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「日々の泡」縦書きPDF版   

 

 日々の泡

 

                                                                         光野公彦

 

 

 

 「てくる」第4号(大阪市)より転載   

推薦 よこい隆さん 「木曜日」(東京)

 


 

 そのころ、といっても十年は経っていないけれど、まだ二十代だった私には、その日その日が白い泡のように感じられてならなかった。毎朝、朦朧とした意識でマンションを出て、夢遊病者のような足どりで会社にたどりつく。午前中をうつろな眼をして怠惰にすごし、午後三時をまわったころ、拡散し浮遊しつづけていた意識が凝集してひとつの形をとりはじめる。陽が暮れると同時に、精神がピンと張りつめ、とぎすまされ、眼のまえの仕事に没入する。夜の力が、集中力を極限にまで高めてくれると感ずるのは気のせいだろうか。仕事に区切りがつくたびに充実感などは持ちようがなかったけれど、少なくとも解放感にみちびかれ、上司や同僚につれられて夜の街をさまよい歩く。だが、いつもおなじような顔ぶれで酒を飲むものだから新鮮な会話は望むべくもない。いつか、どこかで、誰かが、何度か、語ったはずの話題に、曖昧な相槌をうちながらぼんやりとやりすごし、しきりに煙草をふかして喉を痛め、吐き気に顔をこわばらせる。適当な時間できりあげようと思っているのに、つい深夜までつきあってしまう。そうして気力も体力も消耗させ、黒いアスファルトや白いコンクリートを踏みしめ、よろめき、誰も待っていない部屋に戻ってくる。乱暴に衣類を脱ぎ捨てて狭いベッドに倒れこむと、つかのまの睡眠だけが自分に残された唯一の愉しみではないかと思えてくる。身を横たえたまま部屋の灯りを消そうと手を伸ばしてみるが、指先はスイッチの紐をかすめるばかりである。空を掻くその五本の指の動きは、溺れる者が何かをつかもうとしているさまに似ていなくもない。
 カメラを片手に海外を放浪していた私は、帰国してまもなく、ある学習塾チェーンの広告部で働きはじめた。五十人ほどの従業員数で互いに身動きすると体がぶつかりそうな手狭な事務所の片隅で、塾生向けの月刊誌や教室運営者向けの会報誌を編集するというのが仕事の内容だ。月刊誌の編集はつねに三本分が同時進行しており、昨日に八月号の色校正が終わったと思えば、今日は九月号のインタビュー取材や出版社の仕上げたゲラのチェックをしなければならず、明日には十月号の企画会議があるといった具合である。編集のかたわら、塾生募集のチラシなども制作しているのだが、広告部の部長は仕事のひとつひとつをそれぞれ異なる業者に発注しているので、複数の出版社や編集プロダクション、デザイン事務所、印刷会社の人間がひっきりなしに電話をかけてきたり訪問してきたりする。広告部といっても、たったふたりだけの部署だったから、それらに応対するのは部長か私のどちらかしかいない。
 部長はコピーライターあがりの、小柄で、はっきりとものをいう、陽気な男で、独身のせいかとても四十歳すぎには見えなかった。半年まえに私が五十分の一の競争率を突破してこの会社に採用されたのは、若いので高い給料を支払わなくてもすむことに加え、部長に雰囲気が似ていたことが決め手になったようだ。入社まえの面接で、すべての権限を持つ創業者の女社長の口から
「あんたら兄弟みたいやナ。似た者どうしやったらうまくいくんとちゃうか」
 と決めつけるようにいわれたとき、同席していた部長が怪訝な顔をしたのを憶えている。実際に入社して数ヵ月がすぎてみると、多少似ているのは前髪をおろした髪型と童顔なところだけで、性格はちっとも似てはいなかったのだが、それがかえって互いの足りない部分をおぎない、女社長の思惑通りうまくいったのは確かだった。
「おふたり、仲がいいですよねェ」
「広告部って、愉しそうやわァ」
 秘書課や電算課の女子社員から羨ましげによく声をかけられたのだけれども、彼女たちの噂話によれば、広告部で採用された人間は一ヵ月もしないうちに退職届を提出するのが恒例となっていて、どうやらその原因が部長の人格にあるのではないかと疑われていたらしい。もっとも、部長は自分の風評をあまり気にするような繊細な男には見えなかった。あけすけに心の内を語る男で、自分より十五歳も年下の私を兄貴≠ニか大将≠ニか、業務のうえではさん≠テけで呼び、まるで同格の友人のように接してくれていた。たぶん私を仕事の相棒として認めてくれていたのだと思う。
 とはいえ、私は決して有能な人材ではなかった。いまもあまりかわりないが、午前中ずっと意識は白い靄のかかった薄明の彼方にあり、あとから記憶を掘り起こしてみても曖昧きわまりなかった。窓外はもとより室内にいても光がまぶしくて眼を細めずにはいられない。反応が鈍く、人から名前を呼ばれても返事ひとつ満足にできない。どんよりと濁った眼で必死に原稿を睨むのだが、焦点がぼやけて文字がかすみ、いつまでたってもある行から先へは進めず、おなじ行を何度も繰り返し眼で追っている。そのうちに朱を入れるために手にしたボールペンの先が勝手に動き、気がつけば書類のうえには意味不明、判別不能な文字らしきもの、絵らしきものが、か細い筆圧で描かれているのだ。それをあわてて誰にも見つからないようにゴミ箱に突っこみ、机の引出からおなじものをとりだす。そんな自動筆記にそなえて、校正しなければならない原稿はあらかじめ何枚もコピーしておくのである。ときおり自分の不甲斐なさを自覚すると、便所で顔を洗ったり喫煙室で煙草を吹かしながら缶コーヒーを飲んだりした。
 事務所は御堂筋、地下鉄の駅の真上に立つ、大手企業が所有するビルの七階にある。ビルの内部はひとりの老人の努力によって清潔さが保たれ、薄い灰色のカーペットの床には塵ひとつ落ちていない。私が睡魔と格闘しているあいだ、その老人が清掃しているのだ。便所か喫煙室か自動販売機のまえで、毎朝彼が黙々と丁寧に掃除機をかけたりモップがけをしたり、こびりついた汚れを、まるで愛しいものを撫でるかのように雑巾で拭きとっている姿を見かける。真摯さからか、それとも勤勉さからか。その働きぶりを目撃すると、うしろめたさを感じ、何か無言で励まされているような気持ちがする。そうして熱く痺れた頭の神経回路を冷却させ、重く垂れさがった瞼を指で摘んだり擦ったりして、多少爽快な気分で席に戻るのだが、椅子に坐って原稿を見たとたん、誰かの受話器にむけた怒声やコピー機の稼動音やドットプリンタの伝票を打ちだす音が耳もとから急速に後退していく。やはり自動筆記された原稿が何枚もつくられることになる。そのたびにまた席をはずし、便所や喫煙室に行き、先輩や同僚の会話に入ってしきりに頷いたり相槌をうったりする。そうこうしているうちに正午になる。
 エレベーターで一階におり、まばゆい夏の光に満ちた表通りに出ると、どこからともなく軽トラックの無許可営業と思われる弁当屋があらわれ、すぐに会社員が群がってくる。地下にはネクタイ姿や制服姿の会社員がひしめきあい、飲食店街は匂いと声にあふれてにぎわっている。中華料理店、定食屋、ラーメン屋、蕎麦屋、カレー屋……。毎日誰かといっしょに前日入った店とちがうところへ行くのだけれど、どの店でも注文してから五分と待たされることはない。だが、腋臭の者や蒸れた汗でシャツを湿らせている者などと、肘がふれあうほどの狭い空間に押しこめられるのには閉口させられた。落ち着かない気分で料理を胃に流しこむと店を変え、行きつけの喫茶店のソファでスポーツ新聞をひろげて、昨夜のプロ野球の勝敗結果をたしかめたり、週末の中央競馬の馬券予想をしたりして、一杯二百八十円のコーヒーをすすってから、また事務所へと戻っていく。
 午後一時の事務所はどこかせわしなさが感じられるものの、誰もが食欲をみたされて室内の空気は澱んでいる。やがて午後三時を迎えると、それぞれの部署の女子社員が紙コップにコーヒーを淹れて配りはじめ、あちらこちらから談笑が聞こえてくる。広告部のふたりに対しては、机が隣あわせの商品課の女子社員が淹れてくれた。
「……!」
「……?」
 さしだされたコーヒーをひと口飲んで、その甘さに眉をしかめた。私はコーヒーにミルクは入れても砂糖は入れない。向かい側の席でちょうどおなじように自分の淹れたコーヒーに口をつけた女子社員が、明るい茶色の前髪の下で切長の眼を瞠っている。どうやら甘いものが好きな彼女は、砂糖なしのコーヒーに口をつけたらしい。
「もしかして、これ?」
「まちがえましたネ、あたしのと。もう一度淹れなおします」
「別にいいよ、もったいないし」
「じゃあ、あたしのと交換しましょ」
「いいって。気をつかわなくても」
「気をつかってるンとちゃいますよォ。あたしが苦いの飲みたくないだけです」
 アヒルの嘴のように口唇を尖らせ、舌っ足らずな高い声でそういうと、彼女は立ちあがって手をさしのばし、強引に自分の手にしていた紙コップと私のものをとりかえた。そして私の机に置いた紙コップに残る自分の口紅の跡を指さして、秘密を囁くようにいう。
「可愛い年下のリップつき。大サービスですヨ」
「あのねぇ、逆セクハラって言葉、知ってる?」
 溜息まじりの質問に、彼女はくすくす笑って答えない。若い女の子の考えていることを推測するのは、ミミズの心を推測するのとおなじくらい難しい。鮮やかなピンクの縁を避けながら、私はあらためて湯気の立ったコーヒーをすする。
 夕暮れまぢかになって、ようやく私の焦点は定まり、視界が鮮明になる。与えられた原稿の誤字脱字、話の展開や構成のまずさ、重複して不要な言葉や文章、思いこみや稚拙な表現、読者への配慮不足、そういった箇所を小姑のようにあれこれと探しだして書きこんでいくので、いつもゲラは真っ赤になってしまう。だが、実際に業者にゲラを戻すときには、これだけは譲れないという致命的な部分だけを指摘するのにとどめておかなければならない。なぜなら、あまりに訂正箇所が多すぎると、いいまわしが下手なだけで客観的には支障のない細部がしっかり訂正されているのに対し、絶対に許されない肝心なところの訂正がそのまま忘れ去られている場合がよくあるからだ。それでも、あまりに質の低い原稿を業者があげてきたときには、こちらでリライトしたものを手渡す。そのほうがてっとりばやいからだ。
 自分の書いた原稿をまったく一から書き直されるのはライターにとって大きな屈辱にちがいない。どこがどういけないのか、懸命に怒りを抑えながら真意を問うてくる熱心な者もいたが、そのような手応えのある者は稀で、たいていはクライアントである私たちのリライト原稿をマスターベーションと思って鼻白んだり、自分たちの仕事が楽になったと喜んだりしている。
 自分の書いた文章や関わっている仕事に愛情を持っている者はいないのか? よい誌面をつくろうという情熱が体からほとばしっている者はどこにいるのか?
 呻きにも似た問いかけを繰り返しながら部長は
「そんなやつらにはすでにクライアントがくっついて手放さへん」
 といって溜息をつく。
「あいつらも安月給のうえに休みもボーナスもなしでやっとるからなァ」
 といって紫煙を吐く。
 そうしてまた、出版社から質の低い原稿を手渡されると、いくら相手に厭な顔をされようが、よい文章、よい誌面をつくろうと、自分の持っているなけなしの精神力を注がずにはいられない。
「おう、兄貴。いま戻ったワ」
「お疲れさまです。どうでした、インタビューは?」
「あかん。あいつら、よう仕切れへんのや。俺が質問して、横でただ頷いてるだけやったら、兄貴をつれていったほうが心強いデ。兄貴やったら、カメラマンもできるしナ」
 午後八時をすぎれば事務所には社員がほとんど残っていない。ひと仕事を終えた部長は何となく浮かれた表情で同行した出版社のスタッフたちに対する悪態を冗談まじりにまくしたて、手にぶらさげていた二つの菓子折を自分の机のうえに放り投げた。貰い物かとたずねると、明日からの出張先への土産物だという。私は部長に頼まれていたその取材相手のプロフィールをプリントアウトした書類を手渡した。
「サンキュー。明日、飛行機のなかで読んどくワ」
 部長は礼をいって書類を鞄にしまうと、禁煙の事務所内で煙草に火をつけて、くつろいでいる。それから、今日中にこれだけは校正を終えなければならないと必死で原稿を睨む私に
「そろそろ行こかァ」
 と声をかけてくる。
 仕方ない、とあきらめて、おなじ原稿を三部コピーして机の引出にしまう。おそらく明日の午後までその校正は仕上げられないだろう。
 独身の気安さから仕事を終えた私たちは週の大半を一緒に酒を飲んですごした。ふたりきりのときもあれば、同僚や女子社員が加わるときもある。飲みに行くのはたいてい会社の周辺にある居酒屋で、地下の飲食店街は夜になると雰囲気ががらりと変化している。背広姿の男たちはネクタイをだらしなく緩めて酔っ払い、女子社員たちは洒落た私服に着替えて華やいでみえる。みんな顔を薄赤くほてらせ、声が大きくなってきて騒がしい。解放感が身体からはじけて昂揚し、アルコールで気分を泡立たせ、焼き鳥や鉄板焼きやお好み焼きを箸でつつく。
 部長はしたたかに酔うと、いつも若かりしころの恋愛体験を甘美さと共に、東京でコピーライターとして活躍していたころの栄光を誇らしげに、いまの会社がかつて倒産しかかったころの屈辱の思い出を罵詈雑言と共に語りはじめる。私は、はあ、とか、ほう、とか、一応は驚嘆して聞き入り、ときには話をまぜっかえしてみたり、ときには語り忘れられた細部をたずねたりする。そうでもしなければ、毎日おなじ話になってしまうのである。
 しかし、そんな夜のなかで愚痴とも弱音ともつかぬ議論をふっかけてくるときもあった。たとえば、愛している者もなく、また誰からも愛されず、仕事の内容にも給与の金額にも不満を感じている人間は、何を心の支えに生きていけばいいのかという論題があげられる。すでに人生の半分を折り返し、独身でいることでまわりの者たちからしばしば同性愛者ではないかと疑われたり、一人前ではないと非難されたりする部長にとって、それは切実な悩みであったかもしれない。もっとも、他人に話せる悩みなど、悩みのうちに入らないと思うし、いくら本人にとって深刻な悩みでも、他人からすれば些末な問題にすぎないのだが。
「結局、俺は何も信じてへんし、誰も信じてないんやろ。自分自身さえも信じられへんワ」
 部長はあきらめた口調でそうつぶやくと、ジョッキに半分くらい残っていた生ビールをいっきに飲み干した。私は十五年後の自分もこんな愚痴をこぼすようになるのだろうかと思いつつ、赤ら顔の部長に適当な相槌をうつ。
「それは僕もおなじですよ」
「兄貴はまだ若いからな。いまからやったら、まだ遅くない。とにかく嘘でもええから何かを信じるこっちゃ」
「好きな人がいるわけでも、宗教を信じているわけでもなく、実家の両親からは鬼子といわれるぐらい理解されていないし。仕事だって中途半端じゃないですか?」
「ほんなら、なァんでそんな平気な顔して、淡々と毎日毎日暮していけるんや?」
「さぁ。なぜなんでしょうね。ものごとにあまり執着しないようにしてるからですかねぇ」
「あかんワ。もっと欲を持たな」
「欲、ですか?」
「そうや、ちょっとはオバハンを見習えや」
 そういって、部長は女社長がいかに欲深い人種であるかを納得させようと具体的な挿話を並べたてる。人材不足にもかかわらず事業を拡大することしか考えていないこと。そのために雇った胡散臭い人物に仕事をまかせきって裏切られたこと。それでも相変らず口八丁手八丁の人物を中途採用していること。年収一億円の身分になってもいまだに安価なものを値切って買っていること。
「笑わしよんでエ!」
 と叫びつつ、面白おかしく吹聴する。
 けれども勘定をすませるころになると、ふいに真剣な眼をして
「あれは俺にも真似でけへん。欲も一種の才能なんや」
 と感嘆の声をもらすのだった。
 普段は行動を共にしていても、部長は知事や大学総長、有名企業の会長や社長への取材の立ち会いで二週間に一度は必ず出張しなければならなかった。社会的地位の高い人物のインタビュー記事は月刊誌や会報誌の目玉であり、いいかげんな編集者やライターにまかせっきりにしておくことはできないのである。年をとった人生の成功者たちは現代日本の抱えている教育問題に関心が高く、五万円ばかりの謝礼でも喜んで取材に応じてもらえた。私にとって彼らの語った内容はたいていが過去を美化して懐かしむだけの、五万円の価値さえない代物がほとんどだったが、彼らの知名度は雑誌の体裁を見栄えよくするのだ。ときにはテレビでよく見かける芸能人のインタビューがとれることもあった。
 部長が出張しているあいだ、私は彼がしなければならない原稿の校正まで任されている。業者から電話がかかってくるたびに、部長が出張から戻ってくる日にもう一度電話をかけ直してもらうよう依頼する。長期出張の場合は初日に部長の戻ってくる日を告げておけば、二、三日は電話のかかってこない静かな日々をすごすことができる。だけど、部長が不在のときも、別の誰かに誘われてまっすぐに部屋に帰ることはない。たまにはひとりでゆっくり休みたいと思っているにもかかわらず、誘われると応じずにはいられない。俺は誘惑に弱い、とあきらめにも似た境地で、きっと無条件で誘われた相手についていくことになる。
「これからどう?」
「いいですね。行きますか」
 ある金曜日の午後八時すぎ、電算課の先輩が前触れもなく声をかけてきた。彼は色白の、丸縁の小さな眼鏡をかけた、長身の男で、年齢は三十代後半といったところだろうか。ひと目見たところは知的な容貌で大したインテリに見えるのだが、何かとものごとを茶化したり皮肉をいって薄笑いを浮かべたりして、平素はめったにまじめな表情を見せない人物である。
 この学習塾で働く五十人ほどの社員は、すぐに成果をださなければならなかった。女社長の期待に応えられない大半の社員はすぐに解雇され、またべつの人間が新しく採用された。バブル景気が崩壊し不況が長引いているので、いくらでも代わりの社員を見つけることができるのだ。三年以上も勤めている社員は二十人にも満たなかったのではないか。先輩はちょうど入社三年目を迎えたばかりだった。一年まえに女社長に気に入られて福岡の営業所から大阪の本部に転勤してきたのである。
 私は思春期から本ばかり読んでいて口数が少なかったせいで、あまり関西弁を話せない。千葉県の出身で関西弁の話せない先輩にとって、私は違和感なく会話することができる相手であったようだ。先輩も独身のひとり暮らしなので、毎晩飲み歩く日々をすごしているが、その酒量はアルコールに弱い体質の私とは比較にならず、いつも朝から酒臭い息をしていた。その放蕩ぶりのせいで事務所の女子社員たちからはずいぶん嫌われていたのだが、彼は他人からどう思われようが無関心だった。女子供の評判を気にして生きていけるか、と傲然といい放ち、冷笑でそれに報いていた。
 先輩によくつれていかれたのは難波のランジェリーパブである。いつも決まった店にではなく、路上で呼びこみをしている青年と交渉して、その場で適当な店を見つけて堂々と乗りこんでいく。薄暗い店内に案内されると、下着と呼べるのだろうか、紐を胸や股にまといつかせただけの若いしなやかな肢体が闊歩し、酒を注ぎにまわったり、客ととりとめのない会話を交わしたりする。
「昼間は専門学校に通っているの」
「踊りは誰にも習わず自己流なの」
「将来はミュージカルに出演するのが夢なの」
 彼女たちは嘘かほんとうか推し量れないことを語り、話題が尽きると曖昧な笑顔をつくり、店内を流れる軽快なBGMのリズムに合わせて頭を左右に小さく揺らす。そして九十分に一度、十五分間のショーがはじまると、暗がりのなかで、シアン、マゼンタ、イエローのけばけばしい光に体を晒して踊りだす。煽情的に体をくねらせているが、剥きだしの肢体は均整がとれすぎていて、まるでマネキンのように無機質である。けれど、ときおり裸足の足裏が汚れていたり、激しい動きで脚に筋肉の線が明滅していたりすると、そこはかとなく淫靡さが漂ってきた。
「その眼つき。物を見るみたいに」
「何ですか?」
「いや、まるで陶器でも鑑賞しているような眼だと思ってね。写真を撮っていたころの癖なんじゃないの?」
「陶器って……。よくそんなことがいえますよねぇ」
「夢をあきらめずに、もう一度挑戦してみたら?」
「僕はカメラマンには向いてないんですよ」
「ふうん、そうなの? まぁ、べつに俺には関係のないことだけどさ」
 それだけいうと、先輩はすぐに話題を変え、パリ郊外でゴルフ場の支配人をしていたころの思い出を話しはじめた。私たちはショーが繰り広げられていようが、下着姿の踊り子が隣に坐ってこようが、まわりにおかまいなしにお喋りにふける。彼は東京の大学を卒業して誰もが知っている有名大手企業に就職し、入社一年目からブラジルやフランスに赴任した経歴を持っているので、海外生活の話題が多かった。私はかろうじて話題に合わせることができたが、話を聞いているうちに、一年前の夏、パリのオペラ・ガルニエ界隈で見た老婆の姿が脳裏に浮かんできた。
 六十代か、ひょっとすると七十代かもしれない。垢まみれの薄汚れた服を着たその老婆は、曲がった背をさらに丸めて、まるで拝むような姿勢を保ち、石畳の道端に坐りこんでいる。スカーフで頭を覆い、顔を見られまいとするようにうつむいて、無言で手のひらをまえにさしだしている。よく見ると、もう片方の手には短い杖のようなものを握っていて、小刻みに腕を震わせている。前傾した自分の体重を支えているためか、はたまた演技なのかはわからない。
 なぜか眼が離せなかった。通りに人は誰もいず、観客は私ひとりだけだった。こんな写真を撮ってどうなるのか、と頭では大した価値を感じていないくせに、この写真を撮るために自分はここにやってきたような気がした。撮らなければならない理由なんてわからなくても、撮りたいのなら撮るしかない。あとで数フランを恵んでやれば、老婆だって喜んで写真のモデルになってくれるだろう。
 おもむろにバッグのなかから一眼レフのカメラを取りだして、レンズキャップを外す。ファインダー越しに構図を決めようとするが、距離が遠くて小さすぎる。望遠レンズではないので前に進まなければならない。汗が額やこめかみに浮かんで、息苦しくなる。ファインダーを覗くときは息をとめる癖があるのだ。一歩、また一歩と、にじり寄るように被写体に近づいていく。
 ようやく構図を決めてピントを合わすと、次に絞りとシャッター速度を決めて露出を調整した。老婆はまるで本物のモデルのようにポーズをとって静止したままだった。あとはシャッターを切るだけだった。それなのに、なぜだか指が動かせなかった。押しとどめるものがあった。長いあいだ、私はその場に立ちつくしていた気がするが、やがてファインダーから目を離してカメラをバッグにしまうと、空を見あげて大きく息を吸った。快晴の空は眼に沁み入る青さだった。
「また海外で生活したいよ。日本にいると話す機会もないから、英語も忘れちゃうよな。ほら、いまでも忘れないように英会話を習っているんだ」
 過去を回想している私に、先輩は背広の内ポケットから一枚のカードを取りだして見せてくれた。それは駅前留学≠ニいうキャッチコピーで有名な、外国人講師が一対一で相手をしてくれる英会話教室の会員カードであった。私は大袈裟に感心したふりをしつつ、脳裏から老婆の姿を消し去った。
 先輩が私を風俗店に誘うのは、性的な遊びにつきあわせることが目的ではなく、そういった場所で普段通りの会話を交わすことにあるのだろう。裸同然の女たちが行き交う店内でネクタイを締めた会社員が素知らぬ顔で色気のない会話に興じている、そんな光景に何かおもしろみを感じているようだった。もっとも、稀に気に入った女を見つけると彼もやはり性欲にかられるわけだが、それを恥ずかしがる素振りはまったく見せなかった。
「あの緑の下着の娘、いいね」
 そう彼がつぶやくので鏡張りの舞台に眼をむければ、ほっそりとした小麦色の肌に緑色のシースルーの下着をつけた踊り子が波うつ鳶色の髪をなびかせて、まるで反復横飛びのような踊りを披露している。長い睫毛と大きな瞳、高く細い鼻梁、形のよい口唇(くちびる)……。けれども、化粧の濃い、その整いすぎた容貌に、私は魅力を見いだすことができない。踊り子が緑色の下着を脱ぎ捨てると、胸にも下腹部にも日焼けによる水着の跡がない。もともとが小麦色なのか、それとも水着をつけずに肌を灼いたのか、そんなくだらないことを考えながら私は彼にたずねる。
「どこがいいんです?」
「なんとなく、さ」
 ショーの合間にはチークタイム≠ェ十分ほど設定されている。その名の通り、踊り子と客とがチークダンスを踊る時間帯である。場内にスローテンポなバラードが流れ、暗闇に包まれたなかで踊り子が客のひとりひとりと体を寄せあい、チークダンスを踊るのである。いつもは踊り子に誘われても坐ったたままで断るようにしているのだが、そのとき彼のお気に入りの踊り子が彼にではなく私に手をさしのべてきたので、私はちょっとした悪戯心から立ちあがった。
 汗の匂いと柑橘系の香水の匂いが入り混じって鼻孔を刺激する。耳もとで生暖かい息づかいが感じられる。踊り子が腰を私のほうへ寄せ、腕を肩や腰に巻きつけてくる。私は暗闇のなかで揺れながら誰もいない舞台の鏡張りの壁を凝視する。そこには踊り子の尻や背中、そして彼女に抱きつかれている自分の姿をほのかに見ることができる。私は鏡のなかの自分の顔を見て、冷静な顔つきになっていることに満足する。
「お客さん、おぼこいね」
 踊り子が耳もとでそっと囁いた。
 音楽が消えて灯りがともると、踊り子は私から離れて微笑した。私はその微笑に戸惑い、聞こえなかったふりをして無表情を装った。
「あ? 君はあの娘と踊っていたの? どうりで探してもいなかったはずだよ」
 踊り子たちが客から去っていくと、先輩はそう小声でいい、冗談半分に悔しがってみせた。私はふふんと鼻でせせら笑って、席をはずした。客席の外側は薄いレースのカーテンに仕切られていて、むこう側で何かをしている影が見え隠れしている。眼を凝らすと、男が椅子に腰をかけ、その太股のうえに女が乗りあがり、豊満な胸を男の顔に覆い被せて蠢いているのがわかった。あらためて自分がいかがわしい店にいることを実感させられる。
 トイレから戻ってくると先輩の姿が見えないので、私はひとりで煙草をふかしはじめた。彼は二本目を吸い終えるころになってようやく戻ってきた。そして自分が薄いレースのカーテンに仕切られた小部屋でさっきの踊り子に三千円のチップを支払い、何やら励んでいたことを告白した。よかった、たまらない、堪能した、とつぶやいた。その賞讃ぶりは熱烈であり率直であり、快さが素直に伝わってくるのだった。
 だが、そんな彼にも翳はあるのだ。もう終電もなくなってお開きにしようかと思っていたころだった。私たちは水割りのウィスキーを飲みつつ、女たちが踊る舞台のまえで、他愛のない世間話を終らせることができずにいた。私はすでに酔っていた。
「君は結婚しないの?」
「また、何をいいだすんですか」
「傷つくのが怖い?」
「何ですか、それは」
「愛さずに愛されようなんて思っちゃダメだよ。待っていたってチャンスはこない」
「はぁ。否定はしないけど、たぶんそういうわけじゃないです」
「ん? 君は結婚しない主義なのかい?」
 たしかそんな話が発端となり、私は部長がよく口にしていた話題のひとつを提供することにした。結婚というのは数多い異性のなかからたったひとりの相手を選ぶことに相違ないだろう。たとえば好きな異性がひとりしかいないとか、あるいはたったひとりしかいい寄ってくる異性がいないのであれば、話は簡単である。だが、好きな異性が複数いる。みんなそれぞれ個性があって、それぞれに別々の魅力がある。それぞれに魅かれる。その場合、どのようにしてひとりを選別するのか? どこからその確信はくるのか? たとえ選別できたとしても、それが正しいかどうかは証明できないのではないか?
「ふむ。それはつまり、小指に赤い糸が結ばれているかどうかという問題だな。君のいっている意味はよくわかるよ。しかし、頭でいろいろ考えていたって仕方ないさ。真剣すぎるというか、愚直というか。俺からいわせればロマンチストなんだよ。結局のところ、恋愛なんて錯覚だから。気に入った相手がいたら、あとさき何も考えずに突っ走るのさ。うまくいかなかったら別れてしまえばいいんだし」
「歳からいって、僕よりあなたのほうが先じゃないですか」
 彼もかなり酔っていたのだろうか。視線を空中に浮かせて、まるで指摘されるまで自分も独身であることに気づかなかったような茫然とした顔つきになった。ほんの一瞬、躊躇していたことを断行するような強い光が彼の眼に宿った。
「俺には嫁さんがいてね。もう、ずいぶん昔に別れたんだけどね」
「なんだ、結婚されていたんですか」
「相手は中学の同級生。お互いが初恋の人なんだ」
「ずいぶんロマンチックな話ですね」
「そう? それでね、大学時代に学生結婚して」
「ドラマチックだ!」
「卒業したときには子持さ」
「!……お子さんまで?」
「卒業して就職して、 すぐにリオデジャネイロへ出向してね。俺は海外で生活することに憧れていたところもあったし、二、三年くらい大丈夫だろうって思っていたんだ。まだ若かったんだね。そしたら半年で一方的に離婚を告げられて」
「………」
「慰謝料なんて何もいらない。ただ、娘には絶対に会ってくれるなって約束させられて、それでもうすぐ十八年」
「……守ってるんですか、その約束……」
「嫁さんとは何度か会っているよ。たしか五年ほどまえに再婚したはずさ。それからは会ってない。娘とは約束通り一度も会ったことがない。不思議な気分だよ、顔も見たことのない自分の娘がこの世にいるなんて。もし俺がいなければ娘もこの世に存在しなかったことを思うと、何か救われた気がするのさ。だから、この世のすべての人間から、お前は堕落してろくでもない奴だと罵られたり蔑まれたりしても、俺はまったく平気だね」
「……娘さんに会いたくないんですか?」
「会いたくないといったら嘘になるかな」
「じゃあ、会いに行けばいいじゃないですか。後悔するかもしれませんよ」
「会ったところで、娘は俺の存在さえ知らないんじゃないの? それに、何しろ年頃だからね」
「奥さんがダメだというんだったら、隠れてこっそり見るだけなら罪にはならないと思いますけど」
「いや、会わない!」
 それまで冷静に懐かしそうな口ぶりで喋っていた彼は、とつぜん声を荒げて
「これはもう決めたことなんだ。あのとき、俺が、自分自身に誓ったことなんだ」
 と呻いた。
 いつもの悠然とした余裕は剥がれ落ち、彼は一心に虚空をみつめ、頑なに表情をこわばらせていた。その眼は暗く澱み、倦んでいた。私は彼から顔をそむけ、自問せずにはいられなかった。話題をとぎらせようと思えば、口をつぐんで沈黙するだけでよかったはずだ。彼の一瞬の気配を察知して、別の方向へ話題を迷走させることもできたはずだ。そうしなかったのは、私自身が、頑丈な鎧を身につけた彼のほんとうの姿を見てみたいと望んでいたからではなかったか?
 眼のまえでは原色の光に照らされたさっきの踊り子が舞台のうえで横たわっている。疲れて放心したような表情で、爪先を天井に向け見事な脚線を誇示しつつも投げやりに股を開いたり閉じたりしている。その中心をわずかに隠している小さな布切れからは陰毛がはみだしているのだが、整髪剤か何かで手入れしているらしく、まるでウニの棘のように逆立っている。
「あれって、付毛なんですかね?」
 思いつきの問いかけに、先輩は一瞬とまどった表情を浮かべた。私は踊り子の股間を指さした。私のいう意味を理解した彼は、呆れた口調で
「君ってやつは」
 と苦笑し、それから何かを吹っ切るように腹を抱えて笑い声を弾けさせた。
 つれだって店を出て、先にタクシーに乗りこむ先輩を見送ると、とっくに酔いはさめているはずなのに、いきなり胃液が食道を逆流してきた。私は路傍に膝をつき幾度か吐くと、地面に仰向けになった。かつて空はもっと広大で、手で触れることができそうなほどに星がまぢかに感じられたのに、いまビルの合間から見える空は狭小で、星はあまりにも遠くに感じられる。吐瀉物のすえた臭いは不快だったが、アスファルトが背中にひんやりとして心地よかった。しばらくそのまま星空を眺めてから起きあがると、自分が声も立てずに笑っていることに気づいた。情けない自分の姿をもうひとりの自分が冷笑しているのだ、と思った。
 いったい何を求めているのだろう? この先どこへ向かうのだろう? ひとりで部屋にいるときも、人に囲まれて酒を飲んでいるときも、私は少しも変わらぬ孤独を胸に抱いていたのだけれど、結局のところ、それは孤独を愛していたということか? 風のように吹き抜けていくつかみどころのない日々のなかで、私は自身の欲望を削ぎ落とし、何も考えない、何も感じない、ただ機械のように生きたいと願っていた。だが、それでも意志の届かぬ心のずっと奥深いところで、私は何かを考え、何かを感じ、何かを求めていたらしい。
 翌朝、ちょうど普通列車が出発したばかりの閑散としたプラットフォームで、私は宿酔でもないのにベンチに坐りこんで嘔吐に耐えていた。駅の構内は蝉が騒がしく喚き、真夏の陽が照り返して凶暴なまでにまぶしい。足もとから立ちのぼる熱気がなぶるように身体をつつみ、ねばねばとした汗の滴が皮膚から滲んでくる。喉が渇ききって唾液も分泌できず、声をあげることさえできない。こめかみに鈍痛が疼き、眩暈がするので瞼を閉じてみるが、陽光は瞼を突き抜けて、眼をつむっていても真っ白である。再び瞼をあけると、額から滴る汗が眼に入り、その痛みがいっそう私を苛立たせた。
 やがて特急電車が駅を通過するために注意を喚起するアナウンスが響きわたった。
 ふと気づくと、私は渾身の力をふりしぼって立ちあがっている。向かい側のフォームでぼんやりと電車を待っている者たちの姿が、陽炎で歪んで見える。私は一歩ずつ、ゆっくり進みはじめる。ふらふらと、のろのろと、這うように、前へ。
 ちょうどそのとき、指先をぎゅっと握られた。驚いて振り返ると、足もとに五歳くらいの女の子が私の手をつかんで立っていた。背後で特急電車が轟音をとどろかせて通過し、突風が背中に吹きつけていった。上目遣いの女の子は私と視線が合うと、何やら得意げに眉を吊りあげて微笑んだ。親しい誰かとまちがえたのか、気まぐれな悪戯なのか、単に考えなしでそうしたのか、それとも、助けてくれようとしたのか。私はその子の笑顔の裏にある意図を何も読みとることができない。黒目がちの瞳。ぷっくらとした小さな指。こちらを見あげて、ただ微笑んでいる……
 たった、それだけのこと。たったそれだけのことが恩寵のように感じられ、この身をとらえていたと思われる何かはどこかへ消え失せてしまった。少し離れたところにいた母親らしき女性に名を呼ばれ、女の子はくるっと背を向けると、いまにも転げそうなおぼつかない足どりで勢いよく駆けだし、あっというまに私のもとからいなくなった。

 

 

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