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 冬女夏草           よこい隆

 

「木曜日24号(2008年4月)

推薦 ひわきゆりこさん(胡壷・KOKO

 

推薦の言葉……読後、哀しい余韻に満たされました……

 

  

 ひとしれず過ぎた風に鳴る江戸風鈴の冴えた音に似て、凛と立つおまえの眼が、冴えを映して冷めたままわたしを見るから、週間予報によれば、その日は雨になりそうだと言って、パソコンの画面に視線を逃がした。
 きっとその日は刺すほど冷たい雨が降り、おまえは自転車を諦めて、職安通りまであの真っ赤な傘をさして歩き、タクシーを拾うだろう。傘の色に合わせて、赤、いや淡いピンクのドレスを着ている。違う。ドレスの上にはコートをはおっているはずだし、かといって、赤やピンクのコートなんて持っていないおまえなら、もとより着る服を傘の色に合わせたりしない。
 眼のまえにタクシーを停めながら、それでも固めた髪を気にして傘を開くと、区役所通りのコージーコーナーまで小走りになる。……そうだな、おまえのその眼が言うとおり、歩道と車道を隔てるガードレールが塞いでいるのだから、眼のまえに停めたりしない。ドレスの裾が長いから、ではなくて、おまえはガードレールを跨いだりしない。雨が降っているなら、裾跳ねをおそれて、小走りにもならない。
 おまえの手が、傘を持って、冷気に晒される。区役所通りに車はひっきりなしにゆき交い、濡れた路面はネオンに照り映え、ゆき交う車が雨を散らして音をたてている。冷たい空気は、今のおまえのように冴えて、ネオンの光彩を纏った水飛沫の音も濁らない。すべてのボタンをとめたコートの襟を、空いた手でかき合わせる。肘には、着替えを詰めた大きな紙袋と、いつものバックが重たげに揺れている。

 

 あの夜、わたしの正面に座って、連れてきた女をしきりに口説いていたスーツにメガネの男が、隣のテーブルに座った男と名刺を交換すると、メガネは大仰に畏まってみせた。連れの女に、その社名を言い、部長さんだぞと言いたてる。女はその会社をしらなかったが、なるほどそれは大きな会社だった。部長も女連れで、その女は、わたしも知っていた。
 だれかが唄っていれば、おまえたちの声は聞こえなかっただろう。だけどその日はだれも唄わなかった。
 耳朶を隠す高い襟、深紅のチャイナドレスのおまえが男ふたりの間に座ったのは、はじめての客に挨拶にいっただけではなかったろう。そんなときのおまえは、正面の丸椅子に座るはずだ。むしろ、メガネにしきりに話しかけられ、おだてられて悪い気はしないながら、部長の苦笑いが固まったままだったから。それとも、放り出された女ふたりを思いやった。だけど、もとよりにじり寄っていたメガネと部長の間に割ってはいれば、おまえは男たちにくっつきすぎた。部長がおまえを口説き、連れの女は酒を呷りはじめた。やがて、メガネが自分の連れを連れて帰っても、部長はおまえの膝に手を置いたままで、女が酒を呷って荒れていた。珍しく、おまえは酔っていなかった。酔わないおまえの笑顔は、いつまでも硬いまま、口許だけの笑みだった。グラスを手にとったわたしをふと見て、おまえが席を立とうとしても、ママのおまえの名を呼び捨てに、部長ではなく、荒れた女が引きとめた。
 入り口近くの席では、いつものまだ若いヤクザが、ウェイター相手に甲高い声をあげていた。
「ワン、ツー、スリー、フォー。シーササッササ。シーササッササ……」
 おまえは、外階段から、歌舞伎町の景色を眺めたことがあるか? 女のタガログ語、酔客の声、女声の片言の日本語、どこからと行方もしれず声が届く。ビルの屋上に、プレハブが長屋みたいに建っている。西新宿の高層ビルが、宇宙を区切っている。詰め込まれた小さな宇宙だ。開いたドアから、臙脂の天鵞絨の椅子が覗く。タガログ語はそこから聞こえてくるらしい。見下ろす四角い屋上の群れには、プレハブにさえ光がなくて、ビルの隙間から洩れるように光彩が立ち昇る。道を歩いていれば、光は降るように、あたりを埋め尽くすのに、上から見下ろすと、意外に暗い。ここではときに、自分の羽も、フェアリーダストも信じていない女が飛ぶ。
 だれが籠もっているのか、ふさがったままのトイレに堪りかね、外階段で小用を済ませて戻ると、部長が帰ろうとしていた。立ちかける部長の背中越し、おまえが頷き気味に睨むような上目遣いで目配せを寄越す。
「……シーササッササ、シーササッササ……」
「シー」のタイミングで、一から五までのいずれかを指で示し、相手よりひとつだけ上の数なら勝ち。もちろん、五の上は一。負けたら、酒を呑む。
 店の片隅には、黙ったまま、見えもせず、視線だけの女が、そっと店内をうかがっている。

 

 サイレンの音が聞こえる。いつものことだから、携帯電話のメール着信音ほども驚かない。
 まだ、まっすぐに見る視線を、右耳の後ろから首筋に感じる。なにかを言いたくて、言葉を探しているのだろうと思って待っているのに、薄紫のチャイナドレスを着たおまえは、視線だけをいつまでも投げつけている。眼にあらんかぎりの力をこめて。だからいたたまれなくて、言葉を継いでしまう。
 濡れた路面を車が走ると、ネオンの色を映した飛沫が、まるで小さな羽虫のように飛び立つ。おまえはそんなことに気をとめやしないが、深紅の羽虫、橙の羽虫、黄緑色の羽虫、色とりどりに、車が走るにつれて、次つぎにチラチラと舞う。葉は落ちきっているけれど、イルミネーションを纏った街路樹の銀杏が、そのときには、静かに立っている。
 傘を差したおまえは、足許を気にしているから、それらのどれにも気をとめず、コージーコーナーのガラスの扉の前に立つだろう。

 

 部長を見送りにいったまま、おまえがなかなか戻らなかったのは、どうやら腰が抜けたらしく倒れこんだ女がついてこないのをさいわいに、さぞかし熱心に口説かれたのだろう。
「大丈夫か」と声をかけたばかりに、這うように女はわたしのテーブルにきた。しばらく呂律の回らぬ舌で、詫びたりしていたが、ついに椅子に倒れると、嗚咽を洩らした。頭を撫でてやるうちに、やがて寝息をたてた。おまえはいつの間にか戻って、ヤクザのテーブルについていた。
 ようやくおまえが座ったのは、横たわる女の向こう。女を起こしにきたのだった。眼醒めても、まだ女の興奮は冷めやらず、おまえは女の愚痴を聞いていた。椅子には、嘔吐の後があった。おまえたちの言葉は、わたしにはわからない。ときに日本語が混じりながらも、おおむね中国語だったから。見回せば店内に、わたしたちのほかには洗い物に忙しい店長しかいなかった。
 おまえときたら、まるで姉のように、悟りきった顔をして、女の手をとり、優しげに叩き、頷き、笑んでいた。いく度かおまえの携帯電話が鳴った。
 今日は新年会だから来いというおまえの誘いにのこのこと、女ふたりと連れだって、冷たい空気にコートのまえをかき合わせながら、未明の歌舞伎町を奥へ歩いた。一月のことだから、まだ陽が昇っていないとはいえ、ネオンはおおかた消えていた。陽の光もネオンの灯もない、薄暗い歌舞伎町だった。
 たどりついた店の看板も消えていて、おまえは場所を間違えたのかと、携帯電話を手にとった。ウェイターがひとりで先にいっているはずだった。女の愚痴に付き合いながら、何度も鳴っていた電話は、彼が急かしていたのだろう。
 看板を消して、表はすでに閉めていたが、細長い店内を奥へとおると、真っ赤な丸テーブルにウェイターと先ほどのヤクザがいた。部屋は暖かくて、ヤクザは長袖のTシャツ姿だった。痩せた男で、身体がかしぐと、丸首の襟元からほんのすこしだけ、濃紺の刺青が覗いた。おまえたちふたりは、入り口でもたついた。ウェイターが、わたしを店長の友人だと紹介する。男が燗の紹興酒を差し出したが、胃を病んでいるといって断わった。
 わたしの隣、それは男の正面になる場所に座ったおまえが、わたしの前に温かい烏龍茶を置いた。おまえの右側に座った女と左のわたしに呑ませまいとしたのか、おまえは紹興酒の杯を重ね、やがてクイクイとショットグラスを干していった。
片づけを終えて駆けつけた店長は、男の隣に座って、それはわたしの正面にあたり、おまえは、今日は店長のおごりだからと言って、高価な料理をつぎつぎ注文しはじめる。鮫の、あれはなんといったかと訊き、フカヒレのことかと返すと、大きな声でそれを注文した。ゼラチンが優しく温かいスッポンのスープが美味いといって椀を干すと、自分の分を寄越した。
 おまえがどこまで男の眼を気にしているのか、はかりかね、わたしも自分の態度を決められなかった。立ち上がって身体が揺れ、テーブルについたおまえの手が、わたしの手に触れて、ついでのように重ね握ったのは、だけど、男がトイレに立った隙だった。
「シーササッササ、シーササッササ……」
 男は、やけに陽気に甲高い声をあげて、女たちにゲームを迫り、紹興酒を呷っていた。
 また立ち上がり、ショットを呷りかけるから、いい加減にしろという代わりに、腕をはらうつもりが、深紅のチャイナドレスのシルクをパンと鳴らしただけで、おまえは、気にとめずひと息に干した。蛍光灯の光が跳ねるシルクには、黒い曼珠沙華。
 そして男が、「土曜日な」とおまえに言い、おまえは視線を泳がせながらも、かすかな笑みを浮かべ、おなじ言葉をくり返す男に、「わかりました、お願いします」と、やはり視線は泳いだまま、だれの顔も見ずに答えたその土曜日に、雨が降るだろうと天気予報は言う。

 日差しがとどいているのに、雨声もなく、雨垂れの音が絶えない。昨日は一日雪が降っていた。そこかしこで、雪解け水が滴って、まるで雨垂れに聞こえる。このところやけに冷え込んでいたのに、土曜日は雪ではなくて雨だろうと天気予報は予想していたが、なるほど、土曜日を明後日に控えて、今日の日差しは、昨日の雪を残らず消し去りそうだった。
 深夜の店は、土曜日も営業していたけれど、おまえは土日を休みにしていた。
コージーコーナーで待つあの男のまえに、おまえが座ると、男は手を挙げてウェイトレスを呼ぶ。おまえはマフラーを取りコートを脱ぎかけたが、ウェイトレスがかたわらに立ったから、そのままメニューを開くその間、男は電話を一本かける。
 八時を回っても、入れ替わり立ち代わり、着飾り髪を固めた女たちが、あるいは女同士で、あるいは同伴約束の男と、席を埋めている。歌舞伎町も靖国通りから花道通りまでの一丁目なら、この時間になれば女たちはすでに出勤し、その数はすくない。だけど、花道通りを越えると、女同士なら中国語や韓国語、男といるなら片言の女たちで溢れている。
 わたしは、あの男がどこへ電話をかけたやら、先を続けあぐねて、花道通りは蛇行しているだろ、あの道は川だったのだ、などと話を逸らす。
 歌舞伎町交番の前からクネクネと蛇行しながら風林会館に達し、区役所通りを過ぎ、靖国神社の横手を抜けると、緩やかに北へ向かうあの道は、かつて蟹川という川だったという。ハイジアからコマ劇場のあたりに沼があり、一帯が沼沢地で鴨場だったそうだ。だから、歌舞伎町公園には弁財天が祀られている。おまえはきっと、一丁目のド真ん中にある歌舞伎町公園なんてしらないだろう。ブランコやすべり台だってあるのに。いや、歌舞伎町のラーメン屋に詳しいおまえなら、神室というラーメン屋をしっているかもしれない。その隣に公園があることはしっているか? 
 今の話となんの関係があるのか、と、おまえが問うようで、降りしきる雨に、暗渠になった蟹川が溢れだすのだ、と物語を続ける。花道通りに、薄く雨の膜が張る。
すぐに電話を終えて、おまえのオーダーが決まり、ウェイトレスが去ると、なにがあっても、オレが悪いようにはしないと、あの男は言う。
 あの男が電話で呼び出したのは、大きな身体にいかにも仕立てのよい濃紺のスーツを纏った男だった。頼んだ紅茶が届く間もなく、その男が現われると、あの男は立ち上がり、畏まって礼をして、近くの空いた席に移ってしまった。おまえのまえには、大きな男だけ。おまえはわけもわからず、首だけで頭を下げる。広い胸がおまえの視野を埋めつくすよう。たまらずおまえは、横目であたりを伺い、たしかにそこが歌舞伎町のコージーコーナーだと確かめる。あたりには、おまえがしる女もいる。なにかあれば、大きな声を出せばいい。
「十一月の十日のことだが……」
 酒嗄れたような、腹の底から搾り出すような声で、男が言うのは、もう二か月ちかくもまえのことだった。おまえは日づけをいわれても思い出せず、黙って聞く。ひと言も口をきかず、引いた顎が睨むようなおまえに、苦笑いを洩らし、ほんとうは店長に話をとおすべきだろうが、おまえら中国人の組織とコトを構えるのも面倒だし、できるだけ穏便にすませたいのだ、と言う。「荒立てないために話してんだから、怖がるなよ」
おまえが携帯電話を手にすると、離れて座っていたはずのあの男が横に立ち、その手をおさえて、おまえの眼を真っ直ぐ見つめる。その眼が、電話を手にしたことを怒っているのか、心配するなと言うのか、おまえははかりかねる。はかりかねたおまえは、店に電話するのだと言う。大きな男が鷹揚に頷いて、「中国語は使うなよ」
 おまえはかけないまま、電話を閉じると、もどりかけたあの男に、「同伴してくれますか? それなら電話いらないから」深夜の店ではママでも、十二時半までは、別の店で使われているおまえは、いっそ休もうかと思いながら、逃げ出す口実を探している。

 

 店長が何度となくなにかを言っても、おまえは首を振り、終始わたしの隣に座りつづけていたのだから、あの日、十一月十日も土曜日だったのかもしれない。ほかの客のテーブルにはつこうとせずに、ずっと身体を寄り添わせていたのは、早番でしたたか呑んで酔い、店長には、今日は休みだ、今日のわたしは客だ、とでも言っていたのではなかったか。
 そう考えれば、辻褄が合う。
 せいぜい二〇代も半ばといった若いふたりの男も、いかにもカタギには見えなかった。下品なコトバを大きな声で言っては笑い、眼に見えぬ女たちの気配を乱していた。女たちは、何人いるのか、どこにいるのか、定めようもなく、漂っていた。おまえ以外の見える女は、二、三人いたはず。
 三時を過ぎたころだったろう。男たちが五、六人、連れ立って入ってくると、奥へは通らず、カウンターに並んだ。先に入ってきたふたりは、尋常に見えたが、あとの三人は、やはり見るからにヤクザだった。
 ただ酒を提供するだけでなく、接客するなら、深夜の営業は法に触れる。学生を使えば、不法就労だ。さすがに深夜に、学生アルバイトはほとんどいないが、ゼロというわけでもない。どうみても表側とはいえない。ヤクザの出入りを云々できるはずもない。
ふたり連れの片割れが、ションベンしてくる、とわざわざ言い、もうひとりに、おまえもションベンいくだろ、と誘う。「いくよな」と念を押す。
「ああ、ションベンね。ションベン」グラスに残っていた酒をひと息に呷って、「さて、お仕事してくるか」店のトイレに便器はひとつしかないのに、ふたりして席を立った。
 わたしとおまえは、なにを話していたのだろう。見えない女たちだって、若い男に立ち騒いでいたのではなく、見えないものの直感で、この不穏な気配をあらかじめ感じ取っていたのかもしれないのに、男たちのことさら大きな声を聞きながら、ただ聞き流した。おまえが離婚したいと言い出したころのことだから、その話なら、周りのことなど忘れたかもしれないが、おまえがそんな話を店でするはずがない。
 店の外で、なにかがなにかに当たる音がした。聞きとれないが、籠もった声も届いた。バタバタと跫音もせわしない。わたしたちの後ろの壁が重くドスンと音をたててかすかに振れた。気がつけば、カウンターにも男たちがいなかったし、店の男衆たちの姿もなかった。
「マズイな」とわたしが言っても、おまえは「なに?」と訊いた。
「さっき正面にいたふたりはヤクザだろ。カウンターにいた連中も、それらしかった」と言っても、ただ顔を見る。
「外で喧嘩してるよ。ヤバイだろ」
 もう一度、壁が揺れて、「だれかに通報でもされたら、ヤバイんじゃないか?」と言うと、おまえはしばらく考え込むように、自分の膝を見つめ、顔をあげると、「帰るか?」と言う。おまえは怯えていたのだろうか? それとも、わたしが怯えていると思ったのだろうか? ふたりはそそくさと帰り支度をはじめた。
 カウンターのまえで、メガネをゆがめ、鼻血を出した男に、店長がおしぼりをあてがっていた。
 おまえは握ったわたしの手を腹のあたりにあてがい抱え込んでいた。エレベーターのまえには、三、四人の男がいた。ふたり連れは見あたらない。店長が追ってきて、なにも言わずに頭を下げた。いや、なにかを言ったのかもしれないが、聞こえなかった。おまえの手は、いつもどおり暖かく、震えるでもなかった。
 泣く女にさんざんつき合うママのおまえが、働く女たちに声もかけず置き去りに、自分だけが逃げ出すように店を去る。そんなおまえの怯えぶりに、ふと、ヤクザにイヤな記憶があるのではないか、と怪しんだ。おまえは、見栄っ張りで、なにかにつけてメンツがどうのと口にする女だったじゃないか。
 あの日は、おまえの休みの日だったから、おまえは客だったから、女たちを見捨てていったのか。
 手を握ったまま並んで歩くと、風林会館のまえに、いち早く逃げ出した客がいて、おまえが頭を下げるから、思わずわたしも頭を下げた。

 

 その後、一週間ほどたったころ、あのふたりを一度だけ、さくら通りで見かけたが、それきり見ない。
「あのふたりのことは、もういいんだ。こっちでちゃんとケリをつけた」
 大きな男が言う。おまえは男の顔をいまだにちゃんと見ていない。
「わからないのは、なんであんなヤツらが出入りしてるのに、なにも言わなかったかってことだ。おまえんとこは、月々ちゃんと納めるものを納めてんだから、ひと言言えば、なんとでもしたんだ。
 あんときにいたのは、うちと親しい連中だった。この時間に歌舞伎町で呑めるところを教えろって言うから、おまえんとこを教えたのもうちだ。ところがあのざまだ。鼻を折ったのは、客だったそうだ」
 おまえは、あんな男たちでも、気前よく金を落とす客だったのだと言う。深夜に営業していれば客など選べない、と。
「そんなことはわかってる。あんなのが出入りしてるなら、うちの若いヤツを常駐させるとか、いつでもすぐ近くにいさせるとか、なんとでも手はあるんだ。だから、今はアイツに、おまえんとこに出入りさせてる」
 男と女がふたりずつ四人連れだって、おまえたちの横を通りかかる。女のひとりが腰を屈め、大丈夫か、と中国語でおまえに声をかけた。早番の店のチーママのひとりだった。おまえは曖昧な笑顔をむける。チーママは日本語で、男にも聞こえるように「後でね」と言う。まるで、店にこなければ、なにかの手を打つ、とでも言うように聞こえた。
 おまえは、「すみませんでした。これから気をつけます」と言って頭を下げると、これで話は終わりだろうとばかりに、ようやく顔をあげた。男は一重の小さな眼をして、左の耳が三分の一ほども千切ったように欠けていた。
「これからのことは、日本のルールを守ってもらうってことで、よろしく頼むが……」

 

 いよいよ交渉に入るとき、そうした連中がどんな言葉を使うのか、わたしは考える。それでも、なにを言っても陳腐に聞こえそうで、気の利いた科白が思い浮かばず、まして日本語に不安のあるおまえにつうじる言葉なら、なおさら見つからない。おまえが纏ったチャイナドレスの白い菊の花びらが、ラベンダー色の地に溶けて、眼の翳みに気づく。だけど、おまえからユラユラと立ち上っているなにかは、わたしの眼の翳みのせいではない。
 あらかた溶けきったのだろう。雪解けの音は絶えた。煙草に火を点ける。おまえから立ちのぼる揺らめきが、蜂を呼ぶように甘く香りながら、部屋の景色をゆがめている。おまえはほんとうにわたしの話を聞いているのか、疑わしく思えてくる。わかりづらい日本語を使えば、おまえはわからないと言うだろうか。

「昼間にも仕事を見つけたって? どうせ就労ビザが目当てだろ。ほんとうは離婚したいんだろ? ママの客なんて、中途半端な相手と偽装結婚なんかするから、厄介なことになるんだ。ずいぶんたかられたってな。毎度毎度、呑み代を払わされたらしいじゃないか。ちゃんと契約してないから、つけ上がられる。金を払っておけばよかったのさ。呑み代だけだったか? なにを要求された? あのオヤジと寝たのか?」
 わたしの声が、男の科白を辿る。わたしの口が、男がそうするとおりに動く。わたしが言っている。
「週に何日働くのかしらないが、明け方まで酒呑んで、昼間の仕事がつとまるか?」
それより、ほんとうにおまえは昼間の仕事を見つけたのか? どんな仕事かしらないが、毎晩あれほど酔って、どんな仕事であれ、できるわけがないじゃないか。

 

 あなたはわたしを信じない。だけどわたしは、日本語が上手に話せないから、きちんと説明できない。
 友だちのだんなさんが社長だから、わたしを雇ってくれた。
 あなたは考えすぎて、わたしがちゃんと説明できないことを嘘だと思う。わたしはあなたに、全部話した。今の結婚が二度目だということも、もっと、日本では、わたしの親友しかしらないことまであなたに話した。わからないことは、わからないと言った。それをあなたは怪しいと言う。自分にもわからないことだってあるでしょ。
 わたしはひとまえで泣いたりしない。だけど、あなたに、偽装結婚は失敗だったと言って泣いた。
 あなたを間に挟んで、ママがわたしに、「このひとのことを、どう思っているのか」と中国語で訊いてきたとき、わたしは中国語で答えたけれど、そのあとで、ちゃんとあなたに説明した。わたしだけなら、あなたが嘘だと思うから、ちゃんとママがいるまえで、全部、あなたに言った。「愛してる」って、言ったじゃないか。
 わたしをしっているひとなら、わたしのカレシといえば、みんなしってる。あなたのことだと、みんなしってる。早番の店でも、深夜の店でも、あなたに抱きついて「このひと、わたしのカレシ」と、わたしが言いふらした。それなのに、あなたはわたしを信じない。
 たいへんだけど、頑張ってる。身体がつらい。だけど、頑張ってる。わたしはなんのために日本にきたの? お金のためよ。お金を稼ぎにきたよ。こんなことまで、あなたには言ったじゃないか。
 離婚するよ。それには、昼間の仕事をしなければならない。
 ……おまえが言いそうだ。いや……。わたしはいったい、おまえのなにを疑っているのだろう。なるほど、おまえが言ったかもしれないとおり、自分にもわからないことがある。

 七階から下るエレベーターで、身を寄せたおまえの腰を抱え込み、たがいの唾液が生温かくなるまで舌を絡める。
 上着を羽織っただけで、ただ見送りに出てきたはずなのに、どこまでついてくるのか、そのまま、まだ明けぬ区役所通りを駅へ向かい並んで歩く。夜通し火の雨乞いをつづけたこの街の空気は冴えず、吹く風にも、ゴロリと猥雑な塊が混じる。
 そう、風が吹いていた。おまえの固めた髪も宵越しにほつれて、ふわふわと流れ、おまえはうるさそうに、撫でつける。風にあおられた銀杏の尖った枝が、おまえの髪に触れにくる。立ちんぼのホストたちは、伊達の薄着に肩をすくめて震えているが、黒く立つ銀杏ほどにもそこにいない。銀杏の幹が、なんのつもりか、おまえの髪にフッと息を吹きかける。その息にうながされ、冷たい手だと、いつもどおりの科白を言いながら、おまえがわたしの手を握る。そのままコートのポケットに引き入れた。こころなしか、いつにもまして、おまえの手が熱い。しだいに、おまえの語尾とわたしの手を握る力が強くなるから、パセラの先を暗く細い通りへ右に折れて、人目を避けた。
 正面に立つと、おまえの顔が赤い。赤い顔をして、通りかかった男たちの耳も気にとめず、「あんなヤツと結婚するんじゃなかった。失敗した。あんなヤツ、大っきらいだ。だれかひとり殺してもいいなら、アイツを殺すよ。失敗した。馬鹿だったな。馬鹿だったよ。失敗したよ」眉間が寄って、口が山なりに歪む。抱くと鼻を啜りはじめた。
 殺したいほどの恨みとは、いったいなにがあった? 怒ったような早口で、あなたは日本人だから、わたしの気もち、わからないです。

 

「スポンサーは欲しくないか?」淡々としたまま、男の声音はかわらない。「わからないか? だったら、パパは欲しくないか?」
 離れて座っていたあの男が、おまえをじっと見つめる。黙ったままのおまえは、なにを答えあぐねるのだろう。相手によっては、承諾するのか、それとも、日本語を探しているだけか。
 男が口を歪めて、おまえは身を硬くした。
「なんか、見合いの斡旋するババアみてぇだな」
 男が頭を掻いて笑った。
「パパは、いりません」
 おまえの科白に、男はもう一度笑顔を見せてから、表情を固め、「買って欲しいものがある。いや、パパが嫌なら、どうしても買ってもらう。おまえの選択肢は、買い物かパパ、ふたつだけだ」
「パパはいりません」
 ほんとうか? おまえはパパを欲しがっていたのではなかったか? それともただ、ヤクザの紹介だったから断わった?
「わかった。あとでアイツに届けさせる。使い方はおまえの好きにしろ。おまえが使ってもかまわんが、それで商売しても、文句を言わんし、だれにも言わせない。金は今月中に用意しろ」
 あの男をしめして言いながら、内ポケットから黒革の財布を出して開き、太い指で一万円札一枚をテーブルに置くと立ち去りかけて、あわてておまえは「いくらですか?」と訊く。
 立ち上がった男は、テーブルに手をつき、おまえの顔に顔を寄せ、「金額は問題じゃないんだ。おまえは買い物を選んだ。それだけだ」
 男が立ち去り、あの男も、おまえにすぐもどると耳打ちして後を追う。おまえは携帯電話を開いて、時間を確認する。九時十五分前。冷え切った紅茶に手をつける気になれず、水を飲む。

 

 おまえたちが約束した時間を聞かなかったから、早くからずいぶん待って、コージーコーナーの壁一面を埋める鏡越しに、おまえたちのやりとりを、わたしは見ていた。だけど、おまえたちの会話は聞こえなかった。
 もちろん心配で見守っていたのだ。嘘ではないさ。ふたりが立ち、ケーキがならぶショーケースのまえで、あの男が、男が置いていった一万円札と伝票を差し出すと、おまえが怒った顔で、トレーに乗っていた一万円札を男に投げつけた。おまえが自分の財布をだしたとき、店に流れていたのは、パッヘルベルのカノンだった。そうだろう? 
 おまえたちがドアにむかうと同時に、わたしは立ち上がり、おまえたちを追った。
 やっぱり雨が降っていて、マンホールは白い息を吐いていた。歩道のかすかな凹みが、雨水を溜めている。薄い雨水の膜のうえを、鼠が走り抜けた。見上げると、雨滴が、地上から立ち昇る電飾に照らされている。西新宿の高層ビルを覆うほど、重く垂れ込めた雲を突き抜けて、星屑が降ってくる。顔に降りかかるそれは冷たくて、刺さるようだ。おまえたちが早番の店に入るのを見送った。
 新年会のときに、たがいに交わしたあの男の名まえを、わたしはすっかり忘れていたから、今度会ったときに都合が悪いと、おまえに聞いたのに、おまえもしらないと言っていた。店長に聞いておくと言いながら、そのままになっていた。

 

 そこに立つおまえは痩せた。ゆらゆらと揺れる繊毛状のなにかを纏って、たしかな姿は見えないけれど、それでも、おまえはあきらかに痩せた。おまえが、部屋を満たしはじめた香りに紛れていく。

 

 赤坂見附で呑み、丸の内線で新宿へ出ると、十二時半をまわっていたから、そのまま七階へエレベーターで昇ったが、店は鍵もかけず灯りもついているのに、だれもいなくて、酔いに火照った顔を冷やすつもりで、外階段に出て煙草に火を点けた。おそらく、早番の店が長引いている。
 背の低いビルの屋上は暗く、その暗がりには、見えない女たちが揺蕩っている。ときに、スッと、空へ昇るものもいる。かと思えば、昇りきれずに、暗がりの宙に靉靆く。靉靆いて、ビルの隙間から立ち昇る灯りに、陽炎う。
 近ごろおまえは、なにかにつけて店を休みがちだったから、あらかじめ電話を入れていた。あなたの胃痛がうつったと笑いながら言い、友だちに保険証を借りて、医者にかよっていた。おまえは離婚したと言う。週に三日の昼間の仕事を続けていると言うが、どれだけかよえているのか。
「日本は、離婚しても、半年は結婚できないでしょ。それまでは、日本にいられる。けど、それがすぎたら上海に帰るかもしれない」
「オレと結婚すればいい。籍、入れよう。一緒に暮らそうとはいわない。今までどおりでいい。いや、オレもそのほうがいい。オレにはおまえを養う甲斐性なんてないし、家で、オレのオヤジの面倒みさせようとは思ってない」
「ありがとうね。でも、あなたに悪いよ」
 またひとり、見えない女がユラユラと屋上をゆくと、やがて飛んだが、その女は空へ向かわず、光る谷底へ吸い込まれた。谷底で、最初に悲鳴と怒声が聞こえ、そのままザワザワと落ち着かない。屋上に揺蕩う女たちも、宙に靉靆く女たちも、ざわめいた。気がつけば、わたしと肩をならべて、見えない女がコンクリートの手すりに肘をついて新宿の街を見ている。眼が合うと、誘うように、悲しそうに、躊躇うように、笑った。
重たい扉が開く音がして、「あなた、なにしてるの?」とおまえの声。携帯電話を手にしていたから、さきほど電話をしながらきてみればわたしはいず、電話をかけるつもりだったらしい。
「だれもいなかったから……」
「関係ないでしょ。なかで待ってればいいじゃない」
「ついでに、酔ったから、冷たい風に当たってた」
 階段を昇ると、わたしの頬を両手でつつんで、「こんなに冷たくなって」と怒ったように言いながらも、掌を顔中にあてがい、店にはいると、その頬でわたしの頬を暖めた。自分であてがっておきながら、「冷たいよ」と言ったときには、笑みを浮かべた。たしかに身体は冷え切って、店のなかでもコートを脱げなかった。
「なにか食べた?」

 

 しだいに輪郭を曖昧にしていくおまえが、それでも、明らかに痩せたとわかるのはなぜだろう。おまえのなかでなにかが起きている。もうじき、きっとおまえから、なにかが芽吹く。そう思いながら、わたしは物語を続けた。

 

 あの男が届けた白い粉を、おまえは扱いかねた。だが、どうやっておまえはその金を用意するのだろう。ただし、おまえがしらないことがある。男が言った金額は、相場に照らしても、半分以下だった。もとより組も無理な金額を言ってきたわけではなかったし、そのうえあの男が、自分で半額を引き受けていた。それでも、その相場などしらないおまえだから、あの男の思いやりなど気づきようもなく、なにより扱いかねるモノの処分に困じた。
 男は、商売してもかまわないと言った。おまえが買った金額に多少上乗せして売っても、相場よりよほど安いのだから、おまえに裁量さえあれば、儲けをだすことさえできる。だけど、おまえにその裁量があるだろうか。今こうして、それが相場の半値以下だとしれば、そのときおまえは、適当な金額を設定できる。それでも、客を募る術をしらないおまえは、仲間たちに売るだろうか。もとより、彼らが無理のない金額を言ってきたのも、おまえが仲間たちにばら撒けば、やがておまえの手持ちが絶えたときに、自分たちの客になると見越したからに違いなかった。早番も深夜も、そのうえ昼間も働くというおまえもふくめて。
 そうなれば、やがて歌舞伎町で組と中国人組織のあいだに抗争が巻き起こり、この物語は大層面白くなるかもしれない。だけど、おまえのなかで枝葉が芽吹いて、おまえの身体から養分を吸い上げているから、そればかりが気がかりで、わたしはもうすっかり、この物語を続ける気をなくしている。
 だって、どうせ聞いてやしないだろう?

 

 朝をむかえ、揃って店を出ると、見渡すかぎり、世界が乳色に濁っていた。白濁には濃淡があり、液状にゆっくりと、かすかに女の匂いを甘く孕んで流れる。それはきっと、宙に靉靆いていた女たちが、朝の光に照らし出されたのだろう。
酔眼を凝らしてその先を見れば、そこは、茂る巨木の幹が視界を封じる森だった。寄生するヒトガタの痩せた低木が、ユラユラと枝を揺らす巨木の枝をつたい、駅とは反対の方角へ、蟹川を越えて、手をつなぎ歩いた。始発は動いているけれど、わたしの家は遠いから、このまま電車に乗るよりひと眠りしたい、などと言って、おまえをホテルに連れ込む。
 大きなウロに入り込み、鍵をかけた。閉じた窓は厚く、朝を告げる小鳥の囀りは聞こえない。はじめてのことではなかった。おまえの手は熱く、わたしの手を温める。だけど、かねておまえは身体を開かなかった。下着のなかに手を差し入れても拒まず、胸を吸わせながら、足を開かず、自分の店を終えてから訪れた女やら、とかくいつまでも居座るおまえの仲間たちがかならずひとりはいて、待たせていると言っては、しばらくすると逃げ出した。そう言うと、逃げるのではないと言い張った。
 だけど今日は、もう店にだれもいなかった。
 コートを脱ぎ、広いベッドの端に腰かけて、コートも脱がずにふたり掛けソファに座ったおまえがなんと言うかと思ったら、今日はこれから昼間の仕事にいくと言う。鞄を膝のうえに抱えたまま。今度は泊まると言った。そのまえも、そのまえも、今度は泊まると言いながら、いつもいつまでも足を開かない。不貞腐れ、ベッドに仰向いた。今日はいくと約束したのだと言い立てても、黙っていると、おまえが覆いかぶさり唇を重ねる。身体を入れかえて、上になった。服に手をかけると時間がないという。脇をしめてブラウスを庇う。だけど両手を挙げさせると、手もなくしたがう。それでも膝だけは固く閉じたままだったから、おまえの両膝をもろともに抱えあげ、浮いた腰から下着を剥ぐと、おまえは突然の大声で中国語を使い、それは拒絶のひと言だっただろうけれど、もちろんわたしには通じない。「いやだ」なのか「駄目だ」なのか「やめろ」なのか、わからない。太腿の肉を開いて、そこに顔を近づけると、青黒い痣があった。ポツポツと黒点が、それを、何度も注射をうった痕だと教えた。

 

 パソコンの画面は開いたまま、黙すおまえのまえに立った。おまえからユラユラと立ち昇る陽炎のような透明の影は、ココナツのように甘く、だけどサラサラに乾いた香りがする。ユラユラと動くのは、おまえを取り巻くなにかで、おまえは、表情ひとつも変わらない。と思うと、おまえが眼球だけで見上げて、口角を優しくあげた。おまえの匂いが強まる。花粉を撒き散らしながら、真っ赤な花弁がメイズのように入り組む一輪の大きな花が、おまえのなかに咲いているから、そっと抱こうとしたのに。
 冬が終われば、きっとおまえは濃緑の丸いケシ坊主に姿を変えて、やがて細粒のケシ粒を風に乗せるだろう。

 

 

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