、それはわからんけど。相手の医者は年下やていうてた。」 「何で?それがあんたに何でわかったん?」 「おやじと言い合いになって、何で母さんちゃんと探そうとせんのや、て僕が問いつめたら、行く先はわかってるって……。おまえ、知る勇気あるかって……」  志保は口を開くと取り乱しそうな自分を押しとどめるように、胸を押さえた。父の言ったことは本当なのだろうか。隆が、母の捜索について父に迫ったのは今度が初めてではないだろうに、父は今なぜそれをぶちまけるようなことをしたのか。 「それでお父さんは、その後どう言ったの?」  感情を抑えようとすると、普段使っている東京言葉になる。それは気持ちの平衡を保つためのささやかな盾のようなものだ。 「わかったか。もう、今後一切、あいつのことは口にするなって言うて、自分の部屋に籠もってそれきりや。それからあんまり口もきけへん。もともとおやじと話すこともなかったけどな。」 「そう。それがいつだったの?」 「四日前、かな。そう、四日前やった。」 「そう。」 「やっぱり姉貴に話さんわけにはいかんと思たんや。なんか、僕もやりきれんかったし……。」  隆は急にうなだれて見えた。母がいなくなったのは入院中だったため、病院からも届けが出されたし、当然、父も捜索願いを出した。病状を悲観しての自殺の怖れも捨てきれなかったし、病み上がりの体でたった一人どこに行く当てがあるのか、と家族の誰もが思った。母は、四十才だった。  父は情報を得られないまま酒浸りのようになって、数日を過ごした。それから二年くらい、あいつが俺無しで生きていけるはずがない、あいつの病気を支えてきたのは、この俺やないか、などと言っては酒にすがる日が続いた。志保は、弟と二人、自分たちが責められるような思いで、父を眺めていた。そして確かに父はふっつりと黙り込むようになった。弟に言われてみれば、はっきりした変化だった気がする。父はその時、母が他の男と一緒に暮らしていることを知ったのだろうか。あの執念深い父が、あっさりと諦めたとは思えない。何か決定的なことでもあったのか……その後父はますます陰鬱な男になっていった。  志保は母がいなくなった日の夜のことを思い出していた。 自分や弟に、母が一言も言い置いていかなかったことを、どう思えばいいのかわからなかった。無理に布団に入って横になっても、次から次へと様々な疑問と悲しみが頭をよぎって、眠れるとは思えない。弟も同じだったのだろう。まだ十三才で細い声をしていた弟は、泣きながら布団を抱えてきて、一緒に寝てもいいかと言った。 「いいよ、おいで。」と、布団を敷くのを手伝いながら、志保は涙が出るのを止められなかった。 「なんで? かあさん。」という問いだけが、頭の中に繰り返し響いていた。少しまどろんだ明け方、胸に重さを感じて起きると、隆がしがみついてきていた。少し口を開けて鼻をならしながら眠っている。すぐ横にあって、息がかかりそうな隆の顔を、志保はずっと朝が来るまで見ていた。  隆は言うだけ言うと、もうそのことには触れたくない、と言うように黙った。細かいことを問いただしても隆は答えられそうもなく、志保も、具体的な疑問を突き詰めることは、とてもまだ出来ないと思った。何かひどく発熱する物体を間に置いたまま、それとの距離を測りあっているような、お互いにそんな状態なのだと志保は思った。  志保が入れた紅茶を、隆は鼻の頭に汗を浮かべながら飲んだ。それから部屋を見回して、「いい部屋やな。」と言った。 「うん、お父さんに家賃のこと言うとき、またごちゃごちゃ言われるかと思ったけどね。あっさりオーケーやったんで、ちょっと気抜けした。」 「おやじ、前みたいにうるさいこと言わんようになったなあ。僕の進路に関しても何も言わへん。」 「そう、家族のことは諦めてしもたのかもね。」 「相変わらず、悪い酒やけどな。僕はあのうちから大学に通う。別に、あの家出たいとも思えへんし。この頃は。」  弟は弟で、父の悲哀を身近に感じ、理解し始めているのかもしれなかった。志保は、母が他の男と暮らしていると聞いても、にわかに父の心情に寄り添うというふうにはなれないが、母に対して苦しい恨みの思いが湧きあがってくるのを感じ、辛かった。  隆のためにベッドをつくり、志保は自分のために床に冬の敷布団を敷いた。押入を開けて夜具を出し入れする間、隆がじっと中を見ていた。目の先を追うと、母の作った千代紙貼りの衣装箱がいくつか並んでいる。志保は膝をついて、その箱に指で触れた。 「覚えてる?かあさんが作ってくれたん。」 「覚えてるよ。まだ持ってるんやな。あのクッションもそうやろ?」  弟は蝶のクッションを見ていた。 「これを見て、いつもかあさんのこと思ってたわけでもないけど、使い勝手が良くてね。引っ越しの時も便利やし、そのまま使ってるのよ。」  志保は、自分の言葉がどこか言い訳めくのが悲しかった。 「かあさん、僕にもマフラーとかセーター編んでくれたやろ。タカシってローマ字で編み込みのあるやつ。今探してもないんや。おやじが捨てたんかな……」  隆は素直に寂しそうだった。母は気分のいいときには、歌を歌いながらドーナツを揚げてくれた。柔らかな声で楽しそうに歌っていた。ユーモアという雰囲気からおよそ遠い父と違って、母は少女のような茶目っ気を見せることがあった。父のいないとき、母の細い体から溢れる小さな華やぎが、志保の情操をどれほど明るいもので満たしただろう。志保はまた母への追憶に傾く自分を押しとどめて、さっと遮るように押入の戸を閉めた。 「隆、あんたベッド使っていいから。」 「うん。」  そう言って、隆はしばらくぼんやりしていた。  来る前に自分で決めてきたところがあるらしく、隆は次の日一人で東京の街を歩いて、三日目の朝京都に帰っていった。あの後一言も母の話をしなかったが、帰り際に隆が、 「もし、かあさんの住所がわかったら、姉貴会いに行く?」と聞いたとき、志保はすぐには答えられなかった。隆も返事を待つでもなく、結局隆自身に問うているのだった。 「父さんは知ってるのよね。」 「たぶんな。」 「わからない。自分でもわからない。」  志保はそう答えるしかなかった。  隆は小さく手を振って、マンションの前を遠ざかっていく。志保は、人を見送る寂しさに久々に浸っていた。

 

 

 十月になり、日の暮れが早くなった。弟が来たことが、あっという間に遠くなり、現実感を失っていく。母の消息を聞いた混乱も、日がたつにつれそれ自体曖昧になり、今までも、そっと胸の奥にしまうようにしてきたのとほとんど同じ場所に埋ずもれていくようだった。すぐに生身の母を確かめたいという気持ちにはどうしてもなれなかった。  秋の空に、月が澄み渡った姿を見せた。月を見ると、志保はいつもどこかで瑞子のことを思っている。志保自身は不規則な方だが、瑞子の身体の変化は規則的だと言っていたから、体調をこわす時期も計算できる。苦しそうにゆがんで汗みずくだった瑞子の顔を思い出し、そろそろ前兆が始まる頃だと思うと、志保は心配でたまらなかった。  十月の下旬から友達のバイトを急に引き継ぐことになり、家庭教師先の住所と地図をファックスで送るというので、志保は瑞子の番号を教えた。瑞子の電話はファックスも受けることができ、瑞子は、急な連絡の取り次ぎをしてくれると言っていたのだ。大学から帰ると、瑞子の部屋には灯りがついていた。志保が声をかけると、 「開いてるわよ。」と、低い声がした。  思った通り、瑞子は青い顔で、腫れぼったい目をして横になっていた。鼻をしゅんしゅんいわせている。志保がファックスのことを頼むと、「どうぞ。かまわないわ。」と言って、目を瞑った。 「具合、よくないんですね。」と訊くと、 「うん。」と答え、 「ね、風邪薬持ってる?ちょっと風邪っぽいみたいなの。」と、少し声がかすれている。志保は部屋に戻って探したが、引っ越しでわからなくなってしまってそのままだったので、外へ買いに出た。薬屋はまだ開いていて、志保は自分の分と二箱、カプセルタイプの薬を買った。戻ってくると、瑞子が低くうなっていた。あわてて近づくと、両腕を自分で抱くようにして、ひどく震えているのだった。 「青木さん、大丈夫ですか?」と、声をかけると、寒い、寒いと繰り返し、やがて歯ががちがち鳴る音が志保にも聞こえるほど大きくなった。志保は、悪寒に襲われた母が、よく、肌がめくれるみたいと言っていたのを思い出した。突然沸騰したように皮膚が鳥肌だっていくのだった。だが、その何度か経験した母の容態よりも、瑞子の震えは激しかった。カツカツと歯の鳴る音が続いたかと思うと体全体が痙攣するように震えだした。両腕を自分で抱いたまま、ガクンガクンと体全体が揺れた。 「青木さん、青木さん。」  呼んで触れると、瑞子の体は、ブラウスを通してもすぐにわかる程発熱していた。 「薬買ってきましたよ。とにかく飲んでください。すごい熱。」  志保はコップに水を汲み、瑞子を起こそうとした。だが、瑞子はきつく眉を寄せて首を横に振り、 「ダメ、何も入らない。」と、かすれた声でささやくように言う。  ひどい震えはおさまったが、志保は、これから瑞子をどうしたらいいのか途方に暮れた。志保は、冷凍庫にアイス枕があるのを取りに、いったん部屋へ戻った。こんな時、誰に相談したものだろう。管理人に言ってみようかと考えて、ふと、俊介に連絡しようと思いついた。  俊介は、運良く部屋にいて、携帯電話で知らせると、すぐに駆けつけてきた。 「調子が悪いとこへ、風邪引いちゃったみたいで……。」と言う志保に黙って領いて、俊介はベッドで体を二つ折りにしている瑞子に近づいた。 「すげえ熱だな。計った?」 「三十九度六分。」 「うーん。動かせないな、その熟じゃ。」  どのみち病院は遠く、もう、時間も終わってしまっている。瑞子は俊介が来たのに気づかないのか、そのままの姿勢で荒い息をしている。俊介はちょっと考えていたが、すっと手を伸ばして瑞子の背中に近づけた。手のひらを開いて、撫でるわけでもなく背中から五センチくらい離れたところでじっと止めている。何をしているんですか、と訊こうとして志保は声に出せなかった。俊介がじっと集中している気配が伝わってきた。しばらくそうしていると、瑞子の呼吸が少しなだらかになって、うーんとけだるい声を出した。  「青木、どこか痛むか?」  俊介の声には解きほぐすような響きがあって、志保は思わず俊介の顔を見た。瑞子は体の力を抜いて、まぶしそうに俊介の方をふり仰いだ。 「清水君?」 「うん。」 「私が来てもらったんです。心細くて。」 「そう。悪いね。志保さんも、ごめんね。」  瑞子はそれだけ言うと、また体を二つ折りにした。 「お腹痛いんですか?」と言う問いに、頷いたのかそうでないのかわからない。  俊介はまた、腰のそばに開いた手を近づけてじっとかざすようにしていた。その動作は医師のように冷静な雰囲気で行われながら、どこか神聖な儀式のように土俗的にも見えた。どのくらいそうしていたのか、瑞子がくぐもった声で、「何してるの?腰のとこがすごく暖かいけど。」と言って体を伸ばした。 「ものすごくあったかい。なに?」  瑞子はもう一度言って、後ろを確かめるようにした。黙っている俊介の代わりに、志保が、 「清水さんが、手を当ててたんです。腰の近くに。」と言うと、 「時々効くみたいなんだよ。俺の手かざし。」と、俊介が困ったように言った。  瑞子は熱で潤んだ赤い目をうすく開けたが、それ以上考える気力もないというようにまた目を閉じた。志保は、不思議な呪いを見るように俊介の手元を見つめていたが、腰から肩へと繰り返し手を移しているうちに、瑞子は浅い眠りに落ちていったようだった。苦しげな息遣いながら、瑞子が眠ったことがわかると、俊介と志保はどちらともなく顔だけで笑って、そっとベッドの側を離れた。  二人でベッドわきの床に座り、何となく声を潜めていると、二人で誰かから隠れているような、共犯めいた連帯感があった。志保は俊介の手に触れたいのをじっと我慢して見つめていた。細く長く白い手だった。俊介は志保の視線に気づいたのか、右手をあげ、自分の顔の前で表、裏と掌を返しながら、 「自分でもよくわからないんだけど、子供の頃から手をかざしてると相手の痛みが薄らぐらしいんだ。」と言った。 「俺のおやじが心臓で入院したとき、おふくろがパニックになってさ。勤めに出た先で誰かに誘われて、新興宗教にはまっちゃった時期があったんだ。手かざしで穢れを祓って、病気も悪運も追い払うってやつなんだけどね。俺なんか、小6だろ。夕方仕事から帰った母親に妹と二人車に乗せられて、さ、行きますよ、とかって道場まで連れて行かれるんだよ。」  道場にはいつも十数人の信者がいて、支部長という人の指示のもとに決まり事を行い、信者の紹介で連れてこられた患者にみんなで手かざしを行うのだという。俊介は、一人の老婆を取り囲む輪の中に入れられ、言われるままに手をかざした。するとその老婆が、しばらくして、この坊ちゃんのお手が一番熱い、と言いだした。そして、後日、切る他の方法はないと言われていた膝の腫れが引き、手術をまぬかれたということで、道場は俊介を特別扱いするようになったのだという。 「俺は、やだったよ。訳がわかんないんだから。ああいうところに来るのは思い込みの強い人たちだろ。自己暗示もあっただろうし、そういうことにしておきたい欲求があの人達にあったんだろうけど。ただ、家で妹の捻挫した足にやったりすると痛みが無くなったり、クラブの後輩の喘息が楽になったりね。ちょっとそんなことは起こるんだ。気功とか、そんな関係かもしれないけど。」  俊介はまた自分の手を不思議そうに眺めた。志保は俊介の長い指を眩しいように見ていたが、少し目をそらしたとき、俊介の手がひらめくように動いて、指の先が一瞬志保の唇に触れた。 「君は、青木が心配なんだね。」  俊介の声は潜められてはいたがはっきりと届いた。志保は、俊介の指は暖かくも冷たくもなかったと思い、俊介にいつも感じる緩やかな気配を、改めて思っていた。俊介と共有していると感じていたのは、病という弱さを抱えて生きる家族にずっと寄り添ってきた心のなずみのようなもの、病気という理不尽に向き合いなだめあってきた人聞達の、漂白された現実感、ある種の無常観のようなものという気がした。 「あの……お母さんはまだその道場に?」 「いや。神様の力を代行する修行ってのに励んでも、おやじの心臓はいいほうにいかなくって……そのうち支部長さんと揉めたかなんかで、一年半くらいで行かなくなった。米研ぎながら、神様のなさることはわからない……って言ってぽたぽた泣いてたけどね。それっきり行かなくなった。その後おやじが退院できたから、おふくろの実家の静岡に引っ越したんだ。俺の手かざしだけは、それでも時々痛みに効くみたいなんだけどね。」 「ふうん。清水君がそんな霊能者だったとは知らなかった。」  いつから起きていたのか、瑞子の声がベッドの上から降ってきた。俊介が立ち上がるのを、志保は座ったまま見ていた。 「どこか痛む?」と俊介が訊いている。 「うん。」 「どこ?」 「お腹が痛い。右足の付け根のとこ。ずうっと右の腿のところまで。頭も痛い。」  瑞子が言った。志保は、瑞子の声に籠もる無防備なけだるさを耳の端で感じていた。俊介が手をかざしているのか、ふっと部屋が静かになった。志保はいたたまれない気がして、立ち上がって二人を見た。瑞子は仰向けに寝て、目と唇を薄く開けていた。俊介の右手が、寝乱れた瑞子の足の付け根に近づけられ静止している。瑞子がかすかに声をもらして、俊介が手をより腹部の方へ移動させた。それは治療者と病人の図に他ならないのに、志保はひどくしどけない熱度を感じて目を逸らした。俊介は状況の推移を見守る技師のように、ゆっくりと手を動かすことに集中している。  俊介の手わざは、気休めに過ぎないとしても、瑞子と志保をとりあえず落ち着かせた。熱は下がりそうもないが、瑞子はやっと解熱剤を喉に流し込むことができた。時刻はもう十一時近くなっている。 「清水君、ありがとう。あったかくて気持ちよかった。薬飲んだし、もういいよ。明日も授業とバイトでしょう。もう戻って。志保さんも。いつも悪いわ。」  かすれた声で、瑞子が言った。俊介は黙って志保の目を見た。 「私は、今晩、ここにいますから。」  志保はその目に、そう答えた。 「そうだな。今晩はいてくれた方がいいだろうな。じゃ、俺一応帰るけど、何かあったら携帯に電話して。」  俊介はそう言うと、すぐに夜道を去っていった。  志保はその晩、瑞子の部屋で寝た。薬は吐き戻されることもなく瑞子の体内に納まって、まとまった眠りを運んできたようだった。明け方覗くと、瑞子はひどい汗だったが、そっと拭く志保の手にも気づかず眠っていた。朝になると熟は八度台に下がっていて、志保はひとまず自分の部屋へ戻った。授業に出なければならなかった。  瑞子の熟はなかなか下がらなかったが、三日目の夕方、志保がスポーツ飲料を持って寄ると、瑞子は自分でお粥を作って食べていた。 「食べる気になりました?」 「うん、無理矢理だけど。」  部屋は、まだ熱っぽい匂いが籠もっていたが、瑞子の声は本来の響きに戻っていた。 「お腹の痛みは?」 「痛い。」 「風邪薬に、鎮痛剤も入ってるはずだけどなあ。」 「……でもひどい痛みじゃないから。」 「また清水さんにやってもらわなきゃいけませんね。」  志保の言葉に、瑞子は小さく笑った。 「瑞子さんのためなら、とんできますよ。清水さんいつも気にしてるみたいだもの。」 「そう?」 「そうですよ。」 「何なんだろうね、彼の手。」 「どんなふうになるんですか?ビリビリってきたりするの?」 「ううん、とにかく異様に熱いの。ものすごく暖かくなってくるのよ。奥の方まで。軽くなるっていうのか、うまく言えないけど、とても楽になるの。」  志保は頷いて想像してみる。触れたことのない俊介の手の温かさを、考えている。  瑞子は半分ほど食べ終えると、流しに器を下げに行き、志保に支払うために財布を持ってきた。 「ごめんね、買い物ずっと頼んで。」 「いいえ、ついでですから。」 「ずっと、水気ばかり取ってたら魚になりそうだった。」  瑞子はペットボトルを受け取りながら言った。魚になった瑞子というイメージが、いつか見たビデオの、魚の進化を思い出させた。 「あ、見ました。あのビデオ。イクチオステガの上陸作戦。」 「え?」 「青木さんが見てた、生命っていうビデオです。」 「ああ、見た?」 「ええ、図書館で。」 「そう。」  瑞子は、ちょっと表情を固くした。 「あんなビデオで、何で泣いてたんだろうって思ったでしょ。」 「いいえ、感動的でした。命がけで陸っていう新しい世界を目指した最初の一匹がいたんだなあって。当たり前ですけどね、考えてみれば。」 「そうね。」 「それに、あの最後のところで、人間の出産が母親のお腹の海からの上陸の瞬間だっていうナレーションがあって……」  志保は、はっとして口をつぐんだ。瑞子は、自分の命の代わりに消された他の胎児のことを、細胞分裂の途中で喪われ、子宮の外への上陸を果たせなかった兄弟姉妹達のことを考えていたのではないか、と思ったのだ。触れてはいけないところに踏み込んでしまったのだろうか?激しい後悔の思いが来た。  うつむいてしまった志保に何も言わず、瑞子は静かに横になった。 「あのね、私、あの最後のところを見ると、なんだか知らないけど苦しくて、悲しくなるの。そうねえ、私が想像するわけでもないのに、向こうから来るって感じかな。私の意思というわけじゃなくて、あっちが私の中に取り憑くのね。私、憑依体質なのかな。」 「ヒョーイ?」 「そう、物の怪が依りましに憑く憑依。私の体を借りてイクチオステガが悲しむの。苦しい、重い、恐ろしいって……。時間は止められないでしょう。遺伝子か、本能か、何か大きなものに背中を押されて、前に進み続けるしかない、留まることも後戻りすることもできない生き物の運命。それが、ごおっと私の中で音を立てるの。」  志保は、瑞子の言葉の意味がよく解らなかった。だがその不可解さに惹きつけられ、濃い霧の中へすすんで迷い込む自分を感じる。 「この場面、母と見てたの。私は、なるほど、そうかって見てたのよ。そしたら母が低い声で、無謀ね、愚かなことねって言ったの。」  瑞子は肺癌になった後の母と、このビデオを見た。母のつぶやきを聞いたとき、母が不妊治療や減胎という生命操作を暗々と呪っているのが、写し取るように理解できたのだと瑞子は言った。 「母は、悔いてたのよ。私を産んだことを。」  瑞子はきっぱりと、乾いた声で言った。 「あのビデオを見るのは苦しいわ。でも少し時間がたつとまたあの場面を見たくなるの。あの苦しみに会いたくなるのよ。そうしなければいけない気がしてくる……。母が私を、どっかで呼ぶのね。」  そう言いながら、瑞子はまた起きあがった。寝ている方が辛い、という様子だった。志保は思わず、俊介の手があったら、と思った。じっと静止して開かれている、俊介の右手。 「あの後、清水君に会った?」  その時、突然、瑞子が訊いた。 「いえ、大学でも会わないし。」 「そう……あなた、清水君のこと好きなのね。」 「え?」 「私と彼のこと、気になるの?」  瑞子は、優しい声だった。志保が答えられないでいると、瑞子はじっと志保の方を見た。 「大丈夫よ。私と清水君はそんなんじゃないし……私はたぶん一生男の人と生殖行為なんかしないと思う。こんな体質だし、そんな気がする。」  志保は、またしても混乱でぼおっとする。 「女の人と寝るのはいいかもね。それは欲望するかもしれない。」  そう言って、瑞子は痛みでひそめていた眉を開いた。 「心配しないで。あなたに迫ったりはしないから。」  そう言った瑞子の笑顔は、今まで見たどの時よりも暖かく、あでやかだった。

 

 熱が下がるのとほぼ同じ頃生理が始まり、痛みの峠を過ぎて、瑞子はやっと回復してきた。志保はあれからも何度か様子を見に行ったが、昨日の瑞子はゆったりした表情で、やっと髪を洗ったのだと言った。バスタオルをはおった肩から背中に、まだ湿った長い髪がばらけて広がっている。細いが、黒い髪だった。  瑞子の回復にほっとするのと入れ替わるように、志保はだるさを感じていた。体全体が重く、少し頭が重かった。朝夕の冷え込みを感じるようになり、志保はこの部屋で過ごす初めての冬の暖房のことを考えていた。そんなとき、冬美から連絡があり、泊めて欲しいと言ってきた。いつかそんな約束をしたきり、冬美がこの部屋に来るのは初めてだったので、志保は喜んで承諾した。夜になってやってきた冬美は、飲み会だったらしくアルコールの匂いがしたが、酔ったふうもなく相変わらず元気に話した。冬美が買ってきたビールを飲むと、志保はふわっと身体が軽くなって、だるさも消えていく気がした。冬美と話し始めると、自然な流れが地形に添って下っていくように、志保は何の構えもなく自分のことを話すことができた。弟に聞かされた母の消息も、瑞子のことで紛れていたのが解凍されて、志保の意識に戻ってきていた。冬美は話を聞くと、 「そう……で、志保はお母さんが幸せでいたんならそれでよかった……ってふうには思えなかったわけよね。」と、言った。  志保は、そういう発想すらしなかったと正直に言った。 「なるべく具体的に考えないようにしてるんだと思う。」「実際に直面したら、そんなもんかもね。」  冬実は一瞬黙ってから向き直って、 「あのさ、びっくりさせて悪いんだけど、うちの母親乳ガンになったみたいなんだよね。」と、一息に言った。 「え、何でそれを早く言わないの。」 「言っちゃったら、今日、私この事志保に話したくて来たんだなあって、自分でわかった。」 「どんな具合なの?」 「定期診断でみつかったごく初期。だから回復間違いなしってお医者さんに言われてるんだけど。温存療法で乳房も残るっていうし。」 「お母さんには、知らせたの?」 「うん、でも父親が聞いてきて、私と姉に一応相談するわけよ。告知した方がいいと思うかって。当たり前じゃないねえ。初期なんだし、母さんいつも告知すべきだって言ってたって私は言ったんだけど、姉なんかピーピー泣いちゃって答えないの。信じらんないわよね。」 「それで?」 「言ったよ。本人に。全く平気だった。」 「でも心配ね……お母さんも、ショックはショックでしょう。」 「そりゃね。すぐ会社何日休んで復帰できるかって、手帳ひっくり返して電話してたけど、やっぱり病名は言ってなかったね。隠してた。向こうもショックじゃない。こういうのって。」 「そうね。」 「でも、大丈夫だと思うよ。強い人だし。今度みつかったのだって、むしろ強運の証しみたいなもんでしょう。ほんとに初期でわかったんだから。」 「そうそう、プラス思考でいけば、回復も早いわよ。」  冬美の家の風に当たると、病の話も力強さを帯びると志保は思った。冬美親子にとって、病は克服すべきものとしてある。きっと闘って勝利すると、信じられる気がしてくる。  冬美をベッドに寝かせ、志保が布団に入ってからも、二人は長いこと話していた。志保が瑞子のことを話すと、冬美は、「憑依体質ねえ……そりゃ、右脳の領域かな。でも、ちょっとその人やばいんじゃないの?」と、言ってから、 「でも、志保がその人にくっついていきたくなる人だっていうのも、すごくわかる気がする。」と、言った。  話している間、ビールが胃に残っているのか少しムカムカしたが、冬美の寝息が聞こえてくると、志保もやがて眠りに落ちた。  目覚めるとまだ暗い明け方だったが、志保はひどく寝汗をかいているのに気づいた。首のあたりは、汗が冷たく感じる。タオルを取りに行きたいと思っているうちにもう一度眠ってしまい、つぎに気がついたときは、冬美に揺り起こされていた。 「志保、大丈夫?うんうん言ってたよ。ちょっと熱っぽいよ、あんた。お隣の先輩に、風邪うつされたんじゃないの?」  冬美に言われてみると、志保は急速にそういう気がしてきた。冬美は手早く顔を洗うと、 「ね、私授業あるから行くけど、とりあえずこれ飲んで、動けるうちにお医者行きなさい。」  そう言って、小さなビニールバッグから錠剤と顆粒の飲み薬を三つづつ出して置いた。 「これ、抗生物質と解熱剤。一日分しかないからちゃんと行くのよ。わかった?」 「うん、ごめんね。朝ご飯してあげられなくて。」 「いいよ、ジュースもらうね。いつもこんなもんだから。気にしないで。」  冬美はてきぱきと動いて、時間をみながら、もう一度医者に行くように念を押して出ていった。  志保は、布団に寝たままぼんやりしていた。まだ病院があく時間には間がある。ふらふらしながら水を汲み、冬美が置いていった薬を一包づつ飲んだ。そのままうとうとしていると、携帯の着信音が鳴った。朦朧とする頭でのろのろと出ると、瑞子だった。 「寝てた? ごめんね。お友達のメモ、今見たもんだから。」  ぐらぐらする頭を回して、時計を見ると、十時近かった。冬美が手回しよく、瑞子のドアにメモを入れていったらしい。 「起きられる? そっち行こうか?」  瑞子の声を電話で聞くのは初めてだ……と志保は思っていた。 「大丈夫です。ちょっと熱が出てきたみたいで。」 「お医者さん行くんでしょ。すぐ出られる?」 「いや、まだパジャマだし……」 「じゃ、着替えて。早い方がいいわ。私がタクシーに電話するから。」  瑞子は返事を開かずに電話を切った。着替えて部屋から出てきた志保を見て、瑞子は、 「つらそうねえ。わあー、風邪うつしちゃったね。」と、言った。志保は、瑞子に気遣われている自分が落ち着かず、不思議な気がした。  医者には流行の風邪だから安静にといわれた。薬が出るのを待つ間、志保は瑞子に自然に寄りかかっていた。瑞子が背中にまわす手には優しさがあったが、二人はほとんど何も話さなかった。瑞子は帰りもタクシーを呼んでくれて、部屋の中までついてきた。瑞子は志保が着替えている間、フロアの方の布団をたたんで、ベッドの寝具を整えてくれた。 「とにかく寝てるしかないわね。私みたいに熱、高くならないといいけど。うつされた風邪の方がひどいって言うから……ほんとに悪かったわ。ずっとついててくれたから……」  瑞子は低い声で言って、アイス枕をタオルにくるんでいる。ついこの間自分がやったことをそっくり瑞子にしてもらっているのがおかしかった。もう、薬を飲んで風邪が行きすぎるのを待つしかないと思うと腹が据わって、志保は安心して横になった。瑞子は志保の勉強机の椅子に座って、本棚の文庫を取り出し、読み始めた。志保は、瑞子の気配と、本のページを繰るかすれた音を聞きながら、ゆっくりと眠りに落ちた。

 

 目を覚ますと、俊介がいた。夕方の薄暗がりに電気もつけず、ベッドの側に座っている。志保は見慣れない造形物を眺めるように、俊介の顔を見やった。 「起きた? しんどいか?」  俊介はすぐに気づいて、志保の顔をのぞき込んだ。どんな疑問よりも、緩やかに広げられる反物のような喜びが、志保の中心を満たしていった。 「青木の風邪、うつしたって、あいつ気にしてたよ。」 「青木さんは?」 「俺が着いたら、入れ替わりに帰った。四時過ぎまでいたよ。」 「そう……」瑞子の座っていた静かな気配が、まだ切れ切れに残っているようだった。 「電気つけるよ。」  俊介が言った。灯りがつき、頭が少し動き始めると、今日が俊介の塾講師のバイトの曜日だと気づいた。 「清水さん、バイトは?」 「いいよ、今日休むから。さっき、青木が連絡くれたとき、すぐ替わってもらったからいいんだ。」  瑞子が俊介になんと言って連絡したのだろう……と、志保はぼんやり思っていた。俊介はコンビニの袋からペットボトルを出して、「青木のお薦めのヤツかってきたよ、飲む?」と、言った。  志保が領くと、俊介はキッチンへコップを探しに行き、一番大きいガラスコップになみなみとついだ。起きあがって、布団から体が出ると、志保は寒さで小さく震えた。  トイレに立つと、思ったより足元はしっかりしていた。志保はついでに冷凍庫からアイスクリームを出してきて、一つを俊介にすすめた。 「アイスクリームなら入りそうだから、食べて薬飲みます。清水さんも食べて。」  志保は言って、スプーンも二つ差し出した。 「俺はともかく、雪沢はちょっとでも食った方がいいな。」と言いながら、俊介はあっという間に食べ終わった。志保もゆっくり八分目まで食べ、薬を飲んで横になった。  俊介はコップを片付けアイスクリームのケースを捨てると、もうすることがないというふうに一つ伸びをした。志保は、俊介がいつものようにあっさりと大股に部屋を出ていく姿を幻に見た。そして、その自分で先取りした寂しさに、全身を突き抜けていくような悲しみを感じた。 「清水さん、私、青木さんみたいに、もう大丈夫だからどうぞ帰ってって言わなきゃいけませんか?」  志保の胸は波打っていた。俊介は薬の袋をテーブルに戻して、ゆっくりと志保を見た。 「私、そんなこと言いたくない。一人になるのはいや。清水さんに帰ってなんていうのいや。」  志保は、涙ぐんでくる自分に挑むように唇を噛んだ。俊介は静かな声で、 「夜もずっと、雪沢の番してるよ。」と、言った。  波立つ志保の感情をなだめるように、俊介は黙って視線を注いでいたが、 「明後日までに採点する答案持ってきたんだ。ちょっと机借りるよ。」  そういって、カバンから大きな塾のマーク入りの封筒を出して、見せた。部屋の灯りを消し、卓上スタンドをつけた部屋で、志保は俊介の背中を見ていた。採点のために動く腕と、ちらっと見える横顔を見ていた。間欠的に悪寒が襲ってきて、志保は軽くせき込んだ。  気がつくと、志保はひどく泣いているのだった。たった今までここにいた母が、いなくなってしまったと思っている。あんなに行かないでと言ったのに、母は悲しそうに志保を見るばかりで、一言も言わずに行ってしまった。いや、ごめんなさい、ごめんなさいと、母も泣いていたのだったろうか。あなた達に会うと余計つらいから、自分への罰だと思って会わずに耐えてきたのよ、とあのいつもの優しい声で母は繰り返している。いや違う、母は志保の見ている前で胸の谷間も露わな豊満な体の女になって、見たこともないような力強い仕草で荷物をまとめて出ていこうとしている。見ているうちに母の体はずんずん大きくなり、雲のように盛り上がったと思うとはじけ散ってしまった。  お母さん、と呼びながら志保は泣き続けていた。どうしていなくなったの。なぜ、一言も残さず行ったの。捨てるのなら、どうしてあんなに愛したんです?その記憶が私を苦しめてるのよ。お母さん聞いてる?涙が甘い水のように流れて、そのために涙を止めたいのか、流し続けていたいのかわからなくなっているのだ。再び現れた母は、何かしきりに話しているが、志保にその声は届かない。  志保は鼻が詰まり、自分の泣き声で目覚めた。闇の中で、自分の泣く声が部屋に沈んでいくのを聞いていた。フロアに、クッションを枕にし、パーカーをかけて寝ている俊介が見えた。その姿を認めても、志保の動揺は納まらなかった。枕元のタオルで口を押さえても昂りは去らず、志保は泣きじゃくっていた。やがて、気づいた俊介が跳び起きて近づいてきた。 「どうした、雪沢、苦しいのか?」  俊介は志保の額に手を当てた。 「うーん。熱いな。」 「手、止めて。そのまま私にも手かざしして。」  志保は、額に置かれた俊介の手を両手でつかんだ。 「私の母は、男と逃げたの。病院からいなくなって死んだかもしれないと思ってやっと諦めかけたのに、男と一緒に暮らしてたの。でも私、母が好きだったんです。優しい母だったの。」  志保の息は荒く、胸が大きく上下している。 「ねえ、どうしたら楽になれるの? 清水さんの手、どこに当てたら私の痛みは消えるんですか? 胸?心臓?頭の中?どこ?」  母の記憶が苦しいのだ。それはどこにしまわれているのだろう。冬美はなんと言っていただろう。脳の根元、海馬と呼ばれる辺縁系の器官、いや大脳新皮質の表面だったか。俊介の手は、その記憶が呼び起こす痛みを探り当てることができるだろうか。 「俺の手なんかじゃ、何もできないよ。」  俊介は、かすれた声で言った。  志保は、激しく泣きじゃくった。その時、ベッドにぶつかるようにして、俊介が志保を強く抱きしめた。俊介は、陽に熱せられて蒸れた砂のような匂いがした。自分の体からも熱の匂いがたちのぼっているのを感じる。志保も俊介を抱きしめたかったが、両腕を外から抱え込まれていてそれはできない。俊介の腕の骨が、撓って食い入ってくるようだった。俊介は自分の中に膨れあがってくるものと戦うように、腕の力を強めた。俊介の手の触れている部分が、炎を上げて燃えていると思うほど熱かった。志保は自分が、俊介の腕の中で焼け焦げていく気がした。激しく燃え盛る焚き火の中に身を投じた月の兎の説話が、滲むように目の裏に甦った。  俊介が体を離し、そっと志保をベッドに横たえたとき、志保は高い熱に全身を覆われて、意識が途切れていくのを感じた。ひどく寒く、目の中が、深々と暗かった。

 

 頭がガンガン鳴っている。きっと熱が高いのだと、自分でも納得している。目の中に大きく輪を描いて回転していく光の帯が見える。金色の花粉のように舞い落ちる小さな粒が光っている。瞑っている目の中に、次々と様々なものが現れては消えた。ぐるぐる回る渦の中に、父や弟の顔も見える。思い出したくないことが再現されている気がして辛い。大脳基底核の安定化装置が熱でやられちゃってるから、いろんな情報がいっぺんに錯綜してるのよ、と冬美が言う。冬美どうしたの、こんなところで。冬美、自分の心に起こること、脳で説明できれば楽になるの? 本当に解放される? いったい何から? 志保は冬美の後ろ姿に問うのだが、少しも距離が縮まらないのだ。冬美、あなたもこれからお母さんと一緒に、病という理不尽に縛られていくのよ。肉体を持って生きるのがどういうことなのか、つくづく感じられるようになるわ。あなたもやっと、そうなるんだわ。冬美は振り返り、曖昧に笑って去った。夥しい光の粒が天空から降り注ぐ。情報がニューロンからニューロンへ伝達されようとして、電気信号に変わる。神経細胞の先端から、シャワーのように投下される微細な物質の粒子群が、十万分の二ミリの間隙に梯を架けて、次の細胞へパルスを伝える。頭の中が熱く発光している。イクチオステガが、白くぬめるからだで上陸しようとして月を仰ぐ。イクチオステガは、長く一声啼いた。どうしても進化しなければなりませんか。誰も答えない。何も答えない。  頭が軋むように痛んで、音を立てそうだった。もう何も見たくないと思うのに、光の渦の隙間から、瑞子の顔がのぞいた。志保の好きな、小さな炎のような瑞子の微笑。どうして? 志保は戸惑っている。自分を捕らえている感情は、ガラス壜の底に微かに残っている毒のような憎しみ。瑞子への憎しみ。志保は自分の感情を受け入れたくない。悲しくてたまらない。どうしてこんな迷路に踏み込んでしまったのだろう。……志保はひっそりと歩いている。母が手術台に横たわっている。母の腹部にメスが入れられ、生殖器官が取り出されようとしている。母を好きだった。でも嫌悪していた。父に服従し目を瞑って生きた母を蔑んでいた。封印されていた母へのいらだち。でも、母を貶めたくはないのだ。母の記憶が溢れ、流れ落ちる。柔らかく氷を溶かすような母の笑顔。私は母を失った悲しみに淫しているのだろうか? 私は母を忘れたいのだろうか? もし医師が母の記憶を消す薬を処方したら、私はそれを飲むだろうか? と、志保は自分に問う。私はそれを飲むだろうか? それとも火にくべるだろうか? 兎が火に飛び込んでいこうとしている。盛んに燃えさかる火の中空に、兎の身体は止まったままだ。兎は薄く目を開けて、じっと炎の先を見ている。止まってしまった全身が、死の快感に貫かれている。兎は転生を果たすだろうか。苦しい記憶は消し去られ、病は克服されるべきだろうか。  志保は大きく息を吐いた。めまぐるしく渦巻いていた光の束は、短い間に翳っていった。薄闇の中にぼおっと光る手。俊介の手に向かって志保は幻の手を伸ばした。しかしそれも見えなくなった。  志保を静かな眠りが覆い始めた。残り火のような意識が、時々小さな火の粉をあげた。母は幸せなのだろうか……あの白い手は誰のものだろうか……。

                                                                      〈了〉

 

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