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ロバート・プリン氏の動物園・縦書きPDF版   

 

ロバート・プリン氏の動物園

 

                                                                                 真銅 孝

 

 

樹林」第520号より転載            

推薦 光野公彦さん 文芸同人tisso(大阪)

 

推薦の言葉

     ルネ・マグリットの絵画をイメージさせる掌編。
     多くの読者に面白さを感じて頂ければ嬉しい限りです

 


 つかのまの空中散歩を終えて地上に降りてきたロバート・プリン氏は、元のベンチにしずかに腰を下ろした。そして彼は大げさに首をぐるぐると回した。ひとしきり回して首の据わりがよくなったことを確かめると、満足して一息ついた。
 彼は前方に目の焦点を合わせる。そこにはまだ、さっきの子どもが一人で遊んでいた。この子以外、だれも遊ぶ子どもはいない。つまり平日の昼下がり、動物園の片隅にある「ちびっこ広場」で、ベンチに腰かけた自称外国人のロバート・プリン氏は、遊具で遊ぶ一人の子どもをじっと見つめているわけだ。そしてこの子どもはロバート・プリン氏の一人息子である。しかし彼は空中散歩をしたおかげで、記憶の一部がまだ空中から戻ってきていない。
 子どもがすべり台の上に立ってこちらに手を振っているのが見える。珍しく子どもになつかれたようだ、とロバート・プリン氏は思う。そこで彼も手を振りかえす。すると子どもは微笑みながら、ゆるやかな傾斜を両手を上げながらすべり下りた。それにしてもこの子の親はいったいどこに行ったのだろう。彼は以前の記憶をたぐり寄せるように上空に目をやった。
 晴天の空には、わた雲がいくつか浮かんでいた。春。透きとおる青い空。風もない。見るからに穏やかな空だ。しかし、ロバート・プリン氏の顔は曇る。取り残された自分の記憶が空に溶けたまま降りてこない。
 近くの猿山から猿同士がはげしく鳴きあっているのが聞こえてきた。けんかをしているのだろう。しばらく続いていたが、一方の猿のするどいひと鳴きを最後に静かになった。すると今度は、子どもの声が少しずつ大きくなってくる。何度も呼んでいる。パパ。パパ。見ると子どもはブランコに行っている。まだうまく漕げないようだ。彼は、パパの代役も悪くないかと肩をすくめると、ベンチにたたんで置いていたセーターを手に取った。立ち上がった拍子に、彼の肩まである金色に染めた長い髪が前後に揺れた。
 彼は細身の白いコットンパンツに、フリンジのついた茶色の古びたモカシンブーツを履いていた。ピンク色のセーターは、着古して毛玉だらけになっている。彼はブランコに向かいながら、セーターの袖を肩にかけて胸の前で軽く結んだ。
 彼は子どもの背中に手を当て、ゆっくり押してやる。手に当たる細い肩がまだ弱々しい。三歳か四歳ぐらいだろう。押した子どもが向こうから返ってくると、そうっと受け入れるように背中を包んでまた慎重に反動を利用して送り出してやらねばならない。前後に揺れる子どもの体から、ぼやけるように光が尾を引いて見える。目に記憶が残りすぎて邪魔だ。彼は目を閉じた。するとぼんやりと子どもの横顔が残像として現われた。ピントが少しずつ合ってくる。その顔は、楽しいのか楽しくないのか微妙な作り笑顔をしている。
 目を開けると、ふたたび子どもの背中を押した。さきほど目の中に現われた子どもの顔は、自分の子どものころの顔とそっくりだ。そう考えながら彼は子どもの後ろ姿を神妙に見つめる。
 そろそろロバート・プリン氏は子どもが自分の息子であることに気づくだろうか。いや、依然、記憶は雲をつかむようにあやふやだ。――もしかすると昔、私の子どもだったのかもしれない。たとえば前世で。彼が考えるのはまだ、どちらかというと空想に近い。
 彼は子どもに、プリン・ジュニアの頭文字をとってPJと名づけることを夢見る。PJ、ブランコ、楽しい? しかし、声に出して聞いてみようとするが、なかなかそれができない。ブランコの前後する動きを見ていると、子どもの存在が、あとを引く残像から切り離されてしまうのではないかと気がかりでならないからだ。あるいは彼にとってはそのさまが、空中に浮遊する彼の記憶のように、不安定なものに思えるからなのかもしれない。彼は不安になる。残像されるものと残像するものとが完全に分かれてしまっては危険だ。きっとそれには訓練が必要なのだ。しかし、いくらなんでも子どもには、やはりまだ早すぎる!
 とめて。子どもがいった。ロバート・プリン氏は、はっとして、思ったより大きく揺れていたブランコの動きを腕で吸収した。子どもの体を受け止める。知らないあいだに腕に力が入ってしまっていたようだ。子どもはまだ骨格が固まっていなくて、くねくねした感じが手に残る。
 おもむろに彼は子どもの肩に手をかけると、もう一方の手で子どもの手首を握り、一回、二回と回してみる。肩関節の具合を確認するように。子どもは何もいわずに従っている。この感じ。やわらかい感じが猫の柔軟さに似ている。健康でなによりだ。ぶるんぶるん。ロバート・プリン氏が笑いながらそういうと、子どもが彼の顔を覗き上げた。大きな丸い目で見つめられる。彼はたまらなくなって目をそらした。握っていた手も放す。
 そのとたん、ロバート・プリン氏の首が大きくぐるぐると回った。突然のことで最初は戸惑ったが、その後、彼は落ち着いて首を回され続けている。回されながら彼は約束していたことを少しずつ思い出していく。――この前のことがあるんだから、今日は子どもを早く帰してね。……ああそうだ、今日はあまり遅くまでいっしょにいることができなかったのだ。彼女にきつくいわれていた。この子と月に一度しか会えないなんて……。
 首の回転が少しずつおさまってくると、子どもが隣りのゲームコーナーがある建物に走っていくのが見えた。彼は慌てて追いかける。ふらつきながら。
 平日のせいか、そこには三人の親子連れらしき一組がいるきりだった。PJ、面白そうなゲームがあるかなあ。彼はそういってみるが声に力がない。子どもはあちらこちらと歩き回って自分にもできそうなゲームがあるか探している。しかし、あるのはスマートボールや古い型のコンピューターゲーム、エアホッケー、それからパチンコやスロットばかりだった。故障中のものもある。できるのはきっとスマートボールぐらいのものだろう。
 子どもはゲームコーナーの外に出た。彼もついていく。
 おなかすいた。
 子どもが彼の手を引っぱっていう。無理もない。ゲームコーナーは期待はずれなものだったし、そのうえ、忘れていたがもう二時をまわっている。じゃあ何か食べよう。彼は、とってつけたように明るくいう。園内にレストランがあったはずだ。
 彼らはアシカゾーンを右に、キジゾーンを左に見ながら進んでいく。アシカが水際で、完全に脱力させた大きな体を横たえて昼寝している。全部で何頭いるのか数えてみようとするが、親子同士が寄り添っていたりして、正確な数がわからない。
 アシカゾーンは周囲を柵で囲まれているだけで上が開放されている。そのため、近隣の野鳥がアシカのえさをかすめ取ろうと飛んでくるらしい。野鳥にちゅうい。柵に、赤い文字でそう書かれた看板が掛けられている。その下にはアオサギ、ゴイサギ、コサギと三羽のペンキ絵が描かれている。見渡すと、たしかに大きな鳥が柵の上に何羽も止まっている。どの鳥もまったく動かない。鳥の目は爬虫類に似ているな。ロバート・プリン氏は思う。そして彼の脳裡に一匹の爬虫類が現われる。その爬虫類はイグアナのような姿をしていて、小さなモーターが体内にいくつも埋めこまれている。緩慢で一定した速度を保ってその生き物は彼の頭の中を歩きつづける。爬虫類館はどこにあったかな。彼は頭を振った。さっき回ったはずの爬虫類館が思い出せない。
 水際にかたまるアシカたちの群れから、一頭のアシカの子どもがするりと抜け出した。そして滑るようにして水中に入った。円形のプールの際を遠回りしてこちらに泳いでくる。近づいてきたアシカは頭を水中から出して、踊るように体をくねくねさせている。ちょうど彼らの前にきた。アシカは、柵越しに立っているロバート・プリン氏を見る。見ながらずっとその場でくねくねしている。あっけにとられて見ていると、アシカが彼に向かって舌を短く出した。驚いている彼を尻目に、アシカは向こうのほうへ潜りながら泳いでいった。
 PJ、今のアシカ……。
 子どもは彼の顔をまっすぐ見た。言葉を待っていたが、子どもは何も発することなく、ただ彼の手を引っぱった。
 子どもに手を引かれながら中央広場まで出てきた。どこかでイベントでもしているのか、遠くのほうからアナウンスの声が聞こえてくる。向こうに古びたレストランがあるのが目に入った。
 何、食べる? とロバート・プリン氏は、店頭にディスプレイされたメニューを見ながら子どもに聞いてみる。子どもは、うどん、と答えた。彼はカレーライスにする。入口でポケットのサイフを探っていたら、若い男の店員がテーブルに案内した。二人はテーブルに向かい合わせに座る。そして店員に注文した。
 動物園、楽しい?
 うん。
 このあと、どの動物が見たい? ロバート・プリン氏は動物園のパンフレットをテーブルに広げる。子どもが首を伸ばして園内マップを覗きこむ。それぞれの場所に動物のかんたんな絵が描かれている。どの動物が好き? ともう一度たずねる。
 子どもは考えたあげく、ペンギンを指さす。
 オーケー。あとで見に行こう。
 さっき、見た、けど。子どもが非常にゆっくりと、かつ穏やかにいう。
 彼はあわてて、ああ、いやもう一度、見たいのかと思ったんだ、と訂正した。そうだそうだ、かわいいペンギンさんだった。彼の頭にペンギンが浮かんだが、そのペンギンは背中に大きなゼンマイ回しがついていた。ジージーいいながら大きな足を交互に持ち上げている。
 うどんとカレーライスがテーブルに置かれた。子ども用の小鉢とフォークが添えられている。
 ロバート・プリン氏はまず子どものうどんを冷ますため、小鉢にうどんを取り分けた。何度か息を吹きかけると子どもの前にその小鉢を置く。柄の部分に黄色いクマの絵が描かれたフォークを使って、子どもがぎこちなくうどんを口に持っていく。その様子をちらちらと見ながら彼は、カレーライスをスプーンに盛れるだけ盛って、口を大きく開けると放りこんだ。口で何度も咀嚼されたものが、二人の体にそれぞれ流れこんでいく。その様子をロバート・プリン氏は想像してみる。パパ……。パパ? ああ。彼は考えこんでしまう。――どうしてこんなものを食べているのだろう。目の前では子どもがうどんを食べている。おいしそうに。私はカレーが嫌いだったのではないだろうか。前に食べたのはいつのことだっただろう。オーケー。食べるよ。いや、待ってくれ。これは何かの間違いだ……パパ。パパ? 私が? それもいいね。おもしろいね。……パパ?
 パパはお金ないってママがいってた。
 ロバート・プリン氏は子どもの顔を見る。子どもの目が、目頭敦子の目とそっくりだ。目頭敦子? ああ、私の元妻だった。そうだ……痛いっ。彼は口の裏側を噛んだ。ロバートナントカって何よ。この、外国人の、にせものっ!
 目の中に目を。歯の中に歯を。ロバート・プリン氏はぐらぐらする頭を両手で支えてつぶやく。そして慎重にコップに入った水を飲んだ。――来月も会わせてもらえるだろうか。PJ。わが息子。私の分身。今日は早く帰さないと。また叱られてしまう。変なこと、ふきこまないでね。目頭敦子の責めたてる声がよみがえる。ほんと迷惑なの。あんた、変なんだから。
 彼は子どもに手を伸ばし、頭をなでる動作をする。子どもは満足しているのか人形のように目を閉じた。ものしずかな子どもだ。ロバート・プリン氏は自分の鼻の頭がかゆくなって手を引っこめた。
 鼻の頭をかきながら、彼はさっき子どもがブランコに乗っていたときのことを思いだす。子どもの背中を押す感触。頬をなでるみずからの金色に輝く長髪をかき上げると、彼は子どもの小さな背中を手のひらで受け止め、ゆっくり押し返す。この短かったひとときのアロマを、今、過去も現在もなく彼は鼻いっぱいに吸いこんでいる。わが子の、遠ざかり近づいてくる動き。そのやわらかな体のまわりには、金色の美しい羽根がひらひらと軽やかに舞っている。わが分身。
 ロバート・プリン氏は突然、尿意をもよおした。しかし子どもを置いてトイレに行くわけにもいかない。困ったな。彼がスプーンを手にしたままじっとしていると、子どもがなにげなく顔を上げ、おしっこ、といった。ありがたい。どうやらPJもトイレに行きたくなったらしい。まるで体同士が以心伝心をしたようで、ロバート・プリン氏は心が晴れた気分だった。背筋が伸びる。彼はまたとないその瞬間を、さもいい匂いを嗅ぐかのように味わう。これで解放される。
 では行きましょう。
 今のPJならできると確信した。彼は子どもを促すと、トイレの案内表示を探した。天井からぶら下がっている案内表示の矢印の先を目で追っていくと、トイレは店の外にあった。よし。今だ。行くなら今しかない。さあ、PJ。行こう。
 彼は子どもの手を引いて、レストランの裏口を目指す。二人は駆けだした。ロバート・プリン氏は興奮して、浮き足立っているような感覚に襲われる。少しずつ二人は、じっさいに浮き上がっていくようだ。ロバート・プリン氏の開放感に満ちた、歌うような笑い声が店内にこだまする。二人は裏口を抜けた。店員が裏口に視線を向ける。あわてて追いかける。外に出た二人は手を取りあって空中へと歩くように上昇していく。
 裏口にたどり着いた店員が見たものは、残像のように浮かぶ二人の体の抜け殻と、その向こうに広がる空の青さ。

 

 

 

 

 

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