アクセス解析

 

 


 

 

  慶賀の客         「慶賀の客」印刷用縦書きPDF版

 

                                                                         垂水 薫

 

 「照葉樹」第6号(福岡市)より転載   

推薦 よこい隆さん 「木曜日」(東京)

 



     
 叔母が逝った。暖かい冬に珍しく雪が降った師走の夜半、四十五歳になったばかりの健康な体に訪れた突然の死だ。死後の世界があるのなら、本人でさえ、死亡診断書に記入された心不全の三文字を、ぼう然と眺めたに違いない。
 美也も、死去の報せを耳にして信じられなかった。戸惑いを隠せない母に、冗談や虚言ではないと分かっていながら、ぜったいに嘘でしょと叫んだ。
 だったらどんなにいいかしら、あの子はまだ若いのに、と母は溜め息をついた。母は長女だ。叔母は、母より十五歳も年下だった。
 葬儀と初七日で新年をあわただしく迎え、沈みきった気分で時の経過を感じる間もなくカレンダーの月が替わった。
 立春を過ぎてから急に、寒さが身に凍みるようになった。
「また降り始めたよ」
 起こしに来た母の言葉に、いつになく早く出社の身支度を終えていた美也は、窓にかかったレースのカーテンを開けた。
 昨日の宵から降り始めた雪が、わずかに舞い残る寒空だ。一夜の白さが、灰色の道路を白のまだら模様に変えている。小さな靴跡を道端に点々と印し、学校に向かう小学生たちの後姿が弾んで遠ざかる。
「あの子、どうして子どもに恵まれなかったんだろ」
 母が隣で、ぼそりと呟いた。
「今ごろ何を言ってるの。もう手遅れよ」
 飛び出た自分の言葉にひやりとした。なんと不謹慎なことを口走ったのだろう。心の中で叔母に手を合わせ、口をおおう。
「そりゃあ、うちだって子どもはあんた一人だから、似たようなものだけど。それにしても、私たち四人姉妹の夫婦八人を合わせての子どもの数が、たった三人とはね。やっぱり情けないねえ」
 年老いたか、このごろ母は同じ繰言を言ってためらいがない。慰めにもならないと知りながら、美也も同じ返事を繰り返す。
「子どもの数は思い通りにならないでしょ。運だもの。仕方ないよ」
「あの子は、人一倍にぎやかなのが好きだったのに」
「事故や事件じゃなく、寿命だったのよ。だから、そんなに思いつめないで。母さんが参ってしまうよ」
「そうだねぇ。どんなに悔やんでも、あの子は戻って来ないね……」
「哀しいけど、それが現実だもの」
 身を絞られる想いとはこういう感覚をいうに違いないと考えながら、美也はうなずき、日が経ってようやく生気が戻ってきた母の横顔に、叔母の面影を重ねて眺めた。

 数年前になる。叔母が五歳若い夫を連れてこの町に現れた。
 美也はもちろん、生まれ故郷を遠く離れて暮らしている母にとっても、叔母との再会は久しぶりだった。
 四十歳と三十五歳の叔母夫婦を目の前にして、母は狂喜した。
「一人だった子どもが、いきなり三人に増えたみたいだねぇ」「予想外の転勤地で驚いたけど、ここに来るってことは、すごい出世コースなの。ねえ、亮さん」
 こそばゆそうに横で苦笑している叔父を振り向き仰ぎ見上げる叔母の目は、とても誇らしげだ。がっしりと大きくそびえ立つ叔父が、まるで、しっかり者の母親に連れられた少年のように見えた。
「えっとお……君は、美也ちゃんかな?」
 母の後ろで微笑んでいる美也に、先に声をかけたのは叔父だった。
 胸の鼓動が、どくんと両耳で、大きく打った気がした。電話では時折話すものの、顔を合わせるのは十年ぶりだ。
 叔父の言葉に、叔母も目を丸くした。
「え、美也って? まあ、ほんとだ。あんた、ずいぶん大きくなって」
 母が笑いを浮かべて口をはさむ。
「まあね。たしかに、いつまで経っても頼りない子どもだけど。それにしても、二十五歳にもなる娘に、ずいぶん大きくなって、は可笑しいよ」
 叔母は真面目な顔で、首を左右に振った。
「いいえ、びっくりよ。だって、寸足らずのゴボウそっくりに小さくて色黒で痩せっばっちだった子が、こんなに娘らしくなってるんだもの」
 母が笑った。
「あんたが色白なのは認めるけど、いくらなんでも、うちの大事な娘に、そのたとえは酷すぎる」
 母の言葉に、再会の歓びを託した大げさな笑いが沸き起こった。美也には、叔父の笑い声がとりわけ明るく響いた。
 久しぶりに出会った姉妹は、お互いの家人が勤めに出て留守の昼間の時間を二人で過ごす。それだけでは物足りないらしく、夜ごと母は、郊外の賃貸住宅に帰ろうとする叔母を引き止める。
 週末ともなると、夕食用に買う魚の切り身が、三切れから五切れに増える。並ぶ茶わんの数が多いせいか、ふだんと品数が同じであっても、五人で囲む夕食の膳はご馳走に思える。しぜんと会話もはずむ。
 いつも話は、母と叔母が中心となり、父が単身赴任をしていた頃へと流れていく。母は実家に身を寄せていた。美也も、中学校の入学から卒業までを、母の実家で過ごした。
「姉さん、あのころは楽しかったね」
「そりゃあ、あんたには一番楽しかった時期だよ。何といっても、亮さんと付き合い始めた頃だもの」
「あら。私だけが楽しんでたみたいな口ぶりね。姉さんだって家事から放れて、母さんに甘えてたじゃない。しかも、私が亮さんと付き合ってたおかげで、のんびり屋の美也でも高校に合格できたのよ」
「あんまりな言い方だねぇ。違うよ。私が、美也の家庭教師をお願いした縁で、あんたは亮さんと出会えたんだよ。ねえ、亮さん。そうだったよねぇ」
 叔父は、息を大きく吸い込むと目を上に向け、どうしようもないと言わんばかりに何度も繰り返し瞬きする。
 叔母が、甘えたように甲高く笑い出した。
「まぁた、あなたの変な癖。お願いだから、それ、やめてよ」 舞い降りてきた記憶に、美也は揺さぶられる。
 この叔父の癖は、高校受験を目前にした美也が問題を解きそこねた際にも、たびたび目にした。美也は、お兄さんと呼びなれた青年の途方に暮れた表情を見たくて、その仕草が可笑しくて、つまらない間違いをわざとしたものだ。
 自分の不可解な行動の原因に思い至ったのは、叔母夫婦の挙式のときだ。この複雑な気持ちは恋だと悟った。大人の女性への扉を開けた気がした。
 お兄さん……。あたし、もう少し早く生まれてたら良かった。
 二十五歳の美也によみがえる叔父への思慕の記憶は、日々に鮮明になる。ともにする食卓が重なるにつれ、鼓動が速く、まともに叔父を見られなくなった。
 叔父を交えて過ごす貴重なひとときは、貧るように叔父の気配を全身で感じ取り、家族の隙をうかがっては、そっと叔父の横顔に視線を走らせる。まして、叔父が目の前にいなければ、逃げ出せない厚い鉛の壁に閉じ込められている気がする。居ても居なくても、叔父の存在そのものが、切なく息苦しい。
 眠れない夜に思いつき、叔父の傍に寄り添う叔母と自分とを入れ替えてみた。よけいに眠れなくなった。それ以来、いくら抑えても、狂おしい想像が立ち現れる。
 空想の叔父は、夜ごと、目に生き生きと育っていく。美也の想いを吸って養分に変えるのか、叔父の幻は、骨と血肉を身にまとって色つやを増していく。これは危ういと自分でも思うのだが、想像を押し止める手立ても思いつかず、けっして手に届くことのない叔父の姿をひたすら見つめるだけだ。
 せめて、お兄さんの妻が叔母さんでなければいいのに。
「聞いてると、女三人の声は恐ろしいほどに、そっくりだな。まさに、血のつながりを感じるよ。な、亮君」
 にこやかに叔父に話しかける父の言葉に、美也の胸は絞り上げられ痛くなる。
 血のつながり。まさしく、そうだ。あたしは、叔母さんの姪だから、こんな風にお兄さんに心を寄せてはいけない……。

 とりわけ暑い翌年の夏だった。その夏は、紫外線を防止する効果があると、黒色が持てはやされた。派手好きの叔母までが、外出時には帽子に手袋にと、すすんで黒を選んで身につけた。
 ある日、叔母は家に現れるなり、持ってきた傘を広げた。
「姉さん、この日傘すごいと思わない? 全部手作りよ」
 母は露骨に眉をひそめた。
「ホコリっぽいねぇ」
「そんなこと言わずに見てよ。取っ手から柄まで手彫りをほどこした傘なんて、珍しいでしょ」
「そんなのが、あんたの好み? まるで骨董品じゃないの」  たしかに彫りは見事だが、カビと埃の臭いが彫り目から漂ってきそうな古物だ。
「それほど古くないってば。ほら見て。この黒だって立派でしょ。まさに烏の濡れ羽色、漆黒って、これよねぇ」
 母は首を傾げる。叔母の目には漆黒と映るだろうが、どう、ひいき目に見ても、黒ずんだ紺としか言いようがない。
「その、ご大層な傘は、どこで手に入れたの」
「近所の奥さんに貰ったのよ。チャリティセールで買ったけど、自分は使わないって」
 声がはずんでいる。よほど気に入ったらしい。
「そうかね。使わないじゃなくて、使えないが本音じゃないかね」
「どういう意味?」
「女日傘にしては大きすぎるから、きっと男物だよ。なのに、そんな余計な物が下がってたんじゃあ、男も女も持てやしない」
 母は、傘の周りをぎっしりと取り囲んで縁から真下に十センチばかりも垂れているフリルのレースを指差した。
「だいたいに、それは何だね。どうして布みたいに、骨と骨の間にピンと張ってないの」
「きっと、手で編んだレースを後から付けたのよ。だから、しっかり縫い付けてても下がるんだわ。でも、私はこれが気に入ってるの。デザインが変わってていい」
 愛でる手つきで、叔母はレースをなでる。
「そうかね。前が見えづらい上に、ひどく不恰好だと思うよ」「垂れたレースは、紫外線対策には絶好よ。前方だって、糸の編み目の隙間から覗けば済むことじゃない。いいから姉さん、ちょっと持ってみてよ」
 持てば値打ちが分かる口ぶりだ。
 目の前に突き出された傘を、母は気の進まない様子で受け取った。
「……重い。まさかあんた、こんなものをささないよね」
「当然さすわよ。日焼けしたくないもの」
 叔母の言葉に、母は目を見開いた。
「紫外線防止なら、今までの日傘で充分じゃないの。やり過ぎは見苦しいよ」
「見苦しくったって、私には必要だと言ってるでしょ。肌の白さは、私の宝よっ。年上の女房はね、こんな些細なことでも夫に気を遣うのっ」
 言い放った言葉の調子にひやりとして、思わず叔母の顔を見た。母は返す言葉に詰まったらしく黙り込み、叔母は傘を抱いて早々に暇を告げた。
「誰が見たって、やっぱりあの傘は、とんでもない代物だよ」

 叔母が帰ったあと、美也に向かって言い訳がましく母はつぶやいて眉をひそめた。
 以来、叔母は季節におかまいなく、陽が照れば必ずその日傘をさした。

 あの夏の一刻は、魔から悪戯を仕掛けられたとしか言いようがない。
 母と叔母とが週末の旅行中だった。父の突然の出張で、叔父と二人だけの食卓を囲んだ。味を感じない食事が済んだ後だ。緊張のあまり気が遠くなる時間と空間の狭間で、好きになってとは言えない叔父への秘めた想いが、竜巻となって美也の身体を突き破った。
「おねがい。あたしを……」
 抱いて、と消え入りそうにささやく美也に、叔父は固まった。
「……それは、美也ちゃん」
 いや。それ以上なにも言わないで。
 言葉にならない叫びで、頭をはげしく横に振る。一つと思う心と体が、もしも別々になってしまうなら、ほんとうは心を愛して欲しいけれど、それは叶わないのは分かってるから。いっそ、体を抱いて欲しい。
 目を固く閉じ、子猫になった美也だ。絶対の信頼で母猫の腹を求め、胸に額を、肢体に身体を、ぐいぐいと押しつける。叔父は両手をさげて、突っ立ったままだ。
 とつぜん背中に温かく大きな手を感じ、叔父の胸に、すっぽりと身体が包まれた。
「お兄……」
 叫びそうになった口を、冷たい唇でふさがれた。
 身体が床へと、ぎこちなく崩れ落ちる。とろけるように愛撫される髪の毛と、うなじ。ふるえる胸、腕、指、唇、舌。裸の背を床にあずけ、叔父の背にまわした手に力を込めて、しがみつく。
 これが、お兄さん。あこがれてたお兄さん。
 美也は泣いた。分け入ってきた男の熱いものに身体の中心を貫かれたとき、涙が流れ落ちる感覚もないまま、子どもになって震えて泣いた。
 あたしは地獄に落ちる。でもいい。お兄さんとなら、どこへだって行く。
 美也の体に作られた海溝は、ひび割れて、どこまでも深く裂けていく。安心感だけが体を包み込む。男の体の波に揺られて漂う。やさしく激しく漂い続ける。ゆっくりと世界が空っぽになっていく。
「きれいだよ。素敵だったよ」
 ひそやかな声に、ぼんやり目を開けた。上体を起こして床に座り込んだままの叔父と、目が合った。
「愛してくれて、ありがとう。あたし、お兄さんがもっと好きになったわ」
 口を突いて出た美也の言葉に、叔父の視線が激しく揺らいだ。美也から視線をはずし、肩を落とす。床を見つめて半眼になり、下唇を噛みしめた。たった今まで肌を合わせていた歓びなど、みじんも感じ取れない叔父の仕草だ。
 戸惑った。エアコンの音が、急に耳に大きく聞こえ、けだるく汗ばんでいた幸せな身体は、急速に冷えていった。埋めようのない距離を感じた。
 ふだんより青白く見える叔父の顔が、いきなり美也に向けられた。
「すまない。このことは忘れてくれ」
 深々と頭を下げる。
「何するの。やめて」
「ほんとに、すまない。魔が差した。あまりにも都合のいい言い訳だと思う。それに、こんなことを頼めた義理じゃないとも思う。でも、お願いだ。忘れて欲しい」
「そんなことしないで。あたしにも責任があることよ」
「いいや。これは僕の失態だ。美也ちゃんのせいじゃない。お願いだから忘れてくれ」
 視線を外したまま、美也を見ようともせずに同じ言葉を繰り返すだけの叔父だ。こんなときこそ本物の子猫になって、大声を張り上げ泣き喚けたら、どれほどいいだろう。
「あたし、忘れるなんてできない」
 叔父が言うように、これは偶然が作り上げただけの過ちかもしれない。けれども、叔父に抱いていた想いは、けっして、まやかしや偶然などではない。でも……。
 頭の中に、あの黒目傘を深くさした叔母の立ち姿が浮かんだ。顔は内に隠れて見えず、傘の縁に綴じ付けられた黒レースが、重く揺れた。
 途切れた思考の先を、苦く飲み込む。起きたことは現実だ。そして、何があろうと叔母に知れてはならないことだ。
 出来事は、秘め続けた叔父への想いとともに、胸の奥深くに仕舞いこむしかない。
 お兄さん……。
 美也は胸で呼びかける。
 彼のしなやかな指。温かい唇。柔らかな舌。そしてたくましい胸。すべてが、お兄さんだった。たった一度の充実感は、宇宙だった。あの瞬間が、生きているってことだった。お兄さん、せめてもう一度だけでも、あたしの心と体を満たして欲しい。
 身体を埋めつくす切れ切れの言葉がこぼれ落ちて、拾い集めても持って行き場のない枯れ葉に変わり、辺りに散らばり広がっていく。
 人目の無いときに、さり気なく、視線さえも合わせないで、叔父がささやく。
「申し訳なかったねぇ。美也ちゃんは僕にとって大事な人だよ。ずっと可愛い姪だよ」
 お願い。謝らないで。すかすかの空洞になった心に、もっと多くの穴が開く。
 時計の針は、秒から分へと規則正しく時をつないで刻み続け、容赦なく過ぎていく歳月は身体をおおって月から年へと移っていく。
 美也はシングルのまま、憔悴しきって三十歳の誕生日を越えた。

 叔母が逝ってから、時が止まったように思える一年だった。
 茶が載った盆を持って座敷のふすまを開けた美也の目に、正面の父の隣に座った神妙な顔つきの叔父の姿が飛び込んだ。
 他人の顔を見るたびに愚痴る母を相手に、辛抱強くうなずき返している。四十一歳になった男は、いつ見ても、ねたましく思えるほど若く、はつらつとしている。
 母が時折、亮さんはあの子を思い出すことってあるのかしらと、疑うのも納得できる。
「いやあ、美也ちゃんにも、今までずいぶんお世話になったね」
 見つめる視線に気づいたらしく、明るく改まって他人行儀に頭を下げる叔父だ。
「いいえ。お世話だなんて、あたし何もしてません。それよりも、ご婚約おめでとうございます」
 これも改まって応じる美也は、母と同様、こんな言葉など口にしたくはない。叔父を見つめる自分の目が血走っている気がする。
「未来の嫁さんには、いつお会いできるかね」
 父が屈託なげに問いかけた。
 言葉が終わらないうちに母の表情がかげり、あからさまにそっぽを向く予想通りの反応だ。美也も、そっと目立たないよう奥歯を噛みしめる。
「明日、連れてきますから、会ってやって下さいますか」
 おずおずと微笑んで尋ねる叔父に、父は笑顔でうなずく。母の気持ちも考えないで、叔父に笑顔を振りまく父の気が知れない。男とは、そうしたものか。
 母がとつぜん、叔父の正面に向き直った。
「ところで亮さん、結婚後は、どこにお住まい?」
 叔父の笑顔に影が射した。隠れたトゲを美也も気づいた。
「せっかく、お義姉さんにお世話いただいた一戸建てですが、あの貸家は引き払おうと考えてます」
「そうね。前の奥さんの思い出がいっぱい詰まった家なんて、今度薪しく来る奥さんだって嫌でしょうからね」
 美也は居たたまれなくなって、その場を抜け出し、自分の部屋へと駆け戻った。
 ベッドの端に腰を下ろし、ほっと息をつく。
 いちいち突っかかる母も母だが、先妻を亡くして、たった一年くらいで妻を迎える叔父も、あまりといえばあんまりだ。しかも、その相手は。自分でない。
 部屋の隅に置いた和ダンスに目をとめた。中に納まっている叔母の形見が、美也の目の中で立ち上がる。
 いつも好奇心旺盛で、夫や姉や義兄に甘え、空気を充填したゴムまりのように気分が弾んでいた叔母だ。一人っ子の美也にとって、親の愛情を奪い合う点では、叔母というより姉に近い存在だった。
 叔母が亡くなったあの頃は、特に自分を見失っていたと思えだから、親戚連中が止めるのも聞かずに、あんな形見の品を選び取ってしまったのだ。
 和ダンスに近づき、観音開きの扉を開ける。引き出しに両手を添えて手前に引き抜き、おおっている上布を、息を詰めて一気にはぐり、形見の品を取り出した。
 じっと見つめる。
 見るからに、豪華で贅沢な、総鹿の子絞りの着物の片袖だ。とてつもなく高価だと素人目にも分かるこの品は、形見分けの席でも、他の慎ましやかな雑多の品々に交ざって、呑んだ息を吐き出すことさえ忘れてしまうほどの、美術工芸品じみた輝きを放っていた。

 僕には判りかねますから義姉さんお願いしますと、母が叔父から任された形見分けには、わずか数名の身内が集まった。
 ざっと見渡す遺品の中に、四十五年生きてきた叔母の財産で、めぼしい物は何もない。それでも、取りあえずは年齢順に、一人が三点ずつの形見を選び、残りは適当に分けようと話し合って決めた。
「あの子、こんなに上等な品、持ってたかな。あんた、見たことある?」
 母が着物に目をとめ、美也を振り返った。心当たりはないと首を横に振る。
 京都に嫁いでいる叔母が、目を見張り、ため息をついた。
「いやぁあ、えらい見事な絞りどすなあ。こんなに豪華な絞り、うち、京都の呉服屋でも見かけたこと、おへん」
 名古屋に住んでいる叔母も、力を込めてうなずく
「ほうだなも。ええ着物だなも」
「ほやけど、なんで片袖しか、おへんのやろ。おまけに、この袖の縁を見とみぃやす。こないに荒々しゅう引きちぎったような……」
 皆で顔を見合わせた。
 ちょっと目には右左の判別がつかない片袖を、あっちこっちと裏返したあげく、叔母たちは、たぶん左袖だと言いきった。
「まあ、こういうハギレも何かの役にたつと思って、あの子が手に入れたんでしょうよ」
 年長の母が雑談を終わらせて、さっそく形見分けが始まった。
「さあさ、今度は美也ちゃんの番」
 うながされての順番だ。
 目を配る。死者への供養と言われれば、返す言葉に窮するが、最初から叔母の遺品に欲しい品はない。いや、それ以上に、もらう資格なぞ自分にはない気がする。
 困りきって眺める美也の目に留まったものがあった。総鹿の子紋の片袖だ。話題の中心にはなったものの、欲しい三点には誰も含めなかった。吸いつけられるように見つめた。
「あの袖、もらっていいかしら」
「えっ、あんな……」
 母が絶句した。
 途切れた言葉の後をつなぐつもりか、年下の従姉妹が甲高く叫んだ。
「あんなものを? たしかに綺麗だけど、中はビヨビヨ、縁もボロボロじゃん。何の役にも立たないよ。ちょっとは使えるものを選ばないと」
「そうそう。あんなの貰いはっても、さんざん手え加えて、せいぜい花ぴん敷きどす。止めときなはれ」
 引き止める従姉妹と叔母にうなずいたものの、美也は袖を手に取り、きっぱりと言いきった。
「あたし、これにします」
 物好きだ、気が知れないと言いたげに、皆は顔を見合わせた。
「美也ったら、次には、あの趣味の悪い黒日傘が欲しい、なんて言い出さないだろね」
 げんなりとした顔でつぶやいた母だ。
「まさか」
 美也は首を左右に振って、気弱に笑ってみせた。母がつぶやかなければ、きっと吸い寄せられるように手にしただろう。
 予想したとおり、黒い日傘は誰の手にも触れることなく最後まで残り、もっと値打ちのない雑多の品々ともども、叔父の手にゆだねられた。

 袖は、時折こうして取り出しては眺めるだけで、花ぴん敷きに姿を変えることもなく、今もそのままタンスに仕舞いこんだままだ。
 思い出に揺らいでいると、部屋のふすまが荒々しく開いて、母が入ってきた。
「明日だって。明日、亮さんが私たちに、彼女を引き合わせるってよ。よりにも選って、この師走の忙しいときに」
「あたしも聞いた」
「なんて図々しいんだろ。可哀想なあの子の夫だと思うからこそ、放っておいても生きていけそうな押しの強い男でも、今まで精いっぱいの面倒を見てあげてきたのに」
「あんなにお兄さんのことが好きだった叔母さんへの供養になるから、それでいいじやない。それに、一年経って喪があけたでしょ。結婚するのも仕方ないよ」
 不満げな母の言葉につられて、まったく心にないことを口走ってしまった。
「そういう問題じゃないよ。人間には、誠意ってものがあるでしょうが」
「そりゃそうだけど……」
「今までお世話になった御礼に一席設けたいと招待されたって、そんなもので、ごまかされないよ。だって、その席に彼女まで連れてくるんだよ」
「母さんったら……」
 ため息が出た。
「ねぇ、あんたも行く? あんたも呼ばれてるんだから行って、どんな女をたらし込んだか見てやる?」
「よしてよ、母さん。それこそ師走の忙しいときに、あたし、そんな時間なんてない。まして、お腹の中を真っ黒にして、他人の幸せを睨むなんて悪趣味もないわ。父さんと二人で行って」
「そうだろねえ。私だって、うっとうしくて行きたくないよ。でも、あの子のためだね。どんな女が後釜に座るか、しっかりと見届けなくちゃ」
 いやがる言葉とは裏腹に、母は張り切って見えた。
 美也は、さらに息巻く母を部屋から追い出し、目を閉じた。
 お兄さんが、……結婚する。

 知ってはいたが、ここまで多弁な人とは思ってなかったと、美也はうんざりして母の口元を見つめる。
 婚約者と会ってきた母の報告は、自分の見合いの席から戻ってきたかと勘違いするほどに、見た目の顔にスタイル、話し振りに加えて、年齢に趣味、それに特技と、ひと通りを並べ立てて、それでもトゲを交えることも忘れずに念入りだ。
「なんか、うじうじした感じの、いかにも気持ち悪そうな女だったよ。あらぁ、亮さんがお世話になったお二人だけでなく、お嬢さまにもお会いしたかったですわ、なぁんて、心にもないことを、上品ぶった声で言われたってねえ。こちらさまにも都合があるってものよ。ねえ、美也」
「うん」
 仕方なくうなずく。
「やたら手足の長い大女でさ。それに、あきれるじゃないの。こちらが訊きもしないのに、いきなり、子どもは何人でも産みたいです、だってよ。まるで、子どもを産めなかったあの子に対する嫌がらせじゃないか。それほど若くもないのに、そのくらいのことに気づかないなんて、いったい何を考えてるんだろねえ」
「ほんと」
 しかし、今となっては、どうでもいいことだと思う。叔母はこの世にいないのだ。
「おまけに、その女の趣味の悪いことったら、ないの。この寒空に、肩が丸出しになってる夜会服みたいにド派手な、ロングドレスなんかを着てきたんだよ。まぁ、物は良さそうだったけど。でもね、いくら正月が近いといっても、真っ昼間に、仮にも年上の人間に正式に紹介してもらおうって席に、着てくる代物じゃなかったよ、あれは」
「そう」
 美也の返事に気持ちはこもっていない。
「ありや、まるで袖なしの着物にしか見えなかったね。色黒の顔に、玉虫みたいな深緑色が、ちっとも似合ってなかった」
 一瞬、どきりとした。
 動揺を押し隠し、そっぽを向きながら尋ねる。
「ロングドレスなのに、なんで着物に見えたの?」
「そりゃそうだね。あら、どうしてだろ……。そういえば、見覚えがあるような……」
 母の言葉に、ひやりとした。
「母さんったら、話をそらさないで。どうして着物に見えたの、って聞いてるのよ」
 急いでさえぎる。
「ああ、ごめんごめん。そうねえ……。たぶん、着てる人間が、ずん胴だったせいだろうよ。それに、ありふれた模様はともかく、ご大層にも総絞りなんだよ。着物みたいな鹿の子の総絞り。だからだろうね」
 鼓動が激しく胸を打ち、心臓が口からはみ出そうになった。
 和ダンスに素早く目を走らせる。聴いて想像するだけだが、引き出しに納まっている叔母の形見の片袖と、そっくり同じだ。おそらく、あの着物に違いない。
 母の顔色をうかがった。ほうけた表情を浮かべている。すべてを報告し終え、安心して気が抜けたのだろう。娘が感づいた事柄には、どうやら気づいてなさそうだ。美也は、ためていた息を目立たないように、そっと静かに吐き出した。
 部屋を出る母を見送るなり、ベッドに突っ伏した。
 うじうじして、ずん胴で、色黒の女。
 母が並べたてた叔父の婚約者像は、願望と偏見に満ちているが、きっとあの女だ。他には考えられない。
 それにしても、袖のない着物の身頃部分をロングドレスに作り替えて着てくるとは、なんと大胆なことをするのだろう。先妻の家族に対する宣戦布告か。それとも、間もなく手に入る妻の座を守りとおそうとする決意の表れか。
 頭の中で、あのときの女の声がよみがえった。
「亮さんが大切に思う人を傷つけてはならないと、私の存在はひた隠しに隠していましたのに」
 女の思惑通りになっていた。父はもちろん、叔母も母も気づいていなかった。不審に思ったのは、いつも叔父の行動を見続けていた美也だけだ。あの時は、そう思い込んだ。
 緊張の糸を張り詰め、叔父の跡をつけて突きとめた女の家に、一人乗り込んだ。

 面長な顔に涼しげな目をした背の高い人で、美也より二、三歳ほど年上に見えた。
「叔父との関係は、いつからですか」
 きつく問いただす美也の顔を兄もせずに、すらりと伸びた手を、ちゃぶ台の下でよじって女はうつむく。
「もう忘れるくらい前からです」
 消え入りそうな声だ。
 美也の身体に、新たな亀裂が走った。たった一度のきらめいた瞬間、叔父の後ろにたたずんでいたのは、叔母だけではなかったのだ。
 叔母にすまない。あきらめねば。だが。いっそ無理やり、この愛しい人を奪い取ろうか。
 揺れる狭間に立ちのぼる抑えきれないもくろみに怯えた日々が、脳裏に生々しくよみがえる。
「お願いです。奥さまが気づいてらっしゃらなければ、どうか、そっと、このままに」
「このまま、ってどういう意味ですか」
「……このまま、見逃してくだされば」
「叔父と別れてくれるんですね」
「それは……」
 返事に詰まり、白く固まってしまった女の額に目をすえ、じっと見つめた。
 この沈黙を掘り進むと、自分と似たり寄ったりの難渋にたどり着き、酷似する苦悩に行き当たる。けれども、叔母と自分の側に、もう一人、女を加える気など毛頭ない。叔父に対する想いを、叔母以外の人間と共有したくはない。
 黙り続けている女が、我慢できないほど、うとましくなった。
「あたしが叔母に言いつけようが言いつけまいが、あなたに知らせることではないけど、叔母を苦しめるつもりはありません。だから、あなたのことなんか、言う必要はないと思います。もちろん、きちんと別れるならの話ですけど」
 うつむいたままの女のこめかみが、青く脈打った。
「……分かりました。奥さまに悟られる危険をおかすわけにはいきません。あの人が大切にする人は、私も大切にしたい。あの人が苦しむ姿を見たくはないから」
 どこまでも叔父の側に立とうとする女だ。
「すぐに引っ越してもらいます。でも、叔父や叔母にせがむのは止めてください。お金が必要なら、あたしの貯金を」
「ご心配なく。迷惑をかける気はありません」
 金の話が女を傷つけたらしい。美也が言い終わるのを待たずに、言葉がおおいかぶさるように女の口を突いて出た。
 話すことは、もう何もなかった。思うよりはるかにあっけなく話はついたと、内心の安堵を押し隠し、腰を上げかけたときだ。とつぜん、女が顔をあげた。
「美也さんって、おっしゃいましたよね」
 いまさら何を言い出すかと、けげんな顔を女に向ける。
「私には、美也さんの気持ちがよく分かります」
「あなたに言われることではないわ。姪なんだから、叔母と叔父を心配するのは当然でしょ」
 女の目が光った。
「あなたも、あの人が好きなのね。叔母さんと血のつながった姪なのに、その夫が好きなんでしょう。あの人はステキだから」
 目が、美也を捕らえて放さない。
 別れを強要された腹いせに、反撃するつもりか。だとしたら成功だ。ずぶりと胸を突き刺された気がした。
「いい加減なこと言わないで。あたしとお兄さんって、そんな間柄じゃあないわ」
 思わず、お兄さんと口走ってしまった。他人の前では、けっして口にしない呼び名だ。
 女の口元が、皮肉っぽくゆがむ。
「かわいそうに。でも、心配なさらなくていいのよ。誰にも言いませんから」
 開いた傷口をさらに広げて撫でさする女の口調だ。余裕すら感じ取れる。
「失礼ね。変な勘ぐりしないで」
 否定する声が震えた。
「無理しなくていいの。あの人はね、守らなければならない人が誰かを知っていますから。それに、私だって、あの人とあの人の家族を守ってきたという自負がありましてよ。あの人が転勤する後を追って、迷惑をかけないよう、奥さまに悟られないよう、気づかいながら自活してきました。だから、こんなに長く、あの人との仲が続いたのよ」
 誇示するように胸を張る。女は、これを言いたかったのだ。
「そんなの、なんの言い訳にもならない。ただの身勝手よ」
「あの人は奥さまを大事に思うあまり、私に子どもが出来ないよう気を配りました。そうしながらも、私を大切にしてくれました。奥さまに尽くす誠意を、私にも示してくれました」
 誇らしげな女の顔だ。
「あなたたちが何をどうしたかは知らないけど、どんな言葉をつらねたって、あなたと叔父が、叔母を裏切り続けた事実に変わりはないわ。最低よ」
「それをおっしゃるなら、女である同じ性を裏切っている私と、叔母さんという同じ血を裏切っているあなた、どちらが罪深いでしょうね……」
「……」
 女の言葉に、それまで美也の心で張りつめていた糸が、ぶちりと切れた。
「ねぇ、美也さん。気がつきまして? 奥さまと私には、それほどの差はないけれど、あなたと私には、大きな違いがありましてよ。私はあの人に、心の底から愛されてますわ」
 唸り音を立てて、さらに何本もの糸が切れた。
 はじけた糸が勢いあまり、鞭となって、胸を激しく叩きつけた。しゃがみ込むほどの激しい痛みに、美也は言葉を失った。
 言いたいことを全て言い終えたらしい。女は黙り込んだ。ぎらぎらと艶やかに美也に向けられていた女の目は、光を失って無機質になった。
 女の視線が、美也の後ろへ流れている。
 つられて振り返り、天井を仰いだ美也の目に、長押にかけられた着物が映った。見事なまでの絞り染めだ。息を呑み、女に背を向けたまま状況を忘れて、思わず見とれてしまった。
「お正月に着るといいよと、あの人から買っていただきましたの。いつも君には寂しい思いをさせてるから、せめてもの僕の心づくしだとおっしゃって……。十年以上もかかって貯めていたお金をこっそりと、はたいたんだよと笑っていました」
 体中の血が逆流した。美也のなかで、叔父と女の距離が一気に縮まり、最後に残っていた理性のわずかな糸が切れてしまった。
 振り返り、女を睨みつけた。あっけに取られている女を尻目に、素早く飛ぶように立ち上がると手を伸ばして、長押にかかっている衣紋掛けから、着物を引き剥がし、身頃と袖を両手に持って満身の力を込め、左右に引っ張った。片袖を引きちぎり、もう片方も引きむしった。
 すり切れた畳の上に叩きつけると、豪華な玉虫色の鹿の子総絞りの着物は、ただの三枚のポロ布にしか見えなくなった。
 お兄さん! 亮さん!
 あのとき耳に響いたのが、女の悲鳴だったか、自分の叫び声だったか。今になっても美也には思い出せない。しかし、心の中の叫びなら鮮明に覚えている。
 おねがい、お兄さん! こんな女を見ないで、あたしを見て! あたしを愛して! 両袖二枚の布を手につかみ、女の家を飛び出した。北風が吹く師走の街中を、風に舞うチラシ紙になって、さまよった。
 これで、あの女は着物を手放すことも着ることも出来ないだろう。身頃だけになった着物を見ながら思い出に苦しめばいい。
 いつの間にか、叔母の家にたどり着いていた。

 足元がうねり、差し出す手がゆらぐ。先に見える袖がかすむ。思いが渦巻き、口の中の言葉が言葉にならない。聞こえるのは叔母の声ばかりだ。
「美也、大丈夫?」
「どうしたの? これ、何?」
「ひょっとして……、女?」
「やっぱりね。女がいたのね。会ったの? どんな女? 若いでしょ? 子どもはいるの?」
「美也、教えてよ。美也っ!」
 これは悲鳴だ。叔母の悲鳴だ。叔母は何を叫んでいるのだ。白い顔が近づき、ゆがみ、ねじれて縮む。
 意識が離れたと感じた瞬間、美也の体は傾いて靴箱にぶっかり、我に返った。
 正面から覗き込んでいる叔母の顔と向き合い、美也は自分が何をしでかしたかを悟った。うろたえ、こめかみに手をやった。
「ごめん、叔母さん。あたし、ちょっと気分が悪くって……」「お願い、美也。その女のこと詳しく教えてっ」
 もう、ごまかせない。覚悟を決めるしかない。
「あたしよりも年上。子どもはいなかったわ」
「……そう」
 真っ青な叔母の顔だ。
「作らないようにしてたって」
「……」
 叔母は無言だった。目が、じっと美也に注がれている。何の感情も読み取れない視線だ。
 耐え切れなくなった。ここへ来たのは間違いだった。叔母に知らせる必要などなかったのだ。
「ごめんなさい、叔母さん」
「あんたが謝ることではない」
「でも、あたしが言いつけたばっかりに……」
「いいえ。女のことは、何となく感づいてた。それよりも、美也。私が考えてるのは、あんたのこと。あんたは、なぜ、そんなものを持って、ここまで来たの」
 傾いだ顔で低く静かに問いかけ、うつろに美也を見つめる。
 叔母の目の奥に、冷え冷えと深い闇が生まれているのに気づいた。闇は、告げ口の原因となった美也の抑えきれない叔父への思慕と嫉妬心のすべてを察してしまったと語っている。身体が凍りついた。
「叔母さんごめんなさい。あたし……」
 夢中で袖をつかみ、よろけながら家を逃れ出た。
 周りの景色が微粒子となって、辺りに飛び散る。ほうけた叔母の顔が、道いっぱいに貼りついている。叔父と過ごした親密な時間が、泥になり、断崖に向かって流れていく。泥の底に、叔母愛用の、あの黒日傘が大きく広がる。
 とつぜん、一枚の袖しか持ってないと気づいた。もう片方の袖を、叔母の家に残してしまった。しかし、いまさら取りに帰るわけにはいかない。
 あたしが一番ひどいことをした。あんなに、あたしを可愛がってくれた叔母さんを裏切った。この気持ちは何があっても隠し通さなければならないのに、叔母さんの心に闇を作り、叔母さんを壊してしまった。
 自宅に戻る道すがら、それだけが鮮明な叔母の顔が、ぼやけた美也の目に鋭い痛みをともなって焼きついていた。
 叔母が心不全で逝ったのは、その夜だ。姪と夫の二重の裏切りが、死の誘因になったと思う。そうであっても、忘年会で帰りの遅かった夫と修羅場を演じる暇が叔母にはなかったのが、せめてもの救いだと、美也は思いたい。

 結婚する叔父の心を推し量る。妻と愛人と姪の間に飛び散った相克の火花は、叔父には届いただろうか。い駕届いたとは、とても思えない。
 和ダンスの中から、あの日、叔母の家に残し、形見分けでふたたび手に入れた片袖を、取り出した。光線の具合か、今日の深緑色は、特にあざやかだ。
 形見の袖を傍に置き、タンスの最下段の引き出しを、そっと引く。
 鼻をつく防虫剤の臭いとともに、今は着ることのない衣類が現れた。古着をかき分け、さらに引き出しの底へと手を差し入れる。
 目的の品を探り当てて取り出した。叔母の家から持ち帰った方の片袖だ。
 叔母の形見の袖はたびたび手にしたが、こちらの袖は持つのも見るのもあの日以来だ。一年分の湿気を含んで重い。気のせいか、形見の袖より手垢がついていない分、さらに輝いて見える。
 これほど豪奢な着物を贈られた者は、どれほど誇らしく嬉しかったことだろう。女の顔が目に浮かぶ。失意に打ちのめされながらも毅然としていた。
 それに比べ、自分は。叔父が女に買い与えた愛の証の着物を引きちぎり、一方の袖を持ち帰って、もう片方を叔母の遺品として貰い受け、こうしてポロ布になった袖だけを両方そろえて持ち続けている。
 自ら手に入れたとはいえ、なんと皮肉なめぐり合わせだ。
 力いっぱい、袖を握りしめた。羽二重の繊細な絹の布地が、肌にしっとりと吸い付くようだ。
 「あれから一年も経つ」
 握りしめた袖を見つめて呟いた。
「こんなのを持ってても、悔いが残るだけ。いっそ捨てようか」
 あの女と結婚する叔父にも、新しい生活が始まるのだ。この辺りで、因縁の品はさっぱりと捨てて、やり直さなければ。
「だけど……」
 捨てるだけで、この気持ちに整理など付くだろうか。
 考えていた美也は、意を決したようにうなずいた。
 袖を持ち、表地を指でつまんで持ち上げる。表よりもわずかに明るい萌黄色の裏地が、顔を覗かせた。広げて左右に引っぱり、思わぬ抵抗にあった。少し力を加えると縫い目は解けると踏んだのに、絹糸は意外に強い。あの女のように強い。
「あんたは叔父と結ばれてはいけなかったのよ」
 叫びながら、両腕に力を込めて引きちぎると、やっと表と裏は二つに分かれた。息を弾ませ、裏地を足元に置く。
 まずは、表地からだ。一枚の布になった袖の中央を口にはさんで、二度三度と奥歯で布の端を噛みしめると、しっかりとくわえ、腕に力を込めて一気に布を引っぱった。
 ピッと音をたて、袖は縦にわずかに裂けた。叔父に抱かれた瞬間から、ずっと身体の奥で燃え続けていた隕石にも、同じ幅のひびが入った気がした。
「お兄さん……」
 胸を押さえてつぶやいた。
 上手に持ち替えた両手を布の裂け目に添え、左右にゆっくりと力を加えて分けていく。悲鳴をあげて絹が裂ける。思わず歯を食いしばってしまいそうな音だ。かたく目を閉じ、耳を傾けた。
「泣けばいい。叫べばいい。叔母さんは失意のままに世を去ったのだから、あんたと叔父も、こうして別れ別れになればいい」
 思いっきり引きちぎる。一枚の表布だった袖は、完全に二枚に分かれた。
 二枚になったそれぞれの布を、さらに二枚に引き裂く。二枚が四枚に、四枚が八枚にと、引き裂くごとに倍になって増え続ける布の数だ。布幅は、ますます狭くなる。
 紐状になるほどに噛む範囲が狭まっていき、裂きにくい。手が切れて、布が食い込み、血がにじみ始めた。噛みしめる歯がうずく。
「でも、ぜったいに、あんたを鉄で簡単に切ったりはしない」 美也の手にある袖は、いまや、女そのものだ。体を割くように、こうして布を、裂いてやる。頭も胴も手も足も 着物は、女に与えた叔父の愛だ。二人に別れが訪れますように。願いをこめて、この手と歯でもち、二つに裂いて、千切って、破るのだ。
 絹が泣き、女が叫ぶ。
「これでいい」
 美也は満足げにつぶやくと、糸かと見惑うばかりの紐に姿を変えて、畳に小山を築いて横たわる両袖の変わり果てた残骸を見下ろした。

 ふすまが開き、母の顔が覗いた。
「何を叫んでるかと思えば。それって何なの」
 うずたかく盛り上がった紐に、目を大きく見開いた。
「うん。ちょっとね」
 ごまかす美也だ。母は、紐の元の形には気づいていない。
「あ、そうそう。さっき言い忘れたけど、例の二人が年賀に来るってよ」
「ふうぅん」
 素知らぬ顔で生返事をする。願ったとおりの成り行きだ。
「話の流れで、そうなってしまってね。お父さんが調子よく、いらっしゃいなんて誘うものだから。まあ、ちょっとの挨拶だろうけど。なんだか、亮さんより彼女のほうが積極的だったよ。二日と三日は予定があるらしく、おついたちに来るって」
「元旦?」
「そうよ。元旦。いくら、やむを得ない事情があると言ってもねえ。ほんと、常識のない人たちだよ。でもまさか、いくら図々しい亮さんでも、これから先もずっと我が家と親戚付き合いを続けるなんて気はないだろうから、ここは我慢しなきゃと思って、どうぞいらして下さいと返事したけど」
 そうか、元旦に来るのか。間に合うだろうか。
「美也、聞いてる?」
「うん。聞いてるよ」
 しかしチャンスは、この一回きりだ。間に合わせねば。
「いやだねえ。忙しい年の暮れが、よけいに忙しくなる。さあさ、あんたも、こんなポロ紐で遊んでないで、掃除くらい手伝ってよ」
「あたしだって忙しいの。しなきゃいけないことがあるから、あっちに行ってて」
 ぶつぶつ文句を言いながらも、母の顔は引っ込んだ。

 手ごろな太さの鈎針を一本、裁縫箱から取り出した。
 引き裂いた布を手に取り、針にからめる。絹は、思ったより簡単に、針に吸い付いてきた。美也は満足げにうなずくと、切れっぱしの紐を次から次へと針にからめて、せっせと編み始めた。
 短い糸を、継ぎ足し継ぎ足しして、さくさく編んでいく。せっかく裂いた糸と糸だ。けっして結びはしない。ただ継ぎ足すのみだ。
 途中で思いつき、引き出しに収めていた着古しの派手なブラウスや、着なくなった水着も紐状に切り、編み込んだ。多彩な色合いになり、いっそう絹の緑色が際立つ。
 夜を日に継いでも、時間は容赦なく流れていく。瞬くうちに、元旦まで残すところ、あと一日になってしまった。
 焦れば焦るほど、頭がおぼろになる。意識も、もうろうとしてきた。それでも手だけは動いている。
「ねえ、美也。美也ったら」
 かすかな声に耳を疑った。どこから聞こえてきたのだろう。不思議に思いながらも針を持つ手は休めない。
「鈎針は、やっぱり手に軽い竹製に限るでしょ」
 やはり叔母の声だ。しかし、これは気のせいだと、頭を左右に振る。
「力は平均に入れるのよ。……あ。そこは、詰め過ぎちゃ駄目。引きつって、みっともなくなるからね」
 そういえば、この数年で、毛糸編みからレース編みまでの編み物のほとんどを、叔母から教わった。母と違い、叔母は器用だった。目にも留まらない素早さで、鈎針や編み棒を動かした。あの技は超人のものだ。たいていの人は、とても追いつけないだろう。
 いけない。感慨にひたっている暇などない。元旦まで、あと一日しかないのに。
 ゆらゆらと頭を揺らして、叔母には及びもつかない針を、せっせと働かす。
「ほおら。この糸も編み込んでみなさい」
 ぼんやりと手を出して受け取った。手渡された糸を見下ろし、ぎょっとなった。叔母が愛用していた、あの黒日傘の縁に垂れていた黒いレースではないか。これは断れない。うなだれて糸を入れ込む。
(叔母さん……)
 華やかな色彩に、くっきりと目立つ黒の編み目だ。それなのに、まるで滴り落ちる叔母の血の色そのものに見える。
「あぁら。けっこういいじゃないの。その黒糸は、あんたの沈んだ表情なんかより、ずうっと明るいよ」
 くるくると日傘を回し、縁のレース糸を解いて繰り出しながら、叔母が微笑む。
 (ごめんなさい。謝りようもないけど、あたしを許して)
 この罪は、どうすれば償えるのだろう。
「どうしたのよ。いつも明るい美也ちゃんが、そんな暗い顔して」
 (叔母さん、許してください)
 あやまっても謝りきれないことをした。
「亮さんだよ。亮さんに責任がある。姪に色目を使うなんて」(いいえ。お兄さんが悪いんじゃぁない。あたしよ。あたしが悪かった)
 叔父に無理やり体ごと心を押し付けた。叔父は魔が差しただけのことだ。あたしはそれを認められずに、いつまでも追い続けた。
「仕方ないかもね。私は、子どもも産めない年上の女だから」 ほどけるレース糸で、黒日傘が小刻みに震える。
(そんなことはない。お兄さんは叔母さんを愛してた。あの女に子どもが出来ないよう気遣ってたもの)
 妻と愛人の両方を愛し、双方を守る。叔父のような愛し方もあるかもしれない。
「あぁら忘れてた。あんただけじゃなかったね。あの人には女もいたんだ」
(違うよ叔母さん。お兄さんは、あたしなんか何とも思ってなかったの)
 悲しいけれど、これが現実だ。
 ああ、お兄さん……。
 いや。口にしてはならない。これが最後だ。これからは、けっして呼びかけまい。
「女だけが愛人だと言われてもねえ。私には、何の気休めにもならないよ」
 黒い傘が、くるくる回る。糸が激しく繰り出される。
「それで? 亮さん、結婚するって?」
(ええ)
 胸が絞られる。
「しょげてるね。相手はあんたじゃないんだ」
(うん)
「あの女だね」
(そう)
 叔父なら、子どもが生まれようが生まれまいが、妻を守り通して暮らすだろう。
「残念ねぇ。結婚するのが、あんたなら良かったのに」
 美也の編む手が止まった。
(……どうして?)
「だって、あんたは姪よ。私と血のつながった姪だもの。ほかの女なら、正面切って憎めるけど、あんたは憎めない。美也には幸せになってもらいたい。それが私の願いよ」
(ごめんなさい。叔母さん。心から言います。ごめんなさい) 叔母は遠くに去ったのに、叔母を傷つけた人間は、こうして生き延びている。
「さあ、もう夜も明けるよ。お喋りばっかりしてないで、さっさと編みなさい」
 黒い糸が叔母の指先から繰り出されて、傘の縁のレース糸がほどけていく。とけていく糸につれて、くるくると黒日傘が回り続ける。
 がくりと頭が前に垂れ、鈎針で額を引っかいた痛みに飛び上がり、目が覚めた。うたた寝をしていたようだ。
「叔母さん?」
 辺りを見回した。
 部屋のどこにも叔母はいない。戸惑いながら、膝に落ちた編み物をすくい上げ、じっと見つめる。あざやかな色彩だ。どう捜しても、黒い糸の一条もない。
「じゃあ、今のは夢?」
 なんと実像に近い叔母の姿だったことか。
 完成は間近い。自分を励まし、しびれて感覚の鈍っている手で、無理やり鈎針を握る。
「叔母さん。さっきは、本当に出てきたんでしょ」
 針を動かしながら宙に向かってつぶやいた。
 編み物が仕上がっていくにつれ、袖を裂いたときとは異なる柔らかい空気が、辺りに漂い始めているのに、美也は気づいていた。
 叔父と女の別れをあれほどに望んでいた気持ちも、前よりは薄らいでいる。着物の身頃でロングドレスを作った女の行為にしたところで、美也が想像したように元妻の家族に対しての保身や宣戦査口であるにしても、あの女の立場を考えると、当然かもしれないと思えるほどだ。ひょっとすると、買い与えた叔父の気持ちに報いようとしてドレスに作り変えただけかもしれない、とまで思いをめぐらせた。
 叔母を失った叔父にとって、いまや守りたいのは女だ。これは紛れもない事実だった。この事実を受け入れる程度の諦めはついた気がした。
「でも、お兄さんはどうしてあの女を、あたしたちに紹介する気になったのかしら」
 鈎針の先から、ささいな疑問がこぼれた。
 子はいないし、まして後妻を迎える叔父だ。再婚を機に、亡くなった先妻の身内との交流を断ち、ついでに、美也との過ちの事実を消し去っても不思議はない。それを、いくら世話になったとはいえ、婚約者を紹介したあげく、年始の挨拶にまでやって来るとは。
 母の言葉を思い出した。
 話の流れでそうなってしまってねぇ。……なんだか、亮さんより彼女のほうが、積極的だったよ。……これから先も、ずっっと我が家と親戚付き合いを続けるなんて気はないだろうから、どうぞいらして下さいと返事はしたけど。
「紹介したのも年始に来るのも、きっと、あの女の意思に違いないわ。なんて強い人なんだろう」
 大切なものを守り通して一歩も引かない女の強さに思い至り、袖を引き裂いたとき以上の手ごたえを感じた。
叔母さん。さっき、美也には幸せになってもらいたいと言ってくれたね。ありがとう。あたし、強くなる。自分で自分の幸せを手に入れる。だから、これを編み上げたら、一度この家を出るわ」
 それが、これからの生き方の答えのような気がした。
 毎朝のように、母に起こされて仕事に出かける三十一歳の娘だ。帰宅すれば、両親と食事と風呂が待っている。甘えた生活だ。これを自分から断ち切らなくては。
 まずは、一人になって生きてみよう。愛し合う人も探そう。それから、父母が待つこの家に戻ってこよう。
 もし、巡り合った人に妻がいるなら。……誰も傷つけないよぅ、ほんとうに愛を隠し通せるならば、あの女のような生き方もあるかもしれない。
「あたしって、なんて罪深いんだろ。叔母さんを傷つけておきながら、まだこんなことを考えてる」
 先ほどの叔母は、こんな虫のいい気持ちが作り上げた産物かもしれない。だが、叔母は実際に現れたのだと思いたくなった。傍にいる気までする。
 美也の頭の中で、黒日傘がくるりと回り、縁に下がった黒レース糸の次の段が、するりと解けた。
 新年を迎えた真夜中に、縦が六十センチ横九十センチメートルほどで、作品が出来上がった。玄関に運び、正月客を迎える準備の整った上がり口に敷く。つくづく眺めた。
 ブラウスや水着までも編み込んだお陰で、あざやかな色彩が加わり、もともと豪奢だった品が、さらに豪華に見える。色とりどりの花が咲き乱れるジャングル模様といった風情の玄関マットだ。引き裂いた布を編んだとは、とても思えない。まして、元が着物の袖とは、誰も思いつくまい。
「ねぇ、これって、なかなかのものでしょ」
 そこらに漂っていそうな叔母に同意を求める。
 日傘に垂れていた、あの重くて黒いレース糸をマットに編み込んだのが、夢ではなくて現実のようだ。
 これほどの満足感は、そう味わえるものではないと思いながら、新年の布団に入る。
 黒日傘をさした叔母が、縁のレース糸を軽やかに揺らし、なつかしい丸い笑顔で微笑みかける夢を見た。

「正月なのにいつまで寝てるの。早く起きなさい。もうすぐ、うじうじ女と裏切り男が年賀に来るよ」
 母の言葉に笑ってしまった。久しぶりの爽快な笑いだ。つられて、仏頂面の母までが笑い出す。
 いい正月だ、母さんの笑い声は久々だねと、父の声が居間の方から聞こえた。
「でも、私は玄関に出迎える気はないからね。あの人たちが来たら、美也が居間に通してよね」
 渋面を作った母の言葉に、にっこり笑ってうなずく。願ったりのお役目だ。チャイムの鳴るのが待ち遠しい。
 そして、ついに来た。化粧と正月の匂いをまき散らし、訪問着の振袖をひらひらさせて、あの女がやって来た。叔父までが、羽織袴の着物姿だ。
「あけましておめでとうございます」
 二人が並んで新年の挨拶をする。
 艶然と微笑みかける女の目に、揺らぎはない。いかにも誇らしげだ。正座した美也も、同じ類の笑みと挨拶を、女に返す。
「あのう……。この人が僕の」
 叔父が視線をはずしながら、美也に話しかけたときだった。居間のドアが開いて、母の顔が覗いた。
「紹介や挨拶は後でいいから、どうぞ、こちらにお入りなさいな」
 待ち望んだ瞬間だ。
 美也は膝をずらし、二人が上がりやすいよう、脇へと退いた。
 上がりかまちに、女の手がかかる。視線を下げた美也の目に、女の白足袋が、あざやかな玄関マットを踏みしめる。
 一輪、二輪。目にもまばゆい大輪の花。白足袋の花が、ジャングル模様を踏んでいく。総絞りの豪華な着物を、女の足が踏みしめる。
 美也の耳の中で、しおらしい女の声が響いた。
「お正月に着るといいよと、あの人から買っていただきましたの」
 女に続いて、マットを踏んで居間へと消えていく叔父の後姿を、じっと目に焼き付けて見送ると、美也は自分の部屋へと急ぎ戻った。
 押入れを開け、用意していた荷物を取り出す。わずかな金額を記した預金通帳が入ったショルダーバッグが一個と、衣類を詰めたボストンバッグ二個。これが、これから始まる独り暮らしの生活の全財産だ。あとは、叔父への想いも、あの玄関マットに編み込んだ女への恨みも、何もかも置いて家を出る。
「美也ぁ、早く、いらっしゃいなあ」
 居間で、母が呼んでいる。父の笑い声も聞こえてくる。
「はあぁい……すぐ行きまぁあす」
 きっと強くなって、お父さんとお母さんの元に、すぐに戻ってきます。
 美也は口の中でつぶやき、肩に担いだバッグを揺すり上げると、編み込んだ煩悩や雑念や過去を払うように玄関マットを勢いよく蹴って、体ごと玄関扉を押すと、後ろを振り返ることもなく外へと出て行った。

 

 

文芸同人誌案内」連携デジタル文学館・HOME


inserted by FC2 system