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 披露山中毒           藤田愛子

 

構想」41号(2006年12月)

推薦 畠山 拓さん(「構想」)

 

  
 九月も二十日を過ぎると森の緑はいっそう濃くなり、明るいグリーンの部分はぼかしのように僅かに残った。乾燥したサイクロンにも似た台風はかならずやってきた。まるでその前兆のように森の鳥たちはいっせいに囀りをやめてしまった。トンビや烏も披露山の森に姿をひそめて、いつもの制空権あらそいも消えてなくなる。
 台風がくると空は灰色の雲におおわれ、その雲は次からつぎへと半島・海・空をかけぬけて大粒の雨を絶えまなくふらすのだった。
 台風の翌日は、眩いばかりの白さに晴れわたり、湿った息のつまるような熱気が森のなかから湧いてきて、マンションの住人は汗の雫が背中をながれるのを感じていた。
 その日、地下二階の集会室で自治会の総会がひらかれた。総会の終る頃になると日射しは強くなり、冷房のよくきいた部屋のなかは光りの大きな縞に包まれていた。
 次期理事四人と監査役一人が、住人の去った机のまえに円を描いて坐っていた。ほとんど四十代の男性で、八十代という亜希の年齢は空から突然星がふってきたようなおどろきだった。しかし彼らはさほど驚いてはいない。
 じゃあ彼らは何におどろいていたのだろう。
 それは指名されたそれぞれの役職名に驚いたのである。
「え、僕が理事長‥‥」
 理事長に指名された一〇四号の男性は、その時嬉しさのあまり眼を見ひらいた。亜希はつられて笑った。
「五〇七号の河合さん、副理事長やっていただけます?」「なんですって! 僕が副理事長やるの‥‥」
 五〇七号の河合さんが思わずうめいたが、その声ほど見ためは嫌そうではない。
「僕たちはタダの理事ね。只のというところがいいんです。つまり理事長とか副理事長が支障をきたした場合、タダの理事が順番に上にあがるわけ‥‥。わかります?」
 隣りに坐っているタダの理事が熱をいれて説明するので、亜希はしかたなくうなずいてみせる。そして考える。いちばんにいなくなるのは私なんだけど。
「貴女はタダの理事だけど、そのうち副理事長になるかもわからない。そういうことなんです」
「なるほど、そうするとタダの理事だって油断がならないというわけですね」
 ゆっくりと前進、押しあいへしあいすることはないと説いている隣りの男の顔を亜希はぬすみ見た。理事たちの誰もがすべて親切のように思えた。彼らは自分たちの年齢の二倍ある亜希に偏見も悪意ももっていないようだった。
「じゃあこれで決まりましたから、月に一度集って会議をやりましょう」
 理事たちは椅子を机のなかにいれたり、カーテンサッシの紐をひいて部屋を暗くした。それでも集会室は明るく、陽にあたっても皺ひとつ浮きでていない男たちが二三人寄りそって熱っぽく話している。亜希だけが彼らのような昔にもう帰れないのだ。
 スリッパを脱ぐともとの場所にもどして靴をはいた。扉を開けたときうしろから声をかけられた。
「お宅は二〇五号の椎名さんですね」
 振りかえるとタダの理事ではないか。
「僕のところ、貴女の上の三〇五号、ベランダに青い花の咲いている木があるでしょう。間宮といいます。よろしくね」
「こちらこそ。ほんとに綺麗な花ですね。あの花の名前おしえていただけます?」
「ルリマツル。いい花でしょう」
「ええ、とても‥‥」
 二人は集会室からいったん階段をあがる。そこは地下一階で、部屋番号はすべて二百がついていた。亜希の住んでいるBブロックになる。
 間宮の住んでいる三〇五号室は、溝ひとつへだてて建っている三階だての一階にある。
 ――Cブロックの代表理事が間宮さんなのだ。亜希はマンションの構造と自治会の分布図が、ようやく解った気がした。
「じゃあまた‥‥」
 亜希は彼に言ってポケットのなかの鍵をさぐった。
「さよなら」
 間宮は挨拶してさらに一階のエントラスに通じる階段をのぼって行く。亜希は階段のしたからそのうしろ姿を見送った。
 二〇一号の表札は空白になっている。二〇二号は犬を飼っている。二〇三、二〇四とセカンドハウスなので表札はでていない。
 亜希は二〇五号の扉の前までくると、眼のまえのルリマツルの枝を見あげた。まだ充分に青い花をつけている。ベランダの半分はカラタチの木に蔽われ、三〇五号室のなかをとうてい覗くことはできない。白い下着も干してないし、子供の声すらきこえない。
 その日まで誰が住んでいるかも考えなかった。披露山に越してきて半年になるが、マンションの住人の一人というのをすっかり忘れていた。その自分とはいったい何だったのだろう。亜希はまったく不思議な気持にとらわれた。
 海の見える別荘地で三十代四十代の人たちが生活を楽しんでいる。難くせをつけようにもつけられない。素敵な日々を展開している。
 そして自分もそのなかの一人ではないか。
 両隣がいつも不在なのをいいことに、毎日韓国映画のDVDを鑑賞している。
 ごめん、愛してる″題のごとく甘いラブストリーをうんざりしながら、それでも喰い入るように見ていた。
 窓を開けると、雀がカラタチの木にとまってチュンチュン鳴いていた。雀は陽光のなかを、かろやかにふんわりと飛びたった。
 三〇五号室はあいかわらず人影もなく、人の声もしない。もちろんふだんの日はタダの理事もいない。
 人なつこく丸い間宮の顔が浮んだ。ごめん、愛してる韓国の若い俳優の顔とだぶらせてみる。それにしても、一八六センチある漢陽大学機械工学科卒の美男子とはくらべようがないではないか。

 日曜日、天井にとりつけてある火災報知機の警報がなりひびき、マンション全たいが卵のように壊れやすい朝にかわった。
 おそらく一軒の報知機が熱気をつたえているというのに、その昔の大きさは何だろう。眠気をふりきって亜希は立ちあがった。自分の出る幕なのだ。
「椎名さん、おはよう」
 ルリマツルの木とカラタチのあいだから、パジャマ姿の間宮が顔をつきだしていた。
「いま電話して管理人さんにたしかめたところ。原因はすぐわかると思います」
 五階だての建物のベランダから、いっせいに男女と子供の顔がのぞいている。眼の前の彼と話すことさえ恥かしい。間宮が携帯電話をとりだして話しだすのと、けたたましい警報が鳴りやむのが同時だった。
「四〇三号の住人が、換気扇つけずに煮物をしていたらしい。熱気がキッチンにこもって火災報知機が反應したそうです」
 彼の声を聴きながら、亜希はしきりにうなずいていた。同じタダの理事でも、彼のほうがずっと役に立つし責任感もつよいではないか。
「何のお役にもたたなくて‥‥」
「いいですよ。顔をだしてくれたんだから」
 隣人とのやさしい対話、そんな朝の訪れは久し振りだった。じゃあと言って間宮はリビングへ去った。マンションのベランダから放射される驚きのまなざしも消えていた。またもとの平穏な朝に戻ったのである。
 その日の夜、ひとけのないゴミ捨て置場でぱったりと間宮にあった。
「今日はよくお会いしますね」
「何時もはあわないのにね。鍵しめないでそのまま扉開けといてください。ゴミ袋まだ家に置いてあるから持ってきます」
 サンダルでぱたぱたかけてゆく彼の後姿を見送ってから、すぐそばの駐車場で亜希は待つことにした。くつろぎのひとときが欲しかった。家に帰っても猫一匹待ってはいない。
 おそらく間宮もそうにちがいない。
 ふたたび彼は大きなゴミ袋をかかえてやってきた。
「先に帰ればいいのに待っていてくれたんですか」
「いそいで帰っても誰もいませんから‥‥」
「いやまったく。実は僕もそうなんです‥‥」
 不意に心が和らぎ亜希は胸いっぱいの空気を吸った。
「エントラスでちょっとおしゃべりしません?」
「ええ、いいですよ」
 彼の足はすでにエントラスの方角にむいていた。
 夕食どきなのでエントラスには誰もいない。
 二人は長椅子に腰をおろした。窓ガラス越しに海に浮ぶ江ノ島の灯りがまたたいている。壁に貼りつめた長い鏡に、親子以上に年齢のちがう二人の姿が刻まれていた。
 その滑稽さに亜希はおびえる。
「毎日何をしているんですか?」
 間宮はさきに質問した。
「韓国のスターのデジタルビデオみています」
 亜希は悪びれずにこたえた。
「ヨン様とか‥‥」
「ヨン様じゃなくて次世代の若いトップスターの映画」
「じゃあDVD椎名さんが自分で買ってくるんですか?」「そう、鎌倉の新星堂に行って買うのがいちばんの楽しみ。ドラマだと二十三話まであって値段も高いんです」
「観光地がまわりにいっぱいあるのに、ビデオ見てるなんて変った人だな」
 彼の眼には安逸の日々のなにものでもないかも知れない。しかし亜希の孤獨はデジタルビデオを見ることによって武装されていた。
「どうして韓国にこだわるの?」
「さあ、どうしてでしょうね」
「それって椎名さん、イケメン依存症じゃないですか」
 始めて聴く言葉である。同じ依存症でもイケメンがつくと燦めいてくるから不思議である。八十代半ばの自分のとしでは、もはや何をしても許されるであろう。
「認知症より依存症のほうが、まだいいですよね」
 間宮はとつぜんわらいだした。
「冗談ですよ。自治会にでてこられる人を認知症よわばりは致しません。イケメン依存症ってのは僕の褒め言葉なんです」
「おもしろい言葉をありがとう」
 映像の果実はその日のうちにはかなく消え去る。しかし生(なま)の果実は長いあいだ止まっていた自分の想いを揺りうごかし、じっとりと汗をかかせる。
 住人の跫音がしたので二人は長椅子から腰をあげた。

 夕方になると温度がさがり肌寒い風が吹いた。風が吹くと森の樹々がいっせいに揺れ、まるで喋っているようだ。
 亜希はその夜もひとりビデオを見ていた。
 相手なしではいられないという年齢は消えてしまっていた。それでも待つべきものがなにもないのに、何かをまっている。死にそうで死なない。
 八十代というのは不可思議な年代というほかはない。
 朝夕韓国の若い俳優の映像にうっとりとなっているのも、彼女の残された挑戦かも知れなかった。
 ――映像に夢中になったってしょうがないじゃないの、もっと他にやることないの?
 娘の咲子に言われた。あえて年寄りたちとはいわないが、ごちそうと観光と陽気な会話が嫌いなのだ。いまさら他人と友達になるなんてまっぴらだ。
 それにしても韓国の若い俳優は、山姥のような女性が逗子の披露山に住んでいて、朝晩自分の映像に見惚れているとは、考えもしないだろう。映画館には十七才未満入場おことわりはあっても、八十才以上入場おことわりの制限はない。世界の隅々まで点在するファンを彼はいつでもどこでも夢心地のなかに誘いこまなければならない責任がある。彼らの使命というのは、たぶんそれだろう。
 日比谷ピカデリーでおこなわれた 情容赦なし″の舞台挨拶の集録ビデオを、亜希は何度も見た。韓国の個性俳優カン・ジョンフンをひと眼を見ようとはなやかな若い女性が席を埋めている。
《この映画のアクションは既成のアクションではなく感情のアクションです。一篇の詩のような美しい映画に仕上ったと思います。国は違っても共感する点がたくさんあるので、多くの方たちに見ていただきたいのです。今後も韓国映画とぼくカン・ジョンフンを應援してください》
 すらりと手足の長い少年のような眼をした、それでいて精悍な二十五才の俳優が共演者および監督とならんで、黄色い声のとび交う舞台で挨拶をしていた。
 日本のファンに対して何かひとことと、司会者に求められると、
《正直いって、僕はまだ日本のファンがどのくらいいるのか知りません。日本にくるのはこれが二度目なのですが、何時も親切にむかえて頂いて嬉しく思っています。日本のファンは情熱的でかわいいと思います》
 カン・ジョンフンさん可愛いと言うのはプリティという意味ですよ。と司会者に言われ逆にファンから飛び交う可愛いという声に、すっかりあかい顔になった彼の初々しい表情が録画されていた。
 亜希は午前中に、そのジャパンプレミアの録画を見てうっとりとなり、夜またカン・ジョンフンの羞恥に埋没した。
 亜希に残された時間はあまりない。九十才まで生きるとはとうてい考えられない。明日のために生きてるとも思えない。いまこの瞬間、韓国の青年に魅了されてしまった心をうらやましがりこそすれ、自分から奪ってしまうことは誰もができないだろう。
 イケメン依存症でもいい。怖れるものはもう亜希にはないのだった。
 チャイムの音に椅子から立ちあがってドアを開けた。扉のそとにいるのはタダの理事ではないか。
「表札にまでスターの写真が貼ってありますね」
 間宮はくすくすと笑った。
「ローマ字で書いた表札に空ができたからですよ」
「いや椎名さんの男の好みがわかりました」
 好みがわかっても、それは韓国のソウルから発信している映像に過ぎない。どう答えたらいいのだろう。
 背広を着ている間宮をはじめて見た。一人暮しなのに充ち足りた生活のにおいがした。真剣な透きとおるような顔を前にして、亜希はめずらしくどきまぎした。
「実はこれを差し上げようと思って持ってきたのです。椎名さんケイタイ持っていないでしょう」
「ええ。」
「じゃあこれ使ってください。買ったばかりですから」
 先のない老女に何故興味を持つのだろう。まるで気まぐれな少年のように。
「お高いもの困ります。どうしてですか」
「僕メールしたいからです。椎名さんを公園の散歩に連れだしたいから‥‥」
 たぶん単純な動機からなのだろう。イケメン依存症をなおしたいというおせっかいな熱意からかも知れない。しかし、かなり距離のある披露山公園に誘われたりするともうお手あげだ。
「散歩はきらいなんです」
「だからですよ。他意はありませんから是非使ってください」
 携タイ電話のはいった袋を玄関において、間宮はそそくさと帰った。ルリマツルの花がまだちらほらと残っているベランダの三〇五号室に。
 多機能な新しいケイタイである。貰っても機械によわい自分につかいこなせるわけはない。そのうち宝のもちぐされになるだろう。
 テーブルの上のうすいブルーの携帯が、福山雅治の曲をかなでて振動する。幸福な夢をみているようだ。生まれてはじめて携帯電話を開けてみる。
 間宮の顔写真があらわれた。洗練されたカン・ジョンフンのブロマイドとは似ても似つかぬ素人のおじさんの写真に驚いた。そしてメールも。
(日曜日、午後一時マンションの入口で待ってます)
 それにしても新しい携帯電話を母のような山姥に買いあたえるもの好きがこの世に存在していたとは。プロフィル機能までついている。
 これはぜったい秘密にしておかなければ、咲子に告げれば抱腹絶倒するにちがいない。間宮の名前は口がさけても言えない。

 散歩と聴いただけで朝の紅茶がまずくなった。
 ほんとうは日曜日の朝こそ、カン・ジョンフン主演の情容赦なし≠ニいう映画にどっぷりと浸りたい。亜希はふって湧いたような間宮の好意のなかにいつしか巻きこまれていた。
 いまさら後戻りは許されない。
 約束の時間に行くと、皮のブルゾンを着た間宮がカーテンで中が見えない管理室の前に立っていた。
 もう誰も待っていないのに待っている若い男がいたので、亜希の顔から血の気がひいた。
「大丈夫ですか?」
 と間宮が聴いた。
「ええ、大じょうぶです」
 咲子からもらった赤い登山用のピッケルを間宮にみせた。坂をのぼる自分の心意気をすこしでも彼に伝えたい。
 駐車場のオーバースライダーが開いて、横浜ナンバーの車が次から次へと鋪道にむけて出発した。おおむね行楽地にむかうのだろう。
 他の住人と同じように間宮も車とバイクを持っている筈である。しかし彼はじゃあと、呟くように言って歩きだした。
 公園までの急坂はまるで逃避行のようにつらい。公園からおりてくる歩行者となんどもすれちがったが、挨拶がせい一杯で性別も服装も眼には残らない。彼らは大声でわらったり話したりしていた。
 山土が露わになっている小山の前で急に左に曲るのだが、鋪道らしいものはなく傍を車がぶんぶん通る。生きた心地がしない。
 歩くリズムが落ちた亜希の背中を間宮が押しあげる。
「もうすぐもうすぐ。椎名さんがんばれ」
と言って励ますので、亜希は羞しさでその場に倒れそうになる。まるで落武者のように、赤いピッケルに体重をのせてどうにか頂上に辿りついた。
 披露山公園からは逗子の街が俯瞰された。
 それから猿の山に連れていかれ亜希は、心身ともに疲れ果てていた。猿のほうも色気のないカップルにはそっぽを向いてしまう。人間より賢い動物である。
 猿に愛想わらいをして間宮と二人で人参ジュースを飲んだ。
 帰途は下りになるので脚のほうも自然にはずみがついた。結局公園までの散策は、彼に老いを見せつけただけで終った。
 間宮の職業生いたち何ひとつ聴いていない。
 亜希にはまるきり関心がないのだ。ベランダにルリマツルの青い花が咲いているお向いの隣人、社会的な関心はその認識だけでよい。
 間宮とのつきあいは、情容赦なし≠フ別れがきても決して ごめん、愛してる″にはならないからである。
 メールもただの電波、彼の息吹きや体温をつたえてはくれない。ところが坂道で背中を押してくれた間宮の手の感觸は、家についてもほのかに残っていた。
 それはすっかり遠のいていた男の手だ。もはやこんりんざい捕えることのない若いふっくらとした男の手だった。あの一瞬を自分のものにしただけで、もういい。
 亜希は韓国若手のトップスター、カン・ジョンフンの健康で長い指を見るためDVDデッキにビデオをいれた。
 間宮が気にしてくれるイケメン依存症はまだ治癒していないらしい。八十代の病が治るわけがない。死を間近にして最後に選択した病なのだから臨終のときに、カン・ジョンフンの東洋人らしい精悍な顔が火花のようにはじけ散るだろう。
 折れそうな枝にしがみついていた八十何年の過去なぞいさざよく捨ててもよい。人はそれを彼女の人生と呼ぶだろう。風に吹かれる紙屑のような生の軌跡に、何の意味があるというのだ。少年の感性をもつカン・ジョンフンの映像に執着する今となっては‥‥。

 ときどき雨が降り晴れると夏のような陽射しが照りつけた。
 夏ばの遮光カーテンがまだとりはずせない。
 塩害地に指定された披露山に住むと、なにも動かずなにも変らない。ただ季節はいつもどおりに動いている。江ノ島のうしろの半島のまたそのうしろに、富士山がくっきりと青く全貌をあらわすようになった。
 森の樹の上をリスが敏捷に飛びまわる。それも束の間のリスの映像にすぎない。けたたましく鳴く烏の声だけは聴きたくない。
 朝からステーキや煮物のにおいがする。
 両隣や下の階がセカンドハウスにして不在なのに、どこから漂ってくるのだろう。
 間宮からもらった携帯電話がテーブルの上で振動する。
 どうせ彼からもらった携帯なのだから、彼しかかけてこないのに決まってる。始めから他の交流を規制されているケイタイなのだ。
「公園の散歩疲れました?」
「いえ、たのしかったです」
「ジャパン・メンテス・タワーズの用紙見ましたか。午後から自治会です。始めてだから出席しましょう。」
 わかりましたと言って、亜希は携帯をきった。
 玄関のドアを開けると、溝ひとつへだてた三〇五号室に間宮が住んでいる。お互いに連絡しあうのが携帯電話というのもまた変だ。
 カン・ジョンフンが財閥の御曹司になって出演しているドラマでは、二メートル先に佇んでいる恋人とそれぞれの携帯で話あうという奇妙な光景がある。それはあくまで脚本家の書いたドラマなのだから仕方ないとしても。
 昔の人は、住居が近ければ走るようにやってきて用件を足したものだ。
 羊雲がわきあがり空の一部を占據する。大気が澄んで揺らめいた。そして披露山の秋は深くなる。
 集会室に顔をだすと、理事長はじめ四十代の理事たちがすでに机の前に坐っていた。他の理事たちとは一度しか面識がないので、どうしても間宮の横に坐ってしまう。
 僕たちはタダの理事ですねと、話かけてきた間宮の声がなつかしい。内に内にこもる眼を外に向けてくれたのも彼なのだ。周囲を観察するようになって、亜希の心はいつしか安らいでいた。
 僕が理事長とびっくりしてたしかめた一〇四号の男性も、落着きと貫禄をとりもどしたらしい。たぶん、東京に出勤している企業の戦士なのだろう。
 てきぱきと議題を提供して理事たちの意見をとりまとめるのが巧い。
「社会福祉協議会にはいって、つまり社協ですね。他の自治会と連絡をとり合うという件どうします?庭園住宅も小坪の自治会もすでに加入しているそうです。うちの自治会だけ地震やその他の災害がおこった場合、孤立することになります。間宮さん、あなた市役所の方だから御意見聴かせてください」
 市役所の人と指名した理事長の声に、亜希は後から頭をなぐられたような驚異をおぼえた。
 携帯電話を持ってきて公園の散歩に自分を連れだした間宮は、実は公務員だった。
「僕はその件については意見をさしひかえさして頂きます。自治会として加入の意志があるなら、社協の職員を呼んで説明させますが‥‥」
 彼はいったい市役所のなに課で仕事をしているのだろう。
 市民課、税務課、老人福祉課、社会福祉課、それに介護保険課、亜希はどれをとっても自分に関係があるような気がした。市が張りめぐらした強固な網の目からはいずれにしてものがれることはできない。
「間宮さん。市役所のどこの課におつとめなの?」
 亜希の声はこわばっていた。
「それを僕に言わさせるんですか。介護保険です」
 窓のそとの棕梠に陽射しがふりそそいでいる。集会室の中庭は冬になると陽だまりができた。
「毎月高い介護保険料はらわされて腹がたちます。」
 さほど腹が立っているわけでもないのに、亜希の声は半音あがっていた。
 間宮はだまっていた。やましいことはないと背中で抗議している。彼の拒絶を亜希はまともに受けた。
 彼は認知症の検査を受けなさいとも、ヘルパーさんを派遣するのひとことも亜希にすすめてはいない。むしろ彼こそ市民の下僕であり、老女の背中をおして坂道を登る優しい新兵ではなかったか。
 三時になると自治会の議題はすべて完了して、私語が交されていた。
 ふと見ると、間宮は新しい時計を腕にはめている。
「それもしかしてサンローランの時計じゃないですか」
「贋ものですよ。文字盤が見やすいからこの時計はめてるだけ‥‥」
「本物なんでしょう。カン・ジョンフンも舞台挨拶で来日したとき、赤いバンドのサンローランの時計してましたよ」
 間宮はわらいだした。
「僕はスターじゃないからサンローランは買いませんよ。椎名さんまたビデオの見すぎじゃないですか」
 二人はスリッパをもとに戻して集会室の扉の外にでた。
 階段をのぼりながら「これから街にでてパスタ食べませんか?」と間宮が聴いた。
「車に乗せてもらうんでしょう。バス停まで歩くのは嫌です」
「もちろん僕の車で‥‥。ともかく街にでて食事しましょう。そのあいだ椎名さんは韓国のスターのビデオ見たくても見れませんからね」
「なるほど、そう言われればそうですね」
 間宮の好意が胸いっぱい拡がっていった。間宮が市職員でも、名札を胸にぶらさげた介護保険課の人でも、もはやどうでもよかった。
 それがどうだって言うのだ。自治会で彼とタダの理事やってるあいだは、先ず老人介護施設に放りこまれる心配はないといっていい。
 いずれお世話になるかも知れない、としても。
 その時は間宮が何とかしてくれるだろう。披露山でのいちばん親しい隣人は、介護保険課の人だった。
 駐車場で横浜ナンバーの間宮の車に乗った。
「あさりのボンゴレスパゲティが食べたい」
 と亜希は甘えるように間宮に言った。
「僕はタラコスパゲティだ」
 彼は力強くいって車のギアを入れた。


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