縦書きPDF版       

 

 房総半島           羅 義光全作家

 

 

「全作家短編小説集」第7巻(2008年7月)

推薦 畠山 拓さん(「構想」)


 

 一九九五年一月十七日夜明け前、正確には午前五時四十六分五十二秒という話だが、時計を見る余裕なんて私にはなかった。取材のために泊まり込んでいた神戸郊外のウィークリィー・マンションのベッドから、フローリングの床に弾き落とされた。険悪な仲になっていたマッチョのプロレスラーKにやられたと、一瞬思われた。けれどもベッドの下に潜り込んだところをみると、地震なんだと身体の方は解ったようなのだ。
 結果的に死者と行方不明者で六千四百三十九名。このなかに私が入らなかったのは、いまでも不思議に感じられる。そのマンションは全壊したのだし、瓦礫の間から私が抜け出した時には、まわりは炎に包まれていた。
 私が助かったのは、もしかすると地面しか見ることができなかったせいかもしれない。床板でどう頭を打ったのか、首が前傾したまま右にも左にも前にも後にもまったく動かなかった。
 それでも負傷者四万三千七百九十二名のなかに、おそらく私は入っていない。私は焼け焦げたけれども何とか動く愛車ホンダCB400で、パジャマ姿のまま東京に逃げ帰って来た。関西風俗産業事情の取材より、この地震(阪神・淡路大震災)の取材のほうが、よほど世のため人のためと知りつつ。……
 同年三月二十日朝、正確には午前八時十五分、私は丸ノ内線から日比谷線に乗り換えるところで、烈しい眼の痛みと眩暈のために立ち止まった。無理やり眼を瞬かせると、ホームに乗客が何人も倒れている。喘ぎ声を発している者。烈しく吐いている者。助けを求めている者。頭を抱えて蹲っている者。横たわって微動だにしない者。――みんなを置き去りにして、ふらつく脚を引きずり、私だけ地下鉄の階段を上って外へ出た。倒れた乗客を救助するという発想は、後から考えても不思議なくらい情け無いくらい、全く思い浮かばなかった。
 外で深呼吸をしていると、防毒マスクを付けた多数の機動隊員が、地下鉄構内へ駆け込んで行った。ずいぶん用意周到だなと呆れる感じがした。私は第六感でこれはオウム真理教のせいだと考えたが、お国は私よりもずっと先に解っていたのではないだろうか。
 このいわゆる「地下鉄サリン事件」の死者十二人のなかはもちろん、重軽傷者五千五百十人のなかにも、おそらく私は入っていない。悲しくもないのに溢れ出る涙を拭きつつ、三日間ぶっ通しで仕事をした私は、病院に行きそびれてしまった。サリンにやられたとテレビで知ったのは、徹夜仕事が終わってからの爆睡後で、目覚めた時は眼の痛みも眩暈もなかった。
 けれども悪夢にはまいった。少なくとも三日に一度は襲われた。しかも夢はうつつよりも苛酷だった。地震にやられて一ケ月間首にギプスをしただけの現実は、悪夢では首が吹き飛んでそれをいつまでも探し回っていた。サリンにやられて目の前を黒い蚊が時折飛翔するだけの現実は、悪夢では目玉が飛び出してそれを頻りに元に押し込んでいた。遠からず何かがあると思われた。
 実際の生活のなかで遅まきながら発作が出たのは、二十一世紀に入ってからだった。ある日仕事中に、何の前触れもなく私は倒れた。私はヘドを吐き、糞尿を垂れ流した。救急車で運ばれ、CTを撮りさらにMRIを撮った。しかしどこにも異常は見られなかった。私は「自律神経失調症」ということになり、どうにか歩けるようになった一週間後に、吐き気止めだけを貰って退院した。
 けれどその後も例の悪夢は収まらず、倒れたりはしないものの、初めて体感する奇妙な不快感が、いつのまにか生じていつまでも続いた。ここがこうだと説明できない不快感で、あえて言うなら皮と肉の間が痛んだり、肉と骨の間が痒かったり、骨の芯が疼いたりするものだった。そうして私は精神も病んでしまった。
 私が通った代々木病院の精神神経科の医師は、「アタマがおかしいと自認している者で、アタマのおかしな者はいない」とさかんに言っていたが、どう考えても私のアタマはおかしかった。私のアタマのおかしさを、ここで白状するのは恥ずかしいし、幸運なことに、私のアタマのおかしさを、私はほとんど覚えていないので伝えられもしないが、まちがいなく私のアタマはおかしかったのだ。もっともそれが、地震やサリンのせいなのかどうかは解らない。解らないほど、それまで公私共に苛酷で悲惨な生き方をしてきた。
 妻子との会話や触れ合いは一層なくなり、仕事でもつまらないミスを連発した。そこで思い切って、平日の五日間休みをとり、旅に出ることにした。もっとも決断力も無きに等しかったから、思い切るまで半年もかかったけれども。――何かと小うるさい妻には出張、フリーライターとしての私の仕事の関係者には、(本当はピンピンしている)父親の看病のためだと偽った。
 とはいえ海外へ行くほどの元気も予算も無い。オートバイだと注意散漫で事故を起こしそうだ。電車で行ける近場にすることにした。せめて海の見えるところ。三浦半島は育ったところなので房総半島に決めた。
 東京駅から急行に乗って千葉駅まで。それから外房線に乗り換えた。勝浦を過ぎ鴨川で降りた。大勢の乗客が降りたので、多分私はつられて降りたのだ。平日とはいえ学校は既に夏休みに入っており、家族連れが中心だった。人混みに埋もれていたのでは、普段の生活と変わりはない。
――そう思いながらも人の流れに便乗し、鴨川シーワールドでシャチの水中ショーを、行川アイランドでホロホロ鳥の飛行ショーを見た。
 芸達者なシャチは、その模様が見事すぎて、精巧な作り物のような気がした。山の中腹から次々に飛行落下するホロホロ鳥の群れは、他に何も取り柄が無さそうな上に貧乏臭く、私を含めた哀れな庶民を思わせた。周りが無邪気に喜んでいるのに、私だけそんな嫌味な感じ方をしてしまうのは、やっぱりアタマがおかしいせいだ。気が沈み身体の不快感も増してきた。自分が愉しめないなら、どうして子供達を連れてきてあげなかったのか。今さら自責の念にもかられた。「子供より親が大事」なんて信念など無いのに。
 勝浦のビジネスホテルを予約しておいたので、早めに引き上げてチェック・インをした。ホテルの従業員にしつこく尋ねると、半島の先っぽにある塩浦というところが穴場だと自信なさげに言った。海水浴場もあるのだけれど客は少ないとのこと。
 ホテルの内も外も若者ばかりなので落ち着かず、寝酒もやらないで床につき、久しぶりに例の悪夢を見て、翌朝チェック・アウトをした。千倉まで電車、それからタクシーで塩浦まで行った。宿を予約していないので、運転手に民宿を紹介して貰った。
 ごく普通の古い一軒家だった。蒸し暑い二階の六畳間に案内された。クーラーは故障中で、薄汚れたガラス窓を開けると、確かに目前に海辺があった。いかにも平凡な眺めだった。ちょっとドブ臭い潮の香りがした。海水浴客は今のところ、五組ばかりの家族のみ。遠くで水上スキーをやっていたが、波が静かなのでサーファーはいない。陽射しは強烈だ。
 ひっくり返って本でも読もうかと思ったが、持ってきたチャンドラーの探偵小説は車中で読了してしまっていた。やることがないのでウトウ下していたら、あるじに呼ばれた。階下で早めの昼食をとるとのこと。昼食は予定していなかったが、あるじに頻りに勧められたので降りて行った。あるじ夫婦は、私より一回り上の六十代半ばか。皺も白髪も多かったが、私よりはずっと健康そうだった。二人共あるべきところにあるべき皺があり、そうなるようにしてなった白髪だった。リッパな顔というのはこれだと思われた。
 食事の用意は既にできていて一緒に食べた。私の前にはまぐろの刺身と海老の塩焼きがあって、卓の中央には十人前もありそうな冷や麦。あるじ夫婦は、その冷や麦だけを食べた。「お客さん、あとで一緒に泳ぐかあ」とあるじが誘った。私はカナヅチだからと断った。あるじは「そんだら釣りにすっぺ」と気遣ってくれた。私はそれも理由を言わずに断った。とにかく一人でいたかったのだ。こうして一緒に食事をしていても気疲れする。自分の分だけご馳走なのも気詰まりだ。この気分を上手に説明できそうにないので、食欲がないのに私は黙々と口を動かせた。
 食事を終え礼を言ってすぐ二階に戻った。またひっくりかえって足でテレビのスイッチを押した。昼のワイドショーで肝臓移植の話題を取り上げていた。ぼんやり見聞きしながら、こころとからだのことを考えた。それを考えるのはこの頃の癖になっていた。腐っているはずの自分の内臓を総て、別の健康なものと入れ替えたらどんなに楽だろう。けれどもこころが今の状態のままなら、いずれまたからだが悪くなる。それなら内臓ではなく脳味噌を入れ替えなければならないのか。いつかそういうことも可能な時代が来るかも知れない。
 そんなことを考えていると、何となく淋しい気持ちがした。しかし私自身、医学の恩恵をどれだけ蒙ったことか。少年時代のジフテリアも青年時代の肺結核も、特効薬がある時代だったので助かったのだ。私はついていたのだ。あるいは天命。もし天命だとしたなら、天は私に生きて何をせよと命じたのか。その命に今背いているので、天罰が下っているのか。……
 いつのまにか私は眠りに入り、いつのまにか夢を見ていた。例の悪夢とは違う悪夢。からだが痛む。頭も背中も腹も手足も痛む。内からの痛みではない。石をぶつけられているのだ。誰のしわざかは解らない。小さな石、大きな石、丸い石、角張った石。次々と飛んできて防ぎようがない。これは夢ではないと思われた。なぜなら道理が適いすぎている。石が頭に当たれば頭が痛い。尻に当たれば尻が痛い。私は蹲っている。嘆き悲しんでいる訳ではない。ほくそ笑んでいさえする。内の痛みに較べれば、外の痛みなぞどうということはない。少なくとも不安も焦燥もない。石は容赦がないがほぼ十秒置きに来る。この規則性も悪い気はしない。……
 目覚めたときには既に夕方の陽射しだった。寝汗をかいている。痛みの名残がある。おもむろにTシャツと短パンに着替えた私は、階下でサンダルを借りて外に出た。海風が強かった。海水浴客は寒々とした様子で帰り支度をしていた。一軒しかない海の家も後始末を始めている。
 私は通りから砂浜に飛び降り、欠けた貝殻やら潰れた空き缶やら蟹の死骸などを避けて、砂を踏んで行った。砂浜を過ぎると岩場だった。滑りやすいサンダルも意に介さず、岩と岩の間を飛んで一番大きな岩に移った。苔を避けて腰を降ろし水平線を眺めた。それほど立派ではない水平線だった。それでも海は大きいと実感できた。「死んだら遺灰を海に流してくれ」と遺言する人間がいるが、よく解る気がした。
 暫し潮風に吹かれて潮騒の音を聴いていた。すると異質な音が聞こえ始めた。幻聴かと思われたが確かにすぐ近くで聞こえる。身を乗り出して下を覗くと、私のいる大岩の右下方のやや窪んだ箇所に人がいる。――少年と老婆だった。少年は海水パンツ姿で、老婆はもんぺのようなものを着ている。少年は一見して普通人ではなかった。頭がやけに大きい。老婆の三倍はある。腕が妙に長い。足の長さと同じ位だ。誰かに似ていると感じたが、映画などで見る宇宙人に似ているのだった。そうして私が聞いた異質な音は、この少年が石を海中に落としている音だったのだ。
 少年は膝上まで海水につかり、長い腕を突っ込んで海中の石を持ち上げる。何かを確認してそのまま落とす。次々と持ち上げては落とす。投げるのではない。ほぼ元の場所に落とすのだ。拳くらいの石もあれば頭部ほどの石もある。石の大きさと形によって、発する音が微妙に異なる。重い音、軽い音、鋭い音、鈍い音。弾く音、切り裂く音、のしかかる音。自分のしゃっくりに似た音。鞭で打たれた気分になる音。荘厳な鐘の響きかと思われる音。……しかしこれら微妙な音色の違いも、文字にしてしまうとつまらない。
 老婆は少年のすぐ横で腰を屈めて見ている。無表情で無言だ。少年がたまに感嘆詞に近い奇声をあげる。そのたびに私は首を竦める。少年の落とした石が彼自身の足首を直撃したのではないかと懼れる。いや意識の底では見たばかりの悪夢との連想で、自分が少年の石に打たれている気分になっているのだ。少年の表情は真剣だ。上から私が眺めていることに気づいていない。一心不乱のその姿は、それこそ天命の仕事を遂行している一徹な職人のようである。 少年は三十分ほどでその場での仕事をやりつくすと、満足げに至近距離の老婆の顔を見た。老婆が初めて微笑み無言で肯くと、少年は水の中を五六歩進んで次の仕事場に移った。そうして少年はまた同じことをやり始め、私は飽きることなく眺め続ける。あるじが浜辺まで呼びに来なければ、最後まで少年につきあっていたに違いない。
 またあるじ夫婦と一緒に夕食をとった。カレーライスだった。それと私の前にだけ、三人分は充分にある魚介の天ぷらが乗っている。さすがに私は天ぷらを一緒に食べることを提案した。あるじは満面の笑みで肯いた。どうやら私のその言葉を期待していたようだ。
 食事中少年と老婆の話を切り出した。
「岩場にいた子供は誰ですか」
「子供じゃねっぺ」とあるじはやや困惑の顔で答えた。
「いえお婆ちゃんの方ではなく子供の方」
「イシオは違うっぺ。子供じゃねえっぺ」
「石男ですか」
「イシオでねえ、イシオじゃ」
 あるじは食卓に指で名を書いた。
「ああ、伊佐夫ですね」
「そうがやあ。伊佐夫はじきに五十だっぺ」
「子供ではないんですね」
(あの少年が私と同じ歳とは。するとあの老婆は母親か)「伊佐夫とおっかさんは、毎日海に出てあれやるだあ」
「あれを毎日ですか」
「いつもは昼間じゃが。夏は人がいるんで夕方じゃ」
「いつ頃からやっているんですか」
「そうがやあ。もうかれこれ四十年になるがや」
「ヨ、四十年ずっとあれを……」
 気が遠くなる気分だった。伊佐夫も大変だが、つきあう母親はもっと大変だったろう。いや大変などという言葉は多分似つかわしくない。母親の人生の大半は、伊佐夫と共に生きた犠牲と奉仕の時間だったのだろう。
「あれはいったい何をしているんですか」
 答は想像できたが一応聞いてみた。
「ごらんの通りじゃ。それ以外は俺らにも解らん」
 あるじは天ぷらを頬張りながらも溜息をついた。そして夫婦で顔を見合わせた。こんどは寡黙だったかみさんが口を開く。
「伊佐夫は頭のとてもええ、親孝行な息子でしたがな」
「事故にでも遭ったのですか」
「そういいますればの。伊佐夫は四十年前さ海に飛び込んだっち噂だがや」
「自殺でもしようとしたんですか」
「いんや、自殺しようとしたんはおっかさんでしてな。伊佐夫は道連れで……」
「そうじゃねえだろうが」とあるじが口を挟む。「伊佐夫は溺れた弟を助けようとしてな、あの堤防から飛び込んだがや。けんど運悪く引き潮で、あん子は海の底の石さ頭ぶつけたがや」
「そうじゃねえでしょうが」と今度はかみさん。「ほんまにそげでしたら、あん金持ちの弟が兄ちゃんの面倒見るはずじゃ。弟は塩浦にぜんぜん寄りつきませんでの」
 居心地の悪い空気のあとで、あるじがこう言った。
「そのことで俺ちは一ん度、あんおっかさんに開いたことがあるっけが」
「何て答えたんですか」
「噂とは違う。うちの婆さんの話とも違う。おっかさんはたしかこう言ったけが。――わしが伊佐夫をバットでぶったたいただと。あん親父が大酒飲みでな。暴れてどうしようもないんで、伊佐夫が包丁を取り出したからだと」
 かみさんがあるじのシャツを引っ張った。
「そうじゃねえでしょうが。あん親父さんは真面目な働き者で、酒は一滴も飲まんかった」
「そういやそうじゃったな。なにせ四十年前の話じゃ」
 あるじが白髪頭をかき、この話は終わった。
 私もそれ以上質問をしなかった。フィリップ・マーロウみたいには執念深く真相を追いかける気持ちにはなれなかった。だが二階に戻っても私は、伊佐夫と母親のことばかりを考えた。アタマに障害を持つ息子と、その息子とつきあい続けた母親の四十年間。そしてこれからも変わらぬ数年間、長くとも残り十数年問。一方が死んだとき、もう一方はどうするのだろうか。考えれば考えるほど、ただ淋しい気持ちがした。耳の奥ではあのさまざまな音色が聴こえている。……
 翌早朝食事前にあの岩場へ行ってみた。ふと思い立って海水のなかに入り、伊佐夫がやったのと同じ行為をしてみた。石を五六個掬い上げ落としただけでくたびれてしまった。腕も腰も痛くなった。この仕事には年期が要ると思われた。私は夕暮れまで待って、伊佐夫を再び観察する気にはならなかった。一度きりで充分眼にも耳にも灼き付いてしまったからだ。私は朝食を済ませるとあるじに丁重に礼を言って塩浦を去った。
 その日から約一ケ月間が私の恢復期になった。


文芸同人誌案内」連携デジタル文学館・HOME


inserted by FC2 system