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                   「福寿草」縦書きPDF 

    

 

 福寿草           由比 和子

 

「海」(福岡市)59号(2004年10月1日発行)より転載

 

 

推薦  ひわきゆりこさん(胡壷) 

 

新しい風が吹いてくる時代小説……

  
(一)

 両側に並ぶ桶屋の板戸はどこもきっちりと閉まり、軒下の暗闇が昼間の賑わいを飲み込んでいる。それでも板戸の節穴から漏れる微かな光から、夜なべしている桶職人の熱気を感じて、世津はほっとする。月の光をたっぷりと吸った桶屋町の道に、帰路を急ぐ世津の影が刻まれていく。
「こんな月の晩は提灯はいらないくらいだね。お月様は心強いよ」
 世津は、殊の外妖艶な輝きを放つ大きな月を見上げ口走る。ひとり歩きの不安を追い払うように、提灯を大仰に左右に揺らし、更に足を急いた。まだ暮れ四つになっていないが、もう盗人が潜んでいてもおかしくない刻だ。
 朝方、出掛けに下男の風吉が、「おいらがお供しましょうか」と言ってくれたが、小腹の五人目のお産ならば早くすむとたかをくくり、こんな夕刻までかかるとは思いも及ばなかった。お産も間が四年も開くと、中の肉が固くなるのか難産だった。腹をさすったり押したり、やっと出てきた赤子は産声も上げず、二度ぴくっと動いて息絶えた。
 困った世津は、昨年亡くなった産婆きんから教えられた待ち望まれた赤子が死産の時の謝罪をこめた言葉かけを思い出した。
「力が及びませぬで申し訳ございませんでした。鄭重に葬っておやりくださいまし。この子の御霊はまだ御母の腹の中に残されたまま、必ずや次に美しい人の御姿となって、無事産まれてくることをお祈り致します」
 世津が頭を畳に擦り付けるのをよそに、家族は息せぬ枯れ枝のような男の赤子を放心して見ているだけであった。勿論、駕籠は期待できない。世津はそっとその場を離れ、夜道に押し出されるようにして帰ってきたのだった。
 それでも御新造さんが無事でよかった、と世津は思う。明日はその祝いの赤飯が近所に配られるはずだ。武家に跡目がいなけりゃ、養子の来てはいくらでもあるというのに、あの痩せた御新造さんは男子を産むまでがんばるつもりだ。枯れ枝の男子を見ても涙することなく、じっと虚空を見つめた眼が強い意思を表していた。
 それにしても、まだまだ修行のいる生業だ。
「そなたのお産は天性のものだったよ。すぐ産まれたのは、息の吐き具合が上手だったからさ。むやみに力むのは死産のもとだよ。根尽きて眠ってしまい駄目になってしまうのさ。この道に入って、息遣いを伝えて欲しいのだよ。大変だが、張りつめた仕事してりゃ、気も紛れるというもんだよ」
 千人近い赤子を取り上げてきたきんに、二年前のたった一度のお産を見込まれ産婆の道を継いだものの、人のお産は別物で、てこずるばかりだ。第一息遣いなど、その時無我夢中で全く覚えちゃいない。教わることは多々あったのに、継ぎ手ができて安堵したのか、きんは昨年の暮れ、ことっと逝ってしまった。
 産婆として駆け参じる時は確かに気は紛れるが、三年前突然家を出た夫征一郎のことに思いが及ぶと、やはり止まり木のない鳥のように落ち着かない。
「戻ってきてくれるのかしら。もしそうだとしても、いつのことやら」
 胸中に暗雲が広がる。それを払いのけようと、世津は尚も提灯を左右に振り凛と澄んだ月を仰ぐ。きりっと上げた眉に世津の気丈さが滲み出ている。春の宵の生ぬるい風が慰み撫でるように世津の襟元で遊んでは去っていく。火の用心の柏木を打つ高い音が響く外はしんと静まりかえっている。
 おや、向こうから誰かがやってくる。ゆったりした足取りと天正裃のいでたちからして、見回りの同心のようだ。きれいに剃り上げた月代が月の光を受けて白く染まっている。同心は世津の前で足を止め話しかける。
「このような夜更けに女人の一人歩きは無用心ですぞ。この頃は辻斬りや押し込みが頻発しており、我ら同心仲間は目明かしと共に見回っておるのだが、この先お一人で大丈夫でござるか」
 同心の顔は異様に突き出た額の蔭になってよく見えないが、鈍く光を帯びた眼が世津を咎めている。
「はい、産婆の仕事を終え、もうじき番丁の我が家に着きます故、大丈夫でございます」
 目前に立つ同心の体躯が安堵を促す。
「それはごくろう。気を付けて帰られよ」
 同心は身を引き締めるように腰に携えた十手に手をかけ、世津の脇を通り過ぎて行く。いつもは下女兼道具持ちのまつを伴うのだが、息子の矢之助がかぜ気味のため、まつに家にいて貰い、ひとりで赴いたのだ。
 振り向いて後ろを見ると、同心が立ち止まって世津を見守っている。ありがたいことだ。先程遠くに同心が目に入った時、もしや征一郎やもと胸が疼いた。通りすがりの男に夫を重ねることをこれまで幾度繰り返してきたことか。夫の不在に気丈に耐えていながら、夫に会いたいと望んでいる自分に気づかされるのだった。親同志が決めた縁で夫婦になり五年足らずの淡々とした生活ではあったが、いざ失うと、征一郎の世津の中に残したものは思いの外重い。
 世津は、矢之助のためにも早く親子三人で暮らしたいと望んでいる。それだのに、征一郎へすぐ戻って来て欲しいと懇願しない冷静な自分が、世津にはわからなかったし、もどかしくもあった。
 番丁に入り、二つ目の辻から右に曲がった時、目明かしとすれ違う。下級の武家屋敷三軒目が我が家だ。屋敷の前に立つ世津は長屋門を叩く。小走りにやってくる風吉の足音がする。閂が引かれ門が開く。
「ご苦労様でした。あんまり遅いので心配していました」
 風吉の日に焼けた笑顔に白い歯が浮き上がる。世津の肩から力が抜け、疲れが吹き飛ぶ。
「しっかり閉めておくれ。この頃は押し込みが多いらしいからね。もっとも何も盗られる物はないけどね」
「大だんな様の刀があるじゃないですか」
 どこぞ潜んでいるやもしれぬ押し込みに聞かれぬように、風吉が声をひそめる。
「そうだったね」
 確かに今は亡き舅が名刀工に拵えさせたという刀が床の間に武家の象徴のように飾ってある。あの刀を失えば、この小さな古い屋敷はなんの変哲もない家にすぎない。
 世津は風吉が閂を掛けるのを見届け、玄関への丸石の上を歩く。草履の粋な色の鼻緒が暗がりに浮かび上がる。矢之助はもう寝ただろうか。風邪の具合はどうだったか。世津は逸る気持ちを抑え玄関の戸を開ける。世津の帰りに気づいたまつが手燭を持って三和土にやってきた。
「矢之助の具合はどうかえ?」
「お熱はないようです。ほんの今し方眠られました。お湯は使われますか」
 手燭の明かりが隙間風にふるえて、まつの細い影が揺らぐ。
「よかった。矢之助が眠ったのならば、ゆっくり手足が洗えるね」
 世津は薄暗がりの中にぼんやりと木目の浮いた三和土に吸われるように腰を下ろす。じき、まつが濯ぎ桶に湯を入れて持ってきた。
「まつ、もうここはよい。ごくろうでした。早く寝なさい」
 まつは世津の手燭に火を継ぎ、頭を下げる。踵を返す時慌てた素振りで振り返る。手燭の火が大きく揺れ、まつが口を開く。
「今朝方御新造さんが出られた後、柳田様がお越しになりました。御不在を知るや、また来ると言って帰られました」
「そうかい、何のお話だろうね」
 柳田様の来訪は久方ぶりのことだ。征一郎が出て行った当初は、務めが同じ小納戸衆だったことで気を遣い朝な夕な顔を見せていたが、半年前姑佐乃が亡くなってからは、姿を見せなくなっていた。人伝に聞くところによれば、誤解を招くような噂を恐れられたらしい。
 世津は手、足と順に湯で洗い終え古布で拭き、矢之助の寝ている納戸へ向かう。襖をそっと開け中に入る。手燭の火を行燈に移し、ふっと息を吹きかけ手燭の火を消す。小袖を脱ぎ寝着に替える。まつが敷いてくれた床に体を滑り込ませる。傍らで小さな寝息を立てている矢之助がいとおしく、そっと頬に指を触れる。柔らかい髪が行燈の光で金色に染まり美しい。しっかりした目鼻立ちはこの私に似ていると、佐乃は言っていた。顔の輪郭と口元は父親似だと世津は思う。
 征一郎は矢之助が産まれていることは知っているはずだ。とっくに文で伝えている。五年ぶりに産まれた子供に会いたいと思わないのだろうか。それ程までに生まれ育った家が大切なのか。この武家に養子として引き取られて以来の生活は、征一郎にとって単に根付くことのない長旅のようなものだったのか。
 今も衣桁に掛けている征一郎の若草色の裃に、時折隙間風に揺れる行燈の灯が映る。ふわっと揺れる淡い光の陰影は、我ら夫婦のようだと世津は思う。矢之助という光の芯がありながら熱く燃え盛ることができない。微かな風にも忽ち消え入りそうな儚い炎。それが我ら夫婦の絆。世津は堪らなくなって、行燈の灯を吹き消す。闇に浮かび上がった天井の梁を見ていると、征一郎がいなくなった朝が甦ってくる。

 あの朝、外は雪が降っていた。家中捜してもいないことに慌てふためき、征一郎が懇意にしていた柳田様の屋敷へ風吉を走らせる。柳田様は登城前こちらへお出向かれた。
「昨日一緒に下城した折には、家出するような素振りはお見うけしなかったのだが、まさか拐かしではあるまい」
「布団をきちんと畳んでおりましたので、そのようなことはないと存じます。そばに床を並べておりながら、まったく気づかなかったのでございます」
 世津は狐憑にあったようにぼんやりそう言った後、昨日のことに思いを馳せる。征一郎は普段と変わらなかった。朝いつもの如く明け六つに起き、かゆとかつお菜の汁物の朝餉をすませ登城した。決まった時刻に帰宅し、庭を少し歩き、そういえば福寿草の鉢の前にしばし立ち尽くしていた。「夕餉の仕度ができました」のまつの高い声に返事をし、縁側から上がり居間にきた。「里芋の煮つけがおいしい」と頬をほころばせ、一合の酒を飲み、早々に床についた。征一郎の一連の所作をめまぐるしく思い起した後、世津はふと体の芯に残った征一郎のあとが潤むのを覚える。おもいがけず久方ぶりに求められたのは、別れのしるしだったのか。
「いずれにしても、これから登城して小納戸頭に御報告致さなくてはなりませぬ。それはすぐにお上へ通じるでしょう。藩庁の許可も得ず仕官を放棄されたとなると、ことは問題です」
 柳田様は持ち前のすずしい眼に苦渋の色を滲ませ、玄関につくねんとお立ちになっている。ふと視線を落とすと、裃下の草履からはみ出た右足の親指の先が、小石にでもぶつけたのか血が滲んでいる。足袋も履かずに余程急いて来て下さったのだ。
「なにぶんにもご寛容な措置を賜ります様、お口添えをお願い致します」
 世津はそれだけ言うのがやっとだった。
「しかし、何故家を出たのか分からぬまま、どう御報告申し上げてよいのか…」
 柳田様の腕を組み首を傾げるお姿にご当惑の程が窺える。突如まつが一通の封書を持ってきた。
「これが、文机の上に書物で抑えるようにしてございました」
 まつが差し出した封書の表書きは「世津殿へ」と記されている。世津は早くもどこか遠くに投げ出されたような虚ろな気持ちになる。震える指で封を開け一枚の墨書きを広げる。病み臥せっていた姑佐乃が家中の異変に気づき、這い出してきて文を読み上げるのを待っている。
「突然之家出御許し願い難く候、拙者之父上重病相成り候にて、しばし浜江行き、父上之看病致し度く候、勝手越御許し被下候」
 浜とはどこぞ、文を読み上げた世津は困惑する。それに呼応するように佐乃が口を開いた。佐乃は乾いた唇を舌で一度なめ話し始める。
「浜は、征一郎の生家のある台入という海辺の村のことだよ。征一郎は、そこから時折遠出してくる花やの振り売りから貰った子だよ。もうニ十年前になる。丁度元服前の長男が、元々蒲柳の質じゃったが、心の臓の病で死んだ。気を落とし食も喉に通らぬ毎日じゃったが、ある日花やが入ってきたのだよ。威勢のよい声を上げてね。振り板には黄色のというより金色に近い小さなめんこい花の鉢が並べてある。何の花かと尋ねると、「福寿草」と、鉢の積み下ろしを手伝っていた子供が答えた。その子供を夫征八が大層に気に入って、養子にくれないかと花やに相談を持ちかけたのだよ。すると花やは大喜びさ。食い扶持がひとり減るのだと言ってね。その場で養子縁組成立さ。うれしかったよ。天が抜けるとはこの事だと思ったよ。頭の上に覆い被さっていた塊がいちどきにとっぱわれたような、心の中がぱっと明るくなったのさ」
 佐乃の目が深い皺の中で輝いている。乾いた唇を再び舌でなめ話を継ぐ。
「私もじい様も、名を征一郎とし、かわいがった。大事に育てたつもりだったが、とうに母も無く実の父のことが頭から離れなかったのだろうね」
 佐乃は大きく溜息をつく。まだ何かを語りたい素振りをするが、病に冒された体は話を続ける事も難儀で、まつに手を引かれ床に戻った。開け放した玄関から入り込む寒風が立ち尽くす面々の間を吹き抜ける。そう言えば…と、風吉が遠慮がちに話し始めた。
「御主人様は、毎年年末福寿草を花やの振り売りから一鉢求めてございましたが、昨年の暮れ、ひとしきり花やと話し込まれている御姿をお見かけました。おそらく、その同業の花やからお父上のご病気のことをお知りになったのでしょう。ご心配が高じて発作のように家を出られたのだと思います。ふと頭によぎったことを話しました。我が勝手な憶測をお許し下さい」
 風吉は意見したことを詫びて深く頭を下げた。
「兎に角、これから登城して御報告申し上げねばなりますまい。征一郎殿から事前に休官する旨一札認めておられるやもしれませぬ。それも確めます」
 柳田は、案ずる暇も惜しむように踵を返し外に出た。すっかり昇った日に光る雪に眩しく眼を細め、既に家々の下男が雪かきした道を小走りに戻った。
 それから二ヶ月程経った時だった、孕んだことに気づいたのは。気分がすぐれず体がだるいのは、征一郎の突然の出奔に気が滅入ったせいだと思っていたところへ、まつから「赤飯炊きましょうか」と婉曲に言われ、その日の内に産婆きんに診察を乞うたのだった。
「もう、三ヶ月に入っておる。大事にして無理せんこった」
 きんの言葉に一筋の光が見え、喜びに震えた。跡目を産めば、家禄が絶やされることはない。世津は必ず産もうと誓った。その後、月ごとの診察が楽しみであった。ふくらみが増すこともさる事ながら、きんの柔らかく温い手の平が腹部に心地よく、親の肌に飢えた子供にわが身を例え、情けなくなったものだった。きんは世津の気持ちを慮って言った。「子供は是非産んでおくれ。決して裏切ることはないよ」と。

 世津は、布団から出ている矢之助の小さな手をそっと手の平に包み込む。熱は下がっている。よかった。今は、この子のおかげで三十石の家禄が下りてくる。百五十石から大幅に減らされて生活は苦しいが、矢之助にだけは十分に食べ物を与えてきた。頬もふっくらとして、まだ大きな病ひとつしたことがない。世津は、矢之助の手をそっと布団の中に入れる。
 それはそうと、柳田様は今日、何を伝えに来られたのか。征一郎の不在はもう三年近く続いている。いよいよ、お上の寛大な措置も限界にきたのやもしれぬ。この屋敷を出ていかねばならないとなると、武家としての道も危ぶまれる。世津は、悪い方にばかり考えが高じていくのが辛く眼をつむった。まもなく疲れた体は眠りの中に吸い込まれていった。

(二)

 縁側に柔らかい陽射しが溢れている。世津は花のおもちゃ絵を広げ、指で差しながら矢之助に言葉を教えている。三尺四方のおもちゃ絵には、さまざまな鉢植えの花が所狭しと色鮮やかに描かれている。美しい花弁の色が矢之助のまだ何の穢れも知らない無垢な瞳を喜ばせるのか、特に花のおもちゃ絵を好む。世津が言った後、矢之助が片言でまねる。「さくら」「ちゃちゅら」 「うめ」「ゆめ」 「きく」「ちちゅ」 「ふくじゅそう」「しゅしゅちゅちょう」
 愛らしい矢之助の口元に、つい世津も笑みがこぼれる。
「矢之助さんは覚えが早いですね」
 茄子植えのため畝作りしていた風吉が、鍬を置き縁側に来た。少しでも家計を助けるため、庭の一部を耕して野菜を作ってくれている。大根葉とねぎが風に揺れている。
「どうぶつ絵は恐がって見ようとはしないけど、花は好むのよ」
 世津は、日に焼けすっかり若者に成長した風吉に眩しい視線を向ける。縁側の端に腰を下ろした風吉の体から汗の匂いが鼻をつく。それは不快ではなく、むしろ、抑え込んだ若い力が遠慮がちに噴き出したもので、世津をやんわりと包み安堵を与えるものであった。矢之助に笑いかけている風吉が、この頃声変わりした声を更に低くして言った。
「やっぱり血のつながりは強いものですね。矢之助様も花を好まれていますから。御主人様の福寿草、来年も花が咲くとよいですね」
 庭の隅を見やると、十鉢の花期を終えた福寿草が並んでいる。征一郎が今流行りの朝顔よりも地味だがきりっと小ぶりの福寿草を好んでいたことは知っていた。毎年春になると花が庭の隅で遠慮がちに咲いていたこともわかっていた。元日草の名にふさわしく福を呼ぶように明るく、それでいて清楚であった。しかし、水やりしたことは一度もなかった。
 主のいない今も枯れずにあるのは、風吉の手入れのおかげだった。世津は初めて気づいた。夫の愛でていたものに心を寄せようとしなかったことに。世津の体の中に淋しい風が吹きぬける。思わず襟元を抑える。風吉が世津の心情を察して俯き、矢之助の頭をゆっくり撫でている。
「きっとその内に戻られますよ。花を愛でる御方が御新造さんと矢之助さんを捨てられるわけないですよ」
「そうだね。お前がいてくれて本当に助かるよ。ありがとう」
 世津は、汗がひいた後のさわやかな風吉の笑顔に誘われて深く頷いた。それを汐に風吉が畑に戻る。
 世津が輿入れした時、風吉はまだ幼さの残った子供だったが、今ではすっかり筋骨逞しい男衆(おとこし)に成長している。佐乃の話によると、村里の飢饉で家族を失い食べ物を求めて城下町へ迷い込みさまよっていたところを征八に拾われ、以来下男としてこの屋敷で暮らしている。
 征一郎の仕官放棄で家禄が激減するとわかった時、風吉は頭を地に擦りつけて暇を出さないでくれと懇願した。自分には帰る所がない。この町を出ることは恐ろしい。父母弟妹が餓死していった様は思い出したくないと訴えたのである。
 十分に食を与えることはできぬがそれでもよいかと念を押すと、風吉は鋼のように体を起こした。忽ち眼が潤み大きな手で顔を覆った。爾来、薪割り、走り使い、野菜作り、矢之助の相手と今では欠ける事のできない存在である。
 それに…、と世津は深い吐息をつく。風吉がいなかったならば、矢之助を産み、母としての喜びを得ることはできなかったと。
 あれは、孕んでいることがわかり必ず産もうと意を強くしたにもかかわらず、朝からつわりがひどく、それに追い討ちをかけるように征一郎が一札も認めず藩庁の御許しを得ていなかったことを柳田様から知らされた日のことだった。
 いち時に気持ちが塞がり、夜、床に入った後不安にさいなまされた。暗闇の中、床から這い出し庭に裸足で下り石を探していた。赤子の頭大の石を拾い上げ、下腹に打ちつけた。この先どうにでもなれ、下腹めがけて打ちつける。周りのものが何も見えない。腕にこめる力だけに集中する。
 歯をくいしばっても漏れる嗚咽と下腹に食い込む鈍い石の音は、闇を伝って下男小屋の風吉の耳に届いていた。風吉が飛び出してきて、世津の手から石を取り上げた。
「御新造さん、やめてください。自分をいたぶるのは…。せっかくの赤ん坊産まなきゃ駄目ですよ」
 風吉は石を放り投げ、世津の両腕を掴む。掴んだ両腕を引き寄せ、思わず世津の体を抱き締めた。世津は目をつむり、しばし風吉に寄り掛かっていた。涙が頬を伝い、風吉に支えられていなかったならば崩れてしまいそうだった。風吉の体の匂いが妙に世津を落ち着かせる。
 世津は、はっと風吉から体を離し、涙の溜まった眼で空を見上げた。雲ひとつない夜空には無数の星が瞬き、それらが涙でぼやけ、幾筋ものきらめく川のように映じる。
 今、自分は流れる川の真っただ中にいるのだ。勝手気ままに流されぬよう、しっかりと踏みとどまっておらねばならぬ。世津はまだ肌に残る風吉の温みに戸惑いながら、乾いた唇を開く。
「風吉、ありがとう。心配かけたね」
 落ち着いた世津はゆっくりと歩き出す。縁に上がる。風吉が古布を持ってきて世津の足を拭く。
「御新造さん、この後すぐ横になってください。赤子が流れることになりゃたいへんですから」
 そうだ、一縷の望みさえ失うことになる。幸い痛みもなく、赤子は無事だった。世津は、縁下から風吉に見守られ寝所に戻った。床に入った後も、背中に感じた風吉の視線が心地良くて、思いがけずすぐに深い眠りに落ちた。

 あの晩、風吉が飛んできてくれなかったならば矢之助との生活はなかった。世津は鍬を下ろす風吉の姿に眼をとめ、裾の擦り切れた野良着はもう替え時だと思った。
 不意に玄関に訪う男の声がする。
「御新造さん、柳田様がお見えでございます」
 裏で洗い物をしていたまつが前垂れで手を拭きながら世津に告げた。
「奥に通しておくれ」
 まつが小走りに玄関へ戻る。世津は、いよいよこの屋敷を出ていかねばならないお話やもしれぬと胸が騒いだ。主がいなくとも跡目の矢之助のおかげで三十石の家禄は下りているが、もしこの住み慣れた屋敷を出て行くとなると不安この上ない。世津は案じを振り払うように、おもちゃ絵に飽き、むずがっていた矢之助をかき抱き奥座敷へ向かう。
「お久しゅうございます。昨日は不在致し、申し訳ございませんでした。征一郎のことで何かと御尽力賜り、感謝致しております」
 柳田様の前に座った世津は矢之助を膝の上に置いたまま頭を下げる。毅然と背筋を伸ばした柳田様は目にも鮮やかな藍染めの裃を召され、それがはっとする程御仁を颯爽と見せている。矢之助をあやす言葉もないところをみると、やはり憶測通りのお話に違いない。世津の中に緊張が走る。
「本当は今日は非番で朝早く出てくるつもりでしたが、急用ができ遅うなりました」
 柳田様は唾をごくりと飲み込み言葉をつないだ。
「訪ったわけは外でもないのですが、征一郎殿がこのままお戻どりにならぬとなれば、それなりの処遇を受けることになりましょう。来年の春までに戻らなければ、御公儀の用意した武士長屋へ転居を強いられることになるやもしれませぬ。この私もこれまで色々と手を尽くしたのですが、なにぶんにも手前勝手な御行為、お咎めを受けても、それは致し方のないこと。ところによっては浪人が溢れ、再仕官にありつこうと城門前で切腹覚悟で申し出ているとの話が耳に入ります。士官の御自覚が足りなかったと言われてもしかたありませぬ。今一度征一郎の真意を確めるまではと迫ったのですが、御公儀の寛容な措置にも限りがあるようで…。かたじけない」
 柳田様は畳の上に拳を作って頭を深くさげた。尖っているが形のよい鼻筋が誠実さを表わしている。世津は覚悟していたものの、現実を付きつけられると落胆の色が隠せなかった。寝入った矢之助を座布団の上にそっと寝かせ、世津は重い口を開く。
「これまで本当にありがとうございます。何とお礼を申し上げてよいのやら。一度征一郎を訪ねなければと思いつつ、なにぶんにも乳飲み子を抱かえた身、不精致しておりました。考えますに、征一郎が一番辛いと思います。病み伏せる実の父を放っておくことはできますまい」
 世津は溜息をつく。柳田様もつられるように深い吐息をされた。
「この私の方こそ休職を申し出、台入へ赴き真意、いや説得せねばと思います。なに、通行手形のいらぬ同領内のこと、数日もあれば事は済みます。奥方に代わって成すべきだと思います」
 柳田様は同室だったことで、いつまでも責任を負おうとなさっている。今矢之助も二歳になり、まつに預け遠出できないことはない。
「私が訪ねたいと思います。居所もわかっております故、会えば進展があり、それなりの覚悟もできます」
「やはり、そうなされますか。奥方が行かれるに越したことはありません。お供はこちらで適宜な女人をさがしてみましょう」
 柳田様は口辺にほっとした笑みを浮かべ、まつが出していたお茶をぐいと飲み干された。
「よろしくお願い申し上げます」
 頭を下げる世津に柳田様は深く頷かれ、
「このようなかわいい御子があるというのに」
 と、ぐっすり寝た矢之助の頬に指を触れた後立ち上がり、闊達な足取りで玄関に向かわれた。見送る世津とまつに目礼し、既に中天に上った陽の眩しさに眼を伏せ、急ぎ足で帰っていく。
 世津は柳田様を見送った足で縁側へ行き、庭を見る。風吉が庭石に腰を下ろし休んでいる。誰に貰ったのか葉煙草を吸っている。芳ばしい香りが風に乗り世津の鼻腔をくすぐる。世津は福寿草の鉢に視線を落とす。枯れ落ちた花弁が根元で土に還っていく中で、葉と茎は風吉の水やりのおかげで青々としている。
 福寿草が枯れてしまうことは、征一郎との絆もなくなること。まだ葉や茎となるものが残っているはずだ。それを自ら確めねばならない。
「風吉、畝の土盛りがうまくなったじゃないか」
 心が固まった世津の威勢のよい声が庭で弾ける。世津に気づいた風吉が、慌てて葉煙草を捨てた。

(三)

 連子格子の影が壁に映っている。問屋場の常夜灯の明かりは夜中じゅう消えることはないらしい。外のざわめきが微かに耳に入る。それにもまして壁の向こうの部屋からは、まだ夕餉が終わっていないのか、器の擦れ合う音や男達の歓談の声が聞こえてくる。たしか町人らしい男衆五人が入っていくのを、手水に立った折見かけた。時々、飯盛り女のもてなすうわずった声が男達の声に混じる。
 床に入った世津は、頭を横にして連子格子の影をぼんやりと見ている。二日前の朝、まつに抱かれた矢之助が後追いして泣く顔が、今だに頭に張りついて眠れない。
 それと、明日の夕刻には台入に着き、征一郎に会えることで胸がざわついていた。訪ねることは文で伝えているが、どのように話をすればよいのか、考える程に気が高ぶったり滅入ったり落ち着かない。仕方なく連子格子の影の数をかぞえたりする。それでも眠れず、世津は隣に床を並べて寝息を立てているみよを起こさないように、そっと起き出し格子の手前の障子戸をゆっくりと引く。
 いちどきに外の喧騒が入ってくる。宿場町は一晩中にぎやかな所だ。常夜灯のもとに、男達が昼間の熱気を引き摺ったまま、しばしのやすらぎを求めて次々とやってくる。真向かいの旅籠屋の前に荷を積んだ馬が引かれてくる。馬子が手際よく荷を下ろしている。上半身裸でこの夜更け寒くないのだろうか。馬子の日に焼けた肌は常夜灯の明かりを受けて鈍く光っている。入口の奥では、さっき駕籠から下りた侍が洗い桶に足を入れ濯いでいる。そこから二軒目の旅籠屋の前で、疲れた町人客を奪い合う留女の金切り声が夜空に響き渡る。
「眠れないのですか」
 みよの声にはっと我にかえった世津は振り向く。横になったまま、みよがこっちを見ている。つるりとしたみよの肌が、外の淡い光りを受けて更に美しい。
「はい、箱枕になじめなくて…」
「そんな嘘はお見通しですよ。色々とお心が乱れておいでなのでしょう」
「……」
「明日は早いですよ。しっかり休まないと、また足がつりますよ」
「はい、わかりました」
 世津は道中足がつって動けなくなったことを思い出し、慌てて床に戻る。
「私は世津様を無事台入までお連れすることを、柳田様とお約束しております。冷たい夜気に当たって、おかぜでも召されたら、申し訳がたちません」
 みよは天井を向き口を尖らせる。柳田様から宛がわれた柳田家親類の年増の下女みよは、分別のある女だ。当家に三十年以上も仕え、既に御公儀から忠義者として表彰されている。御新造さんの旅のお供も仰せつかってきたせいか旅慣れしている。世津は静かに目を閉じる。やはり眠れず、再び壁に映った連子格子の数をかぞえる。

 明朝、世津とみよは宿を発つ。路銀はきりつめなくてはならないが、みよもいることだしと中宿にしていたが、意外に安く二人分の二百五十文を世津が支払う。店の居並ぶ宿場町は、昨日の夕刻とはまた違った様相を見せている。魚屋、八百屋、乾物屋、果物屋、小間物屋の揺れるのれんの間を歩くのは心まで華やいでくる。ねぼけ眼の店子がせわしくはたきをかけている。ふと思いついて、世津は果物屋でみかんを買う。
「おみやげ買って、一安心ですね」
 外で待っていたみよが、みかんを包んだふろしき包みを世津の手からそっと受け取り、肩に背負い込む。
「この街道をひたすら歩くだけですから。途中、川越えが難儀といえば難儀ですけど、それを過ぎればすぐです」
 街道には賑わいがある。脇を飛脚が風のように走って行く。首から荷物を下げた行脚僧がゆっくりと歩いている。擦り切れた草鞋のひもを結んだ足が、土埃で白っぽくなっている。たいそうな箱を背に担ぎ、闊達な足取りは薬売りだ。陽気な三人の女子衆は、身勝手な抜け参りなのか。藍染めの頭巾を被り、肩に小さな風呂敷包みを背負う我ら女二人連れは何に見えるのか。
 宿場町を過ぎると、風雪から旅人を守るために両側に植えられた杉並木の間から田圃が見える。代かきを終え水を張った田には、青い空が映っている。土と水の匂いを含んだ生温い風が頭巾の裾を揺らす。
「もうじき川ですよ」
 みよがそう言った先には、川越えを待つ人の列がある。じき川面のきらめきが目に飛び込む。川は深くなく、人足の背中渡しで済みそうだ。いずれにしても、限られた路銀では板渡しや駕籠渡しとはいかない。やっと順番が来て、人足の硬い背中におぶわれる。
「あんたさん、何か案じ事しょってるね。おなごにしては体が固い。この道五十年、背中に感じる体の加減でわかるのさ」
 いきなり人足が声をかける。世津は驚いて、人足の豆はちまきの後頭部を見つめる。
「仕官を放逐した夫の所へ、話しに行っているのです」
 世津は、人足の風にゆれる薄い髪の毛に誘われて口が滑る。
「話しなどとは、まどろっこしい。首に縄つけて引っ張ってくるんだよ。男と女というものは少しは強引さがいるのさ」
「おしゃるとおりだけど、そうもいかないの」
 人足は、客に立ち入った後の引き際を心得ていると見え、急に黙る。静かな川面に沈黙がゆっくりと落ちる。川面に映った上半身が人足の動きが作る波に揺れるのを、世津はじっと見つめる。
 川を渡り終えた先の街道筋には、松林が広がっている。松を透かした奥には真っ青なものが見える。若布の匂いがする。これが潮香というものだろうか。もしや、海。一度絵で見たことがある。青く広く、異国へとつながっているという海。
「みよ、あれが海というものですか」
 気持ちが昂ぶった世津に、みよが落ち着いた口調で答える。
「そうでございますよ。美しいでしょう。今被っている頭巾の色も素晴らしいですけど、海の青は深く、誰も真似のできない色です。丁度、あそこに蕎麦屋がありますよ。お昼にいたしましょ」
 松林の奥に、一膳飯屋を兼ねた蕎麦屋がある。旅慣れしたみよに従うのが賢明だと、世津は思う。そばと書いたのれんをくぐる。長机に座った旅人のそばをすする音が、旅の緊張で忘れていた空腹を思い出させた。世津がそば二人前を注文する。窓際の長机にみよと向かい合って座る。開け放たれた窓には海が広がっている。はるかかなたに小島が浮かぶ。
「異国の島とは、あれのことですか」
 世津の問いかけに、笑うと皺に囲まれるみよの小さな目がきらりと光る。
「ほほほ、異国はここからは見えませんよ。とてもとても、言葉では尽くせない程遠いのです。朝鮮の御正使様が、この海を渡ってたびたび来られています。どのような出で立ちか一度拝見したいものです。御正使様は江戸まで行脚なさるそうですよ。江戸では見物人が押し寄せ、大変な騒ぎらしゅうございますよ」
 みよはどこで聞き知ったのか、自慢気に披露する。
「旅はよいものですね。こうして新しい知識を得る機会になります。夫がその機会を作ってくれたともいえます」
「そのように良い方に考えることも、一つの知恵ですよ」
 姉気取りのみよは薄い唇に笑みを浮かべ、老女が運んできた蕎麦をすする。
 世津の実家は婚家と同じ下級武士で、年中質素倹約に縛られた暮らしぶりは旅をするゆとりなどなかった。母が肝の臓の病で亡くなった後、父は後添えを貰わなかった。世津が下女と身の回りの世話をしていたが、その父も母の死から三年後に亡くなった。
 今では弟がお庭番の跡目を継いでいる。抜け参りすらせず家の中だけでこまごまと生きてきた母を、世津は不憫に思って、残りの蕎麦の汁を口にする。
「さ、ここを出ましょう。夕刻前に着くにはゆっくりできません」
 四十文の支払いを済ませ蕎麦屋を出る。歩き始めると潮の香が強く鼻腔を刺す。世津は思わず頭巾の端で口元を覆う。時折、海からの強い風が着物の裾を嬲っては去っていく。右手に臨む海は陽が傾くにつれ、刻々と色を変えていく。左手に小さな家屋が軒を連ねている。
「漁師の村ですよ。路地の奥に征一郎様の実家があるはずです」
 みよが指差して言った。征一郎と会うことを前にして、波の音が不安げに世津の耳に響く。やっと人がすれ違えるほどの路地に入る。傾きかけた陽は、黙って先を行くみよと後につく世津の足元に暗紫色の影を作っている。
 行きついた所が広い庭で、そこに花の鉢が並んでいる。今から時期の菖蒲、剪定した菊苗、梅、茎葉の形の違いで、これ程までに種類があったのかと驚かされる福寿草の鉢鉢。鉢は家屋の板塀まで並んでいる。板塀の下方は朽ちており、茅葺屋根は風で飛ばないように所々石が置いてある。
 突如入口が開き、男が現れる。手に桶と柄杓を持っている。鉢に水やりを始めようとしたが、二人の女人に気づき顔を上げる。男は紛れもなく征一郎だ。仕官から遠ざかった征一郎は月代に剃刀を当てることもないのだろう。毛髪が伸び無精ひげが目立つ。継ぎの当たった野良着が哀しかった。しかし、日焼けして痩せた顔には精悍ささえ感じられた。
「征一郎さま」
 世津は呼んだ。征一郎は一度世津をじっと見つめ、近づいてきた。
「世津…、よくぞこんな所へ来てくれた」
 みよが慌てて深く頭を下げる。征一郎も会釈する。
「連れの女人もお疲れのことだろう。汚いところだが、中へ」
 征一郎は桶と柄杓をその場に置き、家の中へ二人を招き入れる。擦り切れた畳間に上がる。黄ばんだ襖越しに老人の咳が聞こえる。
「先だって柳田からも文が来て、そなたが来ることは承知していた。胸の内のどこかで待っていたし、またどう話そうかとも悩んでいた。聞こえの通り、父っつあんは肺の臓を病んでいる。この私がいなければ何もでけん状態で、いや、この私でなければ世話も受けず、正直言って困っておる。勿論、売り物の花も世話人がおらねば枯れてしまう。父っつあんが長患いしておると聞いたとき、自分を失った。勝手してすまない」
 征一郎は両膝をそろえ、じっと頭を垂れた。
「仕官の道はどうなさるおつもりですか。藩庁のお許しも得ずして放棄した形では、いくら寛大なお上も限界があると、柳田様がお話に来られました。来年の春までにお戻りにならなければ、あのお屋敷を出てゆかねばなりませぬ」
 世津は涙声になっている。気丈にしていた分、征一郎を前にはらはらと崩れていった。
「実の父っつあんは、この私にとってかけがえのないお人だ。もうしばらく、ここにいようと思う」
 征一郎の膝に置いた拳が小刻みに震えている。世津は、世一郎のなみなみならぬ覚悟をよみとって、荒れすさんだ畳の目に視線を落とす。
「いつまでもお待ち申し上げております。矢之助も二歳になり、父上のお顔も存ぜぬままでは不憫でなりませぬ。それに、あのお屋敷を離れることは耐えがたいことです」
 世津の絞り出す声は征一郎の胸に響いた。
「わかっておる。今しばらく時の猶予を。そなたには苦労をかける」
 くぐもった口調の征一郎はうつむき、目は世津の膝元に注がれている。世津は立ち上がり土間に下りる。みよに支えられ外に出る。陽はとっぷりと暮れ、夕餉をこさえる竈の煙が家々から立ち昇っている。ふたりは路地に向かって歩き出す。父親の激しい咳き込みが追い縋るように聞こえてきた。

(四)

 世津はまつと産屋の用意をしている。
「御新造さん、行き倒れの妊婦さんはこんな場所があれば助かりますよね。無事産みたくとも叶わない事情を抱えた女人は多いですから」
 まつが声を弾ませ、壁板を拭く手にも力が入っている。
「そうだね。私らがここに居られるのも後一年足らずかもしれないから、存分にやりたいことやっておこうと思ってね。もし狭い武家長屋にでも住むことにでもなれば、勝手が違うと思うの」
 世津の征一郎に会って何かふっきれた思いはまつにも伝わっていたのだが、一年の限りと知って、それが余程こたえているのか、汚れた布を桶に投げ入れ乱暴に洗う。
「それはそうと、この風吉が編んでくれた太縄、どのあたりに下げようかね。ここに背もたれの布団を重ねるとして…」
 世津は太縄の先を持って、鴨居と下の位置を見比べている。
「わたし、産んだことないのでわかりません」
 まつがおどけた調子で言って、持ち前の大きな目をくるりとする。世津も口元を緩める。
「足台を使っても、鴨居に届かないようね。風吉にやってもらいましょ。ここに来るように呼んできておくれ。そして、その足で陶器屋に行って、胞衣壷を四、五個買ってきておくれ」
 まつが快く返事をし、前垂れを外しながら産屋を出て行く。胞衣(えな)とは後産の臓物のことである。それを捨てずに大切に壷に入れ、子供の幸福を祈念し、座敷の床下や玄関の門下などに埋めるのである。望まれてきた赤子には、必ずやその仕来たりが成されている。程なくして風吉が入ってきた。
「何の御用で?」
 場違いな所へ入った戸惑いから、風吉が体躯を縮こませている。
「鴨居に、この縄かけておくれ」
 世津が、子供の腕くらいはある縄を風吉に渡す。風吉が、おやすい御用ですと言って足台を使い太縄を鴨居に通す。世津が、先を産婦の目の高さ位に決める。
「御新造さん、この先不安がおありでしょうが、おいら、いつでもお役に立つつもりです」
 足台から下りた風吉が、改まった調子になる。
「ありがとう。これで縁日に遊びなさい」
 世津は懐から小銭を出し、風吉の袖口に滑り込ませる。風吉が満面笑みを浮かべて、ぺこりと頭を下げ、畑仕事に戻っていく。腰にからげた麻着の裾が従順な犬の尻尾に見えて、世津は微笑む。
 概ね出来上がった産屋を見回しながら、世津は深い吐息をつく。ここは産み女の駆け込み寺といった役目を果たすことができればよい。無事産んだものの、育てられない女が多々いる。間引きを強要された女は気丈に赤子を踏み付けているが、心の底では泣き叫んでいる。女の痛恨の叫びをどれほど聞いてきたことか。やるせない思いから少しでも開放されたい。世津はそのために産屋を用意したのであった。征一郎も、今は生まれた土地で花作りと実父の世話に精進している。いつか必ずや、供に暮らす日がくると信じている。

 一月半前、征一郎を訪ねた日のことが甦る。話し終え、征一郎の実家を出て歩き出した時、この先夜道危ないから泊まっていけと、征一郎が追いかけてきたが、泊まる気にはなれなかった。
 どうにか見つけた寺で一夜を請い、夜露を凌ぐことができたが、世津の中に鬱々としたものが渦巻いていた。それは帰路を暗く覆い尽くしていたが、あるきっかけで霧散したのであった。
 空はどんよりと曇り、海の色も鉛色で、押し寄せる波の音が引き摺る足枷の音に聞こえ、世津とみよの足取りは重かった。後に付くみよが世津の袖を引くので振り返ると、はるか後方に毛槍を高く掲げた奴の姿がある。武人の行列である。駕籠あり、馬あり、松林を透かしても尚も延々と続き、それは尽きることのない蟻の行列にたとえられる。
「参勤交代の大名行列なのでしょう。私は道端に土下座致します」
 みよの声に世津も身分上蹲きょし、頭を垂れる。向かい側には、急きょ駕籠から下りた女人が駕籠持ちと肩を並べて土下座している。見るところ妊婦のようだ。お産のため、遠い実家へ行く途中と見受けられる。行列は足音をせわしく響かせ、少しずつ近づいてくる。どうも女人の様子がおかしい。うずくまって喘いでいる。産気づいたようだ。
 毛槍の奴が前を過ぎる。次に先番関札渡しの駕籠が通る。女人の抑えた呻き声に世津は落ち着かない。きんの教えをふと思い出す。
「産婆という者は、大名行列を横切って、お産の手助けができるのだよ」
 曲がった背筋をぐいと伸ばして、誇らしげに言ったきんの幻に後押しされるように、世津は立ち上がり前に進み出た。みよの驚きを背中に感じる。鋭い眼が世津を取り巻く。
「わたくし、決して怪しい者ではございません。産婆の世津と申します。向こう側に産気づいた女人がおります。何卒、手助けをお許し願いたく存じまする」
 世津は頭を地につけた。手の平が汗をかき、なぜか矢之助のことが頭をよぎった。すぐに御用取次に話が届き、それが駕籠の女中付き医師の耳に入ることに相成った。早く行っておあげなさい、と思いがけなく優しい医師の言葉に、世津は行列の中を走り抜けた。
 その後のことは、無我夢中でよく覚えていない。女人に感謝され、自分を役立てる道があったことに改めて気づき、生きる明るさがわいたことは確かだった。

「御新造さん、胞衣壷五個買って来ました」
 まつの声に世津は我に帰る。まつが大風呂敷にくるんだ胞衣壷を大事に抱え立っている。
「ごくろうだったね。そこに並べておくれ」
 世津が産屋の隅を指差す。まつが返事をして、壷を置く。素焼きの丸っこい形の壷は胎の子が並んでいるようにも見える。胞衣壷は、望みがあればこの屋敷門下に埋めてあげてもよいことにしょう。
「今日はお疲れだったね。と言っても馳走できるわけではなし、これ縁日に使いなさい」
 世津は、風吉同様まつにも小銭を与える。まつは子供のような笑顔で台所へ向かう。

(五)

 いもがら汁と七分がゆの夕餉を終え、寝屋で矢之助を寝かし付けていると、まつが手燭を持ってやってくる。
「外で女の泣き声がします」
 耳をすます。確かに女のすすり泣く声が聞こえる。風吉もやってくる。門の外に女がいると言う。世津は、まつに提灯を用意させ家を出る。月のない闇の中で女が蹲っている。提灯の明かりを近付ける。女はゆっくりと顔を上げた。煤けた顔の中で目がおびえている。小さな風呂敷包みを抱かえた胸の下に腹が大きくせりだしている。
「如何なされたのですか。お見かけは、もう生み月に入っていると察しますが」
 世津は、女人の腕を取り話しかけた。
「はい、そうでございます。夫が今度も間引きするように強く申すものですから、絶え切れず出てきたのです。道すがら、ここは産婆様のお家と聞きました。どうか助けてください」
 女人は声を絞り出すように言った後、溜飲が下がり声を張り上げて泣いた。
「すぐ、中へ入りましょう」
 世津とまつは女人を両脇から抱かえ上げ、玄関を通り産屋へ連れた。布団を広げ、女人を寝かせる。女人は安堵して大きく息を吐いた。
「中には、赤子の産着とおしめが入っております。ひとりで育てる覚悟で出て来ました」
 女人は、傍らの風呂敷包みを見て言った。
「ここは安心して産める処ですよ」
 俵を入れこんだような腹は、数日中には産まれるだろう。まつが、埃にまみれた足を温湯で絞った布で丁寧に拭く。
「どれだけ、この手で赤子の息の根を止めてきたことか。布団にくるんで踏みつけたりもしました。濡れた紙を仏のような無垢な顔に被せもしました。今も足裏に残っています。赤子の肉の柔らかさが。身も心も裂けそうで…。今度また間引きするように言われたけど、できません」
 女人は顔を両手で覆って激しく泣いた。もう夏がくるというのに、かさついた手の甲や割れて黒ずんだ爪が痛々しい。まつが白湯をついだ椀を運んできた。女人は両手で椀を持ち貪るように飲んだ。やせた首筋に喉がごくりと音を立てた。
「どこから来たのですか」
 埃にまみれた足や乱れた髪、破れた小袖の裾からずいぶんと歩いて来た趣きに、世津は訊いた。
「浜から来ました。とにかく夫から逃げたい一心で歩き続けました。途中茶屋で休んだり、お寺に泊めて貰ったりしました。そこで大分心配してくださいましたが、夫が追いかけて来るようで、雨の中をも歩き続けました。よくぞ流れなかったと自分でも驚いています」
「ほんとにまあ、母というものは強いものですよ」
 世津がそう言った後、突然女人は呻き出した。大腹が収縮を始める。産まれるのだ。気持ちの安堵がお産を促したのやもしれぬ。世津は、女人を起こし、まつに布団を背凭れとして畳ませる。女人をそこへもたせかけ、下がった縄を掴ませる。座産だ。女人の顔や首に汗がにふき出し、べたついた頭髪が汗で異臭を放つ。発するいきみ声を口の中でかみ殺し耐える姿に女人のこれまでの辛苦を垣間見るようで世津は哀しかった。まつが濡れた布で女人の顔や首を拭いている。
「こうして、腹の肉が赤子の頭が下になるのを手伝っているのですね」
 陣痛の、波のように引いては押し返す腹部の動きに、まつが感動の声を上げる。当時、彼女らは元々胎児は逆さに入っていることなどまだ知る由もない。胎児は頭を上にした位置におり、陣痛によって頭が下に返ると考えていた。
 まつが湯を沸かしに台所へ戻る。程なく産まれた子は女子だった。まつとふたりで赤子を湯に浸からせる。どっと疲れが出た女人は吸い込まれるように眠りについた。
 翌朝、世津が朝餉を産屋に運ぶ。女人は帰る仕度をしている。
「本当にありがとうございました。この子は何とか自分で育てていこうと思います」
 まだふらつく頭を下げる女人の顔色は優れない。
「まだ無理ですよ。産んだ後が大事ですよ。それに乳飲み子を抱かえて、奉公先などおいそれと見つかるものではありません」
「でも、このまま居ることはご迷惑かと…」
「四、五日この産屋で休みなさい。そして家にお戻りなさい。どのような鬼の父親も、数日たった我が子を殺せとは言わないでしょう。帰る時は駕籠を用意してさし上げましょう」
「何から何までありがとう存じます。名をなのるのが遅うなりました。たよと申します。ご好意に甘えて、しばらく休ませていただきます。でも、お若いですね。産婆と呼ばれるのがお気の毒なくらい。もっと違った呼び名があってもよさそうなものです」
 たよが逆に世津を憐れむように見ている。
「将軍家の助産の桂女以外は全て婆が後についていますのよ。取上婆、子据婆とか、和州婆、薩摩婆…。それはよしとして、たよさんは浜から来たと言っていたけど、そこは台入ではないのですか」
 世津は気になることを訊いた。
「へえ、そうですけど、それが何か?」
 たよはいぶかし気に世津を見る。
「花作りの家、知りませんか」
 征一郎を訪ねて以来、音沙汰無しで気になっていた世津は真剣な目を向ける。
「存じていますよ。あの家の父っつあんは、江戸から福寿草をこっちに広めたお人ですから、知らない人はないほどですよ。でも生活は苦しかったようです。以前武家へ養子にやった息子が戻って来て、父っつあんを看ながら花の世話をしてありました。そう言えば、半月程前父っつあんは亡くなりました。その後、武士だった御仁の花の振り売り姿お見かけ致しました。そのお声、父っつあんよりも威勢が良かったですよ」
 たよはうっとりとした目をしている。世津は、征一郎の天秤棒を担ぎ声を張り上げる姿を思い描いて、もう手の届かない存在になった気がして俯く。
「その事がどうかなさいましたか」
 世津の眉根を寄せる顔に、たよは訊く。世津は一部始終を話す。
「そうでしたか。仕官の道を放って実家に戻るとは、お産婆さんもご苦労が多いですね。この頃、豪商や豪農が武士の株を買って子に与え、武士にさせるという話を聞きますが、果たして子が望んでいるかどうか、わからんものですね」
 たよは赤子に乳をふくませているものの、目は遠くを見ている。乳が出ず、赤子が大声で泣く。
「考え事をすると、お乳の出が悪くなりますよ」
 現実に引き戻された世津は、たよの黒ずんだ乳首をつまむ。白い乳汁が細い孤を描いて飛び散った。再び乳をふくませるたよの顔はふくふくしている。ふと世津は手桶が損じていたことを思い出す。
「赤子の頭をすすぐ手桶を買ってきますね」
 世津は産屋を出て、自ら買いに外へ出る。ひとりになりたかった。瓦屋根に照り返す初夏の陽射しに世津は目を瞬く。下級武士の粗末な屋敷が並ぶ通りを抜け町屋敷へ入る。紺屋町を歩いている時、路上で人々が犇いているのに遭う。
 主もおかみも老人も、下男下女までが何かを待つ表情で道の端に幾重にも並ぶように佇んでいる。どの顔も悲愴と興奮の入り混じった面持ちで、時折風に舞う土埃に顔をしかめて桶屋町の方を見ている。世津も足を止める。話し声が耳に入る。
「ここんところ、引廻しがなかったからかしら。こんなに人が仰山集まるとは思いもせんかったな」
 どこぞの女房が口先を尖らせて声をひそめる。
「そりゃもう、びっくりしたな。人は見かけによらないものだね。あの御新造さんには、主人が俳諧の指南受けていたけど、厳しくて何度もやり直しをさせられ辟易していたというのよ。男と駆け落ちするようには、とても見えなかったと驚いているの」
 相手の女房がそう言って遠慮がちに笑う。
「以前は白粉も紅もつけなかったのが、若い庭師が出入りするようになってから朝から念入りに髪は結うわ、顔首はもちろん手までこってり白粉つけてたっていうじゃないか。色恋とは恐ろしいものだよ」
「わかっていただろうよ。不義は斬首になることは。夫君はお目見え以上というではないか、許すわけないよね」
「子供もなく、淋しかったのじゃないのかい。出入りしていた妾が孕んだとなりゃ、正妻も面白くないよね。若い男と楽しく憂さ晴らしってことだったのかしら」
「色々あろうけど、その代償は大きいよね」
「ほらほら、来たよ」
 女房達の立ち話につい聞き入っていた世津も馬の蹄の遠い音に耳をすます。程なく、馬上に背中合わせに括られた男女の姿が遠目にわかる。人々は目前に来るのを息をのんで待っている。頭がじゃまだ、と叫ぶ者さえいる。
「何でも、お救い小屋に二人で紛れているところをお縄になったという話だよ。どう、ぼろを着てもあの御新造さん目立つよな。きりりとして餅肌だし、食いっぱぐれの貧しい女には見えねえ。しかし、男は若すぎる。これからいくらでも若い女と遊べたのによ。惜しいよな。へへへ、おいらもこれつくってみるかな」
 どこぞの大店のだんならしい男が小指を立てて目を細める。
「そんなことすりゃ、俺んとこの女房、包丁持って喚くこと請け合いだ。おお恐え」
 相手の頭の禿げた男はそう言って体を縮める。そこへ馬が通る。馬上に括られた男と女は俯いているが、笑みさえ浮かべ、目は一点を見つめたままだ。まるで、これから冥土で晴れて夫婦になれる喜びでも秘めているかのように、清々しささえ感じられる。
 それにしても、若い庭師の馬から下がった脚のなんとつややかで逞しいことか。世津は哀しくなって、その場を離れ歩き出す。
 男と女の強さ激しさを目の当たりにして、世津は心がかき乱されていた。征一郎と我とのつながりに思いが及ぶと、世津は深い溜息をついた。離れていればなおのこと、櫛に施された飾り硝子のように脆く儚いものに思われた。
 ほんのひとときであっても、燃える男と女に身を窶した俳諧のお師匠さんが羨ましくさえあった。斬首をひと目見ようと、横を通りすぎて行く人の群れが、風吉がいつぞや話してくれた飢饉の時の飢えさまよう人々と重なる。
 心の貧しさと食の貧しさとは同じなのかと、世津は空を見上げる。ゆっくりと流れる白い雲にしばし目を奪われる。

(六)

 朝から雨が降っている。屋根を叩きつける雨音と時折轟く雷鳴に、この頃走り回るようになった矢之助も世津の膝の上で目をつむり、小さな手で耳をふさいでいる。
 激しい雨音はたよの号泣と重なり、軒下の雨だれはたよの涙に見える。四日前、赤子が突然の発熱で死んだのだ。体中黄色くなって、お医師様の手当ても虚しく息絶えた。
 結局たよは三廻り産屋にいた。何とか家に戻ろうと心の準備をしていた矢先の出来事で、たよは呆けたように産屋にこもっている。元気を取り戻すには日数がかかりそうだ。
 突然、雨音の中に激しく木戸を叩く音がする。まつが走ってくる。
「炭屋の若おかみさんが産気づかれたそうです。今、使いの者が御新造さんに、早く来て下さいと言っています。駕籠が用意されています」
「すぐ行く、と伝えておくれ。合羽と番傘と高下駄を揃えて、風吉を呼んでおくれ。この子の世話をたのみます」
 この二、三日産み月に入っている炭屋の女房すまが気がかりだったのだ。先月、男女の引廻しの時、女子衆の中に見かけたが、人ごみに阻まれ話しかけられなかった。顔色が悪かったのが頭に残っている。
 帰りは駕籠とは限らない。しっかり雨具の用意は怠ってはならぬ。むずがる矢之助を風吉に渡し、臍の緒を切る鋏などの入った道具箱を持つ。世津は急いで待っていた駕籠に乗る。濡れそぼった使いの者はそのまま駆ける。
 走る駕籠の屋根を叩く雨の音が頭の上で踊っている。世津は、そっと駕籠の引き戸を少し開けてみる。道も町並みも雨に白くけむって定かではない。雨の勢いは止みそうもない。誰ひとり歩いていないと思っていると、継飛脚が雨を切って目前を過ぎていった。世津は引き戸を閉ざす。
 しばらくして駕籠が止まる。炭屋に着いたのだ。世津は駕籠から下りて家の中に駆け込む。すまの呻き声が家全体を重苦しくしている。下女に案内され母屋に入る。すまの苦悶に歪む顔や首が、水を被ったように汗で濡れている。
「夜中から苦しんでおりましたようで、なんとかしてください」
 傍に座っている姑が頭を下げた。
「産気づくのが遅くなり、赤子が大きくなりすぎたのでしょう」
 世津はすまに息を入れる時を教え、腹を押す。かたく張った皮膚の下に、赤子の頭が手の平に伝わってくる。力ないすまの声が母屋に澱む。
「前の時はすぐ産まれた。女子じゃったが」
 姑の声に棘がある。すまは青竹を握る手に力が入っても、いきみ出すまでに及ばない。赤子の早く出ようと肩の位置を変える動きが、腹に置いた手の平に伝わってくる。だが腹の肉に力が入らない。このままだと…。その時姑が襖に向かって叫んだ。
「お医師様を呼んできておくれ」
 下男の走り去る大またの足音がした。
「親戚がお医師様に産ませてもらったと言っておったからの」
 姑は手をこまねいている世津に険しい目を向けた。程なく、法曹の姿をした医師が入ってくる。頭髪を剃り落とし、口髭をたくわえている。
「お医師様、なんとか赤子だけでもお願いします」
姑が、布団の裾に座って手早く道具箱から器具を出している医師に言った。それは見たこともないものだった。黒く長いひも状のもので円を作り、さし入れる。ひもの先を小さな板に開いた三つの穴に通す。医師はひもの先を持ち、じっと動かぬ姿勢で顔を横に傾け耳をすますようにして、胎内をさぐっている。何を? 赤子の頭に決まっている。世津は、呆けたように医師の所作に見入っている自分に活をいれるように考えを巡らす。
 姑も体を強張らせて、医師の手の微妙な動きを見ている。どれ程の時がたったのか。短かった気もするし、長かった気もする。突如医師はうっ、と言って鼻で息を吐き、ひもをゆっくり引く。血の滲んだひもの先に赤子の頭が出てきた。赤子は医師の手に抱き取られると、手足を震わせ産声を上げた。
「おのこじゃ」
 姑の喜びの声が家中に響き渡る。襖越しに待機していた下女に湯の用意を言いつける。すぐにたっぷり湯を張った盥が運ばれる。
「よかった。よかった。やっと男じゃ」
 姑は慣れた手つきで赤子を湯に浸からせている。医師はぐったりしたすまの心の臓を診る。医師はすまの死を告げる。姑は驚いた風もなく、すまの死顔をちらっと見ただけで赤子に白い産着を着せている。
「弔いの仕度もせないかんな。この忙しいさなかに大変じゃ」
 姑は男子の産まれた喜びに頬は弛みっぱなしだ。赤子の元気な産声が母を失った嘆きに聞こえる。医師がいれば後は用はない。世津は部屋を出た。下男に、すまの死をだんなに知らせるように言った。
「だんな様は腰痛めてはって、三日前から湯治に行ってあります」
「それじゃ、妻の死を知るのはいつのことだろうね」
 ここにも身勝手な夫がいるものだ、と世津は思い、母屋から出てきた下女にすまの体を拭いてあげるように言った。
「その前に、おかみさんから重湯炊くように言われています」
 重湯で世津は閃いた。乳が出て仕方のないたよを乳母奉公としてこの炭屋に出向かわせようと。一時気が紛れるかもしれない。
 通りに出ると、雨は小止みで空があかるんでいる。大げさな雨具の用意がうっとうしかった。世津は歩き始める。町並みは再び活気を取り戻している。まだ濡れそぼった店ののれんが風に揺れ、店先の水溜りに丁稚が裏の竈の灰をかけている。
 金魚鉢の振り売りが水溜りをよけて足早に通り過ぎる。大きく鉢は揺れるが落ちはしない。老人の冷水売りが通る。
「ひやっこい、ひやっこい」
 低く掠れた声が耳に心地よい。
「一ぱい、くださいな。砂糖なしでお願いね」
 世津は冷水を求める。道端で三十路前の女が水をあおるのははしたない気がしたが、喉のひりつくような乾きには勝てなかった。老人は、へいと返事をし、なみなみと水をついだ真鋳の水飲み碗を世津の手に渡す。水を飲む世津の中で、赤子の元気な産声や姑の赤子を洗う器用な手つき、すまの黄色くなった死顔、思いがけなく目にした医師の助産の所作、それらが駆け巡っていた。世津は碗を老人に返し、四文を支払う。
 小雨の中を、振り売りがどこからともなく集まったように行き交っている。かつおぶし、ところてん、南蛮菓子、酒、しょうゆ、かれらは食べ物の甘い香りと威勢の良い呼び声を残して去って行く。征一郎は花の振り売りをしていると、たよが言っていたことを世津は思い出す。通り過ぎる振り売りの男達に征一郎を重ね、うずきだす諦念のようなものが、両手に雨具を持ち歩く世津の足取りを重くしていた。

(七)

 雨の上がった朝は、矢之助も機嫌がよい。梅雨の中休みといったところだが、じめっとした暑さは汗ばむ程だ。庭に敷いたござの上で、矢之助は風吉が作った馬の藁人形で遊んでいる。時々それを放り投げては笑い転げている。屈託のない笑い声は、梅雨の不快さを吹き飛ばす。
「おいらが、じき竹馬こさえてやるからな」
 風吉が藁人形を拾ってきて矢之助に話しかける。身分の上下を忘れた風吉の気さくな物言いは、親しみこそあれ嫌味はない。
「まだいくら何でも、竹馬は無理ですよ」
 縁側で目を細めている世津の声が弾む。つい三日前たよが炭屋へ乳母奉公に入り、世津はほっとしている。それはともかくとして…と、世津は一点をみつめたまま考える。
 もう、我の役目は時代から遅れたものなのか。先だって、蘭方医の助産術を目の当たりにした衝撃は消えない。あのままであれば母子ともに死すところを、赤子は助けることができた。あの道具は探頷器というもので、鯨のひげで作ったものだと、先日炭屋の斜め向かいに居をかまえる蘭方医を訪った際、教えてくれた。江戸では堕胎も行なわれていると話していた。大きな時代のうねりが知らないところで渦巻いている、と感じた一日だった。
 世津は庭に視線をゆっくりと戻す。矢之助が歩いていき、福寿草の茎を引っ張る。風吉が慌てて矢之助を抱き上げ、ござの上に連れてくる。福寿草が無事でよかった、と湿っぽい風が語りかける。まつがいつの間にか世津の横に来て一緒に見ている。
「矢之助様は病にもかからず、大きくなられましたね。旦那様に一度お見せしたいですね。あ、申し遅れましたが昼餉のしたくができました。ふだん草のおひたしと豆腐やから貰った使い物にならない大豆の煮たのですが、よろしゅうごさいますか」
 沈黙した世津の表情を見て、慌てて昼餉の話しに切りかえたまつの額に汗がにじんでいる。
「それで十分よ。お豆は矢之助の大好物です」
 台所から煮豆の甘い匂いが流れてくる。まつが、風吉を見て思い出したことを話す。
「この前の不義の若者、風吉と同じくらいの歳でしたね。つい人並みにもまれて行き首刎ねを見たのですが、二人とも見事な最後でした。泣きもせず喚きもせず、黄泉の国で一緒になるのだと誓い合ったように凛としたものでした」
 まつは、残忍なお仕置きにも負けない男と女の結びつきに心動かされている。まつは今年四十になる。この先も寡を通すのかと思うと可哀相な気がする。いつぞや佐乃がまつを嫁に出そうとしたが、まつは断固としてきかなかった。亡くなった大だんな様には大層世話になった、一生かけて恩返しせねばならないと頑なに拒んだのだ。
「まつも、これから恋をしてみるかい?」
 世津はまつにちょっかいをかけてみる。まつの目尻には数本の皺が刻まれ顎はたるみ、女の盛りはとうにすぎているが、身も心も一点の曇りもない純な女だ。
「はい、ありがたいお言葉うれしいです。でもまだ矢之助様のお世話もありますし、産屋のこともあります。恋などと…」
 まつは顔を赤らめ、前垂れの裾を両手で弄んでいる。
「まつ程の者は、その内御公儀から表彰されることになるだろうよ」
 世津は、そうならなければまつは救われないと思った。
「実は、わたし柳田様を心からお慕い申し上げております。でもあまりにも身分と歳が違い、叶わぬことだと自分に言い聞かせてきました。五十近い俳諧のお師匠さんでも若い男をものにされました。このわたしだって、とつい思ってしまいます。でも勇気がなくて…。すみません、こんなこと初めて口にしました」
 まつの目は潤みを帯び、心の臓の動きが伝わってきそうに心が昂ぶっているのがわかる。
「まあ、少しも気がつかなかったよ」
 本当に何もわからなかった。ひとつ屋根の下で寝食を供にしていながら、、何と人の心の内が見えていないことか。夫婦でも同じだ。征一郎の心の襞にひそむものに気づかなかった。人と人との関わりとはそのようなものなのだ。
 世津は、まつのはにかむ顔の奥にまだ隠されたものがある気がして畏れすら感じた。昼餉のため居間へ向かおうとした時、玄関に訪う声がする。柳田様だ。
「噂をすれば何とやらだね」
 世津とまつは玄関へ急ぐ。柳田様が入口の土間に立っておられる。いつになく清々しいお姿、双ぼうにも輝きがある。裃もあつらえたばかりの、それこそ旅で見た海の深い色合いで艶やかなお顔によくお似合いだ。
「これはこれは柳田様、お久しゅうございます。目も洗われるような凛々しいお姿。何ぞ良いことでもございましたか。上へお上がりください」
「いいえ、ここで結構です。このたび私、松林家へ養子に迎えられることに相成りました。この秋には祝言を挙げる運びでございます。その知らせに、今日は参った次第です」
 柳田様は深く頭を下げられた。剃りあげた月代が初々しく目に映る。
「松林家といえば奥右筆、本当にようございました。柳田家も鼻が高くなるというもの、御両親様も兄上様もさぞやお喜びのことでございましょう」
 世津はそう言ったものの、突如胸の内を吹き抜ける風に戸惑っている。
「はい、兄上はとうに嫁を貰っております故、私は部屋住みの身でした。よい養子先の話がくるのを待っておりましたが、そのかいがありました。祝言を挙げた後もたびたび寄らせていただきます」
 淋しい世津の目に柳田は明るい声を送る。
「どうぞお幸せに。これまでありがとうございました」
 世津はぽっかり空いた胸の内を悟られまいと気丈に言葉を継いだ。柳田は、傍でしんみりしているまつにも一度笑顔を向けて踵を返す。足を踏み出したところで、ふいに世津の方を振り向く。
「征一郎殿はこの辺りを花の振り売りに回っておられるとの噂を耳にしました。その内にこの家に足を留めることもあるやもしれませぬ」
「え、それは本当ですか」
 世津の目にきらりと光りが宿る。今にも征一郎の花を売る声が聞こえてくるようで、世津の胸が騒いだ。世津は外に走り出て、征一郎の姿をさがし求める。
 仕官の道など、もうどうでもよい。親子三人連れ添って生きる道を選ぼうと世津は考えていた。まつがいつまでも柳田様に手を振っている。


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