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 夏の果て             伊福満代

 

「遍歴」(宮崎市)41号(2004年06月)

 

推薦 ひわきゆりこさん「胡壷・KOKO」

 

……人間という不可思議なものが、普通の視点で表現されている。

 

  
 豆腐屋が回って来なくなって三ヵ月がたつ。夕食の手を休め、貞夫は耳をそばだてた。耳を澄ましていると、ラッパの音が聞こえてきそうな気がしてどうも落ち着かない。
 テレビからは七時のニュースが流れてくる。茶碗を持ったまま顔を上げると、帰宅したばかりの孫の啓子がじっと貞夫を見つめていた。中学入学と同時にテニス部に入部した啓子は、毎晩帰宅するのは八時過ぎで、この時刻に帰って来るのは珍しい。
「今日は早いな」
貞夫が声をかけると、隣で黙々とご飯をよそっていた美和が、
「お姉ちゃんも気になるのよ。ね?」
いたずらっぽく笑った。
「部活が早く終わっただけよ」
啓子は口を尖らせ、足音をたてて階段を上がっていった。孫たちも気にしてくれているのだ。貞夫は再び耳を澄ました。茶碗を置くとそっと目をつむる。テレビの音が急に小さくなった。台所で鍋を洗っていた妻久枝の水音もぴたりと止んだ。
  背筋を伸ばし、全ての神経を耳に集中させる。
―聞こえたような気がした……―
  貞夫は閉じた瞼の奥の暗闇に身を委ねながらじっと耳を澄まし続けていた。
  毎週水曜日のこの時刻、ラッパの音色を響かせながら豆腐屋がこの辺りを回っていた。大豆の香を残した苦味のある豆腐に孫たちは顔をしかめたが、布目のついた灰色を帯びた肌のところどころに空気を含んで作り出された穴のある、やや硬めの素朴な歯ごたえのある豆腐であった。幼い頃に食べていたようななつかしい味であった。孫たちには評判が悪かったが、貞夫にはささやかな歓びであった。貞夫は毎週豆腐を買い続けていた。
  水曜日になると、今夜は来るのではないかとラッパの音を心待ちにしていた。ひんやりとした静けさが食卓をつつむだけで、今夜も豆腐屋はやって来る気配はなさそうだ。
「やっぱり今日も来ないね」
  黙々と箸を動かしていた美和が、小さな溜息をついた。
「なおちゃんにね、豆腐屋さん最近来なくなっちゃったねって聞いたら、豆腐屋さんがここら辺りを回っていたこと、全然知らなかったよ」
  制服を着替えてきた啓子が食卓につくなりそんなことを言った。
   “なおちゃん”というのは啓子の通学仲間で、国道から入ってすぐの所に住んでいる。貞夫の家は、国道からわき道に入り、保育園や学習塾などを抜け、道が急に細くなった奥まった所にある。貞夫の家から数メートル先は小さな川になり、貞夫の家が行き止まりといったところだ。
「売りに来る豆腐は値段が高いから、なおちゃんちでは買わないんだよ。それにこの時間だし、豆腐を買う人は少なかっただろうよ」
  久枝が啓子の茶碗を載せた盆を持って貞夫の横に座った。
「もっと早く来てくれていたら、夕飯に間に合うのだけどねえ」
  久枝は夕飯の支度を終えた頃にしかやって来ない豆腐屋に不満を抱いていた。作りたての料理を食卓に並べようとする頃、スーパーの倍ちかい値段の豆腐をいそいそと買いに走り、豆腐屋と雑談に興じてしばらく戻って来ない貞夫を快く思っていなかった。
「お父さん、豆腐は明日の分まで十分ありますよ」
  ラッパの音に腰をあげる貞夫に向かって、最初のうちは冷たい視線を投げかけていた久枝であったが、何と言っても喜々として外に出て行く貞夫に、久枝も諦めたようだった。
  豆腐屋がいつからここら辺りを回っていたのか知らないが、貞夫が初めて豆腐を買ったのは去年の夏のことである。

  今でも鮮やかに思い出すことができる。雷鳴とともに突然降りだした夕立がやがてぱたりと止むと、台所の窓に西陽が射し込み、ガラスが紅く輝いていた。
「お父さん、綺麗な夕焼けですよ。虹が出てるんじゃないですかね」
  久枝の言葉に誘われて、縁側でぼんやりと棋譜をめくっていた貞夫は外に出てみた。空を薄く覆っている雲が茜色に染まっていた。見上げていると、ゆっくりと眩しいほどのオレンジへと輝きを増し、それが次第に薄らいで金色に変わってゆく。貞夫はじっと空に見いった。生暖かい夕立の匂いが心地好く貞夫の身体を包んでいた。
  その時、最近ではついぞ耳にしない豆腐屋のラッパの音が聞こえてきた。黄昏の空に響くラッパの音は、まっすぐに貞夫の耳に飛び込んできた。澄んだ音色は、幼い頃リヤカーにブリキの箱を重ね、真四角に切った豆腐を並べて売っていた豆腐屋を思い出させた。茜色の夕焼け、豆腐屋に駆け寄って残りの豆腐の数を当てっこしあった子供の頃。
  貞夫がなつかしい思いで音の方に目を向けると、白いワゴン車が近づいてきて、貞夫の目の前で停車した。車体の上にスピーカーが載っており、止まった後もラッパの音色が流れている。窓には『豆腐一丁、百二十円』とマジックインキで書いた貼り紙がしてある。
  白いゴム引きのエプロンを付けた、小柄な白髪の老人が車から降りてきた。
  老人は車から降りるなり、じろっと貞夫を一瞥した。豆腐屋にしては険しい視線であった。客かどうか判断しているのだろうと貞夫は軽くその視線を受け止めた。豆腐屋は表情を和らげ、
「こんばんは。まだ厚揚げも残っております。ご覧になられますか?」
 穏やかな口調で荷台を開けた。貞夫がつられるように覗き込んでみると、水の張られた深いプラスチックのケースが二つ並んでいた。一つは空で、もう一つに豆腐が三丁沈んでいた。
「じゃあ、一丁いただこうかな」
 貞夫が豆腐を指差すと、
「お皿かボウルを持って来ていただけませんか。ビニール袋をきらしてしまったものですから」
  豆腐屋は済まなそうに言った。貞夫が家に駆け込んで台所の流しに置いてあったステンレスのボウルを?み、小銭が入っている水屋の棚の空箱から百円玉を幾つかポケットに入れ玄関を出ると、じっと貞夫の家を見つめている豆腐屋の姿が目に入った。
  いつの間にか豆腐のラッパの音はやんでいる。その時家の二階から、啓子と美和の騒いでいる声が聞こえてきた。
「お孫さんですか? 賑やかでいいですな」
  豆腐屋がにこりと微笑んだ。白髪を短く切り揃え、小さな老斑が顔中を占める老人はかなりの高齢に見えたが、貞夫を見つめる目は生き生きと光が満ち溢れている。案外自分と同じような年代かも知れない。
「豆腐屋さんはお幾つですか?」
  貞夫が豆腐屋に問いかけると、豆腐屋は幾つに見えますかねえと微笑みながら、逆に貞夫の年齢を聞いてきた。
  貞夫が六十四歳だと答えると、豆腐屋は自分が七歳上になるな、と目を細めた。
「お孫さんと同居されているのですか?」
  外にまで響いてくる孫たちの甲高い声に、貞夫が恥ずかしそうに頷くと、
「三世帯同居ですか。今時珍しいですな」
  豆腐屋が感心したように言うので、
「長男が離婚しましてね。子供は息子が引き取ったものですから」
  貞夫が、毎日うるさくてたまらないと愚痴ると、
「お孫さんと一緒に暮らしておられるなんて、羨ましいかぎりですな」
 豆腐屋はぽつりとつぶやいた。
「おたくはお孫さんは?」
  貞夫が尋ねると、豆腐屋はボウルを受け取るなり、貞夫に背を向けケースに手を伸ばした。
「一人息子を亡くして二十五年になりますな」
  豆腐をすくう老人の肩が僅かに震えて見えた。貞夫は気まずくなり、掛ける言葉が思い浮かばなかった。
「じゃあ、お孫さんの分もサービスしておきましょう」
  豆腐屋は笑顔で振り返り、豆腐三丁の入ったボウルを貞夫に戻した。
「今日はこれで完売!」
  豆腐屋は嬉しそうに荷台を閉めた。貞夫はポケットから百円玉四個を取り出し差し出した。渡そうとするが、豆腐屋はどうしても一丁分の代金しか受け取ろうとしない。
「また水曜に回って来ますので、よろしくお願いいたします」
  貞夫に向かって丁寧に頭を下げた。貞夫は礼を述べると、豆腐屋の車が家の前の空き地でUターンし、戻って行くのをそのまま見送った。薄闇の中、車は静かに角を曲がっていった。手にしたボウルはずっしりと重く、豆腐も三丁にもなるとこれほど重いのかと驚いた。
  これまで夕飯のおかずなど買ったこともない貞夫は、妙にうきうきした気分になった。
「豆腐を買ったぞ」
  大声で叫びながら家に入った。
  豆腐は弾力に富み歯応えがあった。豆乳が濃いからなのか、深い旨味が舌に残る。いつもは生姜を磨り下ろしネギを載せ醤油をかけて食していた貞夫だったが、試しに何もつけずに口に含んでみると、幼い頃祖母が作っていた豆腐と同じ酸味を帯びた大豆の匂いが鼻腔をくすぐり、なつかしい味がした。台所で大豆を丁寧に洗っていた祖母の後ろ姿が瞼に浮かんだ。水に漬けてある大豆をかき回してはよくしかられたものだった。思い出すこともなかった記憶が次々に蘇り子供の頃に戻ったような気持ちがした。飾り気のないさっぱりとした味わい。
  貞夫はそれから豆腐屋が来るのを心待ちにするようになっていった。
  ―毎週水曜日に―
  その言葉どおり、豆腐屋は水曜の夜七時くらいに必ずやって来た。豆腐屋は訪れるとしばらく立ち話をしてから帰るようになり、貞夫と老人は次第にお互いの話をするようになっていった。
  老人は息子を亡くしてから豆腐屋を始めたこと。それ以前は農機具の営業をしていたことなどを語った。奥さんの実家が豆腐屋を営んでおり、義父が病で倒れた後、会社を辞め豆腐屋を継いだのだという。
「一人息子に死なれ心にぽっかりと穴があいてしまって、とても営業など笑ってやれる心境ではなかったですね。ちょうど農機具も次々に多様化し、営業も難しくなってきたので潮時だと思いましてね」
 豆腐屋は煙草を取り出すと、美味そうに一服した。
「最初は軽い気持ちで姑の手伝いを始めたんですが、豆乳とにがりの微妙な混ぜ具合で全く違った味になるのがおもしろくなりましてね。そのうち私が跡を継ぐことにしました。家内は一人娘だったので、家内の両親は大変喜んでくれましたよ。何も考えずにひたすら豆腐作りに向き合うことで、私もいろんなことを忘れることができましてね。抑えようのない他人様への恨みつらみ、己の無力さへの悔しさなんかをどうにか誤魔化すことができたのですよ」
 言い終ると豆腐屋は、長くゆっくりと煙を吐き出した。貞夫は豆腐屋の語る言葉に彼の人生の暗部を感じ取り、自分の心も重く沈んでいくようであった。豆腐屋が話題を変えるように貞夫に尋ねた。
「金谷さんは何のお仕事をされておられたんで?」
「中学校の教師でした」
「先生でしたか。そりゃあ、生徒さんから慕われる先生だったんでしょうなあ」
  豆腐屋の言葉に、貞夫は顔を赤らめた。温和な顔立ちの貞夫は生徒の初対面の印象は悪くはなく、大声で生徒を怒鳴りつけることも少なかったので生徒からあからさまに嫌われることはなかった。かといって、熱心に子供たちの話に耳を傾け、生徒の信頼を得ようともせず、次第に生徒から、何を考えているのか分からない先生という評判に落ち着くのが常であった。
「私もどちらかというと人間相手の仕事は苦手でして。なんで教師になってしまったのだろうかと、何度も後悔しましたよ。退職して様々な“しがらみ”から解放され、正直ホッとしました」
 貞夫はつい本音を打ち明けていた。
「ほう、そうなんですか」
 豆腐屋は新しい煙草に火を点けながらじっと貞夫の目を見つめた。もう一本煙草を取り出し、
「どうして金谷さんは教師という仕事を選ばれたんです?」
 貞夫は言葉に詰まった。夕闇が忍び込み次第に豆腐屋の姿が影になりつつあった。秋めいた虫の声も草むらから聞こえ始めていた。

  貞夫は七歳の夏、激しい機銃掃射で妹を失った。
  日本の敗戦が次第に囁かれ始めたあの夏、貞夫が住んでいた大手化学工場のある街は度々激しい空襲を受けていた。攻撃は工場中心だったので、空襲警報にも次第に慣れっこになっていた貞夫は、その日の攻撃も工場周辺だけで終わると甘く考えていた。だが、爆撃の音が貞夫の住む街はずれにも及び、貞夫は慌てて四歳の妹を背負って防空壕への道へと走り出した。家から裏山の防空壕までは百メートル足らずであった。防空壕まであと少しという所で、貞夫は妹の重みに耐え切れず転んでしまい、貞夫が倒れた拍子に、妹は貞夫の背から道の真ん中へと投げ出された。機銃掃射はすぐ後ろから迫っていた。貞夫が起き上がる間もなく、不運にも銃弾が妹の小さな心臓を撃ち抜いていた。あっという間の出来事であった。貞夫は呆然と遠ざかる爆音を聞いた。土埃にまみれた小さな妹の身体はぴくりとも動かなかった。
  貞夫は一瞬のうちに短い人生を終えてしまった妹が不憫でならず、自分の不注意で妹を守りきれなかった悔しさは深く心に沈み込み重く貞夫を押さえつけた。どうして自分だけが生きているのか、何もする気になれない日々が続き、やがて呆気なく戦争が終結し、進路を決めなければならなくなっても、貞夫は自分が何をしたいのか、何をすべきなのか全く考えられなかった。見かねた貞夫の担任が、貞夫に教師になったらどうかと勧めた。心に闇を抱く貞夫に、同じように闇を抱え苦しむ子供たちの為に、何か力になってやれと励ましたのだ。
「誰かを失う苦しさは、失った者じゃないとわからないんだからな」
  その言葉に背中を押されて、貞夫は、代用教員から教師としての道を進み始めた。だが、貞夫は自分の歩いてきた道が、臆病な生き方だったと思えてならない。
  教師生活は煩わしいことばかりであった。教師同士の教育方針の違いによる摩擦。校長派か教頭派かの派閥争い。何事にも積極的になれず、揉め事にはできるだけ関わらないようにし、他人と衝突することがないように気を配りながら、黙々と黒板に教科書の文字を写していた。
  生徒の名前を覚えても、次のクラスを受け持つと、すぐに以前のクラスの生徒の顔と名前は薄れてゆき、学校が異動になると、道で会っても全く気付かず、向こうから声をかけられてひどく狼狽することがあった。自分の受け持ちの生徒に対しては一生懸命になれても、自分の手を離れると、どれほど必死に関わった生徒であっても、もう自分の手を離れたという思いがし、それ以上関わる気持ちになれなかった。担任の言葉でこの道を歩き始めた貞夫は、自分の発する言葉が生徒に影響を与えることが怖くてならなかった。生徒から頼られ、生徒が貞夫の言葉を指標にして物事を決めることが恐ろしかった。
  貞夫の臆病さを誰よりも見抜き、忌み嫌ったのは貞夫の息子修司だった。
  修司は小学校高学年になると、さかんに意見を父親に求めるようになった。修司は細やかに周りの人の気持ちを汲み取ることができる、正義感の強い子供だった。友達がいじめられたりすると、自分の方が弱いとわかっているのに向かっていっては怪我をして帰って来ることもたびたびであった。
「だって友達がいじめられてるのに、見て見ぬふりはいけないよね」
  疵だらけになりながらも平然と言い放つ修司に、
「でも常識として喧嘩はいけないぞ」
  貞夫が軽く戒めると、修司は不服そうに?をふくらませた。
「あいつらの方からしかけてきたんだよ。悪くないのに一方的にいじめてきたのなら、こっちだってやり返して当然だよ」
  修司は自分が理不尽だと思えば、賛同する者が一人もいなかったとしても、きっぱりと主張できる子供であった。修司は貞夫の “常識”という言葉に露骨に顔をしかめていた。
  幼い頃は教師としての父親に、大きな信頼をよせていた修司であったが、貞夫の曖昧な意見に次第に歯向かうようになっていった。
「僕が聞きたいのは常識としての意見じゃないんだよ。父さんの意見なんだよ!」
  そう声を荒げるようになった。中学生になると、その年の受け持ちの生徒からしか年賀状が届かない父親に冷たい目を向けるようになり、何も話そうとはしなくなっていた。修司が自分から離れていくことに気付いていた貞夫であるが、だからといってどうすることもできず、息子とは距離が開くばかりであった。高校を卒業した修司は貞夫から逃げるように県外の大学に進学し、卒業後地元の損害保険代理店に就職しても、自分でアパートを借りて生活を始めた。修司の離婚した妻が子供を放棄し、修司が子供を引き取ることにならなければ、決して修司は実家に戻ったりはしなかったであろう。今一緒に生活しているとはいえ、貞夫はほとんど修司と言葉を交わすことはなかった。

  急に押し黙った貞夫を、探るような豆腐屋の眼差しが捉え続けていた。慌てて何か答えようとした貞夫に、
「気がついたら思いもしなかった生き方をしてることがありますな」
  豆腐屋は笑みを浮かべながら勝手に頷いた。
 豆腐屋は、マイルドセブンを取り出しその一本を吸いながら、雨の日以外貞夫と他愛の無い話をしては帰って行くようになった。天気の話、国産大豆の暴騰から遺伝子操作された食物について、ニュースで報じられる凶悪な殺人事件、四年ぶりに行われる知事選のことなど、話題はその日その時思いついたことを言い合うだけであったが、貞夫にとっては丁度いい話し相手だった。愚痴を語っても、軽く聞き流してくれる。共通の知人がいるわけでもないので、お互いに語り合ったことは、それぞれの間だけで他の誰かに伝わることもない。変に気遣う必要もなく、何を言っても「なるほど、なるほど」と頷いてくれる豆腐屋は、格好の話相手だった。
  ―こうして客と親しげに言葉を交わしながら固定客を獲得していくのだろうか―
  客を得るための作戦かと意地悪く考えたりもした。が、貞夫と同じくらい他の客と話し込んでいたら、さっぱり売上はあがらないだろう。我が家が一番最後だから落ち着いて話もできるのだろう。貞夫はいつも二つ三つしか残っていない豆腐をボウルにすくってもらいながら、豆腐が貞夫の家まで売り切れずにいることに感謝するのであった。豆腐が完売していたことは一度もなく、僅かな豆腐がいつも残っていた。貞夫は、豆腐屋が貞夫の分の豆腐を残しておいてくれているのかも知れないと感じていた。

  一年あまり通ってきた豆腐屋が、四月に入ってから急に来なくなった。
  いつものように、玄関に豆腐用のボウルを用意してラッパの音を待っていたのだが、八時を過ぎても姿を現さない。ひょっとして今夜は完売して来ないのか。売り切れたのなら、今夜は売り切れてしまいましたと教えに来てくれればいいものをと、貞夫は腹立たしく思った。
  ―次に豆腐屋が来るまで、また一週間待たねばならないのか―
  貞夫は自分がどれほどあの豆腐を心待ちにしていたか、初めて気付かされた。
  だが、心待ちにした一週間後も、更にその翌週も豆腐屋は訪れることはなかった。
「やっぱりあの豆腐がいいよな」
  ―豆腐屋に何かあったのかも知れない―
  そんな思いを抱きつつ、貞夫は食卓にあがった冷奴に箸を入れる。久枝がスーパーで買ってきた豆腐はとても柔らかく、箸でつまもうとしてもすぐに壊れ、口の中に入れるとドロッとした不快な感触がした。以前は平気で毎日こんな豆腐を食べていたのだ。豆腐を箸の先でつつく貞夫は、なかなか食が進まない。
 料理は五人分並べられているのだが、試合をひかえた啓子はまだ帰って来ない。
「たまには子供たちと一緒にご飯くらい食ってやれよ」
  出勤前に貞夫が思い切って声をかけると、息子の修司は、
「わかってるよ。今日は早く帰るよ」
  投げやりにそう言って出て行ったのに、 “遅くなる”の電話さえ寄越さずにいる。美和がちらちらと貞夫をうかがいながら黙々と箸を動かしている。
「お父さん、あの豆腐屋さん、何処にお店があるのか知らないんですか?」
  久枝がいらいらした調子で口を開いた。
「スーパーの豆腐が嫌だったら、自分でその店に行って買ってきたらいいじゃないですか」
「そうだな、店に買いに行けばいいんだ」
「おじいちゃん、豆腐屋さん何処にあるか知ってるの?」
  美和がすかさず尋ねて無邪気に貞夫の顔を覗き込んでくる。そう言われれば豆腐屋の店の名前も分からない。
「いつも回って来てたんで、そんなこと聞こうとも思わなかったな」
「車のどこかに店名が書いてありませんでしたか?」
  久枝が呆れたように言う。懸命に車を思い浮べてみるが、真っ白な車体と屋根に取り付けられた古ぼけたスピーカーしか思い出せない。
「でも、うちに来るぐらいなんですから、そう遠い店ではないはずですよ」
  久枝はあっさりと言い切った。豆腐屋が何処から来ていたのか貞夫は見当もつかなかった。
「一番近い豆腐屋は何処だ?」
  自転車であちこち友達の家に遊びに行っている美和に尋ねた。
「小学校のバス停のそばにあるよ。あ、郵便局の先にもあったなあ」
  郵便局は国道ぞいにあるので家から十分とかからず少し近すぎる気がする。一方美和が通う小学校のバス停の近くなら、この辺りまで豆腐を売りに来てもおかしくはない距離である。
「バス停は、学校の北門の方だったな」
  貞夫は美和に念をおした。
  
  一週間で貞夫は、八軒の豆腐屋を回った。小学校のバス停の前にある豆腐屋の店主は、体格の大きい声の太い中年の男だった。店に入って何も買わずに出て行くのもはばかれて、貞夫は仕方なく一丁買うことにした。
「うちは国産大豆の手作り豆腐だよ」
  あの豆腐屋と似ても似つかぬ店主は、自信満々にそう言って豆腐を渡した。その日の夕食の食卓にのった豆腐は、百五十円の値段のわりには水っぽく、美味いとはとてもいえなかった。
  翌日には、美和が話していた郵便局の先の豆腐屋も覗いてみた。店主は四、五十代、愛想のいい痩せた男で、ガラスケースにパック入りの豆腐が、九十円と値札を貼られて並んでいた。貞夫が買っていた豆腐の三分の二くらいの大きさだ。曇ったガラスの向こうに貧弱に並んでいるその豆腐に買う気も失せて、貞夫はそのまま家に引き返した。宮崎市内には一体豆腐店が幾つあるのだろう。帰路、ほとんど人影も見えない住宅地を通りながら、貞夫はふっと思った。
  家に帰るなり、貞夫はタウンページをひろげた。二十五軒の豆腐店が掲載されていた。
  ―この中のどれかに、あの豆腐屋があるはずだ―
  貞夫は無性にあの豆腐が食べたかった。あの歯ごたえ、匂いが恋しかった。思えば思うほど食べたくなってくる。貞夫はメモ帳を破ると、豆腐店の名前と住所を一軒一軒写していった。翌日を待って、家に近い所から、早速豆腐店を回り始めた。
  ―何軒か回れば、いずれあの豆腐屋にたどり着くことができるだろう―
  簡単に考えていた貞夫は、家が宮崎市の中央を流れる大淀川より南側に位置するので、まずは川より南にある豆腐店を回ってみることにした。しかし、南側の全ての豆腐店を訪ねても、あの豆腐店を見つけることができなかった。
「早く豆腐屋さん見つけて貰わなきゃ、たまったもんじゃないわ」
  麻婆豆腐に揚げ豆腐、冷や奴と毎晩豆腐のメニューが続くのに美和が悲鳴をあげた。
「一体どんな豆腐屋さんだったの?」
  日頃父親に向かって反抗的な態度をぶつけている啓子も興味を持って口を挟む。啓子と美和は貞夫から豆腐屋の容貌、車について詳しく聞くと、それぞれ学校の友達に聞いてみてくれた。貞夫が驚いたことに、周囲であの豆腐屋から豆腐を買っていた家はほとんど無かった。美和の話では、クラスメイトの誰もが豆腐屋が回っていること自体知らなかったという。夜の七時過ぎなら、大抵の家はちょうど夕飯の頃だ。どこか一軒くらいは、豆腐屋のラッパの音を耳にしていておかしくないはずである。啓子が直接同級生のなおちゃんの母親にも尋ねてみてくれたが、家族の誰も豆腐屋が毎週訪れていたことを知らなかった。
  たかだか豆腐屋のラッパである。興味のない音は、意識しないと耳にも入ってこないものなのかも知れない。これだけ誰も豆腐屋の存在を知らないでいたのなら、豆腐が売れるわけもなく、来なくなるのも当然だと貞夫は溜息をついた。
  貞夫は、大淀川より北側の豆腐屋へも足を運ぶようになった。
  ―今日もまた見つけられなかった―
  失意の日ばかりで、あてどもなく豆腐屋を探し続けている自分に、虚しさがよぎることも少なくなかった。
  真夏の炎天下、汗をたらしながら自転車をこぐ父親の姿を見たら、修司はどのように受け止めるだろう。自分に向けられる蔑んだ眼差しを思い浮かべると、豆腐屋を探すことは止めようかと何度も思った。それでも残った豆腐屋のメモを見ると、ついあと一軒、もう一軒……と回らずにはいられなかった。
  ―もう一度あの豆腐を手にしたい―
  そうすれば……と貞夫は、淡い決意をそこにかけている自分自身に半分呆れながらも、哀れみを覚えてならなかった。貞夫は諦め切れず豆腐屋を回り続けた。
  貞夫がメモに記された最後の豆腐屋に足を向けたのは八月の半ばのことであった。
  灼熱の太陽に、アスファルトを溶かすような熱い陽射しが、足元からも熱風を立ち昇らせていた。流れる汗が目に入ってヒリヒリする。貞夫は信号で停まるたびにタオルを取り出し汗を拭うが、自転車を一足一足こぎ進むにつれ汗は噴出してきりがない。
  ―これが最後だ―
  繰り返し自分に言い聞かせながら、ペダルを踏み込む。
  やがて、古ぼけた小さな家に『豆腐』という看板を見つけた時には、貞夫は大きく肩で息をついていた。期待と不安を抱きながら、『豆腐』と書かれた暖簾をくぐった貞夫は、白い割烹着姿の年老いた老婆に迎えられた。わずかに胸をおどらせながら店内を見回すと、『手作り豆腐八十円』の張り紙が目に飛び込んできた。そのとたん、貞夫は軽い眩暈に襲われた。思わず床にしゃがみ込むと、
「お客さん、大丈夫ですか?」
  老婆が心配そうに声をかけてきた。
「すみません。大丈夫です……。ちょっと暑さにやられたみたいで。少し休ませていただけますか……」
  慌てて老婆が持ってきてくれたスチール椅子に倒れるようにして座り込むと、貞夫は深く溜息をついた。
「今日は特に暑いですからねえ」
  老婆がコップを差し出してくれた。
「どうもすみません」
  表面が水滴に覆われたコップには、地下水を汲み上げたらしいひんやりとした水が入っていた。貞夫は、一息に飲み干した。喉を冷たい水が流れていくのが分かった。貞夫は大きく肩を落した。空になったコップを手に、なかなか立ち上がることができなかった。
  
  市内の全ての豆腐屋を回り終えた貞夫は、目標を見失った。教員時代に唯一夢中になっていた名勝負と呼ばれる棋譜を再び開いてみても全く目に入らず、縁側でぼんやりと座り込むことが多くなった。豆腐屋を見つけたいという情熱が急速に萎え、所詮自分は何もできない人間だと再び闇の中に落ち込みつつあった。
  日曜の夕方、貞夫は縁側で将棋板を持ち出し棋譜を開いたものの、勝負の行方どころか、指す手が全然頭に入ってこず、ぼんやりと駒を手に握り締めているだけだった。
「おじいちゃん、ただいま」
  その時、玄関に賑やかな声がした。修司とプールに出掛けていた美和と啓子が戻って来たのだ。そうか、夏休みも、もう終わりなんだな。
 真っ黒に日焼けした顔で美和が縁側を覗き込む。
「お帰り。楽しかったかい?」
「うん、とっても面白かったよ」
  美和の後ろから、久しぶりに修司も顔を出した。
「親父、何してるんだ?」
  今年係長に昇格した修司はいつも帰宅するのは真夜中を過ぎ、ほとんど顔を会わすことはなかった。
「おじいちゃん、豆腐が食べれないから最近元気ないのよ。あちこち探し回ったけど見つからなかったんだって」
  美和が言うと、
「ああ、うちに来てた豆腐屋か……」
  修司が一瞬顔をしかめた。
「なんでたかが豆腐屋にこだわるんだよ」
 修司は不快な表情で貞夫を見つめていた。貞夫は穏やかな心持で真っ直ぐに息子の眼差しを受け止めた。
「どうしてだろうなあ。自分でもわからないんだが、妙に気にかかる豆腐なんだ。俺を変えてくれそうな気がする豆腐とでもいうか……」
 お前にはわかってもらえないだろうという言葉を飲み込んで貞夫は口を噤んだ。
 修司はまじまじと貞夫の顔を覗き込んでいた。不思議と修司の視線が煩わしくはなかった。いつの間にか目じりに深い皺を刻み、肉付きの増した?の息子に、過ぎ去った時間を感じた。だが、貞夫をじっと見つめ続ける修司の瞳は、少年の頃、真っ直ぐに父親を見上げていた眼差しと同じ気がした。貞夫はその強い視線に、ふと笑みを返した。
  一瞬戸惑ったように瞬きした修司は、その後深く溜息をついた。黙ったままの二人を、美和が不安気にちらちらと伺っている。
  やがて、修司はつぶやくように言った。
「佐土原駅近くの豆腐屋だよ」
「何なのよ! お父さん、あの豆腐屋さん知ってたの?」
  美和が膨れっ面で叫んだ。修司は気まずそうに貞夫から視線をそらし、
「前に保険に入って貰ったことがあるじゃないか。書類の住所が佐土原だった」
  貞夫はすっかり忘れていた。そう言えば、息子が損害保険の仕事をしていると話した時に、豆腐屋が来月で車の保険がきれるというようなことを言った。毎日豆腐を売りに回っていると、いつどんな事故に遭うか不安だから、知った人のもとで保険に入りたい。次の切り替えの時、息子さんに手続きをお願いしてもいいだろうか。そんな経緯があって、修司に頼んで早めに帰宅させ、豆腐屋と話をさせたことがあった。
  佐土原町は宮崎市外の北部に位置する町で、貞夫の家まで来るとなると、一時間ちかくかかる。
「佐土原からここまで来てたのか?」
  貞夫は驚きを隠せず声高に尋ねた。
「そうさ。佐土原からわざわざうちまで来ていたのさ」
 言い捨てて修司はさっさと自分の部屋に上がって行った。
 修司はそれきり夕飯にも下りてこなかった。翌日は朝食もとらず出勤したらしく、貞夫が起きた時はいなかった。
  
  タウンページを開いて、佐土原駅の近くに『ひらが豆腐店』という名前を見つけた。まずここに間違いないだろう。貞夫は早目に昼食を済ませ、ハンドルを握っていた。
  念のため駅近くの派出所で店を尋ね、場所を確認した。教えられた信号を左折すると、大きな楠の向こうに『ひらが豆腐店』という目新しい看板が目に入った。木造二階建ての店を兼ねた家、最近外装をやり直したらしく、きれいにペンキが塗られてあり、店の横に屋根にスピーカーの載った見慣れた車が停まっている。
  店の前のスペースをふさぐようにして車を停める。貞夫はハンドルを握ったまま、しばらくなつかしい車をじっと見つめていた。車を降りたもののいざ店の前に立つと、ここまで来てしまった自分を快く迎えてもらえるかどうか急に不安にかられ、そのまま足が進まなかった。しばらく店の前で佇んでいると、ふと後ろに人の気配を感じて振り向いた。
「あっ」
  と声がして、老婦人が手にした買物袋を落とした。袋の中の桃が二、三個貞夫の方に転がってくる。貞夫は無意識に桃を拾い上げ、老婦人に差し出した。白髪をきれいにまとめ、薄紫のブラウスの上品な老婦人は、それを無視してじっと貞夫を見つめている。貞夫が差し出した腕を宙に浮かしたまま、目をしばたくと、
「一体どういう御用ですか」
  やや上ずった声で老婦人が尋ねた。
「こちらの豆腐店の方ですか? 私は、毎週水曜日にうちに豆腐を売りに回っておられた豆腐屋さんを探しておりまして……」
「豆腐屋さんを探して?」
  老婦人は貞夫の言葉を繰り返した。
「ご主人はおいででしょうか?」
  老婦人は相変わらず身動きもせず唇を噛み締めて貞夫を見つめている。しばらくしてつと目をそらすと、老婦人はゆっくりと店の方へと歩いて行き、豆腐店のガラス戸をがらりと開けた。貞夫は桃を手にしたまま慌ててついて行く。
「あなた、金谷さんが豆腐屋さんを探しにみえたそうよ」
  貞夫は驚いて顔を上げた。
  ―どうして私の名を?―
  貞夫は呆然と入り口に立ちつくしている。店内は薄暗く、セメントの土間に水の入ったケースが並び、クーラーの冷たい空気が?を撫でていった。ケースを覗くと見慣れた四角いごつごつした豆腐が見えた。
  老婦人は足早に土間を進み、開いたままの奥の障子に向かって再び声高に言った。
  「あなた、金谷さんよ」
  老婦人はそのまま、さっさと障子の向こうに姿を消した。貞夫は戸惑いながら老婦人の後ろ姿を見送った。入れ替わりにあの背の低い豆腐屋が、白い肌着のまま姿を現した。暗い室内でも頬に占めている老斑が浮き出て、目元も腫れているような気がした。貞夫が無意識に豆腐屋の身体に病の影を探していると、豆腐屋はきちんと切り揃えた短い白髪を掻きながら、ばつが悪そうに貞夫に微笑んだ。
「わざわざこんな所までおいでいただいて」
 豆腐屋は以前と変わらない、張りのあるしっかりとした声で丁寧に頭を下げた。
「いえ、私こそ勝手にお店まで押しかけてしまいすみません。待っていても来られないものですから。こちらから伺ってしまいました」
 貞夫も慌てて頭を下げた。手にしたままの桃をそっと豆腐屋の方に差し出す。白く柔らかな桃の下半分は潰れて赤茶色に変色し、甘い匂いが漂った。豆腐屋は、傷んだ桃に惜しむような視線を投げかけ受け取った。
「狭い所ですが、どうぞこちらへ」
 貞夫に部屋に上がるよう勧めた。貞夫は誘われるまま土間で靴を脱ぎ、障子の奥の座敷に上がった。
  八畳程の座敷は、中央にちゃぶ台が置かれ、綺麗に整頓されていた。
「よくおいで下さった」
  柱の影で豆腐屋の表情は見えない。でも、その穏やかな口調に貞夫はホッと胸を撫で下ろした。
「いらっしゃらないと、あの豆腐が無性に恋しくなりましてね……。市内の豆腐屋をあちこち回りました。今年の夏は毎日豆腐ばかり。でも、やっぱりこちらの豆腐に敵うものはなかった」
 貞夫の言葉に、
「そうでしたか」
  豆腐屋が嬉しそうに頷いた。差し出された座布団に腰を降ろすと、隣の部屋に黒塗りの仏壇が見えた。中央に飾られた小さな遺影から、学生服の若者が恥ずかしげに微笑みかけていた。
「中学二年でした。もう二十五年になります」
  豆腐屋が穏やかな口調で言った。そういえば一人息子を亡くしてから豆腐屋を始めたと語っていた。
  二十五年前に中学二年……修司と同じくらいだ。  
  遺影の写真に、中学時代の修司の顔が重なる。中学に入ったばかりの頃の修司は、まだ貞夫を慕ってくれていた。一緒にイカ釣りに行ったこと、韓国(からくに)岳(だけ)に登ったこと。すっかり忘れていた坊主頭の息子と過ごした日々がなつかしく浮かび上がった。
  ―お孫さんと一緒に暮らしておられるなんて、羨ましいですよ―
  豆腐屋の言葉がしみじみと浮かんできた。貞夫がどのように言葉を続ければいいかわからないまま顔を上げると、豆腐屋の困惑した表情が目に入った。
  婦人が部屋に入って来て、豆腐屋の横に座った。貞夫は婦人の冷たい視線を感じて顔をそらした。すりガラスの窓を塞ぐように仏壇の向かいに色褪せた箪笥が置かれていた。うす暗い澱んだ空気に貞夫は息苦しさを感じた。
「おい、お茶でもお出ししないか」
  豆腐屋が妻に振り返って促した。婦人はちらりと貞夫の方を流し見て、憮然とした顔で出て行った。
「すみませんね。気が利かなくて」
  豆腐屋が苦笑いを浮かべた。貞夫は妙に居心地が悪く、落ち着かない。豆腐屋の視線がなぜか不快にからみついてくる。貞夫は不安にかられた。この重苦しさは、以前どこかで感じたような気がしてならなかった。
  ―何か大事なことを忘れているような気がする―
  目の置き所に迷っていた貞夫は、アッと遺影を振り仰いだ。

  二十五年前、久枝が震える声で職場に電話してきた。七月半ば、土曜日で午前中の授業を終え、貞夫は夏休み用のプリントを作成している最中だった。
  取り乱す久枝の途切れ途切れの言葉を繋ぎ合わせ、貞夫はやっと修司がクラスメイトと海に出掛け、波にさらわれたことを知り愕然となった。幸い修司は自力で浜にたどり着いたと聞きホッとしたものの、友達二人がまだ行方不明であることを告げられ、貞夫は急いで学校を飛び出した。
  海岸に着くと貞夫は、消防隊員やサーファーの姿の中に、夢中で息子の姿を探した。波打ち際で身じろぎもせず海を凝視している子供たちの中に修司の姿を見つけ、貞夫は駆け寄った。
「良かった。お前が無事で本当に良かった」
 後ろから毛布でくるまれた身体を強く抱きしめる。修司は
ガタガタと震えていたが、貞夫を睨みつけ、その手を激しく
振り払った。
「良かっただと。まだ見つかってない奴らがいるんだぞ」
  毛布を振り払い、両手の拳を握りしめて修司は貞夫に迫る。貞夫は思わず後ずさった。
「修司、やめろよ」
  修司の横にいた背の高い少年が、慌てて修司の腕を引っ張った。
  ―そうだ、あれからだ。修司が自分を軽蔑の眼差しで避けるようになったのは―

  貞夫ははっきりと思い出した。今自分の目の前にある遺影は、まぎれもなく息子が通夜の席で泣き叫んでいた写真であった。
  遺影を凝視している貞夫に、
「覚えておられますか?」
 豆腐屋が抑揚のない口調で尋ねた。貞夫はごくりと唾を飲み、無言で頷いた。
「あの時誰が一緒だったか、名前まで覚えておられますか?」
  豆腐屋の更なる問いに、ぎゅっと握り締めた貞夫の掌が次第に汗ばんでくる。必死におぼろげな記憶を手繰り寄せる。写真の中の生徒は誠だ。誠は、照れくさそうに目を細めながらも、希望に満ちた眼差しで微笑んでいた。この笑顔と一緒に、修司は学生生活を謳歌していた。修司と仲が良かった友達……貞夫の脳裏に、ある場面が思い出された。

  修司の他に、三人の少年が一緒だった。彼らの前を、貞夫はそれぞれの父親と母親らと一緒に通夜に向かっていた。息子の沈痛な表情はありありと浮かびあがるが、名前などとうに記憶にない。あんな事故があったことさえ、すっかり忘れ去っていた。
「どうしてうちの息子だけが……。お前たちが見殺しにしたんだ」
  棺の傍らでひっそりと肩を落としていた誠の母親は、修司たちの顔を見つけると、そう言ってつかみかかって来た。今、豆腐屋の後ろで冷ややかな視線を投げつけている婦人がその時の母親なのだろうか。一人息子を失った母親は、誰が海に行こうと言い出したのか、誰が海に入ろうと誘ったのか、そう激しく責め続けた。
「俺のせいです。俺が兄貴のタバコをこっそりと持ち出したばかりに……」
  そう泣き出したのは誰だったのだろう。
「いや、僕がもっと早く上がろうと言い出すべきでした」
 そう悔やんでいた、しっかりとした長身の少年の名前は何といっただろう。
  貞夫は懸命に思い出そうとしたが、すっかり貞夫の記憶から抜け落ちていた出来事は、こぼれ落ちた砂を掻き集めるように、すくってもさらさらと流れ落ち、?みきれないものばかりであった。
  貞夫の困惑をわかりきっていたとばかりに、豆腐屋は穏やかな笑みを浮かべた。
「貝原君が煙草を持ち出したのがそもそもの始まりだったそうでしたね。貝原孝司君という名前でした。覚えておられますか?」
 貞夫は俯いたまま、頭を横に振った。
「こっそりと煙草を吸うつもりで海に向かった。だから、自分のせいだ」
  そう泣いていたのが貝原孝司なのだろうか。名前を耳にしても、貞夫には全く覚えがなかった。
「あんなに暑い日でなければ、誠も海に入ろうとは言い出さなかったはずなんですよね。うちの息子が海で涼もうと言い出したそうで」
 そういえば、母親は、誠が海に入ろうと言い出したと聞くと、それは嘘だと修司たちを激しくなじった。泳ぎに自信のない息子が遊泳禁止の海に入ろうなどと言い出すはずがないと詰め寄った。
  ―そうだ、あの日はとても暑かった―
  気温が三十度を超え、涼しげな波を前に、少年たちは無邪気に波間でふざけ始めたと聞いた。最初は波打ち際で駆け回っていたのだが、そのうち、膝下の波に浸かって遊んでいたらしい。
「水江耕一君を覚えておられますか? 学級委員長をしていた背の高い子ですよ。成績も良かった。彼が、しばらくすると波が膝上に上がってきたので、もう上がろうと声をかけたそうですがね」
 豆腐屋は淡々と語り始めた。
「あの辺りは、昔から強い引き潮で有名でしたからねえ。あの時も、あっという間だったそうですよ。急に強い波に足をとられ、そのまま流されてしまったそうで……。修司君は泳ぎが得意だったから真っ先に岸にたどり着いたそうですね」
 息子の名前が出て、貞夫は慌てて視線を落した。
  ―そうだ、修司は自力で岸まで泳ぎついたのだった―
 確か野球部に所属していた少年もいた。彼も自分で岸まで泳ぎきって来たのだった。そしてもう一人、流されていく中、かすかに見えたテトラポット目がけて泳いだ少年もいた。
  今まで忘れ去っていたことが信じられないくらい、次々に一つ一つのシーンが鮮やかに蘇ってきた。
  貞夫が駆けつけてまもなく、サーファーに抱きかかえられてきた少年――駆け寄る息子たち――
  少年は意識がなかったが、「まだ息がある」そう叫ぶサーファーの水色のウエットスーツ――
 救急隊に人工呼吸を施されのを心配そうに取り囲む、修司の祈るような眼差し――
「あと、誠だけ……」
  貞夫の耳に、修司のつぶやきが響いてきた。行方不明になっている少年の名は、山崎誠といった。病院で手当を受けた方がいい、そう言われても自分たちはここに残って最後の一人の友達を待つと頑なに言い張った修司の厳しい顔――
「あと、少しだったんだ。あの時、俺の前に、誠の手が見えたんだ。だから、手を伸ばした。本当に、あとちょっとだったんだ。でも、次々に波が襲ってきて、すぐに見えなくなって……」
 救急車が松林の向こうに消えていくと、修司は冷え切った砂浜に両手をつき、せきをきったように泣き叫んだ。砂を?んだ両手を何度も何度も地面に叩きつけた。
  貞夫は息子がこれほど悲痛な声をあげるのを、聞いたことがなかった。
「あと少しのところで手が届かなかった……。でも、誠なら泳げると思ったのに……」
 手を差し出すことを簡単に諦め、自分だけ先に逃げたことを悔しがる修司に、貞夫はあの空襲の機関銃掃射の時、防空壕へもう少しという所で妹を守りきれなかった自分が重なった。
  ―無事に見つかって欲しい―
  貞夫は心からそう祈った。陽が翳り、冷たい風が吹き始める中、修司の嗚咽はいつまでも悲しみを轟かせていた。

  はっと我に返った貞夫は慌てて畳に手をついた。
「すっかりご無沙汰しておりまして、申し訳ありません。誠君のことをこれまで失念しておりました。本当にすみません」
  深々と額を畳につけ、なかなか顔を上げることができなかった。
「いえ、お忘れになられてて当然なんですよ。もう二十五年以上も経つのですから」
  なんでもないことのように豆腐屋が言った。婦人がお茶を盆に載せて入ってきた。俯いたままの貞夫に、煎茶の香りが漂ってくる。
「まあ、お茶でも」
  豆腐屋の声に、貞夫は恐る恐る顔を上げた。婦人が、深い紺色の小さな湯のみを貞夫の目の前に差し出していた。湯のみは、貞夫の角度からは、細い真っ直ぐなヒビがくっきりと浮き上がって見えた。豆腐屋は自分の湯のみに手を伸ばし、一口すすると再び続けた。
「三年前、家内と墓に行った時にですね、一人の男性の後ろ姿を見かけたのですよ。離れていたから誰なのかわからなかったのですが、息子の墓に花があがっていましてね。ああ、誰かあの時の子が今来てくれているんだと思いました。命日の頃になると、必ず花があがっているのですよ。毎年誰かが息子のことを思い出して来てくれていることを、本当にありがたいと思いました。だから誰なのか、礼を言おうと後を追ったものの、もう姿はありませんでした」
 貞夫は膝の上で手を握り締めたまま、じっと湯のみのヒビを目で追った。
「あれが誰だったのか、次第に気になり始めましてね。だんだんと、彼らはどうしているのだろうかと思い始めて。不惑の年になった彼らは、どんな風に生活しているのだろうかと、気になってたまらなくなったんですよ。もし息子が生きていたら、今頃どうしているだろうかと思うと、あの時の子供たちに会いたくてたまらなくなりました」
  豆腐屋がふと言葉を切ったので、貞夫は豆腐屋に視線を戻した。豆腐屋はじっと貞夫を見つめていた。
「息子は亡くなりましたが、学校の配慮で卒業アルバムに写真を載せていただき、アルバムを貰っておりました。それで皆さんの実家の住所はわかりましたから、車で回ってみたのです」
 豆腐屋は貞夫の方に身を乗りだしてきた。
「まずは中本君の所に行きました。中本敦君、わかりますか? サーファーに助けられた少年ですよ。彼は実家が焼き鳥屋さんだったからすぐわかったのですよ。家内が学校の役員をしてた時に、会合はいつもあの店でしたからね。何度か私も迎えに行ったことがありました。店は新しくなっていましたが、看板が昔と同じでしてね、後日客として行ってみました。そしたら、中本君らしき人が地鶏を焼いていました。昔の面影そのまんまでしたね。もちろん私のことは話せませんよ。でも、ああ、彼は生きているんだなあと思いました。子供が三人いると言っていました。実家の跡を継ぎ、結婚し子供が生まれ、彼は順調に自分の人生を歩き続けていたんです。家に帰って仏壇に中本君に会ったことを報告したら、急に哀しくなりました……」
 豆腐屋は一瞬躊躇うようなそぶりをみせた。
「中本君は、あと少し手当てが遅れたら、助からなかったそうですね。本当にきわどい所だったそうです。でも彼は、発見され、なんとか助かった……。なんで中本君は救助されたのに、誠は見つけて貰えなかったのだろう。同じ波にのまれたはずなのに、どうして誠だけ、誠だけが命を失ってしまったのだろうかと、悔しくて……」
  豆腐屋の語尾は震え、声をつまらせた。貞夫はじっと豆腐屋の言葉を待った。しばらくすると豆腐屋は、気をとり直したように続けた。
「中本君の家に行った後、やっぱり振り返るのは止めようと思ったのです。だけど、他の人はどうしているのだろうかと、気になってたまらなくなりました。貝原君の家の前を通ってみたら、引越しされたらしく表札が変わっていました。それで、次に豆腐を持って回ったのですよ。豆腐を売りながら、何回か貝原君の家の辺りを回りました。そのうち、近所の方と顔馴染みになりましてね。ご主人が亡くなられて奥さんの実家のある福岡県に引っ越されたと教えていただきました。更に、貝原さんの次男さんは東京の印刷会社でデザインの仕事をしていると話しておられました。貝原君はいつも絵を描いていたそうです。誠も、『貝原は将来マンガ家になるそうだ』なんて話しておりました。だから、デザインの仕事と聞いて、早速誠に報告したんですよ。貝原君は東京で絵を生かした仕事をしてるぞって」
  豆腐屋は目を細めた。
「水江君も実家を継いでいました。水江君の家は塗装屋さんでしてね、この店も、去年外壁を彼に塗り直して貰ったんですよ」
 優しい笑みを浮かべていた。
「豆腐を売りに行ったら、水江君のお母さんが買ってくれるようになりましてね。店のペンキを塗り替えたいと頼んでみたら快く引き受けてくれました。家の中も安くで塗りなおしてあげますと言ってくれたのですが、そうなると、この仏壇を見せることになりますからね。外壁だけでいいとなんとか断ったのでした。彼はいいペンキ屋さんですよ。昔から体格が良かったですからね。ペンキの缶を幾つも楽々と運んでいましたよ。水江君は、こっちに来た時は、うちに寄って豆腐を買って行ってくれるんですよ。優しい子です」
  貞夫は相槌を打ちながら、じっと豆腐屋の話に耳を傾けていた。残るは修司の番だ。
「では、うちも息子のことを調べるために?」
  つい咎めるような口調になった。豆腐屋は苦笑いを浮べ、
「金谷君には驚かされました。まさか私を覚えていたとは」
 深々と溜息をつくと、豆腐屋は煙草を取り出した。貞夫も勧められたが、首を振った。
  その時、ガラリと表の戸が開く音がした。婦人がハッと豆腐屋を見た。豆腐屋はすかさず、
「お客さんだ。頼む」
  そう店の方に顎をしゃくった。婦人は何か言いかけたが、しぶしぶ立ち上がり、店の方へと消えた。豆腐屋はゆっくりと煙草に火を点けた。
  ―修司が覚えていた―
  貞夫の耳には豆腐屋の声が虚ろに響いていた。豆腐屋は大きく煙草の煙を吐き出すと、
「誠が亡くなり、家内の実家の豆腐屋を継いだ時、家内の姓の平賀に変わりました。名前が違ってるから、誰にもわかりゃしないと思っていたのですけどね。保険のことで金谷君に会った時、一瞬怪訝な顔をされたような気がしました。でも、その時は金谷君は何も言わなかった」
  ガラスの灰皿をそばによせ、軽く灰を落とすと、
「金谷君は気付いていたのですよ。数日後、保険の書類を見てこの店を訪ねて来ました」
 貞夫は息子の不機嫌な顔を思い出した。豆腐屋を教えることは、貞夫に過去を振り返らせることになると息子は承知していたのだ。
「僕が誠君のご両親を忘れることができると思いますか、何故分かったのかと尋ねる私に彼はそう言いました」
 豆腐屋は吸いかけの煙草を灰皿にぎゅっと押し付けた。
「私はかなり修司君を責めましたからね。その言葉に、ああ、彼は過去を背負って生きていたんだと目が覚めました」
 必死で手を伸ばしながら、その手が届かず誠を見失った修司。そのことで、誠の両親から激しく責めたてられていた。
「お宅の息子さんが最初に海に入ったのだから自業自得じゃないですか。なんで助けようとした息子ばかりが責められるんですか」
 貞夫はあの時、思わず両親に向かってそう声を荒らげて言ったのだった。その言葉に誠の父親が逆上した。
「一人息子を失った悲しみがあんたに分かるか」
 叫びながら激しく貞夫の襟首を?んできた。?まれた腕の力強さははっきりと思い出したが、それがこの豆腐屋だったとは。貞夫は、話を聞いた今もまだ信じられない気持ちだった。
  誠の両親の顔を忘れることができずにいた息子。息子は心の内でしっかりと傷を受け止めていた。修司は、息子の傷からも逃げようとした父親が情けなかったのだろう。
「金谷君にわかってしまった時、ああ、もう止めようと思ったのです。店を閉めてから、月曜は中本君の所、火曜は水江君、水曜が金谷君、木曜が貝原君と、豆腐を売りながらさり気なく彼らのことを窺っていた自分が、急に情けなく思えてきました。もし誠が知ったら怒られそうな気がしました。だからもう豆腐を持って回るのは止めたのです」
 豆腐屋はそこでじっと遺影を見つめた。
「あの時の子供たちみんなが、金谷君と同じように、息子のことを思いながら生き続けてくれていたことがやっと分かったんです。息子がみんなの心の中で生き続けていることにやっと気が付いたのです」
  豆腐屋は静かに話を終えた。貞夫は膝の上の掌をぎゅっと握り締めた。
  貞夫は唇を噛み締めじっと瞼を瞑った。まともに豆腐屋の顔を見ることができなかった。
  やがて壁の柱時計が、ボーンと三度低い音をたてた。見上げると、黒光りする古びた時計が、重たげに振子を揺らしていた。
  ―あの時と同じ音で時を刻んでいるに違いない。気づかない間もずっと同じリズムで……。ずっと、ずっと変わりなく、これからも―
  貞夫は黙ったまま深々と頭を下げ、立ち上がった。しばらく躊躇った後、喉奥からなんとか声を絞り出した。
「お焼香させてください」
  仏壇の前に座り直すと、そっと手を合わせ深々と頭を下げた。脳裏に浮かぶのは、学生服姿の息子の背中ばかりである。
 ―どうしてこんな大切なことを忘れていたのだろう―
 貞夫はなかなか頭を上げることができなかった。
  帰ろうとして入口に向かうと、桃の芳醇な香りが貞夫の鼻をついた。顔を上げると、目の前に婦人が桃を手にしっかり握り締めて立っていた。
  豆腐屋も貞夫の後ろから店先へ出て来た。そして、ケースから豆腐を三丁取り出しビニール袋に入れると、黙って貞夫に差し出した。貞夫は無意識にポケットに手を突っ込んだが、もちろんそこに百円玉はなかった。
  開けられたままの戸口から、蜩の鳴き声がひっそりと聞こえてきた。


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