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  暗い林           畠山 拓 

 

構想」43号(2008年1月)・「パッション」改題 

推薦 崎村 裕さん(構想)

 

 

            一

 会社をくびになった。暫くして引越をした。退職金で高原に小さな家を建てた。私は五十五歳だった。再就職を試みた。職を探すことは出来なかった。妻の希望で田舎暮らしを決めた。生活の目処がたっていない。

 妻は体の不調を訴えていた。「空気の良い所に住みたい」

 家を建て、引越をして、半年ほどで妻は倒れた。癌だった。末期の肺癌である。ほどなく死んだ。私は仕事を失い、妻を失い、孤独になった。結婚生活は三十年。子供は留美子という娘がひとりいた。

 私は孤独には強い、と思っていた。葬儀がすむと不眠症になった。酒を飲んだ。山の中の家で朝から夜まで飲み続けた。アルコール中毒になった。体力が急速に衰える。このままでは死んでしまう。

 ようやく私は禁酒を決心した。規則正しい生活をする事。仕事を得るのが一番の道だ。趣味は無かった。酒から興味をそらすことが必要だ。妻がいない淋しさ。生きているときは愛しているとは感じなくなっていた。何年も抱いたことは無かった。話しても心が弾むと言うことも無かった。共通の趣味も無い。妻から心が離れていた。

 亡くなって見ると、空しい穴が心にあいた。その部分が妻だったのか。三十年を繰り返し、繰り返し思い出した。愛していたのだ。不思議なことに愛していたのだ。泣いて酒を飲んだが、手遅れだ。三十年一緒に生きられたことで満足しなければ。

 家の側に牧場が有る。集団農場だったのだろう。現在は観光施設もある。旅館や食堂を経営している。乳や肉の加工や販売を行っている。

 私は農場の経営者に交渉した。未経験の初老の男を雇いたがらなかった。食堂の手伝いでも、売店の売り子でも良いと粘った。「考えておきます」と言ってはくれたが、望み薄である。

 返事を待つ間、体力回復を決心した。毎日の日課表を作った。細かく、具体的に予定をぎっしり埋める。起床から就眠までを数分単位で塗りつぶしていった。

 酒は家には置かない。その日、飲む分は毎日買う。絵は小さい頃から得意だった。油や水彩も面倒なので、色鉛筆で書き始めた。対象は何でも良い。目の前にあるものから、散歩で観たものまで。何を描いても時間を潰せるのなら。

 私は自らを囚人にした。恵まれた囚人である。私は自らが看守となった。仕事熱心の看守と、模範的な囚人に。何ヶ月かが過ぎていった。

牧場の仕事は就けなかった。生活は規則正しく出来る。それなら収入を得なくとも何とかなる。年金が支給されるまでがんばるつもりだ。少しばかりだが親の遺産も有る。

             二

 家は林の中だ。舗装した道は通っている。旅行者や地元の業者の車が通る。車は通り過ぎるだけで家の前で止まる事はめったに無い。

 ある、晴れた朝。手洗いの窓から見た。白い乗用車が止まった。隣の雑木林の前に。三人の人影が降りた。背広の若い男、ワンピースの若い女。女の腕には赤ん坊。夫婦とその赤ん坊らしい。雑木林を眺めてなにやら話していた。

 二ヶ月ばかり経って、その場所に家の建築が始まった。暫くして、業者が訪ねてきた。業者は家主の代理で建設の挨拶にきたのだ。

 私はそれとなく建築主の事情を聞いた。東京在住者。若い家族だと言う事。先日見かけた親子連れがそうなのだ。

 別荘の建設がはじまった。重機が入り雑木林の整地。この付近は国立公園で樹木の伐採にも制限がある。家は木造建築である。大工が二名、三ヶ月程でつくり上げた。庭に芝生も敷かれた。楢林の中にぽっかりと真新しい別荘がたち上がった。家財が運び込まれたが、持ち主は現れなかった。

 別荘の建設で、私は迷惑をこうむった。建築中の騒音が神経に障った。都会の騒音に比べれば何ほどのことも無い。静寂の林の中では苦痛だ。体力が弱って、神経も弱っていた所為だ。

 チャイムで目が覚め、玄関に出た。九時半になっている。規則的な日課が狂っていた。昨夜は不眠で、夜中に飲んでしまった。

 初対面の隣人に良い印象を与えようと、大急ぎで身支度をした。玄関のモニターで確認したのだ。三分ほど掛かった。

 先日見かけた赤ん坊を抱いた夫婦が立っていた。

「こちらにお住まいになって永いのですか」と、男は言った。

「別荘ですか」と、私は確認した。仕事を持っているだろう男の別荘なのだ。

 男は水谷昭次、妻は生子と言った。

 別荘をこの若さでもてるのは生活に余裕があるのだろう。彼らは三十代だと思った。生子も幼子を抱えた若い穏やかな女に見えた。夫が話している間、口を挿むことは無かった。

「かわいいお嬢ちゃんですね。幾つかな」と、私は言った。

「もうすぐ一才になります」と、生子は答えた。

 その日、私は度々、隣人のことを考えた。彼らは何をしているのだろう。運び込まれた荷物の整理をしているだろう。この別荘地の感想を話している。新しい家の飾りつけのことを。隣人の男のことを。

 彼らにとって私は好ましい隣人だろうか。孤独で哀れな男と思われたのか。

 季節も良い季節。彼らは度々別荘に現れた。新築で嬉しいだろう。水谷昭次は東京の電機製品の製造会社に勤めていた。総務畑の仕事らしい。

 時々、生子ひとり、赤ん坊を連れて来ていることがある。私は生子が好きになった。生子は留美子と似ていた。留美子とはもう何年も会っていない。

生子がひとりで別荘に来ることを望んでいる。幸い、生子は二回に一回ぐらいはひとりで子供を連れてくる。赤ん坊は奈美という。やっと片言が話せる。歩くことが出来る。最も目が離せない年頃だ。

 私は女の子を育てている。三十年近い昔だが留美子もあんな赤ん坊だった。生意気だが美しい娘に育った。そして、死んだ。私をこの世に残して。妻も死んだ。私をこの世に残して。この世?私はあの世を信じてはいないが。

 若い夫婦が近所に別荘を建てたことで、私の精神は変化していった。変化のひとつは若い頃を思い出すことだ。娘、留美子の記憶がしきりに蘇った。時の中に葬り去った記憶が私を苦しめた。

 水谷夫婦はしばしば別荘を利用した。しかし、彼等の留守中、私は落ち込んだ。白いシャッターが下ろされた窓を見るのがつらかった。盲目の白いにごった目のように思われた。生子と赤ん坊の二人連れのときはわくわくした気持ちになった。白い乗用車の運転席に生子の姿を見ると喜びが湧き上がる。生子が赤ん坊と二人でやって来たのだ。

 生子は気の利く女だ。時々、土産を持ってくる。手作りの菓子など。私はとても嬉しい。私は甘いものが嫌いだ。生子は私が酒好きなことを知らない。甘いものを口にしない。生子の菓子だけは別である。

 私は生子の気を引こうと、鉛筆画のことを話した。

「一人暮らし、退屈なので鉛筆画を始めたのですよ」

「どんなものをお描きになるのですか」

「何でも」

「すてきですわね」

 生子は私の絵を観たいとは言い出さなかった。私は期待していた。生子の別荘に持っていっても良い。家に来てもらっても良い。

 生子は用心しているのだろうか。私に家に上がりこまれたり、私の家に来たりすることを避けているのか。時々の土産も義理なのか。初老の男を用心することは無いのに。夫と二人で私の絵を観れば良いのに。

 悪い気はしなかった。私の男を意識している証しか。生子の女を私は意識している。絵を観たいと言い出さない。生子は私にサインを送っている。貴方に興味は無いわ、ただ隣人としてのお付き合いよ、と。

 私は菓子のお礼に、妻が留美子に読んで聞かせていた絵本を探した。

 私が非常識な振る舞いをして、水谷夫婦を脅えさせてはならない。楢林の中にぽつんと並んだ二軒の家である。隣人として節度ある付き合いをするつもりだ。生子と赤ん坊の奈美が庭で遊んでいてもめったに出て行かないよう気遣っていた。付きまとわれていると思われてはならない。うずうずしながら我慢する。時々は偶然を装って声をかける。

「このあたりの名所はもう回りましたか」と、私は言う。

「主人が忙しいものですから。この子とふたりでは大変ですし」

「良かったら、私と一緒に行きましょう。一時間もあれば」

「何処ですか。嬉しいわ」

「それは行ってからの楽しみで」

 私は生子を案内する。車は生子が運転した。赤ん坊はチャイルドシート。私は後部座席に。

 那須の温泉街のひとつ、山道を登った所に「足湯」がある。渓谷の緑を眺めながら、温泉に足を浸すのだ。鹿の彫刻があり、源泉が湧き出ている。

 生子の足は想像していたより、はるかに美しかった。その夜、鉛筆画で生子の下半身を描いた。スカートの裾をたくし上げる。熱い湯船に足を入れる。浸した白い足はたちまち薄赤くなる。私は赤くほてった足を思い出して描いた。

赤ん坊の奈美も足湯が気に入ったらしい。母親の膝ではしゃいで笑っていた。

             三

 幸せな家族。幸せそうな家族を隣人にもってしまった。私の孤独は益々深まっていった。水谷家族が別荘に来ない時は雑木林の静寂は深かった。彼等がやってくれば、イライラが募った。若いときのように妄想した。生子を裸体にした。失った過去が私を苛んだ。湯の中に光っていた生子の足首が私を苦しめた。

 私は再び酒に溺れた。朝から酒を飲んだ。酒に強いと自認していた。アル中になるはずは無い。酒を飲めば空しさは紛れた。妄想の中で生子を冒しても羞恥心は沸かない。罪悪感も無い。恋敵である水谷昭次を殴り倒すことも出来る。

 食欲が無くなり、痩せてきた。自分では健康なつもりでいた。しきりに鉛筆画ばかりを描いた。周囲が恐ろしいものに変貌していった。恐ろしくて酒を飲んだ。酒を飲み続けているから、酒を飲んでいる感じはない。精神が常に興奮状態にある。

 私は何をしているのか。此処は何処だ。

突然、荒野に投げ出されたキリストに変身している。悪魔が私を誘惑する。恐ろしいものをけしかけてくる。私はリア王だ。全ての者から裏切られた。社会からも。妻からも。娘からも。おまえ達は何故、私を置き去りにした。

 闇の中からざわざわと魔物たちが現れる。気味の悪い森の生き物。キイキイと鳴き、げらげらと笑う。

 気がつくと、病院のベッドだった。

 酩酊して、家の庭をうろついていたと言う。失神し、倒れた。吐血していた。偶然、水谷生子が異変に気がついた。意識を失ったまま、救急車で病院に搬送された。

 生子は私の危機を救ってくれた。そればかりか、入院している私を見舞ってくれた。

「早く治ってくださいね。もう、お酒は駄目ですよ」と、生子は優しく言う。

「覚えていないな。あの時のことは」

「ビックリしました。何か叫んでお庭を歩いていた」

 私はパジャマ姿で、夜の庭を彷徨していた。パジャマの上を庭に脱ぎ捨てて。狼のようにほえていた。半獣となって喚いていた、という事らしい。

「あなたに、助けてもらって、よかった」

「安心しましたわ」

「また来てください。また私を見てください」

 私はベッドから手を差し出して生子の手を求めた。握った生子の手は滑らかで、生暖かかった。

「約束します。大人しくしていてね」

 断酒して、点滴を打ち、私は次第に体力を回復していった。独りになれば酒を飲むから、病院では暫く私を閉じ込めておくつもりらしい。それでよかった。何処に居ても一人なのだ。独居房の囚人なのだ。

 酒を断っているのはつらかったが、何とか乗り切った。飲まなくても苦痛ではなくなった。僅かでも口にすれば、元に戻る。病院の生活は退屈だ。食事はまずい。個室だったが、看護師の目が常にある。

 生子が見舞いに現れた。うっとりするほど美しい。手に花束を持っている。匂いの少ない明るい花が生子の複雑な心のように思えた。

「生けるものも、用意してきました」と、生子はガラスの花瓶を取り出した。

「何処が良いかしら」

 窓辺のテーブルに花瓶を置き、二人並んで眺めた。

「綺麗でしょう」

「綺麗だね。とっても」

 私は生子を抱き寄せて、囁きながらキッスをした。生子は逆らわなかった。

               四

 暫くして私は退院した。断酒のカウンセリングを定期的に受けた。私は酒に溺れない自信が出来た。生子に愛されているのだ。私の口づけを受け入れてくれた。人妻が。水谷夫婦には何か問題があるのだろうか。私の関心は生子だけだ。

 私は家に帰った。最初に掃除をした。酒に溺れていた間、掃除などしていない。暫く留守にしていた。乱雑な家を綺麗にする。妻と娘の仏壇も埃が溜まっていた。新しい、水とお茶を用意する。蝋燭をともす。線香をたく。

 無事生き延びたよ、もう少し待ってくれ。妻に手を合わせる。

 以前のように、独りで食事を作る。水谷の別荘は閉まっている。不思議に淋しさは感じない。後は待つだけだ。

 一週間ほどして、雑木林の道を白い車が走ってくる。生子が運転席に居る。私は頬に手を当てる。髭が伸びている。急いで髭をそる。シャワーを使う時間があるだろうか。

 それから二時間待った。チャイムが鳴った。

 生子は山百合の花のような、ゆったりとした服装だった。手にバスケットを持っている。赤ん坊の奈美は抱いていない。

「家で眠っています。眠るのを待っていたの」と、生子は弾んだ声で言った。

 私はお菓子を受け取ると、テーブルに置いた。

「美味しそうだ。だけど、これは後で頂こう」

 生子を抱き寄せキスをした。寝室にいざなって、ベッドに押し倒した。生子の反応は激しかった。積極的ではないが、明るく陽気なセックスである。夫の水谷昭次は妻に満足しているだろう。それなら何故、生子は私に抱かれる気になったのか。夫に満足していないのか。冒険心、好奇心なのか。

 ベッドにお茶と、生子のお菓子を持ち込んだ。食事もしないで永い時間抱き合っていたので、ひどい空腹を覚えていた。

「噛んで、私に頂戴」と、生子は言った。

 私は少し驚いた。昔、離乳時期の幼児に噛んだ食べ物を口移しにする女を見たことがある。生子は何処の出身だろう。

 たわいも無いことを話した。もう何年も、何回も、愛し合った仲のようだった。

 家の近くで車が止まったらしい。車のドアの閉まる音がした。カーテンの端からのぞくと、やはりそうだった。男が生子の家の前に立っている。

「大変、チャイムで奈美が目を覚ましてしまうわ」

 赤ん坊が眠っている窓はこちらから見える。カーテンを開け放し室内が覗ける。まだ、赤ん坊が起きてはいないようだ。

 生子は急いで衣服を着る。

「今夜また」と、私は生子の尻を叩いて言った。

「昭次がくるかもしれないの。でも、すぐ帰るわ」

 男は建設業者だという。家のアフターサービスの件で訪ねてきたのだ。私は生子が急いで帰った後、バードウォッチに用意した双眼鏡を取り出した。男の姿を追った。ハンサムである。浅黒く陰険な目つきをしていた。厭な感じだ。危険な獣のような雰囲気を感じた。

 男は暫くして、帰っていった。私は直ぐにでも生子を呼び戻そうと、携帯電話をかけた。

「やっぱり来るわ。これから駅にお迎えよ」

 水谷昭次が別荘に来るらしい。週末である。

「さっきの男は誰だい。感じが悪いな」

「建設会社の人。この家を建てた」

 生子を知って、水谷昭次が気になる存在になった。嫉妬を感じるというのではない。用心しなければならない存在になった。私と生子は同じ秘密の箱を持った。どちらかがうっかりすれば取り落とす。蓋が開いてしまう。

 生子が運転して白い乗用車は夕方家を出て行った。小一時間ばかりで、運転席に水谷昭次が乗った車が帰ってきた。

 私はその夜、思わずウイスキーの瓶を取り出した。処分するのを忘れていた。瓶には半分ほど琥珀の悪魔が残っていた。私は悪魔に抱かれた。生子を抱く変わりに。夢の中で、温泉に入っていた。沼かもしれなかった。白濁したお湯の中に巨大鯰のようなものが泳いでいた。不気味だが、身動きが出来ない。巨大鯰に気付かれる。下半身を食いちぎられ。目が覚めると猛烈に喉が渇いていた。コップに水を溢れさせて飲んだ。

 生子という酒を味わい、酩酊した。嫉妬という喉の渇きに苦しめられる。私は双眼鏡を取り出し、木立の向こう、水谷昭次の別荘を覗く。シャッターは開いているが、窓にはカーテンが下りている。照明が灯っているのは分かった。

 あの灯りの下で、夫婦は何をしているのか。夫が求めたら、生子は体を開くのだろうか。私の精子を残した体で、夫に抱かれるのだろうか。

             五

 生子は嘘をついていた。別荘に来た男は建設業者ではなかった。

 生子は夫を帰すと言ったけれど、次の日、二人そろって帰ってしまった。私は怒りを覚えて電話した。やっと、生子から返事があった。嘘つき女、め。

「ごめんなさい。急に帰ることになって。しかたなかったの」

「今度は何時会える」

「分からないわ。ちょっと待って。必ず、近いうちに」

「本当かい」

「決まっているじゃない。逢いたいわ」

 生子の嘘の理由もわかった。あの男が私の家のチャイムを鳴らしたからだ。間近に見ればそう悪い感じではない。

「水谷はいらっしゃらないようですが。お留守でしょうか」

「帰ったようですよ。東京に」

「そうですか。やっぱり。今日約束をしていたのですが」

「何を約束したのですか」と、私は聴いても、男はためらっていた。私は強引に事情を聞いた。

 男から受け取った名刺には「ブランドショップ小田島」とあった。男は小田島健二という。男の用件は集金だった。生子は集金の約束を何度もすっぽかしているらしい。金が無いのか。お得意なので邪険に出来ない。困っている、と小田島は言った。

 生子が浪費家だとは知らなかった。若いのに別荘を持ち、車を持ち、豊に思えるが。金の事情は外からでは分からないものだ。

 私はブランド商品に興味が無い。生子はいつも高価なものを身に付けているようだ。洋服もバッグも。水谷昭次も浪費家の妻をもって大変なことだ。私は多少気分が良くなった。生子が浪費家だろうが、悪妻だろうが私には無関係だ。

 その事を、私は生子に話した。

「あの男は嫌いよ」と、生子は言った。

「しかし、代金を払わないわけにはいかないだろう。幾らなのだ」

 大金だった。普通のサラリーマンの妻が買う金額ではない。

「私が立て替えてあげようか」

 私は妻にも大きなプレゼントをした事はない。別荘を建てた。田舎暮らしをプレゼントした。妻は亡くなってしまった。手遅れだ。

 生子に金を使うことは惜しくは無かった。結果的に夫の昭次を助けることになる。だが、若い夫から生子を完全に奪える。そんな気がした。

 それにしても小田島健二と言う男の存在が気になった。生子の言うことや、小田島の言うことを疑っている。小田島は生子にブランド品を売り、代金の回収にてこずった。生子は支払いの金額を考えずに買い物をした。それだけのことか。

 生子がブランド好きの虚栄心の強い女なのか。浪費家なのか。私には無関心なことだ。生子の魅力を損ないはしない。

私の気がかりは生子と小田島の関係だった。名刺を頼りに小田島の店を訪ねた。

小田島の店は街で一軒の地方デパートの一階にあった。店にはブランド品のバッグが並んでいる。生子は如何してこんな田舎町の店で買い物するのか。つけで買えるからか。クレジットは使わないのだろうか。使えないのか。他に理由があるのか。

 名刺の通り小田島の店はあった。淋しいほどの小さな店である。生子の雰囲気に似合っていない。私は不安を感じた。小田島健二と生子を結びつける。店主と客の関係ではない気がする。

 私は店に入っていった。小田島健二は店にいた。会うたびに益々ハンサムな男に見える。

「お気に入りのものがありますか。取り寄せも出来ます」

「水谷生子さんは良く買われるのですか」

「ひいきにして頂いています」

 小田島は何を考えているのか。私は小田島を挑発する。探りを入れる。

「何かプレゼントするかな。あの人の好みそうなものはどれかな」

 小田島の目に一瞬驚きが走ったようだ。直ぐ商人の目になった。

「水谷さんとはご親戚ですか」

「水谷昭次さんの会社は内のお得意でね」

 嘘がばれることがあっても構わない。私は小田島に敵意を抱き始めている。小田島と生子の関係を妄想している。

 私はバッグをひとつ買った。気楽に買えるような値段ではなかった。生子を喜ばせるため。同時に生子と小田島の関係を見破るために必要だった。

 私はブランドのバックをひとつ生子にプレゼントした。

「嬉しい」と、生子は言った。

 赤ん坊の奈美は私の家に連れてきていた。隣の部屋に寝かしておくのが安心だ。

私達の抱擁は赤ん坊の眠りに掛かっていた。眠らせることは難しいことではない。生子、独りが別荘に来る工夫が必要だった。

 生子は肌が美しく、薄化粧である。その時は違っていた。

「どうしたのだ」と、私は生子の顔を覗くように見た。覚悟していたろう。答えの言葉も考えていたろう。

「ちょっと、ぶっつけたの」

「嘘を言ってはいけないよ」

 生子は私の言葉で素直になった。本心は顔の痣の理由を話したかったのだ。高価なプレゼントが心を動かしたのかもしれない。

「喧嘩しちゃったの。あの人と」と、生子は笑いながら言った。

「暴力亭主だとは知らなかった」

「私が悪いのよ。あの人を裏切っているから」

「知られたのか私たちのことを」

「疑ってはいる。誰かいると」

             六

 生子が別荘に現れない。携帯電話をかけたが繋がらない。生子は窮地に追い込まれているのか。しばらく、じっと連絡も取らないのが良い。

 淋しさが増す。ついウイスキーの瓶に手が伸びる。酒による多幸感。一度、生子を知ってしまった多幸感。快楽を味わえない苦しみが私を苛んだ。

「何故、会ってくれないのだ」と、私はやっと繋がった電話に言う。

「一寸待ってもうすぐ行くわ」

 生子は暫くして、現れた。夫の昭次と一緒だった。生子と赤ん坊の二人でなければ意味がなかった。これでは手出しが出来ない。逢う事はかなわない。

 夫に殴られても、生子は何も白状していない。水谷昭次が私の存在を知ったら別荘に来るはずは無い。万一知れたときはどうなるのだろう。彼等が別荘を処分するか、私がこの地を去るしかない。隣人同士ではいられない。

 楢林の向こうの窓に灯りがある。私は双眼鏡を取り出して窓を見る。あの窓に家族の団欒がある。生子は私の視線を感じているかもしれない。何気なく、窓際に現れて、カーテンを開けてくれないものか。姿を見せようとは思わないのか。私は携帯電話に目をやった。今、電話して、生子に窓の側に来るように言うことは出来る。夫に気付かれずに姿を見せるように指示することが出来る。「愛しているなら、窓辺で髪を掻き上げろ」生子は困惑するだろう。夫が寝入ったらそっと来いと命令されるかもしれない。生子は恐れている。とてもそんなことは出来ない。私は何時までも隣家を眺めていた。

 別荘の庭に影が動いた気がした。私は双眼鏡をそちらに向けた。庭に取り付けられた灯りに影は辛うじて映し出されている。人影だった。誰かが訪ねて来たのだろう。

 影はじっと動かない。家のドアも開くけはいは無い。誰かが庭に忍び込んで家の中をうかがっているのだ。誰がそんなことをしているのか。

 泥棒であれば、人のいる別荘に進入しようとは考えないだろう。空き別荘は幾らでもある。影は泥棒ではない。私は影の正体を知りたくなった。飛び出していったら危ない目にあうかもしれない。相手に知られずに、相手を確認できる方法は無いものか。

 私は携帯電話を取り上げた。生子にかける。

「家の外に誰かがいる。何なら警察に通報するのだね」

「お久しぶりね・・・元気にしています・・・今度お会い知るのを楽しみにしているわね」と、生子は言った。側に夫の昭次が居るのだ。女友達との電話と偽っている。

私は電話を切った。双眼鏡で庭を監視しながら。人影は男らしい。私の部屋の明かりは消してあった。覗いているだけなら向こうに気付かれることは無い。

 生子に電話したが、何も起こらない。窓も開かない。変だ。人影は相変わらず庭にたっている。私はそっと、家の外に出た。ひんやりとした夜の空気。懐中電灯を消したまま持った。

 庭の人影が動いた。道路に出ると急ぎ足で遠のいてゆく。こちらに気がついたのだ。後ろ姿に見覚えがあった。小田島健二である。

 小田島健二が何故、水谷の別荘を覗っていたのか。電話したにも関わらず、生子は何故動こうとしなかったのか。

私はひとつの答えを出した。呆然とした。

まさか、そんなことはない。自分の思いを否定した。一方の私は冷笑を浮かべる。「事実を推論するのだよ」と、皮肉である。

 小田島と生子は関係がある。都市に住む生子が小田島のあんな店で大量に買い物するのは変だ。最初の一二点はともかく。庭に立っている人影。生子には分かっていたのだ。

小田島は私と同じだった。生子は動かなかったのは夫に知られることを恐れたからだ。小田島は生子に執着していた。執着は関係があるからだ。私と同じだ。

             七

 夫のいる生子がふたりの男と関係している。何という女だ。恋敵は夫ばかりではなかった。私は水谷昭次より小田切健二に強く嫉妬した。憎んだ。生子に対する感情には変わりなかった。益々強く愛情を感じた。益々強く欲望を感じた。

 小田島は強力なライバルだ。危険な男だ。夫は大人しい常識人である。怒りに任せて生子を殴っても。とても、そんな男に見えないが。

 生子を殴ったのは小田島かもしれない。あの男なら女を殴りそうだ。何故、殴った。小田島が生子を殴ったとすれば、私が原因である。私との関係に小田島は感づいたか。

 電話が鳴る。小田島からだった。

「良い品物が入りましたよ」

「それはありがとう。しかし、そうそう贈る相手もいないし」

「そうですか。一度、見においでください。お待ちしております」

 考えた末に私は小田島に会おうと決めた。小田島と生子の関係を確かめたかった。小田島が私と生子の関係を知っているか。小田島の電話の目的も私と同じかもしれない。

 小田島の店でバッグを見た。形式的に。小田島にとっても口実だったろう。

「お昼時間だ。お茶でも飲みませんか」と、小田島は私を誘った。粘りのある目の光である。私は厭なものを感じたが、承知した。まだ、何も探っていない。小田島の誘いは好都合だ。

商店街の薄暗い洋食屋に入った。

「先日のバッグは水谷さんに気に入っていただけましたか」と、小田島は聞いてきた。

単純でストレートな性格なのか。それだけに子供のように激情に走りやすい。生子の家の周囲をうろつく。執念深い性格。

「それは小田島さんがご存知でしょ」

「あの人とはどういう関係なのだ」と、小田島はかすれた声で言った。目が充血している。

「この間も説明したはずだが」

「良い歳をして、女を追い掛け回すのはどうかな」

「隣人ですよ。とても幸せな家族だ」と、私は言った。

 確実なことが分かったわけではない。二人の関係を確認できたわけではない。しかし、生子への小田島の執着は分かった。小田島の私への敵意も知った。

 生子の夫、昭次は何も知らないのか。気付いていないのか。鈍感な男だ。生子が一枚上手なのか。夫を欺き、二人の男と関係している。

 生子は夫と一緒に帰ってしまった。私は小田島の存在を生子に確かめることが出来なかった。早く、生子を問い詰めなければならない。

気持があせっていた。それが原因なのか、私は小田島の夢を何度も見るようになった。自分でも危険だと思うほど酒を飲んだ。もう、どうすることも出来ない。

 さまざまな夢を見た。私と生子は部屋で向き合っている。一緒に居る喜びで溢れている。生子は少しよそよそしい。私の抱擁を嫌がっているようだ。「どうしたのだ。何故、冷たくする」と、生子に詰め寄る。

暗闇に男がうずくまっている。獣のようでもある。小田島健二なのだった。

 もうひとつの夢。私は暗い山道を歩いていた。頭上の空は微かに光っている。樹木の黒い壁が両側から迫っている。片側を登りの急斜面。もう片側は谷川の崖であるらしい。初めての道のようでもあり、知っているようにも思える。もう直ぐ真っ暗になるだろう。

 前方に車のライトがちらりと光る。私はほっとして、次にぞっとする。危険な予感に身が強張るようだ。出来るだけ、道の端によける。車はエンジン音を暗い森に響かせて近づいてくる。ぎらぎらしたライトで目がくらむ。もう逃れられない。

 金色の光になぎ倒されて、暗黒に落ちた。どうやら、私は車に撥ね飛ばされて、崖に転落したらしい。身体がぐしゃぐしゃだ。崖の松の枝に串刺しになっている。既に死亡している。私は死者だった。

 夢の中で私は死んだ。私をひき殺した車を運転していたのは小田島健二だ。水谷昭次のようにも思える。厭な夢を立て続けに何度も見た。このままでは生子を抱く前にまた、倒れてしまうかもしれない。

「会いたいのだ。早く、来てくれないか」と、私は電話で哀願した。

「奈美が風邪を引いてしまったの。もう少し待って」

「私は死にそうだよ」

「お酒を控えて頂戴。淋しいでしょうけれど」と、生子の声は優しかった。

 それから、一週間ばかりして、生子から連絡があった。

「何時になる」と、私はあせっていた。

「夜になるかもしれない。でも何とか今日、会えるわ」

 夜には赤ん坊は眠る。私はそわそわと落ち着かなかった。寝室の掃除をした。生子との夜食のためのハムや葡萄酒を買いに出かける。気に入った店は遠い。私は車を持たない。山道を自転車である。

 買い物が終わった。自転車が壊れた。チェーンが外れた。一人では上手く直せない。私はバスで帰ることにした。バス停は幸い近くにある。近いといっても徒歩で三十分はある。バス停でバスを待つ。小一時間。バスを待っている間に辺りは暗くなってきた。家から一番近いバス停で降りた。日はとっぷりと暮れている。家まで三十分。静まり返った林の山道を急ぎ足で歩く。息が切れる。

 生子はもう来ているかもしれない。私の家の明かりが無いのをどう思うだろう。早く帰ってあげなければ。暗闇の中に分けのわからないものが、流れる。

 木立の向こうに光が走った気がした。車のライトだ。一台の車が、近づいてくる。エンジン音が木々の間を鋭く迫る。少し上り坂になっている為だ。起伏のある地形なのだ。木々の切れ間から、谷底が見えるはずだが、今は暗くて距離感はつかめない。ぎらぎらと輝くライトは次第に近づいてくる。私は思わず身構えて、道の端に寄った。

 

 

                  (初出・「構想」43号「パッション」改題)


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