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 移ろい〈下町の軍国少年の昭和〉

 

                                      平田穂積

 

現実と文学」43号(2007年10月)より転載

 

 推薦 久間一秋さん(「現実と文学」) 

 

 「移ろい」は力のこもった、語り継がれていかれるべき作品と思います。
 軍歌の挿入もなかなかいい。酷い玉砕命令など、あちこちであったようで、敗戦にいたる経過もよく描かれています。
 戦後、いろんな学習会などができ、貧しくとも気持ちは高揚していたと、現在との大きな違いを痛感させられます。
 最後、数十年を経ての感慨、共感させられます。    


       (1)

「哲夫チャアーン、アーソピーマショオー」
 表の土間のほうで、独特な節まわしの声がしている。
「あっ、昭雄ちゃんが遊びに来たよ」
 日曜の朝、おそい朝食のあとでラジオを聞いていた哲夫は、兄に声をかけると、土間に下りていった。
 表の入り口に、国民学校六年生で十一歳になる昭雄が、気弱そうな笑いを浮かべて立っていた。兄貴もあとから来るからと、哲夫は弁解するように言った。哲夫は八歳の三年生で、兄は十歳で五年生なのだが、昭雄は、哲夫と気が合うのか、哲夫と遊ぶ目的でやってくるのだ。
 あとから土間に下りてきた兄も、しばらくは一緒に遊んでいたが、すぐに飽きたらしく、同級生の速男の家に遊びに行った。
 哲夫の一家が、朝倉郡の比良松というところから、博多の下町に越して来たのは、昭和十三年、哲夫が三歳の時だった。父は比良松で旅館を営んでいたが、商人の行き来も少なくなって、街もさびれてきたので、旅館をたたんだのだと、母が話していた。
 その当時の比良松には、朝倉軌道という鉄道があって、家の前をガソリンカーが走っていた。街並みには、結構、商店などもあり、かなり賑やかだったような記憶が、哲夫にはかすかに残っている。
 博多に越して来た父は、下町の本通りに面したところで燃料店を開いた。その新しい土地で、兄と哲夫が最初に喧嘩をした相手が、昭雄と速男の二人だった。そして、四人はすぐに友達になったのだった。
 昭和十五年十一月、兄が小学校一年生の時、この本通りで盛大な旗行列があった。
 皇紀二六〇〇年を視賀する行事が全国で繰り広げられ、「紀元二千六百年」の歌もつくられた。
 金鵄輝く 日本の
  栄えある光 身にうけて
  いまこそ祝え このあした
  紀元は 二千六百年
  ああ一億の胸はなる

  正義りんたる 旗の下
  明朗アジア うち建てん
  力と意気を示せ今
  紀元は 二千六百年
  ああ いやさかの日は上る″
 哲夫の家の前の本通りを、日の丸の小旗を打ち振り、高らかに歌を歌いながら、小学生たちの行進が延々と続いていく。二千人をこえる小学校の生徒たちが、奉祝の記念式典がおこなわれている箱崎の神社に向かって、元気よく行進して行くのである。
 まだ五歳だった哲夫は、母たちと家の前で旗行列を見送った。兄の得意そうな笑顔も見えた。哲夫は、興奮してしまって、みんなと一緒に「紀元二千六百年」の歌を大きい声で歌い続けた。そして、自分も早く小学校に入学して、あんな行進に参加したいと思っていたのだった。
 哲夫たちが住んでいたところは、古き良き時代の映画にでも出てきそうな、典型的な下町だった。賑やかで、活気があったが、本通りでも自動車は少なく、街全体もゆったりとしていた。
 哲夫の家から見た向こう三軒両隣でいえば、左向かいの四辻の角が洋品店、その隣が下駄屋、次が薬局、それから駄菓子屋、醤油屋と続く。こちら側は、左隣にマーケットの肉屋があり、燃料店の哲夫の家の右隣が金物店、次に葬儀屋、理髪店と続いて、大きな書店があった。
 表から見た町家は、間口はそんなに広くないが、なかに入ると、奥いきがかなり深い。店舗部分に続いて、居住部分があり、その先に裏庭などがある。
 本通りと交差した縦筋に沿っては、長屋ふうの大きなマーケットがあり、肉屋、果物屋、八百屋、魚屋、お茶屋、乾物屋、蒲鉾屋などが入っていた。そして、マーケットの先にはお寺や映画館もあった。
 この区画が、大体、隣組の十組だった。昭雄は、この十組ではなくて、マーケットの前にあるパン屋の息子だった。昭雄は色が白く、少し小柄で、気が優しかった。
 正午近くに、昭雄と哲夫が、家の前で日向ぼっこをしていると、向こうから昭雄と同級の中川がやって来た。中川は、警察署長の息子で、六年一組の級長をしていた。喧嘩も、クラスで二番目に強いということだった。
 中川は二人が立っているところに寄って来て、昭雄の横に並ぶと、何か、ぼそぼそと言った。昭雄が、「お金は持たんもん」と言って下を向いた。中川は、金をたかりに来ているのだった。「親からもらって来い」と言いながら、中川が昭雄の肩を自分の肩でゆさぶっている。昭雄はうつむいたまま、黙っていた。
 そのうち、「そうだ」と、いい考えでも浮かんだように中川が言った。「お前、今日昼飯を食うな。そして、中川さんのところで昼御飯をごちそうになったけん、お礼ばせないかんて言うて、かあちゃんから金もらって来い」
 昭雄は黙っている。「いっぺんぐらい、昼飯食わんでもよかろうが」中川がそう言いながら、哲夫に見えないように、昭雄の足を小さく蹴っていた。昭雄は泣きそうな顔になって、黙ったまま返事をしない。やがて、しびれを切らした中川は、舌打ちをしながら二人から離れて行った。
 太平洋戦争が始まった年の昭和十六年三月に、国民学校令が公布され、小学校は国民学校と改称された。哲夫は、昭和十七年四月に入学した国民学校の二期生だった。教科書も新しいものに変った。二歳上の兄の小学校一年の時の国語の教科書は、「サイタ サイタ サクラガ サイタ」というもので、挿絵もきれいだったが、国民学校一年の国語の教科書は、「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」で始まり、挿絵はべたっとしていて、あまりきれいではなかった。哲夫は、近くの書店で買ってきたその教科書を見た時から、もうがっかりしてしまった。
 哲夫たちが入学した国民学校は新設校だったので、教室が不足していたのか、哲夫たちが二年生の時には、便所の横の吹きっさらしの土間で授業を受けたりした。一学年に六十人近い学級が三組まであり、全校で千人をこえるマンモス校であった。
 その当時は、「産めよふやせよ、国のため」の時代だったから、どこでも子供が多かったが、特に、庶民の家庭は貧乏人の子沢山で、きょうだいが多かった。哲夫のところも、哲夫の下に弟や妹が四人もいる六人きょうだいだったし、昭雄のところは五人きょうだいで、速男のところは、下に幼い妹が三人もいる四人きょうだいだった。
 速男の父親は市内電車の運転手で、おとなしい人だったが、速男の家はいつ遊びに行っても、路地裏の狭い家のなかは薄暗く、色の浅黒い速男の母親は、髪を振り乱して、いつも小さい娘たちを叱り飛ばしていた。そしてこの母親は、速男を素っ裸にして、本通りに放り出したりしたこともあり、子供たちから怖がられていた。それに引きかえ、昭雄の母親は、継母だったけれども、昭雄たちに対しても優しかった。
 昭和十七年四月、哲夫が国民学校に入学した頃、哲夫の家にもようやくラジオがきた。兄が、ニュースの「大本営発表」を聞きたいと言って、父にねだったのである。
 それからは、家族みんなで「大本営発表」を聞くことが多くなった。「大本営発表」は、勇ましい軍艦マーチの曲などで始まり、日本の陸軍や海軍航空隊の大戦果が、次々に発表される。アメリカやイギリスの軍艦が、わが海軍航空隊の雷撃攻撃によって撃沈されたり、轟沈させられたりした戦果が、目に浮かぶように報じられるので、哲夫たちは、「大本営発表」を聞くのを楽しみにしていた。
 昭和十六年十二月八日に、対米英戦が開戦されて、その十二月八日は天皇陛下の大詔を奉戴した記念日ということになり、翌年の昭和十七年十二月八日の大詔奉戴日には、国民学校で大きな紅白の饅頭をもらった。当時は、学校給食などはなく、毎日、砂糖をまぶした肝油の粒を一粒もらうだけだったので、みんなは次の大詔奉戴日を心待ちにするようになった。しかし、昭和十八年の大詔奉戴日にもらった紅白饅頭は、前の年にもらった饅頭の半分ぐらいの大きさで、昭和十九年の大詔奉戴日の紅白饅頭は、更にひとまわり小さくなっていたのだった。
 哲夫が国民学校一年の、昭和十七年頃は、まだ日本軍の快進撃が続いていた。日本軍は、マニラに続き、ラバウルを占領した勢いで、ついに、英軍の極東の拠点だったシンガポールも占領した。更に、南太平洋の諸島を次々に占領し、鉄より堅いといわれていたボルネオも、落下傘部隊の奮戦によって攻略して、油田を押さえた。
 教室の後ろの壁には、アジア・太平洋の大きな地図が張られていて、日本の陸海軍が占領した地点に、お子さま弁当にさしてあるような日の丸の小さい紙の旗を、みんなで次々にさしていくのである。哲夫は、アジア・太平洋の地図が日の丸の小旗でうめられていくのが、嬉しくてたまらなかった。
 起つやたちまち撃滅の かちどき挙がる太平洋
  東亜侵略百年の 野望をここに覆えす
  いま決戦の 時きたる″
 銀翼つらねて 南の前線
  ゆるがぬ護りの 海鷲たちが
  肉弾砕く 敵の主力
  栄えあるわれら ラバウル航空隊″
 国民学校の一日は、運動場での朝礼から始まる。最初に天皇陛下が住んでいる宮城のほうに向かって、全員で東方遥拝という最敬礼をする。寒い日には、天突き体操などをしたあとで、校長の訓話が始まる。朝礼の時に、張り切って号令をかけたりするのは、青年将校のような井上という軍国教師だった。哲夫は、この軍国教師が嫌いだった。この井上という教師は、生徒をすぐに殴るので、みんなからも恐れられていた。
 夏休みのある日、兄と速男ともう一人の級友の三人が、学校の運動場の横の、工事のために掘られていた溜め池に泳ぎに行き、運悪く、その井上教師に見つかった。その溜め池で泳ぐことは禁じられていたので、三人は厳しく説諭された。そして、そのあと井上教師は、三人を職員室の前に連れて行き、素っ裸にして二時間ものあいだ、そこに立たせていたのだそうだ。夏休み中で、生徒たちはいなかったものの、女教師たちもいる職員室の前で十歳の五年生の男子を全裸にし、さらし者にするようなやりかたに対して、兄はポロポロと涙を流しながら、ものすごくいきどおって話した。そのことがあってから、兄と哲夫は、その軍国教師を激しく憎むようになった。
 哲夫は、校長も好きではなかった。男子生徒は陸軍式の敬礼で挨拶をすることになっていたが、校長は、その敬礼の仕方が悪いと、何度でもやり直しをさせるのだった。
 それからまた、分列行進の時などの、校長の威張った態度にも、哲夫は反発を覚えていた。運動場でおこなわれる分列行進では、三年生以上の学年の各組ごとに整列をし、指揮棒を軍刀のように捧げ持った級長が先頭に立って行進をするのだった。そして、校長の前まで来ると、級長が指揮棒を右斜め下に降り下ろしながら、「校長先生に向かって、かしらあ右!」と号令をかける。すると、みんなは一斉に校長のほうに頭を向けるのである。悦にいったような校長は、高級軍人のような仕草で、鷹揚に敬礼を返すのだった。
 しかし、戦況が厳しくなって、食料が不足してくると、その運動場を耕して畑をつくり、サツマイモやカボチャなどを栽培するようになった。その頃は、配給の米が足りなくなって、隣組では、代用食品としてサツマイモなどが配給されるようになっていた。もう、校長の好きな軍隊ごっこの分列行進もできなくなってしまった。
 昼食の時間は、弁当を食べる前に、手を合わせて、御詠歌のようなものを二回ぐらい唱えさせられるのだった。
 箸とらば、あめつち御代のおん恵み、君と親との、恩を忘るな″
 それが終って、さあ、食べようと、弁当のふたを開けると、おかずが消えていることがあった。朝礼の時、誰も教室にいないすきに、誰かがおかずだけを食べているのである。玉子焼きなど、おいしそうなものがねらわれるのだった。哲夫も、二、三回やられたことがある。そんな時は、おかずなしで弁当を食べるしかなく、悲惨なものだった。クラスのなかで犯人探しはおこなわれなかったが、学校の近くにあった孤児院から来ている生徒の一人が疑われていた。
 哲夫が三年一組の時のクラスには、朝鮮人の子供が数人いた。そのなかの宮本という子供は、年齢もみんなより二歳ぐらい上で、身体も大きく、喧嘩もクラスで一番強かった。しかし、その宮本を、下校時にみんなでからかったりするのだった。
 植民地の朝鮮半島の人たちを侮蔑するようないろいろな悪口を、みんなが一斉に叫び立てるのだ。後方から一人で歩いて来る宮本を見つけると、一組の級長の吉岡が、グループのみんなに目配せをして、
「朝鮮人、朝鮮人テパカニスルナ。ニッポンノ天皇陛下モヤイアルゾ」などと、一斉にはやし立てるのだった。
 怒った宮本が追いかけて来ると、みんなは必死に走って逃げ帰るのである。しかし、翌日、学校に行くと、昨日のグループのおもだった連中は、宮本からポカポカと殴られていた。宮本は馬車引きさんの息子で、学校から帰ったあと、父親の仕事を手伝っているのだと、担任の女教師が話していた。
 教科書といえば、音楽の教科書も、急ごしらえのようなちゃちなものだった。
 肩をならべて兄さんと 今日も学校へ行けるのは 兵隊さんのおかげです お国のために お国のために戦った 兵隊さんのおかげです″というような歌ばかり載っていて、子供たちの評判はよくなかった。
 だから担任の女教師は、もっと勇ましい軍歌などを教えるようになった。
 勝って来るぞと勇ましく 誓ってくにを出たからは
  手柄たてずに死なりょうか 進軍ラッパきくたびに
  まぶたに浮かぶ 旗の波

  思えば今日のたたかいに 朱にそまってにっこりと
  笑って死んだ戦友が 天皇陛下万歳と
  残した声が 忘らりょか″
 天に代りて不義を討つ 忠勇無双のわが兵は
  歓呼の声に送られて 今ぞいでたつ父母の国
  勝たずば生きて還らじと 誓う心の勇ましさ″
 わが大君に召されたる 生命はえある朝ぼらけ
  たたえて送る一億の 歓呼は高く天をつく
  いざ征けつわもの 日本男児″
 哲夫には、「太平洋行進曲」という歌のことで、いやな思い出があった。
 海の民なら男なら みんな一度は憧れた
  太平洋の黒潮を ともに勇んでゆける日が
  きたぞ 歓喜の血が燃える
 その歌詞の最後の言葉をめぐって、兄と論争になったのである。哲夫が「火が燃える」と歌っていたのを、兄が、そこは「血が燃える」だと訂正したのだ。哲夫は、血が燃える訳ない、燃えるのは火にきまっていると屈理屈をこねて、延々と論争が続いた。とうとう、見兼ねた母が割って入り、燃えるのは物であって、火が燃える訳ではないでしょうと言い、兄のほうに味方をしたのだった。哲夫は、どうしても納得できず、くやしかったが、愛している母には逆らえなかった。
 哲夫たちが住んでいた十組から少し離れた、パン屋の先の八組のほうの区画には、呉服店や造り酒屋などの大きな建物が軒を連ねていた。その造り酒屋に、兄の一級上のミヨ子という六年生の美少女がいた。そのミヨ子から何故か兄だけが招待をされ、兄が一人で造り酒屋の大きな豪邸に遊びに行ったことがあった。しかし、下町の庶民の暮らしとはあまりにもかけ離れた、中産階級の豪華な暮らしぶりを垣間見てきたらしい兄は、ショックを受けたのか帰って来ても、ミヨ子の家庭のことをあまり話そうとはしなかった。だが、中産階級のきれいなお嬢さんのミヨ子に対して、ひそかな憧れを抱いていた哲夫は、豪邸に招待された兄がうらやましくてたまらなかった。
 哲夫の家には、時々、父方の若くて美しい叔母が訪れていた。朝倉高等女学校始まって以来の才媛とうたわれていたらしい叔母は、素直で、可愛らしくて、利発な兄を特別に可愛がり、あちこちと、自慢の甥を連れ回していたようだった。
 その叔母は、家にやって来るたびに、哲夫に兄のことを「お兄様」と呼びなさいと無理強いするのだった。
 「あなたがお兄様と呼ばないから、下の弟たちもお兄様と呼ばないのよ」と、何度も叔母に言われていた。哲夫のきょうだいは、兄が小さかった頃に、叔母からしつけられたらしくて、両親のことを「お父様」、「お母様」と呼んでいたのである。兄のことを、「タカちゃん」と名前で呼んでいた哲夫は、内心、「下町の子供が兄貴のことを、上品ぶって、お兄様なんて呼べるもんか」と思っていたので、黙って抵抗を続けた。
 昭和十八年の初め、陸軍大尉に昇進した父方の叔父が、中国東北部の満州に赴任することになり、一家で、東京から福岡へ帰省してきた。哲夫の家にも挨拶に来た叔父の一家と哲夫の家族は、叔父の武運長久を祈るために、箱崎の神社へ出かけて行った。軍刀を吊った将校服姿の叔父は、とても勇ましく格好よかった。途中で出会う友達がうらやましそうに眺めていたので、哲夫はちょっと誇らしい気分になったりした。
 昭和十八年四月、南太平洋から悲しい知らせが届いた。ハワイの真珠湾奇襲攻撃を指揮した山本連合艦隊司令長官が戦死したのである。ラバウルの基地から飛び立った長官の搭乗していた飛行機が、ブーゲンビル島の上空で、待ち伏せていた米軍の戦闘機に撃墜されたのだ。六月に国葬がおこなわれ、国民学校では、全生徒に黒枠で囲まれた山本司令長官の大きな写真が配布された。哲夫は、山本五十六海軍元帥を非常に尊敬していたので、その写真を家の床の間に飾って、朝晩、手を合わせるようにした。
 その後任の古賀連合艦隊司令長官が、やはり、南太平洋で死亡した時は、写真は配られなかった。古賀海軍大将は戦死ではなく、搭乗していた飛行艇が暴風雨に巻き込まれて、行方不明になったのらしく、あまり名誉なことではなかったからだろうか。
 そして、昭和十八年五月には、アリューシャン列島のアッツ島が二万人の米軍の猛攻を受け、日本軍守備隊二千五百人全員が戦死し、玉砕した。
 その玉砕をたたえて、「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」がつくられた。哲夫は、これこそ、世界一優秀な日本民族の大和魂の現われだと感動した。
 刃も凍る北海の
  御楯と立ちて二千余士
  精鋭こぞるアッツ島
  山崎大佐指揮をとる
  山崎大佐指揮をとる

  残れる勇士百有余
  遥かに皇居伏し拝み
  敢然鬨と諸共に
  敵主力へと玉砕す
  敵主力へと玉砕す″
 山田耕作作曲の悲しいメロディのその歌を、哲夫は兄と一緒に、涙をこらえて何度も何度も歌った。
 戦死して軍神となった山崎大佐は、二階級特進して陸軍中将になった。
 アッツ島は、最初の玉砕地となったのだが、戦後に次のようなことが判明したそうだ。守備隊の元に、大本営から、「増援部隊を送ることは諦めざるを得ない。最後に至らば潔く玉砕し、皇国軍人精神の精華を発揮する覚悟あらんことを望む」という無情な命令が打電され、守備隊は、この命令を実行したのだった。
 弾薬も尽きて銃を使えなくなった守備隊の兵士たちは、米軍の投降の呼びかけにも応ぜずに、鎌や棒切れを持って米軍に向かって突撃して行き、全滅したのである。アメリカ人の目には、このような日本軍の姿はまさに、「狂気の軍隊」と映ったことだろう。大本営は、アッツ島のこの全滅を「玉砕」という言葉で美化して発表したのだった。
 太平洋における日本軍の守備隊は、激戦の島、ガダルカナル島からも、すでに、「転進」をしていたのだが、その後、マキン島、タラワ島、サイパン島、テニアン島、グアム島と次々に玉砕をしていき、昭和二十年三月には、とうとう、小笠原諸島の硫黄島も玉砕してしまった。
 栗林陸軍中将が硫黄島に赴任する時に、東条首相から、「アッツ島のように戦ってくれ」と言われたそうである。つまり、本土の防波堤となって、最後の一兵まで戦い、玉砕せよという命令だった。そして、栗林忠道中将が率いる二万数千人の守備隊は、東僚首相の命令通りに徹底抗戦して全滅し、予定通りに玉砕したのである。しかし、もう歌はつくられなかった。
 下町の十組の隣組には、国民学校の一年生から高等科二年生まで十五、六人の男の子がいて、みんなで一緒に遊ぶことが多かった。ガキ大将は、蒲鉾屋の息子で高等科二年生の友重だった。国民学校三年生の哲夫は、その十三歳の友重からよくいじめられていたが、泣き虫の哲夫があたり構わず、町内中に聞こえるような大声で泣き叫ぶので、友重も辟易したのか、そのうちに、あまりいじめないようになった。
 戦況が悪化し、物資も欠乏して国家統制が強化されるようになると、商店街はさびれていったが、十組のガキどもは、相も変わらず、友重の指揮のもとに、チャンバラごっこや戦争ごっこなどをして、本通りや縦筋の通りを走り回っていた。そして、パーマをかけた若い女性が本通りを歩いているのを見つけると、わざわざ近寄って行き、「パーマネントはやめましょう」と呼び掛けて、その女性から睨まれたりした。
 哲夫の家は、廃業した料亭のあとを借りた借家だったので、中庭もある広い家だった。大広間などがあった二階へ上がる階段は、表階段、中階段、裏階段のほかに調理場からの階段もあり、子供たちの絶好の遊び場になっていた。厳格な哲夫の父がいない時には、十人近い子供たちが集まって来て、チャンバラごっこなどをし、一階から二階までぐるぐると走り回って遊んだ。そんな時、自由放任主義の母は、何も言わず、笑って見ていた。
 チャンバラごっこは凝っていて、勤皇側と幕府側に別れて戦うのだが、みんな幕府側になるのをいやがるので、ジャンケンで決めたりした。そのあとは、それぞれ自分の好きなさむらいに扮して戦うのである。勤皇側で人気があったのは、坂本龍馬、桂小五郎、鞍馬天狗など、幕府側は、近藤勇、沖田総司などだった。しかし、いい役は上級生が先に取ってしまうので、哲夫たち下級生はいつも、その他大勢の無名のさむらい役ばかりやらされた。
 下町には路地裏も多く、子供たちのいい遊び場になっていた。路地裏では、ビー玉やメンコや石蹴りなどをして、夕方、暗くなるまで遊び、父から叱られたりした。戦時中の非常時とはいっても、子供たちは、一日二十四時間では足りないくらいに、朝から日暮れまで遊び回っていた。
 昭和十九年、哲夫が三年生の時、国民学校で、福岡黒田藩の中老だった加藤司書公の、肖像入りのしおりが全校生徒に配られた。肖像の下には、加藤司書の有名な歌がしるされていた。
 すめら御国のもののふは いかなる事をかつとむべき  ただ身にもてるまごころを 君と親とにつくすまで=@その加藤司書の歌は、「黒田節」の歌の二番の歌詞にもなっているが、当時は陸海軍礼式歌に制定され、準国歌の扱いをされていたそうである。
 幕末の時代の「尊王摸夷」という勤皇派の思想は、明治維新のあと、「忠君愛国」という思想として確立され、明治、大正の時代から昭和二十年の敗戦に至るまで、八十年間に亘って、日本の社会に君臨し続けてきたのである。
 加藤司書は、幕末の黒田藩で勤皇派の総帥といわれていた武士だが、藩内の政変のなかで家老職の辞職に追い込まれ、佐幕派が藩の実権を握ったあと、勤皇過激派の暴走の責任などを問われて、藩主から切腹を命じられたのである。福岡市の西公園には加藤司書の銅像があったので、子供たちもみんな知っていた。その政変の時に、勤皇派の多くの武士たちが処刑をされたのだが、のちに玄洋社を結成した右翼の大物政治家の頭山満は、年少だったために処刑をまぬがれたのだそうである。
 哲夫たちが持って帰った加藤司書のしおりを、じっと見ていた父が、珍しく、改まった口調で、「お前たちに、話して聞かせることがある」と言って、長火鉢の前に兄と哲夫を座らせた。
 父の話は、次のようなことだった。父の祖母のトワという人は、黒田家に御殿女中として奉公していたのだそうである。そして、御殿で催される歌会などで文芸の才を発揮し、周りから注目されるようになった。黒田藩の中老で、文武両道に秀でていた加藤司書が、そのトワの文才を愛でて、トワを側室に迎えたのだそうだ。加藤司書が切腹をした日、司書を乗せた長棒駕籠は鉄砲隊数十名により前後を厳重に警固されて、深夜に赤坂門を出発し、大名町、薬院堀端、春吉を経て、今の博多駅の近くにあった死処の場の天福寺に護送された。その時、願い出て許された司書の親戚や家臣ら十名とともに、トワも天福寺に同行して、加藤司書の最期を見届けたそうである。
 政変による加藤司書の切腹後、関係者の一族も追及をされるなか、トワは実家に戻り、司書とのあいだに生まれていた幼い娘のアキは、黒田藩の支藩であった秋月藩の家臣の勤皇党のところにかくまわれ、明治維新のあと、十八歳の時に、二人の侍女に付き添われてトワの実家に戻って来たということだった。トワとアキの墓石は、朝倉の実家の墓所に並んで建っているそうだが、アキの墓石のほうがひとまわり大きいらしい。
 父の実家は、朝倉郡の大百姓だったが、父親が中学への進学を許さなかったので、父は高等小学校を卒業したあと、アメリカの植民地だったフィリピンのマニラに出稼ぎに行った。そして、働きながらマニラの夜学で学んだりして、アメリカの文化を吸収した。アメリカ人の女教師からも、特別に可愛がられたそうだ。
 そして、数年後に帰国した父は、アメリカ文化の洗礼を受けたモダンボーイとして、マニラ帰りの友人たちと昭和初期の農村を闊歩していたらしい。流行の最先端をいくハイカラなモダンボーイだった父たちは、上下とも白のスーツと白の革靴といったいでたちで、朝倉の田舎のモダンガールたちと派手に遊び回っていたそうである。
 母の実家のほうも、大きな屋敷を構えた朝倉の大百姓だったらしいが、父方とは、いろんな意味で対照的であった。明治三十七年の日露戦争に従軍して戦死した母の叔父は、当時の福岡では数少なかった陸軍大尉で、生き残った同期の者は、みな陸軍大将まで昇進したそうである。
 そして、父親が教育熱心だったので、長兄は早稲田大学の哲学科を卒業し、次兄は、東京大学を優秀な成績で卒業した金時計組だった。母は、大正時代の末期に朝倉高等女学校に行き、いくらかは大正デモクラシーの影響を受けていた。自由教育を提唱していた羽仁もと子の本などを読んで、民主的な、新しい家庭をつくることを夢想していたようだが、結婚した相手があまりにも悪過ぎたようだ。
 亭主関白の父は、家柄とか学歴のことで、母に対して強いコンプレックスを抱いていたようである。そして、何か気にくわないことがあると、酒に酔っては、酔狂をまわすのだった。酒に酔った父は、何か訳のわからないことを大声でわめき散らしながら、飯台をひつくりかえしたり、茶碗などが入っている洗いかごを、台所のコンクリートの土間に叩きつけたりした。そんな時、哲夫と兄はおびえながらも、土間で泣きながら茶碗の破片を拾い集めている母に同情し、父をひどく憎んだ。
 下町の軍国少年たちは、何故か、陸軍大将で、陸軍大臣も兼任していた東条首相のことを嫌っていた。ニュース映画で見る東条首相の演説の真似をしてからかうのである。
「国民諸君!」と言って、右手のこぶしで演壇を叩く格好をし、みんなで笑い合うのだった。それから、見よ東条のハゲ頭″などという替え歌も歌っていた。哲夫も、ドイッのヒットラーやイタリアのムッソリーニのほうが、格好がいいので好きだった。
 そしてまた、天皇陛下絶対の時代ではあったけれども、「朕 思うに……」で始まる天皇の教育勅語をもじって、「朕が思わず 屁をひった。汝臣民 臭かろう」などと、ちゃかしてしまう上級生たちもいた。しかし、真面目な軍国少年だった哲夫は、さすがに、そういう不敬な言動には内心、腹を立てていたのだった。
 教育勅語は、式の時に、校長が白手袋をはめて全校生徒の前でうやうやしく読み上げるのである。頭を垂れて聞いている生徒たちは、早く終らないかなと思っているのに、校長だけが陶酔して重々しく読み続けるのだ。また、上級生は、意味もわからずに教育勅語を丸暗記させられていた。そういうことに、一部の上級生が反発していたのだろう。
 下町の子供たちは、概して、ませていて、ある日、美容院の息子の吉本が、家のたんすの引き出しの中で見つけたという春画を持ち出して来たことがあった。高等科一年の吉本と友重たちが、コソコソとその春画を見ながら、下卑た笑い声を立てていた。そのあと、友重が四年生以上の上級生は見てもいいと言って、兄たちも春画を見ることを許された。友重は、特にませていて、上級生たちにせんずりのやり方まで教えているのだった。
 そして、蒲鉾屋のこの友重の家で、哲夫が死にかける事件が起こった。蒲鉾屋の土間には小さい防空壕が掘ってあり、そのなかで、子供たちはよく遊んでいた。その日は寒かったので、練炭をいれた七輪を持ち込み、四、五人が入って遊んでいた。途中で、兄と速男がトイレに出て行き、そのまま戻って来なかった。そして、兄たちと入れ替わりに、三人の上級生たちが入って来た。哲夫は、戻って来ない兄たちのことが気になっていたが、ずっと防空壕のなかに入ったまま、いい気持ちで友重や上級生たちの話を聞いていたのだった。
 そのうち、ふと、哲夫が外に出ようと思って、防空壕の出口の木のふたを持ち上げた途端、哲夫は急激な吐き気に襲われ、意識を失ってしまった。友重は、自分も吐きながら、激しく嘔吐している哲夫を必死になって助け出したらしい。
 すぐに、町医者が飛んで来て、蒲鉾屋の上がり框のところに寝かされていた哲夫に、応急処置の治療をほどこしたそうだ。あと少し時間がたっていたら、助からなかっただろうと、医者が言っていたそうである。
 一酸化炭素中毒だった。練炭の不完全燃焼が原因だったらしい。その頃は、おとなも子供も一酸化炭素の怖さを知らなかった。先に出ていった兄たちは、気分が悪くなって、そのまま家に帰っていたのだった。
 サイパン島が米軍に占領されてからは、米軍のB29爆撃機は日帰りで、日本の都市を爆撃できるようになった。米軍の飛行機による爆撃が始まると、都会では疎開というものが始められるようになった。消火活動の邪魔になる塀を取り壊したり、家屋の天井板がはがされたりした。米軍機から投下された焼夷弾が天井に引っかかって、火災が広がるのを防ぐためだということだった。哲夫の家にも、十数人の警防団の人たちがやってきて、二階の天井板を全部はがしていった。
 その頃、哲夫たちの下町にも、米軍のB29爆撃機が、頻繁に偵察にやって来るようになっていた。一万メートルぐらいの高空を、一機で悠々と飛んで行くのである。哲夫たちはくやしがったが、友重の話によると、日本軍の高射砲は、五、六千メートルぐらいしか飛ばないということだった。太陽の光を反射してキラキラと輝いているB29爆撃機の、銀色の小さい機体は、超高空の青い空のなかで、美しく映えていた。
 その頃のある日、本通りの四辻に、人だかりができていて、男の怒鳴り声や女性の悲鳴が聞こえてきた。近くで遊んでいた哲夫と昭雄が駆けて行くと、警防団長の中村という人が、道路に倒れ伏している中年の上品な女性を、軍靴で蹴りまくっていた。その女性の周囲を数人の警防団員が取り囲んでいて、よくは見えなかったが、警防団長が顔を真っ赤にして何か怒鳴りながら、泣き叫んでいる女性の尻や腰を、執拗に踏んづけているようだった。
 中村という警防団長は、ラムネ会社の社長で、遠巻きにしているおとなたちは、何も言わず、ただ黙って見ているだけだった。後ろのほうにいた中年の女性たちが、「あの上品ぶった奥さんは、国防婦人会の防火訓練にも出て来ないらしいよ」などと囁き合っていた。
 その上品な女性は、住宅街の大きな屋敷に住んでいる未亡人だった。そこの一人息子は、福岡中学校四年生の眼鏡をかけた坊っちゃんケーの秀才だった。
 あとで聞いた話によると、その未亡人の屋敷の塀を取り壊すために出動した警防団の人たちに向かって、彼女が激しく抗議をし、強硬に反対したのだそうだ。最初は、冷静に説得をしていた警防団長も、「塀を壊されたら、裏庭で行水ができなくなるじゃないですか」と言った彼女の言葉に激高し、「この非常時に、何を言ってるのか!この非国民めが!」と、殴りかかり、驚いて逃げ出した彼女を追いかけて、本通りまでやって来たのだということだった。
 その日の夕方、哲夫が隣組長の家に配給のサツマイモをもらいに行った時、近所のおばさんたちが昼間の話をしていて、みんなであの未亡人の悪口を言っていた。隣組長の佐藤さんが、「ばってんが、中村さんな、あの後家さんのぶりぶりした大きな尻ば踏んづけて、気持はよかったろうばい」と言ったので、みんなが大笑いをした。
 対米英開戦の記念ということでは、特別に映画もつくられた。一周年記念映画は、「ハワイ・マレー沖海戦」、二周年目の映画は「海軍」で、哲夫は二本とも兄と一緒に近くの映画館に観に行き、とても感動したのだった。
 そして、開戦三周年記念映画として昭和十九年に制作されたのが「陸軍」だった。原作は芥川賞作家の火野葦平、監督は木下恵介、陸軍報道部委嘱の映画である。
 福岡県出身の火野葦平は、中国戦線に従軍し、「麦と兵隊」などの兵隊三部作といわれる小説を書いて国民的作家になっていた。
 「陸軍」は、福岡市が舞台になっており、福岡市の福岡部と博多部でロケがあったそうだ。博多山笠のシーンなどもあると聞いていたので、哲夫は大いに期待し、三年の同じクラスの古田と二人で市内電車に乗って、東中洲の映画館まで観に行ったのである。
 しかし、「陸軍」の映画は期待に反して、全然面白くなかった。ラストの出征兵士の行進は、天神から那珂川を渡り、東中洲、川端、土居町、呉服町を通って博多駅へ向かって行くものだったので、見慣れた福博の町並みが次々に映し出され、少しは興味もあった。しかし、古田も去年観た「海軍」の映画のほうがよかったと言っていた。
 その日は、古田が家から五円もの大金を持ち出して来ていたので、映画館の中で干しバナナなどを買って食べた。哲夫は、往復の市内電車賃の十銭しか持っていなかったから、映画の料金も含めて全部、古田におごってもらった。 火野葦平は、戦後、自殺したのだが、昭和十九年には、あの悪名高いインパール作戦にも陸軍報道部貝として従軍し、帰国後に無能な指揮官を批判していたそうである。
 ビルマに進駐していた日本陸軍第十五軍の牟田口司令官が、大本営に要請して認可されたという無謀な「インパール作戦」は、北ビルマから国境を越えて、インド北東部に侵攻し、インパールにある英軍の基地を攻撃するというもので、昭和十九年の三月に決行された。
 険しい山々や深い谷を越えて、インパールの近郊まで進撃をした日本軍と英軍とのあいだの戦闘は激烈を極めた。しかし、戦闘が長期化するなかで、弾薬や食料の補給もない日本軍は総崩れとなり、7月の初めにようやく撤退命令が出されたのである。
 インパールからビルマへと敗走していく「白骨街道」と呼ばれた道路には、日本兵の死体が延々と並んでいたという。この作戦に参加した将兵九万人のうち、三万人が戦死し、四万人以上の兵士が、飢えとマラリアや赤痢などの病気で死亡した。しかし、東条首相と親しかった司令官の牟田口陸軍中将は、作戦失敗の責任を問われることもなく、参謀本部付きという名目で東京に帰って来たそうである。
 兄と哲夫は、その頃、しょっちゅう映画を観ていた。上映作品が替るたびに、近くの映画館に出かけた。戦争映画だけでなく、「大本営発表」に基づいて制作されるニュース映画も楽しみにしていた。
 しかし、妹の子守をしなければならない時など、兄は妹をおんぶしたまま映画を観に行き、上映中に妹が泣き出したら、便所のなかに駆け込んだりしていた。
 その頃に観たおもな映画は、次のようなものだった。
 「海賊旗吹っ飛ぶ」「奴隷船」「国際密輸団」「ハワイ・マレー沖海戦」「マレーの虎」「ベンガルの嵐」「ドイツ急降下爆撃隊」「加藤隼戦闘隊」「海軍」「陸軍」「勝利の日まで」「かくて神風は吹く」等々。
 小さい時から歌が好きだった哲夫は、書店から軍歌集を買って来て、いつも軍歌を歌っていたので、哲夫の日常は軍歌に明けて、戦争映画に暮れるといったあんばいであった。
 かくて、哲夫は、国民学校に於ける軍国主義教育だけでなく、軍歌や戦争映画などによって育てられて、軍国少年に成長していったのであった。
 昭和十九年の暮れ頃になると、さすがに、日本の敗色は濃くなっていた。日独伊三国同盟のなかでも、イタリアはすでに昭和十八年九月に、連合国に無条件降伏をしていたし、ドイツ軍もすべての戦線で、ソ連や米英の連合国軍に敗北して後退を続けていた。哲夫は、イタリアやドイツのだらしなさを非難してはいたものの、心のなかでは、いくらか心細い思いもしていたのだった。
 だが、周囲のおとなたちは何も言わず、子供たちは、最後に「神風」が吹いて、必ず、日本が勝利すると信じて疑っていなかった。ポスターの標語などを、まともに信じていた子供たちにとって、日本という神の国が、戦争に負けるなどということは、あり得ないことなのであった。
 「一億一心」「産めよふやせよ、国のため」「子宝報国」「鬼畜米英」「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」「進め、一億火の玉だ」「神州不滅」「本土決戦」「一億 玉砕」等々の言葉に、嘘や偽りがあるなどと、哲夫は思ってもいなかったのである。
 しかし、昭和二十年の三月には、東京と大阪が米空軍の大規模な空襲を受けた。東京の無差別爆撃による死者は、八万人とも十万人ともいわれている。更に五月には、名古屋と横浜も米空軍の大空襲を受けた。同じく五月に、同盟国のドイツも、連合国に無条件降伏をしてしまった。
 そして、昭和二十年六月、哲夫たちが住んでいた福岡市も、米空軍の大空襲にさらされて、福博の町は焼け野原になってしまったのである。
 同じ六月に、沖縄本島に上陸した米軍との死闘を続けていた日本の沖縄守備軍も全滅した。この沖縄の激しい戦闘では、軍人軍属の死者が約十二万人、一般住民の死者は約十七万人といわれている。
 そして、昭和二十年八月、広島と長崎に原子爆弾が投下され、ついに、日本もポツダム宣言を受諾し、連合国に対して屈辱的な無条件降伏をしたのであった。
 八月の暑い夏の、台風の季節であったが、「神風」は、とうとう、吹かなかったのである。

                                    (2)

 昭和二十年八月十五日の敗戦のあと、数年の時が流れていき、高校生になった哲夫は、日本的なるものの一切に反発するようになっていた。そして、哲夫の関心は、ヨーロッパの近代に向いていくようになった。
 梅雨に閉じ込められ、じめじめと湿ったような、薄暗くてカビ臭い日本的なるものを、哲夫は全否定し、青空のように明るく、乾燥した近代ヨーロッパの文化に傾倒するようになったのである。
 映画でも、哲夫は、日本映画やアメリカ映画に反発し、フランス映画ばかり観ていた。また音楽も、フランスのシャンソンや、近代ヨーロッパのクラシックに引かれるようになっていった。
 文学では、戦争に協力した戦前の既成作家に反発して、日本の戦後派作家の、椎名麟三、梅崎春夫、野間宏、安部公房、田中英光、椎葉英次などの小説しか読んでいなかったが、哲夫はやはり、フランスのサルトルやカミュなどの実存主義文学のほうに、強く引かれていたのだった。
 そして、朝鮮戦争休戦後の不景気のあおりを受けて、父が経営していた製材所が倒産し、大学への進学を断念せざるを得なくなった哲夫は、将来に絶望し、デカダンな生活に溺れるようになった。そういう状況のなかで、哲夫は、絶望と不安と孤独などという実存主義哲学のテーマに、益々共感するようになっていったのである。
 しかし、敗戦から十年ちかくたった昭和三十年頃には、戦後民主主義がもたらしたさまざまな運動が、少しずつ高揚し始めていた。哲夫の周囲でも、いろいろな動きが感じられるようになった。
 その頃、「人生手帳」という雑誌が出ていて、その読者会の「緑の会」というのが福岡市にもあった。人生の色々な問題を語り合う人生サークルで、大学生や高校生など、若者たちが中心だった。哲夫もその会に入会し、数人の高校生の友人ができた。そのほかにも、下町に下宿をしていた九州大学の学生たちが指導していた「うたごえ」運動や理論学習運動などに、哲夫も誘われて、時々参加するようになっていた。
 近くの小学校の講堂を借りて開かれていた地域の「うたごえ」サークルの例会には、下町の青年男女たちが百人近くも集まり、活気が満ち溢れていた。コーラスのあとにあるフォーク・ダンスは、特に人気があった。男女がペアを組んで踊るオクラホマ・ミキサーなどは、みんな恥ずかしがりながらも、楽しみにしているようだった。
 また、九大生の下宿で開かれていた理論学習会には、九大の学生を中心にして十数人が参加していた。高校生の哲夫は、そこに参加することで、向学心をいたく刺激されていたのだった。その頃はまだ、公安警察がそういう青年たちの活動を、戦前の特別高等警察や憲兵のように監視していたのだが、哲夫たちは少しも恐れてはいなかった。
 その当時、巷には失業者が溢れており、哲夫は、高校を卒業したあともなかなか仕事がみつからず、小さい印刷会社とか製材所などを転々としていた。そして、酒乱気味の父と喧嘩をした哲夫は、家を飛び出し、間借りをしていた友人の原田のところに転がり込むことになった。間借りとはいっても、土蔵の二階の三畳ぐらいの部屋だった。
 しかし、アルバイト暮らしの原田にも、まともな仕事はなく、臨時雇いの哲夫の賃金も安くて不安定だったので、生活は苦しかった。大衆食堂に行っても、五十円もするラーメンは食べられず、二十円のかけうどんで我慢をした。給料前には、コッペパン一つと水だけの食事ですました日もあった。切羽詰まった哲夫は、何とか安定した収入のある職につきたいと思って国家公務員の試験を受験し、運よく合格することができた。
 昭和三十一年の四月、二十歳のときに、哲夫は、八女市の郊外の丘の上にあった九州郵政研修所に入所することになった。国家公務員四級職試験の合格者のなかから選抜された五十名の研修生が、九州の七つの県から集まって来ていた。研修生の年齢は、十八歳から二十二歳ぐらいまで幅があり、高校を卒業したばかりの丸刈りの純朴そうな青年たちのほうが多かった。なかには、防衛大学を三年生で中退したという経歴の人もいた。
 その当時の研修所は、自由の気風に満ちていて、学園の生活は予想していた以上に楽しかった。教官たちは、研修生たちを対等の紳士として処遇し、寮の生活は研修生たちの自治にまかされているのだった。
 普通部研修の授業は、朝の九時から始まり、午後の三時頃には終了する。そのあとは、自由研修ということで拘束されることはないので、図書室で読書をしたり、スポーツをやったり、田園風景のなかの丘陵地を散策したりした。たまには、八女市の中心の福島の町まで出かけることもあった。
 普通部の研修生は、家が貧しくて大学に行けなかったという人が多かったので、向学心はとても強かった。だが、郵便、貯金、保険などの事業科目の授業の時は、みんな、あまり熱意を示さなかった。しかし、九州大学や西南大学の教授たちによる教養科目の授業になると、みんなの態度は一変して真剣になるのだった。
 大学の教授陣による講義は、経済学、憲法、民法、会計学、近代ヨーロッパ思想史などであったが、みんなも、熱心に質問をしたりして、授業には活気があった。哲夫が、嬉しく思ったのは、九大教授による経済学の講義が、マルクス経済学によるものだったことだった。哲夫は、福岡の下町の経済学学習会で学んだことなどを思い出しながら、あれこれと幼稚な質問を繰り出した。それに対して、その九大の教授は、にこやかに笑いながら、哲夫の稚拙な質問にも丁寧に答えてくれるのであった。哲夫はそのことが、ひどく嬉しかった。そして、その教授は、最初の講義の時に、「私は、九大の学生に対する講義と、あなたたちに対する講義とで区別をすることはしません」と言ってくれたのである。
 寮の消灯時間は十時だったが、図書室は夜も十二時まで利用できたし、その蔵書も驚くほど豊富で、充実していた。哲夫は、天国のように恵まれた環境のなかで、久し振りに気持も安らぎ、図書室で夜遅くまで読書に耽った。
 研修所は、牧歌的な田園地帯の丘の上にぽつんと建っていたので、教育的な意味での環境は素晴らしいと哲夫は思っていたが、ある意味では、世間から隔離されているような感じがしないでもなかった。だから、日曜になると、世間の空気を吸うために、よく福島の町へ出かけた。書店に入って、並んでいる新刊書や総合雑誌を眺めながら、哲夫は世の中の移り変わりを感じ取るのだった。
 その頃、昭和三十一年の二月に開かれたソ連共産党第二十回大会に於ける、フルシチョフ第一書記のスターリン批判の秘密報告が総合雑誌に掲載された。その内容は、非常に衝撃的なものであった。哲夫は、スターリンは好きではなかったが、高校時代に読んだスターリンの著作に感銘を受けたことがあった。それは、「弁証法的唯物論と史的唯物論」という著書で、マルクス主義の哲学理論を簡潔に説明したものであった。それ以来、スターリンに対していくらか好感を持ち始めていたところに、このフルシチョフのスターリン批判である。哲夫の頭も、少なからず混乱した。世界中に衝撃が走り、世界各国の共産主義者たちが右往左往して、激しく動揺している様子が、総合雑誌の誌面からもうかがえた。
 八女の田舎に隔離されているような状態の哲夫は、福岡の友人たちと語り合うこともできないので、この事態について、自分ひとりで、自分の頭で考えて判断するしかなかった。しかし、問題はあまりにも大きく、二十歳の哲夫が自分ひとりの力で考え、問題点について整理をし、理解するということは不可能であった。その頃の哲夫は、思想的には実存主義とマルクス主義のあいだで揺れ動いていた。
 しかしながら、理論学習会や「うたごえ」運動などの影響で左翼青年として成長し始めたばかりの哲夫は、よくは理解できないながらも、何か世界が大きく変り出すような予感のようなものを感じてはいたのだった。
 夏の連休に、哲夫も所属していた山岳部の十名ぐらいのグループで、大分県の久住山に登ったことがあった。そして、法華院温泉の山小屋に泊った夜、大分市から来たという若い女性のグループと、部屋が隣り合わせになった。向こうも、大体十人ぐらいのグループだった。夕食のあと、日頃、研修所のうたごえサークルで歌っている歌をみんなで歌っていると、期せずして、隣の女性たちのグループが、それに唱和してきたのであった。哲夫たちは、意外な成り行きに感激してしまい、より大きな声を張り上げて歌い続けた。
 それからは、もう、両グループの歌合戦のようなことになってしまった。大分県には、有名な宇目の歌げんかというのがあるそうだから、彼女たちは、それを意識していたのかもしれない。
 ロシヤ民謡やアメリカ民謡などのなかから、こちらが、一曲歌うと、そのあと、彼女たちがまた一曲歌うという具合で、延々と歌合戦は続いていった。先に、持ち歌がなくなったほうが負けだという暗黙の了解ができてでもいるかのように、どちらのグループも、懸命に歌を思い出しながら歌い続けるのだった。
 そして、山小屋の夜は更けていき、最後は、両グループ合同の「雪山讃歌」の大合唱で終った。高原の山小屋の、ロマンチックな雰囲気のなかで、若い女性たちと歌を通じて交流できたことが嬉しくて、その夜、哲夫はいつまでも寝付けなかった。
 翌日は、昨夜の若い女性たちのグループと一緒に朝早く山小屋を出発して、久住山に登った。空は素晴らしく晴れ渡り、途中で彼女たちと写真を撮り合ったりしながら、哲夫たちは、浮き浮きした気分で山道を登って行った。
 あの時、久住の山頂から、果てしなく広がっている平野を眺め降ろしていたあの時、これからの哲夫の前途には、広々と開けた未来への漠とした希望のようなものが、確かにあったようだったのだが……。
 一年間の普通部研修制度は、郵政省の本省のなかで、労働組合の活動家養成所になっているのではないか、などと批判が出て、二年後に廃止されてしまった。
 実際に、哲夫たちの同期生の五十名のなかからは、その後、労働組合の活動家や共産党員、社会党員が続出したようである。
 昭和三十二年四月、哲夫が配属された職場は、福岡市の簡易保険局というところで、八百人ぐらいの職員がいた。庁舎のビルは、アメリカ占領軍に接収されて陸軍病院として使用されていたのが、ようやく返還されたばかりだった。大濠公園の傍にある重厚な感じの四階建てのビルは、熊本市に建設される予定だったのを、時の郵政政務次官だった中野正剛が強引に福岡市に持ってきたのだという。
 福岡市出身の中野正剛は、玄洋社の流れを汲む政治家だが、昭和十八年十月に東条の独裁を批判して検挙され、憲兵隊の監視下におかれていた自宅で割腹自殺をした。
 この庁舎の職員食堂がある一階の区画は、死体処理場だったらしく、朝鮮戦争の時はおびただしい数の米兵の死体が運び込まれ、防腐処理をしたあと米本国に送還されていたという。この一帯には、まだ戦争のにおいが残っているようで、深夜の丑三つ時には、米兵の幽霊が出るという噂が流れていた。
 哲夫が所属した労働組合は、戦後の労働運動をリードしてきた輝ける「全逓信労働組合」だった。哲夫は、大いに期待をしていたのであるが、労働組合の実情は全く期待はずれのものであった。
 戦後、ようやく芽を吹き始めたばかりの日本の労働運動は、アメリカ占領軍総司令部のレッドパージ指令によって芽をつまれてしまっていたのだった。レッドパージにより労働組合の活動家たちを追放された職場の空気は、重苦しく沈滞し、淀んでいた。
 哲夫は、労働組合の支部機関誌上に、「サークル運動の退嬰的停滞について」という論文を発表して、問題提起をし、先輩諸氏に論争を挑んだのだが、世間知らずの新入組合員による観念的な議論など相手にもされず、冷ややかな反応で迎えられただけだった。
 職場の組合活動に飽き足りなかった哲夫は、「全逓九州詩話会」というサークルの結成に参加し、その後、詩人の谷川雁たちが結成した九州「サークル村」にも参加した。そして、谷川雁などにおだてられ、「サークル村」という雑誌に幼稚な評論を発表したりした。
 その頃、哲夫は、公安調査庁が張りめぐらしていたクモの巣のような綱に引っ掛かりそうになったことがあった。九州公安調査局の中年の男性職員が、身分を隠して哲夫に接近してきたのである。その男は、喫茶店で雑談などをしている時に、哲夫が所属している労働組合や文学サータルのことなどを、さりげなく聞き出そうとするのだった。
 最初のうちは、哲夫もそんなことにどんな情報価値があるのだろうかと疑問に思っていた。しかし、その男の本当のねらいは、別のところにあったのだった。レッドパージ後の哲夫たちの職場における、共産党の再建状況などを、哲夫から探り出そうとしていたのである。
 哲夫は、何か不気味な、黒い魔の手が伸びてきているような恐怖を感じて、その男との接触を断ち切った。
                                  (3)
                
 宴会は、あまり弾まなかった。集まったのは、四人だけで、それぞれが近況の報告などを話し終えると、もう話題が途切れ、何とはなしの沈黙が訪れるのだった。みんな、間をもてあまして、黙々と料理を口に運び、その合間にはビールのコップを空けたり、煙草をふかしたりしている。哲夫は、そんな気詰まりな空気を痛いほど肌に感じながら、ぼんやりと、過ぎ去った時間の長さを思っていた。
 今日は、青春時代に人生サークルの緑の会を通じて友人になった仲間が、久し振りに集まったのである。久し振りといっても、十数年振りの顔合わせだった。別に、何という目的もなかったのだが、哲夫が、みんなに声をかけて、一緒に食事をすることになったのだ。
 東中洲の川べりにある小料理屋の離れ座敷は、落着いた雰囲気の広い部屋だったが、それが却って四人には広すぎて、何となく落着けなかった。
 「しかし、みんな歳を取ったねえ、あの頃から、もう三十年近くになるんだろう」
 森が珍しくしんみりした調子で言った。
 「うん、我々も、もうすぐ五十だものね。僕なんか白髪もめっきり増えて、此の頃は、肉体的にも精神的にも、つくづく老化を感じるようになってね。組合の活動も、惰性でやっているようなものだよ」
 哲夫が森に同調すると、
 「僕も、最近は全く駄目だね、老眼のせいにして本も殆ど読まなくなってね。酒も弱くなったし、あちこちにガタがきて……」
 小島が、力なくぐちった。
 「おい、おい。敗残兵の集まりみたいじゃないか。あの頃の情熱は何処へ行った?」
 森が皮肉な笑いを顔に浮かべて、みんなを椰撤するように言うと、
 「僕たち純粋戦後派は、老い易い世代だと言われているらしいけど、僕はとっくの昔に、あの頃の情熱なんかなくしてしまったよ。それにしても、世の中は変ってしまったねえ。去年の雪、いまいずこ? というのが、僕のいまの心境だよ」
 と、文学青年だった野村が、自嘲気味の照れ笑いを頬に浮かべながら言った。
 座はまた、白けたようになって、長い沈黙が続いた。みんな、それぞれに自分の思いに沈んでいるようだった。
 「日本は豊かになったというけど、僕は、貧乏人根性がしみついてるのか、いまだにデパートで買物をしたことはないんだよ。買物に行くのは、せいぜいスーパーマーケットぐらいだね」
 と、中小企業の会社に勤めている小島が言うと、
 「僕だってそうだよ、僕もデパートで買物なんかしたことはないね。一本何千円もするようなネクタイなんて買う気になれないものね」
 と、野村も小島に同調した。
 「僕はね、いまでも、無意識のうちに出てくる鼻歌が、軍歌だったりするんだよ。戦後何十年もたっているというのに、頭にしみこんでしまっているんだよね。自分自身に腹が立つけど、若い頃に歌っていたロシア民謡とか革命歌ではなくて、子供の頃に歌っていた軍歌なんだよ、それが。軍歌を歌っている自分に、ふと、気がついて、ほんとに歯がみしたいような気持になるんだよね」
 哲夫が、忌々しそうに話すと、
 「僕も、そういうことはあるよ。いまでも、いくつか軍歌を覚えているものね」
 と、野村が領くように言った。
 若い頃に、よく集まっていたグループが、いつとはなしに解体してしまったあとは、みんな、それぞれ政治運動や労働運動や平和運動などに参加して、それなりに頑張ってはきたのだろう。しかし、中年の入り口にさしかかっているいまのみんなの顔には、重い生活の疲れが滲み出ているようであった。
 「何だか、しんみりしてしまったな。中年男が四人、顔を揃えて、愚痴のこぼし合いかい」
 と、森が皮肉な言い方をして、苦笑した。
 五、六年前に小さな会社を始めたという森は、在日朝鮮人である。昭和三十四年に、北朝鮮への帰国事業が始まった時、彼は単身で帰国する決意をし、このグループで送別会をしたことがあった。東中洲のビヤホールで開いた送別会の席で、若い森は輝いて見えた。「共和国に帰国して、祖国の社会主義の建設に参加したい」と、森は初々しい決意を語っていたのである。
 しかし、家族や親戚から強く反対されたらしく、帰国は取り止めになった。森はその後、日本人の女性と結婚して子供もでき、子供のために、いまは日本に帰化しているのだった。若い頃に、民族虚無主義に陥っている同胞たちを厳しく批判していた森が、挫折してから、どんどんシニカルになっていくのを、哲夫は寂しい思いで見てきた。
 哲夫は苦くなったビールの残りを飲み干し、憮然として白けきった座敷を眺めまわした。今日、集まった中年の四人の男は、多かれ少なかれ、みな挫折体験があったから、意識も複雑に屈折しており、人生に対してもシニカルな見方をするようになっていた。みんなが、おとなになったということだろうかと、哲夫は寂しい思いがするのだった。
 哲夫は、いくらか酔った頭のなかで、数年前の「スト権スト」の闘いをした時の職場のことを、ぼんやりと思い出していた。「スト権スト」というのは、アメリカ占領軍総指令部のマッカーサーの超法規的な命令によって奪われた公務員労働者のストライキ権を、ストライキによって取り戻そうという闘いであった。
 あいまいさが、何とはなしに容認されてしまう日本という国では、憲法第九条第二項に違反する自衛隊という名の「戦力なき軍隊」を、ずっと保持し続けてきた。
 そして、その逆に、憲法第二十八条ですべての労働者に保障されている労働基本権を無視して、占領が終ったあとも、怠慢な歴代政府は、公務員労働者のストライキ権を奪ったまま、放置してきたのである。
 昭和五十年十一月の「スト権奪還スト」の闘争は、この憲法違反の状態を覆すために、国労、全逓、全電通など公労協の労働組合が、まさに、組織の命運をかけて、一週間を越える大規模なストライキで闘った空前の権利闘争であった。しかし、この大闘争は、国民の支持や理解を得ることができずに孤立し、敗北したのであった。いま思い返せば、あの闘争は、日本の労働運動が到達した高揚の頂点であり、また、転換点であったように思われる。
 ストライキ突入の拠点として、本部の指令を受けた哲夫たちの支部も、48時間ストライキの成功のために、支部の総力をあげて取り組んだ。ストライキの前日からは、組合側と当局側のあいだで組合員の争奪戦が始まり、庁舎ビル内には、百名を越える警察機動隊が導入された。
 そして、さまざまな場面で、日頃はあまり目立たない地味な女性組合員たちの、自己犠牲的な精神や英雄主義的な精神が発揮されたのであった。それに引きかえ、少なからぬ男性の組合員は、人間としての誇りや自尊心も失ってしまい、クニャクニャとした優柔不断振りや低劣さをさらけ出してしまった。
 あの感動と感激の数日間に、哲夫は、人間の素晴らしさと、人間の弱さ、醜さなどを、否も応もなく、見せ付けられたのだった。しかし、あの「スト権奪還スト」の闘いに敗北してから、日本の労働運動の衰退は始まったのかも知れないと、哲夫は寂しい気拝で思い返していた。
 更に、時代が移って、昭和六十三年に、昭和天皇が亡くなり、昭和という時代が終った。年号も昭和から平成に変って、時代を把握するのが何となく難しくなった。
 西暦年との換算もややこしくなって、多くの日本人は頭のなかで昭和に二十五年を足したり、平成に八十八年を足したりしながら、どうにかこうにか、西暦年を把握しているというのが実情ではないだろうか。
 哲夫も、古稀の七十歳を過ぎたいまでは、昭和という時代がますます遠くになったように感じられて、二十五年を足したり引いたりして西暦年に直さなければ、ぴんとこないというか、時代を感覚的に掴めないのである。
 哲夫が生まれたのは、昭和十年で、一九六〇年の安保蹄争の時は二十四歳だった。哲夫は、いわゆる、六十年安保世代である。当時、日本平和委員会に入っていた哲夫は、職場に「平和を守る会」をつくり、早くから日米安保条約の改定反対闘争に取り組んでいた。
 また、労働組合青年部の副部長として、哲夫は三池争議の支援のため何度も大牟田市に行った。総労働と総資本の闘いといわれた三池炭鉱の闘争には、全国から多くの労働者が続々と支援に来ていた。
 大牟田市内では、九州各地から大動員された多数の警官隊と、一万人をこえる労働者の大部隊とが、道路をはさんだかたちで対峙していた。流血の大惨事が避けられないだろうといわれていたホッパー決戦が刻々と近づいてきて、三池炭鉱のホッパーの周辺には、緊迫した戦場のような雰囲気が漂っていた。
 安保反対闘争は、この三池闘争とも結びついて、23次におよぶ全国統一行動によって徐々に盛り上がっていき、空前の大闘争に発展したのである。哲夫も、平和委員会や労働組合の活動で、連日のように、街頭署名や集会やデモなどに積極的に参加をした。
 しかし、昭和三十五年の六月十九日午前0時、数十万人のデモ隊が、徹夜で国会を包囲するなか、新安保条約は自然成立をしてしまい、日本の政治の季節は終った。
 政治の季節から経済の季節へと季節はめぐり、日本は、高度経済成長と、労働組合の連合体の「総評」が主導する貸金引上げ闘争、いわゆる、「春闘」の時代へと移行していく。
 しかし、あの激動の、一九六〇年の強烈な経験は、いまも哲夫にとって忘れることのできない青春の記憶として、心の奥底に残っている。だが、あれから、すでに半世紀近い時間が経過しようとしているのである。哲夫は、時間の流れの早さに、深い感慨と寂しさを覚えるのだった。
 戦後の民主主義がもたらしたものには、労働運動や平和運動のほかにも、さまざまなサークル運動があった。哲夫も、地域や職場で、人生サークル、うたごえサークル、フォークダンスサークル、学習サークル、文学サークルなどをつくって活動をしてきた。
 うたごえ運動のブームが去ったあとも、学習運動はなお盛んで、哲夫は、「日本近代史」学習会、「昭和史」学習会、「憲法」学習会、哲学学習会などをつくり、それぞれの学習会で講師の役をつとめてきた。
 戦後の三十年間ぐらいは、そういう民主的な諸運動が盛
んだったのだが、八十年代に入って、日本中がバブル経済に浮かれ出すようになってから、労働運動をはじめ、そのような民主的な運動は衰退していき、サークルなどは殆ど消滅してしまったようである。
 戦前の日本では、「一億一心」とか「一億玉砕」とか、やたら、一億という言葉が使われていたけれども、当時の日本人の人口が一億もあった訳ではなく、これは、植民地の朝鮮と台湾の人たちも勝手に加えて一億人と鼓吹していたのであるが、最近の若い人たちのなかには、六十数年前に、日本が朝鮮や台湾を植民地として支配していたことや、侵略戦争をして、中国をはじめとするアジアの国々に甚大な被害を与えたことなどを、全く知らない人がかなりいるそうである。
 それだけではなく、日本という国が、アジア圏に属していることすら知らない大学生も相当いるのだという。アジアに属していないのならば、日本は一体、どこに属していると思っているのだろうかと、哲夫は、少々、腹が立ってくるのだった。
 かつての日本の支配層は、アジアに大東亜共栄圏というものをつくり、その盟主になる野望を抱いて、アジアの国々を侵略した。だが、その六十数年後の戦後の社会で成長した日本の若者たちは、自分の国が後進的なアジアなどには属していない、と思いたがっているらしいという、この歴史の皮肉に、哲夫は唖然としてしまうのである。
 また、最近の北朝鮮の国情を知るにつれて、日本の国民の多くが北朝鮮を軽侮しているようであるが、いまの北朝鮮の実情は、六十数年前の日本の姿にそっくりだということを知らない人も多いのではないだろうか。
 当時の日本では、知識人や科学者や文学者たちも含め、批判精神を持っていた人は、実に微々たるものであった。殆どの国民が、天皇陛下のためならば、なんの命が惜しかろう、と、判断停止の状態に陥っていたのである。いまの北朝鮮の二千万人の国民が、将軍様のためならば、といって判断停止に陥っている状況とどこが違うのだろうか、と哲夫は思う。
 あなたの個人的な責任はどうなんですか、と問われたことのない日本人は、いまでも、個の責任などということに思い至らないのかもしれない。過去に、日本が犯した侵略戦争や植民地支配について、罪の意識を抱いている日本の国民は、あまりいないのではないだろうか。
 戦場などの現場にいて、日本軍の非道、理不尽な残虐行為などを目撃しているはずの、多くの元兵士たちは、黙して語らず、敗戦後は、家庭で良き父や良き兄を演じてきたのだろう。そして、今更、話してみても、みんなが不幸になるだけだからと自分勝手な覚悟を決めて、口を閉ざし、すべてを墓場まで持って行こうとしているのであろう。こういう日本人を、哲夫は人間として信用できないと、ずっと思い続けてきた。哲夫の周囲にも、このような元兵士たちは結構いたのである。
 一年ほど前の梅雨の時季に、哲夫が、古くからの友人の村田と久し振りに会って、居酒屋で飲んだ時、
 「この頃は、面白いことがなんにもなくなったね」
 とぼやくと、もうすぐ喜寿の七十七歳になる村田は、
 「歳を取れば、面白いことなんてなくなってしまうのさ。だって、面白いことが色々とあったら、なかなか死ねないだろうが」
 と言って、皮肉な笑いを浮かべた。
 「それは、そうかもしれないけど……」
 と、哲夫が同意しかねるように嘆息すると、
 「なんにも面白いことがなくなるから、もう、いつ死んでもいいや、という気分になれるんだよ」
 と、村田は達観したような表情になって言った。
 とはいっても、七十歳になったばかりの哲夫は、まだ、生の終焉としての死を受容できるような心情は、持ちあわせていない。臆病な哲夫にとって、死とは、やはり何となく怖いものであった。
 無神論者の哲夫には、極楽とか天国とかの死後の世界は考えられない。死んでしまえば、灰となり、塵あくたの物質と化して、暗黒の宇宙に投げ出されるだけだろう。
 宗教を信仰している人たちにしても、極楽とか天国というのは、気休め程度のことかもしれないが、たとえ気休めでも、あったほうが楽に死ねるのかもしれない、と哲夫は最近、思ったりするのだった。
 確実にやってくる死というものについて、哲夫はあまり考えたことはなかったのだが、村田と会って以来、時々、自分の死について考えるようになった。夜中にふと、目が覚めて、具体的に自分の死について考え出すと、急に強い不安と焦燥に駆られるのだった。そして、明日にでも身辺整理に取りかからなければならないような切迫感を感じて、眠れなくなるのだった。
 とはいえ、日頃は、死はまだ先のことと考えて、のほほんと暮らしているのも事実だった。こんな世の中には、あまり生きていたいとも哲夫は思っていないのだが、何か面白いことがあれば、もう少し生きていてもいいかなという
ような、かなりいい加減な近頃の暮らしぶりである。
 哲夫が、そのような死とか生とかいうことについて、少しは考えるようになっていた時、加藤司書の菩提寺の節信院の住職から、加藤司書追悼法要の案内状がきた。節信院は、博多区にある有名な聖福寺の別院である。住職の加藤昌弘師は、加藤司書の曽孫にあたる人で、以前、哲夫は節信院に伺って、話をしたことがあった。
 哲夫は、法要などにはあまり関心がなかったが、曽祖母のトワの女としての哀れさなどが思い起こされ、司書の追悼法要に参列することにした。その追悼法要はかなり盛会だったが、参会者の殆どが、高齢者と、保守系の政治家や地元の財界人ばかりで、哲夫は場違いなところに迷い込んだような、強い違和感を覚えたのだった。
 最近、哲夫は、明治維新以降の日本の近現代について、振り返って考えることが多くなった。それは大体、百四十年ぐらいであるが、その前半の八十年間は、まさに、戦争の時代であったといえる。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争、ノモンハン戦争、太平洋戦争と戦争が続いたその時代に、数百万人の日本国民が戦禍によって命を失っている。
 そして、昭和二十年の敗戦以降の後半六十年間は、平和の時代であった。この六十年のあいだには、戦争は全くなかったし、戦禍で命を失った日本国民は一人もいなかったのである。
 これは、アメリカから押し付けられたという「現憲法」の第九条のおかげだと言ってもいいのではないだろうか、と哲夫は考えている。
 ある意味で、この 「六十年の永き平和」というものは、一九四〇年代のアメリカのリベラル派の人たちが、好戦的な日本国民に贈ってくれたプレゼントだったと言えるのかも知れない。
 敗戦後、日本を占領したアメリカの連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥が、「日本人は、十二歳の子供である」と言ったそうであるが、この戦後六十年のあいだに、日本人は、少しは成長しただろうか。

 

 

 

   参考文献
   「あの戦争は何だったのか」(保阪正康/新潮社)
   「『昭和』とは何だったのか」(保阪正康/五月書房)
   「加藤司書の周辺」(成松正隆/西日本新聞社)

 

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